美濃国 美濃金山城

美濃金山城 本丸大手

 所在地:岐阜県可児市兼山
 (旧 岐阜県可児郡兼山町秋葉台・常盤町・本町・魚屋町)

駐車場:
御手洗:

 遺構保存度:
 公園整備度:

 あり
 あり

★★★☆
★★☆@@



「斎藤大納言」による築城@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
現在の地名表記から「兼山城」とも。正式には「金山城」と言うのだが、同名の城は全国に数多あるので旧国名を冠して
「美濃金山城」と表記するのが一般的。なお、「金山」も「兼山」も「かねやま」と読む。この点は他の城が「かなやま」と
読むのが一般的なのとは大いに異なる。また、初名は「烏峰(うほう)城」あるいは「烏ヶ峰(からすがみね)城」と言い、
この城山が烏ヶ峰と呼ばれていた事が分かる。ちなみに、現在では金山城があった山と云う事で、古城山という地名
(小字名)が付けられている。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
その烏峰城が築かれたのは1537年(天文6年)の事だとか。美濃の蝮こと斎藤道三、その猶子である斎藤大納言正義
(まさよし、号を妙春(みょうしゅん))が築城主。正義は元々関白・近衛稙家(たねいえ)の庶子であったが、傅役として
付けられていた瀬田左京なる者の姉が道三の妾となっていた縁で引き立てられ、道三の猶子に迎え入れられたとか。
斯くして道三と近衛家の権勢を背景とし、東濃に対する抑えとなる烏峰城が周辺14諸将の協力を得て築城された訳で
ある。同時に、城下の村(中井戸ノ庄)の名が金山村に改められている。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
この城を本拠とした正義は東美濃一帯に覇を唱え、周辺国人らを次々と従えた。遂にその勢力は養父・道三と並ぶ程
強まったと言われたが1548年(天文17年)2月、配下に従えていた久々利(くくり)城(可児市内)主・久々利土岐三河守
頼興(よりおき)から酒宴に招かれ、久々利城で酔い潰れた所を暗殺されてしまう。この謀殺にて烏峰城は久々利氏の
手に落ち、土岐重郎右衛門が留守代(城番)として配されている。一方、美濃国主にして正義の養父である筈の道三は
正義が暗殺された事に何ら報復せず、久々利氏が烏峰城を接収するのを黙認していた事から、この暗殺劇は正義の
台頭を快く思わなくなった道三が仕組んだものと見る説もござる。ただし、1565年(永禄8年)4月13日付の顔戸(ごうど)
八幡神社(岐阜県可児郡御嵩町)棟札には「長井隼人佐」(道利(みちとし)の事か)の名で可児郡が治められていたと
記している為、長井道利(斎藤道三の重臣)が城主になっていた可能性も指摘されている。@@@@@@@@@@@@@@

