駿河国 江尻城

江尻城址碑

 所在地:静岡県静岡市清水区江尻町・宝町・小芝町・二の丸町 ほか
(旧 静岡県清水市江尻町・宝町・小芝町・二の丸町 ほか)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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武田家が生み出した「水城」@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
別名で小芝城、於芝城とも。武田信玄による駿河侵攻において築かれ、武田氏滅亡と共に役割を終えた城と言えよう。
今更説明するまでもないが、甲斐の武田信玄は駿河の今川義元と同盟を結び、信濃攻略という北進政策を採っていた。
強大な今川家に背後を託し、宿敵・上杉謙信との戦いに明け暮れていた訳だが、義元が桶狭間合戦により敗死して以来
今川の家督を継いだ氏真(義元嫡男)は文弱の将で、急激に勢力を衰退させていく。丁度その頃、謙信との戦いでは
これ以上の成果が望めないと悟った信玄は「ならば南へ」と矛先を駿河に向けていく。もはや頼るに値しない今川家へ
同盟を破棄して1568年(永禄11年)12月、怒涛の進撃を開始。今川残党の抵抗、もう1方の同盟相手であった後北条氏の
介入、遠江側から今川領を侵食した徳川家康の動向など、決して簡単な駿河侵攻戦ではなかったが、それでも武田軍は
1570年(元亀元年)頃には駿河の領国化を完了させたようである。従来、駿河における中心地と言えば今川館のあった
駿府(駿河府中、現在の静岡県静岡市葵区・駿河区)であったが、信玄はここ江尻に新たな城を築いて統治の拠点とする。
こうして築城されたのが江尻城だ。正確な築城時期は諸説あり、1568年の時点とも言われるが、少なくとも1570年には
機能するようになっていたらしい。清水湊に流れ込む巴川の河口部分、流路が緩やかに弧を描く地点を利用し、城郭の
南側は川に面した縄張りとして背後を固めると共に、海と川の両面から水運を活用する事が目的だった。中世においては
現在よりも遥かに舟運が重要視されていたので、船を直接城内に乗り付けられるこの場所に城を築くのは当然の事だろう。
清水湊は武田の本国・甲斐から流れる富士川と駿河を縦断する安倍川の中間地点にある上、東海道や身延街道などの
陸路も扼する要衝であり、物流・情報・人的交流に最適な場所と判断された訳だ。信玄は築城の名手と呼ばれた配下武将
馬場美濃守信房(信春とも)に縄張りを命じ、今福和泉守を築城奉行に任じて工事を行わせる。武田左衛門佐信光が守将、
城の完成後は腹心の部下・山県三郎兵衛昌景を城代に入れた。馬場に山県と来れば、武田家中で最強の武将らである。
信玄が如何にこの城を重視していたかが窺えよう。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

長篠合戦、そして関ヶ原合戦@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
その徳栄軒信玄が1573年(天正元年)4月12日に志半ばで没し4男である四郎勝頼が武田家の家督を継ぐと、彼は東海
地方への進出策を更に強化し徳川領への侵攻を進めて行くものの、1575年(天正3年)5月21日の長篠合戦にて大敗北を
喫してしまう。武田方と織田・徳川方の攻守が逆転する機となったこの戦いに於いて、山県は戦死してしまった。長篠から
甲斐へと逃げ帰った勝頼は、戦後処理に忙殺される中で江尻城主の後任に武田一門衆筆頭の穴山玄蕃頭信君を充て
駿河における早急の立て直しを命じている。実は、勝頼は信君を信用しておらず家臣からも排斥の訴えを受けていたが
並み居る歴戦の武将らが一挙に失われた長篠合戦後にあっては人事の選り好みが出来る状態でもなく、一門の重鎮・
信君を駿河に入れる事で睨みを利かせようとしたようである。信君は1578年(天正6年)頃から江尻城の拡張工事を行い
「観国楼(かんこくろう)」と言う高層建築(天守に類する物見櫓であろうか?)を創建。城下町の整備にも力を入れるなど
一見その責務を全うする働きをしていたが、武田領へ織田信長の大侵攻が始まった1582年(天正10年)2月、織田方へ
早々に降伏し更には甲斐進撃への道案内まで買って出る有様。一説に拠れば、信君は事前に織田・徳川へ内通しており、
既に裏切る事は既定路線であったようだ。勝頼の懸念は見事に的を得ていたが時すでに遅し、武田家は滅亡に至った。
勝頼の死後、駿河の武田遺領は徳川家康のものとされ、信君はその配下に収まる。江尻城はそのまま信君の預かる
城となったが、同年6月には本能寺の変が勃発し織田信長も帰らぬ人となる。事変の折、家康と信君は共に堺の町を
見物していたが、急変に際して帰国を余儀なくされた。この時、家康は伊賀越え、信君は宇治越えの途を選んだと言われ
家康は無事に本国の三河へ帰還したものの、信君は道中で落武者駆りに遭って落命。斯くして城主を失った江尻城は、
信君の嫡男・武田信治こと穴山勝千代が城を守る事となった。勝千代が武田姓を名乗るのは、信君が勝頼を裏切った際
信長に降伏の条件として我が子を武田家の後継とするよう認めさせた事による。されども勝千代、この時わずか11歳。
とても城主としての任を務める事など出来ず、江尻の地は実質的に徳川家の直接支配が及ぶようになり、江尻城番として
家康家臣の本多作左衛門重次・天野三郎兵衛康景(この2人は三河三奉行のうち2名)・深溝(ふこうぞ)松平家忠らが
統治に当たった。しかも勝千代は1587年(天正15年)6月7日、16歳で夭折。更には豊臣秀吉の国替えで駿河は1590年
(天正18年)中村式部少輔一氏の領国となり江尻城主として一氏家臣の横田隼人が入るも、関ヶ原合戦を経た1601年
(慶長6年)内藤三左衛門信成が駿府城主となった事で廃城処分となった。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

