駿河国 深沢城

深沢城址から富士山を望む

 所在地:静岡県御殿場市深沢

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

★★★■■
★☆■■■



駿河北辺の要塞■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
深沢(ふかさわ)城は駿河の守護大名・今川上総介氏親(うじちか)の命により築城されたという。正確な築城年は不明であるものの
16世紀初頭、永正年間(1504年〜1520年)頃の事と見られている。1514年(永正11年)氏親は甲斐の内紛に介入すべく甲駿国境に
近い地域の国人衆、葛山(かずらやま)氏・庵原(いはら)氏・朝比奈氏らに出陣を命じており、深沢城はその戦いに於いて駿河勢の
前線基地として整備されたと考えられよう。ただし、氏親の築城以前より深沢の地には在地豪族・深沢氏(大森氏支流か?)の館が
存在したとする説もある。ともあれ、まだこの頃の城郭がどのようなものであったのかは良く分からない。■■■■■■■■■■■
この城が歴史上で注目されるようになるのは1560年代以降だ。駿河太守の今川家、甲斐の国主・武田家、相模の新興勢力である
後北条家は三国同盟を結び、互いを後背地として固めそれぞれの領土拡大に邁進していたが、桶狭間合戦で今川治部大輔義元が
戦死して以降、今川家は急激に衰退していく。その一方、武田徳栄軒信玄は越後の上杉不識庵謙信との戦いでそれ以上の北伐が
不可能となった為、駿河への侵攻へ矛先を変更した。斯くして1568年(永禄11年)12月、武田軍は駿河侵攻を開始。今川勢に反撃の
隙を与えぬ怒涛の進撃で各所を制圧していく。これに伴い深沢城も武田家の手に落ち、駒井右京之進昌直(政直とも)が城代として
城を守る事になる。しかし、同盟の破約を糾弾する後北条氏は今川支援の軍を発し、武田家が占領した駿河東部へと展開。1570年
(元亀元年)4月、3万8000もの大軍勢で北条左京大夫氏康・相模守氏政父子が深沢城を攻略、昌直は退去してこの城は後北条氏の
ものになった。氏康は城将として後北条家中で最も戦巧者である北条左衛門大夫綱成(つなしげ)と、智将の重臣・松田尾張守憲秀
(のりひで)を入れている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

深沢城の矢文■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
だが駿河攻略に執念を燃やす信玄は、何としても後北条家を黙らせる為の手を打っていく。既に1569年(永禄12年)10月、武田軍は
後北条家の本城である小田原城(神奈川県小田原市)を包囲、落城こそ出来なかったものの、その帰路に三増峠(みませとうげ)で
後北条軍を蹴散らし武田の強さを見せ付けた。また今川復活の為に後北条家が橋頭保としていた蒲原城(静岡県静岡市清水区)も
1569年12月6日に攻め落とし、後北条軍がこれ以上駿河で逗留する事を不可能にしていた。そうした中、駿河の国内で気焔を吐いて
いたのが深沢城である。よって信玄はこの城を黙らせるべく1570年6月に派兵、この時は兵を引き上げたものの、同年11月から再度
攻略を開始する。武田方は金鉱採掘集団である金掘衆を使って城内目掛けた坑道を掘るなどの手を用いたと言われるが、城に籠る
綱成は固く守り、戦況は膠着状態になる。そして年が明けた1571年(元亀2年)1月3日、信玄は城内に向かって矢文を打ち込んだ。
曰く、今川は上杉に通じて武田を討とうとしたので我々の駿河討伐は正当なものであり、北条が止め立てするのはおかしい。北条が
謙信に攻められ窮地であった時は、信玄こそがそれを救った筈。それなのに我々へ兵を向けるのは筋違いであり、どうしても北条が
武田に楯突くと云うなら深沢城へ援軍を差し向けるべし。綱成よ、小田原へ援軍を請え。我々は深沢城を落とすのが目的ではない。
援軍が来たならばここで一大決戦に及ばんとするものだ、と。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
武田と手切れになった事で、北条氏康は外交方針を大転換し長年の宿敵だった上杉謙信と和を結んだ。南の後北条と北の上杉で
武田を挟み撃ちにしようとしたのだ。しかし謙信は本気で後北条と手を組む気は無かったようで、停戦こそしたものの後北条の出陣
要請には応えず、深沢城が攻められていても武田の背後を突く動きを取らない。上杉が当てにならない上、三増峠や蒲原の敗戦で
駿河での継戦余力を失っていた後北条軍が援軍を出せる見込みはない。かと言ってここで落城・玉砕しても後北条家の敗北を世に
広めるだけで、いよいよ敵を利するのみであろう。状況を的確に読んだ綱成は(流石の名将ぶりである)矢文の答えとして同月16日
深沢城を明け渡し堂々と撤退する途を選んだ。こうして綱成は自身の城である玉縄(たまなわ)城(神奈川県鎌倉市)へ帰還。またも
武田のものとなった深沢城は駒井昌直が再度の城代となり守備を担った。以後、後北条氏と武田氏は同盟の再締結へ舵を切るが
綱成の選択は「深沢城はくれてやるから、武田と北条の争いはもうこれで御終いだ」という意思表示になったのだろう。■■■■■■

