遠江国 久野城

久野城 西ノ丸跡の切岸

 所在地:静岡県袋井市鷲巣

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★☆
★★☆■■



久野氏の久野城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
別名で座王(蔵王)城・鷲之巣城とも。築城から戦国末期まで久野氏歴代が城主。■■■■■■■■■■■■■■■■
久野氏は藤原南家為憲流の流れを汲む家柄で、いつ頃から当地(久野郷)に入ったか定かでないものの、鎌倉時代には
久野六郎宗仲なる人物が在住していた記録がある。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
室町時代、遠江(現在の静岡県西部)守護には斯波氏が任じられていた。一方、駿河(同県東部)の守護は足利将軍家
連跡の今川氏で、戦国乱世の様相を呈すと今川氏は遠江への進出を画策するようになる。久野氏はかなり早い段階から
今川氏に服属していたようで、久野城も今川軍の進出拠点として築城されたものと言われている。■■■■■■■■■
一般には明応年間(1492年〜1501年)に久野佐渡守宗隆が築いたと伝わる。1494年(明応3年)今川治部大輔氏親の命に
より今川軍が遠江侵攻を開始しており、これを契機とすれば年代的整合は取れる。但し、永正年間(1504年〜1521年)に
入ってからの築城とする説もあるため確定的な事は言えないようでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ともあれ、久野氏はこの城を本拠とし今川家に臣従。命令に従って西に東に戦い、一族の中にはこうした戦いで討死する
者も多かった。当時、今川家の支配は磐石だったので久野氏は総力を挙げて主君に仕えた訳である。宗隆の跡は嫡男の
宗忠(元宗)が城主を継ぐ。そして1560年(永禄3年)今川治部大輔義元に従い、宗忠や一族の久野宗経らは尾張侵攻に
出陣した。ところがこの大軍勢は尾張のうつけ・織田上総介信長の奇襲に破れ、大敗北を喫するのである。これが有名な
桶狭間の戦いであり、総大将・今川義元は勿論、宗忠や宗経らも悉く戦死してしまう。この結果、久野氏の総領には宗能
(むねよし、宗忠の3弟)が就き、久野城主となったのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
だが義元の死により今川家は急激に衰退。代わって遠江へと勢力を伸ばしてきたのは三河の徳川家康である。事ここに
至り、久野一族は従来通り今川に従う者と新たな覇者である徳川に付く者が分かれる事態になるが、当主・宗能は家康の
家臣となる道を選んだ。その為、久野家は徳川譜代家臣の地位を手に入れるのである。■■■■■■■■■■■■■
宗能は家康の掛川城(静岡県掛川市)攻め、高天神城(同市)攻略や小牧・長久手の戦いに参加して武功を挙げ申した。
武田信玄が遠州へ襲来した時も、久野城はこれを防いでいる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

久野氏の再封■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1590年(天正18年)豊臣秀吉の天下統一により、徳川家康は関東へと移封された。宗能も家康に従い、長年の居城だった
久野城を離れ下総国佐倉(千葉県佐倉市)1万3000石へと移る事になる。代わって久野城には遠江国頭蛇寺(ずだじ)城
(静岡県浜松市南区)より松下加兵衛之綱(ゆきつな)が移されている。この之綱、秀吉が信長に仕える以前奉公していた
武将で、それを恩義と感じた秀吉が1万6000石の封を与えて久野城主としたものだ。之綱は1598年(慶長3年)2月末日に
没したので、2男の右兵衛尉重綱が家督を継承。この重綱は豊臣恩顧の大名ながら、1600年(慶長5年)9月15日の関ヶ原
合戦において徳川家康へ味方し、西軍方の拠点である大垣城(岐阜県大垣市)封鎖の一助を成している。そのため戦後も
本領安堵を受けたが、1603年(慶長8年)無断で久野城の石塁を修築したという罪により、成立したばかりの江戸幕府から
常陸国筑波郡小張(現在の茨城県つくばみらい市小張)へと懲罰的転封を命じられた。幕府としては、豊臣家と縁が深い
上にしかもそれを裏切った松下家は邪魔者でしかなかったのであろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この移封劇により、久野城には再び久野宗能が戻る。久野家は家中の問題で石高を減じ、一時期は1000石にまでなって
いたものの、宗能の忠勤により久野城主として8500石を与えられた。1609年(慶長14年)10月8日、宗能は83歳の長寿を
全う。彼の孫・金五郎宗成が跡を継ぐ事になる。1611年(慶長16年)丹波守に任じられた宗成は、後に徳川御三家・紀伊
徳川家の祖となる徳川左近衛権中将頼宣(よりのぶ、家康の10男)付きの家臣とされた。この当時、頼宣は家康の手元の
駿府城(静岡県静岡市葵区)にあり、大坂の陣が勃発すると頼宣と宗成はそれぞれ出陣する。斯くして豊臣家が滅亡し、
天下は徳川幕府の下で平定された。安寧なった後の1619年(元和5年)頼宣は駿府から和歌山(和歌山県和歌山市)55万
5000石の太守に移され、その付家老として宗成も田丸城(三重県度会郡玉城町)主1万石に封じられ申した。■■■■■
宗成に代わり、下野国富田(栃木県栃木市大平)1万石から久野城に入ったのが北条出羽守氏重(うじしげ)。石高は同じく
1万石。北条の姓で分かる通り、戦国時代の小田原後北条家に縁を持つ人物である。遡れば1494年の今川家遠州遠征は
伊勢新九郎盛時、つまり北条早雲が指揮を執ったと言われるので、久野築城に所縁の者が125年ぶりに入ってきた事に
なろう。そしてこの氏重が、久野城最後の城主となるのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

