浜松城の源泉■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
京の都から遠い湖、すなわち遠江国という国名の由来となった浜名湖のほとり、三方ヶ原台地の南端に位置する
浜松の町には、もともと駿河今川家の支城・曳馬(ひくま、引馬・引間・匹馬とも)城が築かれていた。この曳馬城が
後に徳川家康の浜松城(下記)へと発展するのだが、現在の浜松城本丸とは少々離れた位置にある為、ここでは
“古”浜松城として、別項で扱う事とした。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
とは言え、曳馬城としての経歴はかなり少ない。大永年間(1521年〜1528年)頃に駿遠の太守・今川上総介氏親
(うじちか)の命で整備されたと見られ、今川家の重臣・飯尾(いいお、いのおとも)氏の守る城であった。曳馬城の
創建に関して異説あるものの、この説に従えば飯尾善左衛門賢連(かたつら)―善四郎乗連(のりつら)―豊前守
連龍(つらたつ)と続いた。他に乗連期(氏親の子・今川治部大輔義元の命)の築城、或いは飯尾氏でなく引馬荘
代官の大河内備中守貞綱(おおこうちさだつな)城主説や貞綱の弟で河匂荘(浜松市中央区河輪町)の代官・巨海
(こみ、おおみとも)新左衛門尉道綱(みちつな)創建説、もっと遡って遠江今川家(駿河今川家とは血縁だが別家)
4代当主・今川伊予守貞相(さだすけ)が築城との説も乱立する。年代的には室町前期に当たる今川貞相の古城が
大河内・巨海らの手に渡り、遠江争奪戦の中で駿河今川家(飯尾氏)が改修した?との経過であろう。今川氏親が
大河内兄弟の守る曳馬城を攻める際、安倍金山の金鉱夫を率い城内の井戸を絶ち落としたと言う話も。ともあれ、
戦国時代に飯尾家が曳馬城主であった流れに集約される。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
降伏を頑なに拒んだお田鶴の方■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところが桶狭間合戦で今川家が没落の一途を辿りつつあった1563年(永禄6年)飯尾連龍は今川家と敵対関係に
あった三河の松平次郎三郎元康(後の徳川家康)へ内通した。今川家は同年12月に曳馬城を攻めるが落とせず、
今川上総介氏真(うじざね、義元後嗣)は謀略を用い1565年(永禄8年)末に連龍を誅殺している。代わって飯尾家
家老の江馬安芸守泰顕と江馬加賀守時成が城を預かるようになった。だが江馬氏も内紛から滅び、時を同じくして
徳川家が遠江国へ侵攻を始めたため、1568年(永禄11年)家康配下の武将・酒井左衛門督忠次が曳馬城を入手
する事となった。また、連龍没後は彼の妻・お田鶴(たづ)の方が城を守り徳川軍の攻略に耐えたが1568年の末に
落城、彼女は戦死したとの説もある。お田鶴の出自にも諸説あるが、氏真の従兄妹であったと考える説があって
(否定的な説もある)血縁から夫・連龍とは異なり今川家との関係を重視し、家康への服従を潔しとしなかった…と
云う事らしい。主家への忠義に散ったお田鶴は後に“烈女”“貞婦”として崇敬の念を集める事になり、彼女を祀る
椿姫観音が曳馬城下の外れに建立されている。椿姫と言うのが、お田鶴の尊称である。また、彼女の戦いぶりは
2023年(令和5年)の大河ドラマ「どうする家康」でも入念に描かれ申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■
(個人的には、亡夫の遺志は全く無視したお田鶴ってどうなの?とも思うのだがw)■■■■■■■■■■■■■
浜松城とは別の城?■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
以後の歴史は浜松城の項に譲るとして、今の曳馬城址は浜松東照宮(元城町東照宮)の境内一帯となっている。
この社は明治になってから旧城主にして神君である徳川家康を祀るべく旧幕臣・井上延陵(えんりょう)が発起人と
なり建立されたものだった。太平洋戦争で戦災焼失し、1958年(昭和33年)に鉄筋コンクリートで再建されている。
この戦後復興時、浜松市では都市計画に基づき東照宮の撤去も検討したが、地元住民が守ったそうだ。■■■■
曳馬城としての縄張りは、四方形をした敷地を更に縦横で切り分けた「田」の字をした曲輪が並ぶ状況だったらしく、
東照宮の敷地はこのうち北西側の曲輪に当たる。それ以外の曲輪跡は完全に住宅地となり、微塵も城の面影は
無いのだが、曲輪を分割する堀跡は道路となっており、道筋…いや、掘割?をなぞる事は出来る。東照宮境内は
標高およそ13m、その隣を走る国道152号線は8m程なので5m弱の比高差なのだが、その距離はたったの50m。
50mで5m登るのだから、かなりの急坂である。今川家の前線城郭、言い換えれば“橋頭保”と言うべき砦としては
むしろ「小さくても固く守れる地形」を選んだという事か。このため、堀跡の道は場所によっては切り通しのような
険しい形状を作り出している。まさに山を“割って”いた訳だ。ちなみに、浜松城本丸(天守台)の標高は37.5mある。
この高さだと、それを従える曲輪も数多く必要になり“橋頭保”ではなく“巨大要塞”を築く事になってしまうのだろう。
飯尾氏に任せる城としては分不相応になる感じだが、一国を治める大名・徳川家康の居城ならば、それも当然か。
なお、東照宮の社殿と浜松城天守の距離は370m。浜松城の城域から見れば旧曳馬城は一番の外郭部にあたり、
現在の状況でも浜松市役所の敷地(葵広場)や国道152号線を挟んだ「外側」に曳馬城が位置している。ひと口に
「曳馬城を吸収した浜松城」と言うが、浜松城の城山と曳馬城跡の丘陵は別物と考えるべきであろう。史跡指定でも
浜松城とは別に「引間城跡」として2018年(平成30年)3月22日に浜松市認定史跡(指定史跡ではない)となっている。
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