山崎の砦■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
静岡県榛原郡吉田町、いわゆる牧之原台地の最東端に位置する舌状台地を利用した平山城。■■■■■■■■
湯日川と神戸(かんど)川の合流地点に面し、往時は湯日川がもっと大きく蛇行していたため敷地の北〜東〜南は
川の浸食崖で隔絶、必然的に城への侵入路は西面のみに限られている。日本の古代から近代初頭までは河川を
利用した舟運が必要不可欠な物流移動手段であり、かつこの場所は遠州灘沿岸を貫通する街道も扼しているので
陸上・水上の両路を管制する重要地点だった。まさしく築城好地である小丘陵と言え、遡ればここには平安末期の
文治年間(1185年〜1189年)に小山(おやま)七郎朝光(ともみつ)が砦を築いたと記録が残る。この小山朝光とは
結城氏(茨城県結城市を中心に勢力を広げた古豪)の始祖・結城朝光の事である。朝光はこの後、鎌倉幕府初代
将軍・源頼朝に寵愛され北関東に勢力基盤を築いていく。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
一方、小山(こやま)城が次に脚光を浴びるのは時代が下って室町中期、駿河守護・今川氏によってこの地に砦が
築かれ、「山崎の砦」と名付けられて配下武将である井伊肥後守が1万5000石の所領を以って守将に任じられたと
「今川分限帳」に記されている。しかしこれも小規模な砦だったと考えられ、本格的な築城とされるのは戦国時代に
なってからの事と言われる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
駿河・遠江(いずれも静岡県)太守であった今川治部大輔義元は三河国(愛知県東部)も併呑し、甲斐(山梨県)・
信濃(長野県)を領有する武田徳栄軒信玄や、伊豆〜南関東一帯を手中にする北条左京大夫氏康と甲相駿三国
同盟を締結。後顧の憂いをなくし、1560年(永禄3年)遂に西上を開始するが、桶狭間の戦いで織田上総介信長に
討ち取られてしまった。以後、今川家は急激に衰退。もはや同盟に足るべき相手ではないと判断した武田信玄は、
三河に独立した徳川三河守家康と密約を結び1568年(永禄11年)12月、駿河への電撃侵攻を開始する。家康との
約定では遠江国を家康が、駿河国を信玄が領有する事になっていた。これは今川軍に反撃の機を与えず、また、
もう一方の同盟者である後北条氏からの抵抗を封じるため旧今川領国を速やかに占領する必要があったからだ。
ところが武田方は勢いに乗じて大井川の西岸、つまり家康が領有する手筈になっていた遠江国内にまで兵を進め、
山崎の砦をも手中にした。信玄としては家康との密約すら仮のもので、将来的には遠州攻略を進める為の布石で
あった訳だが、当然ながら家康はこの違約行為に反攻し家臣である大給(おぎゅう)松平左近丞真乗(さねのり)に
山崎の砦を攻撃させ申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
武田の大改造で「小山城」に■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
丁度この頃、既に駿河全域の占領を完了していた武田軍であるが翌1569年(永禄12年)から予想通り後北条軍が
今川救済の兵を発し、そこかしこで武田・後北条間の戦闘が勃発する。これに兵力を割く必要が生じた武田軍は、
家康に譲歩して山崎の砦を放棄、1570年(元亀元年)真乗が城主に収まった。斯くして真乗は遠州最東端で所領を
得た訳だが、後北条氏との決着をつけた信玄は早くも同年中から遠江攻略へと兵を返して1571年(元亀2年)2月に
山崎の砦を真乗から奪還してしまう。遠州の橋頭堡として重視されたこの砦は、武田軍最強と謳われる猛将・馬場
美濃守信房(信春とも)によって大改修され改めて小山城と名付けられた。一般的にこれが小山城の築城とされて
おり、信玄は宿敵・上杉謙信の配下から引き抜いた大熊備前守朝秀(ともひで)を城将に任ず。朝秀は内政下手な
謙信の手腕に疑念を抱き謀叛を起こしたが敗走、これを信玄が迎え入れ直臣として厚遇したのである。もはや帰る
べき故郷を失い、また信玄の期待に感じ入った朝秀は以後武田家滅亡までその身を捧げる事になるのだが、彼の
守る小山城は以降の武田軍西進を支える重要な拠点となり、歴史に名高い高天神城(静岡県掛川市)攻略戦での
駐屯・兵站拠点となったのである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
だが戦国屈指の名将・信玄は1573年(天正元年)4月12日に陣中で病没。跡を4男の四郎勝頼が継ぐ。■■■■■
父・信玄以上の領土拡大政策を採った勝頼は高天神城を徳川方から奪取し“父を超える”活躍を見せたが、過剰な
強攻策が仇となって1575年(天正3年)5月21日の長篠合戦で大敗、ここから武田氏の凋落が始まる。それまで防戦
一方であった徳川方は遠江国内で攻勢に転じるのだが、こうした情勢の変化に基づき、徳川軍は度々小山城への
攻撃を行っている。早くも長篠合戦から2ヵ月後の1575年7月から徳川軍による小山城攻撃が開始され、対する武田
