駿河国 駿府城(駿府館)

駿府城東御門(復元)

 所在地:静岡県静岡市葵区

駿府城公園・追手町
駿府町・城内町
 (旧 静岡県静岡市駿府公園・追手町・駿府町・城内町)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★■■
★★★★



今川家以来の“府中館”■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
全国で14番目の政令指定都市となった現在の静岡県静岡市、かつての駿府すなわち駿河府中は、駿河守護
今川家の本拠地として繁栄を極めた町でござる。室町時代、この町には今川氏の拠点にして守護館であった
駿府館が置かれていた。今川家は足利将軍家の流れを汲む名門で、将軍位継承権も持つと伝えられた家格。
「御所(将軍家)が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」と称され、この駿府を基盤として順調に
勢力を伸ばし、その実力を恐れて1400年(応永7年)に今川了俊(りょうしゅん)が3代将軍・足利義満の追討を
受けた事もあった。以後も今川家の伸張が続き、戦国時代には今川上総介氏親(うじちか)が分国法を制定、
駿河のみならず遠江・三河の支配も確立し、駿府の町は多いに賑わったのでござった。最盛時には京都の町
をも凌ぐほど繁栄していたと言う。しかし1560年(永禄3年)5月、大軍を率いて尾張遠征途上の今川治部大輔
義元が桶狭間合戦で織田信長に討たれると今川家の勢力は衰退。1568年(永禄11年)に甲斐の武田信玄が
駿河に来攻し義元の後嗣・今川上総介氏真を追放、駿府は武田氏の支配下に置かれ申した。更に武田氏も
滅亡した後は徳川家康が駿河を入手する。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
武田氏・徳川氏の相次ぐ駿府侵攻により今川時代の駿府館(今川氏館)は灰燼に帰すも、1585年(天正13年)
家康に命じられた深溝(ふこうぞ)松平主殿助家忠(家康家臣)によって駿府館跡が全面改修され、駿府城が
築かれたのである。翌1586年(天正14年)家康は浜松城(静岡県浜松市中区)から駿府城に居を移す。この、
最初期の駿府城は詳しい事が分かっていないが、現在残る駿府城の敷地より一回り小さい(三ノ丸部がない)
規模だったようである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
豊臣秀吉の天下統一に伴い、1590年(天正18年)家康が江戸移封になると駿府へ秀吉配下の中村式部少輔
一氏が入城、城の大改修を行っている。駿府城跡では数次に渡る発掘調査が行われて、金箔を押した瓦も
出土しているが(詳細下記)それはこの中村氏時代に用いられていたものと見られている。秀吉は子飼いの
大名に金箔瓦の使用を奨励し、豊臣政権の力を広く喧伝しようとしていたからだ。ところが程なく秀吉は没し
1600年(慶長5年)の関ヶ原合戦後、駿河国は再び徳川の領地となり、中村家は封を移され伯耆国を領有。
米子城(鳥取県米子市)で17万5000石の国持大名となる。一方、駿府城には家康異母弟(異説あり)の内藤
豊前守信成が伊豆国韮山(静岡県伊豆の国市)から石高4万石で1601年(慶長6年)入城、駿府藩を立藩。

