遠江国 相良城

相良城址碑

 所在地:静岡県牧之原市相良・波津
 (旧 静岡県榛原郡相良町相良・波津)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

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相良の町の歴史■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
遠州相良の城と言えば、江戸時代中期の“賄賂政治家”として有名な田沼主殿頭意次(おきつぐ)の城として知られる。
さりとて近年、田沼の評価は改められ“先進的な経済政策を採った賢者”として語られるようになりつつある。同様に、
相良城も「田沼の城」と言うだけではない歴史を有しており、まずは「相良城前史」から触れてみたい。■■■■■■■
平安中期から鎌倉時代にかけて、相良の地には相良荘の荘官である相良氏の館(相良氏館)が築かれていた。この
相良氏とは、藤原南家(乙麻呂流)の流れを汲む遠江権守為憲(ためのり)が工藤大夫を名乗って工藤氏の祖となり
彼の後裔である工藤周頼(かねより)が(為憲から周頼までの系譜は諸説あって判然としない)1112年(天永3年)頃に
相良へ入植して相良姓を名乗った事に始まる。相良氏館が築かれたのは現在の牧之原市立相良中学校付近だとも、
或いは萩間川を挟んだ対岸の大沢飛地の辺りだとも伝えられる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
以降、相良氏は光頼―頼寛―頼繁―頼景と続く(頼寛と頼繁の間に時邑が入る説も)。この頼景の頃に源平合戦期を
迎えたが、相良頼景は一貫して平氏方へ従い続け遂に敗北する事となり申した。鎌倉幕府を開く源頼朝に許しを請い
何とか御家人の列に加えられたものの旧領・相良荘は没収されたようで、結果として1193年(建久4年)肥後国球磨郡
多良木(たらぎ)荘(現在の熊本県球磨郡多良木町)へと落ちて往く事になる。そう、後に九州の戦国大名となり、江戸
時代には人吉藩(熊本県人吉市)を預かって明治維新まで家を繋いだ相良氏はここの出自なのでござる。余談だが、
工藤氏の後裔には伊豆国伊東(静岡県伊東市)に入植した伊東氏もおり、伊東氏も中世になると日向国(宮崎県)へ
居を移し、戦国争乱から徳川幕藩体制にまで名を残した。相良氏と伊東氏が似た運命を辿ったのは何かの偶然か?
さて、相良氏は後に鎌倉幕府から旧領・相良の回復を認められるが、室町時代には近隣の土豪・勝間田(かつまた)
氏が占拠するようになった。勝間田氏はこの地の支配として3kmほど北の山中に滝堺城(牧之原市内)を築く。■■■
戦国期に入ると、甲斐の武田勝頼が高天神城(静岡県掛川市)を攻略し遠州を支配下に置き、相良館跡地に築城を
行った。この城は後の田沼氏による相良城と区別して「相良古城」と称される。山城である滝堺城から相良館の故地に
拠点を移したのは、萩間川での河川流通と相良湊を経由した海上交易路を一挙に掌握する経済管制の目的があった
ためだと考えられる。相良古城の構築は1576年(天正4年)3月の事で、武田四名臣の1人・高坂(こうさか)弾正昌信が
縄張りを執り行ったとの記録がござる。だが、この時すでに武田家は徳川家からの攻勢に圧され、徐々に遠江国での
支配権を失いつつあった。よって1581年(天正9年)7月に相良古城は落城、廃城となる。相良の地を得た徳川家康は
周辺で鷹狩りを催す拠点として城の跡地に御殿を築いた。時は1586年(天正14年)、これを相良御殿と申す。■■■■
江戸時代に入ると、暫くは幕府直轄地であったが、1710年(宝永7年)閏8月に三河国伊保(いぼ、愛知県豊田市)から
本多弾正少弼忠晴(ただはる)が1万5000石で入封、相良陣屋を築いて統治拠点とした。本多家は2代・弾正少弼忠通
(ただみち)―3代・越中守忠如(ただゆき)と継ぐも、1746年(延享3年)9月に陸奥国(磐城国)泉(福島県いわき市)の
板倉佐渡守勝清と領地替えになった。その勝清は1748年(寛延元年)に5000石を加増され2万石となるが、翌1749年
(寛延2年)2月6日に上野国安中(群馬県安中市)へと転封する。それに代わり三河国挙母(愛知県豊田市)から本多
長門守忠央(ただなか)が1万石で入封した。忠央は西ノ丸若年寄となり、幕政の中核を担った人物だが、在任中に
美濃国郡上(岐阜県郡上市)一帯で発生した巨大一揆(郡上一揆)の責任を問われ失脚。1758年(宝暦8年)忠央は
領地没収の改易処分を受け、彼の審理を行った田沼意次が相良へと配される事になるのでござる。■■■■■■■

