三河国 奥殿陣屋

奥殿陣屋書院

 所在地:愛知県岡崎市

奥殿町字雑谷下
奥殿町字椰ノ谷下

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★■■
★★★■■



大給松平家、奥殿に陣屋を構う■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
2代将軍・徳川秀忠の臣である3000石の旗本・大給(おぎゅう)松平縫殿助真次(さねつぐ)は、大坂の陣の戦功として
3000石を加増され、父祖の地である三河国大給(愛知県豊田市)に陣屋を構えた。その後も大給松平氏は加増を重ね
河内・摂津・丹波などに封を持つ1万6000石の大名となる。そして第4代当主・松平縫殿助乗真(のりざね)の頃、所領の
再編が行われ、三河国加茂郡・額田郡を本領に4000石、信濃国佐久郡に分知として1万2000石となる。■■■■■■■
これを受けて1711年(正徳元年)4月28日、居を大給から額田郡奥殿村に移した。こうして誕生したのが奥殿陣屋である。
陣屋敷地の規模は東西約80m×南北約180mほど。南半分が藩主居館で、北半分が地方(じかた)役所や侍屋敷などに
なっていた。表御殿・書院・役所建物・学問所・道場・士卒住居など、陣屋内の建物は33棟を数えたという。■■■■■■
ここを拠点に大給松平氏は代を重ね、乗真から後は縫殿頭盈乗(みつのり)―石見守乗穏(のりやす)―兵部少輔乗友
(のりとも)―主水正乗尹(のりただ)―縫殿頭乗羨(のりよし)―石見守乗利(のりとし)―兵部少輔乗謨(のりさと)と続く。
乗利の代、1846年(弘化3年)3月には藩校の明徳館が創設されている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ちなみに、真次〜乗真の間(奥殿陣屋を築く前)は真次―縫殿頭乗次(のりつぐ)―玄蕃頭乗成(のりしげ)―乗真だ。

田野口へ陣屋が移り、今は観光名所として整備■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
幕末になった1863年(文久3年)、大給松平氏11代(奥殿藩主8代)・松平乗謨は信濃国佐久郡田野口(長野県佐久市)へ
本拠を移して、新たな陣屋を築くに至った。これは前年の1862年(文久2年)閏8月、文久の改革の一環として参勤交代が
緩和(事実上廃止)された事に伴い、江戸に詰めていた大名の妻子が帰国するようになったので、奥殿陣屋では手狭に
なった事による。また、大給松平家の所領は4000石の本領より1万2000石の分知の方が大封であった為、本領と分知の
機能を入れ替え、信州を本拠とするよう改めた事による。斯くして、大給松平家は信州田野口に新陣屋を構築。これが
田野口陣屋、通称「龍岡城」だ。田野口陣屋の成立で1867年(慶応3年)4月に藩の業務は信州へ移転し、役目を終えた
奥殿陣屋は廃され、建物はほとんどが破却もしくは払い下げ移築とされたのでござる。■■■■■■■■■■■■■■
山林に復したり田畑として耕作地となった陣屋跡地であったが、払い下げられて曹洞宗大澤山龍渓院(りゅうけいいん、
愛知県岡崎市桑原町字大沢)の庫裡として使われていた書院(写真)が1985年(昭和60年)元の場所に再移築され復元、
これを機に陣屋は岡崎市村積山自然公園花園の里として整備され、敷地内には蓬莱の庭と呼ばれる美しい日本庭園や
入口の門が置かれた。その他、花火資料室(三河花火の解説展示)や食事処の金鳳亭、裏千家11世の茶道家・玄々斎
宗室(げんげんさいそうしつ)生誕碑や資料展示室なども建てられており、観光地としてなかなかのもの。■■■■■■■
ちなみに宗室は、奥殿藩主7代・松平乗友の5男として生まれた人物。明治維新で西欧文明がもて囃され、日本古来の
伝統文化が嫌われるようになる中、茶道復興に努め近代茶道の祖と評された。和の趣きを存分に味わえる奥殿陣屋に
相応しい名士と言えよう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
なお、陣屋の裏手にある村積山へと登る道すがらに奥殿藩歴代藩主の廟所があり、ここは1988年(昭和63年)11月7日
岡崎市の指定史跡になっており申す(指定面積478u)。これら廟所の近辺にはごく僅かながら、土塁が残存している。



