駿河国 泉頭城

泉頭城二ノ丸跡 貴船神社

所在地:静岡県駿東郡清水町伏見

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★■■■■
公園整備度:★★★★☆



「泉頭(いずみがしら)城」と言ってもほとんど無名の城郭で、名を知る者は少ないであろう。
しかし「柿田川湧水」と言えば全国的に有名な景勝地。富士の伏流水が大量に噴出し
湧き水がいきなり大河となって駿河湾へと流れ出すという絶景の地でござる。
泉頭城は柿田川湧水池の東岸に築かれた、小田原後北条氏の前線基地。
この場所に城が築かれたのと豊富な湧水には切っても切れない関係があり申す。
泉頭城の築城は戦国時代、小田原に本拠を置く北条氏康の手によるものとされる。
おそらく永禄年間(1558年〜1570年)の事であろう。ちょうどこの時期、
駿河国(現在の静岡県東部)を支配した大大名・今川義元が桶狭間で戦死した事により
今川氏が衰退。今川と同盟関係にあった相模国(神奈川県西部)の北条氏は
駿河国に対する不安要素の増大で防衛体制の再整備が求められたのである。
富士の麓にある興国寺城と、伊豆支配の本拠となる韮山城(共に北条氏の戦略拠点)の間を
補完する城郭として築かれたのが泉頭城なのでござる。
莫大な噴出量を誇る柿田川の湧水を天然の濠として取り込み、その東岸にある
起伏の激しい隆起台地を縄張にした純然たる軍事基地として設計されている。
永禄年間以後、興国寺城や泉頭城周辺は衰退する今川氏、甲斐国(山梨県)の強者である
武田氏や、小田原の大大名たる北条氏が三つ巴の抗争を繰り広げ、緊張状態が続いた。
今川氏が滅亡し、武田氏も弱体化すると、西から徳川氏の勢力が伸張。
北条氏と徳川氏が領土を接するようになると、同様にこの地域が軍事境界となり
泉頭城を含む駿河国内の北条氏支城群はやはり重要な地位を占めるようになっていく。
1590年(天正18年)、天下統一に王手をかけた豊臣秀吉は最後の敵として
小田原北条氏の討伐に着手。防衛体制を固める必要に迫られた北条氏は
箱根山塊を第一次防衛線に策定し兵力の集中を行った。このため、この防衛線から
西に外れた泉頭城は放棄される事となり、北条軍による自焼が為された。
斯くして、築城から30年ほどで泉頭城は廃城となったのでござった。
さて、北条氏の廃城から25年後。泉頭城は復活の機を得る。
江戸幕府が成立し、大坂の豊臣氏が滅亡した1615年(元和元年)。
もはや徳川氏に抗える者は無く、天下泰平が確定したこの年に
駿府城(静岡県静岡市)で隠居生活を送る徳川家康は隠棲の為の新たな城を計画。
その候補地となったのが泉頭城でござった。柿田川の清らかな水が噴き出し
富士の山と清涼な湧水を望む事ができるこの城は、家康の余生を送るに相応しい
美しい景観を備えた地であったからだ。かつて北条氏康は豊富な湧水を防備に用いたが
徳川家康はこの水を生活の潤いとして欲したのであった。
翌1616年(元和2年)に縄張りが開始され、築城計画が検討されたものの
その直後、家康は急病に倒れこの世を去る。主となるべき家康の死によって
泉頭城の再築は沙汰止みとなり、着工されぬまま消え去ったのであった。
もしも家康があと数年生きながらえたなら、城郭史は大きく塗り替えられたであろう。
現在、泉頭城跡は柿田川公園として整備されており有名な観光地となっている。
しかし柿田川公園が城跡であった事はほとんど知られていない。
観光に訪れた者はみな柿田川の美しさに見とれるばかりであろう。
が、城郭愛好家がこの公園を見て回れば、そこかしこに堀跡とおぼしき起伏を
見かける事になる。実際、拙者も泉頭城の存在を知らぬまま柿田川公園を訪れ
「これって空堀じゃないの?」と思ったら…やっぱり城だったという経緯が (^^;


