尾張国 小牧城

小牧城本丸址碑

 所在地:愛知県小牧市堀の内

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★■■
★★☆■■



安土城のプロトタイプ? 〜近世城郭への“試行錯誤”〜■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
小牧市役所の北側にある小山が小牧城跡。小牧山に築かれた城ゆえに「小牧山城」とも称する。■■■■■■■
元来、この山には間々観音(ままかんのん、正式な名称は浄土宗飛車山龍音(りゅうおん)寺)と言う寺院が置かれ
山岳信仰の地であったと想像される。そんな標高85.8mの山に城を築いたのは1563年(永禄7年)織田信長だった。
桶狭間合戦・清洲同盟によって後顧の憂いをなくした信長は、父・弾正忠信秀の代からの宿願であった美濃攻略に
着手、その地固めとして従来の居城だった清洲城(愛知県清須市)から美濃に近い小牧へ拠点を移したのである。
小牧の地は濃尾平野の尾張側北辺にあり、そこの独立峰だった小牧山からは美濃方面を監視できる。美濃の大名
斎藤氏の本拠である稲葉山城(岐阜県岐阜市)一帯を最も近くで望める山は、当時の織田領の中では小牧山だ。
信長は「火車(ひくま)山」と呼ばれていた小牧山全体を城郭とし、御碗を伏せたような丸い山の山頂部分を啓開して
主郭を置き、そこから山を下る段ごとに帯曲輪を構えた。山麓に至るまで竪堀・横堀・土塁を縦横に巡らせて、山の
北側には土塁を構築、主郭周辺の切岸を石垣で固めた上、山腹・尾根沿いの各曲輪には家臣屋敷も造営された。
戦国期、大名は家臣統制に悩まされるのが常であった。家臣と言えど自前の領地を持つ独立領主である彼らは、
自らの権益を守る事が最優先であり、必ずしも“主君”である筈の大名に従うとは限らなかったからだ。特に大身の
家臣であれば猶のこと「自前の権力」を大きく持っている訳で、下手をすれば大名に拮抗(それどころか反抗)する
力を有していた事になろう。大名が家臣を従わせるには集権制を確立する必要があり、それを目に見える形として
表すのが大名の居城近くに家臣屋敷を集約させる事だが、この当時、信長はまだ尾張を統一しただけの小大名に
過ぎず、小牧城の築城時にそれを成し得るかどうかは未知数であった。果たしてその結果、大半の家臣は小牧城
家臣屋敷に組み込まれたが、必ずしも全ての家臣が従った訳ではなかったらしい。信長がこの時点ではまだまだ
“発展途上”の大名であった状況を物語っている。他方、信長が居住する主郭部が石垣で固められていた様子は
城の見事さを周囲に見せつけ、彼の権力が強大である事を喧伝する装置であった。当時はまだ城に石垣を用いる
事例は殆ど無く、信長の先進性が良く解る構造物と言えよう。麓には城下町が形成され、一時的な陣城ではない
計画的城郭が作られており、この町割りが現在の小牧市中心部にも踏襲されてござる。兎にも角にも、小牧城は
信長が“一から作った初めての城”ながら大手から一直線に進む登城路など後の安土城(滋賀県近江八幡市)の
築城と酷似している事から、信長流の築城構想がこの時点で確立していた事を物語っている。一般的に、石垣を
使った城の築城は安土城からだと言われるが、既に小牧築城から(部分的とは言え)使用されており、城郭史に
一石を投じる存在がこの城なのである。その一方、小牧城ではまだ未完成だと言えた家臣集約政策は安土城で
達成され、それが近世城郭としての完成形と見られるようになっており申す。ちなみに、小牧城を築くにあたって
間々観音は小牧城下へと移され、現在に至っている。この間々観音に由来してか、築城当初の城は「火車輪城」
(火車山=飛車山か)と名付けられていた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この小牧城を足掛りとし、1565年(永禄9年)に美濃東部、1566年(永禄10年)墨俣(すのまた、大垣市飛地)周辺、
1567年(永禄11年)に美濃西部を次々に制圧、遂に美濃斎藤氏の稲葉山城を落城させる。美濃を征服した信長は
稲葉山城を改名した岐阜城へ移り、上洛へ向けた新たな戦いを展開するのであった。この結果、小牧城は役割を
終え、廃城になったと言われている。僅か4年の短命な城だった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

