遠江国 諏訪原城

諏訪原城9号堀

所在地:静岡県島田市菊川牧の原
(旧 静岡県榛原郡金谷町菊川牧の原)

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★★★■■
公園整備度:★■■■■



諏訪原(すわはら)城は甲斐の武田信玄が甲相駿三国同盟を破り駿河へ侵攻した際、
1569年(永禄12年)に遠江方面への抑えとして家臣の馬場美濃守信房(信春とも)に
築かせた砦が原型とされる。この地は駿河と遠江の国境から僅かに遠江側へ入った位置で
大井川や東海道を制する交通の要衝であった。信玄は駿河の領国化を完成させた後、
西上作戦を発動し東海の諸城を攻略しつつ遠江・三河の徳川領を進軍したが、
その途上で病に倒れ没する。信玄の跡を継いだ勝頼は、父よりも大きな戦果を求めて
遠州攻略を本格的に行い、1573年(天正元年)やはり信房を築城奉行に任じて
この地の砦を城郭として完成させた。これが諏訪原城の成り立ちでござる。
城の名は、城内に武田氏の守護神である諏訪明神を祭った事に由来しており、
地名や縄張り形状から牧野(原)城・金谷城・扇城といった別名でも呼ばれている。
標高218m、牧之原台地の中で旧東海道の中山峠を押さえる要地に築かれた諏訪原城は
城の北面・東面が断崖絶壁となっている要害地形で、この絶壁を背後にした
いわゆる「後堅固の城」と呼ばれる構造を採っている。結果、城の縄張りは
地図で見る西〜南にかけての90度にだけ展開する扇形となっており
これが扇城という別名の発祥でござる。縄張りの最深部、扇の要に位置する
本丸は周囲を土塁で囲まれ、中心に天主台と呼ばれる櫓跡、端部に井戸跡が残る。
その本丸は北西に5号堀、西〜南にかけて6号堀、南東に19・20・18・15号堀、
東側を10・16・17号堀を従える堅固な構え。5号堀の西側が二ノ丸、
6号堀の南西側が三ノ丸となり、それらは2・4・9・7・8号堀で守られる。
文章だけではよくわからないであろうが、とにかく随所に大規模な空堀が掘られ
いかにも戦国期の山城という構造が確認できる城郭なのでござる。
しかも諏訪原城の特徴はそれだけに留まらず、二ノ丸・三ノ丸の外側に
合計4箇所もの馬出しを備え、甲州流築城術を存分に活用した縄張りを見て採れる点。
遠州攻略の準備として勝頼が如何にこの城を重く見ていたかが窺えよう。
諏訪原築城の翌年、1574年(天正2年)に出陣した勝頼率いる武田軍は
徳川氏が守る遠江の要衝・高天神城を攻撃し見事陥落させた。
高天神城は信玄すら落とせなかった堅城で、
「高天神を制するものは遠州を制する」とまで呼ばれた最重要拠点。
東海道沿いの諏訪原城と遠州最重要軍事基地である高天神城を連動させる事が
可能となった勝頼は父・信玄を超えた自信をつけ、武田家による天下を
夢見たに違いない。しかし1575年(天正3年)5月21日、武田軍は
長篠・設楽ヶ原の合戦で織田・徳川連合軍に大敗北し、その夢は儚く潰えた。
攻撃側であった武田方は一転して徳川方の圧迫を受けるようになり
早くもその年の6月から諏訪原城に対して徳川軍の攻撃が開始される。
信房は長篠合戦で戦死しており、新たに城主となった今福丹波守顕倍は
2ヶ月に渡って防戦に努めたが、勝頼からの後詰めが得られず
籠城を諦めて小山城(静岡県榛原郡吉田町)へと退却したのでござった。
これにより徳川方が諏訪原城を接収、家康家臣の松平家忠らが配され
城の改修を行い防備を固めたが、その後武田家が遠江に再来する事なく滅んだため
駿河・遠江国境としての重要性は失せ、廃城とされ申した。
城の現状は、二ノ丸・三ノ丸やその外郭部が茶畑となってしまっているものの
本丸跡は手付かずの平場となっていて、往時の姿を想像させてくれる。また、
随所に掘られた空堀はほぼ完全な姿で残されている。しかもこれが実に深い!
樹木が鬱蒼と生い茂っているが、城郭初心者でも一見してこれは堀の跡だという事が
容易に確認できよう。こうした良好な保存状態が評価され、諏訪原城跡は
1975年(昭和50年)11月25日に国史跡の指定を受け、
2002年(平成14年)12月19日には追加指定を受けている。
堀を迂回させる事が主な防衛構造となっている城なので、城内はほぼ平坦な地形。
急斜面の上り下りなどはほとんどなく、簡単に城内を見て回る事ができ申す。


現存する遺構

井戸跡・堀・土塁・郭群等
城域内は国指定史跡








遠江国 勝間田城

勝間田城本丸跡

所在地:静岡県牧之原市勝田
(旧 静岡県榛原郡榛原町勝田)