加木屋正則、祖父の敵討ちを果たす@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
ところがこの後、齋藤家は道三が敗死して弱体化し、尾張から織田上総介信長が伸長して美濃を併呑する。烏峰城は
1565年(永禄8年)信長家臣の森三左衛門尉可成(もりよしなり)に与えられ、可児周辺の国人らは彼に従う事となった。
久々利頼興も然りである。可成は城の名を金山城と改め、城下町も開いて森家の本拠に相応しい大城郭へと改修して
いく。1570年(元亀元年)9月20日に可成が戦死すると、城主の地位は嫡男の勝蔵長可(ながよし)に引き継がれた。
その後、長可は武蔵守を称し 鬼武蔵 と恐れられる剛勇の将に成長していくが、同時に金山城下に川湊を整備する等
金山城と城下町の整備振興にも心を砕いた。1582年(天正10年)3月、甲斐武田家攻略の戦功によって長可は信濃国
川中島(長野県長野市)へ新領を与えられて移封、そのため金山城の主は弟の蘭丸成利(なりとし)に受け継がれた。
信長の近習として有名な、あの森蘭丸である。当然、この直後に本能寺の変が発生し成利は信長と共に落命してしまい
入手したばかりの信濃も政情不安となった為、結局長可が川中島を引き払い金山城主に復帰するのだが。ちなみに、
蘭丸が産まれたのは金山城であったと言う。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
そうした情勢下、つまり本能寺の変で織田家中が動揺する中、東美濃の国人らは好機到来とばかりに独立を図ろうと
するものの、長可はそれを返り討ちにし、従来通りの領地を堅持している。また、1583年(天正11年)の正月には久々利
頼興を酒宴と称して金山城に誘い出し、闇討ちにしている。頼興も森家への叛意を見せていた事から行われた粛清劇
なのだが、酔った頼興を城内の杉ヶ洞口で待ち伏せし襲撃したのは森家に召し抱えられていた加木屋宇右衛門正則
(かぎやまさのり)、亡き斎藤正義の孫であった。頼興は正義を討ち取った手法で、正義の孫に討ち取られた訳だ。@@
翌1584年(天正12年)4月9日、長久手合戦で長可が討死すると森家の家督は末弟の右近丞忠政(ただまさ)が継承。
忠政はこの城を居城として成長し、豊臣秀吉の全国統一事業に参加していく。その秀吉が没した後、豊臣政権の実務を
担ったのが内大臣・徳川家康であったが、忠政は予てから亡兄・長可の遺領継承を希望していた事から家康は1600年
(慶長5年)2月、森家を信濃国川中島13万7500石に転封させている。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

徳川幕府開闢直前に廃城@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
これにより金山一帯は犬山城(愛知県犬山市)主・石川備前守貞清(いしかわ(いしことも)さだきよ)が領する事となる。
一説には、この折に金山城の諸建築が犬山城の建材に転用されたとされ、特に天守は金山城のものが犬山城天守に
なったと言われるが、1965年(昭和40年)に行われた犬山城天守の解体修理に於いてその痕跡が出ず、現在ではこの
天守移築説は否定されている。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
石川貞清は関ヶ原合戦において西軍に付いた為、改易されている。それに代わり犬山城と金山城を得たのは桜井松平
左馬允忠頼(ただより)であった。犬山城の城番として1万石、金山城の城番として1万5000石の計2万5000石を有したと
され、これを以って金山藩が立藩したと考える説もあるのだが、直後の1601年(慶長6年)2月に桜井松平家は遠江国
浜松(静岡県浜松市)に移封され、金山藩としての実績は特段記録されていない。@@@@@@@@@@@@@@@
忠頼が去って後、金山城は新たな犬山城主・小笠原伊予守吉次(おがさわらよしつぐ)の持ち城となるが、吉次は金山
城を廃し、城下町ごと犬山へ移転させた。これを「金山越し」と言い、城と町が丸ごと引っ越した訳であるが、先に記した
犬山城への移築説はこの時の事も含めて混同されている可能性もある。ともあれ、これで金山城は破却され、以後の
金山村は数年の天領支配の後、1615年(元和元年)から尾張藩領に組み込まれた。以来、古城山は尾張藩の御留山
(おとめやま、立入禁止の山)とされている。また、1656年(明暦2年)に「金山村」の村名は「兼山村」に変更され、その
村域が近代の市町村制施行によって可児郡兼山町となった。兼山町は1889年(明治22年)7月1日の町村制成立時から
町制を敷いていた(村制から町制に変わったものではない)由緒ある町だったが、平成の市町村大合併の波には抗えず
2005年(平成17年)5月1日に可児市へ編入される形で合併している。ただ、元々の可児市域と兼山町は地続きでない為
可児市の飛び地となっており、旧兼山町内の地名は全て「可児市兼山」と言う地名で統一される事になった。編入当時、
兼山町は全国で2番目に小さい町であった事で可能だった施策であろうが、ちょっと乱暴な話でもある(苦笑)@@@@@
全くの余談だが、この時に最も面積の小さい町は高知県香美郡赤岡町で、兼山町との差は僅かに約0.97㎡だった。また
兼山町は当時の人口においても全国で下から2番目の町(1位は山梨県南巨摩郡早川町)であった。@@@@@@@@

