遠江国 横地城

横地城西の城跡 横地神社

 所在地:静岡県菊川市東横地
 (旧 静岡県小笠郡菊川町東横地)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★■■
★☆■■■



八幡太郎義家の落とし胤■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現在の地名表記で用いられる菊川市「東横地」「西横地」は「よこじ(濁音)」と読むが、城名や城主名として出てくる「横地」は
濁らずに「よこち」と発音される。別名は金寿(きんす)城、中世全般において遠江国人として活動した横地氏の本城でござる。
平安時代後期、八幡太郎こと源義家が軍勢を率いて奥州平定に向かう折、長雨のため遠江国見付(静岡県磐田市)に滞在
する事となり、その際に相良(静岡県牧之原市相良)の土豪である相良太郎藤原光頼の娘との間に子をなした。庶子では
あったが義家の長子として産まれたその男子は、二俣弾正によって養育され横地村に領を得る事になり、長じて横地太郎
家長(家永とも)と名乗るようになった。この家長が横地氏の初代にあたり、八幡太郎義家の長男という由緒ある家系から
東遠州における名族として勢力を誇ったのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
家長以後、太郎を仮名とした横地氏歴代当主は頼兼―長宗―長重―長直―師重―師長―長国―長則―家長―長豊―
長泰―長秀―秀国の14代に渡り家系を繋いでいく。中でも4代・長重は源頼朝の御前で流鏑馬の的立を担当し、6代・師重は
鎌倉時代の史書「吾妻鏡」に弓の達人として記録が残る。また、7代・師長は蒙古襲来の際に京都防衛の任に就いたとされ、
横地氏は代々武門の家柄であった事が想像できよう。この間、同じく遠州の国人である勝間田氏が横地家から分家している。
(頼兼の弟、或いは長重の子・平三郎成長が勝間田に分封し興した家とされる。勝間田氏については勝間田城の頁を参照)

谷と尾根を活用した大城郭■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
横地城が築かれたのは室町時代初期とされ、自然地形を上手く利用した山城。東西の長さ約1.5kmという広大な範囲に跨る
城地は、間に「中の城」と呼ばれる小曲輪を繋ぎとして「東の城(本丸部)」と「西の城(二ノ丸部)」の2つに曲輪を分ける形の
連郭式構造を採っている(金寿城は東の城部分を指す場合もある)。細かい尾根を周りに展開する各曲輪は、それらの尾根に
いくつもの堀切を配して防備を固めると共に曲輪内には比較的大きな平場を削平して堅固な要塞を成す。また、東西それぞれ
山頂部に主曲輪を置き、その下段にいくつかの平場(腰曲輪)を抱える複合的な構造を持っている。云わば、東の城と西の城
それぞれが一つの城として機能し、それを繋ぎ合わせた“一城別郭”の大要塞が横地城なのである。■■■■■■■■■■
本丸とされる東の城では数段に及び切岸が構築され、曲輪北端には井戸が。最高所の標高は101.7m、その南側の谷底は
標高45m程度なので比高差55mとなる。東の城から更に東側へは細い尾根が主山塊(牧之原台地本体)へ延びているのだが
この尾根道は「一騎駆け」と呼ばれ、本当に馬一頭が通れるだけの幅しか無い。逆に言えば、この道から攻め来る敵が居ても
封鎖するのは簡単で、天険の防備を活かした城地を選んでいる事になり申す。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
一方、現在は横地神社が鎮座する二ノ丸相当の西の城でも大掛かりな5段の曲輪を造成し、山頂部の標高は94.9m。こちらは
北側が急崖となり谷底へ落ちており、その彼方には菊川市街地の眺望が開けている。神社の参道となっている階段を下った
南側の平場は横地城内で最も広い面積を有す敷地で、千畳敷と呼ばれており、ここが兵力の駐屯地だったのだろう。■■■
両者を繋ぐ中の城部では中央に木戸を設けて敵勢の侵入を阻止するようになっている。中の城にある曲輪は干飯(兵糧)庫や
武器庫が置かれていたと推測されている。この位置に食料や武具があれば、東西どちらの曲輪にも供給でき理に適っている。
と同時に、城にとって重要な備蓄品を守る為この曲輪の独立性を確保する構造にもなっている訳だ。■■■■■■■■■■
西の城の更に西側(横地の集落へ下る道)も一騎駆けとなっているが、この辺りの谷は「金玉落とし」と呼ばれている。読んで
字の如く、金の玉を谷底に投げ落とし、それを拾いに行かせる事で兵馬の訓練を行っていた場所だそうな。この崖を降り、また
登って来たならば相当な体力を消費したであろう峻険な(危険な?)所なのだが、玉を拾って来た者には褒美が与えられたと
言う。確かに、そうでなければこんな谷に飛び込むなんてやってられん(爆)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
横地城は各種設備が整い、戦国初期の城郭として完成度が高く、歴史的価値のある城と言え申そう。■■■■■■■■■

