遠江国 二俣城

二俣城天守台

 所在地:静岡県浜松市天竜区二俣町二俣
 (旧 静岡県天竜市二俣)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★■■
★★☆■■



遠州平野“扇の要”■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
別名で蜷原(になはら)城。「二股」の字を当てる事も。遠江国豊田(とよだ)郡二俣にあった山城。■■
遠州平野は天竜川の扇状地としてできた地形で、東の掛川台地・西の浜名湖を両端とすると、二俣は
まさしく扇の要にあたる場所であった。故に遠州平野を制する為には、東の掛川城(静岡県掛川市)
西の浜松城(静岡県浜松市中区)とこの二俣城を押さえる事が必須条件となる重要な城でござった。
文献上で二俣城の名が出るのは南北朝時代、1338年(延元3年/暦応元年)1月の事だ。遠江の御家人
内田孫八郎致景の軍忠状に二俣城で戦いがあったと記される。但し、ここで記された二俣城の詳細は
不明である。戦国期の城とは異なり、南北朝の争乱で用いられた城は仮設の砦程度と推測されよう。
この後の文献では「遠江国風土記伝」で二俣近江守昌長が文亀年間(1501年〜1504年)に二俣城を
築いた、とある。この頃の二俣城は現在の地とは異なり、山麓の平野部(現在の天竜区役所付近)に
置かれていた館らしきものと考えられるが、ともあれ今川被官の二俣氏が築城したという記録なので
これが当城の起源と見るべきでござろう。ただし、現状の山城とは別のものになるため「笹岡古城」と
呼ぶ事もある。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
一方で信濃守護・小笠原氏の記録である「小笠原文書」の中に1501年(文亀元年)来援要請に応えた
小笠原軍が斯波氏の拠点である二俣城に入ったとあり、今川方の二俣氏が構築した城という伝承とは
矛盾する。創建当初の二俣城については、なお検証の余地があり、確定的な事は言えないようだ。
だが「小笠原文書」も1506年(永正3年)今川一族の瀬名一秀(せなかずひで)が二俣城に在城したと
記しているため、築城後数年で今川勢力が保有する事になったのは間違いない。城主・二俣昌長は
1514年(永正11年)頃に米倉城(こめぐらじょう、静岡県周智郡森町)へ移り住んだと伝わり、代わって
今川重臣の松井左衛門尉信薫(のぶしげ)が入る(異説あり、松井山城守義行入城説など)。■■■
1528年(享禄元年)2月3日に信薫が病没すると、松井家の家督と城主の座は弟の五郎八郎宗信が
継承。宗信は今川義元の腹心として三河・尾張方面の攻略に力を尽くし今川領の西方拡張に大きく
貢献している。ところが1560年(永禄3年)5月19日、桶狭間合戦で主君・義元共々討死してしまった。
三河で徳川家康が今川支配を脱し独立する中、急遽家督を継いだのは宗親(信薫の子)であったが
彼は家康になびいた曳馬(浜松)城主・飯尾連竜(いいおつらたつ)の縁者であった事から、今川氏真
(うじざね、義元後嗣)に誅殺されている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
結局、二俣城主に落着いたのは宗信の子・八郎宗恒(むねつね)。同年12月に家督継承を氏真から
認められ、3000貫を与えられたのでござる。松井氏の在城時代(宗信の頃か、あるいは宗恒の代)
笹岡古城の場所から現在地である城山山頂に城が移され整備されたと見られている。なお、当時の
天竜市役所(現在の浜松市天竜区役所)庁舎建築に先立って行われた発掘調査では、笹岡古城
時代の遺物とみられる陶磁器類や井戸跡・柱痕などが検出された。■■■■■■■■■■■■■

