今川家以来の“府中館”■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
全国で14番目の政令指定都市となった現在の静岡県静岡市、かつての駿府すなわち駿河府中は、駿河守護
今川家の本拠地として繁栄を極めた町でござる。室町時代、この町には今川氏の拠点にして守護館であった
駿府館が置かれていた。今川家は足利将軍家の流れを汲む名門で、将軍位継承権も持つと伝えられた家格。
「御所(将軍家)が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」と称され、この駿府を基盤として順調に
勢力を伸ばし、その実力を恐れて1400年(応永7年)に今川了俊(りょうしゅん)が3代将軍・足利義満の追討を
受けた事もあった。以後も今川家の伸張が続き、戦国時代には今川上総介氏親(うじちか)が分国法を制定、
駿河のみならず遠江・三河の支配も確立し、駿府の町は多いに賑わったのでござった。最盛時には京都の町
をも凌ぐほど繁栄していたと言う。しかし1560年(永禄3年)5月、大軍を率いて尾張遠征途上の今川治部大輔
義元が桶狭間合戦で織田信長に討たれると今川家の勢力は衰退。1568年(永禄11年)に甲斐の武田信玄が
駿河に来攻し義元の後嗣・今川上総介氏真を追放、駿府は武田氏の支配下に置かれ申した。更に武田氏も
滅亡した後は徳川家康が駿河を入手する。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
武田氏・徳川氏の相次ぐ駿府侵攻により今川時代の駿府館(今川氏館)は灰燼に帰すも、1585年(天正13年)
家康に命じられた深溝(ふこうぞ)松平主殿助家忠(家康家臣)によって駿府館跡が全面改修され、駿府城が
築かれたのである。翌1586年(天正14年)家康は浜松城(静岡県浜松市中区)から駿府城に居を移す。この、
最初期の駿府城は詳しい事が分かっていないが、現在残る駿府城の敷地より一回り小さい(三ノ丸部がない)
規模だったようである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
豊臣秀吉の天下統一に伴い、1590年(天正18年)家康が江戸移封になると駿府へ秀吉配下の中村式部少輔
一氏が入城、城の大改修を行っている。駿府城跡では数次に渡る発掘調査が行われて、金箔を押した瓦も
出土しているが(詳細下記)それはこの中村氏時代に用いられていたものと見られている。秀吉は子飼いの
大名に金箔瓦の使用を奨励し、豊臣政権の力を広く喧伝しようとしていたからだ。ところが程なく秀吉は没し
1600年(慶長5年)の関ヶ原合戦後、駿河国は再び徳川の領地となり、中村家は封を移され伯耆国を領有。■
米子城(鳥取県米子市)で17万5000石の国持大名となる。一方、駿府城には家康異母弟(異説あり)の内藤
豊前守信成が伊豆国韮山(静岡県伊豆の国市)から石高4万石で1601年(慶長6年)入城、駿府藩を立藩。■
大御所家康の隠居城、そして…■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
だが信成は1606年(慶長11年)近江国長浜(滋賀県長浜市)へ移封され、然る後、駿府城は幕府直轄となり
家康の隠居城として再整備される。一説には城の位置を西へ移して新たな築城を行う計画もあったらしいが
最終的には従前の城を拡張し、それまで二重だった堀を三重にする縄張りとなった。1607年(慶長12年)2月
天下普請として駿府城の工事が開始され、程なく本丸・天守が完成したものの、同年の末に失火で焼失して
しまった。直後から再度工事が行なわれ完成したのは1610年(慶長15年)である。家康が在城した駿府城は
“大御所政治”の本拠となり、江戸に居住した2代将軍・徳川秀忠との二元政治体制の片輪を担った。■■■
さて、こうして整えられた駿府城は1616年(元和2年)4月17日の家康死去後も徳川常陸介頼宣(家康10男)や
「駿河大納言」こと徳川忠長(秀忠3男)らが城主を務め、徳川将軍家縁戚の城とされていた。頼宣は1609年
(慶長14年)12月12日に駿河入封、1619年(元和5年)7月19日に紀伊国和歌山(和歌山県和歌山市)へと移封。
