箱根山中、東海道を塞ぐ巨大山城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
国道1号線を下り、箱根峠を越えた最初の集落が三島市の山中新田。戦国時代、この集落のあった場所が山中城跡である。
つまり当時の山中城は東海道を城内に取り込む形で成立し、街道を抜ける者は必ず城内を通過しなければならない構造と
なっていた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
築城時期は明らかでないが、出土遺物から永禄年間(1558年〜1570年)小田原後北条氏3代目当主・北条左京大夫氏康の
命によるものと推定される。後北条氏の本拠である小田原城(神奈川県小田原市)を守る支城群のひとつとして築城された
山中城、特に豊臣秀吉との対決が決定的となった1587年(天正15年)以降は後北条領最西端の城として大改修が施された。
秀吉軍侵攻路の最前線となることが予想された為である。斯くして1590年(天正18年)秀吉が後北条氏を討伐すべく東征を
始めると、その想定通りにこの城が最初の戦地となった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
街道を取り込む山中城は広大で、主郭(本丸)・二ノ丸・三ノ丸が梯郭式に南方へと並び、二ノ丸の西へは元西櫓・西ノ丸・
西櫓(これらはいずれも馬出的な機能を有する)と呼ばれる曲輪群が連結。主郭の最高所には天守と呼ばれる大櫓が建て
られていた。その一方、三ノ丸の先から南西方面へ伸びる岱崎(だいざき)出丸は一直線に細長い曲輪となっており、西から
城内へと導入される東海道を側面射撃する為の長大な射撃陣地として構えられていた。これらの曲輪は後北条氏が得意と
する築城法である障子堀で区切られ、横矢掛かりとなる屈曲や敵兵を誘引する罠が随所に見受けられる。主郭の東端から
西櫓まで約400m、主郭東端から岱崎出丸の先端(下記にある擂鉢曲輪)では750mにもなるのだが、主郭からはそれぞれの
先端部までが見通せるようになっていて、城主(指揮官)が戦闘指揮を執り易い構造となっている。■■■■■■■■■■
本丸を最奥点(中心)として、西櫓〜西ノ丸〜元西櫓〜二ノ丸と繋がる右翼と、岱崎出丸〜三ノ丸の長大な曲輪列の左翼が
「U字形」の縄張りを作り出す山中城。この「右翼と左翼」の間に東海道が挟まれ、城を落とさねばその先へは進めない造り。
東海道以外に山越えの道が無い戦国時代の環境では、山中城という関門を突破しないと上方の軍勢が小田原城へは辿り
着かないという、後北条氏にとって「重要な防衛拠点」となる位置付けだった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
また、城内の各所に水利を確保する溜池が用意されており(この山に湧水点は無いそうである)まさに“実戦本意”の城郭で
あると言えよう。戦国大名の居城を除けば「山城」として分類される城郭で日本最大級の規模を持っていた。それに加えて
後北条氏は秀吉軍の襲撃に備え、主郭裏手を固める北ノ丸や、岱崎出丸の最先端部である擂鉢曲輪の工事を急ぎ、更に
北ノ丸の外部も曲輪として造成する計画も有していたようだ。この北ノ丸外部の敷地は「ラオシバ」と呼ばれるが、これは
「老竹干し場」が転訛した言葉だとか(三島市教委の担当者さんから伺った話)。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
後北条氏の存亡をかけた城を、人海戦術で蹂躙した秀吉■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
兎にも角にも、城方が拡張工事を急ぐ最中に開戦。3月29日、城将・北条左衛門大夫氏勝(うじかつ)や松田兵衛大夫康長
(まつだやすなが)、間宮豊前守康俊(まみややすとし)らが守るおよそ4000の兵に対して、寄せ来る攻城軍は3万5000もの
大軍(一説に拠れば7万とも)。約10倍の兵の猛攻はさしもの山中城を蹂躙し、早朝の戦闘開始から僅か数時間で落城して
しまう。その戦況は、戦国の無骨者として知られる渡辺勘兵衛こと渡辺了(さとる)が記した「水庵(すいあん)覚書」に詳しい。
(水庵とは勘兵衛の号)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
東海道を駆け上がってきた豊臣軍は大きく二手に分かれ、主攻の中村式部少輔一氏(なかむらかずうじ)・山内対馬守一豊
(やまうちかつとよ)・一柳伊豆守直末(ひとつやなぎなおすえ)らの軍が岱崎出丸からの正面突破を図り猛攻を仕掛けた。
この中に渡辺勘兵衛もおり、城側からの痛烈な火力攻撃にかなり難渋していたと記録されている。こうした最中に、何と一柳