大御所家康の隠居城、そして…■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
だが信成は1606年(慶長11年)近江国長浜(滋賀県長浜市)へ移封され、然る後、駿府城は幕府直轄となり
家康の隠居城として再整備される。一説には城の位置を西へ移して新たな築城を行う計画もあったらしいが
最終的には従前の城を拡張し、それまで二重だった堀を三重にする縄張りとなった。1607年(慶長12年)2月
天下普請として駿府城の工事が開始され、程なく本丸・天守が完成したものの、同年の末に失火で焼失して
しまった。直後から再度工事が行なわれ完成したのは1610年(慶長15年)である。家康が在城した駿府城は
“大御所政治”の本拠となり、江戸に居住した2代将軍・徳川秀忠との二元政治体制の片輪を担った。■■■
さて、こうして整えられた駿府城は1616年(元和2年)4月17日の家康死去後も徳川常陸介頼宣(家康10男)や
「駿河大納言」こと徳川忠長(秀忠3男)らが城主を務め、徳川将軍家縁戚の城とされていた。頼宣は1609年
(慶長14年)12月12日に駿河入封、1619年(元和5年)7月19日に紀伊国和歌山(和歌山県和歌山市)へと移封。
但し、当初は家康が存命中の為、実質的には家康の城であった。頼宣の所領は50万石。他方、忠長が駿府に
封じられたのは1625年(寛永2年)1月11日の事だ。3代将軍・家光の弟として大封を与えられ、石高は55万石。
しかし兄との確執で心身に異常をきたした忠長が1632年(寛永9年)10月20日に驕暴の廉で改易された後は
幕府直轄の番城として城代が交代で管理するようになる。明治維新までに城代を務めた人数は46人にもなり
東海道を守る幕府直轄の城として重要な役割を担ったのでござる。その重要性から城外の警護役となる加番
(かばん)も置かれ、当初は一加番・二加番の2箇所制であったものが、1651年(慶安4年)に起きた慶安の変
以後には三加番も増設され申した。これらの加番屋敷跡は現在、神社となっている。■■■■■■■■■■
幕府の駿府城管理体制が確立する一方で1635年(寛永12年)には火災が発生、天守や御殿をはじめとする
城内諸建築は殆どが焼失してしまい、1638年(寛永15年)に復興はされたものの、遂に天守は再建されない
ままであった。また、本丸御殿も奥向部分を廃され、規模を縮小されている。更に二ノ丸御殿などの不必要
建築物は再建すらされていない。1707年(宝永4年)10月4日の宝永地震でも石垣や櫓に数々の被害が出て
復興に人員予算を費やされたが、その後も建物は荒廃を続け、1854年(安政元年)発生した安政の大地震で
壊滅的被害を受けてしまう。建物は軒並み倒壊、石垣も部分的に崩落しており、ほとんど復旧されないまま
幕末を迎えてしまったのでござった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

幕末、維新、近現代■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
その幕末、明治新政府軍が征東に赴いて駿府へ達すると、駿府城代の屋敷に逗留。これに対し、江戸から
使者として幕臣・山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)が派遣され、駿府町内にて征討大総督府参謀・西郷隆盛と
1868年(慶応4年)3月9日、談判に及んだという記録が残っている。家康が江戸幕府を完成に導くべく整えた
駿府は江戸幕府終焉の引導を渡す舞台ともなったのだ。この会談によって江戸無血開城への道筋が立つ。
斯くして江戸幕府は倒れ、15代将軍・徳川慶喜は江戸城(東京都千代田区)を出て水戸で謹慎。これにより
徳川宗家は徳川家達(いえさと)が継承するも、将軍位を失い一大名に列せられたため、明治新政府により
5月24日、駿府城に移封された。石高は70万石とされるも、駿府つまり駿河府中の地名は「駿河は不忠」に
繋がるとして町の名を「静岡」に改名する。駿府の町の真ん中にある丘陵「賤機山(しずはたやま)」に由来し
静かなる岡、静岡として新政府に憚ったのであった。1869年(明治2年)6月20日の事である。が、程なくして
1871年(明治4年)7月14日に廃藩置県を迎え、知藩事・家達は駿府城を退去。結果、城内の諸建築は払い
下げられ撤去されてしまったのある。城の南側は県庁敷地、それ以外は茶畑へと変貌。1891年(明治24年)
城の跡地が静岡市へ払い下げられ中央公園とされるも、今度は1896年(明治29年)駿府城跡地に陸軍歩兵
34連隊が設置され、広い更地を必要とした事から本丸の堀も埋め立てられてしまう。また、巨大さを誇った
天守台も崩された。天守部分さえも平地に取り込むためである。加えて二ノ丸部分には官庁や学校などの
公共施設が建てられ、城の威容は見る影も無く失われていき申した。■■■■■■■■■■■■■■■

