伊豆国 山中城

山中城障子堀跡

 所在地:静岡県

三島市山中新田
田方郡函南町桑原

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★★
★★★★



箱根山中、東海道を塞ぐ巨大山城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
国道1号線を下り、箱根峠を越えた最初の集落が三島市の山中新田。戦国時代、この集落のあった場所が山中城跡である。
つまり当時の山中城は東海道を城内に取り込む形で成立し、街道を抜ける者は必ず城内を通過しなければならない構造と
なっていた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
築城時期は明らかでないが、出土遺物から永禄年間(1558年〜1570年)小田原後北条氏3代目当主・北条左京大夫氏康の
命によるものと推定される。後北条氏の本拠である小田原城(神奈川県小田原市)を守る支城群のひとつとして築城された
山中城、特に豊臣秀吉との対決が決定的となった1587年(天正15年)以降は後北条領最西端の城として大改修が施された。
秀吉軍侵攻路の最前線となることが予想された為である。斯くして1590年(天正18年)秀吉が後北条氏を討伐すべく東征を
始めると、その想定通りにこの城が最初の戦地となった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
街道を取り込む山中城は広大で、主郭(本丸)・二ノ丸・三ノ丸が梯郭式に南方へと並び、二ノ丸の西へは元西櫓・西ノ丸・
西櫓(これらはいずれも馬出的な機能を有する)と呼ばれる曲輪群が連結。主郭の最高所には天守と呼ばれる大櫓が建て
られていた。その一方、三ノ丸の先から南西方面へ伸びる岱崎(だいざき)出丸は一直線に細長い曲輪となっており、西から
城内へと導入される東海道を側面射撃する為の長大な射撃陣地として構えられていた。これらの曲輪は後北条氏が得意と
する築城法である障子堀で区切られ、横矢掛かりとなる屈曲や敵兵を誘引する罠が随所に見受けられる。主郭の東端から
西櫓まで約400m、主郭東端から岱崎出丸の先端(下記にある擂鉢曲輪)では750mにもなるのだが、主郭からはそれぞれの
先端部までが見通せるようになっていて、城主(指揮官)が戦闘指揮を執り易い構造となっている。■■■■■■■■■■
本丸を最奥点(中心)として、西櫓〜西ノ丸〜元西櫓〜二ノ丸と繋がる右翼と、岱崎出丸〜三ノ丸の長大な曲輪列の左翼が
「U字形」の縄張りを作り出す山中城。この「右翼と左翼」の間に東海道が挟まれ、城を落とさねばその先へは進めない造り。
東海道以外に山越えの道が無い戦国時代の環境では、山中城という関門を突破しないと上方の軍勢が小田原城へは辿り
着かないという、後北条氏にとって「重要な防衛拠点」となる位置付けだった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
また、城内の各所に水利を確保する溜池が用意されており(この山に湧水点は無いそうである)まさに“実戦本意”の城郭で
あると言えよう。戦国大名の居城を除けば「山城」として分類される城郭で日本最大級の規模を持っていた。それに加えて
後北条氏は秀吉軍の襲撃に備え、主郭裏手を固める北ノ丸や、岱崎出丸の最先端部である擂鉢曲輪の工事を急ぎ、更に
北ノ丸の外部も曲輪として造成する計画も有していたようだ。この北ノ丸外部の敷地は「ラオシバ」と呼ばれるが、これは
「老竹干し場」が転訛した言葉だとか(三島市教委の担当者さんから伺った話)。■■■■■■■■■■■■■■■■■■

後北条氏の存亡をかけた城を、人海戦術で蹂躙した秀吉■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
兎にも角にも、城方が拡張工事を急ぐ最中に開戦。3月29日、城将・北条左衛門大夫氏勝(うじかつ)や松田兵衛大夫康長
(まつだやすなが)、間宮豊前守康俊(まみややすとし)らが守るおよそ4000の兵に対して、寄せ来る攻城軍は3万5000もの
大軍(一説に拠れば7万とも)。約10倍の兵の猛攻はさしもの山中城を蹂躙し、早朝の戦闘開始から僅か数時間で落城して
しまう。その戦況は、戦国の無骨者として知られる渡辺勘兵衛こと渡辺了(さとる)が記した「水庵(すいあん)覚書」に詳しい。
(水庵とは勘兵衛の号)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
東海道を駆け上がってきた豊臣軍は大きく二手に分かれ、主攻の中村式部少輔一氏(なかむらかずうじ)・山内対馬守一豊
(やまうちかつとよ)・一柳伊豆守直末(ひとつやなぎなおすえ)らの軍が岱崎出丸からの正面突破を図り猛攻を仕掛けた。
この中に渡辺勘兵衛もおり、城側からの痛烈な火力攻撃にかなり難渋していたと記録されている。こうした最中に、何と一柳
直末が銃撃を受け戦死してしまう。直末は美濃(現在の岐阜県南部)に6万石もの封を得ていた大名であり、指揮官クラスの
人物が戦死するという事は非常に稀有な事例と言える。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
一柳隊の残余を渡辺勘兵衛が再編しようやく岱崎出丸への突入を果たした頃、同時に攻めかかっていた助攻の徳川家康隊
(前線指揮を執っていたのは榊原式部大輔康政ら)が西櫓方面からの攻略を成功させる。元来、山中城は岱崎出丸と西櫓が
2正面の突端となり、例えば岱崎出丸に敵が来た場合は西櫓から逆襲部隊が出撃し敵の裏を取り、逆に西櫓へ攻め込まれた
時には岱崎出丸から反撃する構造になっていたが、物量に物を言わせた秀吉は岱崎出丸へと中村・山内・一柳隊をぶつけ、
西櫓へは徳川隊を向かわせ、同時包囲攻撃を敢行したのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
西櫓が陥落し、岱崎出丸へも敵兵が侵入したのを見て、城側副官の松田康長は主将である北条氏勝を城から脱出させた。
それと言うのも、氏勝は玉縄城(神奈川県鎌倉市)主として玉縄衆(後北条氏の方面部隊)を率いる任に在った人物であり、
緒戦である山中城会戦で死なせる訳にはいかなかったからだ。上記の通り、西櫓や岱崎出丸が陥落する様子は主郭から
視認できるので、氏勝を離脱させる時期は見計らえたのだろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この為、止むを得ず氏勝は城を落ち延びたが、その結果として大将不在となった山中城の兵は一気に戦意を喪失し、この後
すぐに落城の憂き目を見た。こうした経緯により、山中城は半日ほどで敗北の悲運を迎えてしまったのだが、これは秀吉が
(非常識なほどの)大兵力を動員し、火器を多用した結果であり、むしろ城兵の奮闘は目覚しかったと評価して良い程である。
何より、一柳直末の戦死がその激闘ぶりを証明していると言え申そう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