武田軍、水の手櫓を破壊!■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、義元戦死後の今川氏は急激に衰退していき、二俣の地は西の徳川家康と北の武田信玄から
狙われる事になる。今川氏滅亡を機に、松井宗恒は信玄に降ろうと図るが、逆に家康から攻められ
降伏。家康は宗恒と共に二俣城にあった鵜殿石見守氏長(うどのうじなが)を城代に任じ申した。
一方、二俣城を巡る戦いは徳川対武田という展開へと変化していく。両者共通の敵だった今川氏が
滅んだ今、今度は徳川と武田が直接的に領土の奪い合いを行うようになったのだ。信玄の侵攻が
危惧されるようになると、鵜殿に代わって徳川譜代家臣の中根正照が城主とされる。■■■■■■
斯くして1572年(元亀3年)10月、武田軍が二俣城へと来襲。信玄の命により二俣城攻略の大将と
任じられたのは武田勝頼、信玄4男にして次期武田家当主だ。■■■■■■■■■■■■■■■
この当時、二俣城のあった山は大河・天竜川とその支流・二俣川の結節点にあり、両川に挟まれた
城はほぼ全周が流れの速い深瀬に囲まれていた。現在は二俣川の流路が河川改修にて改変され
天竜川のみに面している訳だがそれでも難攻不落ぶりは十分に窺える。況や、これに二俣川までが
城を取り囲んでいたのだから天下無敵の武田軍とておいそれとは攻め込めず、勝頼らの兵は城山を
包囲するのみで持久戦の様相を呈したのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところがある日、武田軍は城兵が川から水汲みをする様子を目撃。河川に囲まれた城は井戸が
不要だった反面、急流に井楼櫓を架けてその釣瓶から水を得る方法に頼っていたのである。これを
知った勝頼は、川の上流から沢山の筏を流し、水の手櫓に激突させた。櫓が破壊された為、城方は
水の確保が不可能となってしまい、それまで2ヶ月近く籠城を続けたものの、敢え無く開城せざるを
得なくなったのである。ここに二俣城は武田方のものとなり、勢いをつけた信玄は本格的に遠州平野
侵攻を開始する。斯くして惹起されたのが、あの三方ヶ原合戦である事は言うまでも無い。二俣城を
得た武田方は、すぐさま城の修築にも取り掛かっている。■■■■■■■■■■■■■■■■■

武田と徳川の奪い合い■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところがこの直後、信玄が陣中で病没する。武田軍はこれ以上の作戦行動が取れなくなり、奪った
各地の城郭に守備兵を残して本拠地の甲斐国へと引き上げてしまった。信玄の死で勝頼が武田の
家督を継承、亡父の偉業を継がんと態勢を立直し再び遠州攻略に乗り出すが、一方で戦国の巨星
信玄の死を知った家康もまた勝頼打倒に向けて動き出し、二俣城や遠江国内の情勢はより一層の
緊迫感を帯びていく。武田方は二俣城主に信濃先方衆の依田信蕃(よだのぶしげ)を入れ、家康は
1573年(天正元年)6月にそれを攻撃。しかしこの城攻めは不首尾に終わり、信蕃は堅く城を守り
続けた。他方、勝頼は1574年(天正2年)高天神城(静岡県掛川市)を落として勢いを得るが、翌
1575年(天正3年)の5月21日、長篠・設楽原の戦いで織田・徳川連合軍に大敗を喫した。■■■
以後、勝頼は劣勢を覆せず武田家は徐々に滅亡へと向かっていく事になり、徳川軍の二俣城に
対する攻勢は自ずと勢い付いていくのである。既に1573年6月の攻城にて、家康は二俣城への
付城(攻略・包囲拠点としての対抗城郭)である合代島城・屋城山城・道々城を築いていたが、
長篠合戦直後の6月、更に追加の付城たる毘沙門堂砦・蜷原砦・和田ヶ島砦・鳥羽山城(下記)を
構築して二俣城の監視を強めた。この圧迫で二俣城兵は籠城を余儀なくされ、7ヶ月もの間耐え
忍んだものの遂に12月24日、開城する事となった。この際、城主・信蕃は城兵全員の助命を降伏
条件とし、毅然とした対応で城を退去。撤退の折、城内は綺麗に清掃されていたという。■■■■
ちなみに信蕃は武田家の滅亡まで忠義を尽くし家康に抗し続けるが、その忠節・剛毅を見込んだ
家康は勝頼没後に彼を家臣に加えたのでござった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
宿願の二俣城奪還を果たした家康は、家臣の中でも武辺者として知られた大久保忠世(ただよ)を
城将に任ず。この後、武田軍は二俣城の再攻略を度々行うも、防備を固めた徳川軍から城を奪い
返す事はできなかった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