現存する遺構

堀・土塁・郭群等








駿河国 三枚橋(沼津)城

三枚橋城復元石垣

所在地:静岡県沼津市大手町・上土町・町方町 ほか

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:☆■■■■
公園整備度:☆■■■■



上記した泉頭城に程近い、沼津市中心部にあった城郭。
戦国時代に築かれた中世城郭が三枚橋城で、一時廃城の後
江戸時代中期に再築された近世城郭が沼津城でござる。
三枚橋城の構築は元亀年間(1570年〜1573年)から天正年間(1573年〜1592年)。
1570年(元亀元年)には武田信玄が既に領有していたという説と、1577年(天正5年)に
武田勝頼が築城したという説があるが、近年の研究では後者が有力と見られている。
(他に、永禄年間(1558年〜1570年)には北条氏によって作られていたとする説もある)
駿河を領有した今川氏は1560年(永禄3年)の桶狭間合戦以後、著しく衰退し
甲斐の武田氏や相模の北条氏が駿河国内を侵犯、ちょうど沼津近辺が
武田対北条の最前線となっていたのである。この過程において、
両者が対陣する三枚橋の地に城が築かれたのでござった。
三枚橋城は現在のJR沼津駅南口に開けた場所に位置し、沼津市内で蛇行する狩野川の
北西側を城地としている。狩野川が最も屈曲した位置の外側に隣接して本丸が置かれ
本丸を囲う形で二ノ丸が、二ノ丸を取り巻いて三ノ丸が用意された輪郭式の縄張り。
当然、狩野川は天然の外濠として利用され、この大河によって護られた三枚橋城は
いわゆる「後ろ堅固の城」として武田氏の駿河侵攻拠点となっていた。
三枚橋城の城代には勝頼家臣の高坂源五郎が任じられている。
この当時、狩野川はそのまま武田・北条の境界線ともなっており、
川を挟んだ東南側には北条氏が戸倉城(静岡県駿東郡清水町徳倉)等の諸城を築き
武田氏との対決姿勢を顕にしていた。1580年(天正8年)には沼津市内の千本浜で
両者が合戦に及び、翌1581年(天正9年)には戸倉城主であった北条方の将
笠原新六郎が高坂源五郎に降伏し武田方へと寝返るなど、
三枚橋城近辺では激しい駆け引きがあったようだ。
ところが1582年(天正10年)、西から迫った織田・徳川連合軍により武田氏は滅亡。
三枚橋城は徳川氏に接収され、新たな城主として徳川家康家臣の松平康親が、
翌1583年(天正11年)からは同じく家康家臣の松平康重が任じられた。
康親らは家康の4男・松平忠吉の後見として三枚橋城主に据えられたのでござる。
さらに月日が流れ、豊臣秀吉により小田原北条氏が倒されると徳川氏は駿河から移封され
関東地方へと領地替えとなり、1590年三枚橋城には秀吉の城代として中村一栄が入城。
関ヶ原合戦後は再び徳川領となり、1601年(慶長6年)に2万石を以って家康重臣の
大久保治右衛門忠佐が城主となった。しかし1613年(慶長18年)忠佐は
