尾張国 古渡城

古渡城址碑

 所在地:愛知県名古屋市中区橘

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

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織田信秀が足がかりとした城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1534年(天文3年)、織田弾正忠信秀(上総介信長の父)が築城。尾張守護代・織田家の中でも傍流の家系に
過ぎぬ家柄の信秀であったが、この頃は家中での勢力を飛躍的に増大させ、尾張全土を平定しようかという
勢いで領土を拡大させていた。その為、今川家の尾張橋頭堡であった那古野城(中区内、現在の名古屋城)を
奪取した直後であったにもかかわらず、すぐさまこの古渡(ふるわたり)城を築いて居城とし、那古野城には
産まれたばかりの赤ん坊である(!)信長を城主として据えたという。急激に増える持ち城に対し、人材が間に
合わないのか、それとも我が子可愛さで赤ん坊でも城主としたのか?事の真相は定かではないが、ともあれ
那古野城に信長、そしてこの古渡城に信秀が居を構え織田家はさらに勢力を拡大。1546年(天文15年)には
信長が古渡城で元服の儀を執り行ったのでござった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この頃が古渡城の最盛期で、東西140m×南北100mの規模を誇り、それを二重の堀で囲っており申した。■■
しかし1548年(天文17年)信秀が美濃斎藤氏との戦いで城を留守にしていた所を狙い、織田宗家の家臣である
坂井大膳・甚助それに河尻与一ら清洲衆が古渡へ来襲し城下を焼き払った。尾張第一の実力者となっていた
信秀だったが、それに反抗する者もまだ多く居た事の証である。対外的にも、国内情勢においても気が抜けない
信秀は同年、新たに末森(すえもり)城(下記)を築き、そちらへ移った。東から迫り来る駿河今川家の脅威に
備えるためであったと言われる。信長もまた、暫く後に清洲城(愛知県清須市)へと居城を移したため、那古野や
古渡の城に戦略的重要性はなくなり、これらの城は廃城とされたのだった。■■■■■■■■■■■■■■■
時は流れ、信長の時代は終わり、秀吉が天下を鎮め、そして家康の世が訪れると那古野の城は生まれ変わり、
新生名古屋城として御三家筆頭・尾張徳川家62万石の城となり天下に名を轟かせた。一方、古渡城の周辺は
名古屋城下町の一端として組み込まれていき、1691年(元禄4年)に尾張藩2代藩主・徳川光友(みつとも)から
旧城地が浄土真宗大谷派本願寺に与えられたのである。以来この地は東本願寺境内となり現在に至っている。
よって、現況も東本願寺名古屋別院の敷地。その東隣にある下茶屋公園も城地だったらしい。が、城跡としての
目立った遺構も特に残されていない。山門の西脇に写真の標柱が立ち、ここが織田信秀の居城とされた古渡の
城跡であった事を静かに物語っているのみだ。ただ、下茶屋公園(かつてはここも東本願寺境内であった)は
寺伝によれば古渡城の堀跡だったと言われ(天守台との記述も?)、よくよく見れば寺の境内だけは周囲より
ごく僅かに隆起した微高地なので、その立地が城の痕跡…なのかも?国土地理院の地形図(傾斜量図)を照合
すれば、何となくその雰囲気は確かめられる(本当に微量の起伏なのだがw)。■■■■■■■■■■■■■







尾張国 小林城

小林城跡

 所在地:愛知県名古屋市中区大須

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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戦国期、名族との多重血縁に支えられた城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
天文年間(1532年〜1555年)、歴代最後の尾張守護・斯波治部大輔義銀(しばよしかね)の一族である牧与三右衛門
長清(まきながきよ)が前津小林(この周辺)4000石を領したと伝わる。その居城となったのが小林城である。■■■■
長清の父・下野守長義(ながよし)は義銀の従兄弟(江戸中期の尾張藩地誌「張州雑志」による)にして、その室は
織田信秀の妹・長栄寺殿であった。彼の子である長清も、信長の妹・信徳院を妻に迎えている。即ち、長清は守護・
斯波氏の縁者にして織田弾正忠家とも二重の婚姻関係によって結ばれた人物である。なお、斯波一族である長義は
母方の家を継いだ事から、この家は牧姓を名乗った訳だ。但し、長義は信徳院の他にも川村北城(愛知県名古屋市
守山区)主・岡田伊勢守時常の娘も娶っており、形式的には岡田家の婿である。もっとも、小林城を築いたのは長義の
ようで(織田信秀の末森城移転に伴う築城らしい)その折に川村北城は廃されたそうだ。となると、小林城の築城年は
1548年頃という事になろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
以後、長義・長清父子によって維持された。牧氏は斯波氏の没落後、織田家に臣従するようになり、長清は信長の妹
(信徳院、小林殿と称されたおとくの方はお市の方の姉に当たる)を正室としていた事から、織田家臣の中でも羨望の
目で見られたと言う。しかし老境の域となった長清は仏門に帰依し、1570年(永禄13年)2月15日に卒す。それを機に
小林城は廃され、信徳院は信長の元に戻った。彼女は本能寺の変以後も存命で、信長亡き後は彼の2男・三介信雄
(のぶかつ)に引き取られ余生を送ったそうな。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