北条氏重が整備するも廃城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
大名としての後北条氏は秀吉の天下統一により滅亡したが、いくつかの分流は関東に入った徳川家の家臣として召し抱え
られていた。氏重もこうした流れの1家である上、彼の母親は家康の異父妹であった事から、譜代大名としての地位を確立
していた。しかし同時に、譜代の家柄は転封が常に行われる事を意味し、下野富田からここ久野へ移ってきたのである。
久野城は築城後、松下時代に改修を受けていたが、最終的に近世の形態に整えたのは氏重でござった。即ち、既に天下
泰平の時代となっていたため険しい防御としての城郭は不要となり、むしろ政庁としての機能が必要とされていて、氏重は
山頂部の本丸を廃し、山裾に館を構える陣屋形式の城郭に改めたのだった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところがそれを成したのもつかの間、氏重は1640年(寛永17年)9月28日に再度の移封を命じられて、2万石で下総国関宿
(千葉県野田市関宿)へ移る事になった。斯くして久野城は主を失い、遂に1644年(正保元年)廃城処分とされたのである。
以後、跡地は耕作地とされていた。明治期になると茶畑にもされていたようだが、1979年(昭和54年)10月1日、袋井市指定
史跡となった。平成に入ってから公園整備も行われており、現在は駐車場も備えた史跡として一般開放されている。■■■
なお、公園整備に先立つ発掘調査により城跡からは屋根瓦や陶磁器が検出されている。この調査の結果では、城の創建
年代はやはり明応年間と推定された。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

小丘陵を全山城郭化■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城跡は水田の平原が広がる中に浮かび上がる小丘陵を利用した丘城。久野氏の創建当初は標高34mの山頂部分を啓開
した程度の館だったと考えられるが、松下氏の入封により織豊系城郭への改造が行われ、山裾へと曲輪群が重ねられる
形状になった。一方、徳川譜代の北条氏重が城主となった事で、逆に豊臣の遺風を廃するようになり、山頂の本丸へ至る
経路は廃され、山麓部分の政庁で統治を行う事が主な使用方法に変わり、城の外周を巡る堀の再整備と大手口の構えを
厳重壮麗に変更する事が行われた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
お椀を伏せたような山容の城山は、本丸を最頂部に置き、そこから大きく見て北西側・東側と南側の3方向にそれぞれ階段
状の曲輪を重ねた梯郭式の縄張り。このうち、最も縦深を取り大規模な曲輪を用意しているのが南側の尾根である。恐らく
戦闘正面はこの向きだろう。北西側は細かい段をいくつも重ね、侵入経路を複雑化させている。こちらは搦手か?■■■
大手とされるのが東側。確かに、この向きから山頂を見上げると立派な威容に見え訪れる者への威圧効果は高く感じる。
これら3方向の尾根筋にはそれぞれ明確な使用目的が附せられていたと考えられよう。また、この3尾根の間を繋ぐ谷戸に
おいてもそれぞれ段曲輪や腰曲輪が構えられており、手頃な大きさの山という事もあって見事に全山が城塞化されている
事が分かる。そして山を全部回りこんで外堀が穿たれていた。この外堀は明らかに水堀であり、それは現在も堀跡が水田と
なって残されている事から容易に確認できる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
唯一、城山の北西端部だけが隣の丘陵と繋がっていて独立性を失わせているが、この部分も大規模な堀切で切断しており
防御性を確保している。現状はこの堀切地点に城山へ至る車道や駐車場が置かれているので、ややその雰囲気が薄れて
しまっているのが残念。ただ、それ以外の部分はほぼ手付かずのまま残されており見事に作り込まれた戦国末期の城郭を
体感する事が出来よう。戦国時代を生き残りながら江戸時代初期の段階で廃城、農耕地化された事が却って幸いとなり、
下手な市街地化や宅地開発の憂き目を見ずに綺麗なまま城地が残された訳である。江戸時代の系譜書「藩翰譜」の中で
「当国第一の要害にして、たとい何万騎を差し向けても落つべくも見えず」と記された久野城。大掛かりな土塁や、近世城郭
必須の石垣などは見受けられず、この文言はやや大げさではないか?とも思うが、湿地帯に浮かび上がる城の姿はまるで
湖に浮かび上がる壮麗なものだったと考えれば比高25mの低丘陵と言えど、そもそも“敵軍を寄せ付けない”立地だったの
だと受け取れる。本丸のすぐ隣には素掘りの井戸もあり、城の生命線である水の確保には事欠かなかった筈だ。となれば、
東海道を管制するこの小丘陵は、戦国時代〜近世初頭にかけての城として実に“お手頃”な使い勝手の良さを愛でられて
いたのではないだろうか。そして幕藩体制が安定するにつれ東に掛川城・西に浜松城(静岡県浜松市中区)を有する久野の
地には、もはや城は不要と判断され歴史の彼方に消え去っていった運命も頷けるものがござろう。然るに現代では、貴重な
“近世最初期の様態”をそのまま残した久野城址は、城郭愛好家が愛でるにちょうどお手頃な城として復活を果たした訳で
ある。実際に現地を訪れてその目で見てみれば「何と素晴らしい史跡であろうか」と感激できる筈だ。■■■■■■■■■
難点は交通の便の悪さ。公共交通機関を使っての来訪はかなり難儀。車を使い現地へ行く事になるが、これも道が分かり
難くてどこを通って行けば良いか分からず迷ってしまう。目の前を東名高速道路が横切り、その東名を走っていると城山に
掲げてある「久野城址」の巨大な看板が目に入り否応なく気付く城なのだが…。■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

井戸跡・堀・土塁・郭群
城域内は市指定史跡




諏訪原城・勝間田城  小山城・田中城・石脇城