遠江国 諏訪原城

諏訪原城9号堀

 所在地:静岡県島田市菊川牧の原
 (旧 静岡県榛原郡金谷町菊川牧の原)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★☆
★★☆■■



扇の形をした名城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
諏訪原(すわはら)城は甲斐の武田徳栄軒信玄が甲相駿三国同盟を破り駿河へ侵攻した際、1569年(永禄12年)に
遠江方面への抑えとして家臣の馬場美濃守信房(信春とも)に築かせた砦が原型とされる。この地は駿河と遠江の
国境から僅かに遠江側へ入った位置で、大井川や東海道を制する交通の要衝であった。信玄は駿河の領国化を
完成させた後、西上作戦を発動し東海の諸城を攻略しつつ遠江・三河の徳川領を進軍したが、その途上で病に倒れ
没する。信玄の跡を継いだ四郎勝頼は父よりも大きな戦果を求めて遠州攻略を本格的に行い、1573年(天正元年)
やはり信房を築城奉行に任じこの地の砦を城郭として完成させた。これが諏訪原城の成り立ちである。但し、信玄の
築城以前から今川家が砦を築いていたとする説や、逆に信玄が築いた城(「金谷城」と称される)と勝頼が完成させた
諏訪原城とは一致しないと考える説もある。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城の名は、城内に武田氏の守護神である諏訪明神を祭った事に由来しており、地名や縄張り形状から牧野(原)城・
金谷城・扇城といった別名でも呼ばれている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
標高218m、牧之原台地の中で旧東海道の中山峠を押さえる要地に築かれた諏訪原城は、北面・東面が断崖絶壁と
なっている要害地形で、この絶壁を背後にした所謂「後堅固の城」と呼ばれる構造を採っている。結果、城の縄張りは
地図で見る西〜南にかけての90度にだけ展開する扇形となっており、これが扇城という別名の発祥である。縄張りの
最深部、扇の要に位置する本丸は周囲を土塁で囲まれ、中心に天主台と呼ばれる櫓跡、端部に井戸跡が残る。その
本丸は北西に5号堀、西〜南にかけて6号堀、南東に19・20・18・15号堀、東側を10・16・17号堀を従える堅固な構え。
5号堀の西側が二ノ丸、6号堀の南西側が三ノ丸となり、それらは2・4・9・7・8号堀で守られる。文章だけではよく分から
ないであろうが、とにかく随所に大規模な空堀が掘られ、いかにも戦国期の山城という構造が確認できる城郭なのだ。
しかも諏訪原城の特徴はそれだけに留まらず、二ノ丸・三ノ丸の外側に合計4箇所もの馬出しを備え、甲州流築城術を
存分に活用した縄張りを見て採れる点。遠州攻略の準備として勝頼が如何にこの城を重く見ていたかが窺えよう。
ただ、この城では発掘調査が継続して行われ、年を追う毎に新たな発見が相次いでいる。故に、諏訪原城の“原型”を
築いたのは武田家だが、大半の堀や曲輪を完成させたのは後の徳川時代だとの見方が近年では大勢を占めている。
だとすれば「丸い縄張りの城=武田流築城術」との固定観念は捨てて考えるべきでござろう。■■■■■■■■■■