江戸時代以降の小林城跡は■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
江戸時代、名古屋の地が尾張徳川家の所領となった事は言うまでも無いが、小林城の故地には尾張藩剣術指南役・
柳生兵庫助利厳(やぎゅうとしよし)の屋敷が置かれた。柳生新陰流の剣術は良く知られた名だが、太祖・石舟斎宗厳
(むねよし)が起こした流派は江戸時代になると但馬守宗矩(むねのり、宗厳の5男)が継承する江戸柳生と、利厳が
尾張に根付かせた尾張柳生の2派に大別されていく。利厳は宗厳の嫡孫(宗厳長男・新次郎厳勝(よしかつ)の2男)で、
柳生宗家は江戸幕府重臣となった宗矩が継いだものの、剣技は祖父・宗厳が手塩にかけて叩き込み、その技量は
宗矩をも上回ると評された程。新陰流として流祖・上泉伊勢守信綱(かみいずみのぶつな)から石舟斎宗厳へと受け
継がれた印可状・目録の一切は利厳に継承されている。利厳の隠居後は彼の子である兵庫厳包(としかね)が役目と
屋敷を継承、尾張藩2代藩主・徳川右近衛権中将光友(みつとも)に剣技を授けた。利厳の後継たる厳包も、3男では
あるがその地位を得た人物で、その技量は推して図れよう。天下に聞こえた尾張柳生の剣術は、徳川3代将軍である
家光にも所望され、厳包は江戸に上り将軍上覧試合を執り行っている。小林城の名は殆んど知られていないが、彼の
地に関わる者は斯波・織田縁者や尾張柳生の達人など、錚々たる名で彩られてござるな。■■■■■■■■■■■
厳包が没した後、元禄年間(1688年〜1704年)になると小林城跡に浄土宗徳壽山無量院清浄寺が建立される。徳川
光友が徳川家累代の祈願所として創建した寺は、願い事をよく聞いてくれる「お地蔵さんの寺」として有名になり、今も
「矢場地蔵」の名で広く知られている。その為、この場所は「小林城跡」では全く通じず「矢場地蔵」の寺として認知され
結果的に城跡である痕跡は全く残っていない。名古屋の中心街にあるのだから致し方ない話で、かろうじて寺の入口
付近に小林城の事績を伝える小さな案内板が立つのみ。「城跡」「剣豪」はヲタ垂涎のキラーコンテンツだと思うのだが
矢場地蔵の御利益にはあやかれそうに無いようだ(苦笑)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■







尾張国 末森城

末森城址碑

 所在地:愛知県名古屋市千種区城山町

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★■■■
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信長と信行■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
末盛城とも。古渡城の項で記した通り、1548年に織田信秀が築城し古渡城から居を移した。当時の信秀は尾張
統一の志半ばながら、北の美濃斎藤氏、東の駿河今川氏とも戦わねばならない苦境にあり、古渡城よりも東側に
位置するこの城へ移り、今川方の侵入に目を光らせる必要があったものと思われる。このため、末森城の近隣に
ある守山城(愛知県名古屋市守山区、下記)主であった弟の織田孫三郎信光と連携し、強固な防衛線を敷いた。
しかし1552年(天文21年)3月3日(没年月日には諸説あり)その信秀が病で没してしまう。織田弾正忠家の家督は
嫡男である那古野城主の信長が継承した一方で、信秀の旧城である末森城は信長の同母弟・勘十郎信行へと
譲られ申した(信行の名は信勝とするのが今日の通説だが、ここでは従来通り信行とする)。■■■■■■■■■
信長と信行は互いに家督を争う犬猿の仲であり、以後、東の今川家に備えるためだった末森城は、信長にとって
肉親ながら油断のならない危険な敵対者の城となってしまったのである。信長が尾張統一に向けて様々な戦略を
推し進める中、家督を狙う信行は折に触れて謀反の計画を練り、兄の動きを妨害する。それでも信長は1555年
(弘治元年)4月、織田大和守信友を倒して清洲城を占拠、尾張の大半を手に入れる。これに対抗するかのように
末森城の信行は1556年(弘治2年)8月に反乱の兵を起こした。所謂「稲生(いのう)の戦い」でござる。■■■■■

稲生(稲生ヶ原)の戦い■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
信行を担ぐ織田家の重臣・林佐渡守秀貞(通勝(みちかつ)とも)やその弟である林美作守通具(みちとも)、さらに
柴田権六勝家ら不穏な活動を行っていた一派に対し、信長は抑えとして名塚(なづか)砦(愛知県名古屋市西区)を
築き佐久間大学介盛重に守らせた。この砦を林兄弟や勝家が24日に攻撃、守備兵の盛重勢は300に対し攻め手は
計2700。折からの悪天候に阻まれた信長がようやく救援に駆け付けるが、それも1000しかなく圧倒的に攻撃側が
優勢な状況であった。ところが信長は劣勢をものともせず果敢に攻めかかり、大音声で勝家を一喝する。これに
気圧された勝家は兵を引き、勢いに乗じた信長は通具を討ち取る大戦果を挙げた。これが稲生の戦いの顛末で、
敗北した信行勢は末森城に退却している。それを信長勢が包囲し、城下を焼き払ったが、母の土田(どた)御前が
取り成しを図った為、両軍は和睦した。この戦いの後、林秀貞や柴田勝家は信長に帰順している。■■■■■■
されど信行はそれでも信長への対抗を諦めず、信長を倒すために斎藤氏と通じたり、新たな城を築く敵対行動を
取り続けた。これまで実弟として許していた信長も遂にたまりかねて信行の処断を決意、1558年(永禄元年)11月
2日に謀略を以って殺害するに至るのだった。主を失った末森城はこの後、廃城になったと見られる。■■■■■

