遠江国 小山城

小山城 模擬天守と丸馬出

 所在地:静岡県榛原郡吉田町片岡・神戸

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★■■
★★☆■■



山崎の砦■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
静岡県榛原郡吉田町、いわゆる牧之原台地の最東端に位置する舌状台地を利用した平山城。■■■■■■■■
湯日川と神戸(かんど)川の合流地点に面し、往時は湯日川がもっと大きく蛇行していたため敷地の北〜東〜南は
川の浸食崖で隔絶、必然的に城への侵入路は西面のみに限られている。日本の古代から近代初頭までは河川を
利用した舟運が必要不可欠な物流移動手段であり、かつこの場所は遠州灘沿岸を貫通する街道も扼しているので
陸上・水上の両路を管制する重要地点だった。まさしく築城好地である小丘陵と言え、遡ればここには平安末期の
文治年間(1185年〜1189年)に小山(おやま)七郎朝光(ともみつ)が砦を築いたと記録が残る。この小山朝光とは
結城氏(茨城県結城市を中心に勢力を広げた古豪)の始祖・結城朝光の事である。朝光はこの後、鎌倉幕府初代
将軍・源頼朝に寵愛され北関東に勢力基盤を築いていく。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
一方、小山(こやま)城が次に脚光を浴びるのは時代が下って室町中期、駿河守護・今川氏によってこの地に砦が
築かれ、「山崎の砦」と名付けられて配下武将である井伊肥後守が1万5000石の所領を以って守将に任じられたと
「今川分限帳」に記されている。しかしこれも小規模な砦だったと考えられ、本格的な築城とされるのは戦国時代に
なってからの事と言われる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
駿河・遠江(いずれも静岡県)太守であった今川治部大輔義元は三河国(愛知県東部)も併呑し、甲斐(山梨県)・
信濃(長野県)を領有する武田徳栄軒信玄や、伊豆〜南関東一帯を手中にする北条左京大夫氏康と甲相駿三国
同盟を締結。後顧の憂いをなくし、1560年(永禄3年)遂に西上を開始するが、桶狭間の戦いで織田上総介信長に
討ち取られてしまった。以後、今川家は急激に衰退。もはや同盟に足るべき相手ではないと判断した武田信玄は、
三河に独立した徳川三河守家康と密約を結び1568年(永禄11年)12月、駿河への電撃侵攻を開始する。家康との
約定では遠江国を家康が、駿河国を信玄が領有する事になっていた。これは今川軍に反撃の機を与えず、また、
もう一方の同盟者である後北条氏からの抵抗を封じるため旧今川領国を速やかに占領する必要があったからだ。
ところが武田方は勢いに乗じて大井川の西岸、つまり家康が領有する手筈になっていた遠江国内にまで兵を進め、
山崎の砦をも手中にした。信玄としては家康との密約すら仮のもので、将来的には遠州攻略を進める為の布石で
あった訳だが、当然ながら家康はこの違約行為に反攻し家臣である大給(おぎゅう)松平左近丞真乗(さねのり)に
山崎の砦を攻撃させ申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

武田の大改造で「小山城」に■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
丁度この頃、既に駿河全域の占領を完了していた武田軍であるが翌1569年(永禄12年)から予想通り後北条軍が
今川救済の兵を発し、そこかしこで武田・後北条間の戦闘が勃発する。これに兵力を割く必要が生じた武田軍は、
家康に譲歩して山崎の砦を放棄、1570年(元亀元年)真乗が城主に収まった。斯くして真乗は遠州最東端で所領を
得た訳だが、後北条氏との決着をつけた信玄は早くも同年中から遠江攻略へと兵を返して1571年(元亀2年)2月に
山崎の砦を真乗から奪還してしまう。遠州の橋頭堡として重視されたこの砦は、武田軍最強と謳われる猛将・馬場
美濃守信房(信春とも)によって大改修され改めて小山城と名付けられた。一般的にこれが小山城の築城とされて
おり、信玄は宿敵・上杉謙信の配下から引き抜いた大熊備前守朝秀(ともひで)を城将に任ず。朝秀は内政下手な
謙信の手腕に疑念を抱き謀叛を起こしたが敗走、これを信玄が迎え入れ直臣として厚遇したのである。もはや帰る
べき故郷を失い、また信玄の期待に感じ入った朝秀は以後武田家滅亡までその身を捧げる事になるのだが、彼の
守る小山城は以降の武田軍西進を支える重要な拠点となり、歴史に名高い高天神城(静岡県掛川市)攻略戦での
駐屯・兵站拠点となったのである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
だが戦国屈指の名将・信玄は1573年(天正元年)4月12日に陣中で病没。跡を4男の四郎勝頼が継ぐ。■■■■■
父・信玄以上の領土拡大政策を採った勝頼は高天神城を徳川方から奪取し“父を超える”活躍を見せたが、過剰な
強攻策が仇となって1575年(天正3年)5月21日の長篠合戦で大敗、ここから武田氏の凋落が始まる。それまで防戦
一方であった徳川方は遠江国内で攻勢に転じるのだが、こうした情勢の変化に基づき、徳川軍は度々小山城への
攻撃を行っている。早くも長篠合戦から2ヵ月後の1575年7月から徳川軍による小山城攻撃が開始され、対する武田
勝頼は1577年(天正5年)8月と10月に当城の兵を慰労に訪れ、両軍がこの城を重要視していた様子が垣間見える。
翌1578年(天正6年)には3月・8月の2度にわたって徳川軍が攻城。1580年(天正8年)7月にも家康が小山城に攻め
かかったが、この時には勝頼が後詰に来援した為、徳川軍が撤退した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかし没落著しい武田軍は次第にジリ貧となり、徳川方は遠州攻略の勢いを増していく。■■■■■■■■■■■
二俣城(静岡県浜松市天竜区)・高天神城などが次々と徳川軍に落とされると、もはや遠州での戦線を維持できなく
なった武田軍は撤退するしかなく、1582年(天正10年)2月16日遂に小山城は戦わずして放棄され自焼、これを以って
廃城となったのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