駿府城の縄張り■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかし第二次世界大戦後、駿府城の史跡価値が再評価され順次発掘調査や復元作業が進められていく。
発掘によれば瓦や釘、門の部材といった建築用品の他、農耕具・装身具・陶磁器などが出土しており、城の
成立過程を探る貴重な史料になっている。その結果から往時の駿府城を類推してみれば、家康が整備した
江戸時代初期の姿では、本丸北西隅に5重(もしくは6重)7階の天守が天を衝くように建ち、富士山と並んで
見えたと言われる。天守台は将軍居所である江戸城をも超える面積を有する日本最大のもので、東西61m×
南北68mを数えた。天守を囲んで多聞櫓が並び、四隅に櫓、その内部に天守本体が建っていたと考えられて
いる。要するに、天守台自体が天守曲輪と呼べるような敷地となっていた訳だが、肝心の天守がどのような
構造・意匠であったかは史料に乏しく判然としない。但し、城郭建築研究者が様々な復元案を提示しており、
それを比べるのも面白い。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
本丸には家康の居所である豪華な御殿があり、二ノ丸にも御殿が建てられていた。その他、二ノ丸に米蔵や
台所といった城郭運用上の必須建物が置かれ三ノ丸は家臣の屋敷地だった。これら本丸・二ノ丸・三ノ丸と
いった曲輪は綺麗に「回」の字を描く配列、いわゆる輪郭式の縄張りとなっている。本丸・二ノ丸・三ノ丸は
それぞれ水濠で囲まれ、二ノ丸東部分には本丸濠と二ノ丸濠を繋ぐ水路が渡されていた。その水路上には
御水門櫓が建てられるという特異な構造になっている。同様に、三ノ丸東部に二ノ丸濠と三ノ丸濠を繋いだ
水路が掘られている。実は、城の敷地は古安倍川(現在の流路になる以前の安倍川)跡地の上に存在し、
駿府城の濠は全て水堀であるが、その水は古安倍川伏流水による湧水で賄われているため、濠が枯れる
事は無い。現在も、濠の底からは水が湧き出ていて絶えていない。■■■■■■■■■■■■■■■■■

次々と現れる発掘の成果■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところで静岡市が政令指定都市になってから駿府城での発掘は加速度的に進み、家康以前の様態もかなり
明らかになってきている。家康が隠居城として構築した慶長期駿府城の前、家康が築城しながら豊臣政権に
よって接収・改良された天正期駿府城の天守について、新たな知見を確認。それに拠れば、天正期天守台は
慶長期天守台からやや南東側にあり、部分的に慶長期天守台と重なる形で埋没していた。規模は東西25m
南北27mほど、慶長期には及ばないものの当時としては破格の巨大さを誇る。静岡市の広報に従うならば、
安土城(滋賀県近江八幡市)・豊臣期大坂城(大阪府大阪市中央区)・肥前名護屋城(佐賀県唐津市)に次ぐ
大きさだったとの事。また、発掘によって堀跡(慶長期築城時に埋められた箇所)から大量の金箔瓦が出土、
家康が隠居城として大改造する際、旧天守が破却されそこに飾られていた金箔瓦をまとめて捨てたものと
判断され申した。即ち、豊臣政権時代の駿府城天守には金箔瓦が使われていた事が確実だった訳だが、
それは関東へ移封された徳川家を封じ込める大城として、また大坂(豊臣政権の本拠)・京都方面へと赴く
東国・東北の大名が東海道を進む際に関東直近の豊臣政権城郭として、その威光を見せつけるべく豪華
絢爛な城を整えたと考えられる。天正期天守が巨大であるのも、安土城(信長の居城)・大坂城(秀吉居城)
名護屋城(朝鮮出兵時の本営)に匹敵する大きさで佐竹義宣(常陸の大名)や伊達政宗(陸奥の大名)らの
度肝を抜いて、関東を抜けた途端に豊臣政権の強大さが浸透している事を知らしめようとしたのであろう。
静岡市ではこの天守が中村一氏によって作られたと想定しているようだが、しかし経歴からすると天正期
天守が建てられたのは松平家忠築城時であると考えるべきであり、徳川家が作った天守を改装した、という
感じだったのではなかろうか?また、この豊臣政権の天守が大御所家康によって破却され、新たにもっと
大きな天守で「埋めた」という経緯は、後に豊臣大坂城が辿る運命と同じであり、徳川幕府が豊臣政権を
葬る手法の“先例”として政治学的見地でも注目できよう。ちなみに、発掘時点において出土した金箔瓦の
総量は山形城(山形県山形市)に次ぎ全国2位であったそうで、しかも山形城では城域全部から出た量で
あるのに対し、駿府城では城内の1箇所からこれだけの量が出たため、静岡市では更なる発見を期待して
いるようだ。個人的には「1箇所にまとめて瓦を破棄した」のならば他からは出ないような気もするが…w
ともあれ発掘は更に進められ、天正期城郭の地表面よりもっと深い地層からは今川時代の駿府館遺構も
確認されつつある。従来、今川氏館は駿府城と別の場所だったのではないかと考える説もあって所在地は
断定できなかったのだが、これによって確定される可能性が高まっている。今後の成果に期待したい。■■
話を江戸期の駿府城へ戻すと、各曲輪の間は要所を橋で渡し、その出入口は厳重な虎口で守られていた。
現在もこれらの虎口遺構はよく残されているが、静岡県庁前にある橋や城代橋(静岡営林管理署前の橋)
二之丸橋(駿府城公園南口の橋)などは明治以後に新しく架けられたものなので、城が使用されていた
当時の位置にあったものではない。当然、その位置の石垣は切り取られた形になっていて一目瞭然だが
この他にも、駿府城の至る所に残る石垣は地震で崩落した積み直しの毎に不自然な成形が為されており
部分部分で様相が異なっている事にも注意されたい。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