嗣子のないまま77歳という高齢で死去したため大久保家は断絶、
翌1614年(慶長19年)に三枚橋城は廃城となってしまった。
この後、沼津の地は駿府領に吸収され、徳川頼宣(家康10男で紀州徳川家の祖)、
天領、徳川忠長(3代将軍家光の弟、駿河大納言)の支配と変遷するが
1633年(寛永10年)から幕府直轄領となり、代官による統治が行われたのでござる。
それから約140年後の1777年(安永6年)、三河国(愛知県東部)大浜7000石の領主であった
旗本・水野忠友が10代将軍・徳川家治から沼津領を加増され2万石の大名となる。
忠友は大浜から沼津へ移り、かつての三枚橋城跡地に新城を建造。
狩野川越しに富士山や駿河湾を望む事ができる風光明媚な様から観潮城と別称された
近世城郭・沼津城の誕生である。忠友は当時の権力者・田沼意次と手を組み政治に参与、
老中にまで取り立てられる。意次はこの後に失脚するが、水野家は老中に留まり
1802年(享和2年)忠友の跡を継いだ水野忠成(ただあきら)は老中首座にまで登り詰め
それに応じて更に2万石が加増された。忠成以後、1834年(天保5年)に忠義(ただよし)、
1842年(天保13年)に忠武(ただたけ)、1844年(天保15年)に忠良(ただなが)、
1858年(安政5年)に忠寛(ただひろ)、1862年(文久2年)に忠誠(ただのぶ)、
1866年(慶応2年)に忠敬(ただのり)へと家督が継がれ、沼津城主を継承。
忠寛は側用人、忠誠は老中・寺社奉行、忠敬は甲府城代の職を得ており、
水野氏は相変わらず幕府内部で重要な地位を占めていた事がわかる。
領地も幕末の頃には5万石にまで増えていた。
江戸幕府の終焉を迎えるにあたり、1868年(慶応4年)に忠敬は
上総国(千葉県中部)の菊間へと移封される。この後、明治維新を迎えると
徳川将軍家は駿府80万石の一大名として扱われるようになり、沼津領も
駿府藩主・徳川家達(いえさと、15代将軍慶喜の後嗣)の支配地として併合された。
沼津城は徳川家の沼津兵学校として利用される事となり、1868年(明治元年)12月
二ノ丸御殿を校舎として開校、頭取(校長)に西周(にしあまね)が就任した。
周は幕末の遣欧使節として渡洋した人物で、西欧の諸事情に詳しい秀才であり
沼津兵学校は西洋軍隊に準ずる軍人を育成する施設として成立したのである。
しかし明治維新後、新政府による統一国家軍隊が発足するようになると
沼津兵学校の組織は政府陸海軍へと吸収される事になり
1872年(明治5年)5月、沼津兵学校は東京へと移転。
同年、沼津城跡地は静岡県によって競売に懸けられ破却の運命を辿り申した。
その後、沼津の町は大火や宅地造成、市街再編などにより大きく様変わりし
沼津城の堀なども全て埋め立てられてしまった。現在に残る城の遺構は何も無く
発掘によって発見された三枚橋城時代の石垣がごくわずかに再現されるのみである。







