駿河北辺の要塞■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
深沢(ふかさわ)城は駿河の守護大名・今川上総介氏親(うじちか)の命により築城されたという。正確な築城年は不明であるものの
16世紀初頭、永正年間(1504年〜1520年)頃の事と見られている。1514年(永正11年)氏親は甲斐の内紛に介入すべく甲駿国境に
近い地域の国人衆、葛山(かずらやま)氏・庵原(いはら)氏・朝比奈氏らに出陣を命じており、深沢城はその戦いに於いて駿河勢の
前線基地として整備されたと考えられよう。ただし、氏親の築城以前より深沢の地には在地豪族・深沢氏(大森氏支流か?)の館が
存在したとする説もある。ともあれ、まだこの頃の城郭がどのようなものであったのかは良く分からない。■■■■■■■■■■■
この城が歴史上で注目されるようになるのは1560年代以降だ。駿河太守の今川家、甲斐の国主・武田家、相模の新興勢力である
後北条家は三国同盟を結び、互いを後背地として固めそれぞれの領土拡大に邁進していたが、桶狭間合戦で今川治部大輔義元が
戦死して以降、今川家は急激に衰退していく。その一方、武田徳栄軒信玄は越後の上杉不識庵謙信との戦いでそれ以上の北伐が
不可能となった為、駿河への侵攻へ矛先を変更した。斯くして1568年(永禄11年)12月、武田軍は駿河侵攻を開始。今川勢に反撃の
隙を与えぬ怒涛の進撃で各所を制圧していく。これに伴い深沢城も武田家の手に落ち、駒井右京之進昌直(政直とも)が城代として
城を守る事になる。しかし、同盟の破約を糾弾する後北条氏は今川支援の軍を発し、武田家が占領した駿河東部へと展開。1570年
(元亀元年)4月、3万8000もの大軍勢で北条左京大夫氏康・相模守氏政父子が深沢城を攻略、昌直は退去してこの城は後北条氏の
ものになった。氏康は城将として後北条家中で最も戦巧者である北条左衛門大夫綱成(つなしげ)と、智将の重臣・松田尾張守憲秀
(のりひで)を入れている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
深沢城の矢文■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
だが駿河攻略に執念を燃やす信玄は、何としても後北条家を黙らせる為の手を打っていく。既に1569年(永禄12年)10月、武田軍は
後北条家の本城である小田原城(神奈川県小田原市)を包囲、落城こそ出来なかったものの、その帰路に三増峠(みませとうげ)で
後北条軍を蹴散らし武田の強さを見せ付けた。また今川復活の為に後北条家が橋頭保としていた蒲原城(静岡県静岡市清水区)も
1569年12月6日に攻め落とし、後北条軍がこれ以上駿河で逗留する事を不可能にしていた。そうした中、駿河の国内で気焔を吐いて
いたのが深沢城である。よって信玄はこの城を黙らせるべく1570年6月に派兵、この時は兵を引き上げたものの、同年11月から再度
攻略を開始する。武田方は金鉱採掘集団である金掘衆を使って城内目掛けた坑道を掘るなどの手を用いたと言われるが、城に籠る
綱成は固く守り、戦況は膠着状態になる。そして年が明けた1571年(元亀2年)1月3日、信玄は城内に向かって矢文を打ち込んだ。■
曰く、今川は上杉に通じて武田を討とうとしたので我々の駿河討伐は正当なものであり、北条が止め立てするのはおかしい。北条が
謙信に攻められ窮地であった時は、信玄こそがそれを救った筈。それなのに我々へ兵を向けるのは筋違いであり、どうしても北条が
武田に楯突くと云うなら深沢城へ援軍を差し向けるべし。綱成よ、小田原へ援軍を請え。我々は深沢城を落とすのが目的ではない。
援軍が来たならばここで一大決戦に及ばんとするものだ、と。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
武田と手切れになった事で、北条氏康は外交方針を大転換し長年の宿敵だった上杉謙信と和を結んだ。南の後北条と北の上杉で