三郎信康、二俣城にて自害■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところで、徳川支配下の二俣城で必ず話題となるのが家康長男・岡崎三郎信康の件だ。信康は
徳川家嫡子として将来を有望視され、織田・徳川同盟の証として信長の娘である五徳姫を妻に
迎えていた。ところが、信康と五徳の間は不仲であったと言われ(諸説あり)信康の生母・築山殿
(家康正室の瀬名姫、上記の瀬名一族つまり今川の血筋)が実家である今川家を滅ぼされた事に
恨みを持ち信康共々武田方へ内通したという疑惑までかかり、信長は築山殿・信康両者の排除を
家康に要求するようになった。実は有能すぎる信康に、織田家嫡男・信忠の立場が危うくなると
危惧した信長が粛清したとする説もある程だが、兎も角、信長に逆らえない家康は断腸の思いで
これに従う。築山殿は1579年(天正7年)8月29日に討たれ、二俣城に幽閉された信康も9月15日
自刃。介錯人の服部半蔵正成は主命なれど信康の首を刎ねる事ができず、検死役の天方道綱
なる者が代わって手をかけたと言われる。正成はこの後、信康の菩提を弔う寺を建立し、道綱は
家康が慟哭する様を見て出家したそうだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
後年、関ヶ原合戦に際して家康は「息子(信康)が生きていれば」と嘆息したとも言われるが、徳川家
悲劇の舞台となったのがここ、二俣城だったのでござる。関ヶ原での戦いは1600年(慶長5年)の
9月15日、奇しくも信康が没してから21年後の同日であった。■■■■■■■■■■■■■■■
嫡男を失いながら、戦国争乱を勝ち残る家康は武田遺領も併呑して中部地方5ヶ国の太守にまで
勢力を伸ばしたが、信長没後に天下統一事業を継承した豊臣秀吉から命じられ1590年(天正18年)
関東への国替えを受け容れる。東海地方各所は秀吉の息がかかった大名に宛がわれた。■■■■
旧説では、二俣城は大久保忠世が相模国小田原(神奈川県小田原市)へ退去すると共に廃城処分
されたと言われていたが、近年では再考され、新たな浜松城主となった堀尾吉晴の弟である堀尾
宗光が城主になったとされる。このため、城は堀尾氏の手によって更なる改造が施され、いわゆる
織豊系城郭の要素を取り入れた。これが現在に至る二俣城の最終形態となってござる。■■■■
されど、関ヶ原の勝利で家康が天下の主になると堀尾家は出雲国松江(島根県松江市)へと転封
される。こうして三たび徳川が手にした二俣城であったが、もはや戦国城郭に活躍の機会はなく、
今度こそ廃城になり申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

城主ごとに拡張された縄張りだが…■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城の構造であるが、時代の変化につれて諸々の改修が施されているものの基本的には今川時代の
ものを踏襲し続けている。西に天竜川、東〜南を二俣川で塞がれた城山は、北側だけが尾根続き。
城山山頂部に本曲輪(本丸)を置き、北に北曲輪、南に蔵屋敷郭と南曲輪がほぼ一直線に配置され
本曲輪の西側には、天竜川に岬状の突出しがある地形を利用した西曲輪が腰曲輪状に接続する。
この縄張を取り巻き、今川時代には北側尾根を遮断すべく北曲輪の外に大堀切が穿たれていた。
徳川期になると、北曲輪と本曲輪の間にも堀切が掘削され、城の崖面に沿って竪堀も構築。また、
西曲輪に井楼櫓(井戸櫓)を置いた事から井戸曲輪として位置付けられ申した。さらに武田期では
本曲輪の大手入口を北曲輪との接続部分から南東側(蔵屋敷郭への迂回路側)に改変。■■■■■
戦闘正面も南側(対徳川領)になった事を受け南曲輪周辺に帯曲輪を増強、竪堀や堀切も随所に
追加された。徳川が奪還して後、本丸内に天守が構えられたと見られ(堀尾時代の可能性もある)
それが最終的に堀尾氏の手により石垣造りの織豊系城郭へと整備されたようだ。なお、この際に
本曲輪が上段と下段に区分され、本丸と二ノ丸という具合に変更されている。■■■■■■■■■
ただし、馬出や出丸といった“兵力集中拠点”は武田系・織豊系のいずれにおいても構えられず、
やや旧態然とした縄張と言った印象だ。川に挟まれた城山そのものが天険の要害であり、また、
敷地面積にも限りがあるため、致し方ないのかもしれない。それ程までに、この城は堅固な要塞
だったのだろう。本丸最高所の標高は86m、直下の天竜河畔は36mなので、比高50mの山城は十分な
防御力を有していよう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現在、城跡は城山稲荷神社ならびに二俣城址公園の敷地になっている。公園整備によって、特に
北曲輪周辺が部分的に破壊されてしまっているが、城跡としての全体的な雰囲気は満足な程に
感じられる。何と言っても、天守台石垣が見事に残存している(写真)のが良い。■■■■■■■
(オフレコだが、どうやらこの天守台石垣は昭和初期に一部古態を無視した修築がされたとか…)
1961年(昭和36年)12月1日、当時の天竜市(後に浜松市が承継)指定史跡になったが、2018年
(平成30年)2月13日、下記の鳥羽山城と併せて国の史跡に指定され申した。■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・石垣・土塁・郭群等
城域内は国指定史跡