武田勝頼の遠州攻勢と敗退■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
諏訪原築城の翌年、1574年(天正2年)に出陣した勝頼率いる武田軍は徳川氏が守る遠江の要衝・高天神城(静岡県
掛川市)を攻撃し見事陥落させた。高天神城は信玄すら落とせなかった堅城で、「高天神を制すものは遠州を制す」と
まで呼ばれた最重要拠点。東海道沿いの諏訪原城と遠州最重要軍事基地である高天神城を連動させる事が可能と
なった勝頼は父・信玄を超えた自信をつけ、武田家による天下を夢見たに違いない。しかし1575年(天正3年)5月21日、
武田軍は長篠・設楽ヶ原合戦で織田・徳川連合軍に大敗北し、その夢は儚く潰えた。それまで攻撃側だった武田方は
一転して徳川方の圧迫を受けるようになり、早くもその年の6月から諏訪原城に対して徳川軍の攻撃が開始される。
信房は長篠合戦で戦死しており、新たに城主となった今福浄閑斎(石見守友清か?)は2ヶ月に渡り防戦に努めたが、
勝頼からの後詰めが得られず籠城を諦めて小山城(静岡県榛原郡吉田町)へと退却したのだった。この時、浄閑斎は
討死したとされ、城内には「戦死の地」を示す石碑もあるが、石見守友清はその後も生き延びて戦ったとする説もあり
果たして城主の「今福浄閑斎」なる者の正体は何者なのか判然としない。或いは今福丹波守顕倍を守将にしたとも。
これにより徳川方が8月24日に諏訪原城を接収、それを機に城名を牧野城と改めた。家康家臣である東条松平甚太郎
家忠・牧野右馬允康成・今川上総介氏真(この頃、家康の下に寄宿していた)らが配され、交代番には西郷孫九郎家員
(さいごういえかず)・深溝(ふこうぞ)松平主殿助家忠(東条松平家忠とは別人)・戸田松平丹波守康長らが充てられて
城の改修を行い防備を固めたが、その後は武田家が遠江に再来する事なく滅んだため駿河・遠江国境としての重要
性は失せ、1590年(天正18年)徳川家の関東移封に伴って廃城とされ申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■

茶畑の先に見える堅城の姿■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この後、明治維新の後に江戸から駿河へ領地替えとなった徳川家(旧将軍家)の家臣が自活の為に牧之原台地へと
入植し、この一帯は茶畑に変貌した。城の現状としては、二ノ丸・三ノ丸や外郭部が茶畑となってしまっているものの
本丸跡は手付かずの平場となっていて、往時の姿を想像させてくれる。また、随所に掘られた空堀はほぼ完全な姿で
残されている。しかもこれが実に深い!樹木が鬱蒼と生い茂っているが、城郭初心者でも一見してこれは堀の跡だと
いう事が容易に確認できよう。このように良好な保存状態が評価されて、諏訪原城跡は1954年(昭和29年)1月30日に
城域の一部が静岡県史跡に指定され、更に1975年(昭和50年)11月25日に国史跡の指定を受け、2002年(平成14年)
12月19日には追加指定を受けた。また、2017年(平成29年)4月6日には財団法人日本城郭協会から続日本百名城の
1つにも選ばれている。昨今の城跡整備事業(史跡観光地化)の推進や続百名城選出が追い風となり、諏訪原城では
続々と整備や発掘調査が行われ、以前にも増して見学し易い環境が整えられている。加えて、発掘の成果に基づいて
2016年(平成28年)には二ノ丸北馬出に薬医門が復元された。戦国期城郭の薬医門遺構が正確な形で検出された例は
稀で、その復元建築は一見の価値があろう。また、それに接続する塀の再建も行われているが、逆に塀の建築様式が
不明(土塀なのか板塀なのか、柵列なのか)な為、この部分に関しては具体的な建築は行わずに“何かしらの障壁”が
あったと言う事だけが分かるような展示になっている。だがむしろそれが幸いして、敵兵の導入路と城兵の迎撃態勢が
視覚的に捉えられる再現になっており、これまた好印象を受ける。何より、「この馬出の位置に、この門の配置」と言う
組み合わせが“攻防の要”となっている様子を肌で感じられる復元建造物となってござる。■■■■■■■■■■■■
堀を迂回させる事が主な防衛構造となっている城なので、城内はほぼ平坦な地形。急斜面の上り下りなどは殆んど
無く、簡単に城内を見て回る事ができる。その反面、大井川に下る傾斜面は急崖で、こちら側からの接近は不可能な
“天険の要害”だと言う事も良く分かる。実に適切な場所に城を築いたものだが、車を使えば崖の上まであがった所に
駐車場が用意されており、楽に来訪できよう。近年はガイダンス施設も出来たのでじっくりと城の見学が味わえる。■■
ところで、昨今の“お城界隈”で流行りとなっているのが「御城印」。諏訪原城でも御多分に漏れず御城印を用意して
いるが、徳川家がこの城を落とし牧野城と改名した8月24日の前後に限り、例年「牧野城」の御城印が頒布されている。
レア物を御所望の方は、8月24日を狙って諏訪原城…もとい、牧野城を訪れてみては如何でござろうか。尤も、史書に
よって徳川が城を落とした日は差異があるようだし、ここ数年の温暖化で8月後半の殺人的な暑さとなる時節に山城へ
赴くと云うのも、かなり厳しい環境なのだが…くれぐれも熱中症や、夏草で埋もれる藪漕ぎには気を付けて(爆)■■■



