三河国 桜城

桜城址碑と櫓台石垣

 所在地:愛知県豊田市西町・元城町・桜町・挙母町・神田町

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 あり

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佐久良の城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
周辺に桜の木が多く植えられていた事から付けられた城名。別表記で佐久良城とも(実はこちらが正式表記だとか)。
もともと豊田市内、かつての三河国加茂郡衣(ころも)の地には金谷城があったのだが、戦乱で荒廃していたために
1614年(慶長19年)三宅惣右衛門康貞が新たな城を構築。これが桜城である。康貞は家康に仕えた徳川譜代家臣。
秀吉の天下統一により関東へ封じられた家康に従い武蔵国幡羅(はら)郡瓶尻(みかじり、埼玉県熊谷市三ケ尻)で
領地を得ていたが、関ヶ原合戦後の1604年(慶長9年)1万石で衣に移されていた。康貞が構築した城は陣屋程度の
作りと見られてござるが、この地を選択したのは矢作(やはぎ)川(豊田市内を貫通する一級河川)の水運を利用した
商業城下町を拓く事を見越したもので、近世城郭としての要素は十分に備えていたと考えられる。■■■■■■■■
また、桜城からは岡崎・名古屋・飯田方面への街道が延びていて、交通の要所でもあった。■■■■■■■■■■■
程なく康貞は没し、遺領を越後守康信が相続。康信は忠勤に励み1619年(元和3年)2000石を加増され伊勢国亀山
(三重県亀山市)へ転封する。このため衣は天領となるものの1636年(寛永13年)5月18日、三宅氏3代・大膳亮康盛
(康信の長男)が再び入った。しかし1664年(寛文4年)5月9日、4代・能登守康勝は三河国田原(愛知県田原市)へ
移封され、またもや衣の地は天領に。三河代官・鳥山氏が支配するようになり、当時の桜陣屋は破却され申した。
1681年(天和元年)9月15日に陸奥国石川(福島県石川郡)から1万石で本多長門守忠利(ただとし)が入国。改めて
衣は天領から新たな藩として成立し、1700年(元禄13年)5月8日に忠利が没した事により山城守忠次(ただつぐ)が
跡を継ぐ。忠次は忠利の養子、実父は長門国長府藩(山口県下関市)主・毛利甲斐守綱元(つなもと)。綱元の母が
忠利の姉妹に当たる事から養子入りしたものである。更に1711年(正徳元年)兵庫頭忠央(ただなか、忠次長男)が
藩主となり申した。本多氏の統治時代、「衣」の表記は「挙母(ころも)」と改められている。■■■■■■■■■■■

新城を計画するも…■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1749年(寛延2年)2月6日、忠央は遠江国相良(静岡県牧之原市)へ転封され本多氏の統治は終了。代わって内藤
丹波守政苗(まさみつ)が上野国安中(群馬県安中市)2万石から挙母へ入り、遠江国と美作国にあった飛地と併せ
同石高を領有。以後、挙母は内藤氏が明治維新まで統治したのであった。政苗はかつて破却された陣屋に代わり
幕府から4000両の下賜金を受けて城の新築を計画。入府の年から早速工事を始め、周囲約400間(720m)に及ぶ
堀を掘削し、城地総面積は32町(32ha)となる大がかりな縄張りだったとされる。しかしこの工事は、政争や一揆の
発生などで遅々として進まず、ついには矢作川の大洪水も起きてしまい、いくつかの櫓が完成していたものの断念
せざるを得なくなったのだった。陣屋時代から言える事だが、桜城の遷地は矢作川を活用した水運の要所である
反面、川の氾濫による被害を度々受ける浸水地帯でもあったのだ。結局、政苗の跡を継いだ養子・内藤右近将監
学文(さとふみ)が1779年(安永8年)に場所を変えて童子山で新城の築城工事を着工した為、1782年(天明2年)
桜城は役目を終えて廃城となったのでござった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

