遠州平野“扇の要”■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
別名で蜷原(になはら)城。「二股」の字を当てる事も。遠江国豊田(とよだ)郡二俣にあった山城。■■
遠州平野は天竜川の扇状地としてできた地形で、東の掛川台地・西の浜名湖を両端とすると、二俣は
まさしく扇の要にあたる場所であった。故に遠州平野を制する為には、東の掛川城(静岡県掛川市)
西の浜松城(静岡県浜松市中区)とこの二俣城を押さえる事が必須条件となる重要な城でござった。■
文献上で二俣城の名が出るのは南北朝時代、1338年(延元3年/暦応元年)1月の事だ。遠江の御家人
内田孫八郎致景の軍忠状に二俣城で戦いがあったと記される。但し、ここで記された二俣城の詳細は
不明である。戦国期の城とは異なり、南北朝の争乱で用いられた城は仮設の砦程度と推測されよう。
この後の文献では「遠江国風土記伝」で二俣近江守昌長が文亀年間(1501年〜1504年)に二俣城を
築いた、とある。この頃の二俣城は現在の地とは異なり、山麓の平野部(現在の天竜区役所付近)に
置かれていた館らしきものと考えられるが、ともあれ今川被官の二俣氏が築城したという記録なので
これが当城の起源と見るべきでござろう。ただし、現状の山城とは別のものになるため「笹岡古城」と
呼ぶ事もある。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
一方で信濃守護・小笠原氏の記録である「小笠原文書」の中に1501年(文亀元年)来援要請に応えた
小笠原軍が斯波氏の拠点である二俣城に入ったとあり、今川方の二俣氏が構築した城という伝承とは
矛盾する。創建当初の二俣城については、なお検証の余地があり、確定的な事は言えないようだ。■
だが「小笠原文書」も1506年(永正3年)今川一族の瀬名一秀(せなかずひで)が二俣城に在城したと
記しているため、築城後数年で今川勢力が保有する事になったのは間違いない。城主・二俣昌長は
1514年(永正11年)頃に米倉城(こめぐらじょう、静岡県周智郡森町)へ移り住んだと伝わり、代わって
今川重臣の松井左衛門尉信薫(のぶしげ)が入る(異説あり、松井山城守義行入城説など)。■■■
1528年(享禄元年)2月3日に信薫が病没すると、松井家の家督と城主の座は弟の五郎八郎宗信が
継承。宗信は今川義元の腹心として三河・尾張方面の攻略に力を尽くし今川領の西方拡張に大きく
貢献している。ところが1560年(永禄3年)5月19日、桶狭間合戦で主君・義元共々討死してしまった。
三河で徳川家康が今川支配を脱し独立する中、急遽家督を継いだのは宗親(信薫の子)であったが
彼は家康になびいた曳馬(浜松)城主・飯尾連竜(いいおつらたつ)の縁者であった事から、今川氏真
(うじざね、義元後嗣)に誅殺されている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
結局、二俣城主に落着いたのは宗信の子・八郎宗恒(むねつね)。同年12月に家督継承を氏真から
認められ、3000貫を与えられたのでござる。松井氏の在城時代(宗信の頃か、あるいは宗恒の代)
笹岡古城の場所から現在地である城山山頂に城が移され整備されたと見られている。なお、当時の
天竜市役所(現在の浜松市天竜区役所)庁舎建築に先立って行われた発掘調査では、笹岡古城
時代の遺物とみられる陶磁器類や井戸跡・柱痕などが検出された。■■■■■■■■■■■■■
武田軍、水の手櫓を破壊!■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、義元戦死後の今川氏は急激に衰退していき、二俣の地は西の徳川家康と北の武田信玄から
狙われる事になる。今川氏滅亡を機に、松井宗恒は信玄に降ろうと図るが、逆に家康から攻められ
降伏。家康は宗恒と共に二俣城にあった鵜殿石見守氏長(うどのうじなが)を城代に任じ申した。■
一方、二俣城を巡る戦いは徳川対武田という展開へと変化していく。両者共通の敵だった今川氏が
滅んだ今、今度は徳川と武田が直接的に領土の奪い合いを行うようになったのだ。信玄の侵攻が
危惧されるようになると、鵜殿に代わって徳川譜代家臣の中根正照が城主とされる。■■■■■■
斯くして1572年(元亀3年)10月、武田軍が二俣城へと来襲。信玄の命により二俣城攻略の大将と
任じられたのは武田勝頼、信玄4男にして次期武田家当主だ。■■■■■■■■■■■■■■■
この当時、二俣城のあった山は大河・天竜川とその支流・二俣川の結節点にあり、両川に挟まれた
