曳馬城を拡張■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
京の都から遠い湖、すなわち遠江国という国名の由来となった浜名湖のほとり、三方ヶ原台地の南端に位置する
浜松の町には、もともと駿河今川家の支城・曳馬(ひくま、引間・匹馬とも)城が築かれてござった。この曳馬城は
今川家の重臣・飯尾(いいお)氏の守る城であったものの、1563年(永禄6年)時の飯尾家当主・飯尾豊前守連竜
(つらたつ)は今川家と敵対関係にあった三河の松平元康(後の徳川家康)へ内通したため今川氏真に滅ぼされ、
代わって江馬氏が城を預かるようになった。しかし江馬氏も内紛から滅び、時を同じくして徳川家が遠江国へと
侵攻を始めたため、1568年(永禄11年)家康配下の武将・酒井左衛門督忠次が曳馬城を入手する事となり、更に
1570年(元亀元年)には家康自身が岡崎城(愛知県岡崎市)から居を移して徳川家による遠江経営の本拠とした。
三河から東方の遠江へ領土を拡大した家康は岡崎城を嫡男の三郎信康に任せ、来たる甲斐武田家との対決に
備えて新領土の要所となる曳馬城を重視し浜松と改称、城の防備を固める大改修工事を開始したのでござる。
ちなみに「浜松」の名はかつてこの地にあった荘園「浜松荘」に由来すると云う。「曳馬」の名は「馬を退く」つまり
敗北に繋がるとし、吉祥を願って縁起の良い「松」に所縁の地名を復活させた訳だ。■■■■■■■■■■■■
以来17年間、駿府(現在の静岡県静岡市)に居を移すまで徳川の本城として機能。これが浜松城の起こりであり
かつての曳馬城は浜松城の米蔵曲輪(出曲輪)として取り込まれ申した。この年の9月に一応の普請が完了し、
浜松城は曳馬城よりも遥かに大きな城として生まれ変わった訳だが、1572年(元亀3年)恐れていた通り甲斐の
武田信玄が遠江へと進軍、浜松城は武田騎馬軍団の脅威に晒される。家康は当初、一歩踏み込んで天竜川の
東へ進出し見付(現在の静岡県磐田市)で新たな城を構えるつもりであったというが、それでは武田軍の襲来に
“背水の陣”となる為(城だけが突出し、背後の天竜川はむしろ退却できなくなる阻害となる)浜松城の大型化で
対応しようとした訳だ。さりとて、無敵と謳われる強大な武田軍に対し遠州を手にして日の浅い徳川方はやはり
防備もままならず、止むを得ず浜松城での籠城が開始された。ところが、そうした徳川軍を嘲るように武田軍は
浜松城を無視し、城の北側に位置する三方ヶ原台地を無防備に通過していく。さすがにここまで馬鹿にされては
家康も激怒し、信玄の罠と知りつつ12月22日に劣勢の軍を動かして武田軍の追撃作戦を展開した。が、家康の
出撃を知るや武田の軍勢は反撃の陣容を整え、台地上で徳川軍を包囲してしまう。結果、芸術的な程に信玄は
徳川軍を打ちのめし、家康は命からがら浜松城に逃げ込む大失態を犯した。これが戦国史に有名な三方ヶ原
合戦だ。この時、家康は敗北に憔悴する恥ずべき自分の姿を絵師に描かせて残し、以後は無謀な策を控えて
自らを戒めるようになったという。これにより家康は自重を覚え時期を見る感覚を研ぎ澄まし、最終的に天下を
掴むに至る忍耐力を培った。また、惨敗必至の中で家臣と育んだ絆は、後の江戸幕府を支える譜代大名たちを
結束させていくのである。城へ逃げ帰る徳川軍にあって、酒井忠次が城内で太鼓を叩き打って味方を鼓舞し、
城と家康が健在である事を知らしめ、また追い迫る武田軍に対して伏兵などの策があるよう疑わせて退かせた
逸話はあまりにも有名だ。浜松城は“天下人・徳川家康”を作り上げる重要な鍵となったのであった。■■■■
近世城郭へ、そして幕閣の登竜門へ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
その後も家康は浜松城の防備を強化するために改良を続ける。主な工事だけでも1578年(天正6年)〜1579年
(天正7年)・1581年(天正9年)など数次をかぞえたが、上記した通り1586年(天正14年)に家康は猶も東方の
駿府へと移り、浜松城主には徳川家臣の菅沼(土岐)定政が任じられた。さらに1590年(天正18年)豊臣秀吉が
