遠江国 天方城(天方新城)

天方新城跡 空堀

 所在地:静岡県周智郡森町向天方

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★☆■■
★☆■■■



現地の古豪、山内首藤氏の末裔・天方氏■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
周智郡森町にある「天方(あまがた)城」。在地の豪族・天方氏の城だが、従前この城は長く1つの城が使われ続けたと考えられて
いたものの、近年の研究で時代によって場所を移してきたと解明されてきている。ここで紹介するのは、その中でも「天方新城」と
されるものだ。但し、天方氏の歴史は新城だけで語れるものではないので、以下に時代編年を追いながら説明する。■■■■■
天方氏は遡ると山内首藤(やまのうちすどう)氏に行き当たるという。この山内首藤氏と言うのは、藤原秀郷の後裔を称する山内
首藤刑部丞俊通(としみち)を祖とし、平安末期〜鎌倉期を通じて派生していった一族。「山内」の名でも判る通り、後の江戸時代
高知城(高知県高知市)主となる山内氏もこの一族の中から輩出された…とも伝承される(諸説あり)のだが、そうした血縁のうち
山内三郎通秀(みちひで)が天方の地を得た事で改姓し天方豊後守通秀と名乗るようになる。これが天方氏の始まりだ。通秀が
天方に入ったのは14世紀後半の頃とされ、応永年間(1394年〜1427年)に天方城が築城されたと見る説がある。ただ、天方城の
築城者としては山内対馬守道美(どうび、下記・飯田城の項を参照)と考えるものも有力なので、あまり詳しい事は分からない。
いずれにせよ、この頃に築城された天方城は「新城」ではなく「天方本城」と呼ばれる城の方だったようで、その位置は今の森町
中心街から北に行った所、大鳥居(おおどりい)地区の中にあった。そこは東に吉川、西には三倉川が流れ、両川は城の南側で
合流している。2つの川が蛇行する地点はくびれた地形になっており、ちょうどその場所に標高153m、比高90m超を数える険峻な
山がそびえているという築城好地であった。この城を本拠に、天方氏は天方9ヶ村を支配し一帯に勢力を拡大する。通秀の後は
右衛門尉通良(みちよし)―民部少輔通泰(みちやす)―蔵人通員(みちかず)―山城守通季(みちすえ)と代を重ねた。■■■■
この通季の代と見られる1494年(明応3年)に、遠江攻略を目指す駿河の太守・今川上総介氏親(うじちか)は、伊勢新九郎盛時
(もりとき)を総大将とする軍を派遣、天方城はその支配下に入る。新九郎は後に関東で覇権を確立する北条早雲である。これに
対し1501年(文亀元年)の秋、遠江守護である斯波治部大輔義寛(しばよしひろ)が奪還の軍を発し、天方城は落城するも、更に
今川軍が取り返すという経緯を辿っていく。この戦いの後に、防備の強化を必要とした通季は天方本城の支城となる天方白山城
(森町内、城下地区)を築いた。また、通季は文化人としても名を残し、1524年(大永4年)と1526年(大永6年)の2回に及び上洛、
当代一流の歌人たる三条西実隆(さねたか)に和歌を習い、連歌の宴にも参加したそうだ。以後、天方氏は今川氏に従う路線を
継承して三河守通稙(みちたね)―山城守通興(みちおき)と続き申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