山頂から山麓まで全山が城塞@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
古城山の標高は277.2mを指し、その山頂が主郭。主郭から大きく見て西~南側に下段の曲輪が付属していて、これが
南Ⅰ郭(西腰曲輪・南腰曲輪)を構成している。南腰曲輪の先に延びる尾根には南Ⅱ郭が、西腰曲輪の先には西Ⅰ郭と
西Ⅱ郭が梯郭式に築かれ、西尾根の延長線上には出丸(西Ⅲ郭)がある。現状では出丸が駐車場となり、ここまでは
車で登って来る事が出来る。西Ⅰ郭の北側には小さな突出部があり、ここが北Ⅰ郭・北Ⅱ郭とされている。@@@@@@
反対に主郭から東へ目を向けると、ここにも腰曲輪があり東Ⅰ~Ⅳ郭を為す。この東曲輪群から南東へ支尾根が延び
そこは通称「左近屋敷」と呼ぶ東Ⅴ郭・東Ⅵ郭となっている。ここには細野左近という将の屋敷があったそうだ。但し現在
危険なので左近屋敷へ立ち入るのは禁止されている。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
古城山の北麓には米蔵跡と呼ばれる広大な敷地も。城が現役だった当時は城下の屋敷群があったらしく、廃城以後の
江戸時代になってから年貢米を保管する米蔵群が置かれるようになったものである。眼の前には木曽川が流れており
河川物流を考慮した配置だった様子が想像できる。米蔵跡(城下屋敷)から道を登れば、東腰曲輪群へ到達するように
なっている。久々利頼興が闇討ちされた杉ヶ洞口というのはこの道にあたる。米蔵跡敷地は明治時代から終戦後まで
天然氷を製造する製氷池として転用されていた。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
水の話と言えば山城の生命線である井戸だが、金山城では平右衛門谷(へいうえもんだに)にある湧水点を利用した
水ノ手(井戸)があり、その他にも雨水を溜める貯水桝施設も城内各所に備えられていた。@@@@@@@@@@@@
米蔵跡を除き、城内のほぼ全ての大規模曲輪からは礎石が検出され、瓦も出土。全山に堅固な建物が建てられていた
状況が確認できる。また、登城経路の随所に枡形虎口があり、更に主郭内には2重2階の天守も存在した。この天守は
主郭北部に建てられ、南東側に小天守が付属。小天守の南西には袖櫓も建ち、複合的な防御が想定されていたようだ。
主郭には西南隅にも2層構造の坤櫓があり、曲輪の中央に城主の居館となる御殿が建てられていた。@@@@@@@
そして金山城の特徴とも言えるのが、ほとんど全域において見られる石垣の存在だ。野面積みの荒々しい石垣が、山を
登るごとに目に入ってくるので登城していくと感嘆する事しきりでござる。礎石建物に瓦、そして石垣と来れば典型的な
織豊系城郭と言う事になり、まさしく信長股肱の臣である森一族が手塩にかけて育てた城なのだと感じられよう。また、
これらの石垣は天端(てんぱ、石垣の最上段部)が意図的に崩されており、廃城に伴って破城が行われた事を物語る。
(曲輪の名称は可児市の史跡保存活用計画書に準拠)@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

