遠江国 掛川城

掛川城復元天守(右)と移築現存太鼓櫓(左)

 所在地:静岡県掛川市掛川・城下・城西

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★☆
★★★★



今川家の遠江支配拠点■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
別名で雲霧城。松尾城とも。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
戦国時代初頭の文明年間(1469年〜1487年)、遠江への進出を企図する駿河守護・今川上総介義忠(よしただ)の
命により、配下の朝比奈丹波守泰煕(やすひろ)が築城したと伝わる。但し、この当時の城は掛川古城と呼ぶべき
もので、現在の場所から北東300mほどの位置にある天王山に築かれていた小城でござった。ところが遠江守護の
斯波左兵衛佐義達(よしたつ)は、信濃守護・小笠原右馬助貞朝(さだとも)と同盟して領国防衛策を強化したため
天王山の小城では不足と判断した今川上総介氏親(うじちか、義忠後嗣)は1512年(永正10年)頃、改めて泰煕に
命じ現在の城である新城を竜頭山に築いた。これが掛川城の創始だ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
名将として名高い氏親は、見事斯波氏を打倒して遠州制覇を達成。朝比奈氏も泰煕の後、備中守泰能(やすよし)
左京亮泰朝(やすとも)と代を継ぎ掛川城を良く守っている。氏親の次代、治部大輔義元の頃に今川家は最盛期を
迎え、三河国も領土に併合。泰朝は重臣として名を連ねたが、1560年(永禄3年)5月19日に桶狭間合戦で義元が
討死すると、事態は急変していく。義元の跡を継いだ上総介氏真(うじざね)は文弱で、君主の器に乏しかったため
これを見た甲斐の武田信玄・三河の徳川家康は共同で今川領の分割を約し、1568年(永禄11年)12月に武田軍が
駿河へ、徳川軍が遠江へと同時侵攻したのである。一気呵成に居館の駿府館(静岡県静岡市葵区)を落とされた
氏真は何ら防衛策を採る事も出来ぬまま敗走。唯一、今川領内で守りを固めていた泰朝の掛川城へ逃げ込んだ。
当然、徳川軍の矛先はこの城に向けられ申した。今川旧臣が続々と寝返る中、泰朝は忠義の臣として城を堅持。
徳川軍が来攻して後、5ヶ月に渡って籠城は続き、翌年3月までの長期戦となったが、この間に先んじて駿河制圧を
終えた武田軍が遠江にも進軍する兆しを見せた為、戦闘の早期終結を必要とした家康は泰朝に和議を提案。今川
氏真の安全を保障した事で掛川城は開城に至るのである。その結果、氏真・泰朝主従は相模の後北条氏を頼って
落ち延び、足利将軍家に連なる名門・今川家は事実上滅亡したのだった。■■■■■■■■■■■■■■■■