櫓台だけ残る児童公園■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現在、城跡は豊田市街地の中心部にある小さな児童公園になっており、その周辺一帯は完全な住宅地・商業地と
化している。遺構らしいものは全く無く、ただ一つ櫓台の石垣(写真後方)だけが寂しく残存。しかしこの石垣は実に
見事なもので、少々粗めの打込ハギで組まれた石垣を眺めると、その上に櫓の建物が載っていた事を容易に想像
させてくれるので、胸躍るものがある。他の遺構が全て消えたのに、なぜこれだけが綺麗に残ったのであろうか?
2006年(平成18年)には市内のビル工事現場で石垣が発掘されたそうだが、それは保存されず終いだったとの事。
ともあれ、江戸中期の築城遺構として貴重な存在であるこの隅櫓台石垣は1972年(昭和47年)2月24日、豊田市の
史跡になってござる。縄張図に当てはめると、現存する櫓台は三ノ丸の北東隅に位置するもので、現在の豊田市
市役所庁舎が並ぶ一帯が本丸。櫓台のある桜城址公園から市役所に向かって三ノ丸〜二ノ丸〜本丸が連郭式に
連なり、これら主要曲輪群を取り囲んで広大な外郭も計画されていた。三ノ丸内部(二ノ丸の出入口)に丸馬出を
構成する三日月堀が掘られ、二ノ丸の南側出入口は角馬出が塞ぐ。他方、本丸の西半分は巨大な円弧を描いた
敷地になっていて、現在そこには名鉄三河線の線路が貫通している。全体的に角ばった曲輪取りをしていながら、
丸馬出が内包されていたり本丸の半分だけが円形をしていたり、かなり独創的な縄張と言える。しかも、三ノ丸や
二ノ丸に比べて圧倒的に本丸が大きくて(通常は本丸を守るように二ノ丸や三ノ丸が囲む)、これでは本丸搦手が
剥き出しになるのでは?と悩ましい縄張なれば、実際に当城が完成していたならどうなっていたか気になる所だ。



現存する遺構

石垣《市指定史跡》
城域内は市指定埋蔵文化財







三河国 挙母城

挙母城模擬櫓

 所在地:愛知県豊田市小坂本町

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

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桜城に代わる新たな城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
七ヶ国を見渡せるという伝承から「七州城」とも。別表記で衣城など。上記した桜城に代わり、標高65mの童子山に
内藤学文が1779年に着工した挙母の平山城。完成したのは1785年(天明5年)の事とされてござる。学文は藩校の
崇化館も設立している。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
挙母城は、大型建築が櫓2基のみというかなり小さな城郭。ほぼ陣屋だ。2万石という石高相応の城として控えめに
したというだけでなく、度々の水害により疲弊していた挙母藩の財政事情にもよるのだろう。現在、愛知環状鉄道の
線路に沿うように豊田市美術館が建っている小丘陵が童子山で、台地上面を曲輪として造成、その麓を廻るように
堀が穿たれたがそれ以外は特段の構えは無かったようである。台地上へ揚がる入口に櫓門、そこへ横矢を掛ける
位置に隅櫓があり、曲輪を屹立させる為に石垣が構築されていた。堀の外側、城の敷地そのものへ入る虎口にも
門が置かれていたようではあるが、そのすぐ内側に蔵が並ぶなど、戦闘を意識したものではなく統治拠点としての
利便性が追及されていた(つまり陣屋構え程度の縄張りの)城郭だったのだろう。■■■■■■■■■■■■■■