武田流築城術の保存見本■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
遠江国内にあった武田氏の城郭は軒並み徳川家康が占拠して改修、再使用されているが、この小山城は復活する
事がなかった。即ち、馬場信房による築城から大熊朝秀による自落まで、小山城は一貫して武田氏の城であり続け、
そのまま命運尽きたのであり、遠江国内における“武田流城郭”の最たる好例であると言える。信玄の遠州西上戦、
或いは勝頼の対徳川防戦の拠点として用いられたこの城は、当然西の徳川軍と対戦する事が存在意義たる訳で、
必然的に戦闘正面(大手)は西側に構えられている。この点、川の蛇行を上手く利用し西側のみに接続面を有して
いた旧「山崎の砦」の立地は、まさしく武田軍が築城するに相応しいものだったと言えよう。■■■■■■■■■■
縄張を見てみると、東端つまり舌状台地の突出部が本丸とされ、そこから西へと二ノ丸や三ノ丸が連なる典型的な
連郭式である。そして各曲輪間は武田流築城術お得意の急峻な空堀で仕切られ、曲輪に入る虎口は丸馬出で固め
られているのもお約束であろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
圧巻なのは三ノ丸の西、つまり大手口を守る三日月堀で、何と三重の三日月堀を重ねて徹底的な多重防御構造を
採っている事だ。この三重三日月堀は現在に至るも明瞭に残り、小山城を見学する際の必須地点となっている。
三重三日月堀の最長部分は長さ60mにも及び、深さは6m、幅10mを数えている。なお、三重三日月堀の端に武田の
軍師・山本勘助晴幸が掘ったと伝承される「勘助井戸」も残っているのだが、年代的に勘助がこの城に関わった事は
無い筈なので、あくまでも“名前だけ”の伝説に過ぎない。ただ、井戸が城内にある事は重要であり、この小丘陵が
周囲の川からだけでなく城内井戸からも給水可能な“築城好地”だった事を物語る。加えて、三重三日月堀自体が
貯水も可能な構造である。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
二等辺三角形をした城域全体は東西およそ190m×南北130m(最長部)、敷地面積は約1万4300u、丘陵麓からの
比高は約20m。城山の中腹部分には腰曲輪も多数構えられた上、南東側の麓にある臨済宗吉祥山能満寺の境内も
往時は「能満寺曲輪」とでも呼ぶべき出曲輪として機能していた。要するに、この山は全てが城砦として用いられた
ハリネズミのような大要塞だったと言えよう。武田軍による築城造成が徹底して行われた様子を窺え申す。■■■
現在は能満寺公園として整備された城跡であるが、開園に先立って数度行われた発掘で上に記した丸馬出遺構や
炭化した米などが検出された。1987年(昭和62年)二ノ丸物見櫓跡に天守風の観光展望台兼史料展示室(写真)が
建てられ、その中でこれらの出土遺物や城史に関する資料が閲覧できる。無論、もともとの小山城に天守建築はなく
全く史実に基づかない模擬天守である事を注記しておく。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ともあれ、模擬天守の存在を抜きにしても三日月堀や丸馬出の遺構は見事なもので城址は1964年(昭和39年)4月
1日、吉田町指定文化財になってござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
なお、能満寺に生育するソテツの木は日本三大ソテツの1つに数えられる名木であるが、徳川家康に関する伝説も
残されている。曰く、小山城周辺の村々を巡検した家康がこのソテツの見事さを愛でて、自身の居城である駿府城
(静岡県静岡市葵区)へと移植してしまった。ところが、夜な夜な駿府城内では不気味な物音が鳴り出すようになり、
調べてみるとソテツの木が泣いているかのような声を発していた為、それを哀れんだ家康は元の能満寺へと戻して
やったという話だそうな。このソテツの木も、吉田町の文化財になっている。■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