徳川家康にとって要となる城に■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
難攻不落の名城・掛川城はこれで徳川家の城となる。家康は城代として譜代重臣の石川日向守家成(いえなり)
左衛門大夫康通(やすみち)父子を封ず。以後、武田家と徳川家は遠州を舞台に勢力争いを続けるが、掛川城は
徳川方によって堅持され申した。この結果、信玄没後反攻に転じた家康は武田方の要衝となっていた諏訪原城
(静岡県島田市)や田中城(静岡県藤枝市)などを攻め落としていき遂に武田領を併呑する事となるが、掛川城は
その策源地となっており、この城が家康勇躍の原動力になったと言えよう。仮に掛川城を信玄に奪われていたと
したら家康に反抗の力は蓄えられず、或いは早々に徳川家が滅亡していたかもしれない。■■■■■■■■■
1590年(天正18年)豊臣秀吉の全国統一に従い、徳川家は関東へ国替えとなる。掛川城も石川氏の手を離れ、
秀吉家臣の山内対馬守一豊(やまうちかつとよ)が近江国長浜(滋賀県長浜市)5000石から一気に加増された
5万1000石で入城、以後10年に及ぶ大改修を行って近世城郭へと改変された。この改修を経て、現在に繋がる
城の縄張が確定され、標高51m(城下との比高およそ25m)の山頂部が天守郭となり、その下段に本丸、さらに
二ノ丸・三ノ丸が東側に連結する主郭部が成立。それを取り囲むように外郭の武家屋敷群が配され、集権的な
城下町が出来上がっている。各曲輪の間は堀や塀を用いて明確に区分され、城地の南側には東西へと横切る
逆川が流れ天然の外濠を形成。特に本丸大手口は三日月堀と十露盤(そろばん)堀が穿たれ、二ノ丸側からの
侵入を牽制しており申す。このように、掛川城は天然の地形を活かしながら上手く作り込んだ構えとなっていて、
山頂には(天守郭がある事から判るように)城主の威光を知らしめる天守が揚げられ、質実剛健な近世城郭に
なったのでござる。当然、城内には瓦葺建物が林立し要所は石垣で固められた。豊臣系大名・山内氏により、
所謂“織豊系城郭”へと作り変えられたのだった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
掛川の一豊をはじめとして、1590年の国替えでは軒並み東海道一帯の諸城に豊臣系大名が配置されている。
これは家康旧領を秀吉の支配下に塗り替え、関東に封じた徳川家が当時の主要幹線である東海道を通過して
上方へと軍事進出する事を阻む狙いがあったと言われる。ところが秀吉没後の1600年(慶長5年)、豊臣政権の
奉行であった石田治部少輔三成との政治対立を深めた家康は、会津の上杉家攻略を口実にして諸大名の軍を
編成。そして三成が大坂で挙兵するや、その軍を率いて関東から西へと転進する事になったのである。この時
家康への帰属を鮮明にせんとした一豊は「掛川城を家康に献上する」と表明。その言葉をきっかけとして、他の
東海道沿いの大名たちも家康に臣従する事となる。秀吉の“家康封じ”の策は逆に“家康の進出路”へと転じて
しまい、斯くして関ヶ原の大戦が勃発、徳川幕府の成立に至る。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

譜代大名が配される要地■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
戦後、この功を評価された一豊は1601年(慶長6年)に土佐国高知(高知県高知市)20万石の大大名へと栄転。
同年2月、掛川城へ久松松平隠岐守定勝(さだかつ、家康の異父弟)が伊勢国長島(三重県桑名市)より転封、
2万7000石から3万石へと加増されている。1607年(慶長12年)から久松松平河内守定行(定勝2男)が城主に。
これは定勝の伏見城(京都府京都市伏見区)代転任による継承であるが、以後、掛川城主は徳川親藩もしくは
譜代大名が次から次へと交代で任じられるようになる。列記すると、1617年(元和3年)7月に安藤帯刀先生直次
(2万8000石)、1619年(元和5年)久松松平越中守定綱(3万石)、1623年(元和9年)朝倉筑後守宣正(2万6000石)
1633年(寛永10年)2月3日から青山大蔵少輔幸成(2万6000石)、1635年(寛永12年)桜井松平大膳亮忠重、其を
遠江守忠倶(ただとも)が相続し(4万石)、1639年(寛永16年)3月3日からは本多能登守忠義(7万石)、1644年
(正保元年)3月に藤井松平伊賀守忠晴(3万石)、1648年(慶安元年)北条出羽守氏重(3万石)。ところが氏重は
1658年(万治元年)12月22日に無嗣断絶で改易、翌1659年(万治2年)1月28日からは井伊兵部少輔家4代が入り
[兵部少輔直好―伯耆守直武(なおたけ)―兵部少輔直朝(なおとも)―兵部少輔直矩(なおのり)](3万5000石)
1706年(宝永3年)1月28日に桜井松平遠江守忠喬(ただたか)(4万石)、更に1711年(正徳元年)2月11日からは
小笠原氏の3代[山城守長煕(ながひろ)―山城守長庸(ながつね)―佐渡守長恭(ながゆき)]でござった。そして
1746年(延享3年)9月25日、上野国館林(群馬県館林市)5万石から移されてきた太田摂津守資俊(すけとし)が
入った事でようやく確定、以後7代にわたり太田氏が5万石で城主を継承していく。勿論、太田氏は戦国の名軍師
太田道灌の末裔とされている家柄。資俊より後、備中守資愛(すけよし)―摂津守資順(すけのぶ)―備後守資言
(すけとき)―備中守資始(すけもと)―備中守資功(すけかつ)―備中守資美(すけよし)と継がれてござる。■■
ところで、場所柄と言うべきか掛川は江戸期を通じて数度の大地震に見舞われている。それにより城も被害を
受け続けてきた。山内一豊が築いた初代天守は1604年(慶長9年)の大地震で倒壊、1621年(元和7年)復旧。
1707年(宝永4年)の地震で再整備が行われ、従前は三ノ丸とされてきた曲輪が二ノ丸に改められた。幕末の
1854年(安政元年)11月4日には安政東海地震が発生、天守・御殿ほか大半の建造物が崩壊する被害を蒙る。
この為、藩政の中心である二ノ丸御殿は1855年(安政2年)に広間と書院部分が、1860年(万延元年)諸役所
部分、1861年(文久元年)に小書院部が再建され復旧したものの、天守は再建されぬまま明治維新に至った。

