遠江国 曳馬城

曳馬城跡 浜松東照宮

 所在地:静岡県浜松市中央区元城町・元目町
 (旧 静岡県浜松市中区元城町・元目町/静岡県浜松市元城町・元目町)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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浜松城の源泉■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
京の都から遠い湖、すなわち遠江国という国名の由来となった浜名湖のほとり、三方ヶ原台地の南端に位置する
浜松の町には、もともと駿河今川家の支城・曳馬(ひくま、引馬・引間・匹馬とも)城が築かれていた。この曳馬城が
後に徳川家康の浜松城(下記)へと発展するのだが、現在の浜松城本丸とは少々離れた位置にある為、ここでは
“古”浜松城として、別項で扱う事とした。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
とは言え、曳馬城としての経歴はかなり少ない。大永年間(1521年〜1528年)頃に駿遠の太守・今川上総介氏親
(うじちか)の命で整備されたと見られ、今川家の重臣・飯尾(いいお、いのおとも)氏の守る城であった。曳馬城の
創建に関して異説あるものの、この説に従えば飯尾善左衛門賢連(かたつら)―善四郎乗連(のりつら)―豊前守
連龍(つらたつ)と続いた。他に乗連期(氏親の子・今川治部大輔義元の命)の築城、或いは飯尾氏でなく引馬荘
代官の大河内備中守貞綱(おおこうちさだつな)城主説や貞綱の弟で河匂荘(浜松市中央区河輪町)の代官・巨海
(こみ、おおみとも)新左衛門尉道綱(みちつな)創建説、もっと遡って遠江今川家(駿河今川家とは血縁だが別家)
4代当主・今川伊予守貞相(さだすけ)が築城との説も乱立する。年代的には室町前期に当たる今川貞相の古城が
大河内・巨海らの手に渡り、遠江争奪戦の中で駿河今川家(飯尾氏)が改修した?との経過であろう。今川氏親が
大河内兄弟の守る曳馬城を攻める際、安倍金山の金鉱夫を率い城内の井戸を絶ち落としたと言う話も。ともあれ、
戦国時代に飯尾家が曳馬城主であった流れに集約される。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

降伏を頑なに拒んだお田鶴の方■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところが桶狭間合戦で今川家が没落の一途を辿りつつあった1563年(永禄6年)飯尾連龍は今川家と敵対関係に
あった三河の松平次郎三郎元康(後の徳川家康)へ内通した。今川家は同年12月に曳馬城を攻めるが落とせず、
今川上総介氏真(うじざね、義元後嗣)は謀略を用い1565年(永禄8年)末に連龍を誅殺している。代わって飯尾家
家老の江馬安芸守泰顕と江馬加賀守時成が城を預かるようになった。だが江馬氏も内紛から滅び、時を同じくして
徳川家が遠江国へ侵攻を始めたため、1568年(永禄11年)家康配下の武将・酒井左衛門督忠次が曳馬城を入手
する事となった。また、連龍没後は彼の妻・お田鶴(たづ)の方が城を守り徳川軍の攻略に耐えたが1568年の末に
落城、彼女は戦死したとの説もある。お田鶴の出自にも諸説あるが、氏真の従兄妹であったと考える説があって
(否定的な説もある)血縁から夫・連龍とは異なり今川家との関係を重視し、家康への服従を潔しとしなかった…と
云う事らしい。主家への忠義に散ったお田鶴は後に“烈女”“貞婦”として崇敬の念を集める事になり、彼女を祀る
椿姫観音が曳馬城下の外れに建立されている。椿姫と言うのが、お田鶴の尊称である。また、彼女の戦いぶりは
2023年(令和5年)の大河ドラマ「どうする家康」でも入念に描かれ申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■
(個人的には、亡夫の遺志は全く無視したお田鶴ってどうなの?とも思うのだがw)■■■■■■■■■■■■■

浜松城とは別の城?■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
以後の歴史は浜松城の項に譲るとして、今の曳馬城址は浜松東照宮(元城町東照宮)の境内一帯となっている。
この社は明治になってから旧城主にして神君である徳川家康を祀るべく旧幕臣・井上延陵(えんりょう)が発起人と
なり建立されたものだった。太平洋戦争で戦災焼失し、1958年(昭和33年)に鉄筋コンクリートで再建されている。
この戦後復興時、浜松市では都市計画に基づき東照宮の撤去も検討したが、地元住民が守ったそうだ。■■■■
曳馬城としての縄張りは、四方形をした敷地を更に縦横で切り分けた「田」の字をした曲輪が並ぶ状況だったらしく、
東照宮の敷地はこのうち北西側の曲輪に当たる。それ以外の曲輪跡は完全に住宅地となり、微塵も城の面影は
無いのだが、曲輪を分割する堀跡は道路となっており、道筋…いや、掘割?をなぞる事は出来る。東照宮境内は
標高およそ13m、その隣を走る国道152号線は8m程なので5m弱の比高差なのだが、その距離はたったの50m。
50mで5m登るのだから、かなりの急坂である。今川家の前線城郭、言い換えれば“橋頭保”と言うべき砦としては
むしろ「小さくても固く守れる地形」を選んだという事か。このため、堀跡の道は場所によっては切り通しのような
険しい形状を作り出している。まさに山を“割って”いた訳だ。ちなみに、浜松城本丸(天守台)の標高は37.5mある。
この高さだと、それを従える曲輪も数多く必要になり“橋頭保”ではなく“巨大要塞”を築く事になってしまうのだろう。
飯尾氏に任せる城としては分不相応になる感じだが、一国を治める大名・徳川家康の居城ならば、それも当然か。
なお、東照宮の社殿と浜松城天守の距離は370m。浜松城の城域から見れば旧曳馬城は一番の外郭部にあたり、
現在の状況でも浜松市役所の敷地(葵広場)や国道152号線を挟んだ「外側」に曳馬城が位置している。ひと口に
「曳馬城を吸収した浜松城」と言うが、浜松城の城山と曳馬城跡の丘陵は別物と考えるべきであろう。史跡指定でも
浜松城とは別に「引間城跡」として2018年(平成30年)3月22日に浜松市認定史跡(指定史跡ではない)となっている。