地球温暖化と城跡…の関係■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
小田原役後、山中城は廃城。江戸時代に町場として山中新田の集落が作られたものの主郭跡・北ノ丸跡・岱崎出丸跡などは
手付かずのまま残されていた。このため城址は1934年(昭和9年)1月22日に国の史跡に指定され、戦国時代の山城を知る
遺構として1973年(昭和48年)の公園整備以来現在まで数度の発掘調査が行なわれている。これによって障子堀の形態や
橋・門・土塁・柵・土橋の跡が検出され、山中城の全容が明らかとなりつつある。出土品には生活用具である陶磁器、銭貨や
建築部材と共に数多くの鉄砲弾や鎧兜の破片が含まれており、激しい戦闘が行なわれた事を物語っている。なお、曲輪の
名称に「元西櫓」と言う何とも珍妙なものがあったが、これは資料精査により「このあたりに西櫓があった筈」という推定がされ
実際にその場から櫓跡と思しき遺構が出たため「西櫓」と呼ばれる事になったが、後の発掘で実際の西櫓はもっと西にあった
事が判明した為「西櫓と呼んでいた場所」と言う意味で「元西櫓」と改称されたものだ。こうした名称変更も発掘調査の重大な
成果…と云うことでござろうか?(苦笑)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1979年(昭和54年)3月20日、国の史跡範囲が追加指定され、現在は史跡公園として生まれ変わった山中城。よく整備された
緑地公園であり、箱根山中における貴重な歴史遺産でもあるためオススメの観光地。2006年(平成18年)4月6日に財団法人
日本城郭協会から日本百名城の一つにも数えられた。のんびりと散歩をするもよし、戦国の昔に思いを馳せるのもよし…。
ただ、近年では地球温暖化に伴う異常気象により、特に豪雨災害で城内各所の法面や障子堀の土提が崩れる被害が続出。
城址を管理する三島市ではその対応に苦慮しており、ふるさと納税などの手法で財源を確保している。史跡と地球温暖化、
一見すると関係無さそうな話題だが、思わぬ所で繋がっているものだ。何とか今後も美麗な城址公園を維持して頂きたい。
なお、山中集落の中にある浄土宗東月山宗閑寺の境内には、戦死した一柳直末(攻城側)と松田康長・間宮康俊(守城側)が
並んで葬られている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

井戸跡・堀・土塁・郭群等
城域内は国指定史跡







駿河国 
長久保城

長久保城址石碑

 所在地:静岡県駿東郡長泉町下長窪

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

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後北条氏と今川氏の争奪戦■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
長窪城とも。駿河国最東部、相模国との国境に程近い場所にある城で、黄瀬川と桃沢川に挟まれた台地を利用した
立地でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
遡れば鎌倉時代初期、竹之下孫八左衛門頼忠(足柄の豪族)が構えた砦であるという説があるが判然としない。■■
室町時代になると当地を領した長久保(ながくぼ)氏が城を構えたとされており、これがこの城の創建と見られる。■■
大友神十郎親頼(おおともちかより、室町時代の御家人、豊後大友氏と祖は同じ)の3男・親政が1439年(永享11年)に
今川家(駿河国大名)に仕えた際、所領として駿河国駿東郡長久保を与えられた事で長久保の姓を名乗り始めたのが
長久保氏の起こりでござる。また、別の説では1482年(文明14年)近隣の土豪・葛山(かずらやま)氏が沼津方面への
進出拠点としてこの長久保城を活用したとも言われる。葛山氏もまた、この当時実質的に今川家の配下として動いて
おり(元来、葛山氏はは幕府奉公衆として独立氏族)いずれにせよ、これらの説から分かるように長久保城が戦国の
城郭として成立したのは、今川家の支配下においての話であろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところがこの後、伊豆国を拠点として伊勢新九郎盛時(北条早雲)が今川家から独立。早雲を始祖とする後北条氏は、
相模国進出を果たし小田原城を拠点に構え、瞬く間に領土を拡張していく。これらの過程において北条左京大夫氏綱
(早雲の子、後北条氏2代当主)は今川家被官の立場を脱し、対今川の橋頭堡を駿河国内に求めた。■■■■■■■
その狙いとなったのが長久保城だ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
故にこの時期、後北条氏と今川氏が長久保城を巡って数回の争奪戦を行ったのであろう。斯くして1537年(天文6年)、
長久保城は後北条氏の手に落ちた。長久保城はこれにより、一応は後北条氏の城郭として組み込まれたようなのだが
今川家と後北条家は険悪な関係を継続していってしまう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この状況に変化が訪れたのは1545年(天文14年)の事。既に北条氏綱は亡く、3代目・氏康が家督を相続していた。■■
先代・氏綱からの因縁を払拭すべく今川家当主・治部大輔義元は山内(やまのうち)・扇谷(おうぎがやつ)両上杉氏から
提案された共同戦線に参加。武蔵国や上野国に勢力を張る上杉氏は相模国から北進し続ける後北条氏を食い止める
べく、東国の諸大名に一大同盟を構築せんとしたのだ。これに基づいて、まず今川軍が西から後北条氏に圧力をかけ、
長久保城を取り囲んだ。当然、氏康は対抗して駿河へ兵を出す。この隙に北から上杉氏が軍を発し、当時後北条氏が
最前線拠点としていた河越城(埼玉県川越市)を大軍で包囲する。つまり氏康は駿河と武蔵で挟撃されたのでござる。
絶体絶命の危機に、氏康はあっさりと今川家に対し和平を申し出て、長久保城を放棄した。■■■■■■■■■■■
その上で動員可能な兵力を全て河越へと回し、夜戦で上杉軍を完膚なきまでに叩きのめしたのである。この結果、関東
地方における後北条氏の勢力は圧倒的なものとなった。また、長久保城は失ったものの今川家との関係は好転。■■
西からの脅威は減じ、後に甲斐武田氏をも含めた甲相駿三国同盟の締結に至った。■■■■■■■■■■■■■■