武田を挟み撃ちにしようとしたのだ。しかし謙信は本気で後北条と手を組む気は無かったようで、停戦こそしたものの後北条の出陣
要請には応えず、深沢城が攻められていても武田の背後を突く動きを取らない。上杉が当てにならない上、三増峠や蒲原の敗戦で
駿河での継戦余力を失っていた後北条軍が援軍を出せる見込みはない。かと言ってここで落城・玉砕しても後北条家の敗北を世に
広めるだけで、いよいよ敵を利するのみであろう。状況を的確に読んだ綱成は(流石の名将ぶりである)矢文の答えとして同月16日
深沢城を明け渡し堂々と撤退する途を選んだ。こうして綱成は自身の城である玉縄(たまなわ)城(神奈川県鎌倉市)へ帰還。またも
武田のものとなった深沢城は駒井昌直が再度の城代となり守備を担った。以後、後北条氏と武田氏は同盟の再締結へ舵を切るが
綱成の選択は「深沢城はくれてやるから、武田と北条の争いはもうこれで御終いだ」という意思表示になったのだろう。■■■■■■
綱成の忘れ物?置き土産??■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
なお、綱成と言えば“地黄八幡(じきはちまん)”の旗印で有名な勇将。敵に後れを取った事は無く、その旗印を見れば相手は恐れ、
地黄八幡は即ち直八幡(八幡の直裔)として神憑り的な強さを発揮したと言う。この旗指物が深沢城を退去する際、城内に残置され
それを手にした信玄は縁起物と喜び「左衛門大夫(綱成)の武勇にあやかるように」と、加津野市右衛門尉信昌(かづののぶまさ)に
与えた。この信昌、智謀の一族として知られる真田家の出身。後に復姓し、真田隠岐守信尹(のぶただ)と名乗った彼は戦国争乱を
巧みに生き延び、徳川幕府の時代にも旗本として家を残した。そうした経緯により、深沢城で捕獲された現存する地黄八幡の旗印は
長野県長野市の真田宝物館に保管されている。この旗印、綱成が“忘れていった”と評される事が多いが、個人的には綱成がそんな
粗忽に城を逃げて行ったとは考えられず、武田軍に対して「ここはあくまで儂の城だ!」と見せ付ける為にわざと置いて行ったのでは
ないかと思うのだが…。そうでなければ、信玄が戦利品として有り難がる事は無かろうて(笑)■■■■■■■■■■■■■■■■
武田の統治時代、駒井昌直の他に駒井宮内大輔や小山田大学助(いずれも武田家臣)と言った将も在城している。■■■■■■■
その武田家も信玄没後に急速な弱体化を見せ、1582年(天正10年)織田信長・徳川家康連合軍の侵攻を受けて滅亡。この折、城将
駒井昌直は前線に取り残される愚を悟り、城を自焼させ粛々と甲斐へ撤退していく。つくづく深沢城は“撤退”に縁がある城である。
ただ、武田家滅亡直前に小山田大学助は信濃高遠城(長野県伊那市)の守りに回され、彼の地で討死している。■■■■■■■■
結果、徳川家のものとなった深沢城は後北条氏に対する備えとして復興され、家康家臣・三宅惣右衛門康貞(みやけやすさだ)が
城主に任じられている。深沢の地は足柄山塊の西麓に位置し甲斐・相模・駿河を扼する要衝である。街道を伝えば足柄峠を越えて
小田原に、また篭坂峠を経て甲斐の郡内地方へ至る。徳川領の最東端を防備するに必要不可欠な城であった。それ故、徳川家と
後北条家が信長横死後の甲信地方領有を懸けて争った天正壬午の乱や、家康が総力戦で羽柴筑前守秀吉と戦った小牧・長久手
合戦などの折、この城は国境防衛の為に重要な働きを果たしている。さりとて、1590年(天正18年)に後北条氏が豊臣秀吉によって
滅ぼされ、徳川家が関東へ移封されると、深沢城は不要なものになって廃城とされた。以後、城跡一帯は耕作地へと変貌し、永い
眠りについたのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
蛇行する川に沿った名城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城は御殿場市域の北東隅に近い場所、御殿場市営東運動場(野球場)のほぼ真北400m程の位置にある。ここは北西側に馬伏川
