相模灘の入口を睨む海域の要衝■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
別名で鵜島城。「鵜島」と言っても下田市街地から突出した半島状の場所なので離れ島ではなく、陸続きの小山だ。
下田城はここに築かれた山城で、下田湾の防備を担い、水軍船の母港となる役割を負った“海賊城”なのである。■
歴史を遡れば、古くは南北朝期の1337年(延元2年/建武4年)現地の豪族・志水長門守が氏島(鵜島の旧名らしい)
城の主であったという記録があり、この頃から城砦が築かれていたと推測される。しかし、下田城が城郭として本格
的に体裁を整えるのはやはり戦国時代に入ってからの事と言えるようだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
戦国期全般を通じて、伊豆半島は小田原に本拠を置く後北条氏の支配下にあった。下田という良港を守り、水軍の
出撃拠点として確保するための城が整えられたのはこの後北条氏の戦略に基づいており、当初は玉縄(たまなわ)
衆の朝比奈孫太郎なる者が入っていた。玉縄衆と言うのは玉縄城(神奈川県鎌倉市)主の指揮下にある後北条氏
地方軍の事で、北関東への進出を主攻としていた後北条家としては比較的後方の軍団であった。されど戦国後期、
西からの脅威が看過できない時代になると下田城の重要性は増し、新規築城に近い大改修を受ける。現代に残る
下田城の遺構が作られたのは1588年(天正16年)、後北条氏の重臣・清水上野介康英(やすひで)によるものだ。■
以下、南伊豆統治の略歴と下田築城の経緯について記載する。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
後北条時代において伊豆国は北部を笠原氏(同じく後北条氏の重臣)、南部を清水氏が支配しており、戦国城郭と
しての下田城は1552年(天文21年)頃、後北条氏3代目・左京大夫氏康の命により笠原能登守(康勝か?)の創建
したものが始まりとされている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて清水氏は、後北条氏の祖・北条早雲が伊豆で身を興し関東攻略を始めた頃から早雲に従って伊豆へ入国した
譜代の家柄にして、三島神社奉行も兼ねており、加納矢崎城(静岡県賀茂郡南伊豆町)を本拠としていた。その
勢力は伊豆衆(韮山城(静岡県伊豆の国市)隷下に編成された後北条家家臣団)筆頭の大身で、南伊豆の国人や
水軍を束ねる要職でござった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
豊臣勢に対する整備増強■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
戦国後期になると後北条氏は関東の大半を領有し東国第一の大大名になっていたが、既に関東以西は豊臣秀吉が
統一しており、秀吉にとって「最後の敵」と呼べるのが後北条氏という状態であった。そんな秀吉との対決が避けられ
ない事が確実となった頃、西からの攻勢に備えるべく、軍港である下田の城が重要視された。秀吉の軍勢は陸上軍
のみならず熊野・安宅・村上・河野といった西国諸水軍も吸収しており、対抗上、伊豆半島を本拠とする後北条氏の
水軍も戦時即応体制が求められた為だ。斯くして北条左京大夫氏直(後北条氏5代目当主)は、南伊豆の地と水軍を
掌握する清水康英に対して後北条水軍の母港となる下田城の再整備と拡充を命じたのである。■■■■■■■■
こうして1588年に整えられた下田城は、標高68.7mに位置する鵜島山頂に主郭を置き、3方向に伸びる尾根伝いに
細長い曲輪を配置している。そうした曲輪の周囲には大規模な空堀が掘られ、鵜島の北半分が完全な軍事要塞と
して整備されていた。この空堀は後北条氏得意の障子堀(しょうじぼり)で、堀の中で多数の小土塁が仕切りを作り
防御力を向上させるように仕掛けられている。これら尾根伝いの曲輪で囲繞された2箇所の入り江に大掛かりな船着
場が作られ、軍港を抱含する目的で城の縄張りが計画された事が良く分かる。反面、下田の町からは反対側になる
鵜島の南半面は城として無用の部分と扱われ、曲輪や堀は作られていない。■■■■■■■■■■■■■■■■
下田城は、軍港要塞として特化した築城計画によって造成されたのだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
下田の地形について補足説明すると、下田市街地は北方から流れてくる稲生沢(いのうざわ)川河口に開けている。