伊豆国 長浜城

長浜城址からの眺望

所在地:静岡県沼津市内浦長浜・内浦重須

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★★★☆
公園整備度:★★☆■■



小田原後北条氏が駿河湾内の水軍拠点として用いた城。湾内最奥部、伊豆国田方郡(当時)
内浦湾の海辺に突き出した標高39mの小山を城地としており、南側だけを陸地と接するのみで
他の3方は海に面していた。この山の麓を船溜まりとして活用しており、特に南西側
現在は陰野川の川床となっている部分に海が入り込んでいた事から、当時の軍船係留地や
補修工廠となっていた。最盛期、この城に属した水軍は安宅(あたけ)船と呼ばれる
当時の大型軍船50隻を数えていたと見られ、後北条領西端の海賊城(水軍基地の事)として
活発に活動していたようだ。城の縄張りとしては、城山のほぼ中央(やや西側に偏位)を
主郭とし、そこから南東側へ梯郭式に2郭・3郭・4郭が連なる。このうち、2郭は近代の
改変(詳細後記)が見受けられ、3郭には小さな社が建てられているものの、全体的には
良好な保存状態でござる。これら主要曲輪間はしっかりとした堀切や土塁で分断されており
城郭愛好家の目で見れば“いかにも中世城郭”という雰囲気を漂わせている。ちなみに
城山の最高所である標高39m地点は3郭の土塁上にあたり、人工的に作り出されたもので
ある事が分かる。元来の地表面としては主郭部の標高34mが最高所。その主郭から北東側へは
岬状に突き出した突端部があり、ここには段曲輪状に腰曲輪が連なる。この様相が長浜城での
最も見所でござろう。下段へと降り、そこから主郭を振り返った時の姿は感動的。当時は
この段曲輪に十重二十重の軍旗が翻っていたと想像するにつけ、身震いする程でござる。
反対に城山の南西側、低平坦地部分には田久留輪と呼ばれる主要武将の居館が置かれ
更にその西南側には上條・中條・下條と分割される在城武士団の屋敷が構えられていた。
即ち、長浜城はいわゆる根小屋形式の城であり、戦時に詰めるだけの臨時城郭ではない
恒久城郭だった事になる。この他、城山内各所には竪堀や帯曲輪などが無数に点在する。
城の起源は定かではない。南北朝時代、畠山国清が領国の伊豆で兵乱を起こした時に
修善寺城(静岡県伊豆市本立野(旧修善寺町内))の前衛として築いた三津(みと)城が
この長浜城の事ではないかと見る説もあるようだが、確証はない上、現在見られる遺構は
明らかに戦国期のものでしかない。やはり創建は後北条氏の手によるものでござろう。
文献上の初出は北条家朱印状の1579年(天正7年)11月7日付けで「長浜ニ船掛庭之普請」と
ある。伊豆から関東への進出を果たした後北条氏は、江戸湾の制海権を巡り房総半島の
里見軍と交戦状態にあり、専ら三浦半島や江戸湾岸での水軍養成を主としていたが
甲相駿三国同盟(武田・後北条・今川の相互不可侵同盟)の破綻後、伊豆西岸や駿河湾でも
武田水軍との衝突が懸念されていた。後北条氏は小田原を本拠としつつ、近年の研究では
西国との海上交易も重視していたと見られる事から、領国西端での港湾権益確保が
最重要問題だったのだろう。この為、長浜城の整備拡張が現実化していくのでござる。
伊豆半島本体から北側へと突出する形になる長浜城跡からは、当然ながら北方の展望が
綺麗に開ける(写真)。重須(おもす)湊として一大港湾街となっていた内浦湾は
その出入口を上手く目隠しするように淡島(写真中央に浮かぶ島)が塞ぎ、天然の
良港となってござった。ここに城を築く事は必須だったのである。写真にある通り
今でも長浜城前の海は船の係留地になっているので、当時の状況が推測できよう。
一方の武田方は時期を同じくして伊豆半島の根元にあたる三枚橋城(上記)周辺の
確保を行っている。写真で淡島の左奥に見える岬(牛臥山)あたりが後北条領・武田領の
境界線となっており、当城は武田軍の動向監視・軍港防備・水運管制と多岐にわたる
任務を担っていた事になる。同年12月19日付、北条氏光朱印状には長浜城将として
梶原備前守景宗が派遣された旨が記されている。当時、梶原は客将ながら
後北条水軍の統括者であり、長浜城での水軍強化が逼迫した状況にあった様子が窺える。