経済の天才・田沼意次の入封■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
田沼家の興りは鎌倉時代、下野の名族・佐野氏から分流して下野国安蘇郡田沼村(現在の栃木県佐野市田沼町)に
土着した重綱が田沼へと改姓した事に始まる。以来およそ400年、大坂の陣で田沼吉次が鉄砲の名手として名を馳せ
その腕を買われて紀州藩(和歌山県和歌山市)へ仕えるようになる訳なのだが、紀州藩主・紀伊徳川家から8代将軍
徳川吉宗が輩出された事で、田沼家は陪臣から幕臣へと格上げされる。意次の父・主殿頭意行(おきゆき)が吉宗に
随伴し将軍小姓となって旗本へ列せられ、その子たる意次は将軍嫡子(後の9代将軍)・家重の側近に取立てられた。
然る後、意次は家重や10代将軍・家治に重用されていき、それに伴って石高を増やし遂には相良藩を有するに至る。
入封時、意次の領地は多数の飛地を纏めて丁度1万石だったが、1762年(宝暦12年)に5000石、1767年(明和4年)7月
1日に側用人へ登用され更に5000石を加増、合計2万石となった所で城持大名を許され、近世相良城が築城された。
1768年(明和5年)から開始された築城工事は都合11年に及び、1780年(安永9年)に完成。この間、意次は老中にまで
出世しており国元へは戻れず、築城差配は家老の井上伊織良矩(よしのり)に委ねていた。縄張は北条流軍学者の
須藤治郎兵衛が執り行い、3重天守も構えたと言う。田沼家の石高は1769年(明和6年)8月18日と1772年(明和9年)
1月15日にそれぞれ5000石ずつ(意次の老中格・老中昇進による)、1777年(安永6年)4月21日に7000石が加増され
猶も1781年(天明元年)7月15日に1万石、1785年(天明5年)1月21日にも1万石が与えられ(但し、大半が飛地支配)
最終的に5万7000石まで増やされるものの、5万石程度の石高で城持大名になること自体が異例な上に、相良城に
天守まで揚げたとあっては、当時の権勢が如何に凄かったのかが垣間見えよう。■■■■■■■■■■■■■■■
飛ぶ鳥落とす勢いの田沼様にあやかろうと、件の“賄賂攻勢”が方々から起き、意次は“悪徳政治家”のイメージへと
傾いていく訳だが、こうした恩恵(?)とも言えるのが「仙台河岸」と呼ばれる相良城の船着場造成であった。先に武田
勝頼が相良の水運掌握を狙ったと記したように、相良の港は太平洋航路の重要拠点だった訳で、経済観念に優れた
意次は相良湊と相良城を一体化した整備を行わんと企図し、それを仙台藩(宮城県仙台市)主・伊達重村が寄進する
形で工事されたのが仙台河岸なのでござる。当時、重村は朝廷官位を従四位上・左近衛権中将へと昇進すべく幕府
要人へ積極的に働きかけており、その一環として田沼家への手伝普請を申し出た訳である。仙台河岸は見事な切込
ハギの石垣で固められ、城の濠が船着場となってそこから萩間川や駿河湾・遠州灘へと漕ぎ出せた。なお、意次の
相良城下整備策はこれだけに留まらない。東海道の本筋から分かれてしまう位置にある相良へ、東海道藤枝宿から
分岐する街道(田沼街道)を整備した(道そのものは旧来からあったが、田沼時代に拡充された)り、町の防火対策、
領内の殖産興業(養蚕や製塩の奨励など)に取り組み、相良一帯は大いに発展したとか。意次は相良築城を自身の
権威付けとして行ったのではなく、あくまでも経済政策全体の隆盛として捉えていたのでござる。■■■■■■■■■

