伊豆国 山中城

山中城障子堀跡

所在地:静岡県三島市山中新田
■■■■*静岡県田方郡函南町桑原

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★★★★
公園整備度:★★★★



国道1号線を下り、箱根峠を越えた最初の集落が三島市の山中新田。
戦国時代、この集落のあった場所が山中城跡でござる。
つまり当時の山中城は東海道を城内に取り込む形で成立し、
街道を抜ける者は必ず城内を通過しなければならない構造となっていた。
築城時期は明らかでないが、出土遺物から永禄年間(1558年〜1570年)
北条氏康の命によるものと推定される。後北条氏の本拠である
小田原城を防衛する支城群のひとつとして築城された山中城、
特に豊臣秀吉との対決が決定的となった1587年(天正15年)以降は
後北条領最西端の城として大改修が施されたのでござった。
秀吉軍侵攻路の最前線となることが予想された為である。
斯くして1590年(天正18年)秀吉が後北条氏を討伐するべく東征を始めると
その予想通りにこの城が最初の戦地となった。街道を取り込む山中城は堅固で
主郭(本丸)・二ノ丸・三ノ丸が梯郭式に南方へと並び、二ノ丸の西へは
元西櫓・西ノ丸・西櫓(これらはいずれも馬出的な機能を有する)と呼ばれる
曲輪群が連結。主郭の最高所には天守と呼ばれる大櫓が建てられていた。
その一方、三ノ丸の先から南西方面へと伸びる岱崎(たいざき)出丸は、
一直線に細長い曲輪となっており、西から城内へと導入される東海道を
側面射撃する為の長大な射撃陣地として構えられていた。これらの
曲輪は後北条氏が得意とする築城法である畝堀・障子堀で区切られ
横矢掛かりとなる屈曲や敵兵を誘引する罠が随所に見受けられる。
また、城内の各所に水利を確保する溜池が用意されており
まさに“実戦本意”の城郭であると言えよう。戦国大名の居城を除けば
「山城」として分類される城郭で日本最大級の規模を持っていた。
なおも後北条氏は秀吉軍の襲撃に備え、主郭の裏手を固める北ノ丸や
岱崎出丸の最先端部である擂鉢曲輪の工事を急いだが、この最中に開戦。
3月29日、城将・北条氏勝や松田康長、間宮康俊らが守るおよそ4000の兵に対し
寄せ来る攻城軍は3万5000(一説に拠れば7万とも)。約10倍の兵の猛攻は
さしもの山中城を蹂躙し、早朝の戦闘開始からわずか数時間で落城してしまう。
この時の戦況は戦国の無骨者として知られる渡辺勘兵衛こと渡辺了(さとる)が
記した「水庵(すいあん)覚書」(水庵とは勘兵衛の号)に詳しい。
東海道を駆け上がってきた豊臣軍は中村一氏・山内一豊・一柳直末
(ひとつやなぎなおすえ)らの軍が岱崎出丸からの正面突破を図り
猛攻を仕掛けた。この中に渡辺勘兵衛もおり、城側からの痛烈な火力攻撃に
