伊豆国 韮山城

韮山城跡全景

 所在地:静岡県伊豆の国市韮山韮山
 (旧 静岡県田方郡韮山町韮山韮山)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★■■
★☆■■■



伊勢新九郎の本拠地■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
伊豆半島の付け根に位置する町、韮山。ここは歴史に所縁の深い町で、古くは源頼朝が流人生活を送った蛭ヶ小島、
江戸時代の韮山代官である江川氏邸宅(下記)、そして黒船来航による海防政策で作られた世界遺産・韮山反射炉跡
など、多くの史跡が残っている。そんな中で戦国時代の遺構として存在するのが、この韮山城。江川邸のすぐ隣にある
小さな山(写真)が韮山城跡なのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
韮山城の創建について詳細は知られていないが、江戸時代に編纂された戦国大名北条氏の逸話集「北条五代記」に
よれば、文明年間(1469年〜1487年)に、室町幕府出先機関の堀越公方(下記の堀越御所参照)足利政知(まさとも)
配下の将・外山(とやま)豊前守が築いたとされる。城内に勧進された熊野神社の創建年代から、1500年(明応9年)頃
迄には築城されたと推測する説があり、それが正しいならばこの築城説も頷けるものがあろう。■■■■■■■■■
しかし政知の死後、義母・義弟を殺害して堀越公方家の家督を奪取した足利茶々丸は、その悪辣な手腕を家臣らに
嫌われて離反を招き、1491年(延徳3年)この騒動に付け入った伊勢新九郎盛時(いせしんくろうもりとき)、後の北条
早雲によって滅ぼされた。茶々丸がどのように討たれたかには近年の再検証で再考する点もある訳だが、ともあれ
これにより伊豆全土は盛時の支配下に入ったのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
韮山城は盛時の居城になり、全面的な改修が加えられたようである。このため、韮山城の築城を盛時、つまり早雲の
手に拠るものとする説が一般的になった。従来、伊豆を奪った盛時は疾病に苦しむ民へ薬や医師を行き渡らせたり、
地侍に真っ当な権利と所領安堵を約束し、家臣団として組織化する事に成功、これが氏盛勇躍の原動力になったと
されていた。それに加え最近では、伝承や地質を精査した事により当時発生した大津波の災害復興に盛時が尽力し
こうした民心慰撫もまた氏盛の地盤固めに繋がったと考えられるようになった。盛時はこの城を基盤として伊豆国の
平定を成功させ一大勢力を築き、さらには小田原城(神奈川県小田原市)の攻略、相模国(神奈川県西部)への版図
拡大を為す。その後、氏盛より後代の後北条氏(鎌倉幕府執権の北条氏と区別して戦国大名の北条氏はこう呼ぶ)は
小田原城を本拠として関東攻略を目標にしていくが、晩年の盛時は韮山城へとたち戻り、1519年(永正16年)この城で
没したという。当時としては大変な長命といえる88歳での死去であった(64歳説もあり)。■■■■■■■■■■■■

