尾張国 犬山城

犬山城天守

 所在地:愛知県犬山市大字犬山字北古券

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★☆
★★★☆



大河を背にした国境の城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
別名、白帝(はくてい)城と呼ばれる平山城。尾張と美濃の境界線、木曽川の南岸側にある標高85.3mの小山を利用した城。
この地点における木曽川の河畔は標高40mなので、比高差45mという事になろう。そもそもの起源は、1469年(文明元年)に
織田伊勢守敏広(としひろ、岩倉織田氏(織田伊勢守家)の始祖)の弟・織田遠江守広近(ひろちか)の手で砦を築いたのが
始まりだとか。この砦は乾山の砦と呼ばれ、その「乾山」が「犬山」に転化したのかと。時代は応仁・文明の乱の真っ最中で
尾張は守護・斯波氏が守護代に織田氏を任じ、この織田一族が清須織田氏(織田大和守家)と岩倉織田氏に大きく2分され
更に諸家が分流するという状況にあった。そのため、尾張国内では東軍・西軍に分かれ各派が対立。岩倉織田氏は西軍に
属したが、幕府(足利将軍家)は東軍という形勢にある中では各所からの侵攻に備える必要があり、この砦が築かれたので
ござろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
11年にも及ぶ大乱の終結後、結果として幕府の統治力は弱体化し各地の勢力が独立割拠するようになる。16世紀になると
尾張国では斯波氏の権勢は有名無実化。更に、清須織田氏・岩倉織田氏に加えて新興勢力である勝幡(しょばた)織田氏
(織田弾正忠家)が台頭してきた。1537年(天文6年)勝幡織田氏当主・織田弾正忠信秀の弟で木ノ下城(犬山市内)主だった
与次郎信康が犬山城を築城、これがこの城の創始とされている。但し、この時に築かれたのは現在の本丸がある位置から
300m南西寄りの三光寺山にあったとみられており、現在の犬山丸の内緑地にあたる。後に乾山の砦まで城域が拡大され
そちらが本丸となり、三光寺山は三ノ丸として犬山城を構成する事になる訳だ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、築城者である織田弾正左衛門信康は1547年(天文16年)に戦死すると(信康の死没年には諸説あり)、その跡を子の
十郎左衛門信清が継ぎ城主となったが、この下野守信清は信秀の後継者・上総介信長と対立。故に1564年(永禄7年)5月
犬山城は信長軍に攻め落とされ、城主の信清は甲斐国へと逃れたと言う。この後、しばらく犬山城の動向は不明瞭である。
1570年(元亀元年)に1万貫で池田勝三郎恒興(つねおき)が城主となり、また1581年(天正9年)11月24日には織田源三郎
勝長が父・信長から犬山城を与えられたと「信長公記(しんちょうこうき、織田信長を記録した史書)」にあるが、その程度。
破竹の勢いで天下統一に邁進する織田信長の“御膝元”にある尾張の城は、家中で城主の座が巡っていたと言う感じか?

天下人直接対決の前哨戦■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
本能寺の変後は信長2男・織田左近衛権中将信雄(のぶかつ)の所領に組み込まれる。しかし信長の没後、天下の覇権は
織田家一門ではなく家臣であった羽柴筑前守秀吉の手に握られていく。賤ヶ岳の合戦後、いよいよ秀吉の権勢が強まると
我慢ならなくなった信雄は羽柴家と険悪な関係になり、秀吉に通じる3人の家老を斬り捨てた。事実上の宣戦布告である。
対する秀吉方は、信雄配下の中川勘右衛門定成が城主となっていた犬山城を1584年(天正12年)3月13日に池田恒興が
奪取した。落城した犬山城は秀吉の本陣となり、小牧・長久手の戦い(秀吉対信雄・徳川家康の戦い)に突入していく訳だ。
結局、合戦後も犬山城は秀吉方が占拠を続け1587年(天正15年)ようやく信雄に返還されるが、既に天下の形勢は秀吉が
掌握しており、全国統一に伴い1590年(天正18年)7月に信雄は改易される。尾張は秀吉の甥・権中納言豊臣秀次が領有、
犬山城は秀次の実父である三好武蔵守吉房(よしふさ)が10万石で城主(城代とも)になった。翌1591年(天正19年)吉房は
犬山城主の座を次子(秀次の弟)・豊臣左近衛権少将秀勝と交替したとも言われる。■■■■■■■■■■■■■■■■
しかし秀吉に実子・秀頼が誕生し後継者と目されていた秀次が邪魔者になると1595年(文禄4年)7月15日に切腹させられ
秀次縁者も次々粛清される事となる。父の吉房は流罪、弟の秀勝は既に亡く、犬山城は秀吉家臣・石川備前守光吉へと
与えられた。伝承では美濃金山(かねやま)城(岐阜県可児市)の天守・櫓・長屋などを光吉が犬山城へ移築し改修したと
言う「金山越」が信じられてきたが、犬山城天守を1961年(昭和36年)に解体修理した際、その痕跡が全く無かったために
現在では、この説は否定されている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