廃城後の城跡■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
末森城本丸跡は現在、城山八幡宮の境内となっており標高43mの小高い丘に神社の建物がいくつか建てられて
いるが、その中に写真の城址標柱がある。また、二ノ丸跡地は城山八幡宮に隣接する愛知学院大学の敷地だ。
いずれも周辺の傾斜地は当時の城跡で使われた塁の法面や堀跡であり、比較的良好な保存状態を保っている。
但し、この場所は1584年(天正12年)の小牧・長久手の戦いでも陣地となった為、多少の改変を受けているようで
ある。現役当時の末森城は本丸敷地が東西43m×南北46mの規模を有し、二ノ丸は東西79m×南北43m程度の
大きさであったそうな。平野地に単独で隆起する小高い丘が城であったため、往時はさぞかし眺望が利き、南東
方向から迫るであろう今川軍の備えとして有効に機能した事だろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
なお、城山八幡宮に合祀されている社の中に白山社があるが、これは末森城内の鎮守として信行が加賀の白山
比刀iしらやまひめ)神社から分霊を迎えたものが起源。結果的に、末森城は神として生き長らえたという事か。



現存する遺構

堀・土塁・郭群等







尾張国 守山城

守山城址碑

 所在地:愛知県名古屋市守山区市場・鳥羽見

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

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矢田川の流れと守山城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
森山城とも。徳川家康の祖父・松平次郎三郎清康が不慮の落命をした事件「守山崩れ」の舞台として有名な城。
(守山崩れについては後ほど)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
名鉄瀬戸線の矢田駅からほぼ真北、矢田川を渡った対岸にある曹洞宗玉峯山宝勝寺を中心とした一角が、ごく
僅かに丘陵地となっており、その一帯がかつての城跡。この丘陵の最高地点が標高30.1mを指し、麓は11m程で
ある為、比高差20m弱を有す。城域の規模は東西58m×南北51m程度とされており(守山区の解説による)その
内部を概ね南北2つの曲輪に分割していたようだ。南の曲輪が主郭(現在の宝勝寺境内)で、北の曲輪が二郭。
江戸時代の尾張藩地誌「尾州古城志」には「城墟東西三十二間、南北廿八間 一重堀」と記されている。なお、
宝勝寺のすぐ南を矢田川が流れており、如何にも天然の水濠であるかの如く思えるが、矢田川の流路は当時
もっと南を蛇行し、沼沢地を形成していた為、現代とは異なる。それはそれで堅城な地勢だとは思うが、しかし
現状で矢田川の対岸(南岸)にある小山まで守山城の山が繋がっていたそうなので(その部分は城地ではない)
環境そのものがかなり違う様相を呈していた。江戸中期の1767年(明和4年)7月に大水害が発生し、矢田川が
この山を分断するように流れを変えた事で現在の地形が成立したそうだが、山をブチ破る程の洪水流というのも
恐ろしい話だ。今でこそ治水対策が行き届いていようが、当時の要害ぶりを想像させる逸話でござる。■■■■■

宗長の歌に詠まれし守山城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城の築城者や年代は不明。大永年間(1521年〜1528年)の頃には存在していたとみられ、1526年(大永6年)3月
27日に連歌師の柴屋軒宗長(さいおくけんそうちょう)がこの城を訪れ、連歌の会を催したと「宗長手記」にある。
その時の発句は「花にけふ 風を関守 山路哉」と言うものだが、歌の中で巧みに“守山”の地名を織り込むなど
機知に富んだものであった。さすがは宗長、と言った処だろう。なお、この宗長手記が「守山」の地名を記録した
史料上の初見だそうな。この時、宗長をもてなした守山城の城主は松平与一信定(のぶさだ)であった。信定は
桜井松平家(三河松平家の一分家、三河国碧海郡桜井(現在の愛知県安城市桜井町)を領した一族)の初代で、
松平清康の叔父に当たる人物。松平宗家の清康とは折り合いが悪く、常に宗家の地位を狙っていたとされる。
故に信定は血縁者の清康よりも、尾張の実力者・織田家と近しい関係を築いていた。■■■■■■■■■■■■
次に守山城に関する記録が登場するのは1533年(天文2年)11月の事。京都の古刹、真言宗大内山仁和寺の僧・
真光院尊海(しんこういんそんかい)僧正が「守山といへる所に泊まりて」とされ、守山城に宿泊したと考えられて
いる。そしてその次が冒頭に書いた「守山崩れ」となる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