史跡整備と続百名城@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
御留山だった古城山は明治以降、旧皇室典範にある皇室財産「世伝林」となり、戦後は国有林として保全されてきたが
1953年(昭和28年)8月5日に兼山町(当時)へ払い下げられた。そして1963年(昭和38年)11月22日に山頂部~出丸が
兼山町の史跡に指定。それが1967年(昭和42年)11月13日に岐阜県の史跡となり、1982年(昭和57年)3月には兼山町
観光振興を担う史跡と認知され「兼山町・古城山整備構想調査報告書」が作成された。更に1993年(平成5年)2月には
「古城山周辺環境整備基本計画報告書」も作られ史跡整備を進める事となったのだが、この時期に件の市町村合併が
議論されたため、実際に整備計画が動き出すのは可児市との合併後になっている。@@@@@@@@@@@@@@
斯くして2006年(平成18年)に第1次発掘調査が始まり、2020年(令和2年)2月17日~3月13日の第9次発掘調査までが
執り行われている。その結果、上記の通り建物礎石列や瓦が出土したのみならず、お椀・皿・鉢などの瀬戸美濃産陶器、
かわらけ、中国製磁器と言ったものが検出された。また、土坑跡も数箇所確認されている。発掘や史跡整備はその後も
範囲を広げて順次行われていく予定との事。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
こうした結果にて、2013年(平成25年)6月21日に行われた国の文化審議会で金山城を国史跡とする答申が出され、同年
10月17日に指定された。国史跡指定範囲は30万2466.6㎡。史跡指定以前の改変も僅かに見られるが、全体として良好な
保存状態が維持されていた上、これらの整備事業によって美しく整えられた城址は公園化も図られ、車を使えば来訪が
容易になっている(公共交通機関での訪問は少々難しいかも?)。2017年(平成29年)4月6日には、財団法人日本城郭
協会が続百名城の1つに選出してもいる。「続百にハズレ無し」と言われる中で、もちろん美濃金山城も山城の醍醐味を
存分に堪能できる名城なので、オススメの城と言え申そう。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
場所は可児市立兼山小学校の北側。兼山小学校前の道を登って行けば駐車場へ出るのだが、分かれ道が少々分かり
難いので注意が必要。また、かなりの急坂なので(何せ比高差170m程の山である)安全運転を心がけるべし。@@@@
移築現存する建物は2棟。古城山の麓にある浄土宗海潮山浄音寺の山門は金山城の裏城戸門を持ってきたものだとか。
また、犬山城下にある臨済宗青龍山瑞泉寺には犬山城の内田御門を移した山門があるのだが、この内田御門はもともと
金山城の二ノ門だった。慶長期に廃された城の建物が今でも残るのはかなり貴重だと言える。@@@@@@@@@@@



現存する遺構

井戸跡・堀・石垣・土塁・郭群等
城域内は国指定史跡

移築された遺構として
瑞泉寺山門(二ノ門)・浄音寺山門(裏城戸門)








美濃国 和知城

和知(稲葉)城址 空堀跡

 所在地:岐阜県加茂郡八百津町野上大門西

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★@@@
★☆@@@



まるで「ミニ長篠城」@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
国道418号線「野上」交差点から岐阜県道350号線に入り、すぐ南にある交差点を木曽川河畔へ折れると和知(わち)城址、
現在は稲葉城公園となっている敷地の駐車場に辿り着く。この駐車場には乗用車30台程度が停められる。その南に巨大な
空堀跡(写真)があって、その先に大きな広場となっている公園が。これら駐車場~広場の敷地が城域である。@@@@@
この場所は木曽川が蛇行し北東→南西へと流れ、そこに北西側から石川という支流が合流する地点。つまり南向きに突出
した三角形の半島となっており、その根元に上記の巨大空堀を穿ち、半島の先端部を曲輪として独立させている訳だ。現地
案内板にある縄張図では、この曲輪は中央部を本丸とし、その外周を取り巻いて二ノ丸が構成されていたとされるが、現状
広場として整地されているため、本丸と二ノ丸の区別は出来ない。一方、本来は駐車場の北側にも同様の空堀が存在して
三ノ丸を作り出していたのだが、こちらの堀は廃城後に埋め立てられてしまい三ノ丸の規模や形状を想像するのは難しい。
三ノ丸の北端(半島の一番根元)が大手口で、往時はその外側に馬出のような前衛の小曲輪もあったようだ。有名な長篠城
(愛知県新城市)を小ぶりにしたような縄張り、と言えば想像し易いだろうか。馬出の置かれていた場所が県道350号線から
稲葉城公園へ入る分かれ目あたりだったそうなので、想定される城域は東西100m強×南北に250m程度と言った具合か。
なお、この場所における現状の木曽川は900mほど下流にある兼山ダムで堰き止められた調整池になっているので、往時の
和知城は河畔に屹立する断崖上にあったと考えるべきだろう。この点も長篠城に近い環境だった。@@@@@@@@@@
半島の突端は船着き場になっていた。木曽川を後背地にした 後ろ堅固の城 にして、いざという時には崖下に置いた船で
脱出できる、守るに適した立地であるが、県道350号線はかつての木曽街道でもある為、街道監視にも有用であった。@@
川に囲まれた場所だが、二ノ丸の西隅には井戸もある。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

