駿河国 泉頭城

泉頭城二ノ丸跡 貴船神社

 所在地:静岡県駿東郡清水町伏見・玉川・堂庭

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

■■■■
★★★★☆



「川が噴き出す地」の戦国城郭■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
「泉頭(いずみがしら)城」と言っても殆んど無名の城郭で、名を知る者は少ないであろう。されども、
「柿田川湧水」と言えば全国的に有名な景勝地。富士の伏流水が大量に噴出し、湧き水がいきなり
大河となって駿河湾へ流れ出すという絶景の地である。泉頭城は柿田川湧水池の東岸に築かれた
小田原後北条氏の前線基地。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この場所に城が築かれたのと豊富な湧水には切っても切れない関係があり申す。■■■■■■■
泉頭城の築城は戦国時代、小田原城(神奈川県小田原市)に本拠を置く北条左京大夫氏康の手に
よるものとされる。おそらくは永禄年間(1558年〜1570年)の事であろう。ちょうどこの時期、駿河国
(現在の静岡県東部)を支配した大大名・今川治部大輔義元が桶狭間で戦死した事により今川家が
衰退。今川と同盟関係にあった相模国(神奈川県西部)の後北条氏は、駿河国に対する不安要素の
増大で防衛体制の再整備が求められたのである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
富士の麓にある興国寺城(静岡県沼津市)と、伊豆支配の本拠となる韮山城(静岡県伊豆の国市)
(共に北条氏の戦略拠点)の間を補完する城郭として築かれたのが泉頭城なのだ。莫大な噴出量を
誇る柿田川の湧水を天然の濠として取り込み、その東岸にある起伏の激しい隆起台地を縄張りにし
純然たる軍事基地として設計されている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
永禄年間以後、興国寺城や泉頭城周辺は衰退する今川氏、甲斐国(山梨県)の強者である武田氏や
小田原の大大名たる後北条氏が三つ巴の抗争を繰り広げ、緊張状態が続いた。その後、今川氏が
滅亡し、武田氏も弱体化すると、西から徳川氏の勢力が伸張する。後北条氏と徳川氏が領土を接す
ようになると、同様にこの地域が軍事境界となり泉頭城を含む駿河国内の後北条氏支城群はやはり
重要な地位を占めるようになっていく。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかし1590年(天正18年)、天下統一に王手をかけた豊臣秀吉は最後の敵として小田原後北条氏の
討伐に着手する。防衛体制を固める必要に迫られた後北条氏は箱根山塊を第一次防衛線に策定し
兵力の集中を行った。この為、この防衛線から西に外れた泉頭城は放棄される事となり、後北条軍に
よる自焼が為される。斯くして、築城から30年ほどで泉頭城は廃城となったのでござった。■■■■

もしかすると日本の新首都になった…かも?■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、後北条氏の廃城から25年後。泉頭城は復活の機を得る。■■■■■■■■■■■■■■■
江戸幕府が成立し、大坂の豊臣氏が滅亡した1615年(元和元年)。もはや徳川氏に抗える者は無く、
天下泰平が確定したこの年に、駿府城(静岡県静岡市)で隠居生活を送る徳川家康は隠棲のための
新たな城を計画。その候補地となったのが泉頭城だった。柿田川の澄んだ水が噴き出し、富士の山と
清涼な湧水を望む事ができるこの城は、家康の余生を送るに相応しい美しい景観を備えた地であった
からだ。かつて北条氏康は豊富な湧水を防備に用いたが、大御所・家康はこの水を生活の潤いとして
欲したのであった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
翌1616年(元和2年)に縄張りが開始され、築城計画が検討されたものの、その直後に家康は急病で
倒れこの世を去る。主となるべき家康の死によって泉頭城の再築は沙汰止みとなり、着工されぬまま
消え去ったのであった。もしも家康があと数年生きながらえたなら、城郭史は大きく塗り替えられたで
あろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現在、泉頭城跡は柿田川公園として整備されており有名な観光地となっている。しかし柿田川公園が
城跡であった事は殆んど知られていない。観光に訪れた者はみな柿田川の美しさに見とれるばかりで
あろう。が、城郭愛好家がこの公園を見て回れば、そこかしこに堀跡とおぼしき起伏を見かける事に
なる。実際、拙者も泉頭城の存在を知らぬまま柿田川公園を訪れ、「これって空堀じゃないの?」と
思ったら…やっぱり城だったという経緯が (^^;■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この他、公園外の住宅地にも堀跡が残っているので、興味がある方はそちらも御覧あれ。但し、周辺
住宅に御迷惑をお掛けしないよう配慮すべし。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群等








