武田家が生み出した「水城」@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
別名で小芝城、於芝城とも。武田信玄による駿河侵攻において築かれ、武田氏滅亡と共に役割を終えた城と言えよう。
今更説明するまでもないが、甲斐の武田信玄は駿河の今川義元と同盟を結び、信濃攻略という北進政策を採っていた。
強大な今川家に背後を託し、宿敵・上杉謙信との戦いに明け暮れていた訳だが、義元が桶狭間合戦により敗死して以来
今川の家督を継いだ氏真(義元嫡男)は文弱の将で、急激に勢力を衰退させていく。丁度その頃、謙信との戦いでは
これ以上の成果が望めないと悟った信玄は「ならば南へ」と矛先を駿河に向けていく。もはや頼るに値しない今川家へ
同盟を破棄して1568年(永禄11年)12月、怒涛の進撃を開始。今川残党の抵抗、もう1方の同盟相手であった後北条氏の
介入、遠江側から今川領を侵食した徳川家康の動向など、決して簡単な駿河侵攻戦ではなかったが、それでも武田軍は
1570年(元亀元年)頃には駿河の領国化を完了させたようである。従来、駿河における中心地と言えば今川館のあった
駿府(駿河府中、現在の静岡県静岡市葵区・駿河区)であったが、信玄はここ江尻に新たな城を築いて統治の拠点とする。
こうして築城されたのが江尻城だ。正確な築城時期は諸説あり、1568年の時点とも言われるが、少なくとも1570年には
機能するようになっていたらしい。清水湊に流れ込む巴川の河口部分、流路が緩やかに弧を描く地点を利用し、城郭の
南側は川に面した縄張りとして背後を固めると共に、海と川の両面から水運を活用する事が目的だった。中世においては
現在よりも遥かに舟運が重要視されていたので、船を直接城内に乗り付けられるこの場所に城を築くのは当然の事だろう。
清水湊は武田の本国・甲斐から流れる富士川と駿河を縦断する安倍川の中間地点にある上、東海道や身延街道などの
陸路も扼する要衝であり、物流・情報・人的交流に最適な場所と判断された訳だ。信玄は築城の名手と呼ばれた配下武将
馬場美濃守信房(信春とも)に縄張りを命じ、今福和泉守を築城奉行に任じて工事を行わせる。武田左衛門佐信光が守将、
城の完成後は腹心の部下・山県三郎兵衛昌景を城代に入れた。馬場に山県と来れば、武田家中で最強の武将らである。
信玄が如何にこの城を重視していたかが窺えよう。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
長篠合戦、そして関ヶ原合戦@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
その徳栄軒信玄が1573年(天正元年)4月12日に志半ばで没し4男である四郎勝頼が武田家の家督を継ぐと、彼は東海
地方への進出策を更に強化し徳川領への侵攻を進めて行くものの、1575年(天正3年)5月21日の長篠合戦にて大敗北を
喫してしまう。武田方と織田・徳川方の攻守が逆転する機となったこの戦いに於いて、山県は戦死してしまった。長篠から
甲斐へと逃げ帰った勝頼は、戦後処理に忙殺される中で江尻城主の後任に武田一門衆筆頭の穴山玄蕃頭信君を充て
駿河における早急の立て直しを命じている。実は、勝頼は信君を信用しておらず家臣からも排斥の訴えを受けていたが
並み居る歴戦の武将らが一挙に失われた長篠合戦後にあっては人事の選り好みが出来る状態でもなく、一門の重鎮・
信君を駿河に入れる事で睨みを利かせようとしたようである。信君は1578年(天正6年)頃から江尻城の拡張工事を行い
「観国楼(かんこくろう)」と言う高層建築(天守に類する物見櫓であろうか?)を創建。城下町の整備にも力を入れるなど
一見その責務を全うする働きをしていたが、武田領へ織田信長の大侵攻が始まった1582年(天正10年)2月、織田方へ
早々に降伏し更には甲斐進撃への道案内まで買って出る有様。一説に拠れば、信君は事前に織田・徳川へ内通しており、
既に裏切る事は既定路線であったようだ。勝頼の懸念は見事に的を得ていたが時すでに遅し、武田家は滅亡に至った。