現存する遺構

井戸跡・堀・土塁・郭群等
城域内は国指定史跡








遠江国 勝間田城

勝間田城本丸跡

 所在地:静岡県牧之原市勝田
 (旧 静岡県榛原郡榛原町勝田)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★■■
★★■■■



武功の一族、勝間田氏■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
当地の豪族、勝間田(かつまた)氏の城でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
築城時期は室町前期の応永年間(1394年〜1428年)と見られ、勝間田定長によるものと推定される。■■■■■■■
勝間田(勝田)氏は平安末期から室町中期にかけてこの地方を領有した一族で、牧之原台地の西側(静岡県菊川市)に
勢力を有した横地氏から分家したもの(横地氏については横地城の頁を参照されたい)。西に横地氏、東に勝間田氏と
並存し、両氏は同族として協力関係を維持した。史料上に勝間田氏が初めて登場するのは源平争乱の頃、保元の乱に
おける「遠江国の勝田」の武功が「保元物語」に残されている。更に鎌倉幕府の史書「吾妻鏡」における記載では勝間田
平三郎成長なる人物が幕府設立期に活躍し、有力御家人として名を連ねたとある。続いて1216年(建保4年)源実朝が
派遣した宋使節団に勝田兵庫頭が参加、1250年(建長2年)京の間院殿造営に際して勝田兵庫助が木材を供出したと
言う。鎌倉後期では勝田長清が「夫木(ふぼく)和歌抄」を編纂。鎌倉末期の戦乱では1331年(元弘元年/元徳3年)の
戦いで勝間田彦太郎入道が足利高氏(尊氏)に従い、一方では赤坂城(大阪府南河内郡千早赤阪村)に籠もり戦う楠木
左衛門尉正成軍の中に勝田佐エ門尉直幸の名があって、幕府方・倒幕方の両方で勝間田氏が活躍していた事が確認
される。この様に勝間田氏は文武に秀でた経歴を持つ武士であったのが良く分かり申そう。■■■■■■■■■■■
こうした来歴が高く評価されたのか、室町幕府成立後には御家人として厚遇される。1348年(貞和4年/正平3年)将軍・
足利尊氏が執り行った諏訪神社笠懸の神事では勝田能登守佐長(すけなが)・勝田二郎丞長直らが射手として参加。
3代将軍・足利義満の頃になると幕府奉公衆に取り立てられ、勝田三河守太郎や勝田修理亮が将軍近習の役人として
中央政界に進出したのでござった。勝間田城が築かれたのは恐らくこの頃だと思われる。■■■■■■■■■■■■