駿河国/伊豆国 戸倉城

戸倉城址 本城山公園

 所在地:静岡県駿東郡清水町徳倉

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★☆■■
★★■■■



駿河と伊豆の国境線は武田と後北条の境界線■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
泉頭城の項で記した柿田川は、湧水地点から僅か1.2kmで狩野川に合流する。故に、柿田川は一級河川としては
日本で最も短い川であるが、この合流地点には川に突き出すような半島状の山が存在している。これが戸倉城の
城山であり、必然的に泉頭城と戸倉城の距離は柿田川の長さと同じ、約1.2kmしか離れていない事になる。なお、
狩野川を境として駿河と伊豆の国境線となっているが、この川の流路は幾度かの氾濫によって変化していたため、
時代によってこの山は駿河側だったり伊豆側だったり変化していたようだ。現代では駿河側として含められているが
戦国時代には伊豆国の一部として認識されており申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
古い記録では文明年間(1469年〜1487年)駿河守護・今川家が築いたとする説もあるが(龍泉寺記)定かではなく、
一般的には後北条家の2代目当主・左京大夫氏綱(うじつな)が築城したとか。今川家の客将であった北条早雲が
伊豆に独立した事で始まるのが後北条家であり、当初は(早雲が今川氏と姻戚関係にあった事もあり)駿河は今川、
伊豆は後北条という形で棲み分けが出来ていた。こうした中で伊豆の北端を固める必要性からこの城が築かれたの
だろう。当時、河川水運は物流の大動脈であり、狩野川と柿田川の合流地点と言うならば当然掌握すべき要衝だと
考えられる。ところが後北条家が関東に急拡大し、それにつれて周辺勢力との対立が深まると今川家との関係性も
変化していき、後北条領であった駿東(駿河国内でも最東端部)が今川家に脅かされる事態も発生する。これは甲斐
武田家も含めた三国同盟(甲相駿三国同盟)の成立にて危機が回避されるも、その三国同盟が武田徳栄軒信玄の
破約で崩壊すると、今川家は滅び駿河は武田家に占領され、駿河と伊豆の国境線は武田と後北条の境界線として
“最前線の”緊張状態が続く。上記の泉頭城が作られたのもこのような状況下での話だが、信玄が駿河へ侵攻した
1568年(永禄11年)から1571年(元亀2年)にかけて戸倉城でも攻防戦が行われている。この当時、戸倉城将として
北条氏康の8男(9男とも)・右衛門佐氏光(うじみつ)が配されていた。氏光は韮山城(静岡県伊豆の国市)など近隣
城郭と連携して防備に努めたと言われてござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