勝頼の死後、駿河の武田遺領は徳川家康のものとされ、信君はその配下に収まる。江尻城はそのまま信君の預かる
城となったが、同年6月には本能寺の変が勃発し織田信長も帰らぬ人となる。事変の折、家康と信君は共に堺の町を
見物していたが、急変に際して帰国を余儀なくされた。この時、家康は伊賀越え、信君は宇治越えの途を選んだと言われ
家康は無事に本国の三河へ帰還したものの、信君は道中で落武者駆りに遭って落命。斯くして城主を失った江尻城は、
信君の嫡男・武田信治こと穴山勝千代が城を守る事となった。勝千代が武田姓を名乗るのは、信君が勝頼を裏切った際
信長に降伏の条件として我が子を武田家の後継とするよう認めさせた事による。されども勝千代、この時わずか11歳。
とても城主としての任を務める事など出来ず、江尻の地は実質的に徳川家の直接支配が及ぶようになり、江尻城番として
家康家臣の本多作左衛門重次・天野三郎兵衛康景(この2人は三河三奉行のうち2名)・深溝(ふこうぞ)松平家忠らが
統治に当たった。しかも勝千代は1587年(天正15年)6月7日、16歳で夭折。更には豊臣秀吉の国替えで駿河は1590年
(天正18年)中村式部少輔一氏の領国となり江尻城主として一氏家臣の横田隼人が入るも、関ヶ原合戦を経た1601年
(慶長6年)内藤三左衛門信成が駿府城主となった事で廃城処分となった。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
町割りに残る城郭の姿@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
現地案内板に拠れば、江尻城は巴川の北岸に置かれ、川を背にした主郭の西~北~東を覆う形で二ノ丸が展開、さらに
それを覆う形で同形状の三ノ丸や外郭が広がっていた縄張。これらの曲輪間は武田氏御得意の丸馬出で封じていたらしく、
この縄張図を見る限り、信州の松本城(これも馬場信房が縄張したと伝わる)にそっくりである。この城を起点とし、東側に
城下町が並んでいたようで、現在の地図に当てはめると銀座通りが大手筋の路に合致する。銀座通りの東端は清水港に
行き当たり、清水の町が江尻城の開府以来、城と湊を基軸に作り上げられていった様子が垣間見えよう。廃城後、城は
街地や農地に改変されていったがその町割りは基本的に現在まで残っていて、清水区内には「二の丸町」という町名や
「鋳物師町(城下町の旧町名)公園」という公園名が今でも名残りとして使われている。しかし、城の地形的な基盤は
(太平洋戦争後まで形を留めていたようだが)再開発などでほぼ完全に失われてしまった。宝町7~江尻町11にかけて
蛇行する路地がかつての水路を暗渠化したものか?と思わせる程度でござろう。清水江尻小学校の敷地と中部電力
江尻変電所のあるあたりが往時の主郭とされ、小学校校庭の隅(魚町稲荷神社側)に置かれている城址碑(写真)が
唯一、城跡を証するものと言える。この城址碑は、1909年(明治42年)当時に主郭部一帯を所有していた本郷町在住の
望月健吉氏が建てた物。当初は主郭跡に小公園を造りそこへ建てていたものだが、1923年(大正12年)に公園を廃して
工場を建設する事となった為、近隣にある小芝八幡宮の境内に移されたものの、戦後に江尻小学校となった旧地へ
1995年(平成7年)3月に戻されたそうな。この魚町稲荷神社や小芝八幡宮、二の丸町3にある二の丸稲荷神社といった
近隣寺社はいずれも江尻城の城内鎮守に由来するものだろう。これも旧城のよすが、と言えなくもない。@@@@@@
全くの余談だが、先程から話に出てくる「二の丸町」にある産院で落語家の春風亭昇太師匠が御生まれになったそうだ。
自分の産まれた場所が「二の丸」という“城に関係する地名”であった事から興味を抱き、城好きになられたとの話。@
武田信玄は駿河を押さえる城と共に、城好きの噺家も生み出したのでござる(笑)@@@@@@@@@@@@@@@@
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