遠江国 鳥羽山城

鳥羽山城跡石垣

 所在地:静岡県浜松市天竜区二俣町二俣
 (旧 静岡県天竜市二俣)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★☆■■
★★■■■



二俣城にピッタリと寄り添う城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
上記、二俣城の項で記した通り武田・徳川による二俣城争奪戦で築かれた陣城。■■■■■■■■
(一部、今川時代からあった城とする説もある)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
場所は二俣城の一つ南側にある山で、当時は両城の間を二俣川が流れていたが、距離にして僅か
500mしか離れていない。この城のある本城山の標高は108m。二俣城の城山よりも高く、また南側に
位置しており、遠州平野への眺望はこちらからの方が断然良い事になる。しかし山容が大きい事から
全体的になだらかな山となっており、「険峻な要害地形」という点では二俣城の方が優れている。
徳川勢を陥れた武田軍が二俣城を拠点としたのは、こうした理由に拠るのであろう。だが、二俣城と
指呼の間にあるこの山は、二俣城を監視するには最適の地と言え、故に徳川方が付城として活用
したのも納得でござる。尤も、眼前の山に陣取られる事を看過した二俣城の武田軍はよほど自信が
あったのか?それとも逆に妨害出来ぬほど窮していたのか?■■■■■■■■■■■■■■■
鳥羽山築城に関しては、様々に憶測できるぶん謎めいている。■■■■■■■■■■■■■■
ともあれ、他の付城群の中でも最大級の規模を誇ったこの城は、徳川軍の二俣城包囲戦における
中枢基地となっている。仮に“駿遠の太守”である今川時代から鳥羽山城があったとしても、恐らく
二俣城に付随し「一城別郭(1つの城の中で、主郭となる場所が2箇所(以上)あるもの)」のように
機能するものであったのだろうから、この城が主役として活用される程ではなく、出城程度の構え
だったのだろう。徳川軍が二俣城攻略に用いる事でようやく“戦国の城”としての形態を有すように
なった訳で、結果的にはこれを以って築城されたと考えるべきなのかもしれない。斯くして先陣を
拝する実戦城郭となった当城は、二俣城に孤立する武田軍をきゅうきゅうと締め上げた訳である。
二俣城が落ちた後は、両城が並んで徳川方の拠点となった。これでまさしく「一城別郭」の態勢が
完成した事になる。そしてそのままこの状態は堀尾氏に引継がれ、廃城もまた二俣城と同じ運命を
辿った訳だ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