豊臣軍の包囲にも耐える■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて早雲の死後も、韮山城は後北条氏による伊豆統治の根拠地とされ、“伊豆衆”と呼ばれる後北条氏配下の伊豆
武士団を束ねる一大拠点であった。1559年(永禄2年)2月に策定された後北条氏の軍役台帳「小田原衆所領役帳」に
伊豆衆の規模は有力武将15人の規模と記載され、本拠地たる小田原の背後を固める重要な地位を占めていた事が
確認できよう。駿河侵攻を行った甲斐の武田軍が後北条氏牽制の目的で1570年(元亀元年)8月に韮山城へも攻め
寄せており、黄瀬川(きせがわ、御殿場から沼津へ流れ狩野川に合流する大河)の河畔に本陣を置いた武田信玄が
諏訪四郎勝頼(信玄4男、後の武田勝頼)・小山田左兵衛尉信茂・山県三郎兵衛尉昌景らに命じて攻城を行わせるも
城を預かる北条美濃守氏規(うじのり、後北条氏3代当主・氏康の3男)は守り切っている。■■■■■■■■■■■
こうして統治体制を確立した小田原後北条氏は5代96年に渡って繁栄していき、韮山城へは伊豆郡代に任じられた
笠原氏や清水氏らの重臣が入ったが、終焉を迎えたのは1590年(天正18年)の事。中央政権を握り、天下統一へと
王手をかけた豊臣秀吉は、関東の支配者として君臨した小田原後北条氏を最後の敵と定め、討伐を開始したのだ。
同年3月から攻略に着手した豊臣軍は陸海合わせて約22万もの大軍で小田原城を囲み、韮山城も3月29日から織田
信雄(のぶかつ、信長2男)・細川越中守忠興(ただおき)らが率いる豊臣勢4万4100の包囲を受けたのでござる。■■
だが、北条氏規が指揮し僅か3600の兵力で籠城する韮山城は、この大軍をものともせずに抵抗を続ける。そのまま
韮山城はなかなか落ちずに戦線は膠着。結局、籠城は4ヶ月近くにも及んだ後、氏規と外交交渉などで交友関係を
持っていた徳川家康が説得し、6月24日に開城となった。実際に見てみると、とても兵4万に耐えた堅城とは思えぬ程
小さな山に見えるのだが(縄張については後記)むしろ小さいからこそ城兵にとっては守り易かったのかもしれない。
ひょっとすると豊臣軍が小城と侮っていたのかも?韮山城を守った氏規は卓越した政治感覚の持ち主で、秀吉との
戦争を望んでいなかったとも言われており、あるいは水面下で様々な駆け引きがあったのかも?? 実際、氏規は
秀吉に許されて北条の家名を存続させており、韮山城をめぐる謎は尽きない…。■■■■■■■■■■■■■■
小田原城も開城して後北条氏が倒れた後、その遺領である関東地方や伊豆は徳川家康の領土とされた。韮山城は
家康配下の武将・内藤豊前守信成(のぶなり)が8月に1万石を与えられて城主となる。しかし、秀吉没後の覇権を
賭けた1600年(慶長5年)9月15日の関ヶ原合戦に勝利した家康は天下の主に収まる。全国的に大名の配置換えを
行った家康の命により信成は駿府(静岡県静岡市)4万石へと移封され、これに伴って1601年(慶長6年)韮山城は
廃城となったのでござった。以降、城山は韮山代官の御囲地となり手付かずのまま保全されていた。■■■■■■