武田家の滅亡、そして後北条家の滅亡■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
その後、武田と後北条は再同盟に舵を切るが1579年(天正7年)それも破綻し、両家はまたもや対立状態に入った。
信玄の後継者・武田四郎勝頼は沼津に三枚橋城(下記)を築き駿河湾や伊豆半島への備えとし、武田水軍の本拠
地として軍備が強化された。三枚橋城と戸倉城との間も3.5km足らずしかなく、後北条家にとって防備の要となった
戸倉城であるが、この頃に城主であった笠原新六郎政堯(まさたか、政晴とも)は1580年(天正8年)武田軍の攻撃を
防いでいる。しかし翌1581年(天正9年)10月、政堯は突然武田方へと寝返ってしまい、戸倉城はそのまま武田家の
ものとなった。政堯は後北条家の重臣・松田左衛門佐憲秀(のりひで)の長男で、当時当主を失い後継者不在だった
笠原家(遺児が幼少で跡を継げなかった)に入嗣した人物。笠原家も後北条家創業以来の重臣である家柄だったが
政堯はそのころ目立った戦功も無く、後北条家中で後ろ指さされる立場だったとの言い伝えがあり、それが裏切りの
原因になったのだろうか。戸倉城を失陥した事で後北条家の防衛体制に大きな穴が開いた事になり、離反に際して
政堯は同族の笠原平左衛門照重(てるしげ)を同年12月19日に討ち取っている。■■■■■■■■■■■■■■■
だが既に武田家は織田・徳川連合軍によって攻勢を受け斜陽となっていた年代である。年が明けて間もない1582年
(天正10年)3月11日に武田勝頼が自害し武田家は滅亡した。戸倉城は後北条家によって奪還され、行き場を失った
政堯は実父・憲秀を頼って後北条家に帰参している。ところが豊臣秀吉が天下の覇者となるや、後北条家は秀吉に
とって最後の敵と定められ、1590年に追討を受ける事となる。上方の大軍勢が攻めて来るに当たり、戦力の集中を
図る後北条方は伊豆の防衛拠点として韮山城を選び、そのため戸倉城は放棄された。結果、そのまま戸倉城は豊臣
方に占拠され、廃城となったのでござる。なお、後北条家滅亡の間際に松田憲秀・笠原政堯父子は主家を見限って
秀吉への内通を図ったが、憲秀2男(政堯の弟)・松田左馬介直秀(なおひで)は裏切りを潔しとせず、父と兄を告発。
政堯は後北条家によって誅殺され、憲秀も不忠を咎められ秀吉から切腹されられているが、直秀は敗軍の将として
蟄居した後、加賀前田家に召し出され4000石の大身で家臣に加えられた。裏切りを重ねた政堯は不遇の死を迎え、
敗れたとは言え忠義を貫いた直秀は救われた訳だから、裏切りが常だった戦国の世とは言え「誠実さ」が最終的には
身を助ける事を表した政堯・直秀兄弟の“明暗”際立つ逸話が、戸倉城をめぐって付きまとう。■■■■■■■■■