百名城に相応しい一大史跡■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城址本丸・二ノ丸の現状は駿府城公園として整備され、堀や石垣などが残存している。この公園は旧陸軍
用地が1949年(昭和24年)静岡市に払い下げられ、それを公園化し1951年(昭和26年)駿府公園と命名した
ものにて候。史跡整備と両立させた公園では、一度は埋められた本丸濠も発掘に基づき一部を掘り直し、
復活。二ノ丸の南東隅にあった巽櫓(写真)は1989年(平成元年)の駿府博覧会開催にあわせて復元され、
それに連なる東御門も1996年(平成8年)に建て直されたのでござる。駿府城址の復元構想は、その後も
継続して進行されており、これが評価されて2006年(平成18年)4月6日、財団法人日本城郭協会によって
日本100名城にも選ばれ申した。さらに2007年(平成19年)は家康公入府400年の節目に当たる為、様々な
イベントが行なわれるなど、静岡市の発展と共に歩んできた駿府城の歴史が再認識されてきている。特に
「城」としての認識を高めるべく、2012年(平成24年) 4月1日からは駿府公園の名を駿府城公園に改称。
そのため、所在地の住所表示も変更されている。2014年(平成26年)には二ノ丸坤櫓も復元、 4月2日から
一般公開。天守台周辺の発掘調査は上記の通りであるが、三ノ丸の城代屋敷付近でも発掘により旧来の
遺構を発見、静岡市ではここに歴史資料館を建てる予定であったが、この旧遺構を活用すべく建築計画を
練り直す方向とし、史跡保護を最優先とするなど熱の入れようは半端ない。思うに「大御所様の隠居城」は
まだまだ埋もれた遺物が大量にあると考えられ、じっくり精査すればとてつもない城址復元整備が可能では
ないかと想像できる。静岡市では究極の目標として慶長期天守の再建を考えているのだが、あながちそれも
無理な話ではないだろう。また、天正期天守の姿も明らかになれば、いっその事2つの天守を並べて再建
してしまえば良いのでは?…と云うのは流石に贅沢すぎる話であろうか(爆) 現存遺構たる天守台石垣は
そのまま保存しなくてはならないだろうから、場所を変えて公園内に2つの天守が並び建てば―――本物の
石垣に加えて再建天守が2つの3点セット、駿府城を歴史観光資産として活用する最高の方策なのでは…。
広大な駿府城公園内は余地がいくらでもあり、天守を並べるのは造作も無い事かと (^ ^;■■■■■■
冗談(妄言w)はさて置いて、これだけの“ポテンシャル”を秘めていながら、実は駿府城跡は史跡指定が
行われていない。国の史跡指定も可能であろうに、県史跡どころか市史跡にすらなっていない。もっとも、
指定されないのは明治の破却・埋没がそれだけ壊滅的だった証でもある。否、穿った見方をすれば敢えて
史跡指定をせず、将来の城址復元における自由度を確保している…??? 史跡指定をする(してしまう)と
現状変更に届出と許可が必要で困難になる為だ。だとすれば2つの天守の再建もあながち(以下略)■■
なお、本丸跡には家康公の銅像があるが、その脇に立つミカンの木は家康公御手植えのものと伝わる。
これは種類的に現在のものと異なる貴重な古品種である為、静岡県の天然記念物とされてござる。■■■