周辺出城と連携した韮山城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現在の韮山城跡周辺は公園となっているものの、城郭の人工的な整備はあまり行われていない為、城山の内部は
ほぼ手付かずの状態。この山は殆どが冒頭に記した江川家が所有する私有地だそうな。東西およそ150m程なのに
対し、南北には350m以上もある細長い城山は、山頂も同様に細長く平坦部が延びている形状。この山頂部の北端
(海抜53m)に本丸があり、そこから北側へ段を下って二ノ丸・権現平・三ノ丸といった曲輪址や土塁、空堀等が残る。
他方、山頂部の南端(本丸の南側)には塩蔵曲輪があったと伝わる。実はこの地点が海抜54.8mを数え、城山では
最も高い地点に当たる。塩蔵曲輪より南側は急崖で落ちる地形で、南端から山へ登る事は不可能。また、各曲輪の
東西両側も切り立った崖で、そこから侵入する事も難しい。結果として城山の北端、三ノ丸から順に一つずつ曲輪を
落とすしかない訳だ。故に、この城の大手は城山の北に当たり、現代ではあまり使われなくなった小字(あざ)名でも
「大手」の地名が残っていた。加えて、城山の脇にある静岡県立韮山高校はかつての韮山城主居館跡地であった。
このため、同様にこの場所は「御座敷(おざしき)」と呼ばれる地名が残っているのでござる。■■■■■■■■■■
さて、城山と御座敷周辺だけを見る限り、韮山城はかなり小さな城郭。本当にこれで伊豆の本拠地?4万の軍勢と
渡り合ったのか?と疑いたくなる程だ。山中にある曲輪も小さく、いびつな台形をした本丸は最大幅でも東西30m×
南北40m。長方形の二ノ丸も東西20m×南北45mくらい。熊野神社がある権現平(権現曲輪)も30m四方程度のやや
ひしゃげた四角形でしかない。最も広い三ノ丸は北端の標高が25.9m〜南端の標高が26.9mと緩傾斜地で、東西に
45m×南北100m。弓なりに湾曲した長方形を成す。塩蔵も物見台程度の大きさでござった。城外の標高が平均して
海抜18m程度、三ノ丸までの比高が8m程で、本丸までは35mとなる。山容は小さく、大軍の収容は不可能だ。しかし
どうやら昔は周辺が湿地帯だったようで、実は攻城軍の展開が難しい場所だそうな。現在、城山の東には「城池」と
呼ばれる農業用水池が造成整備されているものの、当時は当然ながら自然の池(つまり城の水濠)だった訳であり
更には韮山高校の西側も「外池(そといけ)」すなわち外濠が掘削された状況にあった。要するに、韮山城はぐるりと
巨大な湖と濠に囲まれた環境に置かれ、加えて韮山城の南方にある標高128.5mの天ヶ岳山も出城として利用され
この山の各所に独立した砦群が多数構成されていた。こうなると話は別で、韮山城は周辺一帯の城砦群と連動する
大規模な軍事要塞として機能する事になる。また、小ぶりだからこそ韮山城本体の各所には技巧的な防御構造が
重なり、敵を食い止める為の罠がそこかしこに見て取れ申す。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
故に、韮山城を攻略せんとした豊臣軍は大掛かりな攻撃を控え、一連の韮山城〜天ヶ岳城砦群の東側にそびえる
伊豆山地本体の裾野部分や、外池を挟んだ濠の外側に陣地を展開し遠巻きに包囲する事となった。斯くして長期
籠城戦となり、外交戦略で北条氏規の開城へと至った訳だが、仮に力攻めを行ったとしたら豊臣軍の攻略作戦は
如何なるものになったのか?籠城軍の戦術は?ますます韮山城をめぐる謎は深まるばかりでござる…。■■■■
城の別名は龍城。城山も龍城山と呼ばれている。周辺にある蛭ヶ小島や江川邸が文化財指定されている一方で
韮山城は史跡指定されていない。しかし伊豆の国市では未指定文化財として認知しており、過去には発掘調査も
行われた。それに拠れば、堀や屋敷地が城を取り囲み、石敷きの道路や屋敷の園地が検出されている。韮山城の
周囲には計画的に造成された城下町が整備されたと見られ、その地割りは現在の地籍にも部分的ながら合致して
いると言う。やはりこの地は伊豆の中心として栄えた場所だったのだろう。その伝統を受け継ぐべく、市では2014年
(平成26年)3月に「韮山城跡『百年の計』」と題した保存活用計画を策定。今後、周辺の歴史文化施設と連携して
順次整備開発が行われていく模様でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群等







