山岳寺院が城砦へ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
徳川家康を奉る霊廟として有名な久能山東照宮。神域である久能山は、戦国時代においては駿府沿岸を
防衛する城砦・久能城(久能山城)であった。駿河湾の海底隆起と侵食作用でつくられたと推定されるこの
山は、西暦600年頃(推古天皇期)に秦氏(古代大和王権に仕えた渡来人一族)の末裔とされる久能忠仁
(くのうただひと)が観音菩薩を安置した補陀落山(ほだらくさん)久能寺として開山したのである。久能寺は
平安初期に天台宗、後に真言宗に属し、以来数百年に渡り寺坊330を数える大規模寺院として隆盛したが
鎌倉時代中期の嘉禄年間(1225年〜1227年)に大火が起こり、悉く焼失してしまった。それでも断崖絶壁に
囲まれた地形は山岳道場として使われ続けた中で、南北朝の争乱期を迎える。鎌倉幕府の倒幕に始まり、
南朝と北朝の分裂、更に足利幕府の中で起きた権力闘争「観応の擾乱(かんのうのじょうらん)」が発生し、
足利左兵衛督直義(尊氏の弟)に与する入江駿河守が中野(中賀野とも)掃部助らと共に立て籠もり、尊氏
方の駿河守護・今川勢に抗したと言われている。これが久能山を「城として」用いた初見のようで、遡れば
1336年(延元元年/建武3年)上記の入江駿河守が“築城した”とする説もあるが、いずれにせよ当時はまだ
険峻の地にある「山寺」を防御施設として転用した程度のものだろう。なお、入江氏は駿河国有渡(うど)郡
入江村(静岡県静岡市清水区入江)を本拠とする豪族で、足利幕府つまり中央政権から駿河守護に派遣
されて駿府へ(西から)やって来た今川氏を東から攻撃する対立関係にあった事になる。■■■■■■■
今川家と久能山■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかし南朝が衰退し室町体制が盤石なものになると、駿河国は今川氏が統治。今川氏は将軍位継承権を
持ち、近隣の遠江や三河をも勢力圏に広げていったが、それだけに今川家の権力争奪戦は熾烈なものが
あった。時に同族間で戦い、或いは家督争いも多く、今川氏10代当主・上総介氏輝(うじてる)が早世すると
彼の2人の弟、梅岳承芳(ばいがくしょうほう)と玄広恵探(げんこうえたん)が次期当主の座を争う事になる。
1536年(天文5年)に起きたこの戦いを「花倉(はなぐら、花蔵とも)の乱」と言うが、この時に駿府を占拠した
承芳に対し、恵探を推す福島(くしま)氏らが久能城で5月25日に旗揚げし大規模な戦闘が始まったとされて
いる。この戦いは他国の大名も巻き込む大規模な合戦となったが、結果として恵探は敗れ自刃。福島勢も
敗退して久能城へ退き、後に逃亡したとされている。このように久能山は「駿府の喉元に刺さった刃」として
機能していた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
家督争いを征し11代当主となった梅岳承芳あらため今川治部大輔義元は、それを糧として権力集中化に
成功、遂には“海道一の弓取り”とまで呼ばれ今川家の最盛期を現出させた。駿河、遠江のみならず隣国・
三河までも併呑した義元は、その矛先を尾張へ向けたが1560年(永禄3年)5月19日に桶狭間合戦で織田
上総介信長の奇襲を受け戦死してしまう。この敗戦が契機で今川家は急速に没落。義元の子・刑部大輔
氏真(うじざね)は国主の器でなく、遂に1568年(永禄11年)甲斐の武田信玄に駿河を追放された。■■■
もともと、今川家と武田家それに相模の後北条家は三国同盟を結び、三つ巴の牽制を効かせて相互安全
保障を成り立たせていたが、今川の弱体化に付け込んだ信玄は一方的に破約したのだ。この行いに対し
相模の北条左京大夫氏康が信玄の駿河侵攻を猛烈に非難、武田氏と後北条氏は一触即発の厳戒態勢に
入った。信玄は後北条氏との戦闘に備えて駿河の防衛を固める事とし、この一環で久能山にも城を構えた。
武田家により「久能城」へ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1568年、信玄はそれまで山頂部にあった久能寺を北矢部の地(現在の静岡県静岡市清水区村松)へ移し、
今は臨済宗補陀落山鉄舟寺となっている。そして久能山は完全に城塞化させて、家臣の今福浄閑斎友清
(いまふくともきよ)・丹波守虎孝(とらたか、友清嫡男)・筑前守昌和(まさかず、友清の2男)父子に守備を
命じた。久能山は駿府南東を守る関門であるから、今川時代も折に触れ要所となっていた訳だが、さすが
信玄はその有用性を見抜き、本格的な城郭としたのである。これが「久能城」として正式な築城とされたが
駿府の町は北に賤機山(しずはたやま)城、西に丸子(まりこ)城、南に持舟(用宗)城(いずれも静岡市内)
そして東の久能城と、四方を守る城塞群を整えさせた事になる。また、武田家は後に駿府ではなく海運に
直接関与できる江尻城(静岡県静岡市清水区)を駿河統治の本拠に変更するが、持舟城と江尻城は武田
水軍の根拠地であり、その2つの城と駿河湾、果ては西伊豆までの眺望が利く久能城は山城でありながら
これら武田水軍の統括を行う“司令塔”として機能したと言う。久能城は山にある海城だったのだ。駿河湾や
伊豆沿岸の監視と言う存在意義は、東の後北条氏に対する備えとして不可欠な存在でござった。■■■■
さらに時代は移り1582年(天正10年)に武田氏が滅亡すると、駿河国は徳川家康が領有するようになる。