町割りに残る城郭の姿@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
現地案内板に拠れば、江尻城は巴川の北岸に置かれ、川を背にした主郭の西~北~東を覆う形で二ノ丸が展開、さらに
それを覆う形で同形状の三ノ丸や外郭が広がっていた縄張。これらの曲輪間は武田氏御得意の丸馬出で封じていたらしく、
この縄張図を見る限り、信州の松本城(これも馬場信房が縄張したと伝わる)にそっくりである。この城を起点とし、東側に
城下町が並んでいたようで、現在の地図に当てはめると銀座通りが大手筋の路に合致する。銀座通りの東端は清水港に
行き当たり、清水の町が江尻城の開府以来、城と湊を基軸に作り上げられていった様子が垣間見えよう。廃城後、城は
街地や農地に改変されていったがその町割りは基本的に現在まで残っていて、清水区内には「二の丸町」という町名や
「鋳物師町(城下町の旧町名)公園」という公園名が今でも名残りとして使われている。しかし、城の地形的な基盤は
(太平洋戦争後まで形を留めていたようだが)再開発などでほぼ完全に失われてしまった。宝町7~江尻町11にかけて
蛇行する路地がかつての水路を暗渠化したものか?と思わせる程度でござろう。清水江尻小学校の敷地と中部電力
江尻変電所のあるあたりが往時の主郭とされ、小学校校庭の隅(魚町稲荷神社側)に置かれている城址碑(写真)が
唯一、城跡を証するものと言える。この城址碑は、1909年(明治42年)当時に主郭部一帯を所有していた本郷町在住の
望月健吉氏が建てた物。当初は主郭跡に小公園を造りそこへ建てていたものだが、1923年(大正12年)に公園を廃して
工場を建設する事となった為、近隣にある小芝八幡宮の境内に移されたものの、戦後に江尻小学校となった旧地へ
1995年(平成7年)3月に戻されたそうな。この魚町稲荷神社や小芝八幡宮、二の丸町3にある二の丸稲荷神社といった
近隣寺社はいずれも江尻城の城内鎮守に由来するものだろう。これも旧城のよすが、と言えなくもない。@@@@@@
全くの余談だが、先程から話に出てくる「二の丸町」にある産院で落語家の春風亭昇太師匠が御生まれになったそうだ。
自分の産まれた場所が「二の丸」という“城に関係する地名”であった事から興味を抱き、城好きになられたとの話。
武田信玄は駿河を押さえる城と共に、城好きの噺家も生み出したのでござる(笑)@@@@@@@@@@@@@@@@







