三河国 吉田城

吉田城復元鉄櫓

 所在地:愛知県豊橋市今橋町

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★■■
★★☆■■



今川家の橋頭保に始まり■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
旧名を今橋(いまはし)城。別名で吉祥郭、峯野城、歯雑城とも。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現在の豊川市北部に威を張る一色城(豊川市牛久保町)主・牧野古白(まきのこはく)が1505年(永正2年)、豊川と朝倉川の
合流地点にあった小丘陵を利用して築城。古白の築城は、駿河国・遠江国(現在の静岡県)の大名だった今川修理大夫氏親
(いまがわうじちか)の命に依るものと言う。翌1506年(永正3年)にはその氏親が入城し、三河進出の橋頭堡とした。この当時
三河国では国人の松平氏が大きく勢力を広げており、氏親は松平勢を牽制するため、領国の駿河国・遠江国のみならず、
相模国や伊豆国の兵も募って大規模な軍事活動を展開したと言われている。東三河の小勢力はこれに恐れをなし、大半が
今川軍に従ったものの、田原(愛知県田原市)の戸田弾正忠憲光は松平氏に助力したので、今川方は岡崎の松平氏・渥美
半島の戸田氏という2正面に兵を分散させざるを得なくなって、今橋城から撤退したのだった。その結果、松平蔵人丞長親の
攻撃により今橋城は陥落、城主の古白は戦死してしまう。その後、松平氏・牧野氏・戸田氏の間で争奪戦が続いたものの、
1546年(天文15年)に再び今川軍が来攻し占拠した。この時に今橋城は吉田城と改名され、今川の城代として伊東左近元実
(後に小原肥前守鎮実(おはらしげざね)へ交代)が置かれたのである。既に今川家の当主は治部大輔義元へと代替わりし、
“海道一の弓取り”と謳われ日の出の勢いでござった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
時を同じくして松平氏は相次いで当主の不幸に見舞われ、勢力が衰退。三河国は今川家の属領となり、松平家は今川家の
家臣同様の扱いを受けるが、1560年(永禄3年)5月19日に桶狭間の戦いで義元が戦死すると、攻守は逆転する。松平家の
若き当主・蔵人佐元康は今川支配を脱却する為に岡崎城(愛知県岡崎市)で独立、三河統治権を回復すべく今川家に対して
攻撃を開始し、1565年(永禄8年)小原鎮実を追放して吉田城を奪還した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
元康は重臣の酒井左衛門督忠次を吉田城に入れ守りを固めさせ、更に東へと進出。翌1566年(永禄9年)徳川家康と改名し
遠江を支配下に収め、1569年(永禄12年)には甲斐武田氏との挟撃作戦で今川氏を討ち倒した。しかし今度はその武田氏が
徳川氏と領土を接するようになり、両者は敵対関係に変化する。屈強な騎馬軍団を擁する武田家はしばしば徳川領を狙って
侵攻を繰り返し、吉田城も武田信玄や武田勝頼の攻撃に晒されたのだが、忠次とその子・宮内大輔家次は何とかこれを凌ぎ
酒井氏は2代25年に渡って吉田城に在城したのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

近世城郭へ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
酒井氏の統治が終了したのは1590年(天正18年)。豊臣秀吉が天下を統一し徳川家は東海地方から関東地方へ移封され、
それに伴い酒井氏も下総国臼井城(千葉県佐倉市)3万7000石へ移転。秀吉の大名配置により、新たな吉田城主には池田
三左衛門輝政が15万2000石を以って任じられたのでござる。大封を得た輝政は、石高に相応しい大城郭を必要とし、直ちに
吉田城の大改修工事を開始した。従来の城域を南西方向に拡張し、城内各所を石垣組みに補強、更には堀を二重・三重に
掘削したのである。同時に、城下町の整備も行われている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところがその工事が終わらぬまま関ヶ原合戦後の大名移封を受け、輝政は播州姫路(兵庫県姫路市)52万石へと移された。
1601年(慶長6年)武蔵国雉岡城(埼玉県本庄市)から徳川譜代家臣の竹谷(たけのや)松平家清が3万石で入城する。その
家督は玄蕃頭忠清に受け継がれるも1612年(慶長17年)4月20日に彼が亡くなった事で無嗣断絶となり、同年11月20日から
深溝(ふこうぞ)松平主殿頭忠利、次いで忠房が城主に。だが忠房は家督相続直後(この時はまだ無官)の1632年(寛永9年)
8月12日に三河国刈谷(愛知県刈谷市)へ移され、刈谷から入れ替わりとなった水野隼人正忠清が2万石から4万石に加増と
なって吉田城主を命じられた。その忠清は1642年(寛永19年)7月、信濃国松本(長野県松本市)7万石へ加増転封。今度は
駿河国田中(静岡県藤枝市)から4万5000石で水野大監物忠善(ただよし、忠清の水野家とは別家)が入ったが、その忠善も
治世わずかに3年、1645年(正保2年)7月14日に三河国岡崎へと5000石を加増されて移封された。目まぐるしく城主が替わる
中にあって、次に入ったのは小笠原壱岐守忠知(ただとも)。前任地は豊後国杵築(大分県杵築市)4万石、吉田入封に伴い
5000石が加増されている。忠知は農業開削の一環で吉田城の外堀に水を通して水濠とした。外堀が灌漑用水を兼ねる事に
なった訳でござるな。小笠原家は山城守長矩(ながのり)―能登守長祐(ながすけ)―佐渡守長重(ながしげ)と4代続いたが
1697年(元禄10年)4月19日、長重の老中就任に伴い1万石を加増され武蔵国岩槻(埼玉県さいたま市岩槻区)へ栄転した。