尾張藩附家老の城に■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1600年(慶長5年)の関ヶ原戦役に於いては、近隣の岐阜城(岐阜県岐阜市)・大垣城(岐阜県大垣市)などと共に犬山城も
西軍の城として最前線を構成したが、関ヶ原本戦での西軍大敗に際して城は放棄された。その為、戦後は小笠原和泉守
吉次が城主に就任。尾張国は1601年(慶長6年)に徳川家康の4男・松平下野守忠吉(ただよし)が52万石で領有しており、
吉次はその附家老として犬山城主になったものだ。吉次は犬山城の近世化改修を行ったようで、移転説も取り沙汰される
天守が現在地で確定したのはこの頃の事。1607年(慶長12年)3月5日、忠吉が病死したため尾張領は徳川右兵衛督義直
(家康10男、忠吉の弟)が継承し、それに伴い吉次は下総国佐倉(千葉県佐倉市)2万2000石へと移され、犬山には義直の
附家老・平岩主計頭親吉(ひらいわちかよし)が封じられる。その石高は12万3000石であった。しかし、1611年(慶長16年)
12月30日に親吉は病没し、平岩家は無嗣断絶になった(甥の平岩吉範が1617年(元和3年)まで統治したとの説もある)。
それに代わって1617年から成瀬隼人正正成(なるせまさなり)が義直の新たな附家老になり、3万石で犬山の城主とされて
以後は明治維新まで成瀬家の城として代々受け継がれた。もっとも、小笠原・平岩・成瀬の各家はいずれも尾張徳川家の
附家老(つまり陪臣)であるため、犬山の城を預かる者は“城主”であるが“大名”ではない。これに関して、成瀬家は江戸
時代を通じて幕府に独立大名への昇格を願い出たが、幕藩体制下でそれが叶う事は無かった。■■■■■■■■■■
成瀬正成以後、正虎(まさとら)―正親(まさちか)―正幸(まさゆき)―正泰(まさもと)―正典(まさのり)―正壽(まさなが)
正住(まさずみ)―正肥(まさみつ)と続いて明治維新を迎える。官位はいずれも隼人正だ。1659年(万治2年)に5000石の
加増を受けて、成瀬家の石高は3万5000石となっている。幕末期、尾張藩は早い段階から新政府側に与しており、正肥は
1868年(明治元年)1月5日に幕府から二条城(京都府京都市中京区)を接収する働きを見せた。その功で同月24日、幕府
時代には認められなかった独立が新政府から認められ、晴れて成瀬家は犬山藩主、犬山城は犬山藩庁となるのだった。
だが1869年(明治2年)6月20日、版籍奉還で成瀬正肥は犬山知藩事に。更に1871年(明治4年)7月14日に廃藩置県となり
正肥は知藩事の座を失い、犬山城も廃城対象となった。この時、犬山藩は犬山県になるが直後の11月22日に名古屋県と
合併、これが後に愛知県へと再編されるのである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