伊豆国 
堀越御所

伝堀越御所跡

 所在地:静岡県伊豆の国市四日町・寺家
 (旧 静岡県田方郡韮山町四日町・寺家)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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関東に入れない新公方■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
韮山城から西に1.6kmほど離れた場所にあるのが堀越(ほりごえ、ほりこしとも)御所の跡と伝わる。そのすぐ西には
狩野川が流れており、川の対岸は旧静岡県田方郡伊豆長岡町の領域になる。室町時代後期、京都の幕府から関東
統治の任を得て派遣された足利左馬頭政知(まさとも)の居館址でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■
元来この場所は、鎌倉幕府執権(しっけん、幕政を司る事実上の最高権力者)となった北条氏が居館を構えた所で、
当然その創建は平安時代後期にまで遡るのだが、ここでは戦国時代の城館として用いられた堀越公方御所としての
内容について記載する。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
伊豆の小さな居館と思しき堀越御所の歴史は、実は中央政権と密接に関わる。鎌倉幕府に代わって成立した室町
幕府は京都に本拠を構えたが、従前、武家政権の中心地だった鎌倉という町の存在は重要であったため無視する
訳にもいかず、鎌倉公方という役職を定めて足利将軍家の分家をその家格とした。鎌倉公方の職制は関東以東の
東国を掌管するもので、鎌倉公方とは、言わば「東日本を支配する将軍」と呼べる強大な権力を持つ者であった。
鎌倉公方の配下には関東管領の役職が置かれ、京都の将軍と管領の如く東日本での政務を執り行ってござった。
言うまでも無くその本拠地は鎌倉であり、室町幕府2代将軍・足利義詮(よしあきら)の弟である基氏(もとうじ)から
続く家系が代々に渡ってその職を世襲していた。ところが鎌倉公方家は、自分にも将軍職継承権があって然るべき
だと常々訴え続け、本家にあたる京の足利将軍家と対立するようになる。■■■■■■■■■■■■■■■■■
こうした経緯から京の将軍家と鎌倉公方家は紛争に及ぶ事もあり、また、関東管領を世襲していた上杉家の中でも
山内(やまのうち)上杉家と扇谷(おうぎがやつ)上杉家に分裂して家督争いを繰り広げるようになり、関東地方の
統治は鎌倉公方・山内上杉・扇谷上杉それに足利将軍家という4者の思惑が複雑に交錯、大きな混乱を引き起して
いたのでござった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
斯くして1455年(康正元年)、当時の鎌倉公方であった足利成氏(しげうじ)は幕府の圧力や上杉氏の騒動を忌避し
遂に鎌倉を離れてしまう。成氏は下総国古河(こが、茨城県古河市)に居を構え、独自に古河公方を称した。これが
古河公方の始まりである。一方、散々対立していた鎌倉公方の職が空位になり新たな関東支配権の確立を迫られた
室町幕府は、時の将軍・足利義政の弟である足利政知を鎌倉公方に選任し、関東へと下向させる事に決定。政知は
成氏を倒し、東国を制圧する重要な任務を帯びていたのでござる。1457年(長禄元年)末の事だ。■■■■■■■■
ところが、鎌倉公方の居なくなった鎌倉では上杉氏の騒乱が激化してしまい政知が入れる状況ではなくなっていた。
関東入府を果たせない政知は、止むを得ず伊豆国韮山堀越に居を構え鎌倉入りの時節を窺う事になったのだった。
こうして築かれた城館こそ堀越御所であり、よって政知は堀越公方と呼ばれる。■■■■■■■■■■■■■■■

家督争いの果てに…新九郎の台頭■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
以来30余年、念願の関東入国を果たせぬままに月日は流れていき、1491年4月3日に政知は57歳で没する。しかし
彼の死後、堀越公方の家督を巡っては騒動が発生した。亡き政知には長男の茶々丸と、後妻・円満院が産んだ2男
清晃(せいこう、後の11代将軍・足利義澄)と3男・潤童子(じゅんどうじ)という3人の男子がいた。この内、清晃は京に
居たため茶々丸と潤童子のどちらかが堀越公方の家督を相続する筈だったが、同年7月1日何と茶々丸は円満院と
潤童子を殺害し、強引に家督を奪取したのでござる。元々、茶々丸は素行不良で政知から廃嫡されていた上に牢へ
押し込められていた程なのだが、彼は脱獄した挙句に義母や腹違いの弟を殺すという凶行に及んだのだ。しかも、
公方職を継承した後、筆頭家老の外山豊前守(上記、韮山城の築城者として名の出た人物)や秋山新蔵人などの
重臣を斬殺してなりふり構わぬ権力独占を図った。このような悪辣な手段に、伊豆国の武士らは猛反発し茶々丸は
孤立する。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
伊豆国中が内乱となったこの事態を利用し、豆州統一に乗り出したのが韮山城の項にて紹介した智謀の士・伊勢
新九郎盛時である。家族や忠臣を手にかけた不孝者・茶々丸の成敗を大義名分に掲げて韮山に派兵した盛時は
瞬く間に伊豆の武士団を味方につけ、堀越御所を包囲した。対抗する茶々丸は御所の裏山に築かれた詰めの城
守山城に立て籠もり迎え撃つものの大勢が覆せる筈もなく、守山の麓にある願成就院で自害して果てたとされる。
近年、盛時に関しての研究が進んで、この説は一歩踏み込んだ事実が明らかになっている。それまでの旧説では、
無頼の素浪人とされた盛時は、実は室町幕府奉公衆の地位にあり、母と弟を弑逆された11代将軍・義澄の内意を
受け幕府公認の軍事行動として堀越御所を襲撃したと考えられるようになった。また、敗北した茶々丸は伊豆から
逃亡、諸国を流浪した後に盛時の追討を受けて1498年(明応7年)8月に討死したようである。■■■■■■■■■
茶々丸の敗退によって伊豆は盛時の支配下に入る事となり、堀越御所も廃された。■■■■■■■■■■■■■
現在の堀越御所跡地は写真のようにただ一面の空き地であり、表立って確認できる遺構のようなものは何もない。
しかし過去20回に及んで発掘調査が行われており、地中には庭園の痕跡や中国大陸から輸入された焼物などの
生活用具が残されている事が確認されている。また、この地域の小字名に「御所之内」「築山」等かつての御所に
由来する地名が用いられている。このような事から、1984年(昭和59年)10月8日に国の史跡と指定され、1987年
(昭和62年)9月8日に追加指定を受けており申す。この範囲には守山城や願成就院、鎌倉時代の北条氏居館址も
含まれており、総面積は27213.99uに及ぶ(1984年時に14083.05u、1987年時に13130.94u)。但し、この場所は
あくまでも堀越御所の“伝承地”であり、他にも推定地があるため未だ確定的な結論は出てござらぬ。ともあれ、
旧韮山町と韮山町教育委員会(現在は伊豆の国市が継承)では、国史跡に指定された堀越御所跡の整備計画を
策定し、周辺地域の協力を得ながら史跡公園とする事を予定しているそうだ。■■■■■■■■■■■■■■■
史跡としての重要性を損なわず、景観にも配慮した公園になる事を期待したい。■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

