現地の古豪、山内首藤氏の末裔・天方氏■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
周智郡森町にある「天方(あまがた)城」。在地の豪族・天方氏の城だが、従前この城は長く1つの城が使われ続けたと考えられて
いたものの、近年の研究で時代によって場所を移してきたと解明されてきている。ここで紹介するのは、その中でも「天方新城」と
されるものだ。但し、天方氏の歴史は新城だけで語れるものではないので、以下に時代編年を追いながら説明する。■■■■■
天方氏は遡ると山内首藤(やまのうちすどう)氏に行き当たるという。この山内首藤氏と言うのは、藤原秀郷の後裔を称する山内
首藤刑部丞俊通(としみち)を祖とし、平安末期〜鎌倉期を通じて派生していった一族。「山内」の名でも判る通り、後の江戸時代
高知城(高知県高知市)主となる山内氏もこの一族の中から輩出された…とも伝承される(諸説あり)のだが、そうした血縁のうち
山内三郎通秀(みちひで)が天方の地を得た事で改姓し天方豊後守通秀と名乗るようになる。これが天方氏の始まりだ。通秀が
天方に入ったのは14世紀後半の頃とされ、応永年間(1394年〜1427年)に天方城が築城されたと見る説がある。ただ、天方城の
築城者としては山内対馬守道美(どうび、下記・飯田城の項を参照)と考えるものも有力なので、あまり詳しい事は分からない。■
いずれにせよ、この頃に築城された天方城は「新城」ではなく「天方本城」と呼ばれる城の方だったようで、その位置は今の森町
中心街から北に行った所、大鳥居(おおどりい)地区の中にあった。そこは東に吉川、西には三倉川が流れ、両川は城の南側で
合流している。2つの川が蛇行する地点はくびれた地形になっており、ちょうどその場所に標高153m、比高90m超を数える険峻な
山がそびえているという築城好地であった。この城を本拠に、天方氏は天方9ヶ村を支配し一帯に勢力を拡大する。通秀の後は
右衛門尉通良(みちよし)―民部少輔通泰(みちやす)―蔵人通員(みちかず)―山城守通季(みちすえ)と代を重ねた。■■■■
この通季の代と見られる1494年(明応3年)に、遠江攻略を目指す駿河の太守・今川上総介氏親(うじちか)は、伊勢新九郎盛時
(もりとき)を総大将とする軍を派遣、天方城はその支配下に入る。新九郎は後に関東で覇権を確立する北条早雲である。これに
対し1501年(文亀元年)の秋、遠江守護である斯波治部大輔義寛(しばよしひろ)が奪還の軍を発し、天方城は落城するも、更に
今川軍が取り返すという経緯を辿っていく。この戦いの後に、防備の強化を必要とした通季は天方本城の支城となる天方白山城
(森町内、城下地区)を築いた。また、通季は文化人としても名を残し、1524年(大永4年)と1526年(大永6年)の2回に及び上洛、
当代一流の歌人たる三条西実隆(さねたか)に和歌を習い、連歌の宴にも参加したそうだ。以後、天方氏は今川氏に従う路線を
継承して三河守通稙(みちたね)―山城守通興(みちおき)と続き申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
戦国争乱の中、天方新城を築く■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところが“海道一の弓取り”と称された今川治部大輔義元が桶狭間合戦で戦死した後、今川家は急激に衰退していく。遠江国は
三河から勢力を伸ばす徳川家康が切り取っていき、周辺の国人らも次々と家康へ靡いた。こうした渦中の1568年(永禄11年)頃
通興は新たな城として向天方の山中に新たな城を築く。これが天方新城だ。新城は標高249.5mを数える山の頂を啓開、麓との
比高は約200mを越える天険の山城であり、特に南側の眺望に優れていた。浜松城(静岡県浜松市中区)を本拠とし、南西から
迫るであろう徳川軍に即応できる城だと言えよう。天方本城では集落の奥にあり、敵を防ぐ楯にはなり得なかったと考えられる。
そう、通興は徳川に従わず以前と同じく今川家に服属する途を貫いていたのである。だが、当然ながら家康はそれを良しとせず
1569年(永禄12年)6月19日、この城への総攻撃を行った。徳川勢は榊原小平太康政・天野三郎兵衛康景・大久保新十郎忠隣と
いった歴戦の面々。対する通興も今川家中で名の知れた豪将、二ノ丸で激しい攻防戦が繰り広げられた。しかし多勢に無勢で