現存する遺構

堀・土塁・郭群等
城域内は市認定史跡








遠江国 浜松城

浜松城模擬天守

 所在地:静岡県浜松市中央区元城町・松城町
 (旧 静岡県浜松市中区元城町・松城町/静岡県浜松市元城町・松城町)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★☆■■
★★☆■■



曳馬城を拡張■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
浜松城の原初となった曳馬城の来歴については上記の通りだが、家康の宿老・酒井忠次が城を預かって更に後、
1570年(元亀元年)には家康自身が岡崎城(愛知県岡崎市)から居を移して徳川家による遠江経営の本拠とした。
三河から東方の遠江へ領土を拡大した家康は岡崎城を嫡男の三郎信康に任せ、来たる甲斐武田家との対決に
備えて新領土の要所となる曳馬城を重視し浜松と改称、城の防備を固める大改修工事を開始したのでござる。
ちなみに「浜松」の名はかつてこの地にあった荘園「浜松荘」に由来すると云う。「曳馬」の名は「馬を退く」つまり
敗北に繋がるとし、吉祥を願って縁起の良い「松」に所縁の地名を復活させた訳だ。■■■■■■■■■■■■
以来17年間、駿府(現在の静岡県静岡市)に居を移すまで徳川の本城として機能。これが浜松城の起こりであり
かつての曳馬城は浜松城の米蔵曲輪(出曲輪)として取り込まれ申した。この年の9月に一応の普請が完了し、
浜松城は曳馬城よりも遥かに大きな城として生まれ変わった訳だが、1572年(元亀3年)恐れていた通り甲斐の
武田信玄が遠江へと進軍、浜松城は武田騎馬軍団の脅威に晒される。家康は当初、一歩踏み込んで天竜川の
東へ進出し見付(現在の静岡県磐田市)で新たな城を構えるつもりであったというが、それでは武田軍の襲来に
“背水の陣”となる為(城だけが突出し、背後の天竜川はむしろ退却できなくなる阻害となる)浜松城の大型化で
対応しようとした訳だ。さりとて、無敵と謳われる強大な武田軍に対し遠州を手にして日の浅い徳川方はやはり
防備もままならず、止むを得ず浜松城での籠城が開始された。ところが、そうした徳川軍を嘲るように武田軍は
浜松城を無視し、城の北側に位置する三方ヶ原台地を無防備に通過していく。さすがにここまで馬鹿にされては
家康も激怒し、信玄の罠と知りつつ12月22日に劣勢の軍を動かして武田軍の追撃作戦を展開した。が、家康の
出撃を知るや武田の軍勢は反撃の陣容を整え、台地上で徳川軍を包囲してしまう。結果、芸術的な程に信玄は
徳川軍を打ちのめし、家康は命からがら浜松城に逃げ込む大失態を犯した。これが戦国史に有名な三方ヶ原
合戦だ。この時、家康は敗北に憔悴する恥ずべき自分の姿を絵師に描かせて残し、以後は無謀な策を控えて
自らを戒めるようになったという。これにより家康は自重を覚え時期を見る感覚を研ぎ澄まし、最終的に天下を
掴むに至る忍耐力を培った。また、惨敗必至の中で家臣と育んだ絆は、後の江戸幕府を支える譜代大名たちを
結束させていくのである。城へ逃げ帰る徳川軍にあって、酒井忠次が城内で太鼓を叩き打って味方を鼓舞し、
城と家康が健在である事を知らしめ、また追い迫る武田軍に対して伏兵などの策があるよう疑わせて退かせた
逸話はあまりにも有名だ。浜松城は“天下人・徳川家康”を作り上げる重要な鍵となったのであった。■■■■