内藤氏の治世■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
内藤氏はこの後、3代・摂津守政峻(まさみち)―4代・兵部少輔政成(まさなり)―5代・丹波守政優(まさひろ)―6代・
山城守政文(まさぶみ)―7代・丹波守文成(ふみしげ)と代を重ねていくが、この間も数回にわたって災害や一揆に
見舞われ、かなり国力が衰退していたと考えられる。特に天保の大飢饉での被害は深刻で、1836年(天保7年)9月
21日、餓えに苦しむ農民が大規模な一揆を起こし、1万人にも上る参加者があったという。時の藩主・政優は止む
無く応戦、矢作川河畔で鉄砲隊の射撃を行い一揆衆を壊滅させたが、この惨事は「鴨の騒立(かものさわだち)」と
呼ばれ、翌年に大坂で起きた大塩平八郎の乱に大きく影響を与えたのでござった。■■■■■■■■■■■■■
内藤氏は藩内の政情が不安定な上、藩主の相続も血縁が薄い状況にあった。実子のないまま当主が没する事が
重なり、政文―文成以外は全て他家からの養子縁組にて継承されている。災害による財政難、藩内の権力闘争、
藩主一族の不幸などが重なった状況では、挙母城もおのずと小規模城郭にならざるを得ない。結局、幕末期には
尾張藩(愛知県名古屋市)を通じていち早く新政府への恭順を示し、藩の保身に務めている。その甲斐あってか、
版籍奉還後も文成は挙母藩知事に任じられた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかしその直後、1869年(明治2年)9月19日にまたもや大規模な農民一揆が発生。1870年(明治3年)6月24日には
石井騒動と呼ばれる藩内武士の反乱、1871年(明治4年)5月にも同様の正学党事件が起きており、明治維新後も
挙母藩の政情が安定しなかった事を示している。最終的に廃藩置県で内藤文成は隠居に追い込まれ、挙母城も
廃城となった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

石垣だけ残る城址公園■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
桜城と同じく、挙母城も現在はほとんど遺構が残らない。城跡は上記のように豊田市美術館を擁する城址公園。
平山城だった為、近隣地域は傾斜地の雰囲気が見え隠れしているものの、大半が造成されてしまっている。この
公園の中、模擬櫓が1978年(昭和53年)復元されて(写真)城跡のよすがを残すが、これは鉄筋コンクリート造りの
現代建築であるため、正しい櫓の姿とは言えない。ところが櫓の基台となっている石垣だけは当時の物で、桜城の
石垣同様に1972年2月24日、豊田市の史跡になってござる。石垣は上辺部東西10.8m、高さ6m。模擬櫓の建築時
石垣も整備されたらしく余りにも綺麗な状態なので、一見しただけではこの石垣も新造された物に見えてしまうが
正真正銘、江戸時代からの物(櫓台に繋がる部分の石垣は新造)なんだそうな。この点、桜城の素朴な風合とは
非常に対照的… (ー ー;■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
なお、公園の敷地内にある古建築・又日亭(ゆうじつてい)は、かつて寺部城(豊田市内)内にあった茶室と書院を
移築したもの。趣があり、こちらの方が城らしさは満点なのかも…(爆)■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