今川家と戦い、散っていく運命■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
横地城を築いたのは10代・山城守家長の頃と考えられている。横地氏はこの城を本拠地として遠江の開拓・領有を広げていき
最盛期には天竜川流域・犬居・佐久間地方まで進出、東遠江の有力国人となった。ところが、1467年(応仁元年)に勃発した
応仁・文明の乱により駿河太守の今川家と対立する。横地氏・勝間田氏は西軍に与するも今川氏は東軍となり、両者の間に
戦闘が勃発したのだ。この戦いは長く続いたが1476年(文明8年)今川治部大輔義忠が遠江に大攻勢をかけ、勝間田氏が
撃破され当主の勝間田修理亮は戦死、程無く横地城も落城。時の当主・横地秀国は討死し、名門遠江国人としての横地氏は
約400年で滅亡したのだった。一方、勝利した義忠も凱旋の帰路、横地城の南およそ3.5kmの場所にある塩貝(塩買)坂付近で
横地・勝間田の残党に襲撃されて落命。戦いに関わった勝間田・横地・今川の3家は、総ての当主が戦死したのである。ただ、
近年になって当時の詳細な動向が再検証されるようになり、遠江守護の斯波氏は当主の交代で西軍から東軍へと鞍替えし
横地・勝間田両氏も西軍から東軍へ変わった所へ今川家(これも東軍)が攻撃をかけた形になった。故に、室町幕府も今川
義忠に疑念の目を向ける混乱の中で次代を迎える事になっていく。どうやら、今川義忠は相手が東軍だろうと西軍だろうと
「遠江の領土を欲し」攻撃を仕掛けたようだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
話が横に逸れるが、義忠が急死したため駿河太守である今川家には家督騒動が発生、この争いを収めたのが義忠の義弟
(義忠正室・北川殿の弟)・伊勢新九郎盛時(いせもりとき)である。新九郎は後の北条早雲、小田原から関東に覇を唱えた
後北条氏の祖だ。横地氏による戦いは今川家の将来を揺さぶり、その騒動から関東の覇者が誕生。戦国史の名将が頭角を
現すのは、実は目に見えぬ一地方の争いが元だったのだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
横地城跡は1971年(昭和46年)3月19日に静岡県史跡の指定を受け、さらに2004年(平成16年)9月30日には国の史跡にも
指定された。横地城はここまで記した“本体”のみならず周辺各所にも城館群を擁する複合遺跡であり、菊川町教育委員会
(当時)が1987年(昭和62年)から2003年(平成15年)にかけて行った発掘調査は五郎兵衛地区・殿ヶ谷地区・中上地区・大上
地区それに横地城跡の5区域に及んでいる。また、同じく旧菊川町内にある高田大屋敷遺跡も明瞭な武家居館跡であるため
横地城館群と高田大屋敷遺跡を合わせ「菊川城館遺跡群」として国史跡に指定されたものでござる。■■■■■■■■■■
現在は城域の大半が史跡公園になると共に静岡県立御前崎自然公園の範囲に含まれている。このため、駐車場や見学通路
等も整えられており登城は比較的簡単だ。一方で、城の外縁部の傾斜地は茶栽培による耕作地や雑木林に変化してしまい
その部分は容易に近づく事ができない。遺構の保全されている部分とそれ以外の部分で実に落差の激しい城跡でござるな。
不用意に私有地へ立ち入り荒らしたり、事故や怪我を起こさないよう、節度を持った登城を心掛けたい。■■■■■■■■■
車で山上まで登り、千畳敷に停める事も可能だが、細道での路上駐車になるのであまりお勧め出来ない。その千畳敷の南に
横地城見学者用の広い駐車場が用意されているので、そこに停めて山を登るべし。少々大回りになるが、他の城館(下記)も
見学しながら散策する方が、より一層“横地城の規模感”を体験できて良いだろう。それだけの時間と体力の余裕を準備して。
なお、写真にある西の城(二ノ丸)跡では現在も落城時の焼米が出土するという。ただ、出土遺物は持ち帰り厳禁なので、もし
見付けても勝手に取り出したりしないよう、それについても節度を忘れずに。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

