織田信秀が足がかりとした城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1534年(天文3年)、織田弾正忠信秀(上総介信長の父)が築城。尾張守護代・織田家の中でも傍流の家系に
過ぎぬ家柄の信秀であったが、この頃は家中での勢力を飛躍的に増大させ、尾張全土を平定しようかという
勢いで領土を拡大させていた。その為、今川家の尾張橋頭堡であった那古野城(中区内、現在の名古屋城)を
奪取した直後であったにもかかわらず、すぐさまこの古渡(ふるわたり)城を築いて居城とし、那古野城には
産まれたばかりの赤ん坊である(!)信長を城主として据えたという。急激に増える持ち城に対し、人材が間に
合わないのか、それとも我が子可愛さで赤ん坊でも城主としたのか?事の真相は定かではないが、ともあれ
那古野城に信長、そしてこの古渡城に信秀が居を構え織田家はさらに勢力を拡大。1546年(天文15年)には
信長が古渡城で元服の儀を執り行ったのでござった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この頃が古渡城の最盛期で、東西140m×南北100mの規模を誇り、それを二重の堀で囲っており申した。■■
しかし1548年(天文17年)信秀が美濃斎藤氏との戦いで城を留守にしていた所を狙い、織田宗家の家臣である
坂井大膳・甚助それに河尻与一ら清洲衆が古渡へ来襲し城下を焼き払った。尾張第一の実力者となっていた
信秀だったが、それに反抗する者もまだ多く居た事の証である。対外的にも、国内情勢においても気が抜けない
信秀は同年、新たに末森(すえもり)城(下記)を築き、そちらへ移った。東から迫り来る駿河今川家の脅威に
備えるためであったと言われる。信長もまた、暫く後に清洲城(愛知県清須市)へと居城を移したため、那古野や
古渡の城に戦略的重要性はなくなり、これらの城は廃城とされたのだった。■■■■■■■■■■■■■■■
時は流れ、信長の時代は終わり、秀吉が天下を鎮め、そして家康の世が訪れると那古野の城は生まれ変わり、
新生名古屋城として御三家筆頭・尾張徳川家62万石の城となり天下に名を轟かせた。一方、古渡城の周辺は
名古屋城下町の一端として組み込まれていき、1691年(元禄4年)に尾張藩2代藩主・徳川光友(みつとも)から
旧城地が浄土真宗大谷派本願寺に与えられたのである。以来この地は東本願寺境内となり現在に至っている。
よって、現況も東本願寺名古屋別院の敷地。その東隣にある下茶屋公園も城地だったらしい。が、城跡としての
目立った遺構も特に残されていない。山門の西脇に写真の標柱が立ち、ここが織田信秀の居城とされた古渡の
城跡であった事を静かに物語っているのみだ。ただ、下茶屋公園(かつてはここも東本願寺境内であった)は
寺伝によれば古渡城の堀跡だったと言われ(天守台との記述も?)、よくよく見れば寺の境内だけは周囲より
ごく僅かに隆起した微高地なので、その立地が城の痕跡…なのかも?国土地理院の地形図(傾斜量図)を照合
すれば、何となくその雰囲気は確かめられる(本当に微量の起伏なのだがw)。■■■■■■■■■■■■■
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