綱成の忘れ物?置き土産??■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
なお、綱成と言えば“地黄八幡(じきはちまん)”の旗印で有名な勇将。敵に後れを取った事は無く、その旗印を見れば相手は恐れ、
地黄八幡は即ち直八幡(八幡の直裔)として神憑り的な強さを発揮したと言う。この旗指物が深沢城を退去する際、城内に残置され
それを手にした信玄は縁起物と喜び「左衛門大夫(綱成)の武勇にあやかるように」と、加津野市右衛門尉信昌(かづののぶまさ)に
与えた。この信昌、智謀の一族として知られる真田家の出身。後に復姓し、真田隠岐守信尹(のぶただ)と名乗った彼は戦国争乱を
巧みに生き延び、徳川幕府の時代にも旗本として家を残した。そうした経緯により、深沢城で捕獲された現存する地黄八幡の旗印は
長野県長野市の真田宝物館に保管されている。この旗印、綱成が“忘れていった”と評される事が多いが、個人的には綱成がそんな
粗忽に城を逃げて行ったとは考えられず、武田軍に対して「ここはあくまで儂の城だ!」と見せ付ける為にわざと置いて行ったのでは
ないかと思うのだが…。そうでなければ、信玄が戦利品として有り難がる事は無かろうて(笑)■■■■■■■■■■■■■■■■
武田の統治時代、駒井昌直の他に駒井宮内大輔や小山田大学助(いずれも武田家臣)と言った将も在城している。■■■■■■■
その武田家も信玄没後に急速な弱体化を見せ、1582年(天正10年)織田信長・徳川家康連合軍の侵攻を受けて滅亡。この折、城将
駒井昌直は前線に取り残される愚を悟り、城を自焼させ粛々と甲斐へ撤退していく。つくづく深沢城は“撤退”に縁がある城である。
ただ、武田家滅亡直前に小山田大学助は信濃高遠城(長野県伊那市)の守りに回され、彼の地で討死している。■■■■■■■■
結果、徳川家のものとなった深沢城は後北条氏に対する備えとして復興され、家康家臣・三宅惣右衛門康貞(みやけやすさだ)が
城主に任じられている。深沢の地は足柄山塊の西麓に位置し甲斐・相模・駿河を扼する要衝である。街道を伝えば足柄峠を越えて
小田原に、また篭坂峠を経て甲斐の郡内地方へ至る。徳川領の最東端を防備するに必要不可欠な城であった。それ故、徳川家と
後北条家が信長横死後の甲信地方領有を懸けて争った天正壬午の乱や、家康が総力戦で羽柴筑前守秀吉と戦った小牧・長久手
合戦などの折、この城は国境防衛の為に重要な働きを果たしている。さりとて、1590年(天正18年)に後北条氏が豊臣秀吉によって
滅ぼされ、徳川家が関東へ移封されると、深沢城は不要なものになって廃城とされた。以後、城跡一帯は耕作地へと変貌し、永い
眠りについたのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