井戸跡・堀・土塁・郭群等
城域内は国指定史跡








遠江国 斯波武衛邸宅

横地城館群 斯波武衛邸宅跡

 所在地:静岡県菊川市東横地
 (旧 静岡県小笠郡菊川町東横地)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★☆■■■
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斯波「左兵衛」家の邸宅?■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
武衛原館とも。現地の説明版(写真左側の小看板)には武衛原庭園跡とも書かれ、斯波義廉(よしかど)の邸宅ならびに
家臣団の屋敷跡と記されている。左兵衛佐義廉は三管領(室町幕府の管領(将軍の補佐を行う事実上の政権執行者)を
任じられた細川・畠山・斯波の3家)筆頭・斯波家11代当主で、応仁・文明の乱における西軍の一角を担った有力大名だ。
この斯波家は代々「左兵衛」府の官職を補任されていた。兵衛府の職制を唐名にしたのが「武衛」なので、斯波家は俗に
斯波武衛家とも称される。館の名をそのまま信じるならば、その邸宅がここにあったと言う事になろう。■■■■■■■■
この館の所在地は大きく見て「横地城の中」と言う事になる。狭義の横地城は上記「東の城・中の城・西の城」の山上部を
指すが、横地氏の城館遺構(平時の居館と考えられる推定地や、城下町と呼べる集落群)はもっと広大な範囲に及んで
おり、その大きさは東西2km×南北0.6kmもの距離を有していた。これが広義の横地城になるが、斯波武衛邸はその中に
含まれており、「西の城(横地神社)」から西南西へ650mほど山を下った場所でござる。国指定史跡「菊川城館遺跡群」で
示す横地城の区域は更に西にある「殿ヶ谷地区」「五郎兵衛地区」まで達しているので、それに従うならばこの邸宅跡も
“広義の”横地城内に位置する。但し、斯波武衛邸宅跡付近は史跡指定範囲外のようだ。■■■■■■■■■■■■■
さて、ではなぜ横地城内に斯波家の館があったかと言う話である。斯波家は(時代にもよるが)尾張・越前それに遠江の
守護であり、横地城主・横地氏はこの当時、室町幕府の奉公衆(将軍直属の官僚武士団)であった。つまり、横地氏が
自領の“上司”にあたる守護・斯波武衛家を遇するため城内に屋敷を用意した、と考えるのが自然であろうが、実際には
斯波一族がこの館に滞在(逗留)したのか分からない。それどころか、現在に残る斯波武衛邸宅の遺構は東に向かって
大がかりな堀と土塁が構築されており、まるで「西の城(から連なる山上部)に対して備えている」かにも見える。もしや
これは「横地城を攻めるための付城(遠江攻略の今川義忠が築いた)?」とも思えるのだが、単純に西側の堀や土塁は
湮滅してしまっただけの事で、元は方形居館として四周を障壁が取り巻いていた筈だろうから、むしろ伝統的武家居館の
体裁を整えた“守護を迎え入れるに相応しい邸宅”だったと考えるべきか。案内表示に「武衛原『庭園跡』」とある程だから
壮麗な庭園まで備えた、品格のある館だったのかもしれない。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

