遠江国 小笠代官屋敷

濠越しに見る小笠代官屋敷の遺構

所在地:静岡県菊川市下平川
(旧 静岡県小笠郡小笠町下平川)

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★★★☆
公園整備度:★★☆■■



小笠郡を治めた土豪、黒田氏の武士居館でござる。
館の構築は戦国期の永禄年間(1558年〜1570年)に黒田九郎大輔義則が行ったとされ、小柄な方形館ながら
外周を取り巻く見事な水堀と土塁に護られている。黒田家は元来、足利姓であったが初代となる下野守義次が
越前国黒田荘を領した事から改姓。鎌倉期には紀伊国牟婁(むろ)郡へと移り、更には遠江国城飼(きこう)郡
(後に城東(きとう)郡へと改称、近代の小笠郡と磐田郡の一部に相当。菊川市はここに含まれる)へと移居。
4代・監物亮義重が平川村(現在の菊川市下平川)を領有するに至り、8代目の義則が当館を築いたのだった。
義則は当初駿河・遠江を支配した今川家に属していたが、今川家が滅亡すると新たに遠江国主となった徳川
家康に仕え、家康幕下の小笠原与八郎信興(のぶおき、長忠とも)指揮下に組み込まれた。
当時の徳川家は、甲斐・駿河を領有するようになった武田家と敵対関係にあり、1574年(天正2年)武田勝頼が
遠江の要衝・高天神城(静岡県掛川市)に来攻した際、信興に従って義則も高天神城に入り、籠城戦を行った。
だが奮闘虚しく高天神城は陥落した為、義則はこの小笠郡へ立ち戻り帰農、1650年(慶安3年)8月4日に没す。
以後、代々に渡り黒田氏の居館として存続した当屋敷。
江戸時代になり、この地域は三河国岡崎城(愛知県岡崎市)主の本多家が領有するようになったが、1645年
(正保2年)時の岡崎藩主・本多越前守利長は、庶兄・本多日向守助久に小笠郡周辺の4560石を分知。
旗本として独立する事になった助久は、現地の歴代土豪として事情に明るい黒田氏を小笠郡代官へと任命し
統治に当たらせた。このため黒田館は代官屋敷として機能する事になり、この地の支配拠点となったのだ。
現在に残る長屋門・母屋といった建築物は、そうした江戸時代に建てられたもので、代官として統治に当たり
2000石を有した黒田氏の家格を偲ばせている。
まずこの代官屋敷を代表する建物である長屋門は、18世紀中期、恐らく1760年代のもの。木造茅葺寄棟造り
桁行20.6m、梁間4.7m。1973年(昭和48年)6月2日に国重要文化財の指定を受けている。1976年(昭和51年)
解体修理を受け、往時の姿を今に伝える。
一方の母屋は幕末の文久年間(1861年〜1864年)に建てられたと言われ、木造桟瓦葺寄棟造り(四面庇付)
桁行21.6m、梁間14.1m、一部二階建て。1855年(安政2年)に起きた安政大地震の影響を受けて、耐震面に
考慮した建築が為され、太い柱を多用した造りになっている。長屋門と同じように1973年6月2日に国の重要
文化財とされ、1997年(平成9年)に解体修理を行ってござる。
加えて米蔵・東蔵が1993年(平成5年)4月20日に国重要文化財として追加指定。この2つの蔵はいずれも幕末
1866年(慶応2年)の築造と伝えられている。なお、母屋の附指定に西蔵と家相図・絵図が加えられ、黒田家の
敷地内にある古建築は全てが国の重文となっており申す。
現在の屋敷地はこれら古建造物を擁しつつ冒頭で述べた通り立派な水堀と土塁で囲まれており、その保存
状態は非常に良好でござる。この堀と土塁は屋敷構築当初からのものと思われるため、中世城館の名残と
言え、ささやかながら舟入の跡も見受けられる。「城郭」と呼ぶにはあまりに小さすぎる屋敷なのだが、城郭
愛好家には十分楽しめる遺構が揃っており、中世から近世にかけての在地武士居館として申しぶんない
史跡でござろう。かなり広い駐車場も用意されており、また、隣接して代官屋敷資料館もあるので、一般の
人も見学し易い。春先には梅の花が咲き乱れ、観梅の会も催されているとの事だ。場所は小笠図書館から
西へ650m程の位置。館の南東側に駐車場がある。
但し、屋敷には現在も黒田家の方が居住されておられる。「現役の住居」であるため、節度と良識をもって
拝観すべきと心得るべし。