後北条氏と武田氏の争奪戦■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、長久保城は再び今川家のものとなり、義元は天文年間(1532年〜1555年)中に城の大改修を行ったとされる。
以後しばらくは今川家の持ち城となった。ところが義元は1560年(永禄3年)5月、桶狭間合戦にて落命。跡を継いだ嫡男・
上総介氏真(うじざね)は文弱の将で、駿遠に渡る大国を維持できる器量には無かったため今川家は一気に衰退する。
信濃に領土を広げた後、上杉謙信の抵抗を受け北伐の可能性に限界を感じていた武田信玄は、この状況を見て南下
政策に転換。1568年(永禄11年)12月、甲相駿三国同盟を一方的に破った徳栄軒信玄は怒涛の勢いで駿河国を占領
する。そのため今川家は所領を失い、氏真はもう1人の同盟者・北条氏康の下へと逃亡した。これを受けた氏康は武田
家との断交に及び、今川家援助の大義を掲げて武田軍と対決する。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この状況に於いて、駿河国内への侵攻路を確保するべく後北条氏は再び長久保城を手に入れたのでござる。武田軍と
後北条軍は翌1569年(永禄12年)にかけて激突を繰り返したが、他に北関東で敵を抱える後北条氏は武田との対戦を
長期化させる訳にもいかず、武田氏もまた来たるべき西上作戦の展望を考えれば、東側の後北条といたずらに抗争し
続けるつもりは無かった。ここに、両者の対戦は政治的決着を見て後北条軍は駿河から撤収、長久保城は武田氏の
ものとなる。武田軍は東方の押さえとなる長久保城を最重視し、改修工事を行った。■■■■■■■■■■■■■■■
が、信玄は上洛の夢を果たせぬまま病没。跡を継いだ武田四郎勝頼は強硬な領土拡大策を採るが、これが裏目に出て
織田・徳川連合軍に西から圧迫される。その結果、1582年(天正10年)3月に武田氏は滅亡。同年6月には織田弾正忠
信長も本能寺に斃れた為、武田氏の版図はそのまま徳川家康のものとなった。■■■■■■■■■■■■■■■■

徳川家臣による大改修を経て■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
斯くして、長久保城には家康の家臣・深溝(ふこうぞ)松平主殿助家忠が配される。さらに1584年(天正12年)同じく家康
家臣の牧野右馬允康成が城主に任じられるようになった。家忠や康成もまた城に手を加えたらしく、武田・徳川両氏に
よる改修工事によって長久保城は対後北条氏最前線の城郭として巨大な偉容を誇るようになり申した。■■■■■■
その規模は東西550m×南北470m程の敷地を有し、比高15m〜25mの丘陵台地が上手く活用された縄張り。黄瀬川を
背後にした最深部にT郭(本丸)を置いて、その北西側へU郭・V郭を梯郭式に配している。T郭やU郭の出入口は
武田氏や戦国期徳川氏が多用した丸馬出で固められていた。一方、T郭・U郭の南西側は八幡曲輪と南曲輪で防備。
これまた、八幡曲輪の外縁には三日月堀を穿った半円形の曲輪(丸馬出状の堡塁)が置かれ、南端から南曲輪〜八幡
曲輪の半円形堡塁〜V郭南西縁部と続く外郭防御線はそのまま、桃沢川の崖に面していた。■■■■■■■■■■
その反対側、城の北東面は陸続きであるがこちらには巨大な堀を掘削して敵の侵入を阻むようになっている。■■■
台地から一段降りた平地面、城の南端部には根小屋地区が設けられ、城に在番する武士の居住地として宛がわれて
いたようである。広大な敷地、そこに加えられた人工的造成により長久保城は東駿地方における最大級の城郭だった
事が想像できる。1589年(天正17年)駿河国で大地震が発生した際、長久保城にあった城門に被害が生じた記録が
あるが、この門は2階櫓の櫓門であったとの事。近世城郭成立以前、中世城郭の時代において2階櫓門が構えられて
いたとは、この城が火器戦闘を考慮した重防備の城として発達していた事を物語っていよう。■■■■■■■■■■