現存する遺構

堀・石垣・郭群等
本丸ミカンの木は県指定天然記念物








駿河国 丸子城

丸子城本丸跡

 所在地:静岡県静岡市駿河区丸子字大鈩・泉ヶ谷
 (旧 静岡県静岡市丸子字大鈩・泉ヶ谷)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

★★★★
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街道掌握、駿府を守る今川家の出城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
まりこじょう、と読む。東海道の宿場町として栄えた丸子宿の奥にそびえる標高139.8mの三角山が城跡。
丸子は駿府の町の西を塞ぐ山塊に位置し、遠州方面から宇津谷(うつのや)峠を越えて駿府へ侵攻する
敵勢を待ち伏せするに適した地勢だった。丸子城の南東側山麓に、当時の幹線道路たる東海道が走る。
伝承によれば、この城が築かれたのは応永年間(1394年〜1428年)の事で、駿河守護・今川家の被官で
あった斎藤加賀守安元の手によるものとされている。丸子城の北側山麓には斎藤氏の居館があったと
見られている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1476年(文明8年)、時の今川家当主・上総介義忠は、近隣の敵対勢力であった勝間田(かつまた)氏や
横地氏らとの抗争中に落命(詳しくは横地城の頁を参照)。一族の長を失った今川氏は家督騒動の危機に
立たされた。義忠の嫡男である龍王丸(たつおうまる)はまだ6歳の幼子で、当然ながら政務を執れるような
年齢ではない。このため義忠の従兄弟である小鹿範満(おじかのりみつ)を当主に推す声が挙ったのだ。
しかし、嫡男を差し置いて家督を継ぐ事に反対する者もまた多かった。■■■■■■■■■■■■■■
この状況下で、御家分裂の苦境を救ったのは伊勢新九郎盛時(いせしんくろうもりとき)。龍王丸の生母
北川殿の弟だ。新九郎は、龍王丸が成長し元服するまで範満が当主を代行するという折衷案を出して
家中を丸く収めたのでござる。これに基づき、新九郎と北川殿、それに龍王丸は丸子を仮の居所と定め
丸子城下にあった居館へ移住した。龍王丸はこの地で成長したのである。■■■■■■■■■■■■
ところが、駿府館に居座った範満は龍王丸が長じた後も家督を譲らず、約束を反故にしようと企んだ。
やむを得ず、龍王丸は新九郎の助力を得て1487年(長享元年)11月9日、軍勢で駿府館を強襲し範満を
討伐した。これにより晴れて龍王丸は今川家当主の座に就き、元服して今川氏親と名乗るようになる。
氏親は今川家の全盛期を築いた人物だ。歴戦の功労者である新九郎には興国寺城(静岡県沼津市)を
与え、自身は駿府へ移った(但し、氏親の駿府館帰参の時期には諸説ある)。■■■■■■■■■■■
何を隠そう、今川家の危機を救った名将・新九郎こそ後の北条早雲その人である。■■■■■■■■■
さて駿府館の主となった氏親は、それまで身を寄せていた丸子の要衝ぶりを熟知し、1493年(明応2年)
斎藤氏から城を接収、駿府館西方の防衛拠点として直轄の支城としたのだった。駿府館は西の丸子城、
東の愛宕山城(静岡県静岡市葵区)、詰めの城である賤機山城(同じく葵区)による包囲防御網を形成
したのである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
今川期の丸子城は、現在の北曲輪(三ノ曲輪)とされる部分を主郭としていた。■■■■■■■■■■
氏親は城将として福島(くしま)安房守を任じている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