松平家に痛撃を与えた守山崩れ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
それまで、桜井松平家のように諸家が入り乱れ家中の統一を欠いた松平一族に於いて、若年ながら松平宗家を
継いだ清康は類稀なる才能を発揮して敵対者を降し、遂に三河の大半を制するに至った。彼の勢いは三河だけに
留まらず、更にその矛先を尾張にまで向けたのである。斯くして1535年(天文4年)12月、清康自らが率いた松平勢
8000余(諸説あり)が守山城を攻め立てた。この時の守山城主は織田信光である。信光は信秀の弟、つまり信長の
叔父である事は先に記した通りだが、宗長の来訪から10年で信定から信光へ城主が替わった経緯は定かでない。
ただ、2人は縁戚関係にあった事から(特に敵対はしていない)何らかの約定を以って城を譲渡した可能性もあろう。
また、清康の守山城攻めに信定は参加していない。信光に対する義理立てがあった為か、或いはこの後に起きる
清康の不運を見越しての、もっと言えば裏で糸を引いていたからなのか?色々と疑念が浮かぶ信定の行動である。
ともあれ、城攻めの陣中において事件は発生した。12月5日の早朝、清康の陣に留めらていていた馬が突如暴れ、
その騒ぎを「父が清康によって成敗された」と誤認した松平家臣・阿部弥七郎正豊(まさとよ)が、主君である清康を
守山城の大手口付近で斬殺したのである。正豊もその場で斬り殺されたが、かねてから正豊の父・阿部大蔵定吉
(さだよし)には謀反の噂が流れ、もし自分が討たれたら身の潔白を証す誓紙を主家に渡して欲しいと聞かされて
いた正豊が勘違いの凶行に及んだものであった。なお、この噂を流したのが信定であるとの尾鰭もある。ただし、
定吉に謀反の気は無かったらしく、この後に訪れる清康の子・竹千代(松平三郎広忠、家康の父)の危難を救う為
広忠の逃避行に同行するなど、身を挺した働きを成している。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
いずれにせよ、総大将が斃れた松平勢は総崩れとなり、撤退。生きていれば天下が取れたと評される清康の死に
よって三河は再び弱小国へと転落し、信定がまたも暗躍を始めるなど、苦難の時代に陥るのであった。艱難辛苦を
味わった松平家が復権を果たすのは清康の孫である元康、つまり徳川家康が桶狭間の戦いで今川家の軛から
逃れるまで待たなければならなかった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
清康が僅か25歳の若さで無念の死を遂げ、松平勢が守山城制圧に失敗したこの事件を守山崩れと言う。■■■■

織田家の騒動にも揺れる守山城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
これより20年の後、信長が尾張統一への動きを加速させるとそれに協力していた信光は那古野城へと居を移し、
守山城には信光の弟・右衛門尉信次(のぶつぐ)が入った。1555年の事である。ところが入城から間もない同年
6月26日、家臣らと共に川狩りをしていた信次の前を、1人の若武者が馬に乗って通り過ぎようとした。下馬もせず
挨拶もないまま走り去ろうとするその若者を、不届であると信次の家臣・洲賀才蔵(すがさいぞう)が矢で射殺して
しまう。果たしてその若武者が信長の弟・喜六郎秀孝(ひでたか、つまり信次の甥)と知れるや、信長の報復を恐れ
信次は出奔してしまったのである。信長が如何に恐ろしい人物であったかが想像できる話であるが、案外にも当の
信長は「軽率な振舞いをした秀孝に非がある」としてこの件を問題視する事は無かった。むしろ秀孝のもう1人の兄・
信勝(上記、末森城の項にて紹介した信行の事)の方が怒りに任せて守山城下を焼き払う挙に出ており、信長が
それを止めるべく出兵した程だった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、出奔した信次に代わり改めて織田安房守信時(のぶとき)が守山城主に任じられた。信時は信長の異母弟。
信勝軍が守山城を包囲した際、城に立て籠もっていた信次の家老・角田新五(つのだしんご)が信長方への帰順を
申し出た証として、新城主に迎え入れられたものであった。さりとて、信時は次第に新五を粗略に扱うようになり、
それを不満とした新五は1556年6月、城の壊れた塀や柵を修理すると偽り、手勢を城内に引き込んだ。彼の謀反で
信時は自害に追い込まれ、新五は逐電。どうやら信勝方に投降したらしく、稲生の戦いで討たれた。結局、再び
城主不在となった守山城であるが、この頃に信次は許されて信長の下へ帰参していた為、信次が再度城主に。
織田一族の去就に振り回された守山城であったが、激動の1550年代を越えると信長が天下人への道を歩みだし、
戦いの舞台は尾張国内から近畿方面へと変わっていく。美濃を切り取り、近江の浅井氏と同盟し京都を押さえた
信長に対し、妹のお市を嫁がせた相手の浅井備前守長政が突然の裏切り、そして小谷城(滋賀県長浜市)攻略の
筋書きを辿るのは、歴史好きな方には御承知の通りだ。1573年(天正元年)小谷城が落とされ長政が自害、お市と
3人の娘(茶々・初・小督)は信長の下に引き取られたが、実際に養育したのが信次であるとの説が近年唱えられる
ようになり、彼女らは守山城に身を寄せたと考えられるようになっている。■■■■■■■■■■■■■■■■■
だが、翌1574年(天正2年)9月29日に伊勢長島一向一揆討伐の中で信次は戦死してしまう。残されたお市と浅井
三姉妹は信長の居城である岐阜城(岐阜県岐阜市)へ移り、今度こそ城主が居なくなった守山城は廃された。■■
小牧・長久手の戦いにおいて再利用されたと言う説もあるが、それも一時的な陣城で長くは続かなかっただろう。

