三河国 形原城

形原城址

 所在地:愛知県蒲郡市形原町東古城

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

★☆■■■
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海に突き出した半島を利用した城跡■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
伝承では平安時代末期、方原(形原、かたはら)下司(げす、荘園管理の現地役人)となった方原次郎師光(かたのはらもろみつ)が
築城したとされる。師光は新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)の孫とされる人物。義光は源氏棟梁・八幡太郎義家の弟であり、
その右腕として武勇を誇った猛将だ。義光の子として武田義清がおり、師光は彼の次子(よって義光の孫)に当たるが、義清とその
嫡子・清光の系譜が言わずもがな甲斐源氏武田氏になっていく。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
師光は方原下司職に就いた事から甲斐を離れ三河へやって来たとされ、恐らくは着任した1149年(久安5年)に館を構え統治実務に
当たったと考えられている。この館が後の形原城へと進化していくと推測されているが、確証はない。■■■■■■■■■■■■■
現在に残る遺構は戦国期のものであり、この城の経歴として確実視できるのは長享年間(1487年〜1489年)三河松平氏3代・和泉守
信光の4男である佐渡守与副(ともすけ)がこの地に入り城を構えた事でござろう。以来、与副の後嗣はこの城を中心に750貫ほどの
領地を守り形原(かたのはら)松平家を名乗る事になる。与副の次代は2代・兵衛太郎貞副(さだすけ)、その次は3代・佐渡守親忠
(ちかただ)であるが、この時代は松平宗家が弱体化し駿遠の太守・今川家が三河国まで進出していた頃である。形原松平家も今川
家の支配下に置かれたが、親忠の子となる4代・薩摩守家広の頃になると桶狭間合戦で今川治部大輔義元が戦死し、松平宗家が
勢力を回復。松平元康改め徳川家康が三河統一に乗り出して、この過程で家広も今川支配を脱却し家康配下として働くようになる。
だが、その代償として今川方の人質となっていた家広の妻子は見せしめとして形原城から望める稲生(いのう)浜で串刺しにされて
しまったと言う。(形原松平家の去就については諸説あり)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
されど今川家に昔日の威勢なく、家康の覇業は着実に前進していった。家広の後に形原松平家を継いだ紀伊守家忠(いえただ)は
長篠の戦いで活躍、家忠の子である6代・紀伊守家信(いえのぶ)も小牧・長久手の戦いで戦功を挙げている。■■■■■■■■
しかし1590年(天正18年)豊臣秀吉の命により主君・徳川家康が関東へ移封されると形原松平家も行動を同じくし、家信は上総国
五井(千葉県市原市)に5000石を得る事となり申した。然るに1600年(慶長5年)9月15日、関ヶ原の戦いで家康が天下の主になると
翌1601年(慶長6年)家信は旧領の形原を回復し、この城へと戻るのである。そして1618年(元和4年)9月に安房国長狭(ながさ)郡
(千葉県鴨川市)での5000石を加増され合計1万石の大名となり、形原藩を立藩している。ところが1年後の1619年(元和5年)9月、
形原松平家は摂津国高槻(大阪府高槻市)2万石へ加増転封。これにより形原城は使命を終え、廃城となり申した。■■■■■■
城跡は形原漁港の南に位置する小丘陵。最高所の標高は22mを数える。主郭跡には古城稲荷が鎮座して曲輪の雰囲気が漂い、
また、城山そのものも独立丘陵なので比較的手付かずのまま残されている感はある。稲荷社の境内が1郭、その下段中腹にある
小広場が2郭と連なる梯郭式の縄張りであったそうな。曲輪の間には空堀もあったようだが、藪化が激しくて現状では良く見えず、
城山の周囲も宅地化されているので、どこまで旧来の遺構が残存しているかは疑問だ。加えて、往時は城山の直下まで海が入り
込んでいたとの事だが、これまた埋め立て事業によって海岸線は後退している状況。恐らく、現役の頃は城の半分が波に洗われる
海城で、縄張りも現在残されている部分よりも西側に大きく広がっていたと思われる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
(周辺地名には「北古城」「南古城」など城址所縁のものがある)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
古城稲荷社の部分だけでは砦程度の大きさでしかない為、形原藩庁として機能するならばそれくらいの規模があってもおかしくは
なかろう。仮に形原藩が存続し、城も明治まで維持されていたのならなかなか面白い史跡になったと思うのだが、それを望むのは
夢想に過ぎないので止めておこう(苦笑)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ともあれ、古城稲荷社周辺一帯だけはそれなりに良好な雰囲気であり、1971年(昭和46年)10月21日に市指定史跡となっている。
別名で稲生城、海岩城など。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群等
城域内は市指定史跡