かなり難渋していたと記録されている。こうした最中、何と一柳直末が銃撃を受け
戦死してしまう。直末は美濃国(現在の岐阜県南部)に6万石もの封を得ていた
大名であり、指揮官クラスの人物が戦死するという事は非常に稀有な事例と言える。
一柳隊の残余を渡辺勘兵衛が再編してようやく岱崎出丸への突入を果たした頃、
同時に攻めかかっていた徳川家康隊(前線指揮を執っていたのは榊原康政ら)が
西櫓方面からの攻略を成功させる。元来、山中城は岱崎出丸と西櫓が2正面の突端となり
例えば岱崎出丸に敵が来た場合、西櫓から逆襲部隊が出撃し敵の裏を取り
逆に西櫓へと攻め込まれた時には岱崎出丸から反撃する構造になっていたが
物量に物を言わせた秀吉は、岱崎出丸へと中村・山内・一柳隊をぶつけ
西櫓へは徳川隊を向かわせ、同時包囲攻撃を敢行したのでござる。
西櫓が陥落し、岱崎出丸へも敵兵が侵入したのを見て、城側副官の松田康長は
主将である北条氏勝を城から脱出させた。それと言うのも、氏勝は
玉縄城(神奈川県鎌倉市)主として玉縄衆(後北条氏の方面部隊)を率いる
任に在った人物であり、緒戦である山中城会戦で死なせる訳にはいかなかったからだ。
この為、止むを得ず氏勝は城を落ち延びたが、その結果として大将不在となった
山中城兵は一気に戦意を喪失し、この後すぐに落城の憂き目を見た。
こうした経緯により、山中城は半日ほどで敗北の悲運を迎えてしまったが
これは秀吉が(非常識なほどの)大兵力を動員し、火器を多用した結果であり
むしろ城兵の奮闘は目覚しかったと評価して良いほどである。何より、
一柳直末の戦死がその激闘ぶりを証明していると言え申そう。
小田原役後、山中城は廃城。江戸時代に町場として山中新田の集落が作られたが
主郭跡・北ノ丸跡・岱崎出丸跡などは手付かずのまま残されていた。
このため城址は1934年(昭和9年)1月22日に国の史跡に指定され、
戦国時代の山城を知る遺構として1973年(昭和48年)の公園整備以来現在まで
数度の発掘調査が行なわれている。これによって畝堀・障子堀の形態や
橋・門・土塁・柵・土橋の跡が検出され、山中城の全容が明らかとなりつつある。
出土品には生活用具である陶磁器、建築部材や銭貨と共に数多くの鉄砲弾や
鎧兜の破片が含まれており、激しい戦闘が行なわれた事を物語っている。
1979年(昭和54年)3月20日、国の史跡範囲が追加指定され、
現在は史跡公園として生まれ変わった山中城跡。よく整備された緑地公園であり
箱根山中における貴重な歴史遺産でもあるためオススメの観光地。
2006年(平成18年)には日本百名城の一つに数えられてござる。
のんびりと散歩をするもよし、戦国の昔に思いを馳せるのもよし…。
なお、山中集落の中にある宗閑寺の境内には、戦死した一柳直末(攻城側)と
松田康長・間宮康俊(守城側)が並んで葬られている。