独立丘を存分に使った城地■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
地図を見れば、伊豆半島中央から流れてきた狩野川は南東から北西に向かって進んで行くが、清水町の真ん中で
急に向きを変え、反時計回りにほぼ一回転し再び北西へと流れている。この蛇行部分の中にあるのが本城山公園、
即ち戸倉城址である。狩野川は元来、他の場所でも蛇行していたが現在は大半が河川改修で直線化されており、
これほどの急旋回を残している所は他にない。それもその筈、本城山は標高75.2m、東西方向に550m以上の長さを
有す山で(南北方向には約230m)、狩野川の流れに「立ち塞がるように」鎮座し、かつ河川改修で切り崩せるような
大きさではないからだ。東西で長い山容にあって、この山は大きく3つのピークを持ち、東の山頂が一番高く(75.2m)
次いで真ん中の頂(53.8m)、一番西側の頂(47.1m)の順になっている。当然、これらの頂がそれぞれ曲輪として造成
され、本丸・西曲輪・八幡神社郭となっていた。本丸の東側(川への突端)には一段下がった東曲輪が付属するほか、
各曲輪の周囲にもいくつかの小曲輪が付属、主要部には堀切を穿ち侵入路を遮断している。また、山の西端部から
平地を挟んだ向こう側にも、摩利支天郭と呼ばれる出郭があったそうな。往時はこの摩利支天郭側が大手口とされ、
そこから東へ向かって山を登るのが登城路となっていたようでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
本丸は概ね東西40m×南北30mの大きさ。現在はこの曲輪が整地され、本城山公園となっている。この公園化により
それまであった土塁などは取り払われてしまったそうだ。また、写真にあるキノコ形(?)の展望台が建設された為
“現代の天守”と言うような雰囲気になっているが、戦時中はこの曲輪が高射砲陣地として使われていたそうなので
昔も今も「関東の入口を監視する」山だった事は変わらない。南方の島々から東京へ向かうB-29は富士山を目標に
航路を決めていたそうだから、戸倉城の上を爆撃機の編隊が飛んでいたのは想像に難くない。こうした戦時改変や
公園化整備で「城としての遺構」は軒並み潰されてしまった訳だが、公園になった事で山を登る遊歩道は整備され
その遊歩道の脇(公園化対象外となった元の山林)には堀切などが散見できる。尤も、そうした場所は手付かずの
山のままなので、見学に向いているとは言えない…改めて、残された場所だけでも史跡整備してみればかなり良い
城跡になると思うのだが、どうでござろうか?■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
山の南側には臨済宗金通山龍泉寺(来歴の冒頭に記した「龍泉寺記」の寺)と言う寺が。ここは城主居館の跡と考え
られている。本城山公園へは、この寺の墓地を進んだ道からも登る事が可能だが、公園駐車場は山の東と北にあり、
そこからも山に入れる。反対に、かつての大手道(山の西側から)は立ち入れる雰囲気に無く、無暗に侵入するのは
近隣住民の方に迷惑がかかるので、止めた方が良いだろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
なお、キノコ形(なのか?)展望台からは箱根山塊の西面から沼津市街地まで見通せるので、周辺にある諸城との
位置関係を把握するのが簡単。それはつまり、当時の戸倉城が各所の城と睨み合っていた関係性を示している訳で
武田と後北条の熾烈な境界争いを一望する好所に城が作られていた事を体感できる。■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群等








駿河国 三枚橋(沼津)城

三枚橋城復元石垣

 所在地:静岡県沼津市大手町・上土町・町方町 ほか

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

■■■■
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武田が駿河湾を制する為に用いた城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
上記した2つの城に程近い、沼津市中心部にあった城郭。戦国時代に築かれた中世城郭が三枚橋城で、
一時廃城ののち江戸時代中期に再築された近世城郭が沼津城でござる。■■■■■■■■■■■■
三枚橋城の構築は元亀(1570年〜1573年)から天正年間(1573年〜1592年)。1570年(元亀元年)には
武田信玄が既に領有していたと言う説と、1577年(天正5年)に武田勝頼が築城したと言う説があるも、
近年の研究では後者が有力と見られている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
(他に、永禄年間(1558年〜1570年)には後北条氏によって作られていたとする説もある)■■■■■■
駿河を領有した今川氏は1560年(永禄3年)の桶狭間合戦以後に著しく衰退し、甲斐の武田氏や相模の
後北条氏が駿河国内を侵犯、ちょうど沼津近辺が武田対後北条の最前線となっていたのである。この
過程において、両者が対陣する三枚橋の地に城が築かれたのであった。■■■■■■■■■■■■■
三枚橋城は現在のJR沼津駅南口に開けた場所に位置し、沼津市内で蛇行する狩野川の北西側を城の
敷地としている。狩野川が最も屈曲した位置の外側に隣接して本丸が置かれ、本丸を囲う形で二ノ丸が、
二ノ丸を取り巻いて三ノ丸が用意された輪郭式の縄張りだ。当然、狩野川は天然の外濠として利用され、
この大河によって護られた三枚橋城は、所謂「後ろ堅固の城」として武田の駿河侵攻拠点となっていた。
三枚橋城の城代には勝頼家臣の高坂源五郎が任じられている。■■■■■■■■■■■■■■■■■