三河国 蒲形城(蒲形陣屋)

蒲形城(蒲形陣屋)跡 蒲郡高校

 所在地:愛知県蒲郡市本町・上本町

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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下ノ郷鵜殿氏の城から竹谷松平家の陣屋へ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
かまがたじょう、と読む。西郡(にしごおり)城、下ノ郷(しものごう)城とも。下ノ郷鵜殿(うどの)氏の城郭でござる。■■■■■■■■
三河国宝飯(ほい)郡(現在の愛知県蒲郡市・豊川市など)に土着した鵜殿氏は、元来紀伊国の神官系豪族であったが、水上交通に
長じた事から三河湾岸に進出し、そこに根付いたと言う。以来、この地域で少しずつ勢力を広げて、鵜殿藤太郎長善の長子・藤太郎
長将は上ノ郷城(蒲郡市内)に居を構え、長将の弟である又三郎長存がこの下ノ郷に入り蒲形城を築城したのである。■■■■■■
年代的には天文年間(1532年〜1555年)頃で、上ノ郷鵜殿氏が宗家、下ノ郷鵜殿氏は分家にあたるが、それ以外の分流も派生した。
下ノ郷鵜殿氏は代々又三郎を名乗り(上ノ郷鵜殿氏は藤太郎)、長存の後に玄長―仙巖―長龍と代を重ねたが、この時代は言わず
もがな今川家の勢力が三河を侵食した頃。鵜殿一族は総じて今川の軍門に下っていた。ところが今川義元が桶狭間に敗死、徳川
家康が三河統一に乗り出すと、宗家を除いた鵜殿一門は悉く家康に従っている。蒲形城もこの過程で徳川方に属するようになった。
一方、上ノ郷鵜殿氏だけは今川方に追従。時の当主・鵜殿長照の母は今川義元の妹で、その血縁関係から、今川家を裏切らずに
いたようだ。結果、上ノ郷城は徳川軍に攻め落とされ、長照も城と運命を共にした。しかし家康方に付いていた下ノ郷鵜殿氏は以後も
生き長らえ、1590年、家康の関東移封によって下総国相馬(柏市、守谷市など千葉・茨城県境一帯)へ長龍が移るまでこの蒲形城は
用いられ申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、江戸幕府が成立した後の1612年(慶長17年)この地に竹谷(たけのや)松平玄蕃頭清昌(きよまさ)が封じられる。竹谷松平家は
松平(徳川)家分流、いわゆる十八松平家の一家である。松平宗家3代・信光の長子であった左京亮守家(もりいえ)に始まり、清昌の
先代である民部大輔忠清は7代目を数え三河国吉田(愛知県豊橋市)3万石を領する大名に取り立てられていた。ところが忠清は嗣子
なくして病死。竹谷松平家は絶家になる運命であった。しかし創家以来、宗家に対して一貫して忠実に働いた上、忠清の生母は徳川
家康の異父妹である。この事情が特別に斟酌され、竹谷松平家の家督は忠清の弟・清昌に与えられ、減封ながら5000石(11ヵ村)で
下ノ郷を領する事になり申した。斯くして清昌はかつての下ノ郷城跡の一角に居を構え、陣屋造りに改変を行った。これが蒲形陣屋だ。
(「下ノ郷」から「蒲形」への改名はこの時であるという説もある)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
以後、交代寄合旗本となった竹谷松平家は9代・清直―清当―義堯―義著―義峯―守惇―守誠―善長―清良―清倫―19代・敬信と
続いて明治維新を迎えたが、この間一貫して蒲形陣屋が政庁となっていた。ちなみに、家康配下として上ノ郷城を攻め落としたのが
竹谷松平氏4代の清善(きよよし)。また、清昌の室は下ノ郷鵜殿長龍の姪である為、この地と竹谷松平家の縁は実に深いものがある。
明治維新後、陣屋は廃絶し跡地は殆どが転用されている。現在、蒲形城の主城域跡は愛知県立蒲郡高校の敷地(写真)となっており
そこから少し南へ場所を移した陣屋跡の一角には、方形居館を成した敷地を画す土塁の断片が残っている。まるで、そこだけ時間が
止まったような土塁が忽然と現れる様は見事だが、密集する住宅地の中なので見学する際には注意が必要だろう。また、すぐ隣には
神社の境内があるので場所を勘違いしがちだが、土塁の残欠は神社の外にある空き地なので間違えないようにしたい。■■■■■
移築建造物は旧陣屋の大手門と伝わる高麗門だけが明治初期に旧御津町(現在は豊川市に併合)内へと下げ渡された後に、1991年
(平成3年)蒲郡市立博物館敷地内に再移築され現存。この門は1818年(文化15年)創築と推定される。■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