井戸跡・堀・土塁・郭群等
城域内は町指定史跡








駿河国 田中城

田中城本丸櫓

 所在地:静岡県藤枝市田中・立花

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★■■■
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元々は在地武士の「方形」居館だったのだが…■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
別名で亀城・亀甲城・亀井城など。とにかく“亀”の名が付いているが、これは田中城が同心円状の縄張りを持ち、あたかも
亀の甲羅を連想させる敷地になっている事に由来する。世にも珍しい「円郭式」と評されるこの丸い縄張りは、即ち武田流
築城術の集大成と言えよう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
元々この地には今川氏の支城である徳之一色城と呼ばれる小城が築かれていた。徳之一色城は、その名の通り1537年
(天文6年)に在地土豪・一色氏の築いた方形居館が由来。江戸期まで残る「円郭式」の田中城にあって主郭部分だけは
四角い敷地を有しているが、これこそが一色左衛門尉信茂の築きし方形居館の名残である。一色氏が没落した後は由比
美作守正信が1万8000石を以って城将として入り、その正信が1560年に桶狭間合戦で今川義元共々戦死した後は今川家
家臣・長谷川紀伊守正長(次郎右衛門尉)が城主となっている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
今川時代、元来の方形居館敷地を囲う二郭が増設された。これにより徳之一色城は主郭と二郭から成る輪郭式城郭へと
変化した事になる。二郭はややいびつながらも主郭同様に方形の敷地であり、この時点ではまだ“丸い城”と呼べるような
状態にはなっていない。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
義元亡き後の今川家は没落著しく、武田信玄が侵攻したのは小山城の項(上記)にある通り。駿河で反抗し続ける今川の
残党を制圧する武田軍は、近隣の花沢城(静岡県焼津市)を1570年1月27日に攻め落とした。その様子を見て、孤立する
事を恐れた正長は徳之一色城を開城し、長谷川一門から成る士卒21名、総勢300名は城を退去した。よって徳之一色城は
武田方が無血接収するに至る。なお、落ち延びた正長は徳川軍へ投降。長谷川家は徳川旗本として家を残し、江戸時代
中期の火付盗賊改方として有名な長谷川平蔵宣以(のぶため)へと繋がる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

武田家が丸い縄張に拡張■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
田中城へと話を戻すが、信玄は街道の要衝にして沼沢地に浮かぶ要害の徳之一色城を重視、重臣の馬場美濃守信房に
命じて大改修させた。在地豪族の居館から始まっている事から分かる通り、徳之一色城は大規模な水田耕作地帯、つまり
泥湿地に浮かぶ唯一の孤島と言え、この場所だけが地盤の強固な地点だった訳である。また、徳之一色城のすぐ北側を
東海道が東西に横切り、そこから枝分かれして遠州灘へ通じる藤枝街道が城内を貫通する形で延びていた。地方の軍事
拠点たる城館は、街道を取り込む事でその存在意義を増していたのだ。信玄が目をつけるに相応しかった徳之一色城は、
築城の名人として知られる信房が手を加えた事で名を改め、田中城とされたのである。武田の軍記「甲陽軍鑑」元亀元年
正月の項には「藤枝のとくのいつしきあけてのく、是は堅固の地なりとて、馬場美濃守に被仰付、馬だしをとらせ、田中城と
 名付、暫番手持也」と書かれている。所謂“武田流築城術”の定番、丸馬出を付設した縄張りへと生まれ変わった様子が
記載され、田中城は“丸い城”へと変貌していく。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
今川時代に整備された二郭の北と南に開かれた虎口は丸馬出で塞ぎ、さらにそれら全てを囲うように円形の三郭を用意。
その三郭は東西南北の4方向に虎口を開いていたが、これまた丸馬出で守りを固める。つまり、田中城は合計6箇所もの
丸馬出を備えた城となったのだ。円形の曲輪は中心(主郭)から全方位が等間隔に収まる為、城内の兵力展開が容易に
なる。また、丸馬出は外周が最短距離で結ばれる形であり、防備の兵力が最小限で済む構造だった。武田軍の用兵術は
城郭の要所を一点防御で厳重に守るよう特化しており、円郭式はまさしく武田の城として最大限の力を発揮できる堅城に
生まれ変わったと言えよう。格段に防御力を増し、一応の工事が終了したこの年の9月、信玄から城主に任じられた山県
三郎兵衛昌景が城を受領している。言わずもがな、武田家中最強の戦闘軍団“赤備え”を率いたあの山県昌景である。
昌景はこの城を拠点とし駿河西部における武田家の支配権を安定化させた。地勢を戦略的に見れば、東の駿府から西の
遠州へ至る道筋において、大井川を渡る直前つまり駿河国の最西端部に位置する拠点城郭が田中城だという事になる。
武田軍にとって、甲斐から京へ進出する路は駿府〜田中城を経て小山城〜諏訪原城〜掛川城・高天神城へと繋がるので
この城は織田・徳川領である遠江以西を攻略する兵站拠点になる訳だ。武田軍の征西作戦を完遂させるには、田中城を
磐石な軍事基地として地固めする事が必須でござった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