蛇行する川に沿った名城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城は御殿場市域の北東隅に近い場所、御殿場市営東運動場(野球場)のほぼ真北400m程の位置にある。ここは北西側に馬伏川
(まぶせがわ)が流れ、南東側にはその支流である抜川(ぬけがわ)があり、両川が合流する地点だ。2つの川に挟まれているため
細長い敷地は必然的に全周を川で囲まれ、出入口は南西側の1箇所に絞られる。ここから川の合流部(城地北端)に向かっていく
敷地を複数の曲輪として分割、その間は深い空堀で区切られている。曲輪内部は農地化によって均され、恐らく往時はあったで
あろう土塁も殆んど消滅、そして農作業用の車道が貫通してしまっているが、概ね曲輪の形状は手付かずで残され、空堀も各所
現存していて見学もし易い。現地案内板によれば最も奥の曲輪が主郭、その手前が二郭、更に手前が三郭というように記されて
いるが、高低差や険峻さを見れば中央の区画(案内板で二郭とされている所)が最も険要な構造になっており、本来はそこが主郭
だったのであろう。よってここではそれを主郭とし、前衛の曲輪(案内板の三郭)が二郭、奥の曲輪は捨曲輪とする。主郭の北と南
(それぞれ他の曲輪と連結する部分)には丸馬出が置かれ、しかも通路は食違いになっており、この曲輪を中心に守備する形態が
取られていたのが明らかだろう。数少ない土塁残存部も本曲輪の内側に集中しており、農地化でも崩し切れない程に固められて
いたのだと想像できる。加えて、馬伏川はこの曲輪の直下でヘアピンカーブを描く複雑さを見せており、これも主郭を側面からは
攻撃できなくする天然の要害として活用したものであろう。川床と曲輪内の比高差は5m程だが、川の流れが削った断崖はそそり
立ち、そこを這い上がるのは甚だ困難。川と空堀、土塁と丸馬出、前後左右はしっかり固められていた訳である。■■■■■■■
他方、捨曲輪は全体的に“緩い”構造である。起伏も激しくなく、ひたすら大きく広がり、川に囲まれてこそいるが防備は固くない。
ここでは城主や一族の居住空間、または兵の駐屯地のような用いられ方をしたのかもしれないが、戦時となれば主郭に引き上げ
まさしく“捨てられた曲輪”となるのだろう。3方向を川に塞がれている為、敵がこちらから侵入するとは思えず、仮に入って来ても
主郭の前に控える丸馬出で敵勢を阻止できると踏んでいたのか。それ程までに、主郭と馬出部の一点防御は固い構造であった。
反対に二郭側には細かい帯曲輪や馬出状の堡塁が連なり、城外へ至る部分(大手口である)の前後には三日月堀も構えられて
陸続きで攻め込んで来る敵に対しては連続した障害を積み重ねて排除する意図が感じられる。先程から出て来る単語を見れば
丸馬出、一点防御、そして三日月堀と、「武田流築城術」で構成されている事は明らかだ。北条綱成の退去以降、この城は武田が
じっくりと作り込んだ歴史によって完成されたという証左が、縄張からハッキリと見て取れるのでござる。何より、城跡から見上げる
富士山は格別(写真)、周辺も昔ながらの田園地帯で心癒される。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1960年(昭和35年)2月23日、御殿場市の史跡に指定。綺麗に残された城跡は初心者にも分かり易いが、私有地(耕作地)なので
見学時にはやたらと踏み荒らしたり騒ぎ立てたりせぬよう気を付けたい。駐車場も無いので路駐する事になるが、これも細い生活
道路沿いなので地元の方々の邪魔にならないよう。近隣にある曹洞宗寺院の大雲院(だいうんいん)に大手門が移築され残存、
静岡県駿東郡小山町の曹洞宗向嶽山十輪寺(じゅうりんじ)には搦手門が移築されて残る。■■■■■■■■■■■■■■■
それにしても、深沢城の現地案内には「二鶴様式」という独特の用語が書かれている。これって何?馬伏川のルビも「ばぶせ」で
(鮎沢川水系の支流として定義されているのは「まぶせがわ」が正当)地元の事なのに本当に大丈夫なの?と甚だ疑問…(苦笑)



現存する遺構

堀・土塁・郭群
城域内は市指定史跡

移築された遺構として
大雲院山門(伝深沢城大手門)・十輪寺山門(伝深沢城搦手門)