駿河国 庵原山城

新東名建設中の庵原山城跡

 所在地:静岡県静岡市清水区山切・草ヶ谷
(旧 静岡県清水市庵原町山切・庵原町草ヶ谷)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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新東名の橋台となった城@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
地元では「城山」と呼ばれ、単に庵原城ともされる。その名の通り、戦国時代の地元武将・庵原氏の城と伝わるが詳細は
定かではない。庵原氏と言えば戦国大名・今川氏の重臣として良く知られ、今川義元の養育僧にして軍師でもある
太原崇孚雪斎(たいげんすうふせっさい)の出自としても名高いが、そもそもこの庵原氏という氏族自体が実はあまり
詳しい事が分からないのである。遡って大和神話における吉備一族(日本武尊の従者として東征)の後裔とされる一方
藤原秀郷からの血族とされる衆もおり、これら数々の「庵原氏」が混然となって今川家臣の一団を形成していたらしい。
当然、このように混沌とした庵原氏の城たる庵原山城も来歴不詳となる訳で、古くは鎌倉時代の創建と見る説があるも
一般的には室町時代のものと考えられるが明確な史料・文献もなく、伝わる話では1568年の今川家滅亡後に武田家臣へ
与した朝比奈駿河守信置がこの一帯を領有して居城にしたと言う程度。信置は庵原山城を拡張工事したと言われるが
だとすれば、もはや庵原氏の手を離れた時代からこの城の明確な話題が生まれる事になる上に、1582年に武田氏が
倒された折、信置一門はこの城で(山麓の居館だとする説もある)討ち滅ぼされてしまい、以後廃城となったと言う事で
庵原山城の歴史は非常に混迷する中で消え去ったと云うのに尽きるのである。しかも混迷具合は現代にまで至る話で、
近代に入ってミカン畑として使われていた城山は、2005年(平成17年)頃から開始された中部横断道建設工事により
城跡遺構の上に乗っかる形で高速道路が設置される事となり、遂にその姿を完全に失う事となり申した。現在、城山は
東名~新東名高速連絡道における「天然の橋脚」として第二の人生を送っている。写真は建設中の状況。@@@@
元来、この山は北西から南東へ一列に延びる尾根を形成しており、北西の山頂部が主郭、そこから尾根沿いに曲輪を
一直線に並べる梯郭式の縄張りを成していた。この主郭群の下段、山腹にいくつか張り出す形で腰曲輪を突き出し、
全周を警戒できる構造になっていたが(ミカン畑はこうした曲輪をそのまま活用していた)、高速道路はちょうど主郭群に
沿って貫通しており、即ちほぼ全ての遺構を潰していった事になる。ごく僅かに腰曲輪の1つ2つが難を逃れたようだが
それも工事時に大きく造成を受けており、現状で明瞭な遺構は期待できない。工事前の写真を見ると、見事な段曲輪や
ザックリと削り込まれた大堀切があったものの全滅の憂き目を見ており、高速道路の敷地内であるため残された部分も
立ち入るのは憚られる状態でござる。来歴の詳らかでない城が辿る運命とは、往々にしてこのようなものである。無念。







駿河国 横山城

横山城址碑

 所在地:静岡県静岡市清水区谷津
(旧 静岡県清水市谷津)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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街道と舟運を監視する城@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
国道52号線「承元寺入口」交差点の西側にある標高97mの山が横山城(興津城)址だ。麓との比高は約60m。興津川の
右岸から川に向かって突き出した山塊は、興津川支流の蛭沢という谷戸が西側へも回り込んで隣接する山と分断され
ちょっとした独立峰の様態を成す。当に築城好地と呼べるこの山は、眼下に興津川の水運を活用しつつ、東海道から
甲斐方面へ繋がる街道である身延道も管掌し得る戦略的要地でもあった。身延道は現在国道52号線として整備され、
山の東側を通り抜けているが、当時は蛭沢の谷戸を越えていく西側の経路だったらしい。ならば、横山城は東に川筋、
西に街道を睨む二正面の要塞となっていた筈だが、もともとこの山塊は東西に長い尾根となっている為、まさにその向きで
戦闘縦深を採れる縄張を構成していた模様。現地案内板の模式図を見れば、この尾根の高低差を利用しほぼ一直線の
梯郭式曲輪群を並べていたとされてござる。構造的には庵原山城と同様(庵原は南北、横山は東西に延びる)だと言える。
南側山麓、やや湾曲した山列が抱え込むような形になる平地には平時の館が構えられていたようで、その敷地を囲む
土塁の直線列が現在も部分的に残っている。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
興津城という別名の通り、現地の豪族・興津氏の用いた城と考えられている横山城。興津氏は入江氏(藤原氏)から
派生した一族とされ、維道(近綱とも)なる者を祖とし「保元物語」(平安末期の軍記物)に息津(おきつ)四郎の名が
「承久記」(鎌倉期の軍記物)には興津左衛門の名が記されている。鎌倉幕府の創立で興津氏は興津郷の地頭職に、
後の興津美作守氏清の代には富士上方上野郷(静岡県富士宮市)の地頭も兼ねたと「大石寺文書」に残されており、
室町幕府の成立以降、今川氏が駿河守護を務めるようになるとその配下に加えられた。延文年間(1356年~1361年)
興津美作守はそれまでの居館であった興津館(静岡市清水区興津本町字古御館)からこの城に移ったというのが
築城起源。山頂部に曲輪を造成し、麓に館を置く形態は既にこの時点で成立したようだ。室町~戦国時代にかけて
興津藤兵衛尉・興津彦九郎宗鉄・興津三郎左衛門らの名が諸史料に見受けられる。高名な連歌師・飯尾宗祇の
後継者として知られる柴屋軒宗長は興津氏と親交があり、その著作「宗長日記」では数度に渡り横山城を訪れた様子が
記され「春の雲の よこやましるし なみの上」との歌が1525年(大永5年)に“興津横山の城にて”詠まれたとある。
(宗長の生まれは駿河国志太郡島田(静岡県島田市)で、今川氏に仕えていた経歴がある)@@@@@@@@@@@@