守勢の城でも堅城ぶりを発揮■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
信玄の西上作戦は1573年にいよいよ本格始動するが、その前年である1572年(元亀3年)田中城主は板垣左京亮信安に
交替している。信玄股肱の臣である昌景は上洛作戦に欠かせぬ将であるが故、守将を交代して出征したという事だろう。
ところが信玄は作戦途上にまさかの病没。武田の上洛は御破算になり、後を継いだ勝頼は積極的に遠江国内の侵食を
図るも1575年の長篠合戦で大敗北を喫する。これで武田と織田・徳川は攻守逆転するようになり、西から徳川軍が武田に
奪われた領土を奪還していく。なお、長篠合戦で山県昌景は戦死しており、山県家の家督は彼の子・三郎見日兵衛尉昌満
(まさみつ)が継承。同時に田中城代を命じられた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
このような情勢下で昌満が入る事となった田中城は、それまでの補給基地から駿河国を防衛する前衛城郭に転じてしまう。
周囲の諸城が順次徳川方に落とされていく中、しかし“武田流築城術”の真骨頂たる円形城郭・田中城は強固な防衛力を
発揮し、陥落する事は無かった。一説に拠れば、徳川軍は1578年・1580年・1582年と都合8回にも及ぶ攻城を行ったものの
遂に落城は免れたという。が、運命の1582年になると武田領は各地で主君・勝頼を見限る裏切りが発生。駿河を預かって
いた穴山梅雪(ばいせつ)も、武田親族衆筆頭であったにも係らずこうした離反に同調、織田・徳川方に身を転じる。田中
城は2月20日から徳川軍の攻勢を受けていたが、城将の依田右衛門佐信蕃(よだのぶしげ)と三枝土佐守虎吉(さいぐさ
とらよし)は強固に守っていた。されど梅雪の翻意により田中城は孤立無援となり、もはやこれ以上守っても後詰(援軍)が
やってくる望みが絶たれたため3月1日、城を開き依田・三枝らは退去している。この後、依田家も三枝家も徳川家臣に加え
られている。田中城は徳川の持ち城となって、家康が浜松から駿府へと本拠を移した後、領内視察や鷹狩巡行などの折の
宿館として使われるように成り申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1590年(天正18年)、豊臣秀吉の全国統一によって家康は関東へと国替えされる。駿河14万石は豊臣系大名の中村式部
少輔一氏(かずうじ)が治める事となり、田中城も中村氏の城となった。中村家の家老・横田内膳正村詮(むらあきら、一氏
妹婿)が8000石で城代に入ったとされる。しかし1600年(慶長5年)11月に関ヶ原合戦後の論功行賞で中村家は伯耆国米子
(鳥取県米子市)17万5000石へと加増転封されている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

近世城郭化で更に丸く大きく■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
明けた1601年(慶長6年)武蔵国川越(埼玉県川越市)3000石から7000石の加増を受けて1万石の大名となった徳川家臣・
酒井備後守忠利(ただとし)が田中城主に着任する。忠利は田中城の改修に着手し、武田家が整備した三郭の更に外側へ
外郭を設け、東海道の藤枝宿と直結する形にした。この外郭も見事な円形をしていたので、田中城はより一層“丸い城”へ
進化した訳である。外郭内部は主に家臣の屋敷が建ち並び、その直径は約600mにも至ったため、田中城の敷地は従前の
3倍に巨大化した。戦国末期に土木技術が飛躍的な向上を遂げ、干拓や排水が効率的に行えるようになった事で為し得た
城郭拡張であるが、もともと多湿な場所である事から、堀には満々と水を湛えており、忠利の改修工事が水利を上手く転用
したものだった状況も垣間見えよう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
その忠利は1609年(慶長14年)9月23日、更に1万石を加増された事で川越へ戻され、田中城は駿府城に入っていた大御所・
家康の直轄城にされた。家康外出時の宿所や将軍上洛時の逗留城とされた事から「田中御殿」とも呼ばれるようになる。
元和偃武後の1616年(元和2年)1月21日、鷹狩で田中御殿に宿泊した家康は贔屓の政商・茶屋四郎次郎清次(きよつぐ)に
上方で流行の食事として天麩羅を紹介され、その場で鯛を調理して食したが、床に着いて日が替わった22日の深夜2時頃、
急な腹痛に襲われ悶絶した。これが家康の死因として有名な“鯛の天麩羅による食中毒”説である。だが家康が没したのは
それから3ヶ月も後の事で、現在の研究では家康は胃癌を患って亡くなったとされている為、田中城で腹痛を発したのは単に
そのタイミングで癌の症状を発しただけだと考えられよう。さりとて、家康の死といえば“鯛の天麩羅”という話はあまりにも
有名で、その舞台となったのがここ田中城だった訳だ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