石垣《市指定史跡》
城域内は市指定埋蔵文化財







三河国 丸根城

丸根城址碑

 所在地:愛知県豊田市野見町

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

★★★☆
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小ぶりだが秀逸な城址公園■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
別名で牛野城。室町時代末期、丸根氏(丸根美作守家勝か?)による築城とされるが、松平(後の徳川)家が三河を
統一する過程において支配下に入ったようだ。そも家勝なる人物自体が松平家3代当主・左京亮信光(のぶみつ)の
庶子とも伝わり(故に丸根松平家とも称される)松平縁故とも言える訳だが、戦国時代の松平一族は諸家分立の上、
互いに競合相手だったので、丸根家も松平宗家と対立する関係にあったとしても不思議では無かろう。丸根美作守
宗勝と言う者が城主だった後、徳川家康が落城させ高橋頼貞を城代に置いたとも。■■■■■■■■■■■■■
豊田市中心部から2kmほど南、矢作川が蛇行し最も川幅が狭くなる通称「鵜の首」と呼ばれる地の東岸にこの城は
置かれ、北西から南東へ流れる川岸から見て、北東側から裾を広げる台地が舌状に延びた先端部が城地である。
舌状台地の先端が川に突き出した位置となれば、典型的な戦国期城址の立地と言えよう。川を前にした最先端部
標高53.4mの頂部を整地し、ほぼ長方形4950uの面積を有する主郭としていて、そこから1段下がった北東側へは
半円形の北曲輪が隣接する。主郭と北曲輪では1mほどの標高差があり、主郭への出入口となる通路を側面から
攻撃できる位置に置かれているため、この北曲輪は主郭の前面を守る副郭と考えるのが妥当でござろう。本来の
自然地形であれば北曲輪の先は台地本体に連なるのだが、そのまま連結していては城の防備が出来ないため、
幅10m・深さ6mにもなる空堀を切って敵の侵入を遮断するようになっている。また、主郭と北曲輪の間も幅5m・深さ
4mの堀で分断され、堀底は通路としても活用されていた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現在もこれらの堀が明瞭に残されており、小柄ながら非常に良く作り込まれた戦国期城砦の雄姿を目にする事が
可能な城跡でござる。城の南西部分は近代の改変を受けてしまっているようだが、城地の総面積は約1万8000u、
その大半が良好な状態で保存されており、かつて主郭の中には館跡の外縁に沿った「コ」の字形の土塁もあったと
いう。その土塁の北西隅には井戸があって、現在は穴を塞ぐように祠が鎮座。こうした遺構全体を保全し、今では
丸根城址公園になっている。市街地の外れの目立たぬ小公園であるが、城マニアにはオススメの名所でござる。



現存する遺構

井戸跡・堀・土塁・郭群等
城域内は市指定埋蔵文化財







三河国 古瀬間城

古瀬間城址碑

 所在地:愛知県豊田市志賀町城山

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

★☆■■■
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寺の裏山に展望台■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
こせまじょう、と読む。豊田市志賀町にある浄土真宗清閑院浄願寺の裏山が城跡。■■■■■■■■■■■■
近隣の高橋庄を支配する鈴木氏を攻略する為、1506年(永正3年)松平弥三郎宗忠(長沢松平氏)が築城したと
言われているが、逆に鈴木氏側が築いた城だという説もある。この三河鈴木氏、出自を遡ると紀伊国の鈴木氏に
繋がり、伝承では鎌倉幕府成立の頃に源義経を慕い奥州へ向かおうとした鈴木重善なる人物が、その旅の途中
この地で義経の戦死を聞き及び土着したと言う。三河鈴木氏は後に徳川(松平)家臣に組込まれ、織田信長らと
共闘するが、一方、本家紀伊の鈴木氏は本願寺勢力と組んで信長に敵対、激しい戦いを展開する。約400年の
歳月を経て紀伊鈴木氏と三河鈴木氏は対照的な運命を辿ったのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■
話が逸れたが、宗忠が築いた古瀬間城は丸根城と共に矢作川流域を守る重要な拠点として重きを成した。この
城から東へは足助街道が伸び、その先は信州飯田方面に道が繋がり、西へは衣(挙母)を経て尾張国へ、そして
南は松平家の本拠・岡崎に進む事が出来る。川岸で水運を押さえる丸根城に対し、こちらは陸上交通を扼する
要所であったと言えよう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
標高101.9mの山頂部からは豊田市街地方面の眺望が開ける。ここを啓開した曲輪が主郭で、歪んだ楕円形を
している。その周りにいくつかの腰曲輪が付けられた縄張り。かなり小ぶりな城だが、戦国時代初期に在地土豪の
松平氏と鈴木氏が戦う舞台としてはこれで十分な規模だったのでござろう。主郭の東端には櫓台が残る。■■■
詳しい経歴はわからないが、1506年の築城以来長きに渡って使われ、1590年(天正18年)徳川家康が関東へと
移封された時に廃城となった。現状ではこの主郭が公園(というか広場)になっており、1982年(昭和57年)3月に
建てられた展望台が置かれており申す。公園の敷地内には多くの梅の木が植えられて、春になると綺麗な花を
咲かせるという。また、浄願寺には城主・松平宗忠のものとされる墓が残る。■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