現存する遺構

井戸跡・堀・土塁・郭群等
城域内は国指定史跡







駿河国 
長久保城

長久保城址石碑

所在地:静岡県駿東郡長泉町下長窪

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★■■■■
公園整備度:☆■■■■



長窪城とも。駿河国最東部、相模国との国境に程近い場所にある城で
黄瀬川と桃沢川に挟まれた台地を利用した立地でござる。
遡れば鎌倉時代初期、竹之下孫八左衛門頼忠(足柄の豪族)が構えた
砦であるという説があるが判然としない。室町時代になると当地を領した
長久保(ながくぼ)氏が城を構えたとされており、これがこの城の創建と見られる。
大友親頼(室町時代の御家人、豊後大友氏と祖は同じ)の3男・親政が
1439年(永享11年)に今川家(駿河国大名)に仕えた際、所領として
駿河国駿東郡長久保を与えられた事から長久保の姓を名乗り始めたのが
長久保氏の起こりでござる。また、別の説では1482年(文明14年)
近隣の土豪・葛山(かずらやま)氏が沼津方面への進出拠点として
この長久保城を活用したとも言われる。葛山氏もまた、この当時実質的に
今川家の配下として動いており(元来、葛山氏はは幕府奉公衆として独立氏族)
いずれにせよ、これらの説から分かるように長久保城が戦国城郭として
成立したのは、今川家の支配下においての話であろう。
ところがこの後、伊豆国を拠点として伊勢新九郎(北条早雲)が
今川家から独立。早雲を始祖とする後北条氏は、相模国進出を果たし
小田原城を拠点に構え、瞬く間に領土を拡張していく。この過程において
北条氏綱(早雲の子、後北条氏2代当主)は今川家被官の立場を脱し
対今川の橋頭堡を駿河国内に求めた。その狙いとなったのが長久保城だ。
故にこの時期、後北条氏と今川氏が長久保城を巡って数回の争奪戦を
行ったのだろう。斯くして1537年(天文6年)長久保城は後北条氏の手に落ちた。
長久保城はこれにより、一応は後北条氏の城郭として組み込まれたようだが
今川家と後北条家は険悪な関係を継続していってしまう。
この状況に変化が訪れたのは1545年(天文14年)の事。既に北条氏綱は亡く
3代目・氏康が家督を相続していた。先代・氏綱からの因縁を払拭すべく
今川家当主・義元は山内(やまのうち)・扇谷(おうぎがやつ)両上杉氏から
提案された共同戦線に参加。武蔵国や上野国に勢力を張る上杉氏は
相模国から北進し続ける後北条氏を食い止めるべく、東国諸大名に
一大同盟を構築せんとしたのだ。これに基づき、まず今川軍が西から
後北条氏に圧力をかけ、長久保城を取り囲んだ。当然、氏康は対抗して
駿河方面へと兵を出す。この隙に、北から上杉氏が軍を発し、当時
後北条氏が最前線拠点としていた河越城(埼玉県川越市)を大軍で包囲する。
つまり氏康は駿河と武蔵で挟撃されたのでござる。絶体絶命の危機に
氏康はあっさりと今川家に対して和平を申し出て、長久保城を放棄した。
その上で動員可能な兵力を全て河越へと回し、夜戦で上杉軍を完膚なきまでに
叩きのめしたのでござる。この結果、関東地方における後北条氏の勢力は
圧倒的なものとなった。また、長久保城は失ったものの今川家との関係は好転。
西からの脅威は減じ、後に甲斐武田氏をも含めた甲相駿三国同盟の締結に至った。
さて、長久保城は再び今川家のものとなり、義元は天文年間(1532年〜1555年)中に
城の大改修を行ったとされる。以後しばらくは今川家の持ち城となった。
ところが義元は1560年(永禄3年)5月、桶狭間合戦にて落命。跡を継いだ
嫡男・氏真は文弱の将で、駿遠に渡る大国を維持できる器量には無かった為
今川家は一気に衰退する。信濃に領土を広げた後、上杉謙信の抵抗を受け
北伐の可能性に限界を感じていた武田信玄は、この状況を見て南下政策に転換。
1568年(永禄11年)12月、甲相駿三国同盟を一方的に破った信玄は
怒涛の勢いで駿河国を占領する。このため、今川家は所領を失い
氏真はもう1人の同盟者・北条氏康の下へと逃亡した。これを受けた氏康は
武田家との断交に及び、今川家援助の大義を掲げて武田軍と対決する。
この状況に於いて、駿河国内への侵攻路を確保するべく後北条氏は
再び長久保城を手に入れたのでござる。武田軍と後北条軍は
翌1569年(永禄12年)にかけて激突を繰り返したが、他に北関東で敵を抱える
後北条氏は武田との対戦を長期化させる訳にいかず、武田氏もまた
来たるべき西上作戦の展望を考えれば、東側の後北条といたずらに
抗争し続けるつもりは無かった。ここに、両者の対戦は政治的決着を見て