時代の激変を受け、中世城郭は廃城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この当時、狩野川はそのまま武田・後北条の境界線ともなっており、川を挟んだ東南側には後北条氏が
戸倉城(上記)等の諸城を築き、武田氏との対決姿勢を顕にしていた。1580年には沼津市内の千本浜で
両者が合戦に及び、翌1581年には戸倉城主であった後北条方の将・笠原政堯が高坂源五郎に降伏して
武田方へと寝返るなど、三枚橋城の近辺では激しい駆け引きがあったようだ。■■■■■■■■■■■
ところが1582年、西から迫った織田・徳川連合軍により武田氏は滅亡。三枚橋城は徳川氏に接収され、
守備役として徳川家康家臣の松平左近将監康親(やすちか)が、翌1583年(天正11年)からはその長男・
左近丞康重(やすしげ)が任じられた。康親らは名目上の城主である家康4男・松平下野守忠吉の後見と
して三枚橋城に据えられたのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さらに月日が流れ、豊臣秀吉により小田原北条氏が倒されると徳川家は駿河から移封され関東地方へと
領地替えとなり、1590年三枚橋城には秀吉の城代として中村彦右衛門一栄(かずしげ)が入城。■■■■
関ヶ原合戦後は再び徳川領となり、1601年(慶長6年)に2万石を以って家康重臣の大久保治右衛門忠佐
(ただすけ)が城主となった。しかし1613年(慶長18年)9月27日、忠佐は嗣子のないまま77歳という高齢で
死去したため忠佐の家は断絶、翌1614年(慶長19年)に三枚橋城は廃城となってしまった。■■■■■■
この後、沼津の地は駿府領へと吸収されて徳川左近衛中将頼宣(家康10男で紀州徳川家の祖)、天領、
駿河大納言こと徳川忠長(3代将軍家光の弟、駿河大納言)の支配と変遷するが1633年(寛永10年)から
幕府直轄領となり、代官による統治が行われたのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

田沼時代に近世城郭として甦る■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
それから約140年後の1777年(安永6年)、三河国大浜(愛知県碧南市)7000石の領主であった旗本・水野
出羽守忠友(ただとも)が10代将軍・徳川家治から沼津領を加増され2万石の大名となる。■■■■■■
忠友は大浜から沼津へ移り、かつての三枚橋城跡地に新城を建造。狩野川越しに富士山や駿河湾を望む
事ができる風光明媚な様から観潮城と別称された近世城郭・沼津城の誕生である。忠友は当時の権力者・
田沼主殿頭意次(たぬまおきつぐ)と手を組み政治に参与、老中にまで取り立てられる。意次はこの後に
失脚するが、水野家は老中に留まり1802年(享和2年)忠友の跡を継いだ水野出羽守忠成(ただあきら)は
老中首座にまで登り詰め、それに応じて更に2万石が加増された。沼津城の再興にもその影響は大きく
出ており、当初は水野家の軍学者である吉田雪翁が門弟の神田清次と共に縄張りを組み立てたものが、
実際には田沼家の家臣・須藤次郎兵衛により縄張りが為され、それを基に相良(田沼家の領地)の大工・
善四郎が普請工事を統括した。着工は1780年(安永9年)4月(諸説あり)だが、忠友の代だけで工事は
終わらず、忠友自身も「御一代に成就に及ばず(自分の代で完成しなくていい)」と述べたとか。斯くして
築城工事は忠成の時代まで引き継がれたようだが、こうして出来上がった沼津城も三枚橋城の規模より
小さく、戦の城ではない“政庁城郭”としてのみ存在した。されど、構造的には三枚橋城と同様に狩野川を
背に本丸、それを取り囲んで北西側に二ノ丸や三ノ丸が並び、天守に相当する三重櫓が本丸内に建って
御殿は二ノ丸に置かれるなど、老中の城に相応しい格式は備えていたようである。■■■■■■■■■
忠成以後、1834年(天保5年)に忠義(ただよし)、1842年(天保13年)に忠武(ただたけ)、1844年(天保15年)
忠良(ただなが)、1858年(安政5年)忠寛(ただひろ)、1862年(文久2年)忠誠(ただのぶ)、1866年(慶応2年)
忠敬(ただのり)へと家督が継がれ(いずれも出羽守を名乗る)、沼津城主を継承。忠寛は側用人、忠誠は
老中・寺社奉行、忠敬は甲府城代の職を得ており、水野氏は相変わらず幕府内部で重要な地位を占めて
いた事がわかる。領地も幕末の頃には5万石にまで増えていた。■■■■■■■■■■■■■■■■■