武田家が接収し、強烈な要塞に進化■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
氏親の後、今川家は上総介氏輝(うじてる)そして義元へと当主が代わっていくが、桶狭間の合戦により
戦死した義元の跡を継いだ氏真は文弱の愚将で、領土の防衛を為す実力に乏しかった。この情勢を見た
甲斐(山梨県)の大名・武田信玄は、駿河侵攻に着手。本来、武田家と今川家は同盟関係にあったのだが
戦略眼に長けた信玄はむしろその虚を衝く事で駿河国の電撃制圧を図ったのだ。この作戦は見事的中、
1568年12月に駿河へ雪崩れ込んだ武田軍は、僅かな期間で国内を征服。愚凡の将・氏真は抗する事も
できずに駿府から逃亡、あちらこちらを逃げ回った挙句に相模国(神奈川県西部)へと落ち延び申した。
このため、丸子城は有効に用いられる事なく武田方に占拠されたのでござる。■■■■■■■■■■■
さて、実戦こそ無かったが信玄は丸子城を駿府防衛上必要と認め、腹心中の腹心である山県三郎兵衛
昌景を城に入れた。然る後、今川の残党狩りや他国勢力の介入封殺など駿河平定を完成させた信玄は
1570年(元亀元年)頃から諸賀兵部大輔や関甚五兵衛らを丸子城代に据える。さらに信玄没後の1578年
(天正6年)頃には屋代左衛門尉勝永が城将に任じられた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
武田家が丸子城を有していた間、武田流築城術に基づいた大規模改修が継続され、現在に残る城址の
遺構が成立していく。特に1575年(天正3年)長篠・設楽ヶ原の合戦で武田軍が織田・徳川軍に大敗した
後にはその傾向が顕著であったと見られる。即ち、それまで攻勢側であった武田軍は戦力を減衰させて
しまった事で守勢側へと回らざるを得なくなった為、西方から圧力をかけてきた徳川軍に対し高天神城
(静岡県掛川市)〜田中城(静岡県藤枝市)〜丸子城の防御ラインで持久状態を維持しなくてはならなく
なったからだ。この当時、武田家の領国を巡る様相は激変を呈しており、それまで敵対していた越後国
(新潟県)の上杉氏とは御館(おたて)の乱(上杉謙信死後の家督を上杉景勝と上杉景虎が争った内訌)
後の処理で景勝側と和睦を結んだ一方、それが元で小田原後北条氏との関係は悪化していた。景虎は
後北条氏の出自である為、彼を見捨てる形になった武田勝頼は後北条氏を敵に回す結果を生み、関東
方面への警戒を厳重に行う必要が生じたのだ。武田家の本領である甲斐国にとって直接的脅威となる
後北条氏の攻勢に備えるためには、駿遠方面の防備は限られた戦力で耐え忍ぶしかなく、防衛拠点と
なる城郭の改修に力を注ぐのは必然の流れであったと言え申そう。結果、丸子城は火力戦を想定した
極めて技巧的な、それでいて“捨て石”ともなるような戦闘城砦へと特化していく。■■■■■■■■■
されども1581年(天正9年)3月、高天神城が徳川勢に落とされて武田軍の防衛ラインは崩壊。翌1582年
(天正10年)織田・徳川の連合軍が武田家殲滅作戦を発動させるや、瞬く間に領土は失われていった。
この時、丸子城は信濃国(長野県)から派遣されていた室賀兵部(むろがひょうぶ)らが守備していた
ようだが、特に抵抗した記録もなく徳川軍のものになる。敵わじと見た兵は城を捨てて霧消したのだ。
駿河を手中に収めた徳川家康は、丸子城に城代として松平備後守(竹谷松平清善(きよよし)か?)を
駐留させ駿府西方での防備の要とした。が、程なく天下は豊臣秀吉のものとなり、1590年に徳川家は
関東へ移封される命に従い駿河国を手放した。これにより丸子城は放棄され、廃城になったと見られる。