城域内は国指定史跡







伊豆国 
韮山代官所

韮山代官所跡 江川邸

 所在地:静岡県伊豆の国市韮山韮山
 (旧 静岡県田方郡韮山町韮山韮山)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★☆
★★★☆



現代にまで続く伊豆の名門・江川氏■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
戦国期の名城、室町幕府の出先機関に続いて紹介するのが、江戸時代の韮山代官・江川氏の邸宅。古くから韮山の
観光名所なので「江川邸」と言った方が分かり易いだろうか。韮山陣屋・韮山役所・江川館と称する事も。■■■■■
まずは江川氏の来歴から。江戸時代になってからこの地に入った訳ではなく、元々この地の有力氏族として在住して
いた江川氏が、徳川幕府の成立に伴い韮山代官として職を与えられたものだ。故に、遡れば平安末期頃から韮山を
領有していたそうだ。清和源氏始祖・源経基(つねもと)の孫である大和守頼親(よりちか、大和源氏の祖)から繋がる
宇野親信(うのちかのぶ、頼親の8代孫)が、1156年(保元元年)7月の保元の乱に敗れて伊豆国田方郡八牧郷江川へ
下り土着した。親信、そしてその子である治信は1180年(治承4年)源頼朝の旗揚げに参加し、その功を以って江川の
所領を安堵されている。江川邸(当時は宇野邸と言うべきか)はこの時に治信が構築したものだそうで、以来現在に
至るまでその場に留まっているのだから相当に歴史のある館と言えるだろう。江川氏は源頼親を初代と数え、5代目
(頼親の玄孫)の頼治(よりはる)が大和国奥之郷宇野(現在の奈良県五條市)に拠った事で宇野と改姓し、更に後の
21代目・英信から江川姓を名乗るようになっている。自分の領地こそ名乗るべき名、という典型的な武士の生き様だが
この系図が果たして本当に真実なのかは検討の余地があろう。なお、歴代当主は「太郎左衛門」を名乗っている。■■