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★★★■■
公園整備度:★★■■■



当地の豪族、勝間田(かつまた)氏の城でござる。
築城時期は応永年間(1394年〜1428年)と見られ、勝間田定長によるものと推定される。
勝間田(勝田)氏は平安末期から室町中期にかけてこの地方を領有した一族で、
横地氏から分家したもの(横地氏については横地城の頁を参照されたい)。
史料上に勝間田氏が初めて登場するのは源平争乱期、保元の乱における武功が
「保元物語」に残されている。さらに鎌倉幕府の史書「吾妻鏡」における記載では
勝間田平三郎成長なる人物が幕府設立期に活躍し、有力御家人として名を連ねたとある。
さらには1216年(建保4年)源実朝が派遣した宋使節団に勝田兵庫頭が参加、
1250年(建長2年)京の間院殿造営に際しては勝田兵庫助が木材を供出したと言う。
鎌倉後期では勝田長清が「夫木(ふぼく)和歌抄」を編纂。鎌倉幕府末期の戦乱では
1331年(元弘元年・元徳3年)の戦いで勝間田彦太郎入道が足利高氏(尊氏)に従い、
一方では赤坂城に籠もる楠木正成軍の中に勝田佐エ門尉直幸の名があり
幕府方・倒幕方の両方で勝間田氏が活躍していた事が確認される。
この様に勝間田氏は文武に秀でた経歴を持つ武士であったのが良く分かり申そう。
こうした来歴が高く評価されたのか、室町幕府成立後には御家人として厚遇される。
1348年(貞和4年・正平3年)足利尊氏が執り行った諏訪神社笠懸の神事では
勝田能登守佐長(すけなが)・勝田二郎丞長直らが射手として参加。
3代将軍・足利義満の頃になると幕府奉公衆に取り立てられ、勝田三河守太郎や
勝田修理亮が将軍近習の役人として中央政界に進出したのでござった。
勝間田城が築かれたのはおそらくこの頃だと思われる。
しかしこれ以後、勝間田氏の勢力は衰退を始める。1399年(応永6年)足利義満が
西国の有力大名・大内義弘を討伐した応永の乱では、将軍直属軍として
今川泰範の軍に加わった勝間田遠江守が丹波国追分の戦いで戦死。
また、1438年(永享10年)に6代将軍・足利義教の命を受けて関東征伐を行った
永享の乱では、勝田弾正が箱根で討ち取られている。相次ぐ有力武将の死を経た後、
1467年(応仁元年)から始まった応仁・文明の乱で同族・横地氏と共に
西軍方に加わった勝間田一族は、隣国・駿河国の太守、今川氏が東軍方に付いた為
遠江と駿河の間で激烈な戦闘を繰り返すようになってしまった。
全国的大乱の中、何とか国人領主として活路を開こうとした勝間田氏の戦いだったが
今川義忠軍の猛攻を受け、1476年(文明8年)に勝間田城が落城。
時の城主・勝間田修理亮は討ち死にしたと言われ、残った一族は各地に
四散する憂き目を見た。一説によれば逃れた者たちは御殿場に移住したというが、
以後の歴史上から勝間田氏の消息は消えてしまうのでござった。
さて勝間田城に話を戻すが、典型的な中世山城であるこの城は
牧之原台地から連なる尾根を上手く利用した梯郭式縄張りの城郭。大まかに言うと、
尾根の最高所となる一の曲輪(本丸)から北東に向かって下るようにして
二の曲輪・三の曲輪が並び、その外側には大堀切が掘削されている。
そこから更に外側には出曲輪が置かれ、一方で城の南側には物見台を削平。
南東部の尾根には他城に例を見ない鋸状の堀切も残されており、
中世の山城としては結構大規模なものに分類されよう。
いずれの曲輪にも防御施設として土塁や堀切が多用されており、
記録には残されていないものの、1476年の落城後も改修・使用された痕跡がある。
おそらくは戦国期に甲斐から進出してきた武田氏が遠江国の拠点として
利用したのでござろう。その保存状態は非常に良好で、しかも静岡県史跡として
1983年(昭和58年)2月22日に指定されているため、土塁や曲輪の整備が
綺麗に行われている。丹念に手入れされているので、下手な国の史跡より
よほどこちらの方が見ごたえのある城かもしれないだろう。
拙者が訪れた時も地元の方々が総出で草刈や清掃作業を行われておられ
史跡保全に努力される皆様の熱意を感じる事ができ申した。
おかげで土塁や堀切の勇姿をくっきりと確認でき、ただただ感謝 m(_ _)m
城山の北麓には小さな駐車場が用意されているので、車での来訪も可。駐車場から
城跡までやや歩く事になるが、途中に見える茶畑も風流なので良しとしたい。


現存する遺構

堀・土塁・郭群
城域内は県指定史跡




横地城  久野城