伊勢新九郎の本拠地■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
伊豆半島の付け根に位置する町、韮山。ここは歴史に所縁の深い町で、古くは源頼朝が流人生活を送った蛭ヶ小島、
江戸時代の韮山代官である江川氏邸宅(下記)、そして黒船来航による海防政策で作られた世界遺産・韮山反射炉跡
など、多くの史跡が残っている。そんな中で戦国時代の遺構として存在するのが、この韮山城。江川邸のすぐ隣にある
小さな山(写真)が韮山城跡なのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
韮山城の創建について詳細は知られていないが、江戸時代に編纂された戦国大名北条氏の逸話集「北条五代記」に
よれば、文明年間(1469年〜1487年)に、室町幕府出先機関の堀越公方(下記の堀越御所参照)足利政知(まさとも)
配下の将・外山(とやま)豊前守が築いたとされる。城内に勧進された熊野神社の創建年代から、1500年(明応9年)頃
迄には築城されたと推測する説があり、それが正しいならばこの築城説も頷けるものがあろう。■■■■■■■■■
しかし政知の死後、義母・義弟を殺害して堀越公方家の家督を奪取した足利茶々丸は、その悪辣な手腕を家臣らに
嫌われて離反を招き、1491年(延徳3年)この騒動に付け入った伊勢新九郎盛時(いせしんくろうもりとき)、後の北条
早雲によって滅ぼされた。茶々丸がどのように討たれたかには近年の再検証で再考する点もある訳だが、ともあれ
これにより伊豆全土は盛時の支配下に入ったのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
韮山城は盛時の居城になり、全面的な改修が加えられたようである。このため、韮山城の築城を盛時、つまり早雲の
手に拠るものとする説が一般的になった。従来、伊豆を奪った盛時は疾病に苦しむ民へ薬や医師を行き渡らせたり、
地侍に真っ当な権利と所領安堵を約束し、家臣団として組織化する事に成功、これが氏盛勇躍の原動力になったと
されていた。それに加え最近では、伝承や地質を精査した事により当時発生した大津波の災害復興に盛時が尽力し
こうした民心慰撫もまた氏盛の地盤固めに繋がったと考えられるようになった。盛時はこの城を基盤として伊豆国の
平定を成功させ一大勢力を築き、さらには小田原城(神奈川県小田原市)の攻略、相模国(神奈川県西部)への版図
拡大を為す。その後、氏盛より後代の後北条氏(鎌倉幕府執権の北条氏と区別して戦国大名の北条氏はこう呼ぶ)は
小田原城を本拠として関東攻略を目標にしていくが、晩年の盛時は韮山城へとたち戻り、1519年(永正16年)この城で
没したという。当時としては大変な長命といえる88歳での死去であった(64歳説もあり)。■■■■■■■■■■■■
豊臣軍の包囲にも耐える■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて早雲の死後も、韮山城は後北条氏による伊豆統治の根拠地とされ、“伊豆衆”と呼ばれる後北条氏配下の伊豆
武士団を束ねる一大拠点であった。1559年(永禄2年)2月に策定された後北条氏の軍役台帳「小田原衆所領役帳」に
伊豆衆の規模は有力武将15人の規模と記載され、本拠地たる小田原の背後を固める重要な地位を占めていた事が
確認できよう。駿河侵攻を行った甲斐の武田軍が後北条氏牽制の目的で1570年(元亀元年)8月に韮山城へも攻め
寄せており、黄瀬川(きせがわ、御殿場から沼津へ流れ狩野川に合流する大河)の河畔に本陣を置いた武田信玄が
諏訪四郎勝頼(信玄4男、後の武田勝頼)・小山田左兵衛尉信茂・山県三郎兵衛尉昌景らに命じて攻城を行わせるも
城を預かる北条美濃守氏規(うじのり、後北条氏3代当主・氏康の3男)は守り切っている。■■■■■■■■■■■
こうして統治体制を確立した小田原後北条氏は5代96年に渡って繁栄していき、韮山城へは伊豆郡代に任じられた
笠原氏や清水氏らの重臣が入ったが、終焉を迎えたのは1590年(天正18年)の事。中央政権を握り、天下統一へと
王手をかけた豊臣秀吉は、関東の支配者として君臨した小田原後北条氏を最後の敵と定め、討伐を開始したのだ。
同年3月から攻略に着手した豊臣軍は陸海合わせて約22万もの大軍で小田原城を囲み、韮山城も3月29日から織田
信雄(のぶかつ、信長2男)・細川越中守忠興(ただおき)らが率いる豊臣勢4万4100の包囲を受けたのでござる。■■
だが、北条氏規が指揮し僅か3600の兵力で籠城する韮山城は、この大軍をものともせずに抵抗を続ける。そのまま
韮山城はなかなか落ちずに戦線は膠着。結局、籠城は4ヶ月近くにも及んだ後、氏規と外交交渉などで交友関係を
持っていた徳川家康が説得し、6月24日に開城となった。実際に見てみると、とても兵4万に耐えた堅城とは思えぬ程
小さな山に見えるのだが(縄張については後記)むしろ小さいからこそ城兵にとっては守り易かったのかもしれない。
ひょっとすると豊臣軍が小城と侮っていたのかも?韮山城を守った氏規は卓越した政治感覚の持ち主で、秀吉との
戦争を望んでいなかったとも言われており、あるいは水面下で様々な駆け引きがあったのかも?? 実際、氏規は