謎多き今川義忠の行軍■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかしこれ以後、勝間田氏の勢力は衰退を始める。1399年(応永6年)室町3代将軍・足利義満が西国の有力大名・大内
周防介義弘を討伐した応永の乱では、将軍直属軍として今川上総介泰範(やすのり)の軍に加わった勝間田遠江守が
丹波国追分の戦いで戦死。また、1438年(永享10年)に6代将軍・足利義教の命を受け関東征伐を行った永享の乱では
勝田弾正が箱根で討ち取られている。相次ぐ有力武将の死を経た後、1467年(応仁元年)に始まった応仁・文明の乱で
同族・横地氏と共に西軍方に加わった勝間田一族は、隣国・駿河国の太守である今川氏が東軍方に付いたため遠江と
駿河の間で激烈な戦闘を繰り返すようになってしまった。これは当時の遠江守護・斯波氏が西軍に与した事から、横地・
勝間田氏はその指揮下に入ったものであり、逆にかねてから遠江守護の地位を欲していた今川家は斯波勢力を打倒
すべく東軍に属した構図によるものだ。全国的大乱の中、何とか国人領主として活路を開こうとした勝間田氏だったが、
通説では今川治部大輔義忠軍の猛攻を受け、1476年(文明8年)に勝間田城が落城。時の城主・勝間田修理亮は討死
したと言われ、残った一族は各地に四散する憂き目を見た。一説によれば逃れた者たちは御殿場に移住したとされ、
そのため現在でも静岡県御殿場市近辺に「かつまた(勝間田、勝俣、勝亦など同音異表示が混在)」姓が多い。されど、
以後の歴史上からは勝間田氏の消息が消えてしまうのでござった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところが近年、応仁の乱の再検証・新資料発見が相次いで今川義忠の行動に疑念が持たれている。応仁の乱は東軍・
西軍共に相手の陣営に属す将を寝返らせる事が常であり、1476年の時点で横地・勝間田氏は東軍つまり幕府正規軍の
側に回っていた。となれば、今川家(東軍)にとっては友軍である筈なのだが、これを義忠は攻撃したのだ。遠江の地を
欲する義忠としては誰彼構わず征服欲に駆られて攻め滅ぼした(どうも彼にはそういう傾向があったらしい)のかもしれ
ないが、幕府側からしてみれば今川家の行動は謀反に値する重大な過ちである。さらに義忠は勝間田城を離れた塩貝
(塩買)坂(静岡県菊川市)で横地・勝間田の残党に襲撃され落命してしまうのだが、これまた何故今川軍が塩貝坂へと
向かったのか全く分からず(駿府への帰路には当たらない)彼の存念が如何にあったのか、今となっては知る由もない。
ともあれ、義忠を討ち取った勝間田勢としては一族の恨みを晴らす大逆転の一打を返した事になり、幕府に反逆した
汚点だけを残した形の今川家は義忠の遺児・龍王丸(たつおうまる、後の今川修理大夫氏親(うじちか))にすんなりと
家督継承させる訳には行かなくなり(何せ「謀反人の嫡男」となってしまった訳である)同族の小鹿新五郎範満(おしか
のりみつ)との家督争いが勃発する。この争いが更に“最初の戦国大名”とされる北条早雲の登場に繋がるのだから
(詳しくは興国寺城や石脇城の項を参照)、表の歴史から消えた勝間田氏の「最後の一矢」が、裏返すと戦国時代を
作り出す「最初の一矢」へ変わった事になる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