但し、当初は家康が存命中の為、実質的には家康の城であった。頼宣の所領は50万石。他方、忠長が駿府に
封じられたのは1625年(寛永2年)1月11日の事だ。3代将軍・家光の弟として大封を与えられ、石高は55万石。
しかし兄との確執で心身に異常をきたした忠長が1632年(寛永9年)10月20日に驕暴の廉で改易された後は
幕府直轄の番城として城代が交代で管理するようになる。明治維新までに城代を務めた人数は46人にもなり
東海道を守る幕府直轄の城として重要な役割を担ったのでござる。その重要性から城外の警護役となる加番
(かばん)も置かれ、当初は一加番・二加番の2箇所制であったものが、1651年(慶安4年)に起きた慶安の変
以後には三加番も増設され申した。これらの加番屋敷跡は現在、神社となっている。■■■■■■■■■■
幕府の駿府城管理体制が確立する一方で1635年(寛永12年)には火災が発生、天守や御殿をはじめとする
城内諸建築は殆どが焼失してしまい、1638年(寛永15年)に復興はされたものの、遂に天守は再建されない
ままであった。また、本丸御殿も奥向部分を廃され、規模を縮小されている。更に二ノ丸御殿などの不必要
建築物は再建すらされていない。1707年(宝永4年)10月4日の宝永地震でも石垣や櫓に数々の被害が出て
復興に人員予算を費やされたが、その後も建物は荒廃を続け、1854年(安政元年)発生した安政の大地震で
壊滅的被害を受けてしまう。建物は軒並み倒壊、石垣も部分的に崩落しており、ほとんど復旧されないまま
幕末を迎えてしまったのでござった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
幕末、維新、近現代■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
その幕末、明治新政府軍が征東に赴いて駿府へ達すると、駿府城代の屋敷に逗留。これに対し、江戸から
使者として幕臣・山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)が派遣され、駿府町内にて征討大総督府参謀・西郷隆盛と
1868年(慶応4年)3月9日、談判に及んだという記録が残っている。家康が江戸幕府を完成に導くべく整えた
駿府は江戸幕府終焉の引導を渡す舞台ともなったのだ。この会談によって江戸無血開城への道筋が立つ。
斯くして江戸幕府は倒れ、15代将軍・徳川慶喜は江戸城(東京都千代田区)を出て水戸で謹慎。これにより
徳川宗家は徳川家達(いえさと)が継承するも、将軍位を失い一大名に列せられたため、明治新政府により
5月24日、駿府城に移封された。石高は70万石とされるも、駿府つまり駿河府中の地名は「駿河は不忠」に
繋がるとして町の名を「静岡」に改名する。駿府の町の真ん中にある丘陵「賤機山(しずはたやま)」に由来し
静かなる岡、静岡として新政府に憚ったのであった。1869年(明治2年)6月20日の事である。が、程なくして
1871年(明治4年)7月14日に廃藩置県を迎え、知藩事・家達は駿府城を退去。結果、城内の諸建築は払い
下げられ撤去されてしまったのある。城の南側は県庁敷地、それ以外は茶畑へと変貌。1891年(明治24年)
城の跡地が静岡市へ払い下げられ中央公園とされるも、今度は1896年(明治29年)駿府城跡地に陸軍歩兵
34連隊が設置され、広い更地を必要とした事から本丸の堀も埋め立てられてしまう。また、巨大さを誇った
天守台も崩された。天守部分さえも平地に取り込むためである。加えて二ノ丸部分には官庁や学校などの
公共施設が建てられ、城の威容は見る影も無く失われていき申した。■■■■■■■■■■■■■■■
駿府城の縄張り■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかし第二次世界大戦後、駿府城の史跡価値が再評価され順次発掘調査や復元作業が進められていく。
発掘によれば瓦や釘、門の部材といった建築用品の他、農耕具・装身具・陶磁器などが出土しており、城の
成立過程を探る貴重な史料になっている。その結果から往時の駿府城を類推してみれば、家康が整備した
江戸時代初期の姿では、本丸北西隅に5重(もしくは6重)7階の天守が天を衝くように建ち、富士山と並んで