現代は市街地化に没す■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
江戸幕府の終焉を迎えるにあたり、1868年(慶応4年)忠敬は上総国菊間(千葉県市原市)へ移封される。
然る後に明治維新を迎えると徳川将軍家は駿府80万石の一大名として扱われるようになり、沼津領も
駿府藩主・徳川家達(いえさと、15代将軍慶喜の後嗣)の支配地として併合された。沼津城は徳川家の
沼津兵学校として利用される事となり、1868年(明治元年)12月に二ノ丸御殿を校舎として開校、頭取
(校長)に西周(にしあまね)が就任した。周は幕末の遣欧使節として渡洋した人物で、西欧の諸事情に
詳しい秀才であり、沼津兵学校は西洋軍隊に準ずる軍人を育成する施設として成立したのである。■■
しかし明治維新後、新政府による統一国家軍隊が発足すると沼津兵学校の組織は政府陸海軍へと吸収
される事になり1872年(明治5年)5月、沼津兵学校は東京へと移転。■■■■■■■■■■■■■■■
同年、沼津城跡地は静岡県によって競売に懸けられ破却の運命を辿り申した。■■■■■■■■■■
その後、沼津の町は大火や宅地造成、市街再編などにより大きく様変わりし沼津城の堀なども全て埋め
立てられてしまった。現在に残る城の遺構は何も無く、発掘によって発見された三枚橋城時代の石垣が
ごく僅かに再現されるのみである。一応、旧本丸跡に当たる沼津市中央公園には城址碑が立つも、城の
よすがは感じられない。移築された遺構としては、沼津市内にある法華宗徳永山光長寺辻之坊山門が
沼津城の中庭門だった?と言われてござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

移築された遺構として
光長寺辻之坊山門(伝沼津城中庭門)・復元石垣(古材利用)








伊豆国 長浜城

長浜城址からの眺望

 所在地:静岡県沼津市内浦長浜・内浦重須

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★☆
★★★■■



こちらは後北条の“鎮守府”■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
小田原後北条氏が駿河湾内の水軍拠点として用いた城。湾内最奥部、伊豆国田方郡(当時)内浦湾の海辺に
突き出した標高39mの小山を城地としており、南側だけを陸地と接するのみで他の3方は海に面していた。この
山の麓を船溜まりとして活用しており、特に南西側、現在は陰野川の川床となっている部分に海が入り込んで
いた事から、当時の軍船係留地や補修工廠となっていた。最盛期、この城に属した水軍は安宅(あたけ)船と
呼ばれる当時の大型軍船50隻を数えていたと見られ、後北条領西端の海賊城(水軍基地の事)として活発に
活動していたようだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城の縄張りとしては、城山のほぼ中央(やや西側に偏位)を主郭とし、そこから南東へ梯郭式に2郭・3郭・4郭が
連なる。このうち、2郭は近代の改変(詳細後記)が見受けられ、3郭には小さな社が建てられているものの、全体
的には良い保存状態である。これら主要曲輪間はしっかりとした堀切や土塁で分断されており、城郭愛好家の
目で見れば“いかにも中世城郭”という雰囲気を漂わせている。ちなみに、城山の最高所である標高39m地点は
3郭の土塁上にあたり、人工的に作り出されたものである事が分かる。元来の地表面としては主郭の標高34mが
最高所。その主郭から北東側へは岬状に突き出した突端部があり、ここには段曲輪状に腰曲輪が連なる。その
様相が長浜城での最も見所でござろう。下段へと降り、そこから主郭を振り返った時の姿は感動的。当時はこの
段曲輪に十重二十重の軍旗が翻っていたと想像するにつけ、身震いする程である。■■■■■■■■■■■
反対に城山の南西側、低平坦地部分には田久留輪(たぐるわ)と呼ばれる主要武将の居館が置かれ、更にその
西南側には上條・中條・下條と分割される在城武士団の屋敷が構えられていた。即ち、長浜城は所謂“根小屋”
形式の城であり、戦時に詰めるだけの臨時城郭ではない恒久城郭だった事になる。この他、城山内の各所には
竪堀や帯曲輪などが無数に点在する。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