田沼家の凋落と、悲願の旧領復帰■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
だが、一極集中する権力は意次への逆風となって現れる。他の為政者から嫉みや不満が高まる中、意次の嫡男で
将来を嘱望されていた幕府の若年寄・山城守意知(おきとも)が江戸城(東京都千代田区)中で旗本の佐野善左衛門
政言(まさこと)に斬られ死亡する事件が発生。これを機に不運が重なり、田沼家の凋落が始まった。相次ぐ天災にて
幕府の財政は悪化、意次が進めていた印旛沼(千葉県印西市周辺)の干拓事業は失敗、そして後ろ盾となっていた
将軍・家治の死去で急激に反田沼派が台頭。意次は1786年(天明6年)8月27日に老中を罷免され、同年閏10月5日
2万石を没収。更に追加で1万石の減封が命じられた上に意次の隠居が決定し、1787年(天明7年)孫の下野守意明
(おきあき、意知の長男)が家督を継ぐも、翌1788年(天明8年)田沼家は1万石へと石高を減らされて陸奥国(岩代国)
信夫(しのぶ)郡下村(福島県福島市)へ移され申した。斯くして相良城は廃城処分となり相良領は天領に加えられ、
相良城は徹底的な破却が行われてしまう。近世城郭でありながら現状で城跡には殆ど遺構が残らないのはこの為で
天守まであったと言う壮麗な城が見る影もないのは、非常に惜しい話だ。そして田沼家没落の引き金となった意知の
暗殺が、遡れば同族であった筈(諸説あり)の佐野氏によって行われたのは何たる皮肉であろうか。■■■■■■■
なお、相良城破却の任に当たったのは岸和田城(大阪府岸和田市)主・岡部美濃守長備(ながとも)であった。■■■
ところで、下村藩へ移った田沼家は、意明の後に左衛門佐意壱(おきかず)―主計頭意信(おきのぶ)―主計頭意定
(おきさだ)を経て内膳正意正(おきまさ)と継がれた。その意正は1823年(文政6年)7月8日、念願叶って旧領・相良へ
復帰を果たす。斯くして相良藩が復活する訳だが、この意正はなかなかの苦労人でありながら有能な人物だったらしく
11代将軍・徳川家斉や老中・水野家の引き立てを受けて栄達、相良藩復興を成し遂げた。意正は意次の4男である。
父や兄の無念を35年ぶりに雪ぎ、将軍・家斉の信任を勝ち取った手腕を称賛したい。以後、相良藩主は備前守意留
(おきとめ)―玄蕃頭意尊(おきたか)と続き明治維新を迎えるが、城の復活は成らず城跡に相良陣屋を置いて統治を
行った。1868年(明治元年)9月5日、相良藩は除封されて田沼家の時代は終わる。■■■■■■■■■■■■■■