現存する遺構

土塁
陣屋裏藩主廟所は市指定史跡

移築された遺構として
書院







三河国 岩津城

岩津城址 主郭跡

 所在地:愛知県岡崎市岩津町

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

★★★■■
★☆■■■



松平家枢要の城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
岡崎市中心部よりほぼ真北、岩津町にある岩津天満宮から東名高速を挟んだ反対側(天満宮の西側)の山が城跡。
三河松平氏3代とされる左京亮信光(のぶみつ)が1421年(応永28年)頃に築城した。■■■■■■■■■■■■■
もともと岩津郷を治めていたのは中根大膳なる人物であったが、三河で勢力を拡大しつつあった松平信光が北部の
松平郷から南進し中根氏を滅ぼしたのである。斯くして、岩津郷を新たな拠点とした信光は、城を築くに程好い山に
築城する。これが岩津城でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
信光は約50年の間この城を本拠とし、堅固な城砦に仕立て上げた。「岩津七城」と呼ばれる出城群を構築し、1470年
(文明2年)頃に安祥城(愛知県安城市)を落としそちらへ居を移した後も、岩津城には子の和泉守親長(ちかなが)を
入れて守らせたのである。交通の要衝にあった岩津城は度々の攻勢に遭い、特に西域進出を試みる駿河今川氏は
当時、客将として家中にあった伊勢新九郎(後の北条早雲)を派遣して岩津城の攻略に当たらせたという。同様に、
今川軍の加勢として甲斐の武田氏までがこの地まで遠征、岩津城の攻撃を行ったとも言われるが鉄壁の防御を誇る
当城は、それらを撃退している。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところが、三河統一を果たす前に不運な事件に見舞われ松平家は衰退。事実上、三河全土は今川家の属領と化して
しまう。この時(天文年間(1532年〜1555年)と見られる)、敵の手に奪われた際あまりに堅固な要害ぶりは仇になると
恐れた今川家の方針により岩津城は廃城にされた。後年、小牧・長久手合戦の折に岡崎の防備を固める徳川家康が
改修したという話もあるが基本的には廃城以来、城地は手付かずで放置され現在に至っている。■■■■■■■■■

「入れない城」から「歓迎する城」へ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
縄張りは、山頂部を削平し城内最大の曲輪としたT郭(本丸)と、その南側、第二の頂部になる所にU郭(二ノ丸)を
置き、両者を土橋で繋いだ連郭式の構造。この2つの郭を中心とし、無数の帯曲輪や空堀が掘削されている。現在は
その東側に東名高速道路が切通し状に走り岩津天満宮と分断されているが、往時は城と天満宮は地続きであった。
もともと、この天満宮は岩津城の鎮守として創建されたものだからだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ともあれ、高速道路建設以外は手付かずの城跡は、空堀や曲輪、土塁などが非常に良好な状態で残されている。
さて、岩津城と言えば数年前までは私有地として立ち入りが禁止され、“見学出来ない城”の最右翼にあった。しかし、
平成の後期から地権者との話し合いが進み、立ち入り制限が徐々に解除され、西側から主郭へ至る見学用通路が
開放されるようになった。令和になると岡崎市による観光開発が及ぶようになり、岩津天満宮側からの見学路が完成。
岩津天満宮の駐車場も、城跡見学者が利用できるようになった。故に、当頁の掲載内容も以前は「駐車場:なし」として
いたが、現状では「あり」と改めた。天満宮から城内に入る道沿いには「この先戦国時代」と洒落の利いた看板が立ち
来訪者を楽しく迎え入れてくれ、今では“見学出来ない城”の汚名を返上している。■■■■■■■■■■■■■■■
ただ、原則として城跡全域は私有地である事に変わりは無く、内部の見学は限られた範囲になっている。もっと色々と
見て回ると凄そうな城址ではあるが、勝手に踏み荒らすような事はマズいので、見学する際には節度と良心を持った
行動を心がけたい。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群等




岩崎城・新居城  新城市内諸城郭・田峯城