稲葉氏の「稲葉城」@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
この城を築いたのは稲葉右近大夫方通(いなばまさみち)。 頑固一徹 と言う言葉の由来となった剛毅の将・稲葉一鉄良通
(よしみち)の4男である。稲葉家は美濃の名族、織田信長に仕え武功を挙げた家柄だが、方通も武勲を挙げ信長から西保城
(にしのほじょう、岐阜県安八郡神戸町)主に任じられていた。信長没後は豊臣秀吉に従い、九州征伐や小田原征伐に従軍。
その勲功で1590年(天正18年)和知村を与えられ、築城したのが和知城である。稲葉氏が築いた城なので稲葉城とも呼ばれ、
地名から野上城とも呼ばれる。なお、現在の住居表示において「和知」の地名は石川の対岸(城の西側)となっている。@@
天下分け目の関ヶ原合戦では、稲葉一族は東軍西軍に分かれ、或いは寝返って去就を占ったが、方通は東軍に従ったとされ
和知村・野上村・細目村・上牧野村・久田見村(いずれも八百津町内)と言った所領4431石を安堵された。@@@@@@@@
江戸幕府が成立すると旗本として存続する事になったが、1617年(元和3年)からは尾張徳川家の附家老に位置付けられた。
方通は1640年(寛永17年)10月1日に没したが、家督は主計知通(ともみち)―右近正通(まさみち)―右近良通(よしみち)と
続く。しかし良通は嫡子無きまま亡くなった為、幕府は知通の外孫である右平次屋通(いえみち)に跡を継がせたが、これも
子が無く1676年(延宝4年)に死去。そのため方通系稲葉家は御家断絶となり、遺領は尾張藩に収公されてしまった。同時に
和知城は廃城となり、5代86年に及ぶ歴史が終わったのでござる。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
公園となった「稲葉城(敢えてそう記そう)」では、駐車場の傍らに御殿風の休憩所が建ち、広場の端部に児童遊具が並ぶ。
そして本丸の東隅に、木曽川を眺める天守風?の展望台が置かれている。「?」を附けたのは、天守と言うよりも建物の
外階段のような塔に高欄を付けた簡素な物見台だからなのだが、これに鯱を施した瓦葺きの屋根を載せ、高欄には堂々と
稲葉家の家紋である「折敷に三文字」が掲げられ「これは天守だ!天守なんだ!!」と強烈に自己主張している。その姿は
一見するとちょっと滑稽なのだが、むしろ清々しい程の潔さである。是非とも現地を訪れて、この模擬天守をもとい、まるで
谷のような空堀と、迫力ある土塁(の残欠)を目にして頂きたい。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
1965年4月10日、八百津町の史跡に指定されている。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@