戦国争乱の中、天方新城を築く■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところが“海道一の弓取り”と称された今川治部大輔義元が桶狭間合戦で戦死した後、今川家は急激に衰退していく。遠江国は
三河から勢力を伸ばす徳川家康が切り取っていき、周辺の国人らも次々と家康へ靡いた。こうした渦中の1568年(永禄11年)頃
通興は新たな城として向天方の山中に新たな城を築く。これが天方新城だ。新城は標高249.5mを数える山の頂を啓開、麓との
比高は約200mを越える天険の山城であり、特に南側の眺望に優れていた。浜松城(静岡県浜松市中区)を本拠とし、南西から
迫るであろう徳川軍に即応できる城だと言えよう。天方本城では集落の奥にあり、敵を防ぐ楯にはなり得なかったと考えられる。
そう、通興は徳川に従わず以前と同じく今川家に服属する途を貫いていたのである。だが、当然ながら家康はそれを良しとせず
1569年(永禄12年)6月19日、この城への総攻撃を行った。徳川勢は榊原小平太康政・天野三郎兵衛康景・大久保新十郎忠隣と
いった歴戦の面々。対する通興も今川家中で名の知れた豪将、二ノ丸で激しい攻防戦が繰り広げられた。しかし多勢に無勢で
遂に城は落とされ、通興は徳川家への降伏を余儀なくされた。さりとて、簡単に寝返るのは納得できなかったのか通興は以後も
家康の下知に従わず、翌1570年(元亀元年)10月に再び天方軍は城に籠城し家康との対決姿勢を露にする。斯くして、再度の
徳川軍の攻撃が行われるに至り、この時は榊原康政や大須賀五郎左衛門尉康高(おおすがやすたか)らが攻略に当たって城を
落とした。2度の落城を経て、とうとう通興は徳川家臣として生きる道へ舵を切ったのだった。■■■■■■■■■■■■■■
とは言え、地方豪族の苦難はまだまだ続く。今川家が滅んだかと思えば、今度は甲斐の武田家が東海地方を侵食してくるのだ。
1572年(元亀3年)9月下旬、武田信玄は4万余の大軍を率いて天方城を包囲する。これに対し、天方通興は戦う事なく城を棄て
家康の下に逃亡した(或いは武田方に寝返ったとも)。信玄は天方城に配下武将・久野弾正忠宗政を入れて守らせたそうな。が
信玄は年明けに陣没する。武田軍の停滞を機敏に読み取った徳川方は反撃に転じ、信玄死去に先立つ1573年(天正元年)3月
渡辺半蔵守綱・半十郎政綱兄弟や平岩七之助親吉(ちかよし)・大久保忠隣らに命じ天方城奪還の攻略を行った。この攻撃に
耐えられず宗政は抵抗の挙句に逃亡、甲斐へ退いたそうだが、話によればこの後もう一度武田方が城を獲り戻し、それに対し
1574年(天正2年)3月に徳川軍が攻略を行い、またも徳川方の手に帰したとされている。同年4月、武田方に与していた犬居城
(静岡県浜松市天竜区)を家康が攻略しようとした際、大雨に行く手を阻まれ退却したのだが、その時に家康が逃げ込んだのが
ここ天方城であったと言われている。以後、天方通興が城を守った。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さてその後の天方氏であるが、通興の嫡男・豊後守通綱(みちつな)は徳川家の危機「築山殿事件」の際、家康長男・岡崎三郎
信康(のぶやす)の切腹介錯を行い、主家に刃を向けたという自責の念から高野山へ隠棲してしまう。よって、天方家の家督は
通興の外孫に当たる備前守通直(みちなお)が継ぐ事になり、以後は徳川将軍家の直臣として後世に血筋を繋いだ。その一方、
天方の城は戦国争乱の終焉を迎えた事で、恐らく通興が没した前後の時期(1596年(慶長元年)?)に廃城となったようである。