武田家が占拠@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
興津氏歴代の居城であった横山城であるが、1568年の武田信玄による駿河侵攻で落城。武田軍は交通の要衝である
この城を早々に確保して改修を行っている。江尻城主・穴山信君の管理下に置かれた横山城では、城番が交代で厳重な
警戒を行い、この地域の安定化を図ろうとしたのだ。改修工事は翌1569年(永禄12年)2月まで続くが、これと時を
同じくして甲相駿三国同盟の破棄に怒った小田原の後北条氏は今川家復興を大義名分に掲げて武田軍の放逐に動き、
駿河東部へ4万5000という大軍を進めた。対する武田軍は薩埵峠(さったとうげ、由比付近の海崖台地)に1万5000程の
兵で布陣する。守りを固めるに適した位置を押さえたとは言え、武田軍は劣勢。後北条軍は数に物を言わせて攻め
掛かる事も出来た筈だが、それを許さなかったのが横山城の存在であった。仮に後北条軍が峠を突破し駿府方面へ
進軍した場合は、横山城の兵が背後を脅かす事になる。かと言って横山城の攻撃に拘ると、武田軍は興津川を封じて
やはり後北条軍を後ろから攻撃するようになろう。その為、動けぬ後北条方から北条氏邦の軍が横山城攻略に
別働隊として回り込もうとしたが、この計略は見破られ撃退された。他方、武田側も薩埵峠から後北条の陣へ急襲を
かけようとするが失敗。結局、両者ともに有効打が出せないまま戦線は膠着し、止むを得ず4月29日に両軍が撤退した。
後北条軍を追い払い、武田軍による駿河占領を成し遂げる第一の要因となったのがこの横山城だったのでござる。@@
結果、武田氏による支城として用いられるようになった横山城であるが、1582年にその支配が終焉を迎えると同時に
廃城となり申した。以来、山は元の山林に戻り、近代になるとミカン畑となっている。@@@@@@@@@@@@@@
ところが近年では山頂部に人が立ち入らなくなり、耕作放棄地になってしまったようだ。その為、人の手が全く入らず
主郭部は完全な藪と化している。勿論、城址としての整備など行われておらず見学するのも不可能だ。山の中腹から
下の部分では相変わらずミカン畑が営まれているものの、これも私有地なので勝手に入るのは憚られよう。城山の麓
南西端あたりに写真の石碑と案内板があるのが城址としての縁でしかない。この石碑から上に向かう九十九折りの
山道があり、それを登って行けば山頂主郭部に辿り着けるようだが(と言うか、この九十九折りも城の遺構なのか?)
明らかに危険なのでオススメできない。当然、史跡指定などは皆無でござる。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@



現存する遺構

堀・土塁・郭群等








駿河国 小島陣屋

小島陣屋跡 虎口石垣

 所在地:静岡県静岡市清水区小島本町
(旧 静岡県清水市小島本町)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