果たして翌1580年3月15日、俗に駿河湾海戦と呼ばれる武田・後北条水軍の戦いが
発生する。その舞台となったのは千本浜沖、牛臥山の目の前でござった。この戦いは
両者痛み分けに終わったが、長浜城の至近で大規模な水軍戦が行われた事は、当城の
重要性を如実に表していよう。この次の年、1581年にも小浜伊勢守景隆率いる
武田水軍が後北条水軍と交戦している。
ところが1582年になると情勢は激変、武田氏が織田信長により滅亡。これにより
いったんは駿河湾岸での緊張状態は解消する。しかし信長も没し天下の覇者となった
豊臣秀吉が天下を掌握しつつあった1589年(天正17年)頃から再び戦雲たなびいてくる。
秀吉は後北条氏を天下統一最後の敵と定め、小田原征伐を企図。これに備える後北条方は
箱根山塊を絶対防衛圏と策定した事により駿河国内の後北条領は放棄され、同時に
伊豆国内では兵力の再配置が行われている。長浜城の水軍兵力は軒並み
下田城(静岡県下田市)へ移管されたり、小田原沿岸の警備に駆り出された。
しかし長浜城の防備は遺棄された訳ではなく、12月19日に韮山城(静岡県伊豆の国市)の属将
大藤与七なる人物へ足軽80人を率いて長浜城を守るよう後北条氏からの命令が下された。
豊臣軍が進発した1590年になると、在地の武士団も長浜城の警備に入ったらしい。
在地土豪・大川兵庫を中心とする地侍らが長浜城を守備するにあたり、2月28日
北条氏政がそれを認める文書を発給してござる。なおこの前日(2月27日)豊臣水軍は
駿河湾の対岸にある清水港に入っており、いよいよ戦端が開かれようかと言う頃である。
満を持して3月29日、最初の戦闘である山中城(静岡県三島市)攻防戦が発生。
後北条氏が強固に固めた山城である山中城であったが、圧倒的大軍である豊臣方の攻勢で
半日あまりで落城、さらに4月1日にも豊臣水軍が下田城を攻撃している。これらの戦闘で
後北条方の不利は明白となった事から、長浜城では抗戦なきまま守備兵が遁走し
伊豆最大の戦略拠点であった韮山城の開城に前後し、廃城となったようでござる。
なお、戦後に大川氏は武士を辞して漁民となり、当地の津元(網元)として栄えた。
大川氏が保存した古文書は「豆州内浦漁民史料」とされ、その中に1579年11月7日の
朱印状や1590年2月28日の北条氏政発給文書なども含まれている。
その後は山林と化した城跡だが、近代になると三井財閥が所有する別荘が建てられた。
これが旧2郭の改変となるもので、別荘家屋の土台となるコンクリート基礎や土留めの
石垣などが設置されてしまう。しかしこの別荘も昭和40年頃に撤去されたとの事。以後は
荒れるに任されていたが、昭和60年代に入って沼津市教育委員会が詳細分布調査を実施。
戦国期の、しかも海賊城の古態がほぼ完存している事から1988年(昭和63年)5月13日
国史跡に指定され申した。これを機に少しずつ城跡の整備保存が本格化し
1994年(平成6年)度末までに敷地の公有化が完了。1995年(平成7年)からは
保全工事と並行して発掘調査が行われるようになり、これは現在も進行中でござる。
2002年(平成14年)12月19日、国史跡の追加指定が行われ指定総面積は1万5476.23uに。
整備事業では2郭で検出された柱穴や堀切部の橋脚と思われる遺構を立体表示する取組みが
行われている。また、山に登る遊歩道も整えられたので、初心者でも楽に登れる。
遊歩道の入口前には長浜城跡の立体模型や概容説明の案内板もあり、丁寧な史跡整備だ。
何より、写真でご覧頂いている通り晴れた日には海の彼方に富士の秀峰が望めるので
是非ともオススメしたい史跡と言えよう。長浜釣堀観光センターの駐車場に隣接する
小山が城跡で、城址見学者は短時間であれば同センターに断って駐車させて貰える。
近隣には三津シーパラダイス・あわしまマリンパークと水族館が2つもあり、
静岡県道17号線を西へ進めば大瀬崎に戸田(へだ)漁港、さらに土肥金山へと至る。
東に向かえば狩野川を遡って韮山反射炉に大仁・修善寺といった温泉街、そして北には
沼津御用邸記念公園と、周囲に観光名所が沢山ある。季節によっては苺狩りなども楽しめ
伊豆の観光と組み合わせて来訪するのが良いのではなかろうか。


現存する遺構

堀・土塁・郭群等
城域内は国指定史跡




興国寺城  下田城