秀吉の宿館になった栄誉と、廃城後の荒廃■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1590年、天下統一に王手をかけた豊臣秀吉は後北条氏を最後の敵と定め、全国の諸大名を動員し小田原征伐を行う。
この時、長久保城は後北条領に隣接する徳川領東端の城として重視され、東国へと向かう秀吉を迎え入れる大役を
果たした。天下人の宿館として用いられた事も、この城が如何に立派なものであったかを窺わせよう。■■■■■■■
同年、秀吉により徳川氏が関東へ移封された後には駿府城(静岡県静岡市葵区)主となった中村一氏の持ち城とされ、
三枚橋城(静岡県沼津市)代・中村彦右衛門一栄(かずしげ、一氏の弟)が長久保城を預かった。だがそれも長く続かず
関ヶ原合戦にて天下が徳川家康のものになった1600年(慶長5年)中村氏は伯耆国米子(鳥取県米子市)へ移された為
長久保城は廃城になった。(1604年(慶長9年)に廃城との説もある)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
以来300有余年、風雪に晒された城跡であったが昭和期の宅地造成や新幹線建設における採土工事、学校建設、国道
246号線バイパス設置によりその大半が消滅してしまった。1974年(昭和49年)バイパス工事に先立つ緊急発掘調査が
行われ、新旧2種類の畝堀や柵・門・石敷・通路・溝址・雛段状遺構・6棟以上の掘立柱建造物の遺構が検出され申した。
また、遺物として陶磁類・燈明皿・砥石・硯・水滴といった生活器具や、釘・締金具・金箔片・鉄片・小柄・鏃・古銭などの
金属器、銃弾等が出土。このうち注目すべきは障子堀の存在だろう。障子堀は小田原後北条氏が多用した城郭構造物で
あり、この城が確実に後北条氏の改修を受けていた事を物語っている。障子堀の畝は一部、水門として活用された痕跡も
証明されている。その一方、出土した陶磁器類のほぼ全てが16世紀前半の美濃大窯産で、1600年まで用いられたと言う
伝承との差異が浮き彫りになっている。この城もまた、杉山城問題(杉山城(埼玉県比企郡嵐山町)の頁を参照の事)の
ような使用年代相違に該当する城なのかもしれない。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現状、城の敷地として残るのは八幡曲輪跡と目される城山神社境内のみだ。T郭・U郭は巨大商業施設(某玩具店)と
その駐車場、V郭は工場や長泉町立北小学校、U郭とV郭を隔てた空堀が国道246号線になっている為、遺構は壊滅。
小学校前の雑木林と城山神社の敷地にのみ、僅かな土塁や雛壇状の土段が見受けられる。この土塁は残存部の高さで
2mを数え、かなり分厚いもの。恐らく往時はもっと巨大な構造物であった事が想像できよう。■■■■■■■■■■■■
なお、この城山神社は誉田別命・建御名方命・鳴沢比売神を祭神とし、古くは八幡社と呼ばれていたが後に城山神社と
改称された。八幡社創建の経緯は明らかではない。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

土塁・郭群







駿河国 
葛山氏館

葛山氏館跡

 所在地:静岡県裾野市葛山

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

★★★■■
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駿東の古豪・葛山氏の武家居館■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
長久保城の項で登場した、葛山氏の居館址。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
藤原北家(伊周(これちか)系)の末裔である惟兼(これかね)が葛山の地に根付いてその姓を名乗り、それが葛山氏の
創始とされている。なお、惟兼の甥である親家は大森の地に住んだ事から大森氏を興している。後北条氏の台頭以前、
小田原城を有していたあの大森氏だ。よって、葛山氏と大森氏は同族である。葛山一族は鎌倉幕府で有力御家人に
数えられ、室町時代には幕府奉公衆の一員に任じられ駿河東部の在地領主として勢力を築いた。一方の大森氏は、
上杉氏(室町職制における関東管領、東国掌管の重職)配下の有力氏族として小田原城に入り、相模西部の守りを
固めた。葛山氏が駿河東端、大森氏が相模西端を預かる事で室町初期は勢力の均衡が図られていたのでござる。
さて、こうした時代変遷の中で葛山氏館が築かれた訳だが、古い説では鎌倉時代(13世紀頃?)の事と言われ、中世
武家居館らしく東西97m×南北104m(ほぼ正方形)の敷地を有し、典型的な単郭方形館の様相を呈している。しかし
土塁の規模や館敷地周囲を囲むように掘られた堀の形態はもっと時代が下るもので、おそらく室町時代後期、戦国の
乱世が最も激しくなった頃だと思われる。つまり、鎌倉期に構えられた単郭方形館を基本としつつ時代に応じて改変を
続けたのが葛山氏館の経歴だと言えよう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ちなみに、館の北西およそ500mの位置にある山は葛山城(下記)であり、戦国期に葛山氏館の“詰めの城”として用い
られていた。即ち、葛山氏館と葛山城は一体不可分のものであり、甲斐武田氏の本拠であった躑躅ヶ崎館と要害山城
(共に山梨県甲府市)の組み合わせ同様に、平時の館と戦時の山城を使い分ける状況にあったようだ。背後に控える
葛山城の存在からも、葛山氏館が鎌倉期に始まり戦国時代まで改修利用され続けた事が立証できると言えよう。■■■