★★★☆
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太平の時代に作られた陣屋@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
江戸幕府成立からほぼ1世紀後の1704年(宝永元年)に創建された小島(おじま)藩の政庁陣屋。小島藩は徳川譜代家臣の
滝脇(たきわき)松平家を藩主とし、立藩は陣屋構築の15年前にあたる1689年(元禄2年)5月である。滝脇松平信孝(のぶなり)は
それまで6000石の旗本だったが、4000石を加増され1万石の大名になった為だ。所領は駿河国内の庵原郡・有渡(うど)郡の他
上総国山辺郡(千葉県東金市とその周辺地域)・常陸国信太郡(茨城県土浦市~牛久市近辺)にも与えられていたが、信孝の
跡を継いだ2代藩主・下野守信治(信孝の甥)が所領を駿河国庵原郡・有渡郡・安倍郡30ヶ村に集中させ小島の地へ藩庁を移す。
こうして築かれたのが小島陣屋だ。以来、小島藩の名を受けるようになり申した。歴代藩主は3代・安房守信嵩(のぶたか)―4代
内匠頭昌信―5代・丹波守信義(のぶのり)―6代・安房守信圭(のぶかど)―7代・丹後守信友―8代・丹後守信賢(のぶます)―
9代・丹後守信進(のぶゆき)―10代・丹後守信書(のぶふみ)と続いたが、11代・丹後守信敏(のぶとし)の時代となった1868年
(明治元年)5月24日に廃藩。これは明治新政府の成立に伴い徳川将軍家が駿府70万石の一大名として封じられ、小島の地も
その所領へ含まれた事による。滝脇松平家は同年7月13日に上総国周准(すえ)郡の南子安村金ヶ崎(千葉県君津市)へ移され
新たに桜井藩を興す事となったが、小島陣屋はこれに伴って駿府藩へ引き渡され、駿府藩小島支役所となった。更にこの後、
廃藩置県により陣屋御殿は私塾包蒙舎教場、次いで包蒙舎小学校校舎へと転用されたものの1928年(昭和3年)に解体される。
また、他の建造物も廃藩時に解体され、敷地は大半が民有地になっている。ただ、解体された御殿建築のうち書院部分だけが
小島地区公会堂として近隣に移築され現存。現在は小島町文化財資料館となっている。なお、信敏は維新時に改姓し松平ではなく
滝脇信敏と名乗るようになった。いわゆる十八松平(三河に分流した松平諸家の総称、徳川将軍家に連なる一門)の1家として
由緒ある松平姓も、明治になればむしろ不要という時代の流れを感じさせる。いや、十八松平と言えど1万石では形だけの小大名、
正規城郭を作る事など許されず、体裁だけの陣屋を守り続けたということ自体が、時代の統制に押し流された悲哀と言えようか。

見事な陣屋遺構を目の当たりに出来る史跡@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
その“体裁だけの陣屋”である小島陣屋は、興津川西岸の段丘上に備えられ身延道(甲州往還)を見下ろす絶好の位置にある。
基本的に天領であった駿河国内に立藩を許された小島藩は、まさにこうした街道監視の為に存続していたと言え、有事には
軍役235名を動員する事が規定されていたと云う。が、たった1万石の小藩に常時235名の兵卒を養う財力はなく、臨時の借受けで
兵員を用意する方針だったらしい。せめてその代わりに、という訳ではなかろうが陣屋の構造は実に立派な威風を見せつけており
小高い丘の上から眼下を威圧するように総石垣の曲輪群が並んでいる。段丘の傾斜を利用して内部を区画分けし、大手口には
見事な虎口(写真)を構えて訪れる者を圧倒。しかもこの石垣、部分的ではあるが精緻な切込接ぎになっていて、最新鋭の技術を
導入していた事にも驚かされる。一方、その石垣をよくよく見てみれば、大半が谷積み(四角い石を斜めに積み重ねる技法)。
城郭の石垣としての谷積みは退化した技術である為、良くも悪くも「幕府成立から100年後の構造」というのが一目瞭然だ。
そもそも、小島陣屋の石垣は殆どが高さ2~3m程度、高くても僅かに5m弱の場所が散見されるくらいだ。正規の城郭であれば、
低くても5m、高石垣となれば20m以上というものも当たり前なので、やはりこの陣屋は威厳を整えるためのものだったのだろう。
必ずしもこの縄張や構造で実戦を耐え抜けるとは思えない。されど太平の時代に築かれた政庁陣屋なのだから、必要性に照らし
合わせれば十分すぎる程に立派なものでござろう。この敷地内に、御殿や宝蔵、馬場、それに藩士の長屋までが所狭しと並び
さぞかし壮観な宮殿を形成していたと思われる。廃藩置県で惜しくも建物は失われ、曲輪は農耕地に改変されたが、石垣や
排水溝などの主要基礎部分は今に残り、江戸時代の陣屋遺構としては非常に貴重な史跡と言える。このため2006年(平成18年)
7月28日、国史跡に指定。2009年(平成21年)2月12日には追加指定も受けている。また、陣屋御殿の残存部分である書院建築、
即ち小島町文化財資料館は2001年(平成13年)1月10日、清水市(当時)の指定有形文化財となっている。少なくとも城好きならば
一度は行っておきたい必須の城郭…いや陣屋であるのは間違いない。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@