猛烈な勢いで入れ替わる城主■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
家康の死後、駿府城主の任は徳川右近衛中将頼宣(家康10男、後の紀州御三家初代)次いで徳川忠長(秀忠の3男、駿河
大納言)へと変わり田中城もその預かりとされていたが、1633年(寛永10年)8月9日に上総国佐貫(千葉県富津市佐貫)で
1万5000石を有していた桜井松平大膳亮忠重が2万5000石に加増され城主を任じられた。ここに田中藩が立藩され、以後
明治維新まで代を受け継いでいく。忠重は翌1634年(寛永11年)5000石を加増され3万石になり、更に1635年(寛永12年)
8月4日、1万石を加えた4万石で遠江国掛川へ転封する。替わって下総国山川(茨城県結城市山川)3万5000石に1万石を
加増された事で転封されてきた水野監物忠善(ただよし)が入封したが、その忠善も1642年(寛永19年)7月28日、三河国
吉田(愛知県豊橋市)に移され、同年9月12日からは2万5000石で松平伊賀守忠晴が田中城主になるも1644年(寛永21年)
3月18日に掛川へと転封。今度は下総国関宿(千葉県野田市関宿)2万石から5000石加増された北条出羽守氏重(小田原
後北条氏の分家・玉縄北条氏の後継)が城主になるが、1648年(正保5年)閏1月21日にやはり掛川へと転出している。
この氏重は家康の異父妹を母に持ち、彼の娘は大岡越前守忠相の母となる、なかなか面白い血筋の人物である。■■■
1649年(慶安2年)2月11日、常陸国土浦(茨城県土浦市)2万石より西尾丹後守忠照が入城した。石高は5000石加増の2万
5000石。1654年(承応3年)10月26日に彼が没すると、嫡男である忠成(ただなり)が12月に相続するが、この時まだ幼少で
あったために後見人として叔父の忠知(ただとも、忠照の弟)が執政に当たった。よって、忠知には5000石が分知される事と
なり、本来の田中藩領は2万石に減ず。忠知の死後、5000石は忠成に返還されたが1679年(延宝7年)9月6日、信濃国小諸
(長野県小諸市)へと移封されている。その小諸から田中へ入ってきたのが酒井日向守忠能(ただよし)だ。忠能は前任地の
小諸3万石で苛烈な収奪を行い領民の大一揆を惹起させていたが、彼の兄・雅楽頭忠清(ただきよ)が当時の大老を務めて
いたので、処罰が下るどころか1万石の加増転封という形で決着をつけたのである。失政をしても1万石の加増とは合点の
いかない話ではあるが、忠能が出て行った事を小諸の民は大いに喜んだと言う。そして5代将軍・徳川綱吉の就任によって
大老の酒井忠清は失脚。忠能にも改めて罰が下る事になり、1681年(天和元年)12月10日に在国中の逼塞と勤務怠慢を
理由に改易された。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1682年(天和2年)2月12日、土浦4万5000石から土屋相模守政直(まさなお)が入封。土屋家は遡れば甲斐武田氏の譜代
重臣である。しかも政直の曽祖父・土屋右衛門尉昌恒(まさつね)は滅び行く武田氏に最期まで従って、主君・武田勝頼が
自害するまでの間、寄せ来る敵を切り伏せて時間稼ぎをし“片手千人斬り”とまで称された豪傑だった。その篤き忠義心を
家康に讃えられ徳川家臣に加えられた訳で、武田家滅亡からちょうど100年を経て土屋家の当主が田中城に入った事は
何らかの縁を感じさせよう。政直もまた、徳川家に尽くす譜代の忠臣であると共に才覚秀でた人物で、1684年(貞享元年)
7月10日に幕閣の登竜門である大坂城代を命じられ2万石加増とされている。この後、彼は京都所司代を経て老中に昇進。
一方、田中城主には同月19日を以って5万石で太田備中守資直(すけなお)が任じられた。彼もまた、奏者番や若年寄を
歴任する英才であったが1705年(宝永2年)1月2日に田中城内で病没。享年48歳でござった。遺領は末子(5男)の備中守
資晴(すけはる)に継承されたものの同年4月22日、陸奥国棚倉(福島県東白川郡棚倉町)へと移されている。■■■■■
入れ替わりで棚倉から内藤紀伊守弌信(かずのぶ)が田中城主となった。石高は前任地と同じ5万石。1712年(正徳2年)
5月15日、大坂城代に転任。越前国野岡(福井県今立郡野岡)3万5000石の土岐丹後守頼殷(よりたか)が田中に入るも、
1713年(正徳3年)7月に隠居したため嫡子の丹後守頼稔(よりとし)が継承している。ところが頼稔もまた大坂城代に転出。
結果、上野国沼田(群馬県沼田市)の本多豊前守正矩(まさのり)が4万石で田中城主に着任した。1730年(享保15年)7月
11日の事である。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