後北条軍は駿河から撤収、長久保城は武田氏のものとなる。
武田軍は東方の押さえとなる長久保城を最重視し、改修工事を行った。
が、信玄は上洛の夢を果たせぬまま病没。跡を継いだ勝頼は強硬な
領土拡大策を採るが、これが裏目に出て織田・徳川連合軍に西から圧迫される。
その結果、1582年(天正10年)3月に武田氏は滅亡。同年6月には
織田信長も本能寺に斃れた為、武田氏の版図はそのまま徳川家康のものとなった。
斯くして、長久保城には家康の家臣・松平家忠が配される。さらに1584年
(天正12年)同じく家康家臣の牧野康成が城主に任じられた。家忠や
康成もまた、城に手を加えたらしく、武田・徳川両氏による改修工事によって
長久保城は対後北条氏最前線の城郭として巨大な偉容を誇るようになり申した。
その規模は東西550m×南北470mの敷地を有し、比高15m〜25mの丘陵台地が
上手く活用された縄張り。黄瀬川を背後にした最深部にT郭(本丸)を置き、
その北西側へU郭・V郭を梯郭式に配している。T郭やU郭の出入口は
武田氏や戦国期徳川氏が多用した丸馬出で固められていた。一方、
T郭・U郭の南西側は八幡曲輪と南曲輪で防備。これまた、八幡曲輪の外縁には
三日月堀を穿った半円形の曲輪(丸馬出状の堡塁)が置かれており、南端から
南曲輪〜八幡曲輪の半円形堡塁〜V郭南西縁部と続く外郭防御線は
そのまま、桃沢川の崖に面していた。その反対側、城の北東面は陸続きであるが
こちらには巨大な堀を掘削して敵の侵入を阻むようになっている。
台地から一段降りた平地面、城の南端部には根小屋地区が設けられ、
城に在番する武士の居住地としてあてがわれていたようでござる。
広大な敷地、そこに加えられた人工的造成により長久保城は東駿地方における
最大級の城郭であった事が想像できる。1589年(天正17年)駿河国で
大地震が発生した際、長久保城にあった城門に被害が生じた記録があるが
この門は2階櫓の櫓門であったとの事。近世城郭成立以前、中世城郭の
時代において2階櫓門が構えられていたとは、この城が火器戦闘を考慮した
重防備の城として発達していた事を物語ってござる。
1590年、天下統一に王手をかけた豊臣秀吉は後北条氏を
最後の敵と定め、全国の諸大名を動員して小田原征伐を行う。
この時、長久保城は後北条領に隣接する徳川領東端の城として重視され
東へと向かう秀吉を迎え入れる大役を果たした。天下人の宿館として
用いられた事も、この城が如何に立派なものであったかを窺わせよう。
同年、秀吉により徳川氏が関東へ移封された後には
駿府城主となった中村一氏の持ち城とされ、沼津三枚橋城代・中村一栄が
長久保城を預かった。しかしそれも長く続かず、関ヶ原合戦により
天下が徳川家康のものになった1600年(慶長5年)中村氏は
伯耆国米子(鳥取県米子市)へ移された為、長久保城は廃城になった。
(1604年(慶長9年)に廃城との説もある)
以来300有余年、風雪に晒された城跡であったが昭和期の宅地造成や
新幹線建設における採土工事、学校建設、国道246号線バイパス設置により
その大半が消滅してしまった。1974年(昭和49年)バイパス工事に先立つ
緊急発掘調査が行われ、新旧2種類の畝堀や柵・門・石敷・通路・溝址・
雛段状遺構・6棟以上の掘立柱建造物の遺構が検出され申した。また、
遺物として陶磁類・燈明皿・砥石・硯・水滴といった生活器具や
釘・締金具・金箔片・鉄片・小柄・鏃・古銭などの金属器、銃弾等が出土。
このうち注目すべきは畝堀の存在であろう。畝堀は小田原後北条氏が
多用した城郭構造物であり、この城が確実に後北条氏の改修を受けていた事を
物語る。畝は一部、水門として活用された痕跡も証明されている。
その一方、出土した陶磁器類のほぼ全てが16世紀前半の美濃大窯産で
1600年まで用いられたと言う伝承との差異が浮き彫りになっている。
この城もまた、杉山城問題(杉山城(埼玉県)の頁を参照の事)のような
使用年代相違に該当する城なのかもしれない。
現状、城の敷地として残るのは八幡曲輪跡と目される城山神社境内のみ。
T郭・U郭は巨大商業施設(某玩具店)とその駐車場、V郭は工場や小学校、
U郭とV郭を隔てた空堀が国道246号線になっているため、遺構は壊滅。
城山神社の敷地にのみ、僅かな土塁や雛壇状の土段が見受けられる。
この土塁は残存部の高さで2mを数え、かなり分厚いもの。恐らく往時は
もっと巨大な構造物であった事が想像できよう。ここに鎮座する神社は
誉田別命・建御名方命・鳴沢比売神を祭神とし、古くは八幡社と呼ばれていたが
後に城山神社と改称された。八幡社創建の経緯は明らかではない。