(まぶせがわ)が流れ、南東側にはその支流である抜川(ぬけがわ)があり、両川が合流する地点だ。2つの川に挟まれているため
細長い敷地は必然的に全周を川で囲まれ、出入口は南西側の1箇所に絞られる。ここから川の合流部(城地北端)に向かっていく
敷地を複数の曲輪として分割、その間は深い空堀で区切られている。曲輪内部は農地化によって均され、恐らく往時はあったで
あろう土塁も殆んど消滅、そして農作業用の車道が貫通してしまっているが、概ね曲輪の形状は手付かずで残され、空堀も各所
現存していて見学もし易い。現地案内板によれば最も奥の曲輪が主郭、その手前が二郭、更に手前が三郭というように記されて
いるが、高低差や険峻さを見れば中央の区画(案内板で二郭とされている所)が最も険要な構造になっており、本来はそこが主郭
だったのであろう。よってここではそれを主郭とし、前衛の曲輪(案内板の三郭)が二郭、奥の曲輪は捨曲輪とする。主郭の北と南
(それぞれ他の曲輪と連結する部分)には丸馬出が置かれ、しかも通路は食違いになっており、この曲輪を中心に守備する形態が
取られていたのが明らかだろう。数少ない土塁残存部も本曲輪の内側に集中しており、農地化でも崩し切れない程に固められて
いたのだと想像できる。加えて、馬伏川はこの曲輪の直下でヘアピンカーブを描く複雑さを見せており、これも主郭を側面からは
攻撃できなくする天然の要害として活用したものであろう。川床と曲輪内の比高差は5m程だが、川の流れが削った断崖はそそり
立ち、そこを這い上がるのは甚だ困難。川と空堀、土塁と丸馬出、前後左右はしっかり固められていた訳である。■■■■■■■
他方、捨曲輪は全体的に“緩い”構造である。起伏も激しくなく、ひたすら大きく広がり、川に囲まれてこそいるが防備は固くない。
ここでは城主や一族の居住空間、または兵の駐屯地のような用いられ方をしたのかもしれないが、戦時となれば主郭に引き上げ
まさしく“捨てられた曲輪”となるのだろう。3方向を川に塞がれている為、敵がこちらから侵入するとは思えず、仮に入って来ても
主郭の前に控える丸馬出で敵勢を阻止できると踏んでいたのか。それ程までに、主郭と馬出部の一点防御は固い構造であった。
反対に二郭側には細かい帯曲輪や馬出状の堡塁が連なり、城外へ至る部分(大手口である)の前後には三日月堀も構えられて
陸続きで攻め込んで来る敵に対しては連続した障害を積み重ねて排除する意図が感じられる。先程から出て来る単語を見れば
丸馬出、一点防御、そして三日月堀と、「武田流築城術」で構成されている事は明らかだ。北条綱成の退去以降、この城は武田が
じっくりと作り込んだ歴史によって完成されたという証左が、縄張からハッキリと見て取れるのでござる。何より、城跡から見上げる
富士山は格別(写真)、周辺も昔ながらの田園地帯で心癒される。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1960年(昭和35年)2月23日、御殿場市の史跡に指定。綺麗に残された城跡は初心者にも分かり易いが、私有地(耕作地)なので
見学時にはやたらと踏み荒らしたり騒ぎ立てたりせぬよう気を付けたい。駐車場も無いので路駐する事になるが、これも細い生活
道路沿いなので地元の方々の邪魔にならないよう。近隣にある曹洞宗寺院の大雲院(だいうんいん)に大手門が移築され残存、
静岡県駿東郡小山町の曹洞宗向嶽山十輪寺(じゅうりんじ)には搦手門が移築されて残る。■■■■■■■■■■■■■■■
それにしても、深沢城の現地案内には「二鶴様式」という独特の用語が書かれている。これって何?馬伏川のルビも「ばぶせ」で
(鮎沢川水系の支流として定義されているのは「まぶせがわ」が正当)地元の事なのに本当に大丈夫なの?と甚だ疑問…(苦笑)
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