近世城郭へ、そして幕閣の登竜門へ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
その後も家康は浜松城の防備を強化するために改良を続ける。主な工事だけでも1578年(天正6年)〜1579年
(天正7年)・1581年(天正9年)など数次をかぞえたが、上記した通り1586年(天正14年)に家康は猶も東方の
駿府へと移り、浜松城主には徳川家臣の菅沼(土岐)定政が任じられた。さらに1590年(天正18年)豊臣秀吉が
小田原(神奈川県小田原市)の後北条氏を倒して天下を統一すると、家康は三河・遠江・駿河など東海5ヶ国の
旧領を召し上げられて江戸(東京都千代田区)へ移封となる。これにより浜松城には秀吉配下の将・堀尾帯刀長
吉晴(ほりおよしはる)が近江国佐和山(滋賀県彦根市)から12万石で入城。家康が改修した城の防備を、より
堅いものにするべく浜松城は豊臣一門による大改修工事を受け、この改造によって石垣造りの近世城郭へと
改良されたのだった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところが堀尾氏の在城は10年で終了。1600年(慶長5年)関ヶ原合戦により家康は天下の主に収まったため、
浜松を領していた吉晴とその子・信濃守忠氏(ただうじ)は同年11月に出雲国松江(島根県松江市)24万石へと
加増・転封されたのだ。以後、東海道の要地であった浜松は江戸幕府の防備を固める為に徳川譜代家臣が
交替で封じられるようになる。神君家康ゆかりの城を拝領することは、幕閣への登竜門であった。このため、
浜松城は別名で「出世城」と呼ばれるのである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
忠氏の後は桜井松平左馬允忠頼が5万石で入封したが、1609年(慶長14年)9月29日に刃傷事件で殺されて
しまう。不祥事による落命とされ桜井松平家は改易、12月22日に水野対馬守重仲(しげなか)が浜松城主へと
任じられ申した。但し、重仲は家康の10男・徳川頼宣の附家老である為、独立した大名ではなく頼宣領の一部
2万5000石を預かる形で城主となったものだ。重仲には大坂の陣での戦功として1617年(元和3年)10月24日
1万石が加増されたが、1619年(元和5年)常陸介頼宣が紀州和歌山(和歌山県和歌山市)に移った為、彼も
7月19日に紀伊国新宮(和歌山県新宮市)3万5000石へと移されてござる。■■■■■■■■■■■■■■
この後、城主の座は目まぐるしく変わっていく。9月に武蔵国岩槻(埼玉県さいたま市岩槻区)2万石から高力
摂津守忠房(こうりきただふさ)が3万5000石で入り1639年(寛永16年)4月13日に肥前国島原(長崎県島原市)
4万石へと加増転封。島原・天草の乱後における復興を託されたと云う。代わって美濃国岩村(岐阜県恵那市)
2万石から大給(おぎゅう)松平和泉守乗壽(のりなか)が同月25日に浜松へと移封。石高は3万6000石。しかし
老中登用に伴い1644年(正保元年)2月28日、上野国館林(群馬県館林市)6万石へと転封されている。今度は
三河国西尾(愛知県西尾市)3万5000石の太田備中守資宗(すけむね)が同石高で浜松城主に。彼が1671年
(寛文11年)12月19日に隠居すると2男の摂津守資次(すけつぐ)が跡を継ぐも、1678年(延宝6年)6月19日
大坂城代に任じられた事で転出し、入れ替わりで大坂城代だった青山因幡守宗俊(むねとし)が8月18日から
浜松城主となり申した。青山家は和泉守忠雄(ただお)―下野守忠重(ただしげ)と代替わりした後の1702年
(元禄15年)9月7日に丹波国亀山(京都府亀岡市)5万石へと移され、常陸国笠間(茨城県笠間市)で5万石を
有していた本庄松平豊後守資俊(すけとし)が備中国内に2万石を加増される形(合計7万石)で浜松へと移封
されて来る。彼の死後は弟の豊後守資訓(すけのり)が継いだが、1729年(享保14年)2月15日に三河国吉田
(愛知県豊橋市)7万石へと移された。代わって吉田から大河内松平伊豆守信祝(のぶとき)が同石高で入封し
その跡は左衛門佐信復(のぶなお)が受け継いだ。1749年(寛延2年)10月15日、大河内松平家は再度吉田へ
移り、本庄松平資訓が浜松城主に復する。資訓の没後、その座は伊予守資昌(すけまさ)へと続いたものの、
1758年(宝暦8年)12月27日に丹後国宮津(京都府宮津市)7万石へ移り、今度は磐城国平(福島県いわき市)
3万7000石の藩主であった井上河内守正経(まさつね)が6万石に加増されて入封。井上家は河内守正定―
河内守正甫(まさもと)と続くが、彼は1817年(文化14年)9月14日に陸奥国棚倉(福島県東白川郡棚倉町)へ
移封されてござる。棚倉への転封は幕府の慣例で懲罰的な意味合いがあり、正甫は乱行の罪を働いた事で
移されたのであった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

水野忠邦の城主就任と幕府の終焉■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、井上正甫の転出により浜松城主になったのが水野越前守忠邦。石高は6万石。歴代浜松城主の中では
最も有名な人物であろう。彼は肥前国唐津城(佐賀県唐津市)主であったが、九州の唐津領では長崎警護の
役を負わねばならなかったため、江戸での幕政参加は不可能であった。栄達を望む忠邦は、実質的な減収と
なるにも拘わらず自ら唐津から浜松への国替えを望み、見事それを果たして幕府老中の役職を得るようになり
江戸三大改革の一つ、有名な「天保の改革」を推進するまでに出世したのであった。忠邦は筆頭老中として
7万石を超える石高まで加増されたが、天保の改革が失敗するに及んで老中を罷免され5万石へと減封の上
隠居を余儀なくされた。跡を継いだ忠精(ただきよ)は更に1845年(弘化2年)11月30日、左遷人事で出羽国
山形(山形県山形市)へと飛ばされ申した。この後、浜松には井上河内守正春が上野国館林(群馬県館林市)
6万石から入封。正春は正甫の長男であり、父の汚名を雪いでの浜松城主復帰となったが、井上家は次代の
河内守正直(まさなお)の頃に明治維新を迎えた。幕府の瓦解に伴い、徳川将軍家は一大名としてのみ存続を
許され、1868年(明治元年)5月24日に徳川(田安)家達(いえさと)が静岡藩主に任じられた訳だが、その所領
70万石は概ね駿河・遠江の国内が充てられた。この為、同年9月23日に井上正直は押し出される形で上総国
鶴舞(千葉県市原市)6万石へと移されてござる。浜松藩領は程なく静岡県の管轄に入り、浜松城も1873年
(明治6年)1月14日に発布された廃城令によって廃城処分を受け、建物は軒並み破却され候。■■■■■■