城はほぼ全周が流れの速い深瀬に囲まれていた。現在は二俣川の流路が河川改修にて改変され
天竜川のみに面している訳だがそれでも難攻不落ぶりは十分に窺える。況や、これに二俣川までが
城を取り囲んでいたのだから天下無敵の武田軍とておいそれとは攻め込めず、勝頼らの兵は城山を
包囲するのみで持久戦の様相を呈したのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところがある日、武田軍は城兵が川から水汲みをする様子を目撃。河川に囲まれた城は井戸が
不要だった反面、急流に井楼櫓を架けてその釣瓶から水を得る方法に頼っていたのである。これを
知った勝頼は、川の上流から沢山の筏を流し、水の手櫓に激突させた。櫓が破壊された為、城方は
水の確保が不可能となってしまい、それまで2ヶ月近く籠城を続けたものの、敢え無く開城せざるを
得なくなったのである。ここに二俣城は武田方のものとなり、勢いをつけた信玄は本格的に遠州平野
侵攻を開始する。斯くして惹起されたのが、あの三方ヶ原合戦である事は言うまでも無い。二俣城を
得た武田方は、すぐさま城の修築にも取り掛かっている。■■■■■■■■■■■■■■■■■
武田と徳川の奪い合い■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところがこの直後、信玄が陣中で病没する。武田軍はこれ以上の作戦行動が取れなくなり、奪った
各地の城郭に守備兵を残して本拠地の甲斐国へと引き上げてしまった。信玄の死で勝頼が武田の
家督を継承、亡父の偉業を継がんと態勢を立直し再び遠州攻略に乗り出すが、一方で戦国の巨星
信玄の死を知った家康もまた勝頼打倒に向けて動き出し、二俣城や遠江国内の情勢はより一層の
緊迫感を帯びていく。武田方は二俣城主に信濃先方衆の依田信蕃(よだのぶしげ)を入れ、家康は
1573年(天正元年)6月にそれを攻撃。しかしこの城攻めは不首尾に終わり、信蕃は堅く城を守り
続けた。他方、勝頼は1574年(天正2年)高天神城(静岡県掛川市)を落として勢いを得るが、翌
1575年(天正3年)の5月21日、長篠・設楽原の戦いで織田・徳川連合軍に大敗を喫した。■■■
以後、勝頼は劣勢を覆せず武田家は徐々に滅亡へと向かっていく事になり、徳川軍の二俣城に
対する攻勢は自ずと勢い付いていくのである。既に1573年6月の攻城にて、家康は二俣城への
付城(攻略・包囲拠点としての対抗城郭)である合代島城・屋城山城・道々城を築いていたが、
長篠合戦直後の6月、更に追加の付城たる毘沙門堂砦・蜷原砦・和田ヶ島砦・鳥羽山城(下記)を
構築して二俣城の監視を強めた。この圧迫で二俣城兵は籠城を余儀なくされ、7ヶ月もの間耐え
忍んだものの遂に12月24日、開城する事となった。この際、城主・信蕃は城兵全員の助命を降伏
条件とし、毅然とした対応で城を退去。撤退の折、城内は綺麗に清掃されていたという。■■■■
ちなみに信蕃は武田家の滅亡まで忠義を尽くし家康に抗し続けるが、その忠節・剛毅を見込んだ
家康は勝頼没後に彼を家臣に加えたのでござった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
宿願の二俣城奪還を果たした家康は、家臣の中でも武辺者として知られた大久保忠世(ただよ)を
城将に任ず。この後、武田軍は二俣城の再攻略を度々行うも、防備を固めた徳川軍から城を奪い
返す事はできなかった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
三郎信康、二俣城にて自害■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところで、徳川支配下の二俣城で必ず話題となるのが家康長男・岡崎三郎信康の件だ。信康は
徳川家嫡子として将来を有望視され、織田・徳川同盟の証として信長の娘である五徳姫を妻に
迎えていた。ところが、信康と五徳の間は不仲であったと言われ(諸説あり)信康の生母・築山殿
(家康正室の瀬名姫、上記の瀬名一族つまり今川の血筋)が実家である今川家を滅ぼされた事に
恨みを持ち信康共々武田方へ内通したという疑惑までかかり、信長は築山殿・信康両者の排除を
家康に要求するようになった。実は有能すぎる信康に、織田家嫡男・信忠の立場が危うくなると
危惧した信長が粛清したとする説もある程だが、兎も角、信長に逆らえない家康は断腸の思いで
これに従う。築山殿は1579年(天正7年)8月29日に討たれ、二俣城に幽閉された信康も9月15日