21世紀まで続いた「個人所有の城」■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
太政官が1873年(明治6年)1月14日に発したいわゆる「廃城令」により、犬山城は廃城処分の道を辿る。既に明治初年の
時点で松ノ丸にあった本丸門が浄土真宗古塚山浄蓮寺(愛知県一宮市)へ移築されており、廃城を機に殆んどの建物で
払下げや取壊しが行われ、結果として現在までそのまま残る建物は天守及び付櫓のみだ。公有資産たる城郭は城主の
手を離れ政府が所管した事によって荒廃を極めた訳である。そして残された天守も、1891年(明治24年)10月28日早朝に
発生した濃尾地震によって東南付櫓部分が大破してしまう。天守の処分に苦慮した愛知県(当時の管理者)は、破損した
建物の修理を条件に、旧城主である成瀬正肥へ城を譲渡するという方法を採った。こうして成瀬家は1895年(明治28年)
再び城の主に返り咲き、以後21世紀に至るまで犬山城は“全国唯一の個人所有城郭”として稀有な存在になっていった。
正肥の後、正雄―正勝―正俊と城主の座は受け継がれてござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、その天守は成瀬家による修理後に1935年(昭和10年)5月13日、旧国宝と指定された。これは当時の国宝保存法に
基づく指定で、戦後は文化財保護法が施行されたために改めて1952年(昭和27年)3月29日に国宝となっている。1959年
(昭和34年)9月27日には伊勢湾台風で被害を受けるが、1961年(昭和36年)から1965年(昭和40年)にかけて解体修理が
行われ、現在に至っている(この他、数度の部分修理や耐震補強工事あり)。一方、長く成瀬家による個人所有を続けて
きた犬山城であるが、国宝に指定されたので減免や優遇措置があるとは言え莫大な税金や修理費用の捻出に苦慮し、
成瀬家13代目城主となる成瀬淳子(じゅんこ)女史への継承に合わせて2004年(平成16年)4月1日から財団法人犬山城
白帝文庫の所有に変更された。これを以って個人所有の歴史に終止符を打ったが、この法人(現在は公益財団法人)の
理事長が淳子氏(12代目・正俊氏の長女)であり、今なお犬山城と成瀬家の関係は深いものである。■■■■■■■■

国宝天守が従える縄張り■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
木曽川の南岸にそびえる天守からは木曽山脈・伊吹山地・濃尾平野が望め、白壁と下見板貼の外観は“白帝城”の名に
相応しい質実剛健な雰囲気を醸し出している。この国宝天守を有すのが本丸、乾山の最北端部にして最高地点である。
川を背(北側)にしている為、必然的に城外への経路は南向きという事になろう。本丸の南端中央部に、現在は模擬門が
建っており、そこから真っ直ぐに南への道が開けている。これが大手道だ。逆に見れば、城外から本丸へ至るには三ノ丸
(外郭)より黒門(大手門)を通過して大手道の坂道を登る訳だが、大手道の右側(東側)には桐ノ丸、その上段に杉ノ丸が
並び、道の左側(西側)には樅ノ丸が配置され、大手道を左右から挟み込む縄張となっている。この大手道の坂を登ると、
一見、何の事は無い緩やかな坂道なのだが、実際に登っていくと地味に堪える傾斜だ。こんな坂を登りつつ、左右両面の
曲輪から挟み撃ちに遭うとなると、なかなかに険しい道のりだと感じられるのである。城内の要所要所には櫓が設置され
(特に大手道への監視箇所)敵の侵入に備えた構造。犬山城は「さほど堅固な城では無い」と評される事もあるが、実際は
地の利に適った、城兵を配置するのに相応の縄張りとなっていた様子が“実感”できる城であろう。■■■■■■■■■■
国宝天守の構造は3重4階+地下2階の本瓦葺望楼型、建物高19mに野面積み石垣の天守台5mが加わる。南面・西面に
附櫓があって、その全体が国宝。1階は納戸の間、2階は武具の間、3階は破風の間、4階は高欄の間とされていて、通常
天守は平時に用いない“巨大な空き家”のような状態にあるのだが、犬山城では1階に畳敷の“上段の間”があり、城主が
入渠する事態を想定した作りだ。また、高欄の間には絨毯が敷かれているのだが、この絨毯は成瀬正壽が城主の時代に
オランダ商館長から入手し天守に置いたと言う故事を再現したもので、やはり犬山城天守は「無人の施設」ではなく、人が
立ち入る事を意識していた様子が垣間見える。半面、穴倉の地階は暗く、また急峻な階段が狭く螺旋を描いた構造なので
戦闘時に「最後の砦」となり得る堅固さを備えていた。長らく犬山城天守は“現存天守の中で最古のもの”と称された半面
昭和の解体修理における検証や古文書の記録から「元々は2重の大櫓に、後から望楼部を増築したものだ」とも言われて
物議を醸していたが、2019年(令和元年)から3年をかけて年輪年代法(建築材の年輪からその木の生育年代を特定する
方法)を用いて再検証した所、母屋・望楼ともに同時期の創建だと結論付けられた。それによると天守の構築は天正年間
(1573年〜1592年)の末期、恐らく1585年(天正13年)〜1590年の間と見られており申す。■■■■■■■■■■■■■