浜松城の構造■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、東海地方という立地上、浜松は地震や風水害に見舞われる事が多く、災害の度に浜松城は少なからず
被害を受けてしまっていた。そうした被災の都度に復旧工事は行われてきものの、特に幕末に起きた1854年
(安政元年)11月の大地震では城内各所の石垣が崩れた上、櫓も崩壊する大被害を被って、かなり大掛かりな
修復が行われ申した。天正〜慶長期の大改修によって完成されていた浜松城の石垣は、いかにも戦国時代の
城郭遺構らしい野面(のづら)積みの中でも特別な一分類に属する穴太積み(あのうづみ)と呼ばれる方法で
組まれているが、現在に残る姿はこの安政大改修の積み直しを経ているために、よく見ると自然石をそのまま
利用しながらも算木積みといった新式工法の導入が行われている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城全体の構造については、東西約600m・南北約550mに及ぶ城域の中に天守丸・本丸・二ノ丸・三ノ丸が西から
東の方向へ階段状で並ぶ梯郭式の縄張り。天守丸と本丸の南側を塞ぐように腰曲輪(清水曲輪)が置かれた。
この一連の曲輪で構成される浜松城は浜松市中心の傾斜台地に築かれた平山城だ。当然ながら天守曲輪が
最高所、天守曲輪・本丸の北西側は深い谷によって城の外域と隔絶されていた要害地形である。谷の対岸に
ある小山は作左(さくざ)曲輪と呼ばれる出丸(小砦)となっていて、その更に北側が犀ヶ崖と言う断崖。作左
曲輪の名は、浜松城を家康が構築する際に普請奉行を務めた本多作左衛門重次に由来する。また、犀ヶ崖は
三方ヶ原台地の南端に位置し、三方ヶ原合戦時に敗走する徳川軍が追撃してきた武田軍をこの崖から落ちる
ように仕向け、一矢報いたとする伝承が残る地だ。他方、犀ヶ崖の反対側になる城の北東端部(三ノ丸の東)は
かつての曳馬城跡だった場所で、近世浜松城はこの場所を外郭として取り込み一体化。古城と称される曳馬
城跡の曲輪には米蔵などが並んでいたそうな。城の建つ台地以外、周辺一帯は深い沼地の要害であった。
天守曲輪は家康時代の本丸と思われ、天然地形をそのまま活用した凡そ菱型の敷地。面積は2800uと狭隘で
曲輪中心部に約21m四方の天守台の石垣が組まれていた。しかし史料上、浜松城に天守が建てられていたと
いう記録はどこにも見当たらない。堀尾時代に天守があったとする説もあるが確証はなく、幕末に撮影された
天守曲輪の古写真でも東側虎口に表門があるだけで、天守台の上には建築物の姿が残されていないのだ。
この為、浜松城天守の存在はかなり否定的見方をする研究者も多い。ともあれ、現在ではこの天守台の上に
鉄筋コンクリート造りの模擬天守が建てられ、浜松城の象徴として親しまれている。■■■■■■■■■■■
本丸は北側に富士見櫓、東側に裏門、南東隅に菱櫓、南面には鉄門と多聞櫓があった。敷地内には将軍が
訪れた際に使われる御成御殿が建てられていたとされるものの、江戸時代の早い時点で廃絶したようだ。■■
城主の住処となる御殿は二ノ丸にあった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

復元整備が活発化■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
明治維新後、城は廃城とされ残存建築は全て破却された。敷地も天守曲輪と本丸以外は市街地化によって
改変され、しばらくは荒廃する石垣と曲輪群だけが放置された浜松城であったが、太平洋戦争後の1950年
(昭和25年)跡地が浜松城公園として開園。浜松市が郷土の文化財として保存に乗り出した浜松城公園では
上記した模擬天守が1958年4月26日に史料館として完成し、その翌年の1959年(昭和34年)6月18日になると
城跡は浜松市の史跡として指定されたのでござった。模擬天守は地上3階+地下1階、下見板張りで名古屋
工業大学の故・城戸久名誉教授が設計した。堀尾期の天守(?)は松江城(島根県松江市)天守に似た外観
だったと伝承されるが(と言うか、順番的には浜松から移封された松江で同じような天守を作った事になる)
城戸教授の復興天守は丸岡城(福井県坂井市)に似せて設計され、また資金不足から天守台の面積よりも
かなり小振りな寸法に仕上がっている(故に、天守台上面に余地が残っている)。■■■■■■■■■■■■
浜松城には井戸が多く、天守曲輪埋門の傍らと本丸内に1つずつ、二ノ丸に3つ、作左曲輪に4つ、さらには
天守台の中に1つ、計10箇所が確認されている。このうち、天守台の井戸は模擬天守建立後も残されて建物
地下室内に保存されているが、水は枯れてしまい汲み上げる事は出来ない。その他、天守曲輪の井戸等は
史跡整備に伴って枠組み等が再築され、見学しやすいように整えられている。史跡整備の流れは21世紀に
なってから加速度的に進んでおり、発掘調査によって石垣や堀などかつての遺構を確認。今後、浜松城跡が
史跡活用されていく可能性は十分にある。その契機とも言えるのが2014年(平成26年)天守曲輪の天守門が
再建された事であろう。古態に基づいて木造再建された天守門は入母屋造り本瓦葺、柱間4.09m×上面梁高
4.12m、櫓の桁行10.91m×梁間5m×高さ10.28mという立派なもの。白漆喰で塗り籠められ、下見板張天守の
黒さとは対照的な色合いとなっている。今後は天守曲輪の西側(天守門と反対側の虎口)にあった埋門の
整備計画を進めるようで、模擬とは言え天守と門が両立し曲輪の様子が再現されたならば壮観であろう。■■
2017年(平成29年)4月6日、財団法人日本城郭協会から続百名城の1つに選定されてござる。■■■■■■■



現存する遺構

井戸跡・堀・石垣・土塁・郭群等
城域内は市指定史跡








遠江国 井伊城

井伊城 山上主郭部跡

 所在地:静岡県浜松市浜名区引佐町井伊谷
 (旧 静岡県浜松市北区引佐町井伊谷/静岡県引佐郡引佐町井伊谷)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

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井伊氏の城として創建■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
井伊谷(いいのや)城とも。地名を見てわかる通り、徳川四天王の1人と数えられる井伊直政、井伊氏所縁の城。
井伊氏の起こりは平安時代、蔵人頭藤原冬嗣の6代後裔にあたる藤原備中守共資(ともすけ)が遠江国司へと
任じられ、その子・共保(ともやす)がここ井伊谷に土着して改姓、地名を採って井伊氏を名乗った事に始まる。
だがこれには異説もあり、共資に男の実子はおらず、井伊谷の鎮守・井伊宮にいた俊英の者が養子に迎えられ
その養子、即ち共保が井伊の家を起こし遠江国司の権威を継承したというのである。よって、由緒ある摂関家の
系図を引くとされる井伊家であるが、実の所は在地豪族が家系を藤原家に寄せて周辺諸氏を上回る勢力基盤を
築いた事が始まりのようなのだ。もっと言えば、共保の出自自体が定かならず、井伊宮の井戸の脇から湧いて
出た赤子だった―――という奇聞や、備中守共資なる者も藤原北家の系図には繋がらない?などの謎まである
訳だが、事の真偽は兎も角として井伊の家系が共保から始まるのは間違いなく、以後、遠江西部における主要
国人として井伊氏は勢力を伸ばしていき申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、井伊城の正確な創建年次は定かでないが、井伊氏初代・共保が1032年(万寿9年)に築き、以来代々に
渡り井伊家の居城とされてきたとする説がある。井伊谷の中心にある小高い丘の城は、山間部に挟まれたこの
小さな盆地を支配するのにうってつけの選地であり、地方豪族が拠点とするには相応の場所であろう。この城で
支配力を固めた井伊氏は、鎌倉時代後期になると浜名湖周辺域の大半を支配下に収めるほど成長した。■■