山中に美麗な遺構■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
森町の役場から北東へ2.5kmの地点、城ヶ平公園となっている一帯が天方新城の跡だ。上記の通り、麓からの比高は200mにも
なるのだが、公園になっているため車で山頂近くまで登る事が出来る。当然、駐車場も完備。ただ、そこまで登る道は非常に狭く
運転には細心の注意が必要である。特にすれ違いの余地については留意すべきでござろう。その駐車場となっているのが城の
二ノ丸跡で、そこから上段にあるのが主郭だ。主郭はほぼ方形、東西100m×南北60mの大きさ。曲輪の周囲をぐるりと土塁が
囲い、その下には横堀が巡る(写真)。主郭の南側は崖となっており、往時は大手口だったと見られるが現在は崩落箇所が多く
あまり近づくのは危険である。反対に北側には堀を隔てて二ノ丸が帯曲輪状に並び、その周囲にも横堀が回っている。城地が
公園化されているため敷地には遊具や展望台が置かれていてやや古城の風情に欠けるが、こうした曲輪や土塁・空堀などは
かなり良好に残されている。半面、曲輪内の削平は不完全で傾斜面が多く、また縄張そのものもさほど技巧的なものではない。
故に、「新城」とは言え単純に陣城ではないかと見る向きもある。築城の歴史を見ても、徳川軍の侵攻に備えて急造したものと
考えられなくはないのだ。他方、武田軍による接収以後も使われ続け、横堀を巡らす構造も“武田流築城術”の一端を垣間見る
ものと言えなくはないので、陣城ではなく安定化した恒久城郭とする説もある。いずれにせよ天方新城を用いて数々の戦いが
行われたのは間違いなく、この城は実戦城郭として歴史を紡いできた訳である。じっくり見学して、様々に考察すると面白い。
現状、城跡は森町の文化史跡として指定されている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群等
城域内は町指定史跡







遠江国 飯田館(飯田古城)

飯田館(飯田古城)跡 崇信寺

 所在地:静岡県周智郡森町飯田

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

■■■■
■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群等
城主3代の墓は町指定文化財




遠江国 飯田城(飯田本城)

遠江飯田城址

 所在地:静岡県周智郡森町飯田

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

★★★■■
★★☆■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群等
城域内は町指定史跡




山内氏の動向と築城遍歴■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
天方氏と同一、山内氏の城郭。「古城」・「本城(新城)」と記されるように、飯田館が古く、飯田城が新たな城郭という事になる。
山内氏の祖は刑部丞俊通と紹介したが、彼の妻・山内尼(やまのうちのあま)が源頼朝の乳母となった事で鎌倉幕府成立期に
御家人として取り立てられる機を得た。承久の乱後、戦功により山内首藤氏は備後国(現在の広島県東部)に所領を確保、この
系統が備後山内氏となっていく。更にその中から1281年(弘安4年)飯田庄上郷(天方)の地頭に任じられたのが山内道茂なる
人物で、この子孫である道弘―通秀が天方城(天方本城)を築くに至るとされている。その一方、1327年(嘉暦2年)飯田庄下郷
(飯田)で山内孫太郎入道道光(どうこう)と山内刑部阿闍梨道俊(どうしゅん)が打越田(うちこしだ)・飯田里(いいだり)・楠木里
(くすのきり)等の田を巡って相論に及んでいる記録があるため、既に鎌倉末期には山内氏が飯田周辺にも勢力を有していたと
考えられている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、飯田城の構築は応永年間(1394年〜1428年)の初期と言われ、江戸時代後期に掛川藩が編纂した地誌「掛川誌稿」では
「天方城に居た山内道美が、飯田城を築いて居を移し、天方城は彼の弟・山城守に守らせた。この山城守が天方氏になる」との
旨が記されている。そして飯田城主山内氏は対馬守道美の後、対馬守久通―大和守通泰(みちやす)と継がれていく。■■■■
一方で、1401年(応永8年)道美は「古城」の地に菩提寺となる崇信寺(そうしんじ)を開いたとされ、その起源を正しいとするなら
「新城」が築き直された事になる。ただ、応永初期に飯田館(古城)が築かれ、応永8年の段階で早くも新城に移ったというのは
少々無理があるような気もする。新城の構築は1545年(天文14年)通泰の手に拠るものとする説もあるのだが、この年は通泰が
崇信寺に寺領を寄進した年なので、何か話が錯綜しているのかもしれない。そもそも“山内対馬守道美”なる人物と、その弟で
天方氏を称したという“山城守”なる者が上記した天方城主歴代の中でどの人物に当てはまるのかも良く分からない。加えて、
鎌倉末期から山内氏一族が飯田の地に権益を有していたのだから、飯田館(の原形)は既に道美が入る前からあった可能性も
考えられるし、当初の崇信寺は小さな祠程度のもので「飯田館の中にあった」とも想像する事も出来るだろう。と言う訳で、古城と
新城の築城時期や経緯は一概に断ずることの出来ない状態なのではなかろうか。全ての説を取り入れるなら、応永年間初期に
道美が館に入り、1401年に城内鎮守となる寺を構え、1545年に通泰が新城を築き古城の地を完全に寺のものとした…となるが
そんな簡単に割り切れる話でもないのは筆者が一番良く分かってござる (^ ^;■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ともあれ、飯田山内氏も戦国期には今川家に従属し続けた。その為1569年6月の徳川軍侵攻によって飯田城も攻撃されており
天方通興が奮戦の後に降伏したのに対し、同じ日に山内通泰は榊原康政・大須賀康高らの猛攻撃を受け戦死したそうな。城が
玉砕する中で、通泰の庶子である伊織(いおり)こと重但(しげただ)だけは徳川の従士である梅村彦兵衛(うめむらひこべえ)に
匿われて三河国賀茂郡広瀬村(現在の愛知県豊田市)へ落ち延び、後に上野山村(同市)で土着し伝右衛門(でんうえもん)と
名乗って生き続けたと言う。伊織の子孫は現代まで続いているのだとか。斯くして落城した飯田城は廃城になったと言われるが
武田家との攻防戦を経た後に廃されたと見る向きもあり、築城の経緯だけでなく廃城の時期も良く分からない城である。■■■