一大名・徳川家の入封で■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、大政奉還とその後の新政府樹立に伴って徳川将軍家は一大名の地位に転落し、16代当主となった徳川
家達(いえさと、15代将軍・慶喜の養子)は江戸城(東京都千代田区)から離されて静岡70万石を領する処分が
下された。これに基づき徳川領となったのが駿河・遠江一帯で、それまでこの地域に所領を持っていた諸大名は
押し出される形で転封を命じられている。掛川城主・太田資美もその1人で、明治新政府から1868年(明治元年)
9月21日に上総国夷隅郡(千葉県いすみ市周辺)に5万3000石を拝領、更にそれが改められ11月10日に上総国
山辺(やまべ)郡(現在の千葉県山武市周辺)5万3350石への移封とされ申した。これで太田氏は転封先の地に
松尾城(千葉県山武市松尾町)を築いて松尾藩を立藩。この松尾とは冒頭に記した掛川城の別名「松尾城」に
由来するものと言われている。ともあれ掛川は静岡藩領となり、更に廃藩置県で制度消滅。この結果掛川城は
廃城令に基づいて廃城処分となっている。斯くして城内諸建築は軒並み解体破却や転売処分を下されたが、
二ノ丸御殿はそのまま残された。廃城後、御殿は勤番所ならびに徳川家兵学校として使われ、廃藩置県後は
聚学校(学制以前の初等学校)→女学校→掛川町役場→掛川市庁舎→農協→消防署などに転用され続けて
いく。そのため手付かずのままほぼ完全な状態で残され、京都・二条城(京都府京都市中京区)二ノ丸御殿や
高知城(高知県高知市)の本丸御殿と並んで、数少ない完存御殿建築遺構として希少なものである。■■■■
(川越城(埼玉県川越市)の御殿も現存だが、多少の改造を受けている)■■■■■■■■■■■■■■■
この他、移築現存建築として三ノ丸太鼓櫓が本丸内に移設、大手門(玄関下御門)が真言宗医王山油山寺
(静岡県袋井市)の山門に、蕗(富貴)ノ門が浄土真宗法輪山円満寺(掛川市内)表門となって残っている。
また、安政東海地震で破壊され1859年(安政6年)に復旧された大手門番所も残存。木造入母屋造桟瓦葺
平屋建、正面5間×奥行2間の建物となっている。これら旧建築遺構のうち二ノ丸御殿は1980年(昭和55年)
1月26日に国重文に指定。移築現存の旧大手門はそれに先立つ1954年(昭和29年)9月17日にやはり国の
重文とされた。この旧大手門(油山寺山門)は木造入母屋造本瓦葺片潜戸付櫓門で、間口7間×奥行3間。
1659年(万治2年)の建造である。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
一方、掛川市の指定文化財となっているのは太鼓櫓(1960年(昭和35年)5月31日指定)、それに旧蕗ノ門
(1973年(昭和48年)3月28日指定)と大手門番所(1980年8月20日指定)だ。太鼓櫓は内部が非公開なので
外観を見るのみだが、掛川城にとって欠かす事の出来ない建築物であろう。1955年(昭和30年)に三ノ丸から
現在地に移されたそうな。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