土塁

移築された遺構として
高麗門(陣屋大手門)







三河国 伊奈城

伊奈城址 土塁と城址碑

 所在地:愛知県豊川市伊奈町柳
 (旧 愛知県宝飯郡小坂井町大字伊奈字柳)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★☆■■
★☆■■■



本多家と松平家、「三ツ葉葵」を繋げる城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
正確な築城時期は不明だが、享徳年間(1452年〜1455年)頃に本多定忠もしくはその子・定助が築城したと見られている平城。
本多氏は元来、藤原北家兼通流の末裔で後国(現在の大分県周辺)本田(本多)郷に在住した事からこの姓を名乗るようになった。
足利尊氏に従い軍功を挙げて本多右馬允助定が尾張国横根・粟飯原の2郷を与えられ移転、室町幕府の奉行衆に数えられたが、
定忠の頃に三河国へと転進する。定忠は助定の曾孫で、伊奈城の築城時期は本多氏の三河移転時期とほぼ一致する事になる。
以来、本多氏は当城を拠点として勢力基盤を確立したのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
そして定助の子は長子・平八郎助時が宗家となり一門衆を牽引。一方で次子・正時(助時の弟)は分家を立てており、伊奈城は
正時の家系が持ち城とした。よって平八郎系の家が本多宗家、正時系(後の彦八郎家)は伊奈本多家として区別される。家名が
「平八郎系」となっている事から分かるように、本多宗家は代々「平八郎」の名を名乗り、“徳川四天王”に数えられる平八郎忠勝は
この子孫。対する伊奈本多家は、庶流に三河三奉行の1人“鬼作左”こと作左衛門重次が生まれてくる。重次の記した手紙にある
「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」の一文は有名だ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ともあれ、忠勝も重次も伊奈城構築よりも遥かに後の世代。話を戻すと、伊奈本多家は遡って定忠を初代、定助を2代とし、正時が
3代目と数える。4代目は正助である。本多氏の総領体制を整えた助時は、当時の三河筆頭国人・松平太郎左衛門泰親(やすちか、
松平宗家2代)に従ったため、この時以降本多一門は松平氏の家臣として働くようになる。そして伊奈本多家は5代・縫殿助正忠が
松平勢による1529年(享禄2年)の吉田城(愛知県豊橋市)攻めにおいて先陣を切る抜群の軍功を挙げ落城させ、返す刀で田原城
(愛知県田原市)にも攻めかかり城将・戸田氏を降伏させた。主君・松平次郎三郎清康(徳川家康の祖父)は正忠の働きを大いに
喜び、伊奈城で催された祝勝会に招かれる。宴もたけなわとなった頃、正忠は城内の池で生い茂る水葵の葉に酒の肴を盛り主へ
供じた。中国の古典「春秋左氏伝」に記された潔白な忠誠心を示す故事に倣ったものであり、清康はますます心を打たれ、遂には
本多家の家紋「立ち葵」を松平家の紋にしたいと申し出るのだ。これが松平(徳川)家の家紋「三ッ葉葵」の起こりと言われていて
(他にも説あり)伊奈城は徳川将軍家の歴史にも大きな関わりを持った事になる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
当城は一時期(16世紀初頭?)牧野氏が用いたとする説もあるが、伊奈本多家累代の城として使われ、正忠の後は彦八郎忠俊が
継承。この時代は今川家による支配を受けていたが、徳川家康が三河に自立するや本多氏は早い段階からそれに追従している。
そのため、伊奈城は永禄年間(1558年〜1570年)に大塚城(中島城とも、愛知県蒲郡市)の岩瀬氏(今川旧臣)に攻撃された事も
あったが、忠俊は近隣の柳堤・梅藪・御馬(おんま)でこれを撃退し城を守ってござる。記録に残された伊奈城の攻防戦はこの1戦
だけと云う。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
忠俊から彦八郎忠次に代が移った頃から、徳川家康は三河から遠江へと進出。同時に織田信長の同盟者としても全国を転戦する
ようになる。忠次は姉川の戦い・長篠の戦い・高天神城(静岡県掛川市)攻略戦など名だたる大戦に参加し伊奈本多氏の勢力基盤
拡大に貢献している。そして忠次の養嗣子・縫殿助康俊(実父は東三河衆筆頭・酒井左衛門尉忠次)が家督を継いだ頃、徳川家が
秀吉の命により関東へ移る事となり、伊奈本多家も父祖の地である伊奈城を離れ下総国匝瑳郡(そうさぐん)小篠(こざさ、現在の
千葉県匝瑳市内)5000石へ。これにより伊奈城は廃城、跡地は殆どが田畑へと変じていったのでござる。■■■■■■■■■■