甲相駿三国の動向に左右される葛山氏■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
そんな葛山氏の動向、そして館の戦歴は甲斐武田氏や大森氏没落後小田原城の主となった後北条氏、それに加えて
駿河国を支配する守護大名・今川氏に翻弄されていた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
室町後期、応仁の乱によって開始された戦国の世は幕府の権威を崩壊させ、地方大名や豪族が独自の武威で統治を
行う時代へ向かわせた。幕府の奉公衆として自立自尊を保っていた葛山氏であったが、強大な権力を誇る今川氏には
逆らえず、次第にその傘下武将として生き残るしかなくなっていた。その今川氏に命じられて、1491年(延徳3年)に当時
今川氏の食客であった伊勢新九郎(後の北条早雲)が堀越御所(静岡県伊豆の国市)の足利茶々丸を攻め滅ぼした
戦いにおいて(詳しくは堀越御所の頁を参照)葛山氏は援軍を出している。これが縁となったか、後に当主不在となった
葛山氏は早雲の3男(と言うが詳細不明)である中務少輔氏広(うじひろ)が養子入りし家督を継いでいる(異説あり)。
その結果、葛山氏は今川氏の配下にありつつ後北条氏とも関係を持つ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1526年(大永6年)後北条氏2代当主にして氏広の長兄である北条氏綱と甲斐の武田陸奥守信虎(信玄の父)が籠坂峠
(甲斐・駿河国境にある峠)で戦った際に、葛山氏は後北条方として参陣しているほどだ。1536年(天文5年)今川義元と
北条氏綱が対立した時には、何と主家である今川氏に叛いて、後北条側で参戦した。氏広の跡を継いだ左衛門佐氏元
(うじもと)も、氏綱の娘を娶り後北条氏との関係を強めている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
駿河・甲斐・相模という3大国の狭間にある葛山氏は、その時その時で対応を変える事によって生き残りを図っていた。

甲斐武田家配下に組み込まれる■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところが1568年、甲相駿三国同盟を破って武田信玄が駿河に侵攻。怒涛の勢いで押し寄せる武田軍には抗せず、遂に
葛山氏元は今川家を見限り武田家に服属する。事ここに至り、後北条家との関係も断絶せざるを得なくなった葛山氏は
武田の違約に抗議して出陣してきた後北条の軍と対戦する事になり翌1569年2月1日、後北条方として大宮城(静岡県
富士宮市)に籠城する富士兵部少輔信忠へ穴山左衛門大夫信君(あなやまのぶただ、武田信玄重臣)と共に攻撃して
開城させ申した。この時、橋本源左衛門尉の軍功に氏元が30貫文を与えたという記録が残る。■■■■■■■■■■
強大な武田氏の支配に対して葛山氏は忠勤を尽くし、後に氏元は蒲原城(静岡県庵原郡蒲原町)攻撃でも先鋒を引き
受けた。信玄もまた古くから続く名族である葛山氏の懐柔を図り、氏元の養子として自身の6男・十郎信貞(のぶさだ)を
送り込んだが、逆に言えばこれは武田家の葛山家乗っ取り工作とも言える。甲相駿3国の要である駿東郡を押さえる
事は、領土安泰において必須であった。事実、氏元を隠居させた後も信貞は甲府に留まり領国入りせず、実際に在地
支配を行ったのは城代として派遣された御宿(みしゅく)左衛門次郎友綱であった。“御宿監物”の名が有名な友綱は、
信玄の侍医としても知られている武田家の腹心でござる。(この為、現在も葛山の隣には御宿の字(あざ)名が残る)
さらに1573年(天正元年)氏元は謀反の嫌疑をかけられ(蒲原城攻撃の恩賞に不満があったとされる)幽閉された上、
2月末に信濃国諏訪で処刑されたと言われている。斯くして、葛山の地は事実上武田家が直轄支配する地となった。
しかし、信玄没後に武田氏は急速に弱体化。西から織田信長に攻め立てられ、1582年に武田家は滅亡する。この時、
信貞も甲斐善光寺で自害し、葛山氏は歴史上から消えたのでござる。当然の事ながら、これを以って葛山氏館もその
役目を終えている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

集権化を図ろうとした様子が表れる縄張り■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現状に残る遺構は、曲輪の周囲を囲う土塁が主なもの。この土塁は基底部の幅およそ15m、平均した高さが3m〜4mも
ある見事なもので一見の価値がある。加えて土塁の北面から東面にかけての外周には水堀が掘られていて、これまた
幅が約10m程度もあったという。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
(現在、北面の堀は道路によって埋め立てられてしまっている)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
鎌倉武士の居館から発展した在地領主の城館遺構としては、かなり大掛かりなものだ言えよう。今川・後北条・武田に
翻弄された小領主とは言え、名門たる葛山氏の権勢が垣間見える。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
館の南面には大久保川が流れ、これが天然の防御構造物になっていた。曲輪内には2つの井戸が検出されている。
曲輪の出入口は北東隅に1箇所、西面に2箇所が確認されてござる。一説に北東の出入口が大手とも言われているが、
元来この方位は鬼門に当たる為、疑問の余地が残る。西側2箇所の出入口のうち南側のものは食い違い虎口となって
いるため、むしろこれが大手口と見るべきであろう。その西面にも幅10m程度の堀が穿たれ、対岸には葛山氏の重臣で
ある半田氏の屋敷があったとされる。半田屋敷の西には更に荻田氏(同じく葛山家臣)の屋敷があり、半田屋敷・荻田
屋敷もそれぞれ方形館の構造を成す。半田氏・荻田氏らは“葛山四天王”と呼ばれていた葛山氏の柱石である。戦国
大名の城郭(越後上杉氏の春日山城(新潟県上越市)、能登畠山氏の七尾城(石川県七尾市)、近江佐々木六角氏の
観音寺城(滋賀県近江八幡市)など)は往々にして城内の一曲輪を家臣屋敷として宛がう例が見受けられ、もし葛山氏
館も半田屋敷や荻田屋敷を主郭に対する外郭と見るならば、全体構成としては東から西へと連なる連郭式城郭と想定
できる。加えて荻田屋敷の西側にも1つ三角形の小曲輪があったと推定される上、荻田屋敷の北西側には岡村屋敷が
あったとの伝承がある。岡村屋敷は既に宅地化で完全消滅しており、半田屋敷や荻田屋敷も農地に転用されてしまい
旧来の遺構がどのような状況であったかが不明確なので断定はできないが、仮にこの想定が事実だったならば葛山氏
館は中央集権的支配体制を志向した屈強な戦国大名と同様の権力構造を体現した大規模城館だったという事になろう。
こうした全体構造や土塁の規模から推測される技術年代を考慮すれば、この館が戦国末期まで活用されたのは間違い
ない。“詰めの城”である葛山城を持つ旧態性と、家臣屋敷を内包する先進性、両極端の性格を併せ持つ葛山氏館は、
今後の発掘調査や研究成果に期待したい城館だと言え申そう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
兎にも角にも、綺麗に整備された曲輪や土塁は圧巻だ。遺構の残り具合も良好であり、1973年(昭和48年)2月24日に
裾野市の史跡として指定されている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