穏やかな相良の町に■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
相良城は平野に築かれた平城。特に川沿いに築かれ海も近接し、水運を重視した水城としての側面が強い。現在の
牧之原市役所相良庁舎(旧相良町役場)や牧之原市史料館の敷地が本丸跡、牧之原市立相良小学校が二ノ丸跡、
静岡県立相良高等学校が三ノ丸跡だそうで、東側の萩間川を背にした概ね連郭式の縄張りであったと推測される。
市役所相良庁舎、つまり相良町役場が本丸跡にあると言うのが、昔からここが施政の中心であった事を滲ませよう。
その相良庁舎の東側、相良中学校のプール南面沿いには細い用水路が流れており、その護岸として部分的に残る
石垣が、かつての仙台河岸遺構。仙台河岸には千石船が横付け出来たと言い、即ち軍船が相良城の本丸に直結し
乗り付けられた事を意味する。この用水路も往時はもっと広い濠だった事だろう。石垣はやや隠れた所にあるので
見つけ難いが、綺麗な切込ハギは今でも健在なので必見でござろう。この仙台河岸は1966年(昭和41年)9月20日、
当時の相良町が町史跡(現在は牧之原市指定史跡)にしている。また、二ノ丸跡(相良小学校グラウンドの南端)に
断片的ながら土塁が残存。その土塁上に植わるクロマツの木は相良城時代からのものと伝わり、計16本が1976年
(昭和51年)12月8日、同様に相良町天然記念物として指定され候。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
移築された遺構としては、廃城前の1782年(天明2年)に御殿と書院の一部建築が藤枝宿に所在する日蓮宗円妙山
大慶寺へと寄進されており、現在も同寺の庫裡として残存しており申す。加えて、牧之原市大沢にある曹洞宗圓覚山
般若寺には相良城大書院にあった襖戸(狩野典信(みちのぶ)作と伝わる)6枚が移設され寺堂に組込まれている。
相良城破却の際、競売にかけられここへ移されたそうな。他に襖戸2枚は徳川家康の鷹狩御殿であった相良御殿に
あったものと言われ、これらの杉戸8枚が1971年(昭和46年)7月23日に相良町指定文化財となってござる。■■■■
本丸跡、牧之原市史料館の脇には「相良城址」の石碑(写真)。この字は第16代徳川宗家当主・家達(いえさと)の
揮毫である。遡れば田沼家は徳川吉宗・家重・家治に重用され、家斉も幕政から追われた田沼家の復権を認める
意図で田沼意正を相良に戻している。政敵である松平越中守定信らが殊更“金満政治家”と貶めた事で田沼家は
日本史上有数の悪役に仕立てられたが、重商主義の採用は後の近代資本主義社会への萌芽と見るべきで、意次の
才覚は江戸幕府の救世主となり得るものだった。将軍家が重用したのは正しい選択だった訳であり、何より現代でも
相良では“町の誇り”たる名君として語り継がれているのが救いでござろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

石垣《市指定史跡》・堀・土塁・郭群

移築された遺構として
杉戸6枚《市指定文化財》・大慶寺庫裡(御殿・書院)
大鐘屋敷石垣(相良城石垣石材転用)








遠江国 大鐘屋敷

大鐘屋敷 長屋門と石垣

 所在地:静岡県牧之原市片浜字大磯
 (旧 静岡県榛原郡相良町片浜字大磯)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★☆
★★☆■■