小田原(神奈川県小田原市)の後北条氏を倒して天下を統一すると、家康は三河・遠江・駿河など東海5ヶ国の
旧領を召し上げられて江戸(東京都千代田区)へ移封となる。これにより浜松城には秀吉配下の将・堀尾帯刀長
吉晴(ほりおよしはる)が近江国佐和山(滋賀県彦根市)から12万石で入城。家康が改修した城の防備を、より
堅いものにするべく浜松城は豊臣一門による大改修工事を受け、この改造によって石垣造りの近世城郭へと
改良されたのでござった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところが堀尾氏の在城は10年で終了。1600年(慶長5年)関ヶ原合戦により家康は天下の主に収まったため、
浜松を領していた吉晴とその子・信濃守忠氏(ただうじ)は同年11月に出雲国松江(島根県松江市)24万石へと
加増・転封されたのだ。以後、東海道の要地であった浜松は江戸幕府の防備を固める為に徳川譜代家臣が
交替で封じられるようになる。神君家康ゆかりの城を拝領することは、幕閣への登竜門であったのでござる。
このため浜松城は別名で「出世城」と呼ばれるのでござった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
忠氏の後は桜井松平左馬允忠頼が5万石で入封したが、1609年(慶長14年)9月29日に刃傷事件で殺されて
しまう。不祥事による落命とされ桜井松平家は改易、12月22日に水野対馬守重仲(しげなか)が浜松城主へと
任じられ申した。但し、重仲は家康の10男・徳川頼宣の附家老である為、独立した大名ではなく頼宣領の一部
2万5000石を預かる形で城主となったものだ。重仲には大坂の陣での戦功として1617年(元和3年)10月24日
1万石が加増されたが、1619年(元和5年)常陸介頼宣が紀州和歌山(和歌山県和歌山市)に移った為、彼も
7月19日に紀伊国新宮(和歌山県新宮市)3万5000石へと移されてござる。■■■■■■■■■■■■■■
この後、城主の座は目まぐるしく変わっていく。9月に武蔵国岩槻(埼玉県さいたま市岩槻区)2万石から高力
摂津守忠房(こうりきただふさ)が3万5000石で入り1639年(寛永16年)4月13日に肥前国島原(長崎県島原市)
4万石へと加増転封。島原・天草の乱後における復興を託されたと云う。代わって美濃国岩村(岐阜県恵那市)
2万石から大給(おぎゅう)松平和泉守乗壽(のりなか)が同月25日に浜松へと移封。石高は3万6000石。しかし
老中登用に伴い1644年(正保元年)2月28日、上野国館林(群馬県館林市)6万石へと転封されている。今度は
三河国西尾(愛知県西尾市)3万5000石の太田備中守資宗(すけむね)が同石高で浜松城主に。彼が1671年
(寛文11年)12月19日に隠居すると2男の摂津守資次(すけつぐ)が跡を継ぐも、1678年(延宝6年)6月19日
大坂城代に任じられた事で転出し、入れ替わりで大坂城代だった青山因幡守宗俊(むねとし)が8月18日から
浜松城主となり申した。青山家は和泉守忠雄(ただお)―下野守忠重(ただしげ)と代替わりした後の1702年
(元禄15年)9月7日に丹波国亀山(京都府亀岡市)5万石へと移され、常陸国笠間(茨城県笠間市)で5万石を
有していた本庄松平豊後守資俊(すけとし)が備中国内に2万石を加増される形(合計7万石)で浜松へと移封
されて来る。彼の死後は弟の豊後守資訓(すけのり)が継いだが、1729年(享保14年)2月15日に三河国吉田
(愛知県豊橋市)7万石へと移された。代わって吉田から大河内松平伊豆守信祝(のぶとき)が同石高で入封し
その跡は左衛門佐信復(のぶなお)が受け継いだ。1749年(寛延2年)10月15日、大河内松平家は再度吉田へ
移り、本庄松平資訓が浜松城主に復する。資訓の没後、その座は伊予守資昌(すけまさ)へと続いたものの、
1758年(宝暦8年)12月27日に丹後国宮津(京都府宮津市)7万石へ移り、今度は磐城国平(福島県いわき市)
3万7000石の藩主であった井上河内守正経(まさつね)が6万石に加増されて入封。井上家は河内守正定―