ようやくの安定、そして明治維新■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
これまで、城主(藩主)は短期間で目まぐるしく交替していた田中城であるが、本多家は幕末まで転封なく定着した。ようやく
田中城では安定した統治時代を迎える事になる。正矩以降、伯耆守正珍(まさよし)―紀伊守正供(まさとも)―伯耆守正温
(まさはる)―豊前守正意(まさおき)―豊前守正寛(まさひろ)―紀伊守正訥(まさもり)と代を重ねた。■■■■■■■■■
正寛時代の1837年(天保8年)に藩校の日知館を創設。この日知館は水戸藩の弘道館と並んで「武道の二関」と称された
名門校。この他、本多期は文武の奨励に力を入れた才覚主義を採り、藩主も文芸に秀でた才知の人物が多かった。また、
幕末期には大砲の鋳造を研究して将来の軍事危機に備える遠謀の政策を執っていた反面、こうした事績が却って財政の
悪化を招き、農民一揆も度々起こってござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
そうした後に明治維新が成る訳だが、大半の藩がこれで廃藩置県を迎える歴史にある中で、駿河・遠江にある藩は最後に
もう一つ大きな転機を迎える。徳川将軍家が新政府の命により一大名に転落、駿府城に入り静岡藩70万石を立藩させた為
その領地に駿遠の大半が組み込まれたのである。それ故、こうした地にあった藩は所領を押し出される形で殆んどが房総
半島に新たな知行地を与えられるようになる。田中藩も同様で、正訥は1868年(明治元年)7月13日、安房国長尾(千葉県
南房総市)に代替地を得た。田中城は静岡藩の支配下となり高橋泥舟が城を預かるも、程なく廃藩置県。1873年(明治6年)
1月14日に発せられた所謂「廃城令」により廃城と決定され、これを以って室町時代から続いた古城・田中城は失われたので
あった。城内の諸建築は殆んどが破却され、ごく僅かな建物が払い下げられて移築されたり、転用された後に取り壊されて
いく。一例を挙げると、現在は藤枝市立西益津中学校が設置されている場所にあった清水御殿は、志太郡立農学校(今の
静岡県立藤枝北高等学校)の校舎として使われていたが、農学校の移転に伴い移築、更にその後は解体されてしまった。
(田中城地は元々益津郡であったが、志太郡に合併してから農学校が開校したため志太郡立)■■■■■■■■■■■■

「丸い城」は「丸い住宅街」へ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
跡地も堀を埋め立て農地や宅地に変貌し、往時の城の姿は消え失せていった。だがそれでも昭和30年代までは丸い敷地を
そのまま用いた地割りが確認でき、その状況を写した航空写真が残されている。この写真を見ると、ちょっと日本の城跡とは
思えぬ地形が目に焼きついて衝撃的でもある。その後の高度経済成長により地跡破壊は進行してしまい、現在では一部に
土塁が残り堀跡が用水路や池として残存するのみ。むしろ製図された地図で跡地を見る方が“丸い城”だった用地を分かり
易く伝えてくれる感じである。もっとも、それはつまり現地を歩いて回ってみれば「丸い地形」を体感できると言う事でもある。
残された遺構は少ないものの、その場を訪れてみる事こそ田中城の存在を噛み締める一番の方法であろう。ただし、主郭
跡は藤枝市立西益津小学校になっており、その隣には西益津中学校。加えて周囲は住宅が密集して並んでいる状況であり
節度ある行動が求められるのでご注意を。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
移築された建物で現存するのは、不浄門と郷蔵・仲間(ちゅうげん)部屋・厩それに茶室と本丸隅櫓である。不浄門は焼津市
保福島にある曹洞宗田中山旭傳院という寺の山門になっている。残りの建物は田中城外郭の脇に整備された史跡田中城
下屋敷という公園内に一括して移築展示されている。この場所は城主の別宅があったとされ、通称で“下屋敷”と呼ばれた。
そこを1992年(平成4年)〜1995年(平成7年)にかけて整備し、城に関連する残存建築を持ち寄って史跡公園化したものだ。
郷蔵は田中城に隣接する長楽寺村(藤枝宿の一角)の郷蔵。領民から一定量の収穫を納めさせ、飢饉や天災などの危急時
それを活用するためのもので、要するに城内の米蔵である。そして本丸隅櫓は江戸時代に建てられていた2階櫓を廃藩後に
高橋泥舟の家臣であった旗本・村山氏が買取り住居としていたもの。これを1985年(昭和60年)市が譲り受け、下屋敷公園に
移築した。櫓と言っても無骨な戦闘様式ではなく、どこか風雅を感じさせる穏やかな佇まい(写真)。故に“御亭(おちん)”と
いう雅号で呼ばれている。天守のなかった田中城にあって、その代用とされていた物見櫓であり、当時は9尺(2.7m)の石垣
上に建てられていたそうな。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
本丸隅櫓・長楽寺村郷蔵・茶室・仲間部屋・厩はいずれも1993年(平成5年)4月26日に藤枝市指定文化財になってござる。
また、田中城址そのものも1957年(昭和32年)3月16日に市指定史跡とされている。それに加えて、田中城の姿を記録した
「田中城絵図」と「田中城古図」も現存。「絵図」は1957年3月16日、「古図」は1966年(昭和41年)3月18日に市指定文化財と
され、両図とも藤枝市郷土博物館に収蔵されている。この他、発掘調査によって多数の出土品があり、特に水源池となって
いた城の北西200mにある姥ヶ池から水を引く木樋が発見された点は注目。戦国時代には周辺一帯が湿地帯であったのに
対し、江戸時代は干拓が進んで、近隣の池からも用水を引くようになった変化を物語っているようだ。ただし、現在まで残る
水堀跡は今なお自噴する湧水を有している為、全てが用水を必要としていた訳ではない事を注記しておく。■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群
城域内は市指定史跡