庭園や石垣を有する城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかし「天険の要害」であった二俣城に対し「兵力駐屯拠点」として用いられた鳥羽山城は、性格を
異にしたようだ。即ち“大きな山容=大きな縄張を有する城”であった鳥羽山城は、“戦闘拠点”に
特化した二俣城に相対する“平時の城館”としての機能に分化したと考えられる。それを物語るべく
何と鳥羽山城内には枯山水庭園が築かれていた事が判明している。戦国城郭において、大名の
居城となるような大城郭以外でこうした庭園遺構を有する城は極めて稀である。■■■■■■■
さらに鳥羽山城では、大手口など要所に石垣を用いている(写真)。二俣城では天守台や曲輪の
隅部等“城の防備を固める場所”に石垣を使用したが、鳥羽山城では“城主の威厳を示す場所”に
石垣を配しており、「見せる城」としての概念が取り入れられていた。おそらく堀尾氏が、主家である
豊臣秀吉の城造りを意識して鳥羽山城にこのような石垣を構築したのだろう。つまり「戦時の山城
(詰城)に対して、山麓で壮大な居館を築く」が如く「戦時の二俣城に対して、居城となる鳥羽山城を
用いる」という一城別郭にした訳だ。鳥羽山城は、二俣城とは全く違う形で織豊系城郭への変貌を
遂げたのだが、そういう意味では「近世城郭としての要素も取り入れられていた」と推測できよう。
さりとて、縄張としては戦国城郭としての強固な防衛性を有したものである。山の最高所に本丸を
置き、そこから南東方向に山を下る段を仕切る形で二ノ丸・三ノ丸・蔵屋敷などの曲輪群が並ぶ。
他方、本丸の北西側(天竜川に突き出す突端部)には搦手口側の笹曲輪。この他、北曲輪や各所
帯曲輪・腰曲輪が結接。さらにこれらは大掛かりな堀切や竪堀で囲われ“なだらかな山”の弱点を
補強している。二俣城が地形をそのまま利用していたのに対し、こちらは巧みな作り込みで城郭を
形作っているのでござる。加えて、曲輪毎の虎口は枡形を形成。礎石建物もあり、これぞまさしく
“織豊系城郭”として整備し直された証左と言えよう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■

晴れて国史跡に■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
廃城の後、昭和に城山は鳥羽山公園として整備・解放されたが、城跡としての調査は行われて
いなかった。この為、公園の管理人となった郷土史家・鈴木喜代治氏が1951年(昭和26年)から
20数年をかけ、1人で地道に発掘を行ったと言う。その結果、鳥羽山城の壮大な構えが明らかに
なり、1974年(昭和49年)〜1975年(昭和50年)にかけて天竜市(当時)教育委員会が本格的な
発掘調査を開始するに至った。これにより上記のような庭園・泉池・礎石建物痕をはじめ、暗渠
排水溝なども有した高度な築城技法で構えられた城跡だった事が判明。石垣も文禄・慶長年間
(堀尾時代)の構築と考えられる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さらに採寸の結果、大手道(写真の位置)の幅は6mにもおよび、静岡県内の中世城郭としては
最大級の規模を誇った事が判っている。大手を大きく構える事は、城主の権威と武力を尊大に
見せる事を意味し、豊臣政権の実行者である堀尾氏の権勢を喧伝する意図があったのだ。■■
加えて、この調査では北宋銭や古瀬戸など多くの中世陶器片が出土。鳥羽山城が“生活の城”
だったと同時に、戦国前期から使用されていた可能性を示した。徳川築城以前、今川時代から
当城が存在した説はこれにより現実味を帯びる事になろうが、それだけで築城時期を断定する
訳にはいかないので、いま少し精査が必要でござろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
兎にも角にも、城内各所に残された石垣は、逆に「本当にこんなに石垣があったの?」と疑いたく
なるくらいに多くある。また、展望台から望む遠州平野の眺望は御見事。公園となり改変を受けて
しまっている点は致し方ないとして、二俣城と併せて是非とも見学して頂きたい城址でござる。■■
駐車場もあるので、車で来訪可能だ。二俣城が国史跡になると同時に、こちらも国史跡に指定。■■



現存する遺構

堀・石垣・土塁・郭群等
城域内は国指定史跡








遠江国 高根城

高根城跡

 所在地:静岡県浜松市天竜区水窪町地頭方
 (旧 静岡県磐田郡水窪町地頭方)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★★
★★★★



