一色氏分流丹羽家の城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
築城について諸説あるが、享禄年間(1528年〜1532年)に織田弾正忠信秀(上総介信長の父)が築いたとするのが
一般的。信秀はこの城に配下の荒川頼宗を入れて守らせた。しかし、三河国と目と鼻の先にある岩崎城は松平氏
(三河国の有力国人、後の徳川氏)との係争地帯であり、1529年(享禄2年)7000の兵を率いた松平次郎三郎清康
(徳川家康の祖父)の手で落とされてしまう。ところがその清康も1535年(天文4年)12月5日に守山崩れと呼ばれる
事件で不運な死を迎えたため、結果的に愛知郡岩崎郷は空白地帯となってしまった。■■■■■■■■■■■■
このため、近隣の本郷城(日進市内)に居を構えていた丹羽若狭守氏清(うじきよ)が1538年(天文7年)頃に入城、
新たな居城として整備拡張を行った。ちなみにこの氏清、丹羽郡を本拠としていたため丹羽姓を名乗っていたが、
本来の姓は一色(足利将軍家縁戚、三管四職の一色氏)であった。よって、同じ丹羽の姓だが丹羽五郎左衛門尉
長秀(織田信長宿老)の一門とは何ら関係がない。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
氏清の死後は子の若狭守氏識(うじさと)が継ぐ。この頃、丹羽氏は分家の藤島城(これも日進市内)主である丹羽
氏秀(うじひで)が台頭し、主家の転覆を図って織田信長と密約を結び1551年(天文20年)蜂起する。横山の戦いと
呼ばれる合戦が起きるも、氏識はこれを撃退し逆に藤島城を制圧、信長とも和議を結んだ。敗れた氏秀は三河国
広見(愛知県豊田市)へと逃亡。以後、丹羽氏は織田家に属し3代・右近大夫氏勝(うじかつ)は信長の近江六角氏
攻略や伊勢制圧戦、姉川の戦いなどに参戦して武功を挙げ申した。ところが1580年(天正8年)氏勝は信長による
人員大削減(林佐渡守通勝や佐久間右衛門尉信盛らが追放された事件)に引っかかり放逐されてしまった。詳細な
原因は不明だが、氏勝は1555年(天文24年)に守山城(愛知県名古屋市守山区)主の織田右衛門尉信次が信長と
対立した際、同心して守山城に立て籠もった事があり、これが理由に挙げられたとも言われる。■■■■■■■■
岩崎城主の座は子の勘助氏次(うじつぐ)へと引き継がれるが、父の遺恨からか主家である織田家との折り合いは
悪くなり、本能寺の変で信長が没した後に尾張を領有する事となった織田三介信雄(のぶかつ、信長2男)と対立し
遂に1583年(天正11年)織田家とは断交、徳川家康の配下に加わった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
長久手合戦、知られざる大殊勲■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
その翌年の1584年(天正12年)図らずも家康と信雄は同盟を結び、共同して羽柴筑前守秀吉と合戦に及ぶ。世に
言う小牧・長久手の戦いである。家康家臣として参戦した氏次は、岩崎城の守りを弟の次郎三郎氏重(うじしげ)と
長久手城(愛知県長久手市)主の加藤太郎右衛門忠景(景常とも)に任せ、小牧の陣に赴く。しかし家康も秀吉も
歴戦の戦上手、互いの出方を探って睨み合いを続けるだけで本格的な戦闘はほとんど起こらない。これに対し4月
9日、長陣に痺れを切らした秀吉方の池田勝三郎恒興らが別働隊を率いて家康の本国・岡崎(愛知県岡崎市)へ
侵攻、後方破壊活動を行う作戦を立案して実行に移そうとした。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
池田隊は秀吉方の本陣である楽田(がくでん)を発ち三河方面へと進んだが、その途上にあったのがここ岩崎城で
あった。城を守備する氏重らは眼前を通過する敵部隊を発見するや、侵攻を阻止すべく討って出る。一方、それに
気付いた池田隊は進軍を中断し応戦、氏重を戦死させ岩崎城も落城させたのであった。ところが、羽柴軍別働隊の
動きを察知した徳川軍が追撃隊を進発、岩崎城攻防戦が行われている間に追いついて、池田隊を完膚なきまでに
叩きのめした。これにより恒興や森武蔵守長可(もりながよし、森蘭丸の兄で羽柴方の豪将)らは敗死してしまう。
斯くして、羽柴軍別働隊の計画は脆くも頓挫し徳川方は見事に自領を守りきったのでござる。■■■■■■■■■
本来ならば奇襲攻撃部隊である池田隊は三河到着を最優先にし、氏重の迎撃や岩崎城攻撃などは捨て置くべき
だったのだが、目先の戦果にこだわったため徳川本隊に追い付かれてしまった。その一方、氏重はここで池田隊を
足止すれば必ず徳川本隊が追い付くと信じ、事はその通りに運んだ。この時、氏重は疱瘡(天然痘)の病を押して
出陣したと言い、まさしく自らの命と引換えに徳川軍の勝利を呼び込んだのでござる。もし恒興が一目散に三河へ
向かっていたのなら、あるいは歴史が大きく塗り変わっていたかもしれないのだが、それを阻止したのは戦死した
氏重の働きと、岩崎城の存在があったからである。氏重は16歳の若武者であった。■■■■■■■■■■■■■
結局、小牧・長久手の戦いはこれ以外に大きな戦いも無く終わってしまい、秀吉と信雄の和睦という政治的決着で
幕を閉じる。だが、戦術的には羽柴軍別働隊を壊滅させた徳川方の大戦果が残ったため、家康は天下人・秀吉に
勝利した人物として重きを成す事になる。後年、家康は秀吉政権に加わるが、そこで大老の地位を得られたのは
この岩崎城合戦の大勝利があったからこそ。家康は戦後処理において、一番の戦功者は池田勢を足止めさせた
岩崎城代・丹羽氏重であるとし、兄の氏次に3000石(5000石とも)を加増したという。ちなみに、徳川軍追撃隊の