井戸跡・堀・土塁・郭群
城域内は市指定史跡







駿河国 
葛山城

葛山城主郭跡

 所在地:静岡県裾野市葛山

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★☆
■■■■



見事に作り込まれた“詰めの城”■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
上記、葛山氏館の北北東500m程の位置にある葛山氏詰めの城。浄土宗日當山常光院仙年寺の裏にある標高271.8m
(比高差70m)の山が城跡だ。仙年寺の前に寺の参拝者用駐車場があり、そこに車を停める事が可能。寺の裏手から
登山できるようになっており、山を登るにつれ見事な遺構が次々と現れる名城でござる。■■■■■■■■■■■■■
葛山氏の来歴(葛山城の歴史)は館の項で示した通りなので、ここでは山城部に関する縄張りを中心に解説致す。■■
まず城の立地だが、愛鷹山(あしたかやま)山塊から東へ延びる裾野尾根の末端部に当たる山列、その小ピークが標高
271.8mを指し、そこを主郭としている。必然的に東西方向へ長い山容となる山である為、東端部(山麓)が大手口となり
そこから尾根伝いに真っ直ぐ登って行く事になる。この大手筋に沿った東西に細長い曲輪が東出丸で、その先に山頂。
山頂部が主郭として啓開され(写真)、それを取り巻いて一段低い位置に二郭がある。それを更に取り巻いて帯曲輪が
作られている。この主郭部は南北面が急崖となって隔絶し、東西方向にはそれぞれ多重の堀切が掘られて尾根を分断。
東出丸は東側の二重堀切を隔てた向こうに当たり、この堀切はそのまま竪堀となって麓まで落ちる。主郭部の反対側、
西側にも二重堀切があり、その先は西出丸となる。西出丸の先端にも堀切が掘られ、そこが城域の西端であり、以西は
愛鷹山本体まで尾根が登っていく地形だ。概ね、主郭(頂点)を中心として左右(東西)対称に曲輪が配される縄張り。
葛山城の案内板には「並郭式の山城」と書かれているが、この「並郭式」と言う言葉は左右に曲輪が並ぶ様子を指した
単語であろうか? 仙年寺の裏から山を登ると、急坂の果てに東側の二重堀切付近に到達するため、縄張図を片手に
各所を見て回るのが良うござろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
主郭は北側だけ土塁がある。その下にある二郭からは屹立する主郭を見上げる構図となり、迫力に圧倒される。主郭も
二郭も削平の作り込み方が見事で、この城が果たして一豪族のみで作り得る土木量なのか考えさせられる。更に周囲を
見てみれば、二重堀切や横堀の切れ込み具合は溜息をつく程の秀逸さ。どこを見ても驚愕の歓声を上げる城なのだが、
これらの堀の誂え方からすると、葛山氏の最終段階、つまり武田家による大改造があったと結論付けられるのではなか
ろうか。主郭を取り囲む帯曲輪(=それを成立させるには横堀が存在する)や、尾根を断ち切るしつこい程の堀切と言う
組み合わせは、他の武田家の山城と通底するものがあるからだ。山中の至る所にある竪堀は畝状竪堀にも思え、見所
満載の城郭と言えよう。地元有志の方々が見学用の整備を行って下さっているので見学し易い事この上ない。感謝!
城域は東西およそ350m×南北70mと案外小ぢんまりしているのだが、どこを見ても素晴らしい構造物が確認できるので
もっと“ボリューム感がある”ように感じられる名城だ。葛山氏館と同様に1973年2月24日、裾野市指定史跡となっている。
個人的には、市史跡と言わず県史跡、もっと言えば国史跡にしても良いのでは?と思える程なのだが(笑)■■■■■
葛山氏館には駐車場が無いものの、こちらの駐車場から徒歩圏内なので余裕で同時見学出来るのも嬉しい。■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群等
城域内は市指定史跡