駿河湾制海権争奪戦■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城の起源は定かではない。南北朝時代、畠山修理大夫国清が鎌倉公方と対立し領国の伊豆で乱を起こした時
修善寺城(静岡県伊豆市本立野(旧修善寺町内))の前衛として築いた「三津(みと)城」がこの長浜城の事では
ないかと見る説もあるようだが(三津城は別の場所とする説もある)確証はなく、現在見られる遺構は明らかに
戦国期のものでしかない。やはり創建は後北条氏の手によるものでござろう。■■■■■■■■■■■■■■
文献上の初出は北条家朱印状の1579年11月7日付けで「長浜ニ船掛庭之普請」とある。伊豆国から関東への
進出を果たした後北条氏は、江戸湾の制海権を巡り房総半島の里見軍と交戦状態にあり、専ら三浦半島や
江戸湾岸での水軍養成を主としていたが、甲相駿三国同盟(武田・後北条・今川の相互不可侵同盟)の破綻後、
伊豆西岸や駿河湾でも武田水軍との衝突が懸念されていた。後北条氏は小田原を本拠としながらも、近年の
研究では西国との海上交易も重視していたと見られる事から、領国西端での港湾権益確保が最重要の問題
だったのだろう。この為、長浜城の整備拡張が現実化していくのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■
伊豆半島本体から北側へと突出する形になる長浜城跡からは、当然ながら北方の展望が綺麗に開ける(写真)。
重須(おもす)湊として一大港湾街となっていた内浦湾は、その出入口を淡島(写真中央に浮かぶ島)が上手く
目隠しするように塞ぎ、天然の良港となってござった。ここに城を築く事は必須だったのである。写真にある通り
今でも長浜城前の海は船の係留地になっているので、当時の状況が推測できよう。■■■■■■■■■■■
一方の武田方は時期を同じくして伊豆半島の根元にあたる三枚橋城(上記)周辺の確保を行っている。写真で
淡島の左奥に見える岬(牛臥山)あたりが後北条領・武田領の境界線となっており、当城は武田軍の動向監視・
軍港防備・水運管制と多岐にわたる任務を担っていた事になる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
同年12月19日付、北条氏光朱印状(右衛門佐氏光は氏康の(養)子、当時は駿河方面の守備に就いていた)に
長浜城将として梶原備前守景宗が派遣された旨が記されている。この時、梶原は客将ながら後北条水軍の統括
者であり、長浜城での水軍強化が逼迫した状況にあった様子が窺える。果たして翌1580年3月15日、いわゆる
駿河湾海戦と呼ばれる武田・後北条水軍の戦いが発生する。その舞台となったのは千本浜沖、牛臥山の目の
前であった。この戦いは両者痛み分けに終わったが、長浜城の至近で大規模な水軍戦が行われた事は、この
城の重要性を如実に表していよう。この次の年、1581年にも小浜伊勢守景隆率いる武田水軍が後北条水軍と
交戦しており申す。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