南朝勢力の一大拠点■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
鎌倉幕府が倒れた後、日本全国は後醍醐天皇新政による南朝勢力と足利幕府が奉じる北朝勢力に分かれて
戦うようになる。いわゆる南北朝騒乱期の始まりでござる。この戦乱期、西遠州の雄であった井伊氏も戦闘に
参加。駿河国の太守・今川氏や、三河東部の支配者である吉良氏などは全て足利氏に連なる系譜の家柄で
あったため当然北朝に与していたが、そうした中で井伊氏は南朝方に味方した。東西を北朝方から挟まれる
中にありながら井伊氏は奮戦し威勢を見せ付けたのでござる。このため、1337年(延元2年/建武4年)遠江介
井伊道政を頼り後醍醐天皇の第8子・宗良(むねよし)親王がここ井伊城へと下向してくる。この頃、井伊氏は
本拠として井伊城を用いつつ戦乱に対応するため、近隣に大平(おいだいら)城(下記、浜松市内)や千頭峯
(せんどうがみね)城(同じく浜松市内)などの支城を築き、更に詰めの城として三岳(みたけ)城(同市内)を
構築していた。平時は井伊城に構え、戦時にはこれら支城を転戦した道政や親王は長きに渡って戦い抜くも、
武門の棟梁たる足利将軍家に従う北朝方の猛攻で、こうした井伊氏の諸城は1339年(延元4年/暦応2年)から
1340年(延元5年/興国元年)にかけて次々と落城、親王は領国の信濃南部へ落ち延びたと言われる。しかし、
井伊城の案内板には1385年(元中2年/至徳2年)8月10日に親王はこの地で薨去と記され、信濃へ逃れた後も
各地で戦闘を継続し、再び遠江に戻ってきた可能性もある(但し親王没地には諸説あり、確証は無い)。■■■
ともあれ、平時に井伊城の御所ノ丸に御座した親王が読んだ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
「夕暮れは 湊もそこと しらすげの 入海かけて かすむ松原」■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
「はるばると 朝みつしおの 湊船 こぎ出るかたは 猶かすみつつ」という歌が残る。当然、井伊城址には親王に
所縁の遺構が多く、城山の頂部が親王の御座所であった御所ノ丸とされ、そこには伊の宮石陵がある。また、
東側山麓には親王を祭る二宮神社や親王の御念持仏を祭る足切観音堂が建てられている。■■■■■■■

井伊城の遺構■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
そんな井伊城であるが、城郭としてはさほど大きな城ではなく、さらに南北朝期という城郭発達史に於いては
古い時期のものに属する城である為、現在に残る痕跡は少ない。写真に掲載した山上主郭部の土塁と、その
山の斜面に僅かながら見られる法面(のりめん)ぐらいが主要なものなのだが、それも城郭愛好家でなければ
城の構造物だと思う人はいないだろう。現在の井伊城山は城山公園となっているので、史跡として見るよりも
もっぱら展望台・遊び場として訪れる人が主となっている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
場所は旧引佐郡引佐町役場、今は浜松市引佐地域自治センターの裏山。かつては城山の南麓一帯に平時の
居館となる本丸・二ノ丸・三ノ丸といった曲輪が並んでいたようだが、これらの敷地に官公署の建物が建ち並び
現在ではこの居館部に遺構はなく、山中に僅かな城郭の雰囲気が残るのみなのだ。城山へは浜松市立引佐
図書館の脇から入れる登山道があり、比高も高くないため割と簡単に登頂できる。しかし井伊谷で最も有名な
観光地は井伊家代々の菩提寺である龍潭寺なので、城山に目を向ける人はほとんどいないだろう。ちなみに
井伊氏は戦国時代になると美濃の斯波氏、次いで駿河今川氏に従属して命脈を保つが、1560年(永禄3年)に
当主・井伊内匠助直盛(なおもり)が桶狭間合戦で今川義元に従って戦死してしまい、その跡を継いだ肥後守
直親(なおちか、直盛の甥(従兄弟とも))も1562年(永禄5年)義元亡き後の混乱で今川家から謀反の疑いを
かけられ12月4日に討たれてしまう。直親の子、まだ赤ん坊だった直政だけが辛うじて落ち延び、本拠であった
井伊谷を後にし三河国徳川家を頼った。そこで成長した直政は15歳で元服し徳川家康の近習となったのだ。
こうした混乱の中、井伊家の家督と領地は直盛の遺娘・次郎法師直虎(なおとら)が守っていたものの、遠江が
今川家滅亡〜徳川家による占領〜武田家の攻略という混乱を経る中で没落、井伊城もその渦中で廃城に
なったと見られる。一方、長じた直政は三方ヶ原合戦の後に故郷・井伊谷を奪還。以後、家康に従って武功を
挙げた彼は武略に秀でる名将として活躍し「井伊の赤備え」と称され、徳川四天王の1人として名を轟かせた。
家康が江戸に移ると直政は井伊谷を離れ、徳川家が幕府を開くと井伊家は近江国彦根(滋賀県彦根市)に
35万石もの大封を得ると共に歴代当主は幕府の要職を継承していく。特に幕末、大老として開国の難局に
対処した井伊掃部頭直弼は有名であるが、明治維新まで約250年に渡り彦根に領土を有しながらそれでも
菩提寺は龍潭寺とされ続け、井伊家は父祖の地を忘れずにいたのである。そのため龍潭寺は代々井伊氏に
よって整備されており、江戸時代初期の名作庭家・小堀遠州が作った池泉式庭園は現代において国指定の
名勝となっている。井伊谷では城より寺が有名というのも、致し方ない事でござろう…。■■■■■■■■■■
なお宗良親王の墓も龍潭寺の西側に設けられ、戦友である井伊一門と共に井伊谷で眠っている。■■■■■



