尾張守護所として発展■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1405年(応永12年)頃、尾張(他に遠江・越前)守護にして室町幕府管領(政務を統括する将軍補佐役)であった斯波左兵衛督義重
(しばよししげ)が築城。また、1375年(天授元年/永和元年)築城説もある。義重は下津(おりづ)城(愛知県稲沢市)を尾張守護所と
しており、清洲城はその別郭(出城)として築かれたそうだが、1478年(文明10年)尾張守護代である織田家との攻防によって下津
城が焼亡、守護所が清洲城となった事でここが尾張の中心地として発展していくようになった。とは言え、応仁の乱によって守護の
権力は次第に衰退、在地で統治実務を行う守護代の勢力が伸長する事となり、尾張では織田家の実効支配が浸透していく。尾張
上四郡には岩倉織田家が守護代、下四郡では清須織田家が守護代として統治するようになり、清洲城は斯波家の城であると共に
実質的に清須織田家(織田大和守家)が城主として君臨していったのである。応仁の乱の最中には、尾張では西軍方の守護・斯波
左兵衛佐義廉(よしかど)が下津城を本拠とした事に対し、東軍に属する織田大和守敏定(としさだ、織田大和守家当主)が攻めて
焼失させ(これを1476年(文明8年)とする説もある)、大乱が終結してもなお清洲城で抵抗を続ける義廉方勢力を1478年10月12日
敏定が駆逐して城を奪取した経緯がある。同年12月、勢力を盛り返した義廉方の織田伊勢守敏広(としひろ、岩倉織田家当主)が
同盟軍を募って清洲城を攻めるもこれは果たせず和議に至り、以後は敏定の後継が清洲城を本拠としていくのでござる。■■■■
戦国時代、斯波家は遠江守護の座をかけて駿河の今川氏と係争を繰り返した一方、尾張国内の主導権争いで岩倉織田家・清須
織田家と三つ巴の抗争を繰り返した。その結果、三者ともが勢力を減退させて、最終的には織田家の傍流であった勝幡(しょばた)
織田家が経済力を背景にして急成長していく訳だ。清須奉行としての役職を得た織田弾正忠信秀(のぶひで、勝幡織田家当主)が
一時期清洲城に在住しており、これも清洲城の発展拡大に寄与している。ところが弱体化した清須織田家の当主・織田大和守信友
(のぶとも)は政治的主導権を得ようとして邪魔者となった当時の守護・斯波左兵衛佐義統(よしむね)を守護館で斬殺し、下剋上を
図ろうとする。1554年(天文23年)7月12日の事だ。が、義統の息子・左兵衛佐義銀(よしかね)は落ち延び、信秀の息子にして勝幡
織田家を継いでいた上総介信長に庇護を求めた。これにより“謀反人を討伐する”大義名分を得た信長は信友を攻めている。■■
翌1555年(天文24年)、信長の叔父・織田豊前守信光(のぶみつ)は信友に誘い出された風を装って清洲城内に潜入、4月20日に
信友を討ち取った。叔父の援けにより信長は清洲城を手中にし、守護家の敵討ち達成という名声も獲得。すなわち、尾張が信長に
よって統一される素地が出来上がった訳である。以後、岩倉織田家などの諸家は信長によって追討され、斯波家までもが信長へと
従属する体制になっていく。信長は従前の居城であった那古野城(現在の名古屋城、愛知県名古屋市中区)から清洲城へと移り、
1560年(永禄3年)5月19日の桶狭間合戦も、織田軍はこの城から出陣して今川治部大輔義元を討ち取っている。また、義元没後に
三河で独立した徳川家康とも生涯に渡る同盟を結ぶが、この同盟の名も「清洲同盟」と呼ばれ、名実共に信長の尾張時代における
中心地となったのが、ここ清洲城であった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
清洲会議、そして秀吉の時代■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
その信長は1563年(永禄6年)美濃攻略の為に小牧山城(愛知県小牧市)へ居城を移す。これにより清洲城は織田家番城となるが、
1582年(天正10年)6月2日、本能寺の変が起き信長が斃れると、後継を議論する重臣会議が6月27日に清洲城で行われた。有名な
清洲会議である。尾張国は信長の2男・左近衛権中将信雄(のぶかつ)のものとなり、清洲城も信雄が城主となる。信長時代に清洲