堀と土塁だけは目立つ守山城跡■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
江戸時代になって1637年(寛永14年)、守山城跡に宝勝寺が建立された。開基は大渓良沢(だいけいりょうたく)・
道淵本成(どうえんほんじょう)の両和尚。守山崩れで亡くなった松平清康とその他戦死者を弔う寺である。以来、
この地は寺の境内としての歴史を有してきたが、近年には都市化ですぐ間際まで住宅地が迫り、また傾斜地の
災害対策として丘陵地の法面が人工壁で固められる等、急激に城跡としての風情は失われた。ただ、寺の敷地を
取り囲むような空堀は残存し、また寺からやや北側には一筋の土塁列が奇跡的に残されている。土塁の東端部は
一段高くなっており、恐らくそれは大規模な櫓台だったと想像され、そこには1916年(大正5年)愛知県が大正天皇
御大典記念事業として立てた城址碑(写真)が置かれている。地形と照合すると、櫓台の塚盛は空堀の「外側」に
位置しており、宝勝寺境内を主郭と考えるならば、その北側にも櫓台を有した敷地、つまり副郭か何かが存在した
事になろう。この点、先に記した「尾州古城志」の「一重堀(=単郭)」との表現とは合致しない。「尾州古城志」は
守山城の旧状を紹介するとき引き合いに出される史書であるが、一重堀と記しているのは河村秀根(かわむら
ひでね、尾張藩の国学者)本で、別の写本である奥村徳義(おくむらとくぎ、尾張藩普請方の武士)本では二重堀と
されているので精査が必要であろう。当然、「東西三十二間、南北廿八間(58m×51m)」と言うのも、主郭の寸法を
示したもの(宝勝寺の敷地のみ)に過ぎないのかもしれない。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ともあれ、現在の守山城址において見るべき遺構はこの堀と土塁だけである。土塁の方は石碑がある上、近年に
なって名古屋市が史跡観光整備に基づいて見学路も用意して下さり、私有地ではあるが見学可能。道の入口には
綺麗な解説板まで立てられ(しかも英訳付き)、守山城のよすがを現代の観光客に伝えてくれている。と言っても
一般の観光客がこの土塁をわざわざ見に来るとは思えないので、やはり歴史愛好家・城好き向けの案内か(苦笑)
反対に堀の一帯は完全なる私有地となっており、立入禁止。侵入者を防ぐ金網も張り巡らされているので、写真の
撮影も憚られる。幅15m程×深さ3m以上と言う険しい堀なので、遺構としては見事なものなのだが、如何せんこの
ような状況なので整備など全くされずに荒れ放題、竹藪となっていて金網が無くてもおいそれとは入れない様子だ。
とりあえず、名鉄の矢田駅、又は守山自衛隊前駅から徒歩で行ける至便の場所ではある。車は宝勝寺の駐車場に
停める事が可能だが、そこへ入る道は民家の間を縫って行く細道なので運転には御注意を。付近は一方通行路も
多いので、くれぐれも近隣住民の方に御迷惑などかけないよう気を付けるべし。■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群等







尾張国 小幡城

小幡城址案内板

 所在地:愛知県名古屋市守山区西城・小幡中

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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岡田氏と小幡城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1522年(大永2年)岡田与七郎重篤(しげあつ)によって築かれ、彼の居城になったと言うのが始まり。尾張源氏の一派、
山田氏を祖先とする岡田氏は、尾張国知多郡岡田村(美濃国大野郡岡田郷とする説もある)に居を構えた事からその
姓を名乗るようになり、重篤の頃には織田左馬助敏信(としのぶ)・伊勢守信安(のぶやす)父子の家臣となっていた。
敏信と信安の親子関係には諸説あるが、尾張守護代の家である。信長の出自である勝幡(しょばた)織田家はこうした
守護代家の家臣(奉行)にあたる織田家傍流なので、この時点においては岡田家と勝幡織田家は同等の地位であろう。
重篤は小幡城を築いて間もなく星崎城(愛知県名古屋市南区)へ移った為、以後しばらくの小幡城はどのような歴史を
辿ったのか分からないが、岡田家については動向が明らかで、重篤の子・与七郎重頼(しげより)が星崎城主を継承し
(重頼が小幡城を築き、星崎へ移ったとする説もある)、重頼の子である助右衛門重善(しげよし)の代になると尾張は
勝幡織田家が制するようになり、織田信秀の家臣となっていた。1542年(天文11年)信秀が駿河今川家と戦った小豆坂
(あずきざか)合戦(愛知県岡崎市羽根町)では、織田軍勝利の原動力となった勇士7人「小豆坂七本槍」の1名に岡田
重善も数えられ、織田家中での実力を示している。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、話を小幡城に戻すと、守山崩れ(上記、守山城の項を参照)の時に松平清康が小幡城に本陣を置いたとされるが
三河勢の潰走後、この城は織田信光が接収し城主となった。だが信光は1555年に那古野城を本拠に変えた上、同年の
11月26日に家臣・坂井孫八郎の裏切りに遭って落命する。その跡を長男の東市佐信成(のぶなり)が継ぎ、小幡城主に
なったそうだが、程なく廃城になってしまった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