どうやら武田流では無いらしい■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて勝間田城に話を戻すが、典型的な中世山城であるこの城は、牧之原台地から連なる尾根を上手く利用した梯郭式
縄張りの城郭。大まかに言うと、尾根の小ピークとなる一の曲輪(本丸)から北東へ向かって下るようにして二の曲輪・
三の曲輪が並び、この2つの曲輪(二曲輪と三曲輪)は土塁で間仕切りされ上下の段になっている。二の曲輪と本丸の
間には大堀切、三の曲輪の外側にも数条の堀切が掘削されており、そこから更に外側(北東側)には出曲輪(的場)が
置かれ、一方で本丸の南側には南尾根曲輪(物見台)を削平。ここが城内の最高所(標高131m)を指す。また、本丸の
東にある尾根に東尾根曲輪が繋がり、その先(南東方向)には他城ではなかなかお目にかかれない鋸状の5連堀切も
残されていて(他にも堀切は随所にある)、中世の山城としては結構大規模なものに分類されよう。なお、山麓の標高
(勝間田川の河畔)は45m程度なので、比高差が80m以上ある事になる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
いずれの曲輪にも防御施設として土塁や堀切が多用されており、二の曲輪では礎石建物、三の曲輪では掘立柱建物の
痕跡を検出。三の曲輪には“馬洗場”と呼ばれる池泉の跡があり、山城ながら水に不自由する事は無かったようだ。
一の曲輪より南側(南尾根曲輪や東尾根曲輪、5連堀切)の構造は剥き出しの刃と言った「実戦城郭」なのに対し、二の
曲輪や三の曲輪は大規模な面積を有し(=大兵力の駐屯が可能)曲輪の整形具合も手が込んでいる事から、以前には
「一の曲輪近辺と二の曲輪以遠は別物」「後世(戦国時代中庸)に進駐してきた武田家による改造」と言った説が縄張論
上で囁かれていた。しかし出土遺物からは1500年代初頭までの痕跡しか確認されず、今川義忠を討ち取った時点での
落城は免れた(のか?)としても、程なく廃城になったのは間違いないようだ。だとすれば1570年代になってから遠江を
領有した武田家は関与していない事になる。義忠が落命し、その後に家督騒動を制した今川氏親が亡父の悲願を達す
べく遠州攻略を開始したのが1494年(明応3年)からなので、勝間田城の廃絶はそれによるものと言う事だろうか。■■
勝間田城の保存状態は非常に良好であり、しかも静岡県史跡として1983年(昭和58年)2月22日に指定されているため
(1991年(平成3年)12月17日に追加指定)、土塁や曲輪の整備が綺麗に行われている。丹念に手入れされているので、
下手な国の史跡よりよほどこちらの方が見応えのある城かもしれないだろう。特に、ここ数年は牧之原市が勝間田氏を
“郷土の勇士”として採り上げ、地元の後援を得て整備拡充を加速させている。拙者が訪れた時も地元の方々が総出で
草刈や清掃作業を行われておられ、史跡保全に努力される皆様の熱意を感じる事ができ申した。おかげで土塁や堀の
勇姿をくっきりと確認でき、ただただ感謝 m(_ _)m■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城山の北麓に小さな駐車場が用意されているので、車での来訪も可。駐車場から城跡まで10分ほど徒歩で登り続ける
事になるが(車道になっているが農作業専用道で先に駐車余地は無い)、途中に見える茶畑も風流なので良しとしたい。
例年、4月最初の週末に静岡古城研究会と牧之原市関係者による現地案内の催しがあるので、そういった機会を狙って
訪問するのも良うござろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群
城域内は県指定史跡








遠江国 穴ヶ谷城

穴ヶ谷城跡

 所在地:静岡県牧之原市中・仁田
 (旧 静岡県榛原郡榛原町中・仁田)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

★★☆■■
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勝間田氏の「中心城郭」か?■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
各々方「ちゃやぶ」と言う言葉を御存知だろうか?拙者もこの城を訪れた時に初めて聞いた(教えて貰った)単語なのだが
耕作放棄地となった茶畑が原生林化し「茶樹の藪」となった状態を「茶藪」と呼ぶのだそうな。考えてみれば茶の木は常に
新芽を摘み、また芽が生えるという作業を繰り返しているのだから、それが途絶えればあっという間に枝葉が伸びて手の
付けられない密林と化す。この穴ヶ谷城は曲輪がそのような茶藪に覆われ、まさに“逆茂木だらけの城”となっている。
(余談だが静岡県内の城跡は近年そうした茶藪問題が続出しているそうだ)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
穴ヶ谷城の所在地は牧之原市の「中(なか)」と呼ばれる場所である。牧之原市は2005年(平成17年)10月11日、榛原郡の
相良町と榛原町が合併して出来た市だが、そうした市町村合併を遡ると明治の町村制発足時には勝間田村、その前には
中村とされていた地域だ。よって別名で中村城とも呼ばれるが、「中」の村、即ち「中心地の村」と言う意味は中世において
その地を治める領主の“本拠地”だった事になる。当然、この地域の領主は勝間田氏なのだから、勝間田氏の本拠城郭が
穴ヶ谷城だった推測が成り立つ。そのため、穴ヶ谷城も別名で勝間田城と呼ばれるので上記の勝間田城と区別が難しい。
ちなみに、先に記した勝間田城(牧之原市勝田)には周辺に城下町らしき集落があった様子は見受けられない。その一方
穴ヶ谷城は「中」にあった事から当然集落が広がっていた。勝間田城は今川家の侵攻に備え新たに築いた城と云う事か、
だとすれば穴ヶ谷城は“古勝間田城(旧勝間田城)”とするのが正解なのか。それとも本城―支城として相互補完していた
関係なのか。穴ヶ谷城が居館で勝間田城は詰めの城だろうか。色々と考察は考えられよう。とりあえず穴ヶ谷城に関して
言えば、室町中期の人物である勝間田十郎政次という人物が在城していたとされる。政次は1449年(宝徳元年)この城の
南東にある曹洞宗乾徳山長興寺を開いたとか。必然的にその時代の人物となるが、勝間田氏が滅亡する30年ほど前の
話なので、勝間田氏の最末期にこの城が用いられていた状況は分かる。廃城も勝間田氏滅亡と同時と言われるが、城内
遺構を見ると戦国時代の構造物と想像される箇所もあるので、もしかしたら再利用されたのかも?■■■■■■■■■■