南朝親王の“仮宮”に始まる?■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
室町時代の創建、倒れた南朝方の反抗拠点の如く作られた城だが、戦国期には甲斐武田氏から
大改修を受け、この時代でも屈指の山岳要塞として機能した城である。そして近年では発掘調査の
結果に基づいて戦国期城郭の姿を忠実に再現した名城として高い評価を謳われてござる。■■■
伝承では現地の豪族・奥山金吾正定則が、尹良(ゆきよし)親王(読み方は異説多数)を守護する
仮宮として1414年(応永21年)築いたとか。この尹良親王なる人物の母親は井伊行直(道政)の娘、
父親が宗良(むねなが、むねよしとも)親王だと言う。井伊氏は後に“徳川四天王”の井伊直政や
その後裔である幕末の大老・井伊掃部頭直弼を生み出したあの井伊家であり、南北朝時代には
宗良親王を居城の井伊城(静岡県浜松市北区)へと迎え入れ、積極的に南朝方を支援し北朝方の
今川家(駿河太守)と戦い続けていた。然るにその宗良親王は後醍醐帝の第四皇子で、南北朝の
争乱において、全国で味方を募る為に後醍醐天皇が東国へ派遣した。一説には南朝方での征夷
大将軍に任じられていたとも。このように高貴な血統の人物を迎えた事で行直は南朝に心酔し、
生涯を戦いに費やす事になる訳だ。宗良親王は後に信濃へ転じ信濃宮とも呼ばれるが、最終的な
同行は不明で、井伊谷に墓があったり、信濃で没したとも、また他の説も唱えられている。ともあれ
伝承が正しくば尹良親王は後醍醐天皇の孫という事で、宗良親王の忘れ形見を遠江の諸豪族が
崇敬していたのも筋が通る話だ。城は河内川と水窪(みさくぼ)川の合流点付近に屹立する険阻な
山の上(通称で三角山、九頭合の山頂)にあり、平時における親王の仮宮は水窪川の対岸、現在の
JR飯田線水窪駅の西にある集落付近に置かれたと言う。現在でもこの集落の字(あざ)名は大里で
内裏を意味する「大里」から採られた地名である。また、大里集落の北側には小畑と言う字があり
これも尹良宮の「御旗」を奉じた事から転化した地名だそうである。■■■■■■■■■■■■■■

武田軍、街道の要衝を占拠■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかし1414年と言えば既に南北朝合一後(南北合体は1392年の事)であり、北朝の勝利は決定的。
遠江国も今川家の領国と化し、奥山氏も臣従を余儀なくされた。この間、奥山氏の来歴に拠れば
定則―大膳亮良茂―能登守定之―民部少輔貞益と代を重ねたが、桶狭間合戦によって今川家が
没落すると、奥山家の去就も難しい舵取りを迫られていく。今川領は侵食され、水窪の地は南から
三河の徳川家康が、北からは信濃を占領した武田信玄が狙うようになっていた為だ。奥山一族内で
徳川に就くか武田に就くか意見が分かれる中、1569年(永禄12年)武田軍が高根城を攻撃し落城。
城主・貞益は討死を遂げる。この時、城を攻めたのは奥山氏と姻戚関係だった信濃の遠山土佐守
(景直?)であったが、既に遠山氏は武田方へと服従しており、縁戚を絶って貞益を討ったのだ。
武田方の強硬な態度に恐れを成した奥山一族であるが、貞益兄弟の仲は悪く、この状況下でも
互いに抗争を繰り返していたようだ。その様子を裏付けるように、この時期の水窪郷に対して今川
氏真・徳川家康・武田信玄それぞれから安堵状が発給されている。結局、貞益の末弟(定之4男)
兵部丞定友とその子・左近将監友久は徳川方へ走り、後に井伊家の家臣団に組み込まれた。一方
貞益の三弟(定之3男)加賀守定吉の系統は武田家に臣従、これにより武田軍が高根城へと進駐し
城は接収され申した。以後、高根城は武田流築城術に基づいて堅固な防備が施されるようになる。
ちなみに、定吉の跡を継ぐ子・大膳亮吉兼には信玄から袋井近辺に新領地が宛がわれたのだが、
この時代、まだそこは武田の版図に組み入れられていない。これは事実上“空手形”のようなもので
武田家は高根城を奪った上に体よく奥山氏を追い遣ったような感じであった。■■■■■■■■■
そうまでして武田軍が欲した高根城は、眼下に秋葉街道を望み、また水窪川〜天竜川水運を掌握
できる交通の要衝にして、信濃から三河・遠江への眺望を管制可能な軍事拠点である。現在でも
秋葉街道は国道152号線として存続しており、国道や川を下れば二俣城へと至る事に変わりない。
上記の通り、二俣城は遠州平野の「要」であり、武田軍が本拠地の甲斐・信濃から二俣城を攻略
するには必要不可欠な城(逆に、南から徳川が攻め上がって来た場合の絶対防衛圏)であった。