結果的に未完の城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
再び吉田城主の座は入れ替わりが激しい時代を迎え、丹波国亀山(京都府亀岡市)から久世讃岐守重之(くぜしげゆき)が
5万石で入ったかと思えば1705年(宝永2年)下総国関宿(千葉県野田市)へと移り、関宿から8万石を以って牧野備前守成春
(なりはる)が入封。成春の血縁を遡れば、あの牧野古白につき当たる(系統には諸説あり)のだが、彼自身は縁故の城である
吉田城へ赴く事はなく江戸で没し、家督は成央(なりなか)が継承。しかし成央は幼少である為、1712年(正徳2年)7月12日に
日向国延岡(宮崎県延岡市)へ飛ばされてしまった。東海道の要衝である吉田を預かるのは重責だったと言える。■■■■
牧野家に代わって、下総国古河(茨城県古河市)から7万石で大河内(おおこうち)松平伊豆守信祝(のぶとき)が来たるも、
1729年(享保14年)2月15日、遠江国浜松(静岡県浜松市)へ転封、更に本庄松平資訓(すけのり、すけくにとも)が浜松から
入ったが、これまた1749年(寛延2年)10月15日に再び浜松へ。このように目まぐるしく譜代大名が城主を歴任した吉田では
輝政以来の改修工事は進まず、結局城は未完のまま使用される事となってしまった。■■■■■■■■■■■■■■■
最終的に、資訓と入れ替わって吉田へ来た大河内松平伊豆守信復(のぶなお)が7万石で襲封。信復は信祝の子である。
学問を重んじた信復は1752年(宝暦2年)7月、城内に藩校・時習館(じしゅうかん)を創設している。以降、大河内松平氏が
吉田城主の座を継承。信復の後、伊豆守信礼(のぶうや)―伊豆守信明(のぶあきら)―伊豆守信順(のぶより)―伊豆守
信宝(のぶとみ)―伊豆守信璋(のぶあき)―刑部大輔信古(のぶひさ)と続き明治維新を迎えたのだった。■■■■■■■
1869年(明治2年)6月17日、版籍奉還で信古は吉田知藩事に任じられる。しかし彼は伊予国の吉田藩(愛媛県宇和島市)と
同名になるのを嫌い、豊橋藩と改名。城の名も豊橋城とされている。然る後、1871年(明治4年)7月14日の廃藩置県で藩は
消滅し、信古も東京へ移住した。豊橋城は1873年(明治6年)1月14日に発布された廃城令以後も存城の扱いであったため、
敷地は兵部省の管轄となった。しかしこの年、失火により多くの建物が焼失する。また、城内に名古屋鎮台の豊橋分営所が
設置されて、1884年(明治17年)には陸軍歩兵第18連隊が置かれた。こうした経緯から、城の敷地はかなり良く残ったのだが
建造物は全て滅失している。但し、廃藩前の段階である江戸初期に城門が、そして久世重之の手に拠り御殿書院が静岡県
湖西市の法華宗常霊山本興寺に寄進されており、これらは今も寺の山門および奥書院として現存する。山門は湖西市指定
有形文化財(1984年(昭和59年)11月30日に指定)、奥書院は静岡県指定有形文化財(1985年(昭和60年)3月19日の指定)と
なってござる。また、学舎「時習館」の名は愛知県立時習館高等学校に受け継がれ候。■■■■■■■■■■■■■■■