現存する遺構

土塁・郭群








遠江国 都田城

都田城址標柱

 所在地:静岡県浜松市浜名区都田町
 (旧 静岡県浜松市北区都田町/静岡県浜松市都田町)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

■■■■
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標柱が1本立つのみ…■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
こちらは旧浜松市の北部、都田町(みやこだちょう)にあった城。都田郷は平安の頃に京田郷と記され、「美夜古太」
或いは「美也古多」と読み仮名(万葉仮名)が充てられている古い地名。古の都人が京を恋しんで付いた地名だとか
はたまた「ミヤケダ(屯倉田)」が訛った読み方だとか。山間部を蛇行しながら浜名湖へ注ぐ都田川の流域には、僅か
ばかりの平地が水田として開拓され、平安時代には都田御厨(みくりや)となっていた。御厨と言うのは伊勢神宮に
寄進された荘園の事で、国衙は課税しようと試み、それに対して御厨は拒絶するという紛争の構図ができていた。
御厨の存在を中心に考えると、都人が京を恋しんだ話や屯倉田の話も不思議と全てがしっくり来るのでござる。■■
ところが武士の時代になると、もはや御厨も国衙も蹂躙され、在地武士とその上位階級にあたる守護・大名らが実力
統治するようになる。都田郷は戦国時代、菅沼氏が治める地になっていた。菅沼氏はもともと三河国額田郡菅沼郷
(愛知県新城市作手菅沼)に根付いた土岐氏の分流だが、次第に勢力範囲を広げ各地に分派し、長篠菅沼家から
次郎右衛門俊弘が都田へと進出してこの地を基盤とした都田菅沼氏が創始されたものである。その跡は子の元景が
継いだが、地理的に都田は井伊家(上記、井伊城の井伊家)の勢力圏内にあった事から、彼は井伊家の家臣として
組み入れられていく。当時の井伊家当主は直親であった。その直親は今川家弱体化の混乱期に謀殺されてしまい、
井伊家も当主不在(直虎が当主代行)という非常事態に陥った。都田菅沼氏も代替わりし忠久が当主になり、当初は
近藤石見守康用(やすもち)・鈴木三郎大夫重時と共に“井伊谷三人衆”として主家を支える立場にあったが、今川の
威勢が傾く中、このまま追従し続ける事に危機感を抱く。そこへ同族である野田菅沼家の織部正定盈(さだみつ)から
三河制圧を果たした徳川家康への臣従が持ち掛けられた(定盈は家康家臣)。1568年、忠久は康用と重時を引き込み
この誘いを承諾。その結果、同年12月から徳川家臣として鞍替えした三人衆は井伊谷攻略の軍として働き、直虎は
所領を追われる事となった。以後、家康に従って各地を転戦していった忠久であるが、井伊家は直政によって復興し
4代目の忠道(忠久の子)が当主となった頃には、再び都田菅沼家は井伊家の駒寄とされている。なお都田菅沼家は
俊弘―元景―忠久―忠道の代々に渡って次郎右衛門を称しており、その間の居城がこの都田城であった。■■■■
ところが1590年、徳川家康が関東に移封され、それに従い井伊直政も上州へ移ると、都田菅沼忠道も彼の地に居を
替え、恐らくその頃に都田城は廃された。江戸時代になると都田を治める陣屋が置かれたそうだが、どうやら都田城
跡地は使われず、別の所に構えられた(場所は不明)との事でござる。ちなみに菅沼忠道は徳川幕府成立の1603年
(慶長8年)10月20日に亡くなったが、井伊谷の臨済宗万松山龍潭寺に葬られ“里帰り”している。ただ、忠道次代の
次郎右衛門勝利より後は江戸の曹洞宗金谷山宝祥寺が菩提寺となり、遠江との縁は途切れ申した。■■■■■■
都田城跡は天竜浜名湖鉄道のフルーツパーク駅から都田川を渡った対岸(西岸)の台地上に位置する。この場所は
川が削った斜面の上にあり、川側は絶壁となっていて上陸出来ない地形。現在もこちら側からは登れない。反対に
陸側(西側)からは殆んど平坦な地形なので、その向きで見れば全く険要さは見受けられない。何でもこの都田城は
菅沼氏の“平時の居館”であり、詰の城は別に用意されていたそうだ。この平らな敷地が、しかも現代では完全に
畑地として均されてしまっているので、遺構らしきものは全然分からない。ただ、地元の方が御厚意で標柱を置いて
下さっており(写真)それが唯一の「見栄え」となるものであろう。とは言え、畑地=私有地であるので見学する際には
荒らしたり迷惑をかけたりしないよう気を付けるべし。畑の真ん中に源宮神社の小さな社があるので、それを目印に
訪問するのが良うござろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

郭群








遠江国 佐久城

佐久城跡 土橋と馬出

 所在地:静岡県浜松市浜名区三ヶ日町都筑
 (旧 静岡県浜松市北区三ヶ日町都筑/静岡県引佐郡三ヶ日町都筑)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