山中に残る素晴らしい遺構■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
以来400年以上の間、城跡は山林に戻り放置されていたため、植林などは行われたもののかなり良好な
遺構が残されている。城は南端の山頂部を千畳敷と別称される広めの本曲輪(武田期の主郭)として、
そこから北東方向へ段を下るように二ノ曲輪・三ノ曲輪(今川期の主郭)が連なる連郭式の縄張りだが
各曲輪の間はいくつもの虎口や堀切が連続し、突破するのはかなり困難だ。しかも、ほぼ一列に並ぶ
曲輪群と並行するように城の西面には二重の横堀が掘られ、側面からの攻撃を阻止している。また、
西面に比べて斜面が急な東面は、いくつもの竪堀が筋を成して敵勢の迂回移動を不可能にしている。
要するに、この城を落とすには出血覚悟で一つずつ順番に曲輪を攻略する必要があるという事だ。
とは言え、城への侵入路も多重の虎口によって遮られている。これらの道は北東から三ノ曲輪へ入る
東の木戸、本曲輪の南東面から入る南の木戸、同様に本曲輪南西から出入する西の木戸の3つが
あるようだが、どれも武田流築城術らしく丸馬出を彷彿とさせる形状であり、特に大鑢(おおたたら)
曲輪(捨曲輪とも)と称される西の木戸は、丸馬出の前に更に小型丸馬出が連続する“重ね馬出”の
構えとなっている。これぞまさしく、少人数で侵入者を撃退するに相応しい“守勢用途の城”としての
構造理論と言えよう。では仮に、これら登城路を使わずに(比較的緩傾斜である)西斜面を強行突破し
攻め上がろうとした場合はどうなるのか? これに備えて丸子城では二ノ曲輪と三ノ曲輪の中間地点
付近の外側に半円形の堡塁が張り出している。丸馬出もそうなのだが、この堡塁は鉄砲銃座として
用いられる構築物であり、死角のない半円形の特性を活かして城の西面全域を監視・攻撃できるよう
工夫されているのでござる。長篠の合戦から想像される概念として「織田・徳川=鉄砲を有効活用」
「武田は鉄砲を用いずに敗れた」という認識が一般化して(しまって)いるが、これはとんでもない話で
武田軍も鉄砲を十分使用しているのである。その証となるのが、こうした丸馬出や半円堡塁であり、
丸子城は少ない防備兵力で最大限の防衛効果を上げるよう火器使用戦術と縄張りが一体化された
理論で考案された名城と言えるのである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

上から丸子 〜味方に容赦ない“サディスティックなヤツ”〜■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
その一方で、この半円堡塁は横堀の“外側”に設置されている事も見逃せない。堡塁から城内へ退却する
術がないのだ。という事は、戦闘が始まればこの堡塁の中で守備する兵士は敵を撃退するか、自分達が
全滅するしか道はない。不屈の精神で敵と対峙する…と言えば聞こえは良いが、この堡塁ひいては
丸子城の存在そのものは、駿府の町を防衛する“捨て石”として位置付けられているのである。加えて
記すならば、この半円堡塁の上にある曲輪からは、堡塁は監視できてもその向こうから迫り来る敵は
見えない。堡塁の中にいる兵は上位の曲輪から火力支援を受けられず、それどころか常に“味方から”
見張られているので、逃げようとすれば背中から撃たれる事になる。何とも恐ろしい戦術論に基づいた
構造物であろう。太平洋戦争末期に特攻作戦を行った日本軍よろしく、織田・徳川に圧迫されつつあった
武田勝頼の悲壮感が垣間見える城郭と言える。丸子城は、当時の戦況を如実に体現している城なので
ござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
国指定名勝となっている庭園を擁する臨済宗天柱山吐月峰柴屋寺の手前、観光教育施設である体験
工房「駿府匠宿」の脇から登山道に入ると、徒歩20分程で城跡。道は整備されていて危険はないのだが
起伏が激しいので要注意。この他、反対側の誓願寺側から登る方法や、城の側面にあたる丸子稲荷
神社の裏手から登る道もあるようだ。上り坂はキツいが、綺麗に残る半円堡塁や重ね馬出は必見。■■
武田系城郭の「恐ろしさ」を是非ともその目で確認して頂きたい、オススメの名城だ。■■■■■■■■
別名で三角城・鞠子城・宇津谷城・大鈩砦・泉ヶ谷砦・赤目ヶ谷砦とも。■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群等








駿河国 持舟城

持舟城 主郭跡

 所在地:静岡県静岡市駿河区用宗城山町
 (旧 静岡県静岡市用宗城山町)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

