佐久良の城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
周辺に桜の木が多く植えられていた事から付けられた城名。別表記で佐久良城とも(実はこちらが正式表記だとか)。
もともと豊田市内、かつての三河国加茂郡衣(ころも)の地には金谷城があったのだが、戦乱で荒廃していたために
1614年(慶長19年)三宅惣右衛門康貞が新たな城を構築。これが桜城である。康貞は家康に仕えた徳川譜代家臣。
秀吉の天下統一により関東へ封じられた家康に従い武蔵国幡羅(はら)郡瓶尻(みかじり、埼玉県熊谷市三ケ尻)で
領地を得ていたが、関ヶ原合戦後の1604年(慶長9年)1万石で衣に移されていた。康貞が構築した城は陣屋程度の
作りと見られてござるが、この地を選択したのは矢作(やはぎ)川(豊田市内を貫通する一級河川)の水運を利用した
商業城下町を拓く事を見越したもので、近世城郭としての要素は十分に備えていたと考えられる。■■■■■■■■
また、桜城からは岡崎・名古屋・飯田方面への街道が延びていて、交通の要所でもあった。■■■■■■■■■■■
程なく康貞は没し、遺領を越後守康信が相続。康信は忠勤に励み1619年(元和3年)2000石を加増され伊勢国亀山
(三重県亀山市)へ転封する。このため衣は天領となるものの1636年(寛永13年)5月18日、三宅氏3代・大膳亮康盛
(康信の長男)が再び入った。しかし1664年(寛文4年)5月9日、4代・能登守康勝は三河国田原(愛知県田原市)へ
移封され、またもや衣の地は天領に。三河代官・鳥山氏が支配するようになり、当時の桜陣屋は破却され申した。■
1681年(天和元年)9月15日に陸奥国石川(福島県石川郡)から1万石で本多長門守忠利(ただとし)が入国。改めて
衣は天領から新たな藩として成立し、1700年(元禄13年)5月8日に忠利が没した事により山城守忠次(ただつぐ)が
跡を継ぐ。忠次は忠利の養子、実父は長門国長府藩(山口県下関市)主・毛利甲斐守綱元(つなもと)。綱元の母が
忠利の姉妹に当たる事から養子入りしたものである。更に1711年(正徳元年)兵庫頭忠央(ただなか、忠次長男)が
藩主となり申した。本多氏の統治時代、「衣」の表記は「挙母(ころも)」と改められている。■■■■■■■■■■■
新城を計画するも…■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1749年(寛延2年)2月6日、忠央は遠江国相良(静岡県牧之原市)へ転封され本多氏の統治は終了。代わって内藤
丹波守政苗(まさみつ)が上野国安中(群馬県安中市)2万石から挙母へ入り、遠江国と美作国にあった飛地と併せ
同石高を領有。以後、挙母は内藤氏が明治維新まで統治したのであった。政苗はかつて破却された陣屋に代わり
幕府から4000両の下賜金を受けて城の新築を計画。入府の年から早速工事を始め、周囲約400間(720m)に及ぶ
堀を掘削し、城地総面積は32町(32ha)となる大がかりな縄張りだったとされる。しかしこの工事は、政争や一揆の
発生などで遅々として進まず、ついには矢作川の大洪水も起きてしまい、いくつかの櫓が完成していたものの断念
せざるを得なくなったのだった。陣屋時代から言える事だが、桜城の遷地は矢作川を活用した水運の要所である
反面、川の氾濫による被害を度々受ける浸水地帯でもあったのだ。結局、政苗の跡を継いだ養子・内藤右近将監
学文(さとふみ)が1779年(安永8年)に場所を変えて童子山で新城の築城工事を着工した為、1782年(天明2年)
桜城は役目を終えて廃城となったのでござった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
櫓台だけ残る児童公園■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現在、城跡は豊田市街地の中心部にある小さな児童公園になっており、その周辺一帯は完全な住宅地・商業地と
化している。遺構らしいものは全く無く、ただ一つ櫓台の石垣(写真後方)だけが寂しく残存。しかしこの石垣は実に
見事なもので、少々粗めの打込ハギで組まれた石垣を眺めると、その上に櫓の建物が載っていた事を容易に想像
させてくれるので、胸躍るものがある。他の遺構が全て消えたのに、なぜこれだけが綺麗に残ったのであろうか?
2006年(平成18年)には市内のビル工事現場で石垣が発掘されたそうだが、それは保存されず終いだったとの事。
ともあれ、江戸中期の築城遺構として貴重な存在であるこの隅櫓台石垣は1972年(昭和47年)2月24日、豊田市の
史跡になってござる。縄張図に当てはめると、現存する櫓台は三ノ丸の北東隅に位置するもので、現在の豊田市
市役所庁舎が並ぶ一帯が本丸。櫓台のある桜城址公園から市役所に向かって三ノ丸〜二ノ丸〜本丸が連郭式に
連なり、これら主要曲輪群を取り囲んで広大な外郭も計画されていた。三ノ丸内部(二ノ丸の出入口)に丸馬出を
構成する三日月堀が掘られ、二ノ丸の南側出入口は角馬出が塞ぐ。他方、本丸の西半分は巨大な円弧を描いた
敷地になっていて、現在そこには名鉄三河線の線路が貫通している。全体的に角ばった曲輪取りをしていながら、
丸馬出が内包されていたり本丸の半分だけが円形をしていたり、かなり独創的な縄張と言える。しかも、三ノ丸や
二ノ丸に比べて圧倒的に本丸が大きくて(通常は本丸を守るように二ノ丸や三ノ丸が囲む)、これでは本丸搦手が
剥き出しになるのでは?と悩ましい縄張なれば、実際に当城が完成していたならどうなっていたか気になる所だ。
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