遂に城は落とされ、通興は徳川家への降伏を余儀なくされた。さりとて、簡単に寝返るのは納得できなかったのか通興は以後も
家康の下知に従わず、翌1570年(元亀元年)10月に再び天方軍は城に籠城し家康との対決姿勢を露にする。斯くして、再度の
徳川軍の攻撃が行われるに至り、この時は榊原康政や大須賀五郎左衛門尉康高(おおすがやすたか)らが攻略に当たって城を
落とした。2度の落城を経て、とうとう通興は徳川家臣として生きる道へ舵を切ったのだった。■■■■■■■■■■■■■■
とは言え、地方豪族の苦難はまだまだ続く。今川家が滅んだかと思えば、今度は甲斐の武田家が東海地方を侵食してくるのだ。
1572年(元亀3年)9月下旬、武田信玄は4万余の大軍を率いて天方城を包囲する。これに対し、天方通興は戦う事なく城を棄て
家康の下に逃亡した(或いは武田方に寝返ったとも)。信玄は天方城に配下武将・久野弾正忠宗政を入れて守らせたそうな。が
信玄は年明けに陣没する。武田軍の停滞を機敏に読み取った徳川方は反撃に転じ、信玄死去に先立つ1573年(天正元年)3月
渡辺半蔵守綱・半十郎政綱兄弟や平岩七之助親吉(ちかよし)・大久保忠隣らに命じ天方城奪還の攻略を行った。この攻撃に
耐えられず宗政は抵抗の挙句に逃亡、甲斐へ退いたそうだが、話によればこの後もう一度武田方が城を獲り戻し、それに対し
1574年(天正2年)3月に徳川軍が攻略を行い、またも徳川方の手に帰したとされている。同年4月、武田方に与していた犬居城
(静岡県浜松市天竜区)を家康が攻略しようとした際、大雨に行く手を阻まれ退却したのだが、その時に家康が逃げ込んだのが
ここ天方城であったと言われている。以後、天方通興が城を守った。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さてその後の天方氏であるが、通興の嫡男・豊後守通綱(みちつな)は徳川家の危機「築山殿事件」の際、家康長男・岡崎三郎
信康(のぶやす)の切腹介錯を行い、主家に刃を向けたという自責の念から高野山へ隠棲してしまう。よって、天方家の家督は
通興の外孫に当たる備前守通直(みちなお)が継ぐ事になり、以後は徳川将軍家の直臣として後世に血筋を繋いだ。その一方、
天方の城は戦国争乱の終焉を迎えた事で、恐らく通興が没した前後の時期(1596年(慶長元年)?)に廃城となったようである。
山中に美麗な遺構■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
森町の役場から北東へ2.5kmの地点、城ヶ平公園となっている一帯が天方新城の跡だ。上記の通り、麓からの比高は200mにも
なるのだが、公園になっているため車で山頂近くまで登る事が出来る。当然、駐車場も完備。ただ、そこまで登る道は非常に狭く
運転には細心の注意が必要である。特にすれ違いの余地については留意すべきでござろう。その駐車場となっているのが城の
二ノ丸跡で、そこから上段にあるのが主郭だ。主郭はほぼ方形、東西100m×南北60mの大きさ。曲輪の周囲をぐるりと土塁が
囲い、その下には横堀が巡る(写真)。主郭の南側は崖となっており、往時は大手口だったと見られるが現在は崩落箇所が多く
あまり近づくのは危険である。反対に北側には堀を隔てて二ノ丸が帯曲輪状に並び、その周囲にも横堀が回っている。城地が
公園化されているため敷地には遊具や展望台が置かれていてやや古城の風情に欠けるが、こうした曲輪や土塁・空堀などは
かなり良好に残されている。半面、曲輪内の削平は不完全で傾斜面が多く、また縄張そのものもさほど技巧的なものではない。
故に、「新城」とは言え単純に陣城ではないかと見る向きもある。築城の歴史を見ても、徳川軍の侵攻に備えて急造したものと
考えられなくはないのだ。他方、武田軍による接収以後も使われ続け、横堀を巡らす構造も“武田流築城術”の一端を垣間見る
ものと言えなくはないので、陣城ではなく安定化した恒久城郭とする説もある。いずれにせよ天方新城を用いて数々の戦いが
行われたのは間違いなく、この城は実戦城郭として歴史を紡いできた訳である。じっくり見学して、様々に考察すると面白い。■
現状、城跡は森町の文化史跡として指定されている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
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