★★☆■■
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浜名湖畔の名族・浜名氏の来歴■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
浜名湖沿岸、三ヶ日近辺を中世に領した浜名氏の城。浜名氏は源平合戦期の公卿・源三位頼政(よりまさ)の
子孫とされる(その郎党・猪鼻早太(いのはやた)後裔との説もある)。頼政は近衛天皇に取り憑いた物の怪・鵺
(ぬゑ)を退治した伝説で知られ、その功績で三ヶ日に所領を得た。余談だが鵺に対して頼政が矢を放って叩き
落とし、それにとどめを刺したのが早太だそうな。それは兎も角、頼政が所領に構えた館が鵺代(ぬえしろ)館と
呼ばれ、現在もその地は「三ヶ日町鵺代」の地名になっている。浜名氏は代々、この鵺代館を居館としていた。
しかし南北朝の対立が始まると、時の浜名氏当主・鵺代二郎清政(きよまさ)は北朝の足利尊氏に与する。一方、
上記の井伊谷には南朝の雄・井伊氏が大きな勢力を誇っていた。西遠江では井伊氏の威勢によって南朝方が
優勢となり、遂に清政は国を追われ伊勢へと逃れ、更に美濃へと流浪した。ところが北朝勢の遠江攻略が開始
されると清政はこれに参加し勇戦、南朝方の城を次々と陥落させ、とうとう旧領を回復するに至った。凱旋した
浜名左近大夫清政は鵺代から猪鼻湖(浜名湖の最奥部にあたる内湖)を挟んだ対岸、大崎半島の中に新たな
城を築き、そこを本拠地とする事にした。これが佐久城で、築城年は1348年(正平3年/貞和4年)である。■■■
北朝に尽くした勲功からか、以後の浜名氏は室町幕府の奉公衆に取り立てられる。清政より後、備中守詮政―
備中守満政―兵庫助持政―隼人正政義―備中守政明と続いているが、名前の一字に必ず室町将軍の偏諱を
受けている(2代将軍・義詮、3代将軍・義満、4代将軍・義持、8代将軍・義政)事から、幕府からの信任が篤かった
様子が良く分かる。実際、詮政は1375年(天授元年/永和元年)3月の足利義満石清水八幡宮参拝や、1381年
(弘和元年/永徳元年)正月の白馬節会に供奉しており、政明は9代将軍・足利義尚の六角氏討伐に参戦した。
政明は他にも、家督争いを征した駿河今川家当主・氏親に従い1506年(永正3年)の三河攻めにも加わっている。
徳川家康の高祖父・松平蔵人丞長親(ながちか)を攻めたこの戦いでは、今川軍を氏親の叔父・伊勢新九郎盛時
即ち、後の北条早雲が率いており、政明は早雲とも知己を得た事になろう。政明は歌人としても名が高く、1522年
(大永2年)には連歌師の柴屋軒宗長(さいおくけんそうちょう)が佐久城を訪れ、歌の会を催したと言う。このように
政明の人脈は広く、特に今川家(宗長も今川家の近臣である)との繋がりは強かったようだ。よって、応仁の乱で
幕府の権力が衰退し、逆に地方大名の実力主義がモノを言う時代になると浜名氏は今川家へ従うようになった。
浜名氏は今川家臣として頼親―正信―正国―肥前守頼広(よりひろ)と代を繋いだのでござる。■■■■■■■

今川家と共に歴史から消える■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
されど、その今川家も桶狭間合戦で義元が戦死して後は急激に衰退。跡を継いだ氏真は文弱の将で、次第に
今川領が徳川家康に侵食されていったのは周知の通りである。遠江が西から徳川家に攻め込まれていき、旧
今川家臣が次々寝返っていく中で浜名頼広は今川家への忠義を守り、家康に従う事を良しとしなかった。或いは
先祖の浜名政明と松平長親の因縁もあっての事か。頼広の妻は今川家重臣・朝比奈備中守泰能(やすよし)の
娘であり、そうした血縁も大きく関係していたであろう(朝比奈氏は今川家の滅亡時まで氏真を庇護している)。
ともあれ、頑なに今川方としての地位を固守する頼広だったが、家康は着々と遠江占領を進めていき上記の通り
1568年に曳馬城を奪取、浜松城として本拠地にした。浜松を押さえられた事で佐久城は存続が成り立たなくなり
翌1569年(永禄12年)1月、身の危険を感じた頼広は城を棄てて逃亡した。甲斐の武田氏を頼ったと言うが、以後
消息は定かでない。ただ、頼広の叔父である大矢安芸守政頼は逃げるを潔しとせず、その後も兵を率い佐久城に
立て籠もった。斯くして1569年2月、家康配下の名将・本多平八郎忠勝が佐久城に迫ったのである。忠勝はまず
猪鼻湖北端に突き出す大明神山に布陣し、高所から佐久城を遠望。徳川の大軍を見せ付け、城に圧を掛けた。
徳川家中でも屈指の猛将である忠勝により攻められた城方では、さすがに籠城に利無しとみたか、忠勝の降伏
勧告に従う事となり、2月28日に開城している。ここに、平安末期から続いた浜名氏の威勢は絶え申した。■■■
佐久城を接収した家康は守将として本多庄左衛門信俊(のぶとし)を入れたが、1583年(天正11年)になって大崎
半島の根元にあたる場所で新たに野地(のじ)城(浜松市浜名区内)を築いた為、この城は廃された。野地城は
浜名湖北岸を走る三ヶ日姫街道に近い事からの選地であったそうだが、佐久城と野地城の距離は僅かに700m
程しか離れていない。この近距離でわざわざ城を作り替える“真の意義”は、どこにあったのだろうか?■■■■