勝頼は1577年(天正5年)8月と10月に当城の兵を慰労に訪れ、両軍がこの城を重要視していた様子が垣間見える。
翌1578年(天正6年)には3月・8月の2度にわたって徳川軍が攻城。1580年(天正8年)7月にも家康が小山城に攻め
かかったが、この時には勝頼が後詰に来援した為、徳川軍が撤退した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかし没落著しい武田軍は次第にジリ貧となり、徳川方は遠州攻略の勢いを増していく。■■■■■■■■■■■
二俣城(静岡県浜松市天竜区)・高天神城などが次々と徳川軍に落とされると、もはや遠州での戦線を維持できなく
なった武田軍は撤退するしかなく、1582年(天正10年)2月16日遂に小山城は戦わずして放棄され自焼、これを以って
廃城となったのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
武田流築城術の保存見本■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
遠江国内にあった武田氏の城郭は軒並み徳川家康が占拠して改修、再使用されているが、この小山城は復活する
事がなかった。即ち、馬場信房による築城から大熊朝秀による自落まで、小山城は一貫して武田氏の城であり続け、
そのまま命運尽きたのであり、遠江国内における“武田流城郭”の最たる好例であると言える。信玄の遠州西上戦、
或いは勝頼の対徳川防戦の拠点として用いられたこの城は、当然西の徳川軍と対戦する事が存在意義たる訳で、
必然的に戦闘正面(大手)は西側に構えられている。この点、川の蛇行を上手く利用し西側のみに接続面を有して
いた旧「山崎の砦」の立地は、まさしく武田軍が築城するに相応しいものだったと言えよう。■■■■■■■■■■
縄張を見てみると、東端つまり舌状台地の突出部が本丸とされ、そこから西へと二ノ丸や三ノ丸が連なる典型的な
連郭式である。そして各曲輪間は武田流築城術お得意の急峻な空堀で仕切られ、曲輪に入る虎口は丸馬出で固め
られているのもお約束であろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
圧巻なのは三ノ丸の西、つまり大手口を守る三日月堀で、何と三重の三日月堀を重ねて徹底的な多重防御構造を
採っている事だ。この三重三日月堀は現在に至るも明瞭に残り、小山城を見学する際の必須地点となっている。
三重三日月堀の最長部分は長さ60mにも及び、深さは6m、幅10mを数えている。なお、三重三日月堀の端に武田の
軍師・山本勘助晴幸が掘ったと伝承される「勘助井戸」も残っているのだが、年代的に勘助がこの城に関わった事は
無い筈なので、あくまでも“名前だけ”の伝説に過ぎない。ただ、井戸が城内にある事は重要であり、この小丘陵が
周囲の川からだけでなく城内井戸からも給水可能な“築城好地”だった事を物語る。加えて、三重三日月堀自体が
貯水も可能な構造である。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
二等辺三角形をした城域全体は東西およそ190m×南北130m(最長部)、敷地面積は約1万4300u、丘陵麓からの
比高は約20m。城山の中腹部分には腰曲輪も多数構えられた上、南東側の麓にある臨済宗吉祥山能満寺の境内も
往時は「能満寺曲輪」とでも呼ぶべき出曲輪として機能していた。要するに、この山は全てが城砦として用いられた
ハリネズミのような大要塞だったと言えよう。武田軍による築城造成が徹底して行われた様子を窺え申す。■■■
現在は能満寺公園として整備された城跡であるが、開園に先立って数度行われた発掘で上に記した丸馬出遺構や
炭化した米などが検出された。1987年(昭和62年)二ノ丸物見櫓跡に天守風の観光展望台兼史料展示室(写真)が
建てられ、その中でこれらの出土遺物や城史に関する資料が閲覧できる。無論、もともとの小山城に天守建築はなく
全く史実に基づかない模擬天守である事を注記しておく。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ともあれ、模擬天守の存在を抜きにしても三日月堀や丸馬出の遺構は見事なもので城址は1964年(昭和39年)4月
1日、吉田町指定文化財になってござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
なお、能満寺に生育するソテツの木は日本三大ソテツの1つに数えられる名木であるが、徳川家康に関する伝説も
残されている。曰く、小山城周辺の村々を巡検した家康がこのソテツの見事さを愛でて、自身の居城である駿府城
(静岡県静岡市葵区)へと移植してしまった。ところが、夜な夜な駿府城内では不気味な物音が鳴り出すようになり、
調べてみるとソテツの木が泣いているかのような声を発していた為、それを哀れんだ家康は元の能満寺へと戻して
やったという話だそうな。このソテツの木も、吉田町の文化財になっている。■■■■■■■■■■■■■■■■
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