廃城後も残された見事な大土塁■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかし、奇跡的に現在も大土塁はそのままの姿で残されている(写真)。耕作地に変えられた中世城址と言うものは大概が土塁を
崩され堀を埋められ跡形も無く消滅するものだ。しかも伊奈城周辺は完全な平坦地形であるので、江戸時代の百姓にしてみれば
この大土塁は「邪魔者」以外の何者でもなかった筈だが、ここまで見事に残されたのは旧城主・伊奈本多氏の遺徳があってこそ
なのだろうか?■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
また、城門と伝わる四脚門が豊川市内にある臨済宗竜獄山仲仙寺の山門として残されている。これまた、中世城郭の建築物が
21世紀まで残存しているのだから奇跡的としか言いようがない。伊奈城、侮り難しだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
由緒ある古城を保存すべく、1997年(平成9年)3月3日に当時の小坂井町史跡として指定され(現在は合併した豊川市が承継)、
伊奈城址公園として整備されている。城内には模擬建築ながら当時の雰囲気を再現した物見櫓が建てられ、さらには“水葵”の
逸話に準じた池も(これも模擬構造物だが)水を湛えてござる。城址公園整備に先立つ発掘調査では、濠底に仕込まれた逆茂木
(さかもぎ、切り株や枝などを乱雑に並べたバリケードのようなもの)などが検出されたと言い、そうしたものも再現されている。
復元構造物はいかにも“公園の為に作ったもの”という感じでイマイチ現実味がないが、それを差し引いても、残存する大土塁は
必見!目の前を東海道新幹線の線路が通っており、実は「新幹線の車窓から見える城」でもある。古くからの土塁と、最新技術の
結晶である新幹線を対比するというのも、なかなか面白い見方でござろう。駐車場も完備。■■■■■■■■■■■■■■■■
別名で上嶋(かみしま)城とも。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

土塁
城域内は市指定史跡

移築された遺構として
仲仙寺山門







三河国 糟塚砦

糟塚砦跡土塁

 所在地:愛知県豊川市小坂井町樫王
(旧 愛知県宝飯郡小坂井町大字小坂井字樫王)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

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家康が豊橋攻略時に在陣した砦■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
国道1号線とJR飯田線の線路が交差する地点のすぐ東側、曹洞宗大城山龍徳院の敷地が糟塚(かすづか)砦跡。局地的
地形で見れば平城だが、大きく見ると吉田川(現在の豊川)西岸に位置する段丘城郭である。説明に使った国道1号線も、
直線化するため深い切通しとなっており、それだけの高低差がこの段丘にあると言う事だ。この地域は吉田川が下流域で
大きく蛇行する最終地点なので、地形の複雑さが垣間見えよう。糟塚砦から吉田川の河畔までは最短距離で東に約3km、
南に2km(豊川放水路は1965年(昭和40年)完成なので当時は無い)。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1563年(永禄6年)頃、徳川家康が今橋城(吉田城、愛知県豊橋市)・牛久保城(豊川市内)の攻略時に築いた砦だが、今橋
城は吉田川を挟んだ対岸にあり南東4kmの位置、牛久保城は伊那街道(現在の国道151号線)で直結して僅か北東2kmと
いう近さにあり、両城への攻略拠点としては絶好の場所であると言える。徳川軍の先手・小笠原新九郎長晟(ながあきら)が
守将として入り、家康も数回この砦を訪れたが、今橋城・牛久保城の陥落後は無用となり1565年(永禄8年)頃には廃された
ようである。その後、1586年(天正14年)砦跡の敷地を使い龍徳院が川出宮内大輔良政によって開基され申した。以来、この
場所は寺の境内として存続した為、近代の宅地化によって周辺部が改変を受けたものの、旧砦の遺構である土塁と空堀が
部分的に残され申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
龍徳院境内、すなわち糟塚砦の堀内部敷地は35アールとされ、本堂裏手で一列に延びる土塁(写真)とそれに沿った空堀が
確認できる。JR飯田線小坂井駅からすぐ、車での来訪も駐車場があるので簡単だが、静かな住宅地の中なのでお静かに。



現存する遺構

堀・土塁




幸田町内諸城館  田原城