この時、今福浄閑斎や昌和は既に亡く、独り久能城を守っていた虎孝は家康に城を明け渡した後に息子の
善十郎と共に自刃している。家康は1583年(天正11年)久能城を久松松平源三郎勝俊(後に康俊と改名)に
守らせたが、この勝俊は家康の同母弟であり、この城は信を置ける一族に託す必要があった“要衝”である
事を物語っている。ただ、勝俊は1586年(天正14年)4月2日(3日とも)久能城で没してしまう。35歳の若さで
あり、この城のその後も詳らかではない。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1590年(天正18年)豊臣秀吉が全国統一した事で家康は東海地方から関東地方へ移される。駿府は豊臣
家臣の中村式部少輔一氏(かずうじ)が領する事となり、久能城は一氏配下の松下吉綱が城主になった。
しかし秀吉が没し、関ヶ原合戦後に天下の実権を家康が握ると中村家は伯耆国米子(鳥取県米子市)17万
5000石の大封を得て領地替えとなり、駿河は再び家康の領地となっている。然るに1606年(慶長11年)12月
榊原七郎右衛門清政(徳川四天王の1人・榊原式部大輔康政の兄)が久能城主を拝命し、彼が翌1607年
(慶長12年)5月2日に亡くなるとその3男・内記清久が継承。久能榊原家の所領は有渡郡1800石であった。
城砦から徳川家康霊廟へ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、征夷大将軍に任じられ幕府を開いた家康は早々に将軍職を子の秀忠へ譲り、将軍が徳川家の世襲と
なる事を世に示した。こうして大坂に健在な豊臣家や西国大名に対して天下の道筋を定めたが、大御所と
なった家康は駿府城(静岡県静岡市葵区)でなお政務を摂り、遂に豊臣家を滅ぼし戦国時代を終わらせた。
その翌年の1616年(元和2年)4月17日、自らの使命を全うしたかの如く徳川家康が薨去。彼の遺言により
久能山に東照宮が建立され、久能城は廃城となった。以来、東照大権現を祭る聖地として現在に至る。■
神域には拝殿・唐門・鼓楼・神楽殿・楼門などの国宝・重要文化財が並び、1159段もある石段で山を登る他
日本平からのロープウェイでも参拝できるように整備されているが、神社となった事で残存する久能城関連
遺構は少ない。言ってみれば東照宮境内そのものが城域なので、現状でこうした東照宮社殿が並ぶ一帯が
本丸、ロープウェイの駅がある近辺が二ノ丸、石段を登り切った所にある総門が大手門で、反対に社殿の
奥に一段高くそびえる愛宕神社の祠が愛宕曲輪(物見か?)となる訳だが、当然ながら改変が大きい上に
神域警備の関係上、おいそれとは立ち入れないので隠れた遺構を探すのも難しかろう。そんな中で唯一の
“目に見える遺構”とも言えるのが写真の勘介(勘助)井戸だ。久能山は城の生命線と言える水の手が確保
された山であり、武田氏の築城時に信玄の軍師であった山本勘助晴幸が掘ったと伝承される。勘助は武田
二十四将に数えられる名将で有名だが、その素性は謎が多く、単なる軍師ではない築城技術者説、忍者説、
足軽大将説、などがある。武田氏への仕官前は素浪人として諸国を放浪し、兵略を極めたと言われる一方、
近年までは存在そのものを疑う架空人物という話もあって、どれも確証がない。ここ数年で彼の名を記した
古文書が発見され、存在自体は認められるようになった。武田の軍記「甲陽軍鑑」に登場し、上杉謙信との
川中島合戦(第4次)でキツツキ戦法を進言して討死したという逸話は有名なので、知名度は抜群だろう。■
ただ、川中島合戦で戦死したのならば久能城の築城には関与する筈も無い(築城は戦死後なので)のだが
古文書の中には川中島以後に発給されたものもあり、だとすれば勘助は生きていた…?やはり謎である。
徳川家康の“真の狙い”?■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
久能城を“築いた?”山本勘助に対して、久能城の“最後の城主”榊原清久についても一言。久能山が東照
大権現を祀る神域(当初は久能山東照社)になると、清久は幕府旗本にしてその祭祀を務める事となった。
また、その折に夢枕で家康のお告げを受けたとかで照久に改名している。照の字は東照大権現に肖った
ものだろう。斯くして榊原清久あらため榊原照久の家系は幕臣でありつつ久能山東照宮の“門番”職として
久能山を守った。ある意味、明治まで“城主”であり続けた訳だ。家康は生前から「久能城は駿府城の本丸」
即ち、駿府を真に防衛するには久能山が不可欠と考えていたそうだが、そこを神域(墓所)に遺命したのは
この城を征夷大将軍の社として占有し、他の誰にも渡さないという戦略眼があっての事か。家康の亡骸は
「久能山に収め、一周忌を過ぎれば日光に小さき堂を建てて祀れ、さすれば神となって関八州を守ろう」の
遺言によりそのように改葬され、結果として日光東照宮は世界遺産になっている訳だが、「まず久能山」と
言うのが「家康の死によって懸念される動乱」に備えた“喫緊の要地確保”だったのかもしれない。久能山の
標高は218.1m(愛宕神社の海抜)。これがそのまま比高差なのだから、険峻な要衝なのは間違いない。■■
山岳寺院に始まり、城砦化、そして東照宮と続くこの山の歴史には重大な価値があるとして、久能山自体が
1959年(昭和34年)6月17日、国の史跡に指定され申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
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