小牧・長久手の戦いと岡田氏■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ここで再び岡田氏の話。重善が仕えた勝幡織田家は信秀から信長に代替わりし、天下人への道を進む。されど重善の
長男・長門守重孝(しげたか)が歴史上に登場する頃、本能寺の変が起きて信長は斃れた。信長の遺領が織田家臣や
信長の子等によって分割される中、重孝は信長2男・信雄の家老となる。本能寺の変直後、信雄は羽柴筑前守秀吉と
協調していたが、次第に秀吉が天下への野心を顕わにすると“信長の子である正当性を利用されただけ”だと気付いて
断絶し、父・信長と生涯の同盟者であった徳川家康を頼るようになった。だが中央政権を押さえたのは秀吉の方なので
重孝は危機感を抱き、秀吉方へと通じた。よって信雄は1584年3月6日、重孝を切腹させ「秀吉への宣戦布告」とする。
斯くして勃発したのが小牧・長久手の戦いであるが、小幡城はこの戦いで再び日の目を見る事になった。■■■■■■
3月中旬から始まった織田(信雄)・徳川連合軍と羽柴軍の睨み合いに於いて、いくらかの小競り合いはあったものの
大規模な合戦がないまま、戦線は様子見の膠着状態となる。秀吉は楽田(がくでん)城(愛知県犬山市)に本陣を置き、
家康は小牧城(愛知県小牧市)に陣取ったが、両軍はそれだけでなく各所に城砦を確保し、主に庄内川〜矢田川の
流域で境界線が敷かれる事となった。この時、小幡城もその1つに加えられ家康配下の本多豊後守広孝(ひろたか)が
占領、彼は城の守りを固める修築を行っている。他に菅沼新八郎定盈(さだみつ)や深溝(ふこうぞ)松平主殿助家忠も
城番として在城。なお、この城から北東2.5km程の場所にある天台宗松洞山大行院龍泉寺には羽柴勢が入っており、
一触即発の最前線となっていた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

白山林の戦いと小幡城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
そんな中、相手の出方を探り合う状況に焦れた羽柴方の部将・池田勝三郎恒興(つねおき)らは、いっそのこと徳川の
本領である三河へ攻め込む策を秀吉に提案する。本拠地が荒らされれば、家康は小牧に留まる訳にいかなくなり撤退や
不用意な行動を見せると踏んだのだ。秀吉はあまりこの作戦に乗り気では無かったと言われるが、強硬な意見に反対も
出来ず、別動隊の進軍を許可する。斯くして4月8日の夜半、池田恒興・森武蔵守長可(ながよし)・堀久太郎秀政それに
三好孫七郎信吉(みよしのぶよし)らの部隊が夜陰に紛れて進発、庄内川や矢田川を渡河していった。ところが、この
作戦は徳川方に筒抜けで、別動隊進発よりも早く家康は迎撃作戦を発動する。榊原小平太康政らを先発隊とし、自身が
本隊を率いて密かに小牧城を抜け出した。そして徳川軍はこの小幡城に入り羽柴勢別動隊の動きを捕捉するのである。
そうとは知らない別動隊は翌9日、あまりにも油断した行動を取っていた。池田・森の両将は“行き掛けの駄賃”とばかり
徳川方の岩崎城(愛知県日進市)へ攻め掛かり、落城させるまでその場に留まった。三好信吉は矢田川の南岸にある
白山林(はくさんばやし)と言う小丘陵で呑気に朝食を摂る始末。小幡城から白山林までは僅かに5km、すぐに駆け付け
られる距離である。別動隊が本気で三河を狙うなら、可能な限り秘密裏に、できるだけ先を急ぎ徳川軍を出し抜くべきで
あった筈だ。それがわざわざ岩崎城を攻めて自らの存在位置を晒したり、家康の前線城郭から間近で休息を取るなど
沙汰の限りである。当然、その動きは察知され榊原康政は三好信吉の陣に殴り込みをかけた。休憩中に急襲を受けた
三好勢は大混乱に陥り、あっという間に壊滅。信吉は自分の馬も見失い、部下の木下勘解由利匡(としただ)に馬を借り
這う這うの体で逃げ出したが、そのせいか利匡は戦死した。これを白山林の戦いと言う。■■■■■■■■■■■■■
余勢を駆って康政は堀秀政の陣にも攻め掛けたが、三好隊潰走の報を受けていた秀政はこれを撃退。“名人久太郎”の
渾名を持つ秀政は、さすがに敗れる事は無かったものの、もはや別動隊の動きは徳川方に漏れていると冷静な判断を
下し、三河入りは無意味と悟って撤収した。結果として、榊原康政の攻撃は功を奏した事になる。この戦いは桧ヶ根の
戦い(ひのきがねのたたかい)と言われる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