堀切が見どころの本格的山城なのだが…■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
では、その城内構造を見てみよう。城があるのは中集落にある小仁田薬師堂から北西へ約400m、東名高速道路に隣接
(道路の南東側)する標高115.7mの山。城山は北西から南東へと尾根が湾曲して伸びる細長い山容で、北西端の山頂に
主郭、その南側に突き出した支尾根が二郭、主郭から南東へ延びた尾根の小ピーク一帯が三郭となって繋がる連郭式の
縄張り。この三郭には114.1mの三角点が置かれている。主郭と三郭の間には、本来は堀切があり曲輪を分断していたが
現状では茶畑(それも茶藪と化した訳だが)造成に伴って埋め立てられ、一連の大きな敷地となってしまった。しかしながら
曲輪の外周は切り立った断崖となっており、特に突端部の先には強烈な堀切が現在でも残り、その向こう側への行き来は
不可能な状態を維持している。また、三郭の入口には馬出状の大きな土塁(と言うか土の塚)の塊があり(写真奥)そこを
通る者を「上から狙い撃つ」環境が整えられている。写真で見える道は茶畑整備用の農道として拡幅されたものだろうから
往時はもっと細く狭くなっていた筈だし、馬出の土塚も“道を塞ぐ如く”構えられていたと想像できる。馬出や曲輪を分断する
堀切など、強力な遮断線を随所に構えた構造ゆえに、伝承にある廃城(勝間田氏滅亡時)以降でも使われたと考える説も
真実味を帯びるのだろう。この他、切岸下の斜面では数箇所に竪堀もあるらしいが、そこまで分け入るのが困難だ(苦笑)
密集する茶樹の枝は曲輪内部の行動を妨げる他、強烈な切岸や堀切はその下へ入り込むのが危険なので、迂闊に突撃
しない方が良うござろう。また、曲輪敷地内には携帯電話の基地局、周辺にも送電鉄塔が建つので良識ある行動を。
“耕作放棄地”であるから観光(見学)用の施設等は一切無い。駐車場などは勿論ある筈もなく、かろうじて上記の小仁田
薬師堂の前に数台を停め置く空き地がある程度。ここから歩いて行く事になるが、いったん南西側へ回り込み尾根末端の
農道(かつては耕作地であるから、農道はある)から山を登る。小仁田薬師堂から20〜30分はかかる上、この道すがらも
茶藪沿いに歩くので心が萎える(苦笑)まぁ、頑張って歩を進めるしかない。ちなみに小仁田薬師堂の標高は33m程なので
城域との比高差は80mと言った具合。徒歩20分はかかる筈である。また、中集落からだと比高差100mを超える本格的な
山城だ。切岸や多重堀切など、それなりに見どころはあって、1966年(昭和41年)2月1日に榛原町(当時)指定史跡になって
いる(現在は牧之原市史跡)のだが、茶藪の撤去や携帯基地局の移転などは望むべくもないので、これ以上の整備は期待
できないだろう。少々残念ではある…。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群等
城域内は市指定史跡




横地城館群  久野城