戦国末期、徳川家臣に加えられる■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
南北朝時代の当主・国頼?は後醍醐天皇に従い六波羅攻めに戦功があったと言われ、戦国時代になって伊勢宗瑞
(北条早雲)が伊豆に侵攻すると、江川英住(英信の孫)はそれに従い後北条氏の家臣になっている。江川邸のすぐ
西側(約350m)に韮山城があるのだが、江川邸に隣接する南側の敷地も標高44mを数える小山になっており、それは
韮山城から尾根繋がりでひと固まりとなった山地である。韮山城が現役だった当時、この44mの山も「江川砦」として
出城となっていた。江川氏は戦国乱世を生き抜くべく、出城を抱える武士として戦っていた訳だ。しかしその一方で、
江川家は酒造りを生業としていたらしく、例えば鎌倉時代に執権(鎌倉幕府の最高権力者)・北条相模守時頼へ酒を
献じ「酒を造って、最明寺時頼に進、時頼之を飲て美味なることを感、是より酒の名世に流布仕候」との記録があり、
北条早雲にも「酒を造って早雲へ進む。早雲美味なることを感じ、江川酒と名を賜い、酒部屋を造らしむ」の話が残る。
江川氏が造る酒は「江川酒」と呼ばれ(この記述によれば、その命名は北条早雲に由来する事になる)、後北条氏は
上杉謙信や織田信長と言った大名に贈答品としてそれを贈っていた記録がある。酒造りが本業で武士が副業か?と
言った感じで、江川氏がなかなかの“やり手”であった様子が見え隠れしよう。その後北条氏が1590年に豊臣秀吉の
攻略を受け韮山城で攻防戦が続けられていた折、時の江川氏当主(28代目)・英長は徳川家康に通じ、家康が関東の
太守となった後も所領を安堵され徳川家臣に加えられた。もともと英長は徳川家に寄宿していた経歴があり、その縁が
あっての所領安堵であったが、家康も江川酒を愛飲していたようで、もしかしたら酒造りの御家芸が家康に気に入られ
家名が存続したとしたら…まさに“芸は身を助く”と言った処でござろう(笑)■■■■■■■■■■■■■■■■■■

世襲制の韮山代官■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1596年(慶長元年)英長は伊豆代官に任じられた。この当時、韮山城主として内藤信成が居り、また伊豆国の大半は
三島代官の差配下にあったため伊豆代官(韮山代官)の支配地としては4800石程度に過ぎなかったが、韮山代官の
職は江川氏の世襲制として固定化されている。代を重ねるにつれてその支配地は増え、伊豆のみならず相模・駿河・
甲斐の天領を統治。1723年(享保8年)11月に当時の韮山代官・江川英勝が公共工事に関連する不正を行っていた
事が発覚し罷免されたが、1759年(宝暦9年)に江川英征が代官に復帰している。この時、三島代官の役務も統合され
幕末期には武蔵での天領支配まで行うようになって、最終的には26万石相当にも上ったと言う。代官としての江川家
当主は夏に江戸の役宅、冬に韮山の自邸に入りその職務を遂行した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、一般に「江川太郎左衛門」と言えば江戸時代後期の知識人として知られる36代目・英龍(ひでたつ)を指すだろう。
洋学にひとかたならぬ見識を有し実学の実践を志した彼は、農村改革や殖産興業、或いは領民への種痘実施など、
社会制度改変から医療拡充まで、およそ一代官の職責の範囲を超えた活躍を見せたが、最も有名なのは海防政策、
特に台場の築造とそこに配備する大砲の鋳造である。現代、世界遺産に登録された韮山の反射炉が構築されたのは
彼の実学実践の集大成と言える。その一方、日本史に大きな足跡を残る反射炉と相対すように江川邸は「日本のパン
発祥の地」でもある。英龍は西洋軍学を研究する中で洋式軍隊の兵糧にも注目し、1842年(天保13年)4月12日にここ
江川邸でパンを自作した。パンそのものは鉄砲伝来と共に日本へもたらされ、南蛮貿易の時代にはそれなりに食された
ものだが、長き鎖国の時代でそれは途絶え、近代兵制の導入を契機に英龍が復活させた事になる。この時に作られた
パンは固焼きパン(どちらかと言えば乾パンに近いもの)であるが(戦闘糧食なので保存の利く食品と言う事なのだろう)
その功績から英龍は「日本のパンの祖」と呼ばれ、4月12日は「パンの記念日」に制定されている。「パン発祥の地」と
言うと、文明開化の横浜か洋館が並ぶ神戸あたりを想像してしまうのだが、実は江川邸なのでござる。■■■■■■■