先導役を担ったのが氏次であった。弟が命を張って敵を食い止め、兄がその仇を討ったのでござる。■■■■■
さてこの戦いの後、家康の取り成しで氏次は再び信雄の下へと帰参。岩崎領の他、伊勢国内に7000石の加増を
受けたという。羽柴改め豊臣秀吉が1590年(天正18年)天下を統一するに及び、織田信雄は国替えとなったので
氏次は再び家康に仕えた。さらに時代が進み1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いで家康が勝利、天下の主になると、
氏次は岩崎から三河国伊保(いぼ、愛知県豊田市伊保町)へ1万石の大名として転封され申した。■■■■■■
この時、岩崎城は廃城となる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
台地先端部を使った平山城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
築城から廃城まで、時節に応じて少しずつ整備されていた岩崎城、基本的には台地先端部を利用した平山城と
言えよう。台地本体とは堀切で分断して独立城域とし、その規模は東西150m×南北180mほどある。城域内部を
空堀で区切り(この城に水濠はない)曲輪を配置。築城当初は小規模な薬研堀だった。最高所が本丸、そこから
土橋を繋いで前面に二ノ丸を配置。二ノ丸は半円形の曲輪になっており、本丸との接合形態から丸馬出として
機能していたと思われる。それらの東西にそれぞれ東曲輪・西曲輪が置かれ側面の備えとした。■■■■■■
16世紀中頃になってから、より一層の防備を固めるため土塁を改修。この時、土塁の延長線上にあたる本丸の
北西隅に版築盛土で櫓台を構築、そこに物見櫓を置いた。物見櫓は本丸〜二ノ丸間の土橋を直下に見下ろす
ようになっており、本丸防衛の要となる重要な役割を担っていたのでござる。盛土により5.5mも嵩上げされたこの
櫓台は標高66.28mを数え、城内で最も高い位置になった。これに連動し、それまで薬研堀だった空堀は箱堀に
改修され、幅・深さが増している。その他、本丸の南東には礎石建物である隅櫓も置かれていた。1間(約1.8m)
間隔で礎石を配置し4間×4間(7.2m四方)の規模。築城当初から建てられていた建造物と見られている。そして
籠城時の最重要項目である水ノ手は、西曲輪に素掘りの井戸が掘られていて厳重に守られていたようだ。■■
史跡公園への道のり■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
尾張・三河国境の城としてかなり実戦的な作りとなっていた岩崎城だが、1600年の廃城後は放置され、本丸が
畑に転用された。荒廃に任せるままの城跡は、しかし近世になって郷土の史跡として再評価されていく。1906年
(明治39年)城跡で火の玉を見たという噂が立ち、丹羽氏重以下岩崎城攻防戦で玉砕した将兵が成仏しきれて
いないと考えられたため、翌1907年(明治40年)に曹洞宗大椿山妙仙寺の隆城(りゅうじょう)和尚による発案で
城内にあった立石に文字を刻み古城の碑とした。この立石は、1709年(宝永6年)赤林四郎左衛門信獅が記した
「長久手征伐記」に「御座の間」の石とされている事から、既に江戸時代から置かれていた物と考えられている。
妙仙寺は岩崎城の近隣にある寺で、丹羽家の菩提寺でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
次いで1910年(明治43年)、旧尾張藩士だった中村修と丹羽精五郎が発起人となって「表忠義」の碑が東京大学
助教授・丹羽忠道の揮毫で作られた。岩崎村住人の有志で立てられたこの碑には、岩崎城を守り討死にした戦士
40名・無名将士60名・足軽約60名・弓手38名・城下商工業者30名の名前が刻まれ、落城の日つまり命日である4月
9日に落成と相成る。以来、現在に至るまで毎年4月9日には慰霊祭が執り行われている。■■■■■■■■■■
さらに1984年(昭和59年)4月9日の慰霊祭において、古城址の整備保存が決定され、1985年(昭和60年)に発掘
調査の上、城址公園としての活用工事が行われた。1987年(昭和62年)5月に模擬天守の形態を採った展望塔が
完成、一般公開されている。戦国期城郭である本来の岩崎城にはこのような天守はなく、鉄筋コンクリート造りの
近代建築なので史実に基づく建物ではないが、外観だけ見ればなかなか重厚な作りで(写真)荒々しい戦国期の
情緒を垣間見せてくれる。とかく城郭愛好家からは模擬天守は嫌われるが、史跡としての認知度を上げるもの故
致し方なかろう (^ ^;■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この他、本丸内に岩崎城歴史記念館も建てられ、岩崎城をめぐるさまざまな歴史資料が展示されている。また、
馬出として最も戦闘的用途に使われた二ノ丸は公園整備に伴って水琴窟を有する日本庭園に生まれ変わった。
かなりの改変を受けた感のある岩崎城址公園ではあるが、一方で空堀や土塁はそのままの姿で残されており
実際に見てみると、それほど遺構破壊が行われた形跡はない。観光名所としての城址公園、本来の史跡たる
遺構保存が両立した稀有な例と評価したいものでござる。駐車場もあるため、車での来城も楽。■■■■■■■
なお、発掘調査中に本丸内で6世紀頃の古墳(円墳)も発見され(岩崎城古墳)古来からこの場所が重要な支配
地点であった事が再確認され申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
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