河内守正甫(まさもと)と続くが、彼は1817年(文化14年)9月14日に陸奥国棚倉(福島県東白川郡棚倉町)へ
移封されてござる。棚倉への転封は幕府の慣例で懲罰的な意味合いがあり、正甫は乱行の罪を働いた事で
移されたのであった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
水野忠邦の城主就任と幕府の終焉■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、井上正甫の転出により浜松城主になったのが水野越前守忠邦。石高は6万石。歴代浜松城主の中では
最も有名な人物であろう。彼は肥前国唐津城(佐賀県唐津市)主であったが、九州の唐津領では長崎警護の
役を負わねばならなかったため、江戸での幕政参加は不可能であった。栄達を望む忠邦は、実質的な減収と
なるにも拘わらず自ら唐津から浜松への国替えを望み、見事それを果たして幕府老中の役職を得るようになり
江戸三大改革の一つ、有名な「天保の改革」を推進するまでに出世したのであった。忠邦は筆頭老中として
7万石を超える石高まで加増されたが、天保の改革が失敗するに及んで老中を罷免され5万石へと減封の上
隠居を余儀なくされた。跡を継いだ忠精(ただきよ)は更に1845年(弘化2年)11月30日、左遷人事で出羽国
山形(山形県山形市)へと飛ばされ申した。この後、浜松には井上河内守正春が上野国館林(群馬県館林市)
6万石から入封。正春は正甫の長男であり、父の汚名を雪いでの浜松城主復帰となったが、井上家は次代の
河内守正直(まさなお)の頃に明治維新を迎えた。幕府の瓦解に伴い、徳川将軍家は一大名としてのみ存続を
許され、1868年(明治元年)5月24日に徳川(田安)家達(いえさと)が静岡藩主に任じられた訳だが、その所領
70万石は概ね駿河・遠江の国内が充てられた。この為、同年9月23日に井上正直は押し出される形で上総国
鶴舞(千葉県市原市)6万石へと移されてござる。浜松藩領は程なく静岡県の管轄に入り、浜松城も1873年
(明治6年)1月14日に発布された廃城令によって廃城処分を受け、建物は軒並み破却され候。■■■■■■
浜松城の構造■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、東海地方という立地上、浜松は地震や風水害に見舞われる事が多く、災害の度に浜松城は少なからず
被害を受けてしまっていた。そうした被災の都度に復旧工事は行われてきものの、特に幕末に起きた1854年
(安政元年)11月の大地震では城内各所の石垣が崩れた上、櫓も崩壊する大被害を被って、かなり大掛かりな
修復が行われ申した。天正〜慶長期の大改修によって完成されていた浜松城の石垣は、いかにも戦国時代の
城郭遺構らしい野面(のづら)積みの中でも特別な一分類に属する穴太積み(あのうづみ)と呼ばれる方法で
組まれているが、現在に残る姿はこの安政大改修の積み直しを経ているために、よく見ると自然石をそのまま
利用しながらも算木積みといった新式工法の導入が行われている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城全体の構造については、東西約600m・南北約550mに及ぶ城域の中に天守丸・本丸・二ノ丸・三ノ丸が西から
東の方向へ階段状で並ぶ梯郭式の縄張り。天守丸と本丸の南側を塞ぐように腰曲輪(清水曲輪)が置かれた。
この一連の曲輪で構成される浜松城は浜松市中心の傾斜台地に築かれた平山城だ。当然ながら天守曲輪が
最高所、天守曲輪・本丸の北西側は深い谷によって城の外域と隔絶されていた要害地形である。谷の対岸に
ある小山は作左(さくざ)曲輪と呼ばれる出丸(小砦)となっていて、その更に北側が犀ヶ崖と言う断崖。作左
曲輪の名は、浜松城を家康が構築する際に普請奉行を務めた本多作左衛門重次に由来する。また、犀ヶ崖は
三方ヶ原台地の南端に位置し、三方ヶ原合戦時に敗走する徳川軍が追撃してきた武田軍をこの崖から落ちる