韮山県庁・足柄県韮山支所を経て国史跡に■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
稀代の俊才・英龍は惜しくも明治維新前に死去した。生きていれば近代日本の礎にもなった人物だろうが、その薫陶は
彼の子に引き継がれる。3男・英敏(ひでとし)が37代目を継ぎ(長男・2男は早世していた)反射炉事業の継承や近代軍
創設の萌芽となる農兵隊の編成などを行った。彼も若くして亡くなると弟(英龍の5男)の英武(ひでたけ)が38代目となり
幕府の鉄砲方や講武所教授方にも任命された。この英武の代に大政奉還を迎え、戊辰戦争が始まると早々に新政府へ
帰順。さすが知識人の家系だけあって内戦の愚を悟ったのか?ともあれ、その結果として1868年(慶応4年)6月29日に
韮山県が設置されると韮山代官所がそのまま県庁となり、英武が知県事(県知事)に任じられている。1871年(明治4年)
11月14日に第1次府県統合が行われると韮山県は廃止され足柄県に統合されたが、江川邸はそのまま韮山支所として
用いられている。また、隣接する敷地に1873年(明治6年)研究所が開設され、これが後に韮山講習所対岳学校を経て
静岡県立韮山高等学校となる一方で、江戸の江川家役宅には慶応義塾が入っており、何かと江川氏関連の場所には
学問が関わっているようだ。また、知事を免官となった英武はその年から明治政府の留学生としてアメリカへ旅立った。
これまた、江川家と学問は切っても切れない関係にあるようだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、足柄県も1876年(明治9年)4月18日に廃されると役所としての機能が無くなり、江川邸は単なる江川家の私邸と
なったが、敷地内には昔ながらの建物が多数残り、昭和の頃に韮山の観光名所として知れ渡る。現存建造物のうち
主屋・書院・仏間・東蔵・肥料蔵・武器庫と表門が文化財指定を受け(他の建物も附指定を受けている)見学可能だ。■■
主屋は江川英長が韮山代官に任じられた頃、恐らく1600年頃の創建と考えられている。桁行25.4m×梁間18.8mの規模、
入母屋造りの屋根は現在は銅板葺きであるが、解体修理より前は茅葺きであった。この主屋に接続するのが書院で、
桁行12.9m×梁間7.3m、寄棟造り。19世紀前半に増設されたもの。他の建物も主屋を中心として拡充されたものだが
(東蔵は明治になってからのもの)、表門だけは経歴が異なり、江戸の江川邸が慶応義塾として使われるようになった
時に韮山へと移築された建物だった。主屋は1958年(昭和33年)5月14日に国の重要文化財と指定され、他は1993年
(平成5年)12月9日に国重文となっている。また、遅ればせながら敷地も2004年(平成16年)9月30日「韮山役所跡」の
名で国史跡に指定され申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この他、江川氏が収蔵する大量の文書・書籍・絵図・用品・古写真なども重要文化財。とにかく江川家、只者では無い。
その反面、江川酒の製造は途絶えてしまい、現代に復活させる努力をし近年ようやく成功したそうだが、あまり醸造量は
多くないとの事。これが本格的に生産できれば…韮山の観光に新しい銘品が加わるのかも?何せ北条早雲や上杉謙信、
織田信長に徳川家康と、錚々たる偉人が愛でた酒であるのだから(謙信はアル中…もとい、酒豪だしねw)江川家のみ
ならず、例えば“義の武将”を信奉する謙信スキーの方々などにも売り込めるのでは?(笑)■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

