駿河国 久能城

久能城 勘介井戸

所在地:静岡県静岡市駿河区根古屋

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★■■■■
公園整備度:★★★★



徳川家康を奉る霊廟として有名な久能山東照宮。
神域である久能山は、戦国時代においては静岡沿岸を防衛する城砦であった。
駿河湾の海底隆起と侵食作用でつくられたと推定される当地は
600年頃(推古天皇期)に久能忠仁(くのうただひと)が観音菩薩を安置した
補陀落山(ほだらくさん)久能寺として開山したのでござる。
以来数百年に渡り寺坊330を数える大規模な寺院として隆盛したが
鎌倉時代中期の嘉禄年間に大火が起こりことごとく消失してしまった。
室町時代に入ると、駿河国は今川氏が統治。今川氏は将軍位継承権を持ち
近隣の遠江や三河をも勢力圏に広げていったが
桶狭間合戦で当主今川義元が織田信長に討たれると急速に没落。
義元の子である今川氏真(いまがわうじざね)は国主の器でなく
遂に1568年(永禄11年)甲斐の武田信玄に駿河を追放された。
これに対して相模国の北条氏康が信玄の駿河侵攻を猛烈に非難、
武田氏と後北条氏は一触即発の厳戒態勢に入った。
信玄は後北条氏との戦闘に備えて駿河の防衛を固めることとし、
この一環で久能山にも城を構えたのでござった。
久能寺は北矢部(清水市)へ移転され、現在は鉄舟寺となっている。
さらに時代は移り1582年(天正10年)に武田氏が滅亡すると
駿河国は徳川家康が領有するようになる。
豊臣秀吉の全国統一で一時徳川氏の領有を外れるが
江戸幕府の開闢により駿河国は徳川直轄の地となった。
1616年(元和2年)4月17日、徳川家康が薨去。
その遺言によって久能山に東照宮が建立され久能城は廃城となった。
以来、東照大権現を祭る聖地として現在に至っている。
神域には拝殿・唐門・鼓楼・神楽殿・楼門などの重要文化財が並び
1159段もある石段を登るほか、日本平からのロープウェイでも
参拝できるように整備されているが、久能城関連の遺構は少ない。
唯一の遺構とも言えるのが写真の勘介(勘助)井戸。
武田氏の築城時、信玄の軍師であった山本勘助晴幸が掘ったとされる。
勘助は武田二十四将に数えられる名将で有名だが、その素性は謎が多く
単なる軍師ではない築城技術者説、忍者説、足軽大将説、などがある。
武田氏への仕官前は素浪人として諸国を放浪し、兵略を極めたと言われるが
存在そのものを疑う架空人物という話もあり、どれも確証がない。
武田史書「甲陽軍鑑」に登場し、久能城の井戸を掘り、
上杉謙信との川中島合戦(第4次)でキツツキ戦法を進言して
討死したという逸話は有名なのだが…?


現存する遺構

井戸跡
東照宮神域内は国指定史跡




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