山城の決定版と言える構造■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
そもそも、城山の標高は420m。水窪川の川面が海抜232mなので、比高200m近くになる険峻な
地形。これを武田流の山城に改造すれば、相当に堅固な要塞となるのは必定であった。斯くして
北の最高地点に本郭を置き、そこから南側への緩斜面上に二郭、更に三郭を置く連郭式の縄張が
出来上がる。各曲輪の間はザックリと深く掘り込まれた堀切で分断され、特に三郭の南側、城外と
区別する地点では強烈な二重堀切を構えて南側からの侵攻(故に、戦闘正面はこちらであろう)に
備えた。城内への導入路はこれらの堀切を迂回する細道に限られており、必ず上位の曲輪から
撃たれる構造。敵兵が如何に大軍で攻め寄せようと、この傾斜面では容易に動けず、細道では
一人一人がやっと通れる程度でしかないので、少数の兵でも十分に守れる構えとなってござる。
そもそも三郭は丸馬出(武田流お得意の)のような曲輪で、脇道から曲輪内に入るも、そこからまた
二郭下をくぐる道へと進んで行かねばならない。二重堀切を突撃し、三郭下への通路を走り込む
間、攻城兵は常に三郭や二郭からの射撃に晒される。仮に三郭を落としても、これはまだ序の口、
再び堀切を突破しなくては先に進めない。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
二郭は独立した曲輪で、切岸によって周囲から隔絶している。郭内に入る道が無く、三郭側から
本郭へと至る道(二郭の麓を迂回するようになっている)より、梯子か何かで上がって来るように
なっていたと推測される。つまり、攻城軍は通路を通る間、上にある二郭から常に矢玉を浴び続け
その二郭を黙らせるには、切岸に取り付いて攻め登らねばならない訳だ。もし仮に二郭を無視して
本郭方面へ進むならば、二郭が生き残るので背後から撃たれる事になる。この地点が高根城の
最も堅固な構えと言え、攻め手に多大な犠牲を強いるであろう。尤も、逆に二郭の兵も敵が撤退
しない限り脱出するのは不可能で、「死ぬまで戦わないといけない」という孤立した状況にある。
この辺りが丸子(まりこ)城(静岡県静岡市駿河区)の半月堡塁と共通した設計思想で、武田流の
「仲間さえ助けない」「一点集中防御」という過酷な防御理論が感じられる。■■■■■■■■■■
本郭の手前には小さな腰曲輪。ここも小馬出のような構造で、門を構えて敵兵を足止めする。故に
二郭が生き残っている限り、攻城側は背後から銃撃を食らうのだ。その腰曲輪を突破しても、最後に
急な階段を登らねば本郭へは入れない。本郭には井楼櫓があったと推測され(詳細後記)侵入する
敵は雨あられと弓矢や鉄砲を撃たれる訳だ。然るにその本郭は小振りで、内部には小さな主殿と
倉庫、井楼櫓がひしめき合っていた。細尾根にあるため、城域全体の規模は東西40m程度しかなく
南北も150m弱の規模。なので、本郭も東西15m×南北20mくらいの楕円形。実に狭い敷地である。
高い山の上にある立地もあって、この城は大兵力の駐屯拠点として使われた訳ではなく、監視や
狼煙の中継地として用いられたのでござろう。その為、最小限の兵力を入れるに留め、それでも
守り切れるような“濃密に凝縮した縄張”を築き上げたと言える。さりとて、本郭を落とされたならば
城は終わりである。本郭の裏側(北側)には細い帯曲輪が取り巻くのみで、そこからは山を降だる
搦手道があるだけだ。この方面へは、他に堀切や曲輪のような阻塞は作られていない。その点でも
二郭の存亡が重要だったのだろう。二郭が生きているうちは本郭も安泰。二郭が陥落したならば、
腰曲輪の攻防で時間を稼ぐ間に城主は搦手から脱出と言う具合ではなかろうか。■■■■■■