駿河国 
千福城

千福城主郭跡

 所在地:静岡県裾野市千福字平山耕地・御宿字カス森

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★☆
■■■■



葛山氏(武田氏)が用いた城と伝わるも■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現地の地名「千福」は「せんぷく」と読むが、地元の方々は「せんぶく」と濁って発音するそうだ。葛山城(山上主郭部)から
南南東へ約1.9km、東名高速道路がすぐ隣に走る曹洞宗太平山普明寺(ふみょうじ)の裏山が千福城跡。この普明寺も
城主の居館址だったとか。城山は北〜東〜南へと久保川(平山(ひらやま)川)と言う小河川が回り込んで流れており、
そのまま南西で佐野川に合流する。その佐野川は蛇行しながら南東方向へ流れて黄瀬川に合流。このように千福城の
周囲では大小の河川が複雑にからまり、多重の濠を成していた。なお、城山は標高201.6m、山の名前を平山(久保川の
別名の由来)と言う事から、千福城は平山城とも呼ばれる。城の立地の種別として「平山城」の表現用語があるものの、
こちらの平山城は固有名詞としての「平山城」なのでややこしい。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城の来歴について詳細は不明。直接的な内容を記した一次史料も現在までのところは発見されていない。一般的には
葛山城と同じく葛山氏によって作られた城と言われ、そのまま葛山氏による使用が想定されている。葛山家が武田家に
乗っ取られた後は、千福城に御宿氏が目付役として入ったとも言われるが、逆にそのころ廃されたと考える説もござる。
幕末に駿府浅間神社(せんげんじんじゃ、現在の静岡浅間神社)の神官・新宮高平(しんぐうこうへい)が著した地誌の
「駿河志料(するがしりょう)」千福村の条には「古館跡普明寺境内ナリ」とし、「御宿勘兵衛古城墟ト云イ、又一ニ葛山氏
 居ナリトモ云ヘリ」とある。同様に1917年(大正6年)刊行「駿東郡誌」では普明寺を御宿友綱の居館とする。駿河志料で
書かれている御宿勘兵衛(かんべえ)と言うのは、友綱の子・御宿越前守政友(まさとも、正倫とも)を指しており、廃城の
云々はさて置き、この城(館)が武田家臣・御宿氏の父子によって維持された説に立脚した記述だろう。■■■■■■■

武田・後北条のにらみ合い■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
その一方、1569年に小田原後北条氏が葛山氏の所領である葛山堀内や佐野郷を清水新七郎に与えたとする古文書も
ある。この清水新七郎と言うのは、後北条氏の重臣・清水太郎左衛門尉康英(やすひで)の嫡男。新七郎は同年12月に
武田氏との戦いで討死してしまうのだが、武田家と敵対している時代の中で後北条家重臣がこの城に入ったとするなら
上記の経歴は一変しよう。何より、葛山氏は元々後北条氏の縁者である訳で、実は千福城は武田の城ではなく後北条
方が保持した可能性に塗り替わるのである。更に注目すべきは江戸時代前期の1650年(慶安3年)の「大畑村他五ヵ村
山林・古跡・用水等書上」と言う史料の中に、千福村に「同村古城東西一八〇間、南北一二〇間アリ、東・西・南ノ三方ハ
 川、北ハ空堀、大手ノ口ハ南空堀一重アリ」と古城の様子を記し、それは小田原氏猶(=北条左京大夫氏直)家臣の
松田入道を取り立て築城したもので70年前に普明寺の屋敷となった、としている。1650年の70年前と言えば1580年代で
その頃の記録には「葛山郷除沢は敵(武田)に対する備えは必要ないが平山の戸張(=千福城)については自ら適切な
 工事をせず出来ないという松田の言い訳は分別が無い」と言う北条左京大夫氏政(氏直の父)の不満が残されている。
幕末や大正時代の地誌よりも、戦国期からまだ1世紀を経ていない慶安期の記述の方が信頼性に勝るだろうし、それを
裏付ける記録があるのなら、この城は後北条氏が維持して、清水新七郎そして松田入道、つまり松田左衛門佐憲秀が
守った城と考える方が自然でござろう。ちなみに後北条氏譜代家老の松田憲秀は、後に後北条氏が豊臣秀吉から征伐
された際、真っ先に寝返りを行った(結果的に不忠を咎められ秀吉に切腹させられたが)裏切者であるが、この頃から
武田家(敵)に対して千福城の備えを怠るサボタージュを行っていた事になろう。それは兎も角として、もし本当に当城が
後北条側の城であったなら、武田の城(である事は間違いない)葛山城と指呼の間で睨み合っていた訳で、この陣取り
合戦は更に南の大畑城(裾野市内)―長久保城(上記)―三枚橋城(静岡県沼津市)―戸倉城(静岡県駿東郡清水町)と
延々と繋がっている。まるで碁盤の白黒が互い違いに食い込んでいる如きだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■