見えたと言われる。天守台は将軍居所である江戸城をも超える面積を有する日本最大のもので、東西61m×
南北68mを数えた。天守を囲んで多聞櫓が並び、四隅に櫓、その内部に天守本体が建っていたと考えられて
いる。要するに、天守台自体が天守曲輪と呼べるような敷地となっていた訳だが、肝心の天守がどのような
構造・意匠であったかは史料に乏しく判然としない。但し、城郭建築研究者が様々な復元案を提示しており、
それを比べるのも面白い。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
本丸には家康の居所である豪華な御殿があり、二ノ丸にも御殿が建てられていた。その他、二ノ丸に米蔵や
台所といった城郭運用上の必須建物が置かれ三ノ丸は家臣の屋敷地だった。これら本丸・二ノ丸・三ノ丸と
いった曲輪は綺麗に「回」の字を描く配列、いわゆる輪郭式の縄張りとなっている。本丸・二ノ丸・三ノ丸は
それぞれ水濠で囲まれ、二ノ丸東部分には本丸濠と二ノ丸濠を繋ぐ水路が渡されていた。その水路上には
御水門櫓が建てられるという特異な構造になっている。同様に、三ノ丸東部に二ノ丸濠と三ノ丸濠を繋いだ
水路が掘られている。実は、城の敷地は古安倍川(現在の流路になる以前の安倍川)跡地の上に存在し、
駿府城の濠は全て水堀であるが、その水は古安倍川伏流水による湧水で賄われているため、濠が枯れる
事は無い。現在も、濠の底からは水が湧き出ていて絶えていない。■■■■■■■■■■■■■■■■■
次々と現れる発掘の成果■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところで静岡市が政令指定都市になってから駿府城での発掘は加速度的に進み、家康以前の様態もかなり
明らかになってきている。家康が隠居城として構築した慶長期駿府城の前、家康が築城しながら豊臣政権に
よって接収・改良された天正期駿府城の天守について、新たな知見を確認。それに拠れば、天正期天守台は
慶長期天守台からやや南東側にあり、部分的に慶長期天守台と重なる形で埋没していた。規模は東西25m
南北27mほど、慶長期には及ばないものの当時としては破格の巨大さを誇る。静岡市の広報に従うならば、
安土城(滋賀県近江八幡市)・豊臣期大坂城(大阪府大阪市中央区)・肥前名護屋城(佐賀県唐津市)に次ぐ
大きさだったとの事。また、発掘によって堀跡(慶長期築城時に埋められた箇所)から大量の金箔瓦が出土、
家康が隠居城として大改造する際、旧天守が破却されそこに飾られていた金箔瓦をまとめて捨てたものと
判断され申した。即ち、豊臣政権時代の駿府城天守には金箔瓦が使われていた事が確実だった訳だが、
それは関東へ移封された徳川家を封じ込める大城として、また大坂(豊臣政権の本拠)・京都方面へと赴く
東国・東北の大名が東海道を進む際に関東直近の豊臣政権城郭として、その威光を見せつけるべく豪華
絢爛な城を整えたと考えられる。天正期天守が巨大であるのも、安土城(信長の居城)・大坂城(秀吉居城)
名護屋城(朝鮮出兵時の本営)に匹敵する大きさで佐竹義宣(常陸の大名)や伊達政宗(陸奥の大名)らの
度肝を抜いて、関東を抜けた途端に豊臣政権の強大さが浸透している事を知らしめようとしたのであろう。
静岡市ではこの天守が中村一氏によって作られたと想定しているようだが、しかし経歴からすると天正期
天守が建てられたのは松平家忠築城時であると考えるべきであり、徳川家が作った天守を改装した、という
感じだったのではなかろうか?また、この豊臣政権の天守が大御所家康によって破却され、新たにもっと
大きな天守で「埋めた」という経緯は、後に豊臣大坂城が辿る運命と同じであり、徳川幕府が豊臣政権を
葬る手法の“先例”として政治学的見地でも注目できよう。ちなみに、発掘時点において出土した金箔瓦の
総量は山形城(山形県山形市)に次ぎ全国2位であったそうで、しかも山形城では城域全部から出た量で
あるのに対し、駿府城では城内の1箇所からこれだけの量が出たため、静岡市では更なる発見を期待して
いるようだ。個人的には「1箇所にまとめて瓦を破棄した」のならば他からは出ないような気もするが…w■
ともあれ発掘は更に進められ、天正期城郭の地表面よりもっと深い地層からは今川時代の駿府館遺構も