城下では家臣団を掌握する為の屋敷配置が試みられていたと見る向きもあるが、信雄が城主となった事で城の大改修が行われ、
1586年(天正14年)大天守・小天守や書院の造営、2重の堀の掘削などが為されたと言う。清洲城の最終的な形態が完成したのは
この頃だろう。信雄が清洲城の改造を行ったのはその前年・1585年(天正13年)の11月、数度に渡り起きた大地震(天正大地震)に
よる為で、それまでの居城であった長島城(三重県桑名市)が壊滅的損害を受けた事が発端になった。清洲城でも液状化現象など
大きな被害を受けた痕跡が確認されているが、信雄は長島城を棄て清洲城を大改修する事で支配力を高めようとしたのだろう。■
さりとて、天下の形勢は豊臣秀吉によって掌握され、1590年(天正18年)全国統一が成る。この折に信雄は秀吉から東海地方への
国替えを命じられたが、旧領を離れる事を嫌がった信雄は却って秀吉の怒りを買い、7月に改易されてしまう。流罪となった信雄に
代わり秀吉の甥・豊臣右近衛権中将秀次へ尾張が与えられ、清洲城も秀次の居城となった。秀次は秀吉後継者として関白にまで
登り詰めるが、秀吉に実子・秀頼が産まれた事で逆に疎まれ、遂に1595年(文禄4年)7月15日切腹処分となる。その為、尾張清洲
24万石は秀吉子飼いの将・福島左衛門大夫正則に与えられた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、秀吉の没後は天下の主導権を争い徳川家康と石田治部少輔三成が対立。三成と犬猿の仲であった正則は必然的に家康へ
与するようになった。関ヶ原戦役に際し、小山軍議で東国から反転攻勢に出た東軍は東海道沿いの諸城を家康に供出して軍勢の
前進を行ったが、その中で最前線となったのが清洲城である。福島正則ほか東軍諸将は江戸城(東京都千代田区)で戦略を練る
徳川家康の命を待ちつつ西軍方の出方を探り、1600年(慶長5年)8月22日に岐阜城(岐阜県岐阜市)攻略の軍を清洲から発する。
翌23日に岐阜城は陥落し、また犬山城(愛知県犬山市)に対する降伏勧告を行いつつ大垣城(岐阜県大垣市)への攻撃に転進。
こうした前線展開が決戦場を関ヶ原に決定付けていくのだが、清洲城が作戦根拠地として重要な役割を果たしていた訳だ。■■
名古屋へ「町ごと引っ越し」■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
果たして関ヶ原本戦にて家康が大勝利を収め、1601年(慶長6年)3月に福島正則は安芸国広島(広島県広島市)49万8000石へと
大幅な加増転封を受けた。それに代わって清洲城主となったのは松平下野守忠吉(ただよし)、徳川家康の4男である。前任地は
武蔵国忍(おし、埼玉県行田市)10万石だったが、清洲での石高は52万石という大激増の所領を与えられた。これは忠吉が関ヶ原
本戦において一番槍を挙げた事によるものだが、反面忠吉はこの戦いで大きな傷を負っており、1607年(慶長12年)3月5日にその
傷を悪化させた病で亡くなってしまう。忠吉には継嗣が無く、その家系が断絶する事を憂いた家康は自身の9男(忠吉の弟)である
五郎太丸を4月26日に新たな清洲城主に任じている。この五郎太が長じて右兵衛督義直(よしなお)、御三家筆頭・尾張徳川家の
祖になるが、当時はまだ数え年で8歳。実父・家康の手元に置かれ駿府城(静岡県静岡市葵区)に在住していた。義直が国元へと
入るのはこの後9年先の事になる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところで家康は義直に尾張国を与える一方、川沿いに立地する清洲の町は洪水被害に遭いやすい点を憂慮して、新たな府城の
構築を企図する。那古野台地の北端微高地、廃城となっていたかつての那古野城跡地が新城候補地とされ、全国の大名を動員
して行う工事「天下普請」でこの新城・名古屋城が築城されていく。名古屋城の完成する1610年(慶長15年)に合わせて清洲城は
廃城となり、清洲城の天守が名古屋城へ移築されたのみならず、清洲の城下町ごと名古屋城下へと引越しをする「清洲越し」まで
行われた。斯くして200年の尾張首府は全く廃絶する事になり、それに代わって名古屋では“尾張名古屋は城で持つ”と云われる