自刃。介錯人の服部半蔵正成は主命なれど信康の首を刎ねる事ができず、検死役の天方道綱
なる者が代わって手をかけたと言われる。正成はこの後、信康の菩提を弔う寺を建立し、道綱は
家康が慟哭する様を見て出家したそうだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
後年、関ヶ原合戦に際して家康は「息子(信康)が生きていれば」と嘆息したとも言われるが、徳川家
悲劇の舞台となったのがここ、二俣城だったのでござる。関ヶ原での戦いは1600年(慶長5年)の
9月15日、奇しくも信康が没してから21年後の同日であった。■■■■■■■■■■■■■■■
嫡男を失いながら、戦国争乱を勝ち残る家康は武田遺領も併呑して中部地方5ヶ国の太守にまで
勢力を伸ばしたが、信長没後に天下統一事業を継承した豊臣秀吉から命じられ1590年(天正18年)
関東への国替えを受け容れる。東海地方各所は秀吉の息がかかった大名に宛がわれた。■■■■
旧説では、二俣城は大久保忠世が相模国小田原(神奈川県小田原市)へ退去すると共に廃城処分
されたと言われていたが、近年では再考され、新たな浜松城主となった堀尾吉晴の弟である堀尾
宗光が城主になったとされる。このため、城は堀尾氏の手によって更なる改造が施され、いわゆる
織豊系城郭の要素を取り入れた。これが現在に至る二俣城の最終形態となってござる。■■■■
されど、関ヶ原の勝利で家康が天下の主になると堀尾家は出雲国松江(島根県松江市)へと転封
される。こうして三たび徳川が手にした二俣城であったが、もはや戦国城郭に活躍の機会はなく、
今度こそ廃城になり申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城主ごとに拡張された縄張りだが…■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城の構造であるが、時代の変化につれて諸々の改修が施されているものの基本的には今川時代の
ものを踏襲し続けている。西に天竜川、東〜南を二俣川で塞がれた城山は、北側だけが尾根続き。
城山山頂部に本曲輪(本丸)を置き、北に北曲輪、南に蔵屋敷郭と南曲輪がほぼ一直線に配置され
本曲輪の西側には、天竜川に岬状の突出しがある地形を利用した西曲輪が腰曲輪状に接続する。
この縄張を取り巻き、今川時代には北側尾根を遮断すべく北曲輪の外に大堀切が穿たれていた。
徳川期になると、北曲輪と本曲輪の間にも堀切が掘削され、城の崖面に沿って竪堀も構築。また、
西曲輪に井楼櫓(井戸櫓)を置いた事から井戸曲輪として位置付けられ申した。さらに武田期では
本曲輪の大手入口を北曲輪との接続部分から南東側(蔵屋敷郭への迂回路側)に改変。■■■■■
戦闘正面も南側(対徳川領)になった事を受け南曲輪周辺に帯曲輪を増強、竪堀や堀切も随所に
追加された。徳川が奪還して後、本丸内に天守が構えられたと見られ(堀尾時代の可能性もある)
それが最終的に堀尾氏の手により石垣造りの織豊系城郭へと整備されたようだ。なお、この際に
本曲輪が上段と下段に区分され、本丸と二ノ丸という具合に変更されている。■■■■■■■■■
ただし、馬出や出丸といった“兵力集中拠点”は武田系・織豊系のいずれにおいても構えられず、
やや旧態然とした縄張と言った印象だ。川に挟まれた城山そのものが天険の要害であり、また、
敷地面積にも限りがあるため、致し方ないのかもしれない。それ程までに、この城は堅固な要塞
だったのだろう。本丸最高所の標高は86m、直下の天竜河畔は36mなので、比高50mの山城は十分な
防御力を有していよう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現在、城跡は城山稲荷神社ならびに二俣城址公園の敷地になっている。公園整備によって、特に
北曲輪周辺が部分的に破壊されてしまっているが、城跡としての全体的な雰囲気は満足な程に
感じられる。何と言っても、天守台石垣が見事に残存している(写真)のが良い。■■■■■■■
(オフレコだが、どうやらこの天守台石垣は昭和初期に一部古態を無視した修築がされたとか…)
1961年(昭和36年)12月1日、当時の天竜市(後に浜松市が承継)指定史跡になったが、2018年
(平成30年)2月13日、下記の鳥羽山城と併せて国の史跡に指定され申した。■■■■■■■■■
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