未来へ残すべき文化財■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
そんな天守に2017年(平成29年)7月12日、落雷があって鯱が損壊。これは2018年(平成30年)2月26日に修理が完了し、
その13日前の2月13日、城跡が国の史跡にも指定された。もちろん、2006年(平成18年)4月6日に日本城郭協会から日本
百名城の1つに選ばれており、近年は城と城下町を一体化した観光振興も盛んになっている。愛知県と言えば金の鯱鉾を
擁する名古屋城(愛知県名古屋市中区)があまりにも有名だが、現存天守の犬山城も負けてはいない。何より、木曽川と
国宝天守の取り合わせは美観そのもの。犬山市内には他にも観光名所が沢山あって、色々と楽しめる地域でもあるので
城郭愛好家のみならず、一般的にも見学必須の城であろう。発掘によって新たな堀跡なども発見されており、これからも
何かと注目の城でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
移築現存する建物は先に記した浄蓮寺山門の他、愛知県一宮市にある浄土真宗寿命山運善寺の山門も犬山城からの
移築門だと伝承される。移築後、濃尾地震による修理でかなり改変されたものの1993年(平成5年)の再修理にて原型に
近い形に戻されたそうな。更に犬山市内にある臨済宗青龍山瑞泉寺山門は犬山城の内田御門(搦手門)の移築。元々、
美濃金山城大手門であったものを犬山城に移し、廃城後に再移築したものだとか。お次は、愛知県丹羽郡扶桑町にある
浄土宗解脱山専修院の東門。二ノ丸矢来門だった高麗門形式の門である。加えて愛知県丹羽郡大口町、臨済宗大龍山
徳林寺には犬山城の第一黒門が。瑞泉寺山門・専修院東門・徳林寺山門はいずれも1876年(明治9年)犬山城から移転
されたものである。また、徳林寺の庫裏も犬山城の侍所建築を移したものだそうな。この他、二ノ門が犬山市内個人宅に
あって、それ以外にも市内各所で屏風櫓や松ノ丸裏門の古材も転用されているとか。浄蓮寺山門と運善寺山門は1969年
(昭和44年)9月3日に一宮市の文化財、専修院東門は1974年(昭和49年)4月5日に扶桑町文化財、徳林寺山門は1986年
(昭和61年)1月16日に大口町の文化財に、それぞれ指定されている。移築建築の愛好家にとっても、犬山城の古建築は
選り取り見取りと言ったところであろう(笑)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
それにしても、全国各地にある模擬天守ってだいたいが犬山城天守の模倣品。あんまりにも模擬天守で御馴染み過ぎて
本家の国宝天守が逆に有難味を薄れさせているような…これってどうなの?(苦笑)■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

天守《国宝》・井戸跡・堀・石垣・土塁・郭群等
城域内は国指定史跡

移築された遺構として
浄蓮寺山門(松ノ丸本丸門)・運善寺山門(来歴不祥)《一宮市指定文化財》
専修院東門(二ノ丸矢来門)《扶桑町指定文化財》
徳林寺山門(第一黒門)《大口町指定文化財》
瑞泉寺山門(内田御門)・徳林寺庫裏(犬山城侍所)
市内個人宅門(二ノ門)・屏風櫓・松ノ丸裏門古材




名古屋(那古野)城  岡崎城