武家居館に始まる■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
静岡県榛原(はいばら)郡相良町は2005年(平成17年)10月11日に同郡榛原町と合併して牧之原市になったのだが
旧相良町の北限に近い片浜の地、海を臨みつつ山岳地へ傾斜する場所にあるのが大庄屋・大鐘(おおがね)氏の
屋敷だ。海岸線と並行に走る国道150号線と直交する道を西へ入っていけば、その道は緩やかに登って行き、山を
背にした突き当りに屋敷の長屋門(写真)が現れる。まるでそこだけ江戸時代のまま…という風景に驚かされるが、
敷地は周囲より一段高く構えられ、威厳を更に高めるような雰囲気が見える。屋敷を取り囲むように見事な石垣が
配されているのだが、この石材は相良城(上記)廃城時に買い取られ相良から移設された物だそうでござる。■■
庄屋の屋敷と記したが、この頁で紹介するからには元々武家居館として築かれたものである。大鐘氏は尾張国の
武士で、詳しく記すと尾張国高針(愛知県名古屋市名東区)出身の大鐘家7代目・籐八郎貞綱は、織田信長の重臣
柴田修理亮勝家に仕え、勝家の甥である伊賀守勝豊(かつとよ)の家老となっていた。信長の領土拡大と、勝家の
出世、そして本能寺の変に伴って勝豊は近江国長浜城(滋賀県長浜市)を預かるようになるのだが、勝家と勝豊の
間には確執も多く、遂に勝豊は敵対する羽柴筑前守秀吉へ城ごと寝返ってしまう。これを契機とし賤ヶ岳の戦いに
至り、勝家は滅亡の途を辿る一方、勝豊も病を得て程なく死去してしまった。長浜城は秀吉家臣・山内対馬守一豊
(やまうちかつとよ)の城となり、賤ヶ岳で羽柴方として参戦していた貞綱もそれに組み込まれるのである。この後、
秀吉が全国統一を成し遂げると1590年(天正18年)9月20日、一豊は遠江国掛川城(静岡県掛川市)へと移封され
貞綱は相良を治めるよう移住させられた。斯くして大鐘氏はこの地に入り、江戸時代になると徳川家の旗本となって
3000石の格式を有したが、江戸中期には帰農し上記の如く大庄屋になった。とは言え、1万坪もある武家屋敷の
構えはそのままで、主屋の脇には白洲もあって簡易な裁判などもここで行われたようだ。要するに、庄屋と云えども
この村の統治拠点であり、庄屋制度が終焉を迎えるまでここが大磯村(当時の村名)の中心だった訳だ。■■■■

まるで江戸時代のまま■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
屋敷の入口には長屋門、その奥には主屋があり、敷地内にはいくつかの蔵も。当時のまま残存する建物が多い中
長屋門と主屋は国の重要文化財に指定されてござる。まず長屋門だが、桁行11.8m×梁間4.3mの茅葺寄棟造り。
屋根の棟には当時の格式を示す笠木が載り、それを千木9本が支えている。1781年(安永10年)創建とされるので
居館が作られた当時からある建物ではなく、屋敷を改修した際に建て直したとか火災に遭ったため再建したという
感じだろう。他方、主屋は18世紀初頭の建築。桁行19.2m×梁間12.9m×高さ8.9m、建坪160坪(528u)の大きさ。
四面庇付の桟瓦葺切妻造りだが、元は草葺きだったと云う。部屋数は15室もあり、建物の奥には大きなかまどが
備えられ、使用人30人分の煮炊きが出来たそうだ。その他、座敷に家族用のかまどもある。江戸期の身分統制が
こうした所にも表れている訳だ。建物の骨組みとして黒松を使った太い梁が何層にも組まれ、大黒柱は2本もあり
雄大黒・雌大黒と呼ばれている。これらの建材は手斧(ちょうな)削りで仕上げられ、楔止めとされているので鉋や
釘は使われていない。江戸時代の古式に則った建築物である。建物内部、天井は低く作られており、これは刀や
槍を振り回せないよう防備を固めた計算。この大鐘屋敷が武家居館として築かれた名残でござるな。1966年に
相良町文化財に指定された主屋・長屋門は1971年に静岡県の古民家緊急調査を受け、1972年(昭和47年)7月
12日に静岡県の重要文化財、次いで翌1973年(昭和48年)6月2日には国の重要文化財へと指定され申した。
主屋は今なお大鐘家の方がお住いの現役住宅だが、見学の為に屋敷は一般公開されており、脇にある米蔵が
史料館になっている。敷地内には季節ごとの花が咲き誇り、別名「花庄屋」と呼ばれている程の観光名所であり
この地方の農村文化を伝える役割も果たしている。駐車場も広大、車さえあれば来訪は簡単でござろう。■■■■



現存する遺構

主屋・長屋門《以上国指定重文》・米蔵等
石垣・土塁・郭群




庵原郡域諸城郭  深沢城