駿河国 大雲院土居

大雲院土塁

 所在地:静岡県御殿場市深沢

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

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現存する遺構

土塁・郭群




駿河国 宝持院土居

宝持院土塁

 所在地:静岡県御殿場市東田中・二枚橋

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

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現存する遺構

土塁・郭群




寺を囲むどっしりとした土塁■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
上で「深沢城の大手門が移築されている」と記した大雲院は深沢城から南南西へ約1km。東名高速の足柄SAからほぼ真西に
あり(地図を見れば分かる筈)、趣のある庭園や立派な楼門(山門とは別)、広大な駐車場も備えている。その寺から西南西へ
700m位の場所には曹洞宗宝持院と言う、これまた巨大な寺院が鎮座しており、その敷地は東西方向に長い(230m×120m程)
長方形の敷地(北向きに出張り有り)となっている。2つの寺に共通して言えるのが、敷地を囲むように土居(土塁)が積上がり
どうやらそれは陣城遺構?或いは武家居館の囲み?と想定される点でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
まず大雲院であるが、深沢城の眼前にある立地から「深沢城の出城もしくは城主居館」か「深沢城を攻めた武田の陣城」と言う
2つの説が取り沙汰されている。寺伝に拠れば大雲院は1532年(天文元年)深沢八郎右衛門なる者が開基になり創建されたと
言われている。この深沢八郎右衛門と言う人物、深沢城の解説文冒頭に登場した“大森氏支流深沢氏”の一員と見られ、要は
この地の開拓領主の1人であろう。深沢城の築城に関し「深沢氏の館が存在したとする」説があるのも、こうした一族が確かに
この一帯に盤踞していたからだ。然るに大雲院は武田氏によって深沢城が落とされた際、炎上したそうなのでやはり深沢城の
出城(として使われた寺)だったのだろう。武田軍が陣払いの際に火を点けた(武田陣跡)可能性も無いとは言えないが。■■
他方、宝持院については開基が大森氏頼(うじより)となっている。後北条氏以前の小田原城主である大森氏の中で、最盛期を
現出させた名将・信濃守氏頼その人だ。大森氏と言うとどうしても「北条早雲に小田原城を騙し獲られた」凡愚の将・筑前守藤頼
(ふじより)の印象ばかりが先行するが、その父である氏頼は御殿場(駿東)から箱根山塊を跨ぎ小田原(西相模)までの広大な
“天険の地”を領有し、名軍師・太田道灌と並び評された智将であった。彼が娘の菩提を弔うため建立したのが宝持院であるが
当時、大森氏は既に小田原を本拠としていたので御殿場(駿東)は“旧領”だったと言う事になる。だとすれば、宝持院の敷地は
大森氏の「元々の居館」と考えるのが順当であろう。武家の習わしとして、居館跡を寺として作り変えるのは往々にして有り得る
事だし、それどころか小田原を“新首都”にした大森氏にとって駿東を治める“副都心”即ち駿東政所のような役割を果たしていた
場所だった可能性すらある。方形居館は武家居館として定番のものだが、それにしても大規模(そして正方形ではなく長方形)な
広い敷地を有すのは、そうした背景があっての事か。ただ、北向きで出張り(出構え)があるという構造は、北の深沢城に対する
備えを必要とした事情を勘案すべきなので、これも「武田の陣城」とする評価に繋がっているようだ。大森氏居館跡を武田軍が
接収し改造したものか?それとも、大森氏時代から深沢氏(が居たとして)への防備を取っていたのか?様々な考察が想像でき
なかなかに興味深い立地・構造でござる。もし大雲院が深沢城の出城なら、それに対して宝持院が付城となっていてもおかしく
ない距離関係だろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
先に記した通り、大雲院には境内と、山門を挟んだ向かい側にも駐車場があり、車で来訪するのは簡単だ。少々道が分かり難い
ものの、深沢公民館の南と覚えておけば辿り着けるだろう。この駐車場の脇(写真)や本堂の裏手などに土塁の断片が残されて
いる。ただ、本堂裏などの境内はあまり深入り出来そうにないので、敷地を荒らすような事はしない方が良いだろう。なお、深沢
城から移築されたと言う山門は関東大震災で一度倒壊し、古材を使って建て直されたそうだが、柱の根本部分などは腐食が激し
かったのか、新材(コンクリート)に取り換えられている。ちょっと痛々しい姿なのだが、逆に言えばそうやって維持し続けた証でも
あり、文化財の管理が難しい事を訴えかけてくるようだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
宝持院も広大な駐車場があり車での来訪は簡単なのだが、その入口が分かり難い(入口と気付かず通り過ぎる)ので注意。中に
入れば整然とした境内が広がり、その敷地を囲う土塁がハッキリと目に入る。特に南東隅部の土塁(写真)は巨大なものであり、
櫓台か?いや最早“山”だろ?と思える迫力がある。これだけの規模の土塁があるとすれば、一時的な陣城として築いたものより
「大森氏の政庁であった館」の遺構と考える方がしっくりくるのだが、如何でござろうか?■■■■■■■■■■■■■■■■■