土塁・郭群等
城域内は市指定埋蔵文化財







三河国 市場城

市場城址 石垣

 所在地:愛知県豊田市市場町字城・市場町字深見
 (旧 愛知県西加茂郡小原村市場字城・市場字深見)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★★
★★★■■



足助鈴木氏の分流■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
2005年(平成17年)4月1日、西加茂郡の小原(おばら)村と藤岡町は豊田市へ編入された。市場城はその小原村に
所在していた。この城の別名は大草城、あるいは小原谷大草城だそうで、当然ながら「小原谷にあった大草城」との
意味がござろう。さすれば大草城が正しい名なのか?とも思うが、大草城と称する城は愛知県内だと知多市にもあり
ここでは一般的に知られた市場城の名で統一したい。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、上記した古瀬間城の項目で鈴木氏(鱸氏)の名を出したが、この市場城はその鈴木氏が代々に渡って用いた
城郭でござる。三河鈴木氏は鈴木重善が三河矢並郷(豊田市内)に土着して以降分派したが、中でも有力一族へと
成長したのが足助郷(同じく豊田市内、旧足助町)の足助鈴木氏であった。しかし足助には元々足助氏という氏族が
根を張っており、ここ小原の地には応永年間(1394年〜1428年)その足助氏の一員である足助重春と言う者の縁者・
鈴木重勝が市場古城(市場城から東南東へ約600m程の位置にあった山城)を築いて支配していた。そこへ1459年
(長禄3年)足助鈴木氏の当主・鈴木小次郎忠親(ただちか)の子である藤五郎親信が封じられ領有するようになる。
紀伊守親信は1502年(文亀2年)市場古城よりも高い山へと新城を築城し、居所を移した。これが市場城でござる。
市場城の築かれた山は東西に長い山容、北と南をそれぞれ谷が削っていて、その2つの谷に挟まれた間に屹立する
標高392mの山頂一帯を造成している。ちなみに、市場古城があったのはこの山の山裾東端に位置する小ピーク部。
市場古城の主郭部域は標高282mを指しており、新たな城はそれより110mも高い事になる。しかも城下の町並みは
海抜270m弱なので、市場城の比高は120mを超える訳だ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

剛勇有り余り、滅びの途へ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この城を拠点に、小原鈴木氏は2代・肥後守永重(ながしげ、長重とも)―3代・伊賀守直重(なおしげ)―4代・越中守
重愛(しげよし、長康とも)と4代続いていく。重愛の頃に三河は徳川家康により統一され、足助鈴木氏をはじめ小原
鈴木氏もその家臣団に組み込まれる。重愛は家康麾下として数々の戦功を挙げ、1583年(天正11年)加増されると
共に「鱸」姓を与えられ申した。鱸は出世魚であり、「鈴木」と同音の読みにかけた縁起を担ぐものであったのだろう。
このため、遡って親信までの小原鈴木氏を鱸氏と記す事もある。実績が認められた重愛は市場城の拡張も行って、
今に残る城の規模・縄張が完成した。武勇に秀でた鈴木重愛の生きざまを表した逸話だが、その剛勇さはこの後、
仇となってしまう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1590年、豊臣秀吉の天下統一によって徳川家康は東海地方から関東地方へと国替えを命じられた。徳川家臣団も
これに従い軒並み関東へ移る事になり、足助鈴木氏もその道を選ぶのだが、何と鱸重愛は勇猛さに驕って領地
替えの命令を拒否!父祖伝来の地を離れ難い思いは分からなくもないが、既に世の中は中世から近世へと切り
替わる頃で、所領にしがみつくのは時代遅れである。大大名による統治支配制度も完成する中で、主君・家康の
命に従わず、更に中央政権である豊臣秀吉の意向にも逆らうというのは「地方武士の意地」などでは済まされず
「国家への反逆」と扱われる時代だった。故に小原鈴木氏は処分を受ける事になり、重愛は改易の上で強制的に
退去させられた。その後、彼は諸国を流浪したのちに失意のまま没したと云う。これにより市場城は廃城となる。
その時期は1590年とも、1592年(文禄元年)だとも。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