★★☆■■
★☆■■■



こちらも駿府の防波堤となる今川家の出城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
「持船城」とも記す。現代では地名から「用宗城」との表記も使うが、これは当時の語句ではない。「用宗」は持舟が
訛った単語らしく、その用法からすれば同義という事になろう。持舟、つまり船を有すという言葉は即ち湊を意味し
城山の直下には太平洋が広がっている事から、港湾防御の為に築かれた山城がこの持舟城でござる。場所はJR
用宗駅のすぐ北側、東海道新幹線が210m程の用宗トンネルで通り抜ける山の上。■■■■■■■■■■■■■
正確な築城年代は不明なれども、天文年間(1532年〜1555年)と見られる。今川の家臣・一宮元実が築いたとされ
その後、今川家重臣・関口刑部少輔親永(ちかなが)が城主になっている。この親永、徳川家康の正室・築山殿こと
瀬名姫の父である。後に今川家から離反する家康ではあるが、その当時は今川の属将であり、彼に娘を嫁がせた
関口親永は“今川一門衆”の重鎮であった。それ故、瀬名姫を介して今川家と松平家(徳川家)を結び付けるに足る
血縁を有していた事になろう。そのような今川家中の実力者がこの城を守っていた訳だ。■■■■■■■■■■
話を持舟城に戻すと、その他に城主として一宮出羽守宗是・左衛門尉元実父子の名が挙げられる。宗是は1560年
桶狭間合戦で戦死。その桶狭間以降、今川家は衰退の一途を辿り1568年に武田信玄の侵攻を受ける事になる。
この城も武田勢に奪われ、信玄は城代として三浦兵部義鏡や向井伊賀守正重を配置。特に正重は伊勢水軍から
この地に招聘された船手の将で、武田家が水軍を組織するのに必要だった人物。それがこの城に配されたと言う
事は、持舟城を武田水軍の拠点として整備する計画に基づいたものだったのだろう。こうした経歴からも、当城が
港湾と一体になった城である様子が確認でき申す。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

武田家滅亡で廃城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
信玄は駿河制圧の後、進路を西に取り徳川家との戦いに邁進する。しかし信玄病没後、勝頼の代になると攻守が
入れ替わり徳川家康が駿河への進出に転じていく。1579年(天正7年)9月、家康家臣の牧野康成・石川家成らが
この城を攻め、城代・三浦義鏡をはじめ向井正重の一族(長男の政勝、甥の兵庫、叔父の伊兵政綱)はみな討死。
ただ、この時の攻略で駿河の制圧は果たせなかったらしく、翌1580年(天正8年)に勝頼が持舟城を奪還している。
この年の3月27日、勝頼は持舟城番に朝比奈駿河守信置を入れ城の修復を命じた。だが、武田家の斜陽は止め
られず1582年2月23日、織田・徳川連合軍が駿河へ侵攻。この時点で持舟城の外郭部は徳川軍の手に落ちた。
城将・信置は敵わじと見て3月17日に開城、久能山へ蟄居する。この後、持舟城は役割を終え廃城になった。なお
信置は織田信長の命により切腹させられるが、彼の3男・宗利は徳川家に召し抱えられ家名を残した。また、向井
一族の生き残りである兵庫助正綱(正重の次子)も家康に仕え、後に江戸幕府の船手奉行になり申した。■■■
城山の山頂は標高76.7m。この一帯を広く啓開し主郭を造成、その南西側にも細長い平場を作って2郭としている。
2つの曲輪の間は巨大な堀切で分断。更に山の全域で帯曲輪・腰曲輪状の小曲輪が多数取り巻いている。この内
現状では主郭が公園化され(写真)緑の広場になっており、そこへ至る登山道も整備。山の中腹には2〜3台だが
停められる駐車場も設けられている。その反面、それ以外の部分は手付かずの山林か果樹園になっているので、
あまり整備されておらず、また立ち入りも憚られよう。無暗に私有地へ入らないよう注意されたい。■■■■■■■
ともあれ、主郭からの眺望は抜群で真下のトンネルを抜けて行く新幹線やその脇に走る東海道線の線路、更には
町を縦貫する東名高速の雄大な姿の向こうに日本一の山・富士山の秀麗な風景が望める。もちろん、太陽に輝く
大海原も良く見え、城跡と言うだけでなく景勝地としてもオススメの名城でござろう。山へと至る道は細く狭いので
車の運転には気を付けて。鉄道なら文句なしに用宗駅から徒歩だが、この駅は南側(城山と反対側)にしか出口が
なく、しかも線路の北側へ出るには大きく回り込まないといけない(踏切が無い)のが難点。■■■■■■■■■■
史跡指定は特にされていないが、地元有志の方々が細かく手入れをして下さっている模様。感謝でございます!



現存する遺構

井戸跡・堀・土塁・郭群等




飯羽間城  浜松城・井伊城・大平城