現存する遺構

土塁・郭群







駿河国 
葛山氏館

葛山氏館跡

所在地:静岡県裾野市葛山

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:★★★■■
公園整備度:★■■■■



長久保城の項で登場した、葛山氏の居館址。
藤原北家(伊周系)の末裔である惟兼(これかね)が葛山に根付き
葛山の姓を名乗り、これが葛山氏の始祖とされている。なお、
惟兼の甥である親家は大森の地に住んだ事から大森氏を興している。
後北条氏の台頭以前、小田原城を有していたあの大森氏でござる。
よって、葛山氏と大森氏は同族である。葛山一族は鎌倉幕府で
有力御家人に数えられ、室町期には幕府奉公衆の一員に任じられ
駿河東部の在地領主として勢力を築いた。一方、大森氏は
上杉氏(室町職制における関東管領、東国掌管の重職)配下の
有力氏族として小田原城に入り、相模西部の守りを固めた。
葛山氏が駿河東端、大森氏が相模西端を預かる事で
室町時代初期は勢力の均衡が図られていたのでござる。
さて、こうした時代変遷の中で葛山氏館が築かれた訳だが
古い説では鎌倉時代(13世紀頃?)と言われ、中世武家居館らしく
東西南北それぞれ100m四方の敷地を有し、確かに典型的な
単郭方形館の様相を呈している。しかし、土塁の規模や
館敷地周囲を囲むように掘られた堀の形態はもっと時代が下るもので
おそらく室町時代後期、戦国の乱世が最も激しくなった頃だと
思われる。つまり、鎌倉期に構えられた単郭方形館を基本としつつ
時代に応じて改変を続けたのが葛山氏館の経歴だと言えよう。
ちなみに、館の北方およそ500mの位置にある山は葛山城址であり
戦国時代、葛山氏館の“詰めの城”として用いられていた。
即ち、葛山氏館と葛山城は一体不可分のものであり
甲斐武田氏の本拠であった躑躅ヶ崎館と要害山城の組み合わせ同様に
平時の館と戦時の山城を使い分ける状況にあったようだ。
背後に控える葛山城の存在からも、葛山氏館が鎌倉期に始まり
戦国時代まで改修利用され続けた事が立証できると言えよう。
そんな葛山氏の動向、そして館の戦歴は甲斐武田氏や
大森氏没落後小田原城の主となった後北条氏、それに加えて
駿河国を支配する守護大名・今川氏に翻弄されていた。
室町後期、応仁の乱によって開始された戦国の世は
室町幕府の権威を崩壊させ、地方大名や豪族が独自の武威で
統治を行う時代へ向かわせた。幕府奉公衆として自立自尊を
保っていた葛山氏であったが、強大な権力を誇る今川氏に逆らえず
次第にその傘下武将として生き残るしかなくなっていた。
その今川氏に命じられ、1491年(延徳3年)当時今川氏の食客であった
伊勢新九郎(後の北条早雲)が堀越御所の足利茶々丸を攻め滅ぼす
戦いにおいて(詳しくは堀越御所の頁を参照)葛山氏は援軍を出している。
これが縁となったか、後に当主不在となった葛山氏は
早雲の3男(と言われるが詳細不明)である氏広(うじひろ)が
養子入りして家督を継いでござる(異説あり)。その結果、
葛山氏は今川氏の配下にありつつ後北条氏とも関係を持つ。
1526年(大永6年)、後北条氏2代当主にして氏広の長兄である
北条氏綱と甲斐の武田信虎が籠坂峠(甲斐・駿河国境にある峠)で
戦った際に葛山氏は後北条方として参陣しているほどだ。
1536年(天文5年)今川義元と北条氏綱が対立した時には
何と主家である今川氏に叛き、後北条側で参戦。氏広の跡を継いだ
氏元(うじもと)も、氏綱の娘を娶り後北条氏との関係を強めている。
駿河・甲斐・相模という3大国の狭間にある葛山氏は、その時その時で
対応を変える事によって生き残りを図っていた。ところが1568年
甲相駿三国同盟を破って武田信玄が駿河に侵攻。怒涛の勢いで押し寄せる
武田軍には抗せず、遂に葛山氏元は今川家を見限り武田家に服属する。
事ここに至り、後北条家との関係も断絶せざるを得なくなった葛山氏は
武田の違約に抗議して出陣してきた後北条の軍と対戦する事になり
翌1569年2月1日、後北条方として大宮城(静岡県富士宮市)に籠城する
富士兵部少輔信忠へ穴山信君(あなやまのぶきみ、武田信玄重臣)と共に
