阿久比の城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
久松(ひさまつ)氏の居城。当時は阿久比・阿久居・英比(いずれも「あぐい」)城、阿古屋(あこや)城とも呼ばれた。■■
久松氏は菅原道真の末裔と伝わる家柄で、南北朝期に南朝方の有力武将として活躍し、その功により久松弾左衛門尉
道定が尾張国知多郡阿古屋庄7000貫を領し土着したのでござる。室町時代には尾張国守護・斯波氏に従い、斯波氏が
没落した後は台頭してきた織田氏に従う。坂部城が築かれたのは15世紀末頃、久松肥前守定益の手によるものだとか。
定益の後、久松氏は定義―定俊(俊勝)と代を重ね、城も整備されていった。地誌「尾張誌」には「坂部村にあり、其の跡
東西四十間(約73m)南北五十間(約90m)英比の城ともいふ。久松佐渡守菅原俊勝の居城なり」と記されてる。■■■■
久松氏が歴史的に注目されるのはこの11代・佐渡守俊勝の時代の話だ。近隣にある刈谷城(愛知県刈谷市)の主・水野
下野守忠政は娘・於大(おだい)の方を1541年(天文10年)に岡崎城(愛知県岡崎市)主・松平次郎三郎広忠へ嫁がせて
松平氏や、その背後に控える今川氏と誼を通じようとする。1542年(天文11年)12月26日には2人の間に嫡男・竹千代が
生まれ、水野氏と松平氏の縁は益々深まったかに見えた。ところが1543年(天文12年)忠政が死去し、水野下野守信元
(於大の方の兄)が水野家を継ぐや方針転換をし、織田家に臣従。水野家と松平家は絶縁状態になってしまった。この為
広忠は於大の方を離別し、実家に差し戻してしまったのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
再嫁した於大の方■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
その於大の方が再婚したのが久松俊勝。俊勝は既に先妻との間に嫡男・弥九郎信俊がいたが後妻として入った於大を
大切にし、康元・康俊・定勝の3子を儲けた。一方で於大の方は3子そして信俊を慈しむのと同じく竹千代の行く末を案じ
母子離れ離れながらも、常に手紙を送るなどして音信を絶やさなかった。斯くして、竹千代は長じて松平蔵人佐元康と
名乗り、今川家の属将として不遇の地位にあったものの名将の才を花開かせようとしていた。1560年(永禄3年)5月に、
今川治部大輔義元が上洛の兵を起こした際には三河衆を率いての先鋒を命じられ尾張へ進軍、今川勢の橋頭堡たる
大高(おおだか)城(愛知県名古屋市緑区)へと糧秣の搬入を見事成功させたのである。そして今川軍と織田軍の戦が
明日にも始まろうかという同月17日、密かに大高城から抜け出した元康は坂部城へ駆込み、於大の方と対面を果たす。
本来ならば、織田方の久松氏と今川方の松平氏は敵同士。一軍の将である元康がのこのこと敵地の城に乗り込むなど
ありえない事であったが、岡崎で別離して以来17年ぶりの親子再会は、翌日からの激戦に死を覚悟した元康が母へと
今生の別れを告げにやって来たものでござれば、城主の俊勝はこれを黙認したのでござる。突然の再会に驚き、そして
喜びつつも、息子の前途を案じる於大の方の心情や如何ばかりであっただろうか。■■■■■■■■■■■■■■■■
ところがこの戦いは意外な顛末を迎える。義元は織田信長の奇襲に討たれ落命。元康は今川家のくびきを逃れ、旧領
三河国を回復するのである。その上、松平家は織田家との同盟を結び、晴れて松平家と久松家も大々的に友好関係を
持つ事ができるようになる。これを受けて1562年(永禄5年)俊勝は信俊に坂部城主の座を譲り隠居、妻の於大や3人の
子を連れて岡崎城へと居を移した。於大の方は遂に竹千代と共に暮らせる日々を得たのである。■■■■■■■■■
この後、元康は改名し徳川家康と名乗るようになった。後の江戸幕府初代将軍、あの家康だ。■■■■■■■■■■■
久松家の悲劇と発展■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