必見、飯田本城址の遺構■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
飯田地区にある森町飯田郵便局から東北東へ約450mの位置にあるのが曹洞宗飯田山崇信寺、これが飯田館(飯田古城)の
跡である。崇信寺は今なお残っているのだ(写真)。その境内はほぼ方形の面積を有するが、主に西面の部分に土塁が残ると
言う。ただ、その一帯は墓地なのであまり立ち入るのは憚られる。当時この西面の土塁は崖に面して切り立ち、対する東側は
南北に細長い山塊が壁のように塞いでいる。つまり、崇信寺の敷地(飯田館跡地)は山の中腹に広がる平坦部を上手く利用し
造成したものと言えよう。平坦部は寺の北側で狭まり山上から麓まで一体化する斜面になって落ちていくので、必然的に館の
出入口は南側だけに絞られる訳だ。館の西を見れば眼下に信州街道が走り、その下には太田川も。信州街道を北へ行けば
天方を経て南信濃に通じるし(家康が犬居城攻略から天方城へ撤退したのはこの道筋)太田川を下れば福田(ふくで)の湊で
遠州灘に出られるという、水陸行路の結節点と言えるのが飯田・天方の地なのだ。ちなみに崇信寺の標高は海抜61m〜63m、
太田川の河畔は30m弱なので比高差30m以上を数える。また、崇信寺東側の山頂は標高88mである。■■■■■■■■■■
その崇信寺から西南西350m程の位置にある小丘陵が飯田城(飯田本城)跡。直近まで車で乗付ける事が出来るものの、寺の
前に駐車余地があり、そこから歩いて行っても差し支えない。崇信寺から南に延びる道を行けば本城へ辿り着ける。この丘は
東西100m×南北150mの細長い敷地を持ち、北端が山頂となり南へ向かい緩斜面が連なる。当然、高い位置から本曲輪上段
〜下段〜二ノ曲輪という具合に造成しているのだが、本曲輪は二ノ曲輪に向かう南面以外の西〜北〜東を土塁で囲み、ほぼ
方形の敷地を有している。この土塁が圧巻で、「土を盛って」築いていると言うよりは「地山を削り残して」堤を作っているのだ。
必然的に北側の土塁(地山の山頂地点)が城の最高所であり、標高は64m、ここは少し大きな敷地を占めていて物見曲輪跡で
あると考えられている。また、山頂から北西に向かって尾根がある為、そこにも物見台を置き2重の堀切で分断をかけている。
本曲輪内部は上段と下段に分かれ、井戸や小屋建築があったと考えられている。その下に切岸で隔てられた二ノ曲輪があり、
ここは南端に向かって先が窄まる三角形の形状となっていた。三角形の南西側を塞いで土塁があり、その西端部に大手口を
開く。そこから城外へ向かって大手の通路が伸びていくのだが、ここには「坂土橋虎口」との説明が付されている。あまり聞き
慣れない用語なのだが、現地を見れば…まぁ確かに「坂土橋虎口」である。要するに、虎口に入るには土橋を渡る必要があり
その土橋が急坂となって城外から城内に向かって登っていく、という構造。他の城でもありそうだが、思い返すとなかなか無い
特殊な虎口であろう。この虎口の外が「陣屋敷(鈴木彦兵衛屋敷)」とされ、平時の居館だったと想定される。■■■■■■■
城山の東西を挟んで谷間が入り込み、それらは湿地帯となっていた要害の地。特に東側の谷は“谷堀”と称され、当に城地を
主山塊から切り離すための濠と認識されていた証でござろう。勿論、現代では整地されていて湿地に足を取られるような事は
無いので御安心を。それどころか、近年では地元の方々が保存会を結成して綺麗に整備して下さっているので大変見やすく
有り難い。要所要所には看板が立てられ、初心者の方でも迷う事無く見学できよう。新城の方は1978年(昭和53年)4月1日に
森町の史跡に指定されている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■