川を活用した縄張り■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現在の城跡は豊橋公園とされ一般開放されている。豊橋市役所のすぐ隣が公園。■■■■■■■■■■■■■■■■■
豊川・朝倉川を背にした「後ろ堅固」の縄張で築かれた吉田城は、川の南岸に位置する小丘陵の頂を本丸とし、その本丸を
同心円状で囲むように二ノ丸が広がり、さらに二ノ丸を大きく囲む三ノ丸が展開。三ノ丸の外部には総構えまでが用意され、
厳重な防備を見せている。このように本丸を中心として半円状に連なる曲輪構成は特に珍しく「半円郭式」と呼称され申す。
数値的な話をすると、本丸敷地は3931u(1189坪)、二ノ丸は1万5154u(4584坪)、三ノ丸は5万142u(1万5168坪)となり、
かなり広大な敷地面積である。更に、川に面した後ろ堅固の縄張でありながら川からの攻撃も想定し、本丸北辺に腰曲輪を
置き、そこに川手三重櫓・入道櫓といった建造物を設置。加えて、その腰曲輪を監視する形で本丸北辺に鉄(くろがね)櫓や
雷櫓などの大規模な櫓まで用意する念の入れよう。往時の堅城ぶりが窺える。鉄櫓は1954年(昭和29年)に再建されており
城跡の風情はなかなかであろう。この鉄櫓、写真の通り豊川の対岸から見るのが全体像を捉えられる一番の絶景ポイント。
数値の話に戻ると、腰曲輪の面積は1864u(564坪)、堀・土手部分は5万3534u(1万6194坪)、城跡総面積は12万4625u
(3万7699坪)にも及んでいる。総構えまで含めると、あの名古屋城(愛知県名古屋市中区)よりも広いんだとか。■■■■■
曲輪を囲う塁は、その殆んどが石垣造り。これは松平忠利時代に名古屋城築城の残石を譲り受けて土塁を石垣に改造した
経緯からである。鉄櫓を眺めるだけでなく、良好に保全された石塁を見学するのも必須。この石垣遺構が評価され、2017年
(平成29年)4月6日、財団法人日本城郭協会から続日本百名城の1つに選出された。他方、史跡指定は2020年(令和2年)
現在では何も行われていない。日本百名城・続百名城では軒並み何かしらの史跡指定を受けるか指定文化財を有しており
(管理団体を明確化するのが百名城指定の不文律になっている為)吉田城は稀有な存在となっている。■■■■■■■■

関ヶ原、東軍の人質■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、吉田城に関して最も有名な逸話は関ヶ原合戦時の件だろう。大坂で挙兵した石田治部少輔三成は強制的に諸大名の
妻子を人質に取ろうとしたが、細川越中守忠興(ただおき)の妻・ガラシャが虜囚を拒み自決してしまい、人質作戦は周囲の
反感を買う事となった。当然、三成の計画は頓挫。この話は、(真相は兎も角)三成の“人望の無さ”を如実に表すものとして
後世まで(悪評として)語り継がれる。一方、あまり知られていないが徳川家康も東軍諸将の妻子を人質に受ける事を企図し
「駿河・遠江・甲斐・三河4国の武将から質を取り吉田城に入れよ」と時の吉田城主・池田輝政に命じたのである。家康側での
人質収容は「諸将を従わせるため」という三成の作戦とは異なる意図で、「諸将の団結を強めるため」というものでござった。
元々東軍諸将は打倒三成の信念により結束し、特に東海4国の武将は親しい関係だった事もあり、吉田城への人質確保は
滞りなく完了。城内で親交を深めた武将妻子らは家康の狙い通りに団結を強め、東軍勝利の一因を為したのである。とかく
「人質」というと悪い印象に受け取られるが、吉田城での一件はどちらかというと「合宿」という感じで行われたのであろう。
三成の失敗に対し、家康の作戦は成功を収めた。“天下分け目”と呼ばれる世紀の一大決戦・関ヶ原合戦であるが、吉田城も
陰ながらその歴史の歯車の一端を担っていたのである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・石垣・土塁・郭群

移築された遺構として
本興寺奥書院(旧吉田城御殿)《静岡県指定有形文化財》
本興寺山門(旧吉田城門)《湖西市指定有形文化財》




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