ように仕向け、一矢報いたとする伝承が残る地だ。他方、犀ヶ崖の反対側になる城の北東端部(三ノ丸の東)は
かつての曳馬城跡だった場所で、近世浜松城はこの場所を外郭として取り込み一体化。古城と称される曳馬
城跡の曲輪には米蔵などが並んでいたそうな。城の建つ台地以外、周辺一帯は深い沼地の要害であった。
天守曲輪は家康時代の本丸と思われ、天然地形をそのまま活用した凡そ菱型の敷地。面積は2800uと狭隘で
曲輪中心部に約21m四方の天守台の石垣が組まれていた。しかし史料上、浜松城に天守が建てられていたと
いう記録はどこにも見当たらない。堀尾時代に天守があったとする説もあるが確証はなく、幕末に撮影された
天守曲輪の古写真でも東側虎口に表門があるだけで、天守台の上には建築物の姿が残されていないのだ。
この為、浜松城天守の存在はかなり否定的見方をする研究者も多い。ともあれ、現在ではこの天守台の上に
鉄筋コンクリート造りの模擬天守が建てられ、浜松城の象徴として親しまれている。■■■■■■■■■■■
本丸は北側に富士見櫓、東側に裏門、南東隅に菱櫓、南面には鉄門と多聞櫓があった。敷地内には将軍が
訪れた際に使われる御成御殿が建てられていたとされるものの、江戸時代の早い時点で廃絶したようだ。
城主の住処となる御殿は二ノ丸にあった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
復元整備が活発化■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
明治維新後、城は廃城とされ残存建築は全て破却された。敷地も天守曲輪と本丸以外は市街地化によって
改変され、しばらくは荒廃する石垣と曲輪群だけが放置された浜松城であったが、太平洋戦争後の1950年
(昭和25年)跡地が浜松城公園として開園。浜松市が郷土の文化財として保存に乗り出した浜松城公園では
上記した模擬天守が1958年(昭和33年)4月26日に史料館として完成、その翌年の1959年(昭和34年)6月18日
城跡は浜松市の史跡として指定されたのでござった。模擬天守は地上3階+地下1階、下見板張りで名古屋
工業大学の故・城戸久名誉教授が設計した。堀尾期の天守(?)は松江城(島根県松江市)天守に似た外観
だったと伝承されるが(と言うか、順番的には浜松から移封された松江で同じような天守を作った事になる)
城戸教授の復興天守は丸岡城(福井県坂井市)に似せて設計され、また資金不足から天守台の面積よりも
かなり小振りな寸法に仕上がっている(故に、天守台上面に余地が残っている)。■■■■■■■■■■■■■
浜松城には井戸が多く、天守曲輪埋門の傍らと本丸内に1つずつ、二ノ丸に3つ、作左曲輪に4つ、さらには
天守台の中に1つ、計10箇所が確認されている。このうち、天守台の井戸は模擬天守建立後も残されて建物
地下室内に保存されているが、水は枯れてしまい汲み上げる事は出来ない。その他、天守曲輪の井戸等は
史跡整備に伴って枠組み等が再築され、見学しやすいように整えられている。史跡整備の流れは21世紀に
なってから加速度的に進んでおり、発掘調査によって石垣や堀などかつての遺構を確認。今後、浜松城跡が
史跡活用されていく可能性は十分にある。その契機とも言えるのが2014年(平成26年)天守曲輪の天守門が
再建された事であろう。古態に基づいて木造再建された天守門は入母屋造り本瓦葺、柱間4.09m×上面梁高
4.12m、櫓の桁行10.91m×梁間5m×高さ10.28mという立派なもの。白漆喰で塗り籠められ、下見板張天守の
黒さとは対照的な色合いとなっている。今後は天守曲輪の西側(天守門と反対側の虎口)にあった埋門の
整備計画を進めるようで、模擬とは言え天守と門が両立し曲輪の様子が再現されたならば壮観であろう。■■
なお、古城こと曳馬城跡は現状で浜松東照宮の敷地となっている。■■■■■■■■■■■■■■■■■
2017年(平成29年)4月6日、財団法人日本城郭協会から続百名城の1つに選定されてござる。■■■■■■
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