攻撃を行い、開城させ申した。この時、橋本源左衛門尉の軍功に
氏元が30貫文を与えたという記録が残る。
強大な武田氏の支配に対し、葛山氏は忠勤を尽くし
後に氏元は蒲原城(静岡県庵原郡蒲原町)攻撃でも先鋒を引き受けた。
信玄もまた、古くから続く名族である葛山氏の懐柔を図り
氏元の養子として自身の6男・信貞を送り込んだが、逆に言えば
これは武田家による葛山家乗っ取り工作とも言える。甲相駿3国の
要である駿東郡を押さえる事は、領土安泰において必須であった。
事実、氏元を隠居させた後も信貞は甲府に留まり領国入りせず、
実際に在地支配を行ったのは城代として派遣された
御宿(みしゅく)左衛門次郎友綱であった。“御宿監物”の名が有名な
友綱は、信玄の侍医としても知られている武田家の腹心でござる。
(この為、現在も葛山の隣には御宿の字(あざ)名が残る)
さらに1573年(天正元年)氏元は謀反の嫌疑をかけられ
(蒲原城攻撃の恩賞に不満があったとされる)幽閉された上、
2月末に信濃国諏訪で処刑されたと言われている。斯くして、
葛山の地は事実上武田家が直轄支配する地となり申した。
しかし、信玄没後に武田氏は急速に弱体化。西から織田信長に
攻め立てられ、1582年に武田家は滅亡する。この時、信貞も
甲斐善光寺で自害し、葛山氏は歴史上から消えたのでござる。
当然の事ながら、これを以って葛山氏館もその役目を終えている。
現状に残る遺構は、曲輪の周囲を囲う土塁が主なもの。この土塁は
基底部の幅およそ15m、平均した高さ3m〜4mもある見事なもので
一見の価値がある。加えて、土塁の北面から東面にかけての外周には
水堀が掘られていて、これまた幅が約10m程度もあったという。
(現在、北面の堀は道路によって埋め立てられてしまっている)
鎌倉武士の居館から発展した在地領主の城館遺構としては
かなり大掛かりなものであると言えよう。今川・北条・武田に翻弄された
小領主とは言え、名門たる葛山氏の権勢が垣間見える。
館の南面には大久保川が流れ、これが天然の防御構造物になっていた。
曲輪内には2つの井戸が検出されている。
曲輪の出入口は北東隅に1箇所、西面に2箇所が確認されてござる。
一説に北東の出入口が大手とも言われているが、元来この方位は
鬼門に当たるため、疑問の余地が残る。西側2箇所の出入口のうち
南側のものは食い違い虎口となっているため、むしろこれが
大手口と見るべきであろう。その西面にも幅10m程度の堀が穿たれ、
対岸には葛山氏の重臣である半田氏の屋敷があったとされる。
半田屋敷の西には更に荻田氏(同じく葛山家臣)の屋敷があり
半田屋敷・荻田屋敷もそれぞれ方形館の構造を成す。半田氏・荻田氏らは
“葛山四天王”と呼ばれていた葛山氏の柱石である。戦国大名の
城郭は往々にして城内の一曲輪を家臣屋敷として宛がう例が見受けられ
(越後上杉氏の春日山城、能登畠山氏の七尾城、近江六角氏の観音寺城など)
もし葛山氏館も半田屋敷や荻田屋敷を主郭に対する外郭と見るならば
全体構成としては東から西へと連なる連郭式城郭と想定できる。
加えて、荻田屋敷の西側にも一つ三角形の小曲輪があったと推定される上、
荻田屋敷の北西側には岡村屋敷があったとの伝承がある。
岡村屋敷は既に宅地化で完全消滅しており、半田屋敷や荻田屋敷も
農地に転用された事で旧来の遺構がどのような状況であったかが
不明確なので断定はできないが、仮にこの想定が事実だったならば
葛山氏館は、中央集権的支配体制を志向した屈強な戦国大名と
同様の権力構造を体現した大規模城館だったという事になろう。
こうした全体構造や土塁の規模から推測される技術年代を考慮すれば
この館が戦国末期まで活用された事は間違いない。
“詰めの城”である葛山城を持つ旧態性と、家臣屋敷を内包する先進性、
両極端の性格を併せ持つ葛山氏館は、今後の発掘調査や
研究成果に期待したい城館だと言え申そう。
兎にも角にも、綺麗に整備された曲輪や土塁は圧巻。
遺構の残り具合も良好であり、1973年(昭和48年)2月24日
裾野市の史跡に指定されている。


現存する遺構

井戸跡・堀・土塁・郭群
城域内は市指定史跡




韮山城・堀越御所・鎌田城  久能城