城址の復元整備■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城の敷地は近代化によっていったんは市街地化・公園化されたのだが、天守再建の機運と共に本格的な史跡
整備が始まる。旧城地内にあった近代建物は移転し、大規模な史跡発掘調査も行われて、天守台・曲輪・
堀などの様子が明らかになった。これによると山内時代以前の瓦が出土されなかった為、掛川城で初めて
瓦葺の建築物を採用したのは山内一豊であった事が証明された。また、本丸から十露盤堀・三日月堀への
構成が馬出でなく出枡形虎口であったことが判明している。特に三日月掘は深さ8mと確認、南側に石垣を
固め、その下からは柱穴が検出されてござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この調査結果を踏まえて城址公園の整備・天守の復元が行なわれたので、掛川城一帯は当時の城の姿を
良く再現している。掛川城址公園として旧城の雰囲気を取り戻した竜頭山頂に1994年(平成6年)4月、木造
復元天守が竣工。白漆喰総塗込本瓦葺層塔型天守で3重4階、6間×5間の規模。江戸幕府が全国の大名に
提出させた居城絵図「正保城絵図」や安政地震の被害報告書「遠江国掛川城御天守台石垣土手崩所絵図」
などに描かれた掛川城天守古図面に基づいた本格復元でござる。山内一豊は移封後の高知城を築く際に、
「掛川の城に似せて作れ」と命じた逸話が残っているため、現存する高知城天守も掛川城天守復元の参考
材料にされている。最上層の高欄が黒塗り、擬宝珠を設けた構造になっているのはこのような影響である。
復元とはいえ第一級の城郭遺構で、一見の価値アリ!なお、天守初層外壁は剣塀(つるぎべい)が採用され
目前に眺めることができる。こういった細かい点にも注目して頂きたいものでござる。■■■■■■■■■
更に、正保城絵図で描かれた四足門も本丸入口部分に木造復元しており、掛川城は随所で「木造」に拘った
城郭再生を志している。福島県白河市の小峰城が「三重櫓」を1991年(平成3年)に復元していたが、「天守」
建築を合法的手段で木造再建したのは掛川城が全国初であり大いに注目され、これが決め手となり2006年
(平成18年)4月6日、財団法人日本城郭協会の日本百名城に入選してござる。■■■■■■■■■■■■
ちなみに山内一豊の縁続きで高知城とは兄弟城。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
最後に、城の伝説を作り出した井戸の話を。天守前にある井戸は「霧吹井戸」と呼ばれ、家康が今川氏真の
籠城する掛川城を攻め立てた際、ここから霧が湧き立ち城を覆い隠し攻撃を防いだという伝承を残す。故に
掛川城の別名が雲霧城なんだとか。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

二ノ丸御殿《国指定重文》
井戸跡・堀・石垣・土塁・郭群等

移築された遺構として
油山寺山門(玄関下御門)《国指定重文》
太鼓櫓・大手門番所・円満寺表門(蕗ノ門)《以上市指定文化財》




浜松城・井伊城・大平城  二俣城・鳥羽山城・高根城