現存する遺構

井戸跡・堀・石垣・土塁・郭群等
城域内は町指定史跡








美濃国 上恵土城

上恵土城 土塁跡

 所在地:岐阜県可児郡御嵩町上恵土

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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長谷川氏の館城@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
御嵩町の西端部、上恵土(かみえど)地区にあった平城。可児市との市境に、国道21号線の旧道と新道(可児御嵩バイパス)が
合流する「上恵土本郷西」交差点があり、その東南東200mの位置に本郷公民館があるのだが、城域はこの公民館の南側一帯
畑や住宅が混在する区画に合致する。国道の旧道沿い(北側)には木曽川が流れ、城域の南側には可児川が流れているので
この場所は川と川に挟まれた(川を防御に利用した)立地という事になる。城域の南端は岐阜県道122号線までのようだ。@@
現在の地名が上恵土なので「上恵土城」と呼ばれているが、中世においては荏土荘という荘園の中にあったため、当初の名は
「荏土城」だった。この荏土荘が室町時代に上郷と下郷に分かれた事で「荏土上郷」「荏土下郷」となり、それが「上恵土」に転化
したものである。この城の創始はいつ、誰によるものなのか不明だが、隣町・八百津町にある臨済宗臨滹山(りんこざん)大仙寺
(余談だが、この寺は上記の和知城主・方通系稲葉家の菩提寺である)の僧・東陽英朝(とうようえいちょう)が語った記録には
明応(1492年~1501年)から文亀(1501年~1504年)の頃に極玄周玄という僧侶が「荏土城」で戦死したとある。@@@@@@@
16世紀の中頃から「上恵土城」と呼ばれるようになったらしいのだが、話題になるのは本能寺の変の頃に城主だったのが長谷川
五郎右衛門という人物だったと言う点。この五郎右衛門は上記の美濃金山城にて記した如く、森家に従い、信長横死の機を見て
反抗を試みた東美濃国人の1人だそうな。どうやら、森蘭丸が治めるようになった可児郡を信濃から帰国した長可が再び統治する
事になった流れを「金山城の簒奪」と見て、森長可への反感を強めたらしい。長可としても、川中島から金山へやっと帰還したのに
挨拶にも訪れず使者すらよこさない五郎右衛門に対し、反乱の兆候を読み取ったようだ。斯くして、大森城(岐阜県可児市)主の
奥村又八郎元広と共に森家への叛旗を翻した五郎右衛門であったが、織田家の部将たる 鬼武蔵 長可は即座に対応、1582年
6月25日に大森城を攻め、翌26日に上恵土城を落城させた。五郎右衛門は自刃している。以後、この城に関する記録が途絶える
事から、この落城を以って廃絶したものと見られており申す。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

近世城郭の萌芽?@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
来歴からすると「中世武士の在地居館」と言う事で典型的な方形居館を想像してしまうが、どうやらそうでは無く、大屋敷・小屋敷・
出口(と言う名の小字)と言った区画に分かれた曲輪割りが為されていた模様。形状からすると方形居館の中を分割した感じにも
見えるが、いずれにせよ 単郭居館 ではなく複数の曲輪が並ぶ多重防御の 平地城館 だったらしい。 @@@@@@@@@@
大屋敷が主郭、その東側に二郭となる小屋敷、それらの北側~東側へ回り込んで出口(外郭)が形成され、大屋敷の南西側にも
独立した出郭のような方形の敷地が構えられていた。大屋敷・小屋敷・出口の主曲輪群を合わせた城域は東西×南北それぞれ
150m四方程度の大きさと見られるので、それほど巨大な城郭ではない(やはり「方形居館の中を分割した」?)のだが、岐阜県の
遺跡調査では「上恵土城跡(新村城跡)」の北に隣接して「浦畑遺跡」が確認されており、この浦畑遺跡と言うのは城館の周囲を
取り巻いて成立した中世集落痕と見られる事から、上恵土城は城下町を備えた近世城郭にも似た様相を呈していた。ちなみに、
御嵩町教育委員会が2002年(平成14年)に上恵土城想定域の 南側 (浦畑遺跡の反対側)で行った発掘調査でも掘立柱建物
4棟・井戸跡・土坑などの痕跡が検出され、陶器や窯、大量の古銭(まとめて保管されていたものと思われる)などが出土しており
この「城下町」は広範囲に及んでいた可能性もある。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
可児御嵩バイパスの敷設に先立ち2000年(平成12年)~2002年にかけて試掘、2002年度中に本発掘の調査が行われた。これは
上恵土城跡遺跡と浦畑遺跡の両方に及ぶ発掘であったが、その中で特に上恵土城と関連する遺物を挙げれば、掘立柱建物や
堀跡、井戸跡、柱穴列などを確認している。但し、城が現役だったと見られる15世紀~16世紀のみならず、その前や後(17世紀)の
遺構も検出されており、この場所が城の築かれる前~廃城後まで人々の生活する空間であった事も忘れてはなるまい。@@@@
出土品としては陶器・木製品・天目茶碗・土師器皿・擂鉢・燈明皿・集石と言ったものが主体となっている。鉄砲弾も1つ出たそうだ。
発掘以後、城跡は再び眠りに就いたので現状では地表面に現れている遺構はごく僅かにしかない。その最たるものが写真にある
土塁で、城域を東西に走り、恐らくは大屋敷の北縁?を塞いでいたものだったと考えられるのだが、ご覧の通り民家に密接して
存在しているので、来訪する際にはくれぐれも近隣住民の方々に御迷惑をおかけせぬよう注意されたい。@@@@@@@@@@
この他、「上恵土本郷西」交差点のすぐ南側には長谷川五郎右衛門の供養碑もあるそうだが、これも民家の敷地内にあるので
節度ある行動を心掛けるべし。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@