主屋・書院・仏間・東蔵・肥料蔵・武器庫・表門
北米蔵・南米蔵・裏門・鎮守社・土塀・板塀《以上国指定重文》
井戸跡・堀・土塁・郭群等
陣屋域内は国指定史跡







伊豆国 
鎌田城

鎌田城 主郭虎口

 所在地:静岡県伊東市鎌田

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

★★☆■■
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現代は湖を眺める山に■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
人造湖である松川湖から見上げた山が海抜318.4mになる鎌田(かまだ)城の城山でござれば、その麓にはかつての
伊東往還の街道が走っていた交通の要衝だ。ここに城が築かれたのは、古く源平合戦期の1189年(文治5年)とされ
築城者は鎌倉御家人の鎌田新藤次俊長だそうな。俊長の父は源義朝の従者・鎌田左兵衛尉政清と言われ、左馬頭
義朝が平治の乱に敗れて落ち延びる際、最後まで付き従い2人一緒に命を落とした人物。その遺児である俊長は、
平家の襲来に備えてこの城を築いたと伝承される。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
とは言え、今に残る城跡の遺構は戦国期のもの。伊豆国は小田原後北条氏の領地で、鎌田城には後北条氏家臣
伊豆衆の朝倉氏が入っていたのでござった。記録には朝倉右京進政元が在城したとある。この政元なる者、元々は
越前朝倉氏の一族であったが、織田信長の一乗谷(福井県福井市)侵攻によって朝倉家が滅亡すると諸国流浪し
北条氏政(後北条氏4代当主)へ仕えるようになった。斯くして伊豆鎌田に封じられたのだが、その後に後北条氏も
豊臣秀吉によって滅びると京へ出て関白・豊臣秀次(秀吉の甥、当時の豊臣家後継者)に近侍した。更には秀次も
秀吉から排され(実子・秀頼が誕生した事による)自害する運命を辿ると、またもや浪人。最終的には天下人・徳川
家康に拾われ、その11男・左衛門督頼房の家臣に付けられたのである。即ち、朝倉家は水戸徳川家の家臣として
生き延びてゆく事が出来た訳だが、一方で鎌田城は恐らく後北条氏の滅亡と共に廃絶したようである。■■■■■
また、後北条氏の占拠以前は在地豪族の伊東氏が蟠踞し、後北条軍の侵攻に抗したとも言われるが…果たして?

虎口一帯は強力な防御■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現在、龍爪神社が建つ山頂部に不等辺形状の本丸が置かれ、そこから梯郭式にいくつかの曲輪が並ぶ。これらの
曲輪群は重厚な空堀で区切られ、土橋などの遺構も比較的良く残っており申す。その形状をして、研究家の中には
「二重の馬出」と表現する方もいらっしゃるようで、“街道監視の城郭”として守りを堅くしていた鎌田城の重要性を
物語っている。曲輪群の下はかなり急峻な斜面となっているため、敵兵の接近は容易ではなかっただろう。■■■
一方、伊東市教育委員会により1997年(平成9年)に縄張調査、2002年(平成14年)〜2003年(平成15年)にかけて
発掘調査が行われ、その結果では中世の陶器などが多数出土しており、城内では日常的な生活が行われていた
ようでござる。ただ、これらの出土遺物はいずれも15世紀末頃までの陶磁器類なので、後北条氏が入渠する前の
物ばかり。となると、この城を用いていたのは伊東氏?後北条時代には既に廃城となっていた?とも考えられる。
縄張的には後北条氏が改造したような強固で技巧的な構造にも見えるのだが、発掘では焼土層も確認されており
やはり伊東氏の落城によって廃されたと推測するのが順当なのだろうか?なかなか難しい問題だ。■■■■■■
そんな歴史遺産である鎌田城山に脚光を当て、松川湖周辺の景勝地と共に観光資源として活用するために地元の
NPO団体がハイキングコースの整備を行った。2001年(平成13年)に土地所有者らとの話し合いを纏め、案内板の
設置や路面工事が為された後、翌2002年4月に開通。城跡からは眺望抜群、松川湖のダム堤がよく見える。奥野
トンネルの東側出入口の脇、ハイキングコースの登り口に数台分の駐車余地あり。そこから城山山頂まで徒歩で
約40分。山塊尾根上まで20分、そこから城域入口まで更に10分、あとは城址の見事な遺構を堪能しながら10分!
経路は非常に整備が行き届いているので、特別な登山装備など必要なく歩む事が出来よう。■■■■■■■■■
歴史と文化、観光の名所となった城跡は2017年(平成29年)10月19日、伊東市の指定史跡となってござる。■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群等
城域内は市指定史跡




高天神城攻防戦城砦群  山中城・長久保城・葛山氏館