直末が銃撃を受け戦死してしまう。直末は美濃(現在の岐阜県南部)に6万石もの封を得ていた大名であり、指揮官クラスの
人物が戦死するという事は非常に稀有な事例と言える。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
一柳隊の残余を渡辺勘兵衛が再編しようやく岱崎出丸への突入を果たした頃、同時に攻めかかっていた助攻の徳川家康隊
(前線指揮を執っていたのは榊原式部大輔康政ら)が西櫓方面からの攻略を成功させる。元来、山中城は岱崎出丸と西櫓が
2正面の突端となり、例えば岱崎出丸に敵が来た場合は西櫓から逆襲部隊が出撃し敵の裏を取り、逆に西櫓へ攻め込まれた
時には岱崎出丸から反撃する構造になっていたが、物量に物を言わせた秀吉は岱崎出丸へと中村・山内・一柳隊をぶつけ、
西櫓へは徳川隊を向かわせ、同時包囲攻撃を敢行したのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
西櫓が陥落し、岱崎出丸へも敵兵が侵入したのを見て、城側副官の松田康長は主将である北条氏勝を城から脱出させた。
それと言うのも、氏勝は玉縄城(神奈川県鎌倉市)主として玉縄衆(後北条氏の方面部隊)を率いる任に在った人物であり、
緒戦である山中城会戦で死なせる訳にはいかなかったからだ。上記の通り、西櫓や岱崎出丸が陥落する様子は主郭から
視認できるので、氏勝を離脱させる時期は見計らえたのだろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この為、止むを得ず氏勝は城を落ち延びたが、その結果として大将不在となった山中城の兵は一気に戦意を喪失し、この後
すぐに落城の憂き目を見た。こうした経緯により、山中城は半日ほどで敗北の悲運を迎えてしまったのだが、これは秀吉が
(非常識なほどの)大兵力を動員し、火器を多用した結果であり、むしろ城兵の奮闘は目覚しかったと評価して良い程である。
何より、一柳直末の戦死がその激闘ぶりを証明していると言え申そう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
地球温暖化と城跡…の関係■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
小田原役後、山中城は廃城。江戸時代に町場として山中新田の集落が作られたものの主郭跡・北ノ丸跡・岱崎出丸跡などは
手付かずのまま残されていた。このため城址は1934年(昭和9年)1月22日に国の史跡に指定され、戦国時代の山城を知る
遺構として1973年(昭和48年)の公園整備以来現在まで数度の発掘調査が行なわれている。これによって障子堀の形態や
橋・門・土塁・柵・土橋の跡が検出され、山中城の全容が明らかとなりつつある。出土品には生活用具である陶磁器、銭貨や
建築部材と共に数多くの鉄砲弾や鎧兜の破片が含まれており、激しい戦闘が行なわれた事を物語っている。なお、曲輪の
名称に「元西櫓」と言う何とも珍妙なものがあったが、これは資料精査により「このあたりに西櫓があった筈」という推定がされ
実際にその場から櫓跡と思しき遺構が出たため「西櫓」と呼ばれる事になったが、後の発掘で実際の西櫓はもっと西にあった
事が判明した為「西櫓と呼んでいた場所」と言う意味で「元西櫓」と改称されたものだ。こうした名称変更も発掘調査の重大な
成果…と云うことでござろうか?(苦笑)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1979年(昭和54年)3月20日、国の史跡範囲が追加指定され、現在は史跡公園として生まれ変わった山中城。よく整備された
緑地公園であり、箱根山中における貴重な歴史遺産でもあるためオススメの観光地。2006年(平成18年)4月6日に財団法人
日本城郭協会から日本百名城の一つにも数えられた。のんびりと散歩をするもよし、戦国の昔に思いを馳せるのもよし…。■
ただ、近年では地球温暖化に伴う異常気象により、特に豪雨災害で城内各所の法面や障子堀の土提が崩れる被害が続出。
城址を管理する三島市ではその対応に苦慮しており、ふるさと納税などの手法で財源を確保している。史跡と地球温暖化、
一見すると関係無さそうな話題だが、思わぬ所で繋がっているものだ。何とか今後も美麗な城址公園を維持して頂きたい。■
なお、山中集落の中にある浄土宗東月山宗閑寺の境内には、戦死した一柳直末(攻城側)と松田康長・間宮康俊(守城側)が
並んで葬られている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
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