移築された遺構として
本丸隅櫓・長楽寺村郷蔵・茶室・仲間部屋・厩《以上市指定文化財》
旭傳院山門(不浄門)








駿河国 石脇城

石脇城跡

 所在地:静岡県焼津市石脇下・石脇上

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

★★☆■■
★☆■■■



今川家の家督問題と北条早雲■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
“最初の戦国大名”と呼ばれる英傑・北条早雲。旧説では出自不明の風来坊が才覚を活かして素浪人から大名まで成り上がり
関東に覇を唱える小田原後北条氏の始祖になったと言われていたが、最近の研究では室町幕府政所を務める伊勢氏の中で
伊勢新九郎盛時(もりとき)が、幕府と駿河守護・今川家との間を取り持つ事で地縁・血縁を育み、後に伊豆を平定し関東への
足掛かりを築いたと考えられるようになった。盛時の姉(妹とも)は当時の駿河守護・今川上総介義忠(よしただ)に嫁ぎ、嫡男・
龍王丸(たつおうまる)、後の今川治部大輔氏親(うじちか)を産んでおり、その縁で今川家との関係を有する事となったのだが
義忠は幼い龍王丸を残して戦死してしまい、今川家では家督騒動が持ち上がった。嫡男とは言え幼児に統治能力はなく、更に
義忠の戦いは幕府の意に反する行いだった為、龍王丸にそのまま家を継がせる訳には行かぬとの意見が持ち上がったのだ。
その対抗馬となったのが義忠の従兄弟・小鹿新五郎範満(おしかのりみつ)。当時、龍王丸を除けば義忠に最も血縁が近くて
武勇に秀でた人物と評されていた。今川家中は正統である龍王丸派と実益を採る範満派に分裂し、一触即発の状況となった。
これを調停するために盛時が京都から下向、龍王丸が成人するまで範満が当主代行を務めると言う和平案を提示して、辛くも
今川家の内紛は回避された。ところが年月を経て龍王丸が成長しても範満は家督を返そうとはしない。和平案を反故にされ、
危機感を募らせた龍王丸の母、即ち盛時の姉は再び盛時に事態収拾を依頼。その為、盛時は幕府の内意を受け範満打倒を
決し1487年(長享元年)11月に範満の居館を襲撃した。これにより敗北した範満は11月9日に自害、晴れて今川家は氏親の下
統一されたのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