この河口を南端でふさぐようにある山が鵜島なので、山の北辺だけが町に面し、港湾として機能する場所と言える。
よって、町や港を守るには鵜島の北半分に城を築くだけで十分こと足りるのである。また、稀水域になる河口で船を
係留する事により、有害な動植物が船底に繁茂する悪影響を防止する効果も望めた。下田城は、実に合理的理由で
縄張りされていたのだ。軍港を内包し、水軍基地としての使命が第一とされた下田城は、海戦目的の城、すなわち
海賊城として誕生したのでござった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
開戦、籠城、そして開城に■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、こうして築かれた下田城の歴史は、着実に戦争へと進んでいく。築城の翌年、1589年(天正17年)になると雲見
(静岡県賀茂郡松崎町)の高橋氏や妻良(めら、静岡県賀茂郡南伊豆町)の村田氏が戦闘準備の為に入城。この時、
多数の兵糧なども運び込まれたのである。そして1590年(天正18年)いよいよ豊臣方の後北条征伐が開始され、3月
沼津を進発した豊臣方水軍1万余の軍勢が下田城を包囲した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
これら攻城軍は長宗我部土佐守元親(ちょうそかべもとちか)、脇坂中務少輔安治(わきざかやすはる)、九鬼大隅守
嘉隆(くきよしたか)ら海戦上手の「海賊大名」達である。対する下田城の軍勢は約600。当初、西伊豆の諸将をはじめ
(豊臣方に近接している西伊豆は放棄され、下田に軍勢が集結した)、援軍として江戸摂津守朝忠(えどともただ)・
吉良源六郎氏広(きらうじひろ)・梶原備前守景宗(かじわらかげむね)等が送り込まれたものの、圧倒的劣勢を見て
梶原は下田での防備を棄て小田原沿岸への退避を主張。その結果、梶原配下の水軍は2月末に三浦半島の荒井城
(神奈川県三浦市)に移動してしまった。このような経過を経たため、さしもの海賊城と言えど海面を埋め尽くすような
豊臣方水軍には手が出せず、防備に徹する事を選択し籠城戦が始まった。とは言え、下田城で籠城する事により
豊臣方水軍は足止めされて、後北条氏の本拠である小田原城(神奈川県小田原市)への攻勢は少なからず影響を
受ける。下田城の籠城は、小田原城を防衛するための戦略に叶うものだったと考える事ができる。■■■■■■■
そのため、下田城内の軍は寡兵ながら徹底抗戦を続け、籠城はおよそ2ヶ月にも及んだ。この籠城戦においては、
城の副将だった江戸朝忠(その叔父・江戸満頼とも)や城主・清水康英の弟である英吉らが戦死したものの、城兵の
抵抗は根強く、遂に力攻めでは落城しなかったのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
戦闘開始から50日後の4月23日、ようやく下田城は降伏勧告を受け入れて開城したが、1万以上の敵軍に対し600の
少兵で戦い抜いた事は賞賛に値しよう。勿論、下田城が堅城だからこそ成し得た籠城戦だった事は言うまでもない。
この降伏により、城主の清水康英は菩提寺である曹洞宗千手山千手院へと退去した。 静岡県賀茂郡河津町にある
この寺は、康英が妻と子を連れ隠棲した事から、それを機に三養院と名を変え現在に至っている。3人を養った寺で
三養院と言う訳だ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
養魚林となった城山■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
程なく小田原城も開城し後北条氏は滅亡。関東・伊豆は豊臣秀吉の意向により徳川家康の領土となった。下田城は
徳川家臣の戸田三郎右衛門忠次(とだただつぐ)が城主となるものの、彼は1597年(慶長2年)6月23日に没する。
忠次の長男・忠清は既に戦死していたため2男・甚九郎尊次(たかつぐ)が下田城主の地位を継承。しかし尊次も、
1600年(慶長5年)関ヶ原合戦の勝利で家康が天下を握った事により、戸田氏の出身地である三河国渥美郡田原
(愛知県田原市)へと1601年(慶長6年)3月に加増転封(5000石→1万石)され、以後、下田は江戸幕府天領となった。
この時、下田城は廃城とされ申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
天領となった後の下田は、江戸郊外の港湾都市として重要視されるようになり、1616年(元和2年)幕府の船改番所が