他方、坂部城の信俊はそのまま織田信長に属し、信長重臣の佐久間出羽介信盛配下として数々の戦に出陣していた。
ところが石山本願寺(大阪府大阪市中央区)と交戦中の1577年(天正5年)信俊は信盛から去就を疑われ、敵方である
本願寺(甲斐武田氏とする説もある)に内通した嫌疑をかけられて、大阪四天王寺で切腹させられてしまう。間髪置かず
坂部城も信盛の軍勢に襲われ、信俊の遺児である小金丸や吉安丸、城代家老の坂部藤十郎らは逃げる間もなく紅蓮の
炎に飲み込まれたのだった。このようにして落城した坂部城はそのまま廃城。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
先妻との子とは言え実子同様に信俊を可愛がっていた於大の方は深く悲しんだが、そののち家康が天下を取るに至り、
久松家に残った3人の子、即ち康元・康俊・定勝は家康の実弟として厚遇され、徳川一門と同様に扱われる事となった。
こうして久松家は松平の姓を与えられ久松松平家が成立。久松松平因幡守康元は下総関宿城(千葉県野田市)2万石、
豊前守康俊は遠江掛川城(静岡県掛川市)3万石、隠岐守定勝は伊勢桑名城(三重県桑名市)11万石の主とされ、家を
明治まで残す。於大の方の無念は晴らされたのだ。彼女は1602年(慶長7年)8月28日に京都伏見で没するものの、その
翌年、1603年(慶長8年)には同じく伏見で徳川家康が征夷大将軍に任じられ、江戸幕府が開かれ申した。平和な時代の
到来にあわせて、戦国期の遺構である坂部城の跡は忘れ去られ、桑名城主・松平越中守定綱(さだつな、定勝の3男)が
坂部城跡に松・杉・檜を各1000本植樹。城跡は平和利用されるようになり、元の山林へと戻っていったのでござる。■■■
小さな公園となった城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現在の坂部城敷地はすぐ近くにある曹洞宗龍溪山久松(きゅうしょう)寺洞雲院という寺が管理し、城山公園として一般
公開されている。名鉄河和線坂部駅から徒歩圏内(約400mほど)にあり、数台分の駐車場もあるので交通の便は良い。
公園の隣に町立図書館がある為それを目指していくと良いだろう。その図書館を建設するに先立ち1982年(昭和57年)
坂部城調査団による発掘調査が行われている。発掘で判明した城の規模は東西36m×南北54m程度、「尾張誌」での
記述よりだいぶ小さいが、これは後世の開発や造成で城山が削り取られた為であろう。城址の西側や南側には空堀が
残存、児童公園になっている主郭内部においても僅かながら当時の土塁と思われる遺構が残る。このため、城跡敷地
3077uが1988年(昭和63年)7月1日に町指定の史跡とされており申す。図書館の西に阿久比町立城山保育園があり
その更に西側辺りがこの近辺の最高標高地点(海抜55m)を示す小山。坂部城はその山頂から阿久比川へと突き出た
山麓台地末端に当たり、城内の標高は20m、坂部駅周辺は11mなのでおよそ10m程の比高差を利用した台地城郭だ。
最後にちょっとだけ余談。ここまで於大の方を中心に話を進めてきたが、その夫・久松俊勝の旧名は長家(ながいえ)と
言う。一方、松平元康が改めた名は徳川家康。ご承知の通り、後の徳川将軍家は「家」の字を通字としている訳だが、
家康の「康」の字は祖父(広忠の父)・松平次郎三郎清康(きよやす)に因んだもの、では「家」の字は?と言えば、継父
(生母・於大の方の再嫁先である為)と言える久松長家から採ったとする説がある。後に長家が俊勝へと改名したのは
東海の太守へと成長した徳川家康に遠慮して「家」の字を憚ったためとされ、結果的には「俊勝」と「家康」の関係性が
見えづらくなってしまったが、もしこの説が正しいならば徳川宗家の通字「家」は久松家に由来する事となろう。家康が
俊勝を敬慕したのは、桶狭間直前の母子再会を看過してくれた恩義に報いる為だった―――かは定かではない。■■■
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