遠江国 真田城

遠江真田城址

 所在地:静岡県周智郡森町一宮宮代西

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

★★■■■
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神官武将・一宮武藤氏■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
真田山城、一宮(一ノ宮)城とも。標高110m強ほどの小山を利用した山城。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
所在地に「一宮」とあるように、この地域には遠江国一宮の小国神社がある。中世、寺社勢力は朝廷・幕府や大名に抗する程の
権益や軍事力を有しており、逆に言えば武家政権と対立する事もしばしばあった。よって、大名は神社との友好関係を維持したり
支配下に置く必要もあったのである。そうした中で、鎌倉時代に当地には武藤五郎頼高(よりたか)が土着した。頼高は大宰少弐
(九州の外交機関、太宰府の統括を行う官職)・武藤小次郎資頼(すけより)の弟という名族で、遠江国の目代(国司の代理人)と
云う役職を得てこの地に入ったとされる。頼高以降、武藤氏は一宮周辺や国府のある見附(静岡県磐田市)等を支配下に置き、
時に少弐家(資頼の後裔)からの入嗣を迎えつつ、室町時代〜戦国期まで家を紡いできた。この過程において、武藤氏は一宮
小国神社の神職も兼ねるようになり、その権威は武家神主として隠然としたものが積み上げられたようである。■■■■■■■
戦国時代、遠江では今川家の支配が行われたものの、その衰退によって武田と徳川が争奪戦を繰り広げたというのは先般から
記した通りであるが、当時の武藤家当主・武藤刑部丞氏定(うじさだ)は今川家に従属したものの、武田・徳川の侵攻に於いては
武田に与した。その為、1568年に氏定が「北曲輪を構ふるなり」と江戸中期の地誌書「遠江国風土記伝」にあり、これが真田城の
創始であると考えられている。この城を武田軍に提供した後、氏定は徳川方の攻勢を受け一時甲斐へと逃れたものの1572年の
武田軍遠州遠征に従って当地へ戻ったとされ、地の利に聡い彼が先導する事で武田勢の遠江全域への展開が容易になったと
言われている。ところが程なく信玄が死去、武田家は劣勢となり徳川家に圧迫されるようになった。故に氏定は一宮を退去して、
当時武田軍の橋頭保となっていた高天神城(静岡県掛川市)の籠城戦に加わったが、その落城に殉じて戦死した。彼の子孫は
佐野郡(さやぐん)亀ノ甲村(静岡県掛川市内)に土着し帰農したそうな。徳川家が遠州を制圧するに及び、真田城も廃されたと
見られてござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城山は新東名高速道路の遠州森町PAと小国神社の丁度中間点あたりにある。南北に延びる静岡県道280号線が一宮川を渡る
「禊橋」の南230mほどの地点、県道沿いに写真の城址碑があり、そこから川を渡って入っていった山が城跡だ。山頂に本曲輪を
置き、西側の緩斜面を6段の段曲輪に造成し多重防御の構えとした縄張り。山頂部からは北と南にも尾根が伸びるが、北側は
大掛かりな堀切で切断し、南側へは本曲輪に沿う横堀を何重にも巡らせて遮断するようになっている。西の段曲輪群と南尾根の
間にある谷間の中腹には湧水点があり、これが水の手となっていたようだ。ただし、全体的に城跡は竹藪や雑木林に覆われて、
立ち入るのには勇気がいる。史跡整備されている訳でも無い上、駐車場も無いので県道の路肩に車を停めるしかない。さらには
小国神社という有名観光地が近いので、時季によっては渋滞が激しくなるそうだ。初詣や七五三の頃は路駐するのも無理そう。
来訪するのに色々と悩む城跡…という事であろうか?一応、森町の史跡にはなっているそうである。■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