馬出と言うのは、こういうものだ!■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
猪鼻湖に突き出す岬を利用した城域は、突端部(湖に囲まれた小丘)を広く啓開し本郭に造成。そこから南へは
南郭が接続し、ここには重臣屋敷があったと考えられている。恐らく往時はその外にも曲輪や根古屋があったと
想像されるが、現状では宅地開発によって外郭は遺構が消滅してしまっている。反対に、主郭から南郭まで至る
一連の構造物は綺麗に残存し、実に見応えのある城址となっているのでオススメだ。主郭は戦闘正面側(南東)を
土塁で囲い、大手口には枡形虎口を形成。そこから土橋が延び、小曲輪を経て更に屈曲路を通り、堀切を越えて
南郭へ続くのだが、この小曲輪と言うのが要するに丸馬出であり、それはそれは見事な出来栄えである。まるで
馬出の教科書、「馬出と言うのはこういうものだ!」と言うのを体現している規模と構造であって、佐久城はこれを
見る為に行くと言っても過言ではない。世の中にはやたら大き過ぎたり、繋ぎ方に無理がある馬出を持つ城もあり
「イマイチ、馬出の効能が良く分からない」と仰る方も居るようだが、佐久城の馬出を見ればその謎は一気に解け
「なるほど、馬出はこうやって使うのか!」と理解できるようになるだろう。また、主郭〜馬出〜南郭の間は巨大な
空堀によって分断されているので、この規模を体感するのも面白い。半面、楕円形をした本郭は湖に対し啓けて
いて、水上交通を管制する城であった事も容易に想像できよう。本郭内には井戸も備えていた。主郭北端からは
抜け道となる搦手道も備えられているが、この城を見学するならば正々堂々と大手側から見ないと、その凄さが
分からないので搦手は“ついで”程度に見れば良いかと(笑)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
浜名湖畔にある静かな名城は、1969年(昭和44年)2月14日に当時の三ヶ日町指定史跡となり、現在では浜松市
指定史跡として継承されている。浜名城との別名もある。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城址のある場所は天竜浜名湖鉄道の都筑駅から南へほぼ真っ直ぐ行った、東急浜名湖リゾートと言う別荘地の
片隅。東名高速の三ヶ日ICからも程近く、車で訪れるのも簡単だ。ただ、東急リゾートの入口となる交差点には
「私有地につき一般車両通り抜け禁止」と、如何にも外部からの来訪者を阻止する警告看板が立てられていて
訪問に気が引けてしまうのだが、御安心あれ。城跡の脇には2〜3台程度停められる駐車余地が確保されており、
そこは三ヶ日佐久城公園駐車場となっているので、立ち入れない訳では無い。この駐車余地の先に細道が延び
馬出手前の大空堀に繋がっている。車を降りて数十歩進めば、そこから先は別世界になっているので驚かされる
事だろう。この僅かな距離で、現代と戦国時代を行き来する時間旅行を楽しめるのが堪らない城跡だ。もちろん、
周りは別荘地であるから、指定された範囲以外へ侵入するのは絶対に行わないよう御注意を。駐車場についても
近辺には別荘所有者用の駐車場が沢山あり、そちらの方が分かり易いので公園駐車場を見落としてしまいそうに
なるのだが、間違えて停め住民の方に迷惑を掛けたりせぬよう、くれぐれも気を付けるべし。■■■■■■■■■



現存する遺構

井戸跡・堀・土塁・郭群等
城域内は市指定史跡








遠江国 大平城

大平城址標柱

 所在地:静岡県浜松市浜名区四大地
 (旧 静岡県浜松市浜北区四大地/静岡県浜北市四大地)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

★★■■■
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山中に色々な遺構が■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
大平城の城山を取り囲むように大平という字名が広がっているのだが、山の所在地は四大地(よんだいち)。
旧浜北市が合併し浜松市浜北区となった地域でござる。大退羅城とも書く。■■■■■■■■■■■■■■
城の場所は新東名高速道路の浜松SAからすぐ北側。細かく言えば、浜松SA上り線の建物を起点として北西
440m程の位置に五体力神社が鎮座し、その社殿の裏側が一段高い平場になっており申す。ここが大平城の
出曲輪で、更に北側の山が城山。山頂から東西南北の各方向へ尾根が延び、この十字尾根をそれぞれ削平
堀切を穿ち、段曲輪を形成している。言わずもがな、山頂が主郭として整えられているのだが、その西側にも
小ピークがあり、その周辺が西曲輪として副郭の機能を有していたようだ。主郭と西曲輪の一城別郭構造を
基軸とし、城山の北側や西側は険峻な断崖で防備していた天然の要害であった。五体力神社は十字尾根で
区切られたうちの南東側谷戸に位置している。山の南側、東から西へと灰ノ木川(浜名湖へ流れ込む川)が
横切っており、浜松SAはその対岸にある。この川が作る渓谷が大手口を塞ぐ天然の濠として役立っている。
川面の標高は35m、五体力神社の入口は40m、出曲輪が55m、山頂(主郭)がちょうど海抜100mと、確実に
高さを稼ぐ立地にある上、城山の北側にも灰ノ木川の支流が回り込み、唯一緩斜面が繋がる東側は堀切で
分断。この山は完全な独立峰となっていて、周囲から侵入し難い構造となってござる。■■■■■■■■
井伊家の来歴は上記した井伊城の通りだが、大平城は南北朝時代に井伊領内東を守る支城として築かれ
これを北朝方軍勢の高師泰(こうのもろやす)・師兼(もろかね)や仁木義長(にきよしなが)らが攻撃した。
その様子は旧引佐郡三ヶ日町(現在の浜松市北区三ヶ日町)福長にある真言宗瑠璃(るり)山大福寺にて
「瑠璃山年録残編裏書(るりさんねんろくざんぺんのうらがき)」の中に記されている。要約すれば、1339年
7月22日に高師泰軍が大平城へ侵攻し、高師兼軍は浜名方面へ進軍。7月26日に鴨江城(浜松市内)が、
10月30日に千頭峯城が落とされて、翌年の正月30日には三岳城も陥落。そして8月24日の夜に大平城が
師泰と仁木義長(遠江守護)の手によって落とされた…という経緯でござれば、これら一連の落城によって
南朝方は遠江での地盤を失い、宗良親王は信濃へと落ち延びて行くのであった。以後、この城が歴史上に
登場する事は無く、役割を終えたものと考えられる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1972年(昭和47年)8月30日、浜北市(現在は浜松市が承継)の史跡に指定され申した。■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群等
城域内は市指定史跡




駿府城(駿府館)・丸子城・持舟城  掛川城