確認されつつある。従来、今川氏館は駿府城と別の場所だったのではないかと考える説もあって所在地は
断定できなかったのだが、これによって確定される可能性が高まっている。今後の成果に期待したい。■■
話を江戸期の駿府城へ戻すと、各曲輪の間は要所を橋で渡し、その出入口は厳重な虎口で守られていた。
現在もこれらの虎口遺構はよく残されているが、静岡県庁前にある橋や城代橋(静岡営林管理署前の橋)
二之丸橋(駿府城公園南口の橋)などは明治以後に新しく架けられたものなので、城が使用されていた
当時の位置にあったものではない。当然、その位置の石垣は切り取られた形になっていて一目瞭然だが
この他にも、駿府城の至る所に残る石垣は地震で崩落した積み直しの毎に不自然な成形が為されており
部分部分で様相が異なっている事にも注意されたい。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
百名城に相応しい一大史跡■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城址本丸・二ノ丸の現状は駿府城公園として整備され、堀や石垣などが残存している。この公園は旧陸軍
用地が1949年(昭和24年)静岡市に払い下げられ、それを公園化し1951年(昭和26年)駿府公園と命名した
ものにて候。史跡整備と両立させた公園では、一度は埋められた本丸濠も発掘に基づき一部を掘り直し、
復活。二ノ丸の南東隅にあった巽櫓(写真)は1989年(平成元年)の駿府博覧会開催にあわせて復元され、
それに連なる東御門も1996年(平成8年)に建て直されたのでござる。駿府城址の復元構想は、その後も
継続して進行されており、これが評価されて2006年(平成18年)4月6日、財団法人日本城郭協会によって
日本100名城にも選ばれ申した。さらに2007年(平成19年)は家康公入府400年の節目に当たる為、様々な
イベントが行なわれるなど、静岡市の発展と共に歩んできた駿府城の歴史が再認識されてきている。特に
「城」としての認識を高めるべく、2012年(平成24年) 4月1日からは駿府公園の名を駿府城公園に改称。■
そのため、所在地の住所表示も変更されている。2014年(平成26年)には二ノ丸坤櫓も復元、 4月2日から
一般公開。天守台周辺の発掘調査は上記の通りであるが、三ノ丸の城代屋敷付近でも発掘により旧来の
遺構を発見、静岡市ではここに歴史資料館を建てる予定であったが、この旧遺構を活用すべく建築計画を
練り直す方向とし、史跡保護を最優先とするなど熱の入れようは半端ない。思うに「大御所様の隠居城」は
まだまだ埋もれた遺物が大量にあると考えられ、じっくり精査すればとてつもない城址復元整備が可能では
ないかと想像できる。静岡市では究極の目標として慶長期天守の再建を考えているのだが、あながちそれも
無理な話ではないだろう。また、天正期天守の姿も明らかになれば、いっその事2つの天守を並べて再建
してしまえば良いのでは?…と云うのは流石に贅沢すぎる話であろうか(爆) 現存遺構たる天守台石垣は
そのまま保存しなくてはならないだろうから、場所を変えて公園内に2つの天守が並び建てば―――本物の
石垣に加えて再建天守が2つの3点セット、駿府城を歴史観光資産として活用する最高の方策なのでは…。
広大な駿府城公園内は余地がいくらでもあり、天守を並べるのは造作も無い事かと (^ ^;■■■■■■
冗談(妄言w)はさて置いて、これだけの“ポテンシャル”を秘めていながら、実は駿府城跡は史跡指定が
行われていない。国の史跡指定も可能であろうに、県史跡どころか市史跡にすらなっていない。もっとも、
指定されないのは明治の破却・埋没がそれだけ壊滅的だった証でもある。否、穿った見方をすれば敢えて
史跡指定をせず、将来の城址復元における自由度を確保している…??? 史跡指定をする(してしまう)と
現状変更に届出と許可が必要で困難になる為だ。だとすれば2つの天守の再建もあながち(以下略)■■
なお、本丸跡には家康公の銅像があるが、その脇に立つミカンの木は家康公御手植えのものと伝わる。
これは種類的に現在のものと異なる貴重な古品種である為、静岡県の天然記念物とされてござる。■■■
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