までの繁栄を謳歌するようになった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
地下に眠る当時の遺構■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
JR東海道本線と東海道新幹線が五条川を渡る地点、川の北西岸がかつての清洲城主郭跡。北東→南西に向かって流れる川に
沿う形で、概ね五条橋から線路までの間が本丸、線路から清洲橋までの間に副郭がいくつか並ぶ連郭式の縄張り。これらを囲い
川の西側一帯に外郭が広がっていたと考えられている。とは言え、現在では川の「東岸」に望楼型の模擬天守が建てられていて
すっかりそちらが清洲城跡と思われてしまっているが、元来は模擬天守の建つ辺りは最外郭と言う感じで、家臣団の屋敷地として
使われていたようだ。もっとも、大きく見ればそちらも城内という事になるし、東岸の曲輪も大きく2重の土塁で仕切られていたため
広大な敷地を用意していた訳である。ともあれ、本来の主郭部はやはり川の西岸なので、天守を写した冒頭の写真の撮影位置が
本丸側で、外郭に向かってレンズを向けた構図という事になろう。城の中心を川が縦貫し、それが天然の濠となっていたのだから
防御に適していた土地柄だ。舟運を使って伊勢湾へも行き来し、また津島街道・熱田街道・那古野街道・小牧街道など尾張各所を
結ぶ街道が集約する結節点となっていた清洲。周囲に広がる平野が尾張国の中心となる城下町を形成するのにもうってつけで、
往時は繁栄を極めていたようだが、反面、五条川の流れが洪水を引き起こし、また戦国末期の総力戦体制の時代になると人員や
金に物を言わせる水攻めの対象となり得る危険性があったので、名古屋への遷都が行われた訳だ。■■■■■■■■■■■■
さて、現在の清須市を象徴する模擬天守は郷土資料館として使われており、1989年(平成元年)に開館したもの。当時の清洲町が
町制100周年を記念して建てたものだが、往時の清洲城にどのような天守が建っていたのかは不明なので、完全に史実と離れた
模擬天守だ。一方、旧本丸側にある清洲古城跡公園には河川改修工事時に出てきた石垣遺構が模式展示されている。どちらかと
言えば、内部の構造が目の当たりに出来るこの石垣展示の方が貴重なのかも?いやいや、装飾に富んだ模擬天守も美麗だがw
移築された遺構として最も有名なのは名古屋城の西北隅櫓だろう。清洲城天守(または小天守)の部材を再利用したもので、通称
清洲櫓というのも納得だろう。この清洲櫓は1930年(昭和5年)12月11日に国指定重要文化財となっている。他にも城門が残され、
愛知県名古屋市東区にある曹洞宗鷲嶺山含笑寺と真言宗東岳山長久寺の山門、愛知県尾張旭市の臨済宗萬安山良福寺山門、
愛知県稲沢市にある真言宗長沼山萬徳寺の山門など。良福寺の山門は1986年(昭和61年)2月10日に尾張旭市の有形文化財に
指定されている。また、愛知県愛西市にある大江家の薬医門も清洲城門を移築したものだとか。清洲越しで移転した城郭の遺構、
もしかしたら他にもあるのかも?■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
なお、「清洲」「清須」他にも「清州」と書かれる「きよす」の地名だが、概ね室町時代まで「清須」が使われ、戦国期からは「清洲」と
記されるのが一般的らしい。現代では町制時代の「西春日井郡清洲町」は「清洲」だったが、2005年(平成17年)7月7日の市町村
合併で出来た市名は「清須市」となり、しかし市内の字名は清洲町時代のままの地名を使っている為「清須市清洲」という混在が
生じている。ちなみに、模擬天守が建つ一帯(外郭部)は「清須市朝日城屋敷」に当たるが、清洲城址の主郭部が史跡指定されて
いないのに対し、朝日地内などは「清洲城下町遺跡」の名で市の埋蔵遺跡として認定されており、ここでは茶碗や陶磁器、瓦など
様々な遺物が検出されてござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
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