大規模工事で家康の陣城へ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
本能寺の変で信長が斃れ、更に賤ヶ岳合戦で柴田修理亮勝家が敗死すると、天下の形勢は2人の大名の動向に
左右されるようになる。1人は信長の後継者を自認する羽柴筑前守秀吉、もう1人は東海一の弓取り・徳川三河守
家康である。両者は水面下で様々な駆け引きを行ってきたが、1584年(天正12年)3月、とうとう武力衝突に発展。
これが世に名高い「小牧・長久手の合戦」で、8万の大軍勢を率いる秀吉に対し、徳川家康・織田信雄(のぶかつ)
連合軍が布陣した場所がこの小牧城跡だった。家康は廃城となっていた山に手を加え、山中の経路を屈曲化させ
敵軍の侵入を阻む防御構造とした他、城の外縁部にも大掛かりな堀を掘削し大規模陣地の体を成すと共に、更に
広域展開する徳川軍の他陣地との連絡線を結接させ、小牧城を中核とした多面防御体制を作り上げた。それ故、
数で勝る秀吉は迂闊に手が出せなかったが、地の利を活かす家康も総動員体制でギリギリの軍事運用だった為
どちらもがそれ以上動けない膠着戦となった。結果、秀吉の別働隊が三河侵入を試みるもこれを家康が撃退した
長久手合戦を除いて戦闘らしい戦闘は行なわれず、11月にとうとう講和となったのでござる。■■■■■■■■
その後、小牧山は歴史の表舞台に立つことはなく、江戸時代には「神君御勝利御開運の御陣跡」として尾張藩が
入山禁止の措置を取ったため城の跡は極めて良好に保存されてきた。山は小牧村の庄屋を代々務めた江崎家が
管理し、明治維新後は政府が所有した後に愛知県のものとなった。しかし1889年(明治22年)再び尾張徳川家が
私有地とする。この間、一時的に公園化した事もあったが大きな手は加えられず、1927年(昭和2年)10月26日に
国の史跡に指定されている。1930年(昭和5年)に小牧町(当時)へと寄付されて以後も手付かずのまま。ただ、
太平洋戦争中には軍が防空監視廠として利用し、戦後には米軍が接収。以後、戦後混乱期から高度成長期に
かけて軍事施設や公共施設、学校等が建てられて徐々に山の姿が改変されていく危機を迎えた。そして1967年
(昭和42年)には地元実業家が私財を投じて山頂に天守風の資料館を建築、翌1968年(昭和43年)4月1日から
「小牧市歴史館」として一般公開されている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
だが1982年(昭和57年)尾張徳川家から小牧町へ城山が寄付された時の覚書が再確認され、城跡の現状変更を
認めない旨が問題視された。これ以上の遺構破壊を防ぎ、また改変された部分の復旧を行うべく、以後は城跡を
史跡として整備するよう基本計画が策定される。特に平成以降は山中随所で、また城下町でも発掘調査を展開。
信長由来の城の姿、城下町構築事業の検証が進められてきている。こうした発掘調査によって、小牧山の中では
毎年のように新発見が繰り返されており、近年の城郭研究において“最もアツい城”の1つに挙げられている。
2017年(平成29年)4月6日には財団法人日本城郭協会から続日本百名城にも選出され申した。山麓部も含めて
小牧山全域は史跡公園化され、そこかしこに土塁や切岸、石垣などが見受けられる。何より、登山する道すらも
「信長の大手道」の遺構そのもの。ここではあらゆるものが文化財であると噛み締めて見学すべし。■■■■■



現存する遺構

井戸跡・堀・石垣・土塁・郭群
城域内は国指定史跡




松平氏遺跡・中垣内古屋敷  三河山中城・姫ヶ城・勝鬘寺・西大平藩陣屋