実戦に供されたかは定かでなく…■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
とは言え、この城でそれ以後戦いが有ったとの記録はない。1572年、遠州攻略へと向かう武田軍が
高根城を拠点として南下したようだが、信玄が翌年に病没するやあっという間に風向きは変わって
長篠合戦で武田軍が大敗すると、この地域から武田勢力は撤収して行くのだ。それにより高根城は
廃されたとみられている。江戸時代になると、城山の山頂に旧主・奥山氏を顕彰する稲荷神社が
築かれて僅かながらの改変を受けたようだが、大きな遺構破壊などは無いまま近代まで眠りに
ついていた。余談ではあるが、武田方となった奥山吉兼の跡は弟の左馬允有定が継いだものの、
時代の流れと共に徳川方へと従わざるを得なくなり、子孫は大坂の陣に参戦したのを最後として
武家を離れ、帰農して周知郡相月(あいづき)村の村名主になったと言う。この相月村と言うのは、
高根城のある磐田郡水窪町の隣、磐田郡佐久間町(現在は共に浜松市天竜区)にあった。■■■
奥山氏の後裔は、高根城跡に先祖を祀る社を見つつ近隣の村から何を思ったであろうか?■■■

全国屈指「再現された山城」■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、現在の高根城であるが、良好な保存状態(何せ険峻な山上ゆえに全く手付かずなのである)が
注目され、1994年(平成6年)〜1999年(平成11年)にかけて本郭を中心とした念入りな発掘調査が
行われた。それによると本郭では礎石建物1棟・堀立柱建物2棟・礎石城門1基・堀立柱城門2基や
柵列1条を検出。掘立柱建物のうち1棟が2間×2間の井楼櫓と推定される。本郭手前にある腰曲輪
(馬出状の場所)からは堀立柱城門1基・木橋跡・梯子痕・柵列1条が見つかった。また、15世紀前半
〜16世紀中頃までを主とする遺物も発見。よって、存在が疑問視される尹良親王は兎も角としても
1414年に奥山定則が築城したという説は強ち間違いではないと考えられるようになっている。■■
何より、城内通路が確定的となった事例は全国初であり、この城の構造や機能が明確になった点は
大いに評価された。そうした発掘結果に基づいて、2001年(平成13年)城内各所に多数の建築物を
復元。「戦国山城の再現例」として全国から注目された。実際に現地へ行ってみれば、見事な堀切や
切岸は勿論の事、往時を見るような柵列や櫓、門などに感動されられる。そこから眼下に広がった
眺望も抜群(写真)で、最高の城跡を堪能できる。部分的に残る石垣にも注目だ。■■■■■■■
一方、この城で最大の謎は井戸が無い事だ。山城に水は生命線であるが、この山に水利は皆無。
となると、常に川から水を汲むか(比高200m…?)、雨水を溜め込むくらいしか水を確保する手段が
無い訳で、高根城での長期戦は難しい事になる。いったいどれほどの戦いを想定した城だったのか
気になるものでござるな。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
高根城跡は史跡公園となっており、城山の北側と南側にそれぞれ駐車場がある。そこまでの道が
狭い為に運転は注意が必要なものの、車で訪れる事のできる城だ。また、JR飯田線の向市場駅が
最寄駅で、頑張れば公共交通機関でも来訪可能。北側の駐車場(向市場駅も)は山の麓にあって
下車してからキツい山道を登らねばならないが、城山を攻める気分を味わうにはうってつけ。他方
南側の駐車場は山の尾根続きの場所にあり、車を降りてからの移動は楽。行く道も、大手側を
攻める形になるので高根城の堅固な構えを順番に味わうにはもってこいだ。城郭愛好家ならば、
完全再現された山城という存在の高根城は“一生に一度は行っておくべき城”である。■■■■
1982年(昭和57年)2月16日、水窪町(当時)の史跡に指定。別名で九頭合(九頭郷・久頭合)城。
NHKの大河ドラマ「おんな城主 直虎」の撮影もこの城で行われた。井伊谷城の再現場面として
用いられたのであるが、井伊氏と奥山氏の繋がり(両者は縁戚にして共に南朝方)や、地元である
浜松市内の城を使った事など、色々と感慨深いものがある選択だったと言えよう。■■■■■■■



現存する遺構

堀・石垣・土塁・郭群等
城域内は市指定史跡




掛川城  高天神城攻防戦城砦群