角ばった城の作りと言うならば…■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ではこの城の縄張りはどのようなものかを見てみれば、山頂部を啓開してT郭(主郭)とし、その北東面下段を細長い
帯曲輪状のU郭、T郭の南東側下段(U郭より更に低い位置)の平場がV郭となる。U郭の東端はV郭まで包み込み
V郭の南側にW郭・X郭までが造成されており、反対にU郭のなお北東側下段にも帯曲輪、その東側(山の東端)に
馬場の平場が用意されてござる。城主居館(普明寺境内)はT郭の南西側直下山麓にあたり、現在では寺の裏手から
山に入る散策路が整備され(数年前まではだいぶ荒れていたそうだが、現状では問題なく入山できる)これら主城域を
見て回る事が可能。この他、久保川を挟んで城山の南側(X郭の対岸)には鍛治屋敷と言われる出郭(現在は住宅地)、
その南には城外馬場もあったそうだが、この馬場部分は国道246号線バイパスの敷設時に隠滅し申した。■■■■■■
これに加えて特筆すべきが主郭の北西側に伸びる尾根。千福城の城山(平山)は愛鷹山山塊の末端部(東端)に当たる
小ピークなので、この尾根が主山塊と連結する部分になる訳だが、現状では東名高速道路がその尾根を分断している。
恐らく、当時も堀切を穿って分断していたと考えられる訳だが、この堀切(城域の最西端)から主郭までの尾根が巨大な
出曲輪となって、西から迫る敵に多重の障壁を作り出していた。その出曲輪群(いくつかの曲輪を重ねている)は全体を
囲うように横堀が巡らされているのだが、その規模たるや半端ない巨大さ。そして、出曲輪群の随所には竪堀や切岸と
言った仕掛けが施され、実戦に即した構えとなっている。何より、この出曲輪群(主城域の曲輪もそうなのだが)は一目
見ただけで分かるような「角ばった」形状をしている。四角い曲輪、(畝があってもおかしくない)巨大な横堀、西に備えた
突出部、と来れば…後北条氏が武田、或いは豊臣を警戒して築いた城という想像が容易にできる。なお、この城には
丸馬出は全くない。となれば、やはり武田が用いた城というよりは後北条氏(清水新七郎や松田憲秀?北条氏政?)が
作り込んだ城郭とするのが自然な流れであろう。念のため記しておくが、出曲輪群の部分はほぼ未整備なので見学は
自己責任で、くれぐれも事故などのないようお気を付けあれ。高速道路の敷地にも絶対入らないように。余談ではあるが
千福城の最高地点はこの出曲輪群の先端(城域最西端)で、主郭が201.6mなのに対してそこは203.4mを指す。■■■■
1935年(昭和10年)旧制県立静岡中学校の教諭である沼館愛三(ぬまだてあいぞう)氏が城の調査を行った。千福城の
名はこの時に付けられた(と言う事は、元来は「平山城」だったのか?)そうだ。その後、昭和50年代にも城郭研究家の
伊禮正雄氏・考古学者の中野国雄氏らによって近隣城館と共に調査が行われた。また、先述した国道246号線によって
埋まる事となった城外馬場の部分(千福馬場添(ばばそえ)遺跡)も道路敷設工事に先立つ1983年(昭和58年)〜1984年
(昭和59年)に発掘調査し、そこでは竪穴状遺構・集石土坑・柱穴跡・溝状遺構などの痕跡を確認。陶磁器類・金属製品・
砥石・古銭などが出土していて、年代的に中世城館が使用された時期と合致している。これらの経歴から、今は城跡が
裾野市指定史跡となっており申す。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群等
城域内は市指定史跡







駿河国 
柏木屋敷

柏木屋敷跡 土塁

 所在地:静岡県裾野市茶畑

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★☆■■
★★■■■



開放的で明るい史跡に感謝■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現地の氏族・柏木氏の居館跡。柏木氏は奈良時代に韮山の江川氏(江川氏については韮山代官所の項を参照)と共に
入植した古豪と言われる一方で、甲斐武田氏10代当主・武田安芸守信満(のぶみつ)の7男・倉科治部少輔信広がここに
土着(だとすれば室町時代中期の話)した家だともされ申す。出自定かならずとも、柏木氏は代々茶畑浅間神社の神職を
務めていた。武田系柏木氏の説に拠れば、倉科信広はここに来て境川出羽守を称し、その子・広久は当時の駿河守護・
今川治部大輔義忠(よしただ)から茶畑浅間神社神職の地位を安堵され、姓を「柏」にしたとか。そして広久の4代孫である
宮内丞広光が「柏木」に改姓し、後代に至る。なお、境川と言うのはこの柏木屋敷を掠めて流れている大場(だいば)川の
別称で、その名の通り駿河国と伊豆国の境目になっている川だ。境川の畔に居を構えた事でその姓を名乗ったとあらば
この館の創建年代を推測する一助になるやもしれない。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
話を戻すとして、柏木氏が奈良時代以来の名家であるか、或いは武田氏一族が入ったものであるか、はたまた奈良時代
創始の家を武田一族が乗っ取ったものか(その可能性もあろう)は判別できないが、いずれにせよ戦国期になると1551年
(天文20年)・1552年(天文21年)・1558年(永禄元年)と、葛山城主の葛山氏から神領安堵や勧進を受けた文書が残され
葛山氏の庇護下にあったと考えられてござる。その葛山氏や武田氏、今川氏などが滅びた後まで柏木氏は血脈を繋いで
現在まで残っている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
所在地はJR御殿場線裾野駅から東南東へほぼ1km地点。民家と畑が混在する場所なので細道ばかりが入り組み、大変
分かりづらい環境にあるが、地図を見れば、特に航空写真で確認すれば大場川に接した方形居館の敷地がハッキリと
浮かび上がる。形状は殆んど正方形、一辺90m程度で四周を土塁が囲い、その外側には川と繋がる濠もある。現状では
河川整備ですっかり用水路のようになってしまったが、確かに武家居館を囲む水堀の名残りであろう。そして大場川の
対岸は伊豆国、現在では裾野市と三島市の市境となっている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
細道ばかりと言った通り、車で来訪するには迷う場所なのだが、敷地の西側から入る道を使えば曲輪の内部まで乗り付け
られる。その入口の傍らには、写真の石碑と土塁の断面が。曲輪の中は運動広場となっていて、車も停める余地がある。
兎角、中世城館の跡地と言うと「耕作地の真ん中に」とか「ひと気のない鬱蒼とした森の中」と言った場所が多くて足を踏み
入れるのに躊躇するような所が多いものだが、この屋敷跡は地域の方々が賑やかに集う憩いの場であり“明るく楽しく”
来訪できるのが有り難い。聞けば現在もこの敷地は柏木家の所有地だそうで、地域の方々や来訪者に開放して下さって
いるとの事。重ねて有り難い話でござれば、感謝の念を以って見学したいものである。■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群




韮山周辺諸城館・鎌田城  久能城