駿河国 徳川家康御殿

徳川家康御殿跡 御殿場東照宮石碑

 所在地:静岡県御殿場市御殿場

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

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「御殿場」地名の由来■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、時は移って江戸幕府が開かれた頃。徳川家康は民情視察や行軍演習を兼ねて行う鷹狩りが趣味で、将軍職を秀忠に譲った
後も関東近郊や隠居した駿府の周辺で盛んに鷹狩りを催した。それにつれて遠征時の宿館が必要となり、家康の行動範囲には
「御茶屋御殿」と称される御殿が築かれている。当時はまだ幕府の威勢が浸透しておらず、将軍・大御所であろうと構わず襲撃する
野盗の類も多かった(のみならず、天下人の命を狙う輩も居た筈だ)事から、これらの御殿は仮の宿所といえどそれなりの防御性が
求められた。要するに、家康を守る小規模な城砦を幕府は多数構築した訳である。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1615年(元和元年)沼津代官の長野九左衛門清定は御厨(みくりや、御殿場地域の旧名)に御殿の造営を命じる。家康が江戸と
駿府を往復する際の宿館とするための着工であり、地元の有力者である芹沢将監に工事を担当させた。だが翌1616年(元和2年)
4月17日、家康は病没してしまう。それでも工事は継続され、同月28日付で清定が普請を続ける命令書を発してござる。同日付で
「御殿新町」における商いの相場を定める命令書も出され、更に5月15日には「御殿新町」に馬継ぎ(馬を使う物資中継やその制度)
規定も発せられた。このように、新御殿を中心とした新しい町の構築が進められていき、これが後に「御殿場」と言う地名になって
いった。但し、御殿そのものに固有の名称は確認できず(記録が無い)何という名前の御殿だったのかは定かで無い。よって、この
項でも「徳川家康御殿」として仮称するのみである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

小田原藩の代官所に■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
このようにして作られていった「御殿」と「御殿町」であるが、天領(幕府直轄地)だった御厨地域は1633年(寛永10年)小田原藩領に
組み込まれた為、以後は小田原藩の管理下に置かれる事となった。「家康の宿館」と言う本来の使われ方はされなかった御殿は、
衰退する時期もあったようだが小田原藩の出張陣屋として使われるようになり、当時の小田原藩主・稲葉氏の手で整備維持されて
いく。1647年(正保4年)の「御殿場村検地帳」には住人112名の名前が記され、1678年(延宝6年)の「村鑑」には戸数113軒とされ、
桶屋・大工・鍛冶・紺屋・指物屋と言った諸業種が町を構成していた。小田原藩では富士の登山客を御殿場経由で通らせる施策を
行ったそうで、御殿場は“宿場町”としても隆盛するようになった。1677年(延宝5年)には小田原藩主・稲葉美濃守正則の世子である
丹後守正通(まさみち、当時の名前。後に正往(読み同じ)と改名)が鷹狩りの遠征を行い、この御殿に4泊している。12月10日に
小田原を出発し、同日御殿場に到着した正通は近隣で鷹狩りを行った後、14日に出発した。この後、14日夜は三島、15日は箱根で
宿を取り16日に小田原へ帰着。その時の様子は彼が記した「たかね日記」と言う紀行文に残されているそうだが、家康が使う事の
無かった御殿は、時の藩主の嫡子が使用する事で“当初の目的”を達した訳である。御殿の敷地は2000坪以上、高さ3m程の土塁で
囲まれ、敷地内には石橋を架けた水路があり、茅葺屋根に松の柱を用いた豪華な建物があったと言うが、これは再整備によって
“藩主世子を迎え入れる体裁”を整えた事によるものでござろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