現存する遺構

井戸跡・堀・石垣・土塁・郭群等
陣屋敷地内は国指定史跡

移築された遺構として
陣屋御殿書院部分《市指定有形文化財》








駿河国 蒲原城

蒲原城跡 大堀切

 所在地:静岡県静岡市清水区蒲原
(旧 静岡県庵原郡蒲原町蒲原)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★☆@@
★★@@@



山、川、海を扼する要地@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
旧庵原郡蒲原町、現在は市町村合併で静岡市清水区の蒲原地区にある山城。城山配水場のすぐ西側にある標高149mの山が
城山で、全山一帯を曲輪として造成していたと考えられる。主城域は東西方向に約200m、南北方向に400m程度広がっていたが、
外郭の三ノ郭(南西側山麓)まで含めるとその倍近い範囲が城域に使われた計算になる。山城としては破格の大きさだ。@@@
蒲原周辺は北側から山塊が海岸に向かってせり出す地形にあり、蒲原城のあった山もそうした一連の山塊群に繋がるものだが
北東から南西方向に向かって善福寺川が谷戸を成し、東側は山居沢川が南へと流れている為、この山だけが他の山とは谷で
分断されている要害地形。しかも山の南側はすぐ東海道を擁する平野部になり、それも駿河湾へと間近い距離にある為、街道や
海上交通を監視するに適した眺望が得られる。更に言えば城の東3kmの位置には駿河の大河である富士川が。言わずもがな
舟運による物流も押さえ得る格好の地と考えられ、ここに城を築くのは必然だろう。甲斐武田氏所縁の寺、恵林寺(えりんじ)に
伝わる書跡「恵林寺文書」(山梨県指定有形文化財)には蒲原城を「海道第一之険難之地」と記した信玄の書状が残されている。
通説では、蒲原城の城主はその名の通り蒲原氏だとされる。この蒲原氏というのは摂関家一門・藤原南家から派生して土着した
在地武士団と推定されている。鎌倉時代に入江清定(藤原南家、藤原為憲の玄孫にあたる人物)の3男・清実が蒲原荘に居住し
蒲原氏を名乗ったとされるものだが、史料の裏付けはなく実際のところ良く分からない一族でござる。蒲原城の起源を、この清実の
館とする説もあるが信憑性は低い。ただ、南北朝期には構築されていたようである。さて南北朝時代の駿河国と言えば、北朝方に
与する今川上総介範国(のりくに)が守護として入国した頃だ。鎌倉以来の蒲原氏は南朝方であったと言われ、当然その一族は
今川軍により追討を受け滅亡に至るのだが、在地の有力者である蒲原の名跡を利用すべく、範国の3男・修理亮氏兼(うじかね)が
蒲原の姓を名乗るようになった。斯くして、源姓今川氏による新たな蒲原氏がこの地を治めるようになり、蒲原城はその拠点として
用いられていく訳である。戦国時代になると富士川以東は後北条氏の領地となった為、この城が今川領東端を監視する役割を
担い、城主として蒲原貞氏(さだうじ)―満氏(みつうじ)―氏徳(うじのり)―徳兼(のりかね)父子の名が見える。在番衆も交代で
入っており、1441年(永享13年)正月に牟禮但馬守範里(むれのりさと)、二俣昌長・原六郎(時期不明)、1544年(天文13年)~
1545年(天文14年)に飯尾豊前守乗連(いいおのりつら)、1561年(永禄4年)に佐竹又七郎・佐竹雅楽助高貞という人物が文書に
残されている。この頃、在番衆の駐屯用に根小屋の開発が盛んに行われた事が記録にあり、三ノ郭はこのようにして整備されたと
考えられよう。逆に言えば、山上の主戦闘部に兵が常駐していた訳ではないという事になる。今川義元が戦死する迄この地域は
他国との戦闘に巻き込まれる事が無かった為、むしろ主郭部の整備は必要なかったのかもしれない。@@@@@@@@@@@