小幡城を軸にした家康の見事な動き■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
そして池田恒興・森長可の部隊には家康本隊が攻め掛かった。岩崎城攻略で疲労していた池田・森の軍勢は当然ながら
野戦の王者である家康の攻撃を受けて立つ余力はなく、敗北する。これが長久手の戦い(仏ヶ根の戦い)で、池田恒興と
森長可は2人とも戦死した。鮮やかな手際で羽柴勢を屠った家康は同日夕刻、堂々と小幡城へ凱旋する。一方、大敗北を
喫した別動隊総大将・三好信吉は不甲斐無さに秀吉の大叱責を受けた。この信吉、秀吉の甥にして後に関白職を継ぐ
羽柴秀次の若き日の姿であった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
別動隊の敗報を聞いた秀吉は、3万の兵を率いて楽田を発ち、陽が沈む頃に龍泉寺へ入った。家康の動きが見事なのは
まだ続く。秀吉が眼前に来た事を知った徳川勢は龍泉寺への攻撃を進言するが、家康は「必要以上の勝ち戦は禍根を
残す」として、無理な攻撃を控えその夜のうちに小牧城へと戻ってしまった。一方の秀吉は小幡城に家康が居ると聞き
翌朝の攻撃を決めるが、先述の通り家康は城を抜け出し、翌日はもぬけの殻となっていた。結局、秀吉は家康に振り
回されただけに終わり、何ら成果を得られない三河入りの作戦行動となってしまった訳である。このように、長久手合戦で
家康の重要な作戦拠点となったのが小幡城であり、その戦果が後々「豊臣政権五大老」という政治的な勝利を家康に
もたらす原動力となった訳でござる。ただ、腹いせか羽柴勢は空になった小幡城を焼き払い、それを機にこの城は廃城
処分となった。この時、秀吉は陣所としていた龍泉寺にも火をかけて撤退したと言うのだから怒り心頭だったのか。■■

高台を利用した城だと言う事は分かる■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
以後、小幡城跡は畑地になったと江戸前期の寛文年間(1661年〜1673年)の記録「寛文村々覚書」に記されている。
一方、守山城の項で紹介した「尾州古城志」は「東西百十間、南北六十間、東西二十堀、北切岸、大永年中築之云々」と
記述し、城に関連する者の名として「岡田与七郎、織田源次郎、岡田助右衛門、其子長門守」を並べている。これらは
岡田重篤・織田信成・岡田重善・岡田重孝を指したものだ。加えて1923年(大正12年)7月に東春日井郡役所が刊行した
「東春日井郡誌」では「本郡城趾中、最も当時の規模を存し、天守閣趾、塁趾、大手門趾、邸趾、湟趾(こうし、堀跡)等」と
往時の縄張りを紹介。また、1926年(大正15年)に発行された「愛知縣史蹟名勝天然記念物調査報告(第4巻)」の中では
「一、二土塁の破壊せられたるものの外大体古城絵図の如く現存」と、大正末期までは概ね遺構が残存していた様子を
書いている。しかし、宅地化された現在では城址に遺構は全く残らない。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
古図に照合すると名古屋市立西城小学校の東側一帯が城跡で、現在は介護施設が建つこの台地北端部が本丸、その
南西側に並ぶ住宅地の一区画(西城小学校に面した街区)が二ノ丸、本丸の東側にある浄土真宗城趾山阿彌陀寺の
周辺が三ノ丸であった。阿彌陀寺は昭和30年代になって建てられた新しい寺だそうだが、それでも山号に「城趾山」と
付けられた如く、この場所が古くから城跡であった伝承が今も生きている証だ。二ノ丸と三ノ丸を繋ぐように馬出となる
小曲輪が連結していた他、その馬出郭の南側には友作屋敷と呼ばれる外郭、三ノ丸の東に土肥平六屋敷、更にその
東には岡田助右ヱ門屋敷と言った敷地が並んでいた。友作と言うのは小瀬友作を指し、二ノ丸を屋敷地としていた小瀬
久六、三ノ丸を屋敷にした富田喜太郎らと共に織田信成の家臣であったと想像される。本丸・二ノ丸と三ノ丸の東面は
土塁で固められ、城域全体(外郭部まで含む)の規模は東西およそ330m×南北200m程に及ぶ。主郭部だけを数えても
東西200m×南北70mはあった筈だ。ただ、地図上で「平面を」見てもこの城の凄さは分からない。現地へ行って標高差
つまり「高さ」を実感しないと意味が無い。逆に言えば、高低差こそが小幡城のキモなのだ。■■■■■■■■■■■■
介護施設のある本丸付近の標高は28.8m、その北側直下を通る道路は13.2m。両地点の平面距離はたった50m。実際に
この斜面を見れば「崖」と言って良い急傾斜である(名古屋市住宅地のド真ん中とは思えない)。曲輪が並んでいた南側
斜面を見ても、自転車で登るには息が上がるような坂が延々と延びている。現在は建物が並ぶのであまり良い眺望では
ないものの、当時は四方を遥かに見通す事が出来た筈で、龍泉寺の様子は手に取るように分かったようだ。古写真では
昭和の高度成長期あたりまで自然の山だった環境が残されていたので、もしこの山城跡がその後も残されていたならば
現代の丁寧な史跡整備を受け、小幡城の再現も可能だったと思える。宅地化の時代にあって仕方のない事であろうが、
ちょっと勿体ない話だと感じられるのは…城マニアの独善かw■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
とりあえず、本丸の介護施設玄関前に写真の城址説明板が1本だけ立ち、それが城址のよすがとなっており申す。■■