真の「北条早雲旗揚げの城」?!■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
石脇には、こうした交渉に時間を費やした盛時が寓居していた。義忠戦死直後である最初の交渉時(1476年(文明8年))石脇に
館を構えたと見られるが、範満追討の折(1487年)には石脇に城があったとされ、盛時はこの城に兵を集め範満襲撃の行動を
起こしたと言われている。館がいつの時点で城となったのか、或いはそもそも館はいつからあったのかは不詳なれども、今川家
分裂の前後にこの城が重要な役割を果たしていた事は確かであろう。この後、盛時は氏親から富士下方12郷を与えられ領有、
興国寺城(静岡県沼津市)を居城にしたと伝えられる。早雲の“伝記”としてはこの興国寺城が伊豆や関東への足掛かりとなる
「北条早雲旗揚げの城」と言われるが、上記の経歴を見れば石脇城がその前段階(今川家平定)の「伊勢盛時旗揚げの城」と
なるのだろう。興国寺城への転居を機に石脇城は廃城となったとされる一方、盛時が興国寺城へ入ったと言う一次史料は無く
石脇城が継続して使われたと考える説もあるが、いずれにせよ以後の経歴は不明。早晩廃城になったと思われる。なお、当時
石脇を含む焼津市南部は「山西の有徳人」と呼ばれた長谷川次郎左右衛門正宣(まさのぶ)の支配地域であった。正宣は今川
家中での対立時に龍王丸派に属し、危難に直面し駿府を逃れた龍王丸母子を保護している。その龍王丸母子を守るべく京から
下向した盛時が立ち寄るにはうってつけの場所だったのだろう。正宣の子が伊賀守元長、その子(正宣の孫)が徳之一色城を
守備した紀伊守正長となる。余談だが徳之一色城(田中城)の所在地は西益津と呼ばれる地、対する石脇周辺は東益津であり
両城は相対する存在だったのだろう。また、北条早雲の立場からすると石脇城と興国寺城が相対する存在と言えるのだろうが、
興国寺城が史料上での確認が出来ないのに対し、石脇城については伊豆国江梨郷(現在の静岡県沼津市西浦江梨)の鈴木家
文書の中に「早雲寺殿様、駿州石脇御座候」(大道寺盛昌書状)とあり「北条早雲が駿河石脇に在住していた」旨の記述が確認
でき申す。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

小ぶりながら使いやすい山城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城の所在地は北に東名高速、南に国道150線バイパスと東海道新幹線の線路がある間。その南側には東海道本線(在来線)の
線路、逆に東名高速の北には国道1号線つまり東海道が宇津ノ谷峠を越えてくる地点となり、交通の要衝である事は明らかだ。
長谷川正宣が「山西の有徳人」と呼ばれたのは駿府の直近に連なる山塊(宇津ノ谷峠)の西側一帯を掌握した事からだが、即ち
石脇城は駿府の町と指呼の間にありながら険阻な地形を管制できる絶妙な地点にあった訳だ。■■■■■■■■■■■■■
東名高速の日本坂PAのすぐ隣(東側)に石脇公会堂(公民館)があり、その公会堂から東南東180mの位置にある小山が城山。
(公会堂の北側にある石脇浅間神社の山(東名高速が跨っている山)ではないので注意)■■■■■■■■■■■■■■■■
この山は現状で海抜34mを指し比高差30m程となっているが、当時は周辺地盤がもっと低かったと考えられ更に険峻な山だった
模様である。山そのものは東西100mほど×南北200m弱という大きさ。南北方向に細長い山だが、尾根が「く」の字に折れ曲がり
南側に開いた谷戸を包み込むような山容となっている。この山の山頂部一帯を啓開し、北東側(最も標高が高い)が主郭、南西
隅部が3郭、中間が2郭と言う連郭式の縄張り。現状では主郭に大日堂、3郭には城山八幡宮が置かれている。故に、参拝道を
兼ねた登山路がきちんと整備されており、登城は楽である。また、近年では城址を観光資源として整備している風潮から、この
石脇城でも美しい城郭の姿が整えられるようになった。実に有りがたい話でござる。曲輪の間は堀切や切岸で隔絶している上、
細かい腰曲輪などもあったようで、小ぶりながら、しかも戦国時代初期の山城ながら、実に纏まりが良い城となっている。大手は
南側、つまり主郭と3郭に挟み込まれる谷戸側から山を登る事になり、攻め手としては進軍しづらい縄張りであろう。■■■■■
主郭には分厚い土塁も残存。ここからは景色を一望でき、街道や海を監視するのに適した立地である事が今も分かる。ちなみに
現代では行き交う新幹線や目の前にあるビール工場の巨大なタンク群が見えて、独特な眺望を楽しめる。現在は用水路となった
石脇川(当時は山田川と呼んだ)が城山の西面を取り巻いていたそうで、これも天然の濠として機能していたのだろう。石脇城は
山の内外に隠れた痕跡が(分かり難いのだが)残存しており、じっくり見ればそれなりに面白い城でござろう。個人的には、我らが
小田原後北条氏の“原初”と言える城だし、この頁を編集中に連載されている早雲公の伝記漫画「新九郎、奔る!」にてこれから
どのように描かれるのかが楽しみな城なので、イチオシしたい城である。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
難点は近くに駐車場が無い事。日本坂PAの目の前なのだが、訪城の為にPAを使う訳にもいかず…路駐するしかないようなので
近隣住民の方々に迷惑をかけぬよう気を付けたい。城の史跡指定はされていないが、大日堂にある吉祥天立像と不動明王像は
焼津市指定の文化財でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群




久野城  庵原郡域諸城郭