後北条家の滅亡と共に城も消ゆ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところが1582年になると情勢は激変、武田氏が織田信長により滅亡。これによりいったんは駿河湾岸での緊張
状態は解消する。しかし信長も没し天下の覇者となった豊臣秀吉が天下を掌握しつつあった1589年(天正17年)
頃から再び戦雲たなびいてくる。秀吉は後北条氏を天下統一最後の敵と定め、小田原征伐を企図。これに備え
後北条方は箱根山塊を絶対防衛圏と策定した事により駿河国内の後北条領は放棄され、同時に伊豆国内では
兵力の再配置が行われている。長浜城の水軍兵力は軒並み下田城(静岡県下田市)へ移管されたり、小田原
沿岸の警備に駆り出された。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかし長浜城の防備は遺棄された訳ではなく、12月19日に韮山城(静岡県伊豆の国市)の属将・大藤与七なる
人物へ足軽80人を率いて長浜城を守るよう後北条氏からの命令が下された。豊臣軍が進発した1590年になると
在地の武士団も長浜城の警備に入ったらしい。在地土豪・大川兵庫を中心とする地侍らが長浜城を守備するに
あたり、2月28日に後北条家の総帥・北条左京大夫氏政がそれを認める文書を発給してござる。なおこの前日
(2月27日)豊臣水軍は駿河湾の対岸にある清水港に入っており、いよいよ戦端が開かれようかと言う頃である。
満を持して3月29日、最初の戦闘である山中城(静岡県三島市)攻防戦が発生。■■■■■■■■■■■■■
後北条氏が強固に固めた山城である山中城であったが、圧倒的大軍である豊臣方の攻勢に半日あまりで落城、
さらに4月1日にも豊臣水軍が下田城を攻撃している。これらの戦闘で後北条方の不利は明白となった事から、
長浜城では抗戦なきまま守備兵が遁走し、伊豆最大の戦略拠点であった韮山城の開城に前後し廃城となった
ようである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
なお、戦後に大川氏は武士を辞して漁民となり、当地の津元(網元)として栄えた。大川氏が保存した古文書は
「豆州内浦漁民史料」とされ、その中に1579年11月7日の朱印状や1590年2月28日の北条氏政発給文書なども
含まれている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

風光明媚な名城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
その後は山林と化した城跡だが、近代になると三井財閥が所有する別荘が建てられた。これが旧2郭の改変と
なるもので、別荘家屋の土台となるコンクリート基礎や土留めの石垣などが設置されてしまう。しかしこの別荘も
昭和40年頃に撤去されたとの事。以後は荒れるに任されていたが、昭和60年代に入って沼津市教育委員会が
詳細分布調査を実施。戦国期の、しかも海賊城の古態がほぼ完存している事から1988年(昭和63年)5月13日
国史跡に指定された。これを機に少しずつ城跡の整備保存が本格化し、1994年(平成6年)度末までに敷地の
公有化が完了。1995年(平成7年)からは保全工事と並行して発掘調査が行われるようになり、これは現在も
進行中でござる。2002年(平成14年)12月19日、国史跡の追加指定が行われ指定総面積は1万5476.23uに。
整備事業では2郭で検出された柱穴や堀切部の橋脚と思われる遺構を立体表示する取組みが行われている。
また、山に登る遊歩道も整えられたので、初心者でも楽に登れる。遊歩道の入口前には長浜城跡の立体模型や
概容説明の案内板もあり、丁寧な史跡整備だ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
何より、写真でご覧頂いている通り晴れた日には海の彼方に富士の秀峰が望めるので、是非ともオススメしたい
史跡と言えよう。長浜釣堀観光センターの駐車場に隣接する小山が城跡で、城址見学者は短時間であれば同
センターに駐車させて貰える。近隣には三津シーパラダイス・あわしまマリンパークと水族館が2つもあり、静岡
県道17号線を西へ進めば大瀬崎に戸田(へだ)漁港、さらに土肥金山へと至る。東に向かえば狩野川を遡って
韮山反射炉に大仁・修善寺といった温泉街、そして北には沼津御用邸記念公園と、周囲には観光名所が沢山。
季節によっては苺狩りなども楽しめ、伊豆の観光と組み合わせて来訪するのが良いのではなかろうか。■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群等
城域内は国指定史跡




興国寺城・阿野氏館  下田城