湧水池・堀・土塁・郭群等
城域内は町指定史跡








遠江国 社山城

社山城址

 所在地:静岡県磐田市社山
 (旧 静岡県磐田郡豊岡村社山)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

★★☆■■
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比高差100mの山城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
磐田市北部、平成の市町村大合併をするまでは豊岡村だった地域に社山(やしろやま)城がある。磐田市立豊岡南小学校の東
550mの位置にある山が城山。その山頂が主郭、そこから東に二ノ郭が接続する縄張。この他、いくつかの支尾根が主曲輪群に
付属するが、それらには堀切が掘られ侵入経路を阻止するようになっている。主郭は南北に長く、二ノ郭は東西に長い敷地で、
城全体を見れば、概ね「L」字形をした並びになっている。主曲輪群の周囲には帯曲輪(と言うか横堀)が取り巻く多重防御構造。
主郭と二ノ郭を分断する堀は深く、また、堀を越えて巡る城内通路は桟道(橋のように張り出した経路)になっている部分があり、
恐らく往時もそのような造りになっていたのであろう。山城の雰囲気は存分に感じられる史跡だ。半面、二ノ郭は真ん中を分かつ
堀切があるものの、ここは掘り込みが甘く、そもそもこの位置に堀切を構える必要性がよく分からない。■■■■■■■■■■
城山の山頂は海抜130m、麓との比高差は約100mという高さでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現在、主郭には八幡神社が鎮座しており(写真)、城山の北側から入る車道が直近まで伸びていて来訪しやすい。但し、道路は
狭い山道な上に駐車余地はあまり無いので注意が必要。地域住民の方々に御迷惑をかけないよう配慮したい。恐らくこの城が
現役だった頃は天竜川が城の直下まで迫っていて山へ登る経路はもっと限られていたのではないかと考えられる。城跡全体の
印象としては“古風な山城”という風情であり、1982年(昭和57年)2月17日に豊岡村(当時)指定文化財とされ、市町村合併後の
2005年(平成17年)11月21日、改めて磐田市の史跡に指定されており申す。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