後北条氏による防備を…@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
その義元没後、急激に衰退した今川領に対し武田信玄が攻め寄せたのは上記の通り。1568年12月の侵略当初、武田軍は駿府へ
直行したので蒲原城は戦いに巻き込まれなかった。この為、蒲原城には今川方残存兵力が温存され、大宮城(静岡県富士宮市)を
武田軍に落とされてしまった今川方の将・富士兵部少輔信忠もこの城へ合流している。よって、駿府を脱出し掛川まで逃げ込んだ
今川氏真は、そこからこの城へと至り最終的に小田原の後北条氏の下へ落ち延びて行った。その経緯から後北条氏が今川氏
復権の援軍を派遣した際、兵力集中拠点となっている。北条家臣の布施佐渡守康能・山角刑部左衛門尉が鉄砲隊を率いて入城、
1569年には北条新三郎氏信(綱重とも)・長順(ちょうじゅん)兄弟や清水新七郎らも守将として蒲原城に赴いている。氏信・長順は
北条家の長老・幻庵長綱の子であり、新七郎は北条家臣伊豆衆筆頭・清水上野介康英の嫡男。つまり、後北条氏としては将来を
託す次代の俊英らをこの城に配備して、輝かしい戦功を期待したのでござろう。氏信らは、今川時代に置き去りとされていた
山上の主戦闘部を大改修し(現在に残る遺構はこの時のものだと言われている)、武田軍との戦闘に備えた。この間、武田軍は
駿河征服の為に数度の出陣を行い、後北条軍とは薩埵峠を挟んで睨み合ったというのは横山城の項で記した通り。その横山城を
後北条氏が引き払った後の1569年7月、武田軍は蒲原城への攻撃を目論むが、折しも到来した暴風雨により富士川が氾濫して
この攻城は失敗に終わった。横山城失陥の後、富士川の西で踏みとどまる後北条軍が本拠地としたのが蒲原城であり、武田軍は
どうしてもこの城を落とさねば駿河攻略が完成させられない状態だったのである。その一方で信玄は、後北条氏を黙らせるために
小田原城への出陣も行って、三増峠(みませとうげ、神奈川県愛甲郡愛川町)での大規模山岳野戦も敢行している。そして同年
12月5日、武田勝頼(信玄4男)・信豊(信玄の甥)を総大将とする軍勢がこの蒲原城を急襲する。大手口(三ノ郭西方)の守備に
兵を集中配備した城方に対し、勝頼らは搦手口へ迂回して一挙に乱入した。前後から挟み撃ちされる形になった守城軍は閉塞し
翌6日、城兵のみならず大将である北条氏信・長順や清水新七郎らまでもが悉く討ち取られたのでござった。この大敗北により
後北条方は富士川以西の橋頭保を失い、武田軍との継戦は完全に不可能となったのである。私見ではあるのだが、通説では
三増峠の合戦で蹴散らされた事が後北条氏に武田軍との対戦を諦めさせたと言われるのに対し、実際にはこの蒲原城の
落城こそがその確定的要因になったのではないかと思われる。1569年の小田原籠城や三増峠合戦において、後北条軍は
然程の痛手は被っておらず、これが原因で武田軍に後れを取る事は無かった筈だが、蒲原城が失われてはもはや駿河進出の
戦略拠点を消滅させてしまい、武田軍に勝利する展望が無くなったからだ。何より、氏信・長順・新七郎の戦死は痛恨事であった。
逆に武田方としてはこの一勝における効果は計り知れないものだった。先に記した信玄の「海道第一之険難之地」という文言は
その時の勝利を称える文中のもので「勝頼と信豊は無謀にもこの堅城を攻め登り、恐ろしい話であるが不思議と乗り崩した」と評し
戦勝を誇ったのである。駿河の安定支配を成し遂げた信玄は、その鍵となった蒲原城の城代に腹心の部下・山県昌景を入れ、
蒲原衆と呼ばれる軍編成を組織させた。信玄自身がこの城を訪れ、防備の強化を指示したとも云われる。しかし、武田家が
駿河を攻略した後、その矛先は専ら西へ向かう事となり、駿河の東部にある蒲原城は重要性を薄らいでいく。結局、武田滅亡後
徳川家康がこの城を手にしたと伝わるも既に実用の任には非ず、1590年3月に小田原征伐へ赴く途上で陣を張ったというのが
最後の記録となる。恐らくこの直後(或いは武田家滅亡時点において)廃城にされたと推測されてござる。@@@@@@@@@

