駿河国 興国寺城

所在地:静岡県沼津市根古屋
■■駐車場: なし■■
■■御手洗: なし■■
遺構保存度:★★★■■
公園整備度:★■■■■
戦国大名の祖・北条早雲創業の城として有名な城郭でござる。
場所は沼津市西部の根古屋。愛鷹山麓の最南端が舌状に突き出した台地で
北に愛鷹山・富士山を背負った要害、南は駿河湾を一望する眺望に秀でた場所。
この台地は篠山と呼ばれ、最高所である北側から本丸、二ノ丸、三ノ丸が並び
連郭式縄張りで築かれた堅城でござる。本丸のさらに北には大空堀が掘られ、
その北側を守る曲輪として北曲輪が設置された。また、本丸の西端部に繋がる形で
天守台が置かれている。本丸の標高は36m、天守台の面積は約300u。
城の南側に広がる平地は、その当時湿地帯となっており
興国寺城はさながら浮島のような様相を呈していたのでござる。
正確な築城年代は不明だが、文明年間(1469年〜1487年)には築かれていたであろう。
文献上の初出は1487年(長亨元年)の事。
駿河国(現在の静岡県東部)守護であった今川氏は、1476年(文明8年)に
当主・義忠(よしただ)が戦死したために家督相続問題で揺れていた。この時、
義忠の嫡男・龍王丸(たつおうまる)はまだ6歳の幼児で政務を執る年齢ではなく
今川家傍流の小鹿範満(おじかのりみつ)を当主に推す声があった。
家督問題によって、今川家臣団は龍王丸派と範満派に分裂してしまったのである。
これを見事に仲裁したのが伊勢新九郎長氏(いせしんくろうながうじ)。
新九郎は、龍王丸の母で義忠の未亡人である北川殿の兄にあたる人物で
その縁により今川家へ寄宿する身の上だったが、
「龍王丸が元服するまでの間、範満が当主を代行する」という案で解決に導いた。
こうして頭角を現した新九郎は今川家中で実力を付けていく。
その後、龍王丸が成人する時期に至っても当主の座を譲らず、
今川家乗っ取りを企むようになった範満に対し
新九郎と龍王丸は共同で武断の措置を取り、小鹿一族を攻め滅ぼした。
斯くして龍王丸は今川の家督を継承し今川氏親(うじちか)と名乗るようになり
第一の功労者である新九郎には富士下方12郷が与えられたのでござった。
これが1487年、新九郎が富士下方を治める為に興国寺城主となった経緯の記録であり、
それはそのまま興国寺城が歴史上の文献に登場する最初の記録にもなった。
新九郎の名で登場する智謀の士こそ、後の北条早雲その人でござる。
戦国大名・北条早雲によって、興国寺城が一躍注目を浴びるようになったのだ。
北条氏はその後、伊豆・相模(神奈川県南西部)・武蔵(神奈川県東部と東京都・埼玉県)への
拡大政策に邁進。早雲の孫で北条氏3代目当主である氏康(うじやす)は、
河越夜戦で関東諸勢力と一大決戦に挑み
この時、興国寺城周辺の北条氏駿河領は今川氏へと割譲される。
(河越夜戦については川越城の頁を参照の事)
再び今川家の領土となった興国寺城は、今川・北条の境界を守る城として重視され
1549年(天文18年)当時の当主・今川義元によって拡大改修の工事が為された。
その義元は1560年(永禄3年)に桶狭間合戦で不慮の死を遂げ、
一気に今川家は弱体化。この情勢に対応し、駿河国へと侵攻の兵を差し向けたのが
甲斐国(現在の山梨県)に覇を唱えた武田信玄でござる。
元来、武田・北条・今川の間には三国同盟が結ばれており相互不可侵の関係にあったが
義元の死後に今川家を継いだ氏真(うじざね)には当主の器量乏しく、
これに衝け込んだ信玄が同盟を破って今川領への侵略を開始したのだ。
こうなると北条も黙ってはいない。今川家救援の名目で駿河へ出兵、
武田軍と対決しながら駿河領での進駐を行い、結果として興国寺城は
またもや北条家の領有するところとなり、今川家は敢え無く滅亡した。
これが1568年(永禄11年)から1569年(永禄12年)にかけての事で、
しばらくは北条氏と武田氏の間に危機的状況が続く。
しかし、関東と甲信の2大勢力が互いに対立する事は両者共に利益が少なく
1571年(元亀2年)、武田・北条間に和議が成立したのでござった。
この同盟の約定により、興国寺城は武田方へと割譲されたようだ。
以後武田氏の領有が続いたが、1582年(天正10年)に武田氏は滅亡
今度は徳川氏の領土となった。その徳川氏も1590年(天正18年)、
豊臣秀吉の全国統一に伴い、江戸への領地替えとなって駿河を去り
新たな興国寺城主となったのは川毛重次でござった。
重次は秀吉直臣である中村一氏の配下武将。中村氏の治世は10年余続いた。
1600年(慶長5年)9月15日の関ヶ原合戦によって、天下の主となったのは
かつて駿河を治めていた徳川家康。家康の大名仕置により
1601年(慶長6年)、一氏は伯耆国米子(鳥取県米子市)へ移動。
駿河国はまたもや徳川氏の直轄領とされ、興国寺城の城主には
1万石を以って天野康景が任じられたのでござる。
康景城主時代にも興国寺城は改修工事が行われ、上記の天守台は
この時の造営と見られている。この天守台は最下層部南面のみ石垣組みとなっていて
いわゆる「腰巻石垣」の形態を取っているが、興国寺城周辺の他城に
石垣が用いられている例はなく、この城が特に重要視された事の証であろう。
天守台には東西2棟の建物が建てられていた事が
1982年(昭和57年)の発掘調査により確認されている。
ところが数年後、康景は騒動に巻き込まれる。
駿河代官・井出正次と康景の家臣との間に訴訟が発生し、
採決の結果、康景の家臣が責任を問われる事になったのだ。
これに対し、家臣をかばおうとした康景は自ら逐電してしまった。
城主を失った興国寺城は1607年(慶長12年)に廃城となり申した。
現在、興国寺城跡地は元の山林に戻り、城跡を分断するように
東名高速道路と東海道新幹線が東西に横切っている。
しかし主郭部となる本丸・二ノ丸・三ノ丸や天守台などは手付かずで残され
数次に渡る発掘調査が繰り返されてきた。その保存状態は比較的良好で
1995年(平成7年)3月17日に国の史跡と指定され、2000年(平成12年)3月7日に
追指定を受けている。しかし、史跡公園等の整備は為されていないため
一般の人が立ち入っても「タダの山?」という印象しか受けないであろう。
駐車場なども用意されておらず、周辺の道路も狭く立ち入るのは困難なため
行楽や散策に向いた城跡とは言えない。むしろ、中世城郭の遺構を研究する
城郭愛好家にこそオススメしたい場所でござろう。
軽装でも登城する事が出来る上、曲輪や堀・土塁などの設備が存分に楽しめる。
写真は興国寺城跡の標柱と北条早雲の顕彰碑。
やはり、当城と北条早雲は切っても切れない組み合わせであるようだ。
この後ろに写っている土塁を上がった所が本丸跡となっている。
現存する遺構
堀・土塁・石垣・郭群
城域内は国指定史跡
久能城
泉頭城・三枚橋(沼津)城・長浜城