秀吉に許されて北条の家名を存続させており、韮山城をめぐる謎は尽きない…。■■■■■■■■■■■■■■
小田原城も開城して後北条氏が倒れた後、その遺領である関東地方や伊豆は徳川家康の領土とされた。韮山城は
家康配下の武将・内藤豊前守信成(のぶなり)が8月に1万石を与えられて城主となる。しかし、秀吉没後の覇権を
賭けた1600年(慶長5年)9月15日の関ヶ原合戦に勝利した家康は天下の主に収まる。全国的に大名の配置換えを
行った家康の命により信成は駿府(静岡県静岡市)4万石へと移封され、これに伴って1601年(慶長6年)韮山城は
廃城となったのでござった。以降、城山は韮山代官の御囲地となり手付かずのまま保全されていた。■■■■■■
周辺出城と連携した韮山城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現在の韮山城跡周辺は公園となっているものの、城郭の人工的な整備はあまり行われていない為、城山の内部は
ほぼ手付かずの状態。この山は殆どが冒頭に記した江川家が所有する私有地だそうな。東西およそ150m程なのに
対し、南北には350m以上もある細長い城山は、山頂も同様に細長く平坦部が延びている形状。この山頂部の北端
(海抜53m)に本丸があり、そこから北側へ段を下って二ノ丸・権現平・三ノ丸といった曲輪址や土塁、空堀等が残る。
他方、山頂部の南端(本丸の南側)には塩蔵曲輪があったと伝わる。実はこの地点が海抜54.8mを数え、城山では
最も高い地点に当たる。塩蔵曲輪より南側は急崖で落ちる地形で、南端から山へ登る事は不可能。また、各曲輪の
東西両側も切り立った崖で、そこから侵入する事も難しい。結果として城山の北端、三ノ丸から順に一つずつ曲輪を
落とすしかない訳だ。故に、この城の大手は城山の北に当たり、現代ではあまり使われなくなった小字(あざ)名でも
「大手」の地名が残っていた。加えて、城山の脇にある静岡県立韮山高校はかつての韮山城主居館跡地であった。
このため、同様にこの場所は「御座敷(おざしき)」と呼ばれる地名が残っているのでござる。■■■■■■■■■■
さて、城山と御座敷周辺だけを見る限り、韮山城はかなり小さな城郭。本当にこれで伊豆の本拠地?4万の軍勢と
渡り合ったのか?と疑いたくなる程だ。山中にある曲輪も小さく、いびつな台形をした本丸は最大幅でも東西30m×
南北40m。長方形の二ノ丸も東西20m×南北45mくらい。熊野神社がある権現平(権現曲輪)も30m四方程度のやや
ひしゃげた四角形でしかない。最も広い三ノ丸は北端の標高が25.9m〜南端の標高が26.9mと緩傾斜地で、東西に
45m×南北100m。弓なりに湾曲した長方形を成す。塩蔵も物見台程度の大きさでござった。城外の標高が平均して
海抜18m程度、三ノ丸までの比高が8m程で、本丸までは35mとなる。山容は小さく、大軍の収容は不可能だ。しかし
どうやら昔は周辺が湿地帯だったようで、実は攻城軍の展開が難しい場所だそうな。現在、城山の東には「城池」と
呼ばれる農業用水池が造成整備されているものの、当時は当然ながら自然の池(つまり城の水濠)だった訳であり
更には韮山高校の西側も「外池(そといけ)」すなわち外濠が掘削された状況にあった。要するに、韮山城はぐるりと
巨大な湖と濠に囲まれた環境に置かれ、加えて韮山城の南方にある標高128.5mの天ヶ岳山も出城として利用され
この山の各所に独立した砦群が多数構成されていた。こうなると話は別で、韮山城は周辺一帯の城砦群と連動する
大規模な軍事要塞として機能する事になる。また、小ぶりだからこそ韮山城本体の各所には技巧的な防御構造が
重なり、敵を食い止める為の罠がそこかしこに見て取れ申す。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
故に、韮山城を攻略せんとした豊臣軍は大掛かりな攻撃を控え、一連の韮山城〜天ヶ岳城砦群の東側にそびえる
伊豆山地本体の裾野部分や、外池を挟んだ濠の外側に陣地を展開し遠巻きに包囲する事となった。斯くして長期
籠城戦となり、外交戦略で北条氏規の開城へと至った訳だが、仮に力攻めを行ったとしたら豊臣軍の攻略作戦は
如何なるものになったのか?籠城軍の戦術は?ますます韮山城をめぐる謎は深まるばかりでござる…。■■■■
城の別名は龍城。城山も龍城山と呼ばれている。周辺にある蛭ヶ小島や江川邸が文化財指定されている一方で
韮山城は史跡指定されていない。しかし伊豆の国市では未指定文化財として認知しており、過去には発掘調査も
行われた。それに拠れば、堀や屋敷地が城を取り囲み、石敷きの道路や屋敷の園地が検出されている。韮山城の
周囲には計画的に造成された城下町が整備されたと見られ、その地割りは現在の地籍にも部分的ながら合致して
いると言う。やはりこの地は伊豆の中心として栄えた場所だったのだろう。その伝統を受け継ぐべく、市では2014年
(平成26年)3月に「韮山城跡『百年の計』」と題した保存活用計画を策定。今後、周辺の歴史文化施設と連携して
順次整備開発が行われていく模様でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
|