現存する遺構

母屋・長屋門・米蔵・東蔵・西蔵《以上国指定重文》
堀・土塁








遠江国 八幡平城

八幡平城跡 主郭

所在地:静岡県御前崎市新野字有ヶ谷
(旧 静岡県小笠郡浜岡町新野字有ヶ谷)

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:★★★☆
公園整備度:☆■■■■



遠江国をめぐって徳川氏と武田氏が争奪戦を繰り広げた際、この地域の押さえとして大改修を受けた城郭。
元々浜岡町(現:御前崎市)近辺は地元土豪の新野(にいの)氏が領有しており、この城の南西約800m程の
位置に舟ヶ谷(ふながや)城を築いて本拠地としていた。平時にはその舟ヶ谷城で居を構えていた新野氏が
戦時の詰城として築いたのがここ八幡平城であり、舟ヶ谷城と八幡平城は山の尾根で連結している。故に、
八幡平城は新野古城、舟ヶ谷城の事は新野新城と呼ばれる事もある。尤も、どちらが新しくどちらが古いと
言うのは便宜的に区分けしているだけのようでござるが。
新野の地名は平安時代中期に編纂された辞書「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」に記載され、爾比乃
(にひの)と記されている。古豪である新野氏は地元に根を張って勢力基盤を築いて、鎌倉幕府の御家人に
名を連ねていた。が、この在地系新野氏は南北朝期を経た後に没落したようで、室町期になると今川家の
一族から新野姓を引継ぐ者が現れる。八幡平城や舟ヶ谷城を築いた新野氏はこの今川系新野氏だと言う。
ところが戦国の騒乱が激しくなる時期になると、今川宗家は滅亡。新野氏も単なる国人として歴史の波に
飲み込まれた。遠江国は北からの甲斐武田氏と西からの徳川氏が一進一退の攻防を繰り広げ領土を争う
激戦地となり、この過程で浜岡周辺は一時武田氏が領有するようになった。時の武田氏当主・武田勝頼は
西への攻勢を強めるべく、無敵と謳われた武田騎馬軍団を駆って積極的領土拡大政策を採るが、1575年
(天正3年)5月21日、戦国史に名高い長篠・設楽ヶ原の合戦で織田・徳川連合軍に大敗北を喫し、それより
後は攻守逆転、徳川方に次々と領土を奪還されていく。
それまで信濃国伊那地方や木曽地方からも兵を繰り出していた武田家であったが、徳川方の逆襲でこの
経路は封鎖されてしまい、武田軍が西へ進出するには駿河国から遠江国に抜けるしか方法がなくなった。
このため、武田家が防備強化の最重要地点と策定したのが遠州灘沿岸地域で、そうした経緯から1578年
(天正6年)頃、八幡平城は大改修工事を受けた。武田軍の戦略拠点であった高天神城との連絡強化を図り
この城の西から高天神方面へ軍道が整備され、現在見られる城の構造が完成。八幡平城下の塩買坂から
伸びるその軍道は通称で武田街道と呼ばれ申す。
城の構造としては、山の南北に大きく分けて2つの主曲輪を構成しており、いわゆる「一城別郭」の様相を
呈している。このうち南側の大曲輪が本郭で、上記した通りにそこから南西へは舟ヶ谷城や武田軍道へと
通じる尾根が続く。逆に本郭の南東側は大手口となっており、登城道の防備を固めるべく二重の帯曲輪が
作られた。一方、北側の大曲輪は本郭に通ず南側入口の他、東口へ繋ぐ登城道が用意されているものの
この道は山の北尾根から大きく迂回するようになっている上、要所要所に出曲輪が構えられていて、その
ルートから攻め上るのは結構厄介であろう。しかも北側の大曲輪は連結する北・南・西の尾根に大堀切を
掘削、特に北尾根には二重の堀切を備えて敵軍の進入を妨げるような仕掛けを採っている。山の各所に
切り刻まれた二重堀切は険しく、現代に於いても踏破するのに難儀する程の痛烈な遺構となっている。
八幡平城はいわゆる武田流築城術を存分に使用した城郭なのでござった。
現在、城の麓には曹洞宗想慈院という寺が置かれ、その墓地裏に登城道が残る。これが北曲輪の東側へ
通じる道(搦手道)であるが、想慈院本堂の南西200m程の位置にも茶畑の脇から山へ直接入る道があり、
そちらが大手口へと至る道となっている。どちらかから登り、反対側から降りてくればちょうど良く城を一周
できるので探訪するには分かり易い山城と言えるが、道筋には険しい所があるので十分に御注意を。


現存する遺構

堀・土塁・郭群




下田城  丸山城