国人・横地氏の忠誠心■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところで、守護を遇する居館(曲輪)を備えた山城と言えば、真っ先に思い浮かぶのは“京極丸”を有する小谷(おだに)城
(滋賀県長浜市)であろう。北近江守護・京極氏の権勢を傀儡化し下剋上を成し遂げた国人・浅井(あざい)氏の居城で、
京極丸は京極氏を取り込む(と言うか幽閉する)為の曲輪だったと伝えられる。浅井氏はこれで戦国大名化し、近江国の
事実上の支配者となって覇を唱えるようになるが、では横地氏も同じように斯波氏を懐柔して実力者に成り上がるつもり
たっだのかと言えば、それは否定される話だろう。横地氏(そして勝間田氏)は守護勢力に従って応仁・文明の乱の混乱を
泳いでおり、西軍首魁の斯波義廉が失脚し遠江守護が東軍方の斯波左兵衛督義寛(よしひろ、よしとおとも)に代わると
そちらに従った。即ち、横地氏はどこまでも守護に従順で(幕府に直属している在地武士なのだから、権力機構の序列に
組み込まれるのは当然だろう)浅井氏とは逆に斯波武衛家を饗応するための屋敷を城内に用意した…つまり、館の主は
義廉だろうと義寛だろうと(もっと言えば、館の構築は義寛の祖父・民部少輔持種(もちたね)期とする説もある)横地家の
「上司(守護)」斯波武衛家とするのが一番妥当な扱いか。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
そんな中で“東軍の義寛”を“東軍の義忠”が攻める事になるのだから、横地氏は“上司の義寛”に従い今川軍と戦う事で
滅んでいく。横地城内にある斯波家の屋敷は、横地氏の忠義を示す遺構と考えるのは言い過ぎだろうか?■■■■■
さりとて、今の邸宅跡には写真にある標柱1本と小さな案内板があるのみ。上記した通り、空堀と土塁の列が残るものの
相当な藪の中に埋もれていて、簡単に見学できるものでもない。全容を見ようにも、おいそれと立ち入れないのが残念。
横地城の山上部が綺麗に整備されているのだから、次はこの部分の発掘調査や整備が進むのを期待したい。■■■■
横地“城内”なので、駐車場などは横地城見学者用のものが使える。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群等








遠江国 藤丸館

横地城館群 藤丸館跡

 所在地:静岡県菊川市東横地
 (旧 静岡県小笠郡菊川町東横地)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

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横地「藤丸」の居館…?■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、横地秀国の死後、その遺児で横地氏15代にあたる元国は甲斐国(山梨県)へ逃れ、当時の甲斐守護・武田陸奥守
信虎に保護された。以後、横地氏嫡流は武田家臣となり命脈を永らえ、武田氏が滅亡した後には徳川家臣となり、江戸
時代には旗本として存続した。しかし一門の中には横地郷に残る者もおり、横地城落城後も今川家に抵抗したが、彼らは
永正年間(1504年〜1521年)に今川の掃討を受けて壊滅、生き残った者は各地に四散する運命であった。■■■■■■
よって、全国の横地姓はここ菊川が発祥の地とされている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
また、こうした者の中には他家に仕えた者がおり、有名なものでは小田原後北条氏に臣従した横地監物なる者が武蔵国
八王子城(東京都八王子市)の守将として任じられ、1590年(天正18年)の豊臣氏侵攻の際には八王子城主・北条陸奥守
氏照(うじてる)に代わって籠城軍の指揮にあたり、激しい戦闘を繰り広げたという。■■■■■■■■■■■■■■■■
このように滅亡後(ここで言う“滅亡”は国人領主としての地位を失った状態を指す)も数々の伝承が残る横地氏であるが、
横地城主郭部から西に山を下った所、上記の斯波武衛邸宅の更に西に「藤丸館跡」とされる曲輪跡が残されている。館の
名から分かるように「藤丸」なる人物が在住した居館跡と云う事になるが、一般的に「ふじまる」と呼ばれるものの、これは
本当に正しい呼び方なのか?個人的にはイマイチ疑問なのだが(「とうまる」の可能性は?)それは置いておくとして、その
藤丸は「横地氏“の遺児”」とされている。となれば横地氏最後の当主・秀国の子(=元国)なのか?それとも元国とは別の
子なのか?或いは直系ではない一門の子なのか?もしくは横地氏の滅亡直後ではなく、ある程度時間が経ってからの事
(とすれば、横地城本体とは異なる時代の遺構)なのか?様々な考察が予想される筈なのだが、そこは判然としていない。
あまり難しく考える必要はないのかもしれないが、いずれにせよ“横地城の落城後、何らかの人物がここに残留していた”
場所という事でござろう。但し、現状では一面の茶畑となっており、遺構は全く見受けられない。ただ写真の案内板が1枚
掲げられているのみ。横地氏の行く末を“想像する場所”と言えるだろう。一応、1987年(昭和62年)発掘調査が行われて
縄文時代の石鏃が出たほか、中世の山茶碗(東海地方製の無釉薬陶器)が出土している。■■■■■■■■■■■■
なお、この場所から山を下る(西側)位置には横地一族の墓が残る。また、藤丸館跡から真南(崖下なので直接行き来は
できない)には横地家祖・家永の墓所も。このように、周辺には横地氏に関連した数々の遺跡があるので、それらを含めて
“広義の横地城”を見て回るとなかなかに面白うござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

郭群




丸山城  諏訪原城・勝間田城・穴ヶ谷城