今川家が防備を固め■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城の創立年代は不明。豊岡村時代より更に古い村制(豊田郡広瀬村)当時の1927年(昭和2年)に刊行された「広瀬村誌」では、
平安中期の寛和年間(985〜987年)に参議中将・藤原共実の長子である鷺坂十郎則実がこの城を築城し、11代続いて匂坂六郎
五郎長能の時に匂坂城(磐田市内)を築いて移ったと記されるが、これは信憑性に乏しい(鷺坂・匂坂は共に「さぎさか」と読む)。
南北朝時代に匂坂共長が駿河・遠江守護の今川上総介泰範(やすのり)や左京亮貞世(さだよ、法名了俊(りょうしゅん))の命で
社山城を築いたとも言うが、これも真偽不明。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
これだけ山深い位置に城を築くのだから、その起源は戦国期になってからと考えられる訳だが、これに関しては連歌師・宗長が
記した「宗長日記」の中に、1500年(明応9年)3月に守護・斯波義寛が遠江での勢力回復を目指して弟の義雄(よしかつ)を社山
城に送り込んだものの、翌1501年に今川氏親が攻勢をかけた事で二俣城(静岡県浜松市天竜区)へ退いたという記載がある。
或いは、文亀年間(1501年〜1504年)から永正年間(1504年〜1521年)にかけて今川家臣の二俣近江守昌長が築城したとする
説もある(「遠江国風土記伝」の記述)。いずれにせよ16世紀初頭の段階でこの城は今川家が領有する形で成立していた訳だ。
1532年(天文元年)頃には菅沼重左衛門定広が、永禄年間(1558年〜1569年)は大賀源次郎、次いで山田八造国時が城主に
なったとか。いずれも今川家臣であるが、先に記した匂坂氏の支配力も及んでいたようだ。■■■■■■■■■■■■■■■

武田家が攻撃するも■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
そして今川家の没落と共に社山城も武田信玄と徳川家康の争奪戦が行われるのである。1572年、信玄が大規模な遠江侵攻を
行った際、二俣城を攻略する為の陣所として「合代島(ごうだいじま)」を占拠したとあるが、この合代島というのは社山の北側に
広がる平野部の事で、この件を社山城の奪取と見る向きがある。実際に武田軍が社山城まで来たのかは不明だが、合代島は
天竜川渡河点として重要な場所であり、その往来を確保するには後ろの山にある社山城も沈黙させる必要があったのは確かで
あろう。山中に、曲輪に沿うよう横堀(現地説明版では帯曲輪となっているが、つまり帯状の起伏が入っていた訳である)が巡る
城の構造は武田の改修が行われたと想像できなくもない。他方、徳川方も1573年に二俣城を武田軍から奪還する為に社山の
砦を構えたとある。これは明らかに社山城の事を指していよう。ただし、その後の成行きはよく分かっていない。結局、信玄没後
徳川家が遠江を確保するようになり社山城の存在価値は薄れた。1590年(天正18年)家康が関東に移封となった折、この城は
廃城になったと考えられている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
別名で水巻城。天竜川が山裾を洗っていた頃、この城の直下でうねりを上げていた様子を物語る雅称である。■■■■■■■
ところで城内には1本の蘇鉄の木が植えられており、その説明は以下のようなもの。曰く、匂坂六郎共長が社山城を築城した際
城内に3本の蘇鉄を植えた。後、匂坂氏は長能が匂坂城へ居城を移した為に蘇鉄はそちらへ移植され、更に匂坂城も武田軍の
攻略で落とされ消え失せたので、蘇鉄の残り木は江戸時代に各所へ株分けされたそうな。平成になって往時を偲び、株分けした
木から社山城へ里帰りさせ、城内の蘇鉄が復活したとの事である。古城と名族の歴史が樹木によって語り継がれている訳だ。
さらに余談だが、その匂坂氏は武田・徳川の争奪戦に於いて最初は武田家へ与しようとしていた。ところが時の当主・六郎五郎
吉政(長能の3男)を差し置き、甥の正祐(長能長男・政信の子)が「自分こそ匂坂の嫡流だ」と抜け駆けして武田家に売り込もうと
したため、吉政は正祐を成敗し、その首を持って徳川家への服属へと方針転換したと言う。結果、匂坂家は江戸幕府旗本として
家を繋いだそうな。武田に従っていたら最終的に滅んでいたのかも…人間、どんな所に転機があるか分からないものである。



現存する遺構

堀・土塁・郭群等
城域内は市指定史跡




深沢城  名古屋(那古野)城