石垣、堀切、それに畝状竪堀…中世城郭と近世城郭の“良いとこ取り”!■■■■■■■■■■■■■■■■
城址は1992年(平成4年)3月2日に小原村の史跡と指定され、豊田市が継承してござる。現在でも当時の縄張りが
ほぼ全域で残っている名城だ。そしてこの城は土塁・石垣・曲輪は勿論の事、堀切や畝状竪堀までありとあらゆる
山城の構成要素が詰め込まれているので、見ていて飽きない。特に畝状竪堀は確認されている限り愛知県下の
山城で唯一の遺構と言われ、その姿がハッキリと見て取れる綺麗な保存状態で素晴らしい。南北方向に細長く、
真ん中にややくびれた部分のある“瓢箪型”をした本丸を最高所とし、その南側には複数の腰曲輪を従えながら、
本丸南西側に突出した細長い二ノ丸が連なる。腰曲輪側からも二ノ丸と並行して細長い延長部が存在し、両者の
間が堀底道になってござる。写真にある位置がその堀底道からの眺めで、左手(桜が咲いている切岸の上段)が
二ノ丸、右手の長大な土塁が腰曲輪から延びる延長部、そして正面の石垣が腰曲輪群である。そう、本丸南面〜
腰曲輪群にかけては立派な石垣で固めており、近づく者を威圧すると同時に急傾斜の上から雨霰と射撃を加える
構造になっている。攻城兵は両脇と正面を押えられた中で狭い堀底道を往かねばならず、全滅必至の防御地帯を
形成している訳だ。他方、本丸北端にも北西側へ数段の帯曲輪が突出、その下には枡形門を設置し北側からの
侵入者を防ぐ。この枡形門部分は地形の削り込みが激しくて、実に技巧的。そしてその枡形部の北には件の畝状
竪堀が並んでいて、山の北側斜面から敵兵が回り込めないような仕掛けとなっており気が抜けない。枡形門から
帯曲輪群〜本丸〜二ノ丸までが半円形(馬蹄型)に繋がる縄張だが、その内側にあるのが「さんざ畑」と称される
曲輪と西郭。さんざと言うのは鈴木家の家老・尾形三左衛門を指し、彼の館跡の曲輪だったと考えられる。西郭は
城内で最も低い位置にして広い面積を有する曲輪で、恐らくは戦時に兵士が駐屯する場所だったのだろう。■■
場所は豊田市役所小原支所(旧小原村役場)から東南東へちょうど1kmの地点。曹洞宗陽抱山廣圓寺と浄土宗
亀寿山西運寺の間に挟まれた山がそれで、城山の南側を通る細い道沿いに駐車場が完備されているため、車で
来訪するのは簡単だ。反対に公共交通機関で向かうのは難しいかも…。御手洗は駐車場の傍らに1箇所。その
駐車場から散策路が回されており(夏の藪だらけな季節は難儀しそうだがw)基本的には簡単に城内を見て回る
事が出来る。現地案内板には1周で15分ほどと書いてあるが、いやいや、城郭愛好家ならば1時間でも2時間でも
かけて存分に遺構を味わいたい城である。勿論、初心者にもお薦めだ。なお、西運寺の山門は市場城の城門を
1693年(元禄7年)に移築したものだと伝わる。廃城から100年近く経ってからの移築?という事なので、あるいは
先にどこかへ移築されていたものを再移築したのだろうか???■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・石垣・土塁・郭群等

移築された遺構として
西運寺山門(伝市場城城門)




知多郡諸城郭  岩崎城・新居城