余談:岡田氏と名古屋城 〜名古屋名物「きしめん」の発祥〜■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ここからは完全に余談。織田信雄に切腹させられた岡田重孝には弟がおり、彼が岡田家を再興する。岡田伊勢守善同
(よしあつ)、通称は岡田将監である。彼は戦国乱世を巧みに生き残り、徳川幕府の旗本として江戸時代を迎えた。徳川
家康の信任篤く、木曽三川の河川改修に才を発揮した“治水の達人”にして、那古野城あらため名古屋城の築城でも
普請奉行に抜擢される。考えてみれば小幡城から名古屋城までは6kmほどで、岡田家としては縁遠からぬ場所だった
事だろう。その将監が名古屋城の普請現場で働いていた頃、雉肉を平打ち麺に添えた食事を供され、それを彼が気に
入った事から「雉麺(きじめん)」と呼ぶようになった。それはいつしか雉肉なしでも食べられるようになり、次第に平らな
麺の料理を「きしめん」と言うようになった。これが名古屋名物きしめんの由来とされ(諸説あり)現代の名古屋城内には
きしめん亭が食事処として営業している。徳川家と名古屋の地、両者の繋がりに岡田家の関わりが隠されている訳だ。
そうそう、言い忘れていたが守山城址に建立された宝勝寺の開基である良沢和尚は小豆坂七本槍・岡田重善の弟。
名古屋市守山区は岡田一族の地縁に彩られている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■







尾張国 荒子城

荒子城跡

 所在地:愛知県名古屋市中川区荒子・荒子町

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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荒子前田家=前田蔵人家、後の加賀前田家を生んだ城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
天文年間、前田蔵人利昌(としまさ、利春(としはる)とも)の築城と伝わる。■■■■■■■■■■■■■■■■
前田家は菅原道真後裔を称しているもののその出自は定かならず、恐らくは菅原家に連なるという系図は伝承に
過ぎない。遡れば不明な事ばかりの前田家ではあるが、確定的な事が言えるのは元来、美濃国安八郡の前田郷
(現在の岐阜県安八郡神戸(ごうど)町)を出自とし、後に尾張国海東郡の前田村(中川区内)へと移り、その地に
根付いた土豪であるという事である。一族は前田城(愛知県名古屋市中川区前田西町)に本拠を構えていたが、
その中から利昌が荒子城を築いて分家を興し(利昌の官途名から前田蔵人家と言う)、2000貫の知行を有した。
(荒子前田家の創始は利昌以前とする説もあるが、これまた判然とせず不明である)■■■■■■■■■■■■
利昌の後、長男の蔵人利久(としひさ)が前田蔵人家を継いだものの、尾張の太守となった織田信長の命により
1569年(永禄12年)病弱である事を理由として利久は家督を召し上げられ、利昌の4男であった又左衛門利家へ
譲られたのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この利家こそ、信長・秀吉政権の下で出世を重ね後に加賀百万石の礎を築いた前田利家である。利家は荒子村
2450貫の領地と荒子城主の座を得て精進を重ね、織田家が北陸方面の領土を獲得した1575年(天正3年)越前国
府中城(福井県越前市)に転出。このため、荒子城主は利家の嫡男・孫四郎利長が務める事になる。しかし、その
利長も1581年(天正9年)越前府中へ移ったので荒子城は廃城となり申した。■■■■■■■■■■■■■■■

利久と利家、そして前田慶次■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
尾張の地誌書「尾陽雑記」や江戸期編纂の城郭記録「古城志」等によると往時の規模は東西68m×南北50m程で
堀一重で守られていたとか。荒子「城」とは言え、実情は在地武士の「館」程度だったという事だろう。■■■■■■
現在は冨士大権現社・天満天神社の神社(写真)境内となっている。荒子には広大な荒子公園や古刹・荒子観音寺
(天台宗浄海山円龍院観音寺)に付随ずる神明社があるが、そこではないので注意。■■■■■■■■■■■■
城郭としての遺構は特に残っていないが、境内には「前田利家卿誕生之遺址」と記した石碑が残り、前田家ゆかりの
場所である事を指し示す。但し、利家誕生の地は前田城であったとする説が有力なので、果たしてこの石碑の記載が
正しいかどうかは疑問。ともあれ、利家がここで成長し、加賀太守へと登りつめた事に変わりは無く、それが縁で荒子
城址近辺にある名古屋市立荒子小学校と、金沢市内の金沢市立味噌蔵町小学校(現在は兼六小学校に統合)が
姉妹校提携を結んでいたなど、金沢との交流が深うござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ちなみに、信長に家督を奪われた利久の子が利益(とします)。戦国一の傾奇者として有名な前田慶次郎その人だ。
利家への家督移譲により利久・利益父子は荒子城を退去したと言う。本来ならば前田蔵人家の後継者だった利益は
“権力者の都合”でその座を奪われた訳で…傾奇者となったのはそれが理由であろうか?前田利家生誕の地という
触れ込みは疑問符が付くが、むしろ前田慶次が傾く原因となったのが荒子城だったのかも(苦笑)■■■■■■■





吉田城  西尾城・西尾市内諸城郭