御殿廃止後の現況■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ただ、稲葉家は1685年(貞享2年)12月11日に越後国高田(新潟県上越市)へ国替えされ、翌1686年(貞享3年)1月21日から大久保
加賀守忠朝(ただとも)が新たな小田原藩主になると、御殿場の出張陣屋は不要とされた。その為、この年に御殿は取り壊された。
以後、陣屋跡地は吾妻神社の敷地となって現代に伝わる。陣屋創立当初からここには家康を祀る東照社(東照宮)が置かれており
(城内鎮守の類であろう)、これが発展して吾妻神社になったのだろう。勿論、吾妻神社は“御殿場東照宮”としても親しまれているし
摂社として敷地内に鎮座する高尾山穂見(たかおさんほみ)神社は地元で“高尾さん”と呼ばれ崇敬を集めているそうだ。■■■■
しかし、ここが「家康の御殿」だったと言う“元々の由来”は現代ですっかり忘れ去られていた為、1980年(昭和55年)になってようやく
吾妻神社を囲う土塁は「御殿」の土塁だ、と言う事が再確認された。「御殿場」の地名発祥の場所として翌1981年(昭和56年)には
地元有志の方が「御殿場発祥の地」の石碑(写真)を建立し、今に至っている。もちろん、石碑の奥に見える土盛りがその土塁だ。
場所は静岡県立御殿場高等学校のすぐ南側。上記した吾妻神社や高尾山穂見神社の他、御殿場区コミュニティセンターが建つ
一角が陣屋の跡地で、この近辺の小字(あざ)には「おうまや(御馬屋)」や「堀前」と言った地名が残り、周辺にも陣屋関連施設が
あった様子を物語る。すぐ傍を静岡県道78号線、つまり足柄街道が通っており、家康や稲葉正通がそこを使って御殿へと来訪した
環境が残されている(家康は実際には来てないがw)。神社やコミセンの敷地に駐車場があるので車で訪問するのは簡単なのだが
県道から折れた途端に細い道となり、学校も目の前にあるので運転には注意が必要だろう。■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群







駿河国 下古城

下古城跡 子之神社

 所在地:静岡県駿東郡小山町下古城

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

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“村の鎮守”に土塁が残る■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
「しもふるしろ」と読む。御殿場市から少し北に出て小山町の城だが、深沢城に近接するものなのでこの頁に記載する。■■■■
深沢城の前を流れる馬伏川が下っていき、立沢川や小山佐野川と合流する当りに小高い丘がある。馬伏川と立沢川に挟まれた
この丘には子之神社(ねのじんじゃ)と言う小さな社があり、そこが下古城の跡とされており申す。深沢城と似た立地だ。現状では
神社(と一部住宅の敷地)以外、川に挟まれた部分は水田になっているのだが、言い伝えではこの丘の内部が東西200m×南北
400mに亘って城地となっており、古屋敷・鍛冶屋敷・馬場・城下(しろした)と言った地名が残っていたそうで、それが事実ならば
それなりに集住地域を持つ城郭が構えられていた事になろう。神社の片隅(写真)には土塁があって敷地を囲んでいるので、往時
ここが曲輪であった状況は推測できる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
但し、城に関する詳しい来歴は分からない。詳細な史料も無い。伝えられる話では小田原後北条氏の家臣である黒石玄蕃頭なる
者が城を守っていたそうだが、1590年に豊臣秀吉が大軍を以って後北条氏を滅ぼした際、城を退去し近隣の一色(いしき)集落で
自刃したとか。これで下古城は廃城となっているが、そもそもいつ作られたのか、どのような規模のどんな城だったのかは不明。
故に「言い伝えの」城の概要が正しいかどうか検証できないのだが、個人的にはこういう口伝は(一次資料に無くとも)往々にして
真実を伝えていると思うので、そういう城であった…と思いたい(苦笑)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
子之神社に行けば土塁が見られるのだが、そこへ行く道は非常に細い道なので運転には注意。転回はもとよりすれ違いも厳しく
道を間違えても上手く戻って来られない。そして神社入口が激しく狭いので、辿り着くのが難しい(一応、駐車場はある)。何より、
地元の方々にご迷惑をおかけしないよう気を付けるべし。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

土塁・郭群




相良城・大鐘屋敷  森町周辺諸城郭