伊豆国 丸山城

丸山城(出城)跡

所在地:静岡県伊豆市八木沢
(旧 静岡県田方郡土肥町八木沢)

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:★■■■■
公園整備度:☆■■■■



小田原北条氏の家臣であった富永氏の城で、西伊豆における中心的な海賊(水軍)城。
富永氏は古くから土肥に勢力を築いていた土豪であったが、1491年(延徳3年)に北条早雲が
伊豆に勢力を伸ばすやその軍門に降り、以後北条氏の重臣として扱われるようになった。
高谷城を本拠としていた富永氏はこれを機に丸山城へと拠点を移したのでござる。
以後、丸山城は富永氏の城として、そして北条水軍の西伊豆における根拠地として
拡大・整備されていった。特に天正年間になると、甲相駿三国同盟を破棄した甲斐武田氏が
駿河今川氏を滅ぼして領国化したため、伊豆・相模を治める北条氏と
新たな駿河領主となった武田氏の間に大きな緊張状態が生まれ、駿河湾の制海権を左右する
丸山城の役割は重要なものとなっていく。当時の北条氏当主・氏政は丸山城の拡張を命じ
後に本城部分と呼ばれる内陸部分の曲輪を増設すると共に、八木沢の入江に手を加え
大型軍船の出入りを可能とする土木工事を行ったのでござった。これにより八木沢は
北条水軍における西伊豆最大の軍港と変貌。丸山城はその港湾設備を防備し、
軍船の出撃を管轄する役割を担うようになる。まさに水軍のための城郭、
現代ならば“港湾要塞”というような海賊城となったのである。
北条水軍はここを拠点に武田水軍と睨み合いを続けるようになり申した。
更に時代が下ると、天下に王手をかけた豊臣秀吉が小田原北条氏を最後の敵と定め
1590年(天正18年)に関東征伐の軍を発する。この時にも丸山城は
豊臣水軍に対抗する西伊豆の拠点として重視され、南伊豆の下田城と同様に
北条水軍の兵力が結集された。しかし、西国20万余の兵力を動員した豊臣軍に対し
関東の雄とは言え北条氏の兵力は及ばず、小田原本城は籠城の構えを取る。
北条領内各地の城郭も個別に籠城戦術を取るが、これを豊臣軍は各個撃破していき
丸山城もこの過程で攻撃を受けたのでござる。圧倒的兵力の攻勢により、4月中旬
城は落城。丸山城主・富永山随軒は辛くも城を抜け出し落ち延びたものの、
鶏の鳴き声により追手に発見され斬首されたといわれ申す。
八木沢入江の西側を塞ぐ位置にある丸山城は、丸山スポーツ公園の隣にある小山で
現状では国道136号線が「出城」と呼ばれる旧城部分と「本城」と呼ばれる新城部分を
分断するように走っている。写真にある出城部分はまさに「丸山」の名に相応しい
丸い小山で、海上に突き出た小半島状の地形を全体的に利用して城地にしている。
少々荒れてはいるものの登山道もあり、内部には曲輪跡と思しき削平地が見られる。
一方、本城部分は出城から国道を挟んだ南側の傾斜地で、現況は大半が耕作地。
しかし、所々に氏政拡張時期の石垣痕や曲輪跡が散見できる状態でござる。
出城部分の方が比較的良く遺構が残っているため、見学するならばそちらを薦めるが
いずれにせよ、城郭愛好家でなければタダの藪山にしか思えず、普通の人が
観光するような場所ではないであろう。ところが、実はこの丸山城本城跡からは
富士山を北に眺める事ができるため「隠れた富士撮影スポット」となっている(らしい)。
駿河湾の彼方にそびえる富士山を見るために立ち寄るのも悪くないか?


現存する遺構

堀・石垣・土塁・郭群




小笠代官屋敷・八幡平城  横地城