設置された。江戸湾へと進入する廻船は総て下田港に入港し、検閲を受ける事が定められたのでござる。そのため、
下田の町は船改を行う幕府直属の下田奉行によって統治されるようになった。そうした中、第2代下田奉行である
今村傳四郎正長はかつての下田城址である鵜島に植林を行い、以後は幕府の御用林として保全されるようになった。
伐採を固く禁じられた鵜島の御用林は、結果として防風林・魚附林として機能し、下田の町を守り、下田湾内の漁業を
育成する基盤となったのだ。ちなみに魚附林とは、海岸に突出した場所が森林になる事で蓄えられた土壌の養分が
周囲の海中に滲出して魚の成育を促進し、あるいは海面に木陰ができる事で水中の魚の休息場所を提供するように
なって、漁業の活性化を果たす林の事である。こうして守られた御用林によって下田城跡には立ち入りが制限される
ようになり、城郭の痕跡はそのまま保全されるようになっていた。明治になっても鵜島の林は皇室御料林とされ、後に
保安林に編入され、維持され続けたのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
こののち1896年(明治29年)、鵜島は下田公園として整備され一般公開となった。■■■■■■■■■■■■■■
1919年(大正8年)には当時の東宮(後の昭和天皇)が下田公園に行啓されている。■■■■■■■■■■■■■
貴重な自然を保ちつつ公園として整備された鵜島は1955年(昭和30年)3月、自然公園法に基づき国立公園の一部に
指定され、現在は市有地となっている。もちろん、市民の努力で保全された森の中、江戸時代以来変わる事なく城の
遺構も保ち続けている。よって、下田城跡は1973年(昭和48年)6月12日に下田市指定史跡となった。■■■■■■
静かに眠る城の必見遺構■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
山頂部に啓開された主郭部(「天主台」と呼称されるが、実際に天守があった訳ではない)や馬場ヶ崎、お茶ヶ崎と
呼ばれる物見の出曲輪、堀障子の構造が散見できる空堀跡など、完全ではないものの比較的旧態を留めていると
言えよう。城山の北面(下田市街地側)に観光駐車場がありそこから散策路(登山道)が山に入っていくので、それを
登って行けば順に曲輪を見て回れるから簡単だ。開国記念碑のある広場が谷戸の居館跡、その上が山頂の主郭と
なり、数か所の堀切を挟んで南側へ二郭・三郭が並び、更に海へ延びる尾根が上記の出曲輪群となる。居館址以外
殆んどの曲輪は細長く、地形の制約を受けながら造成した様子が垣間見える。この城内では大兵力の駐屯は難しく
居住性を無視した“戦いに特化した海城”だった事が分かる。籠城戦時には長宗我部勢から大砲を撃ち込まれながら
僅かな手勢で守り切った堅城と言うのも納得だが、逆に梶原景宗が退去し、余分な兵力を“削ぎ落した”事が損害を
減らす効果をもたらしたのかもしれない。全国随一の海賊城として注目される城だけはある。■■■■■■■■■
ところで、公園として整備されているのは散策路に沿った場所だけなので部分的に見学できない曲輪もある。また、
主郭の裏側(南側)にまで入り込んで見学するのも「散策路から外れる」ので、ついつい見逃してしまう事になる。
ところが、この主郭南側にこそ“手付かずの障子堀”が残存しており、当城の必見箇所と言える。障子堀は後北条系
城郭に良く用いられた構造物で、他の城でも見学できるものであるが、それらの大半は“発掘調査後に整えられた”
もので、未整備の障子堀が間近に、そして明確に見られる所はむしろ稀である。然るに下田城主郭南側の障子堀は
“未整備でありながらハッキリと判る”姿を留めており、実に希少な存在だろう。ここより外側(南側)は城外となるので
明確な防御線として長大な障子堀が構築されたと考えられる。見学の際はお忘れ無きよう。■■■■■■■■■■
ともあれ、下田公園はアジサイの名所として有名であると共に、毎年行われる黒船祭も催される場所であり、静かで
風光明媚な公園として十分有意義なものである事に間違いはない。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
(下田はペリー再来の地としても歴史上有名であり、それを記念して黒船祭が毎年5月に行われる)■■■■■■■
特にアジサイの時季は鵜島全体に色とりどりの花が咲き乱れて美しい。日米和親や文明開化に関連して、園内には
開国記念碑や下岡蓮杖(しもおかれんじょう、日本初の写真家)顕彰碑などもある。■■■■■■■■■■■■■■
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