海を眺める城跡公園@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
山上部、主戦闘部となる曲輪群は北東から南西に向かって繋がる尾根に沿って東郭~善福寺郭~主郭~二ノ郭が直線的に並ぶ
連郭式の縄張り。善福寺郭の北側には腰曲輪群が付属し、二ノ郭は上段・中段・下段に分かれている。東郭の北側が搦手口だ。
そして言うまでもなく主郭がこの山の最高所にあたり、南側の眺望が一挙に開けている。主郭の北側を守る善福寺郭は半円形の
形状をしており、周囲は高い崖で切り立っている上に土塁で固められている。この曲輪は現在整備され美しい姿を見せており、
内部には模擬の櫓が建ち、切岸には逆茂木(さかもぎ、木の根や枝を突き出させて侵入者を阻むバリゲートのような柵列)が
復元されている。ちょっとお遊び的な復元ではあるが、逆茂木の再現というのは全国的に見て非常に珍しゅうござる。@@@
これらの曲輪群はそれぞれ堀切によって分断され、特に善福寺郭と主郭の間は特大の大堀切(写真)になっている。こうした
堀切の基底部は石垣で固められており、恐らくこれが後北条氏による改修で作られたものなのでござろう。しかしその一方、
曲輪同士を直接繋ぐ道はなく、山腹を迂回する通路がそれぞれの曲輪に接続しているのみである。つまり、一つの曲輪から
隣の曲輪へ移動するには、一度山腹通路にまで降り、そこから次の曲輪へ入る道まで迂回しなければならないのだ。特に主郭と
善福寺郭は隣り合わせに密接しているにも関わらずこのような構造になっているのは些か不可解である。密着する曲輪ならば
相互の連携性を確保した方が守るに易い筈なのだが、写真の大堀切には橋があった様子は見受けられない。これも私見だが
この縄張りを完成させたのは、実は後北条軍を追い落とした後の武田方だったのではないだろうか?半円形をした善福寺郭は
武田流築城術に見られる丸馬出を巨大化させたものであり、主郭に隣接しながら孤立した守備を強いられるのは、さながら
丸子(まりこ)城(静岡県静岡市駿河区)にある半円堡塁と同じ用途であろう。主郭と善福寺郭、2つの大きな曲輪で城の要諦を
完結し一城別郭的な形にしているのも、武田軍が最終的に完成させた高天神城(静岡県掛川市)と共通するし、隣の曲輪へ
移動する為に必要な山腹通路も、武田流築城術に用いられる山城の横堀を応用させたものと言える。ただ、いずれの形態も
武田流築城術の「完成形」からすれば未熟なもので、詰まるところ蒲原城は武田軍が駿河へ進出した直後に急造したものの
程なくここでの防備が不要となったので、中途半端な形で工事を終わらせたという感じだったのではなかろうか?もっとも、
今川期の原型に後北条の改修(石積みなど?)が加わった上での武田流、という事で良く分からない状態になっているが…。
愚鈍な考察は兎も角として、善福寺郭の整備に先立って当時の蒲原町は1988年(昭和63年)~1989年(平成元年)にかけて
発掘調査を行っている。その結果、曲輪の周辺からは鉄砲玉(鉛青銅製)や北宋期古銭、瀬戸焼・美濃焼の陶器、中国製の
磁器が出土。物見櫓を建てたと思われる柱穴痕も確認されている。また、主郭との間にある大堀切の底からは瀬戸・美濃の
陶器の他、中国・景徳鎮の皿や焼土層、様々な炭化物も出現した。特に景徳鎮の皿は、我が国で最初に出土した物との事。
城跡周辺には今でも根古屋・狼煙場・御殿山・橋台・陣出ヶ谷・的場・柵(しがらみ)など城に関係する地名が残されており
確かにここが歴戦の城址であった縁を物語る。歴史の舞台として1978年(昭和53年)3月1日、蒲原町史跡に指定され、現在の
静岡市史跡として継承されてござる。搦手口付近に駐車場があるので、車での来訪が便利でござろう。@@@@@@@@@



現存する遺構

井戸跡・堀・石垣・土塁・郭群等
城域は市指定史跡




小山城・田中城・石脇城  相良城・大鐘屋敷