現存する遺構

堀・土塁








美濃国 顔戸城

顔戸城址

 所在地:岐阜県可児郡御嵩町顔戸

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

★★☆@@
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綺麗に残る土塁が1周@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
御嵩町の顔戸(ごうど)地区、可児川に架かる顔戸橋の北側を航空写真で見ると、見事にまで綺麗な林で囲まれた区画が
確認できる。無論、現地へ行けばこの林の列が土塁とそれに沿って走る堀である事が見て取れるのだが、この少々歪んだ
5角形の区画こそ、顔戸城の跡地でござる。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
この城を築いたのは美濃の名将として有名な斎藤妙椿(みょうちん)である。美濃守護代・斎藤越前守利明?こと、入道して
斎藤宗円(そうえん)と名乗った人物の子であるが、宗円には長子の帯刀左衛門尉利永(としなが)が居た為、妙椿は幼少の
頃から僧籍に入れられていた。ところが利永が没し、後継者の越前守利藤(としふじ、利永の子)がまだ若かった事により
利藤の叔父である妙椿が守護代としての政務を代行するようになった。ここから妙椿の活躍が始まり、在京する守護の
土岐家に代わって美濃国内における実務を一手に引き受けた。その能力により足利将軍家の奉公衆にも取り立てられ、
官位も主家である土岐家を越える従三位権大僧都となっている。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
さて、その妙椿の時代は天下の大乱である応仁・文明の乱が発生した頃である。西軍に与した土岐家(美濃国)に対して
東軍に属する近江の京極家や、信濃の小笠原家と木曽家が美濃へ乱入するのだが、妙椿は西へ東へ奔走し、これらを退け
或いは調定し、八面六臂の働きを為した。このような状況の中、信濃勢に対する備えとして東濃の前進拠点になる顔戸城が
築かれたのである。正確な築城年は不明だが、応仁の乱における築城と言う事でおおよその推定は出来るだろう。@@@
妙椿は1478年(文明10年)に隠居(1479年(文明11年)とも)したが、それ以後この顔戸城に閑居し1480年(文明12年)11月
21日に没したと言う。戦国時代には顔戸城主として高木主水正なる者が永禄年間(1558年~1570年)に在城したと地元の
伝承に残るが、真偽やその後の話は分からない。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

実は交通の要衝と言う好立地@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
顔戸城の敷地は、台形の1角を切り取って5角形にした、いびつな方形館という形状になっている。この敷地は、台形の
上底となる北面が約140m、南面の下底(の一部を切り取る前の長さ)が220m弱、台形の高さに相当する距離が170mほど。
上記の上恵土城は方形の敷地をいくつかの曲輪に分割していたようであったが、こちらの顔戸城では内部を分けておらず
単郭の方形居館(5角形なのだが)という古くからの様式を守っている。戦国乱世の時代に先んじる、まだ室町時代の伝統
格式が生きていた時代の城と言う事が分かる構造なのだが、典型的な方形居館が「方一町」つまり一辺を100m程度の
大きさとしているのに対し、顔戸城のそれは約2倍近くになる。やはり 美濃の実力者 斎藤妙椿が構えるに相応しい規模を
誇っていた訳だ。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
「台形の1角を切り取った」と記したが、その 切り欠き面 に当たる南東面に城の大手口が開き、城域の北西隅には乾櫓が
あったと言う一段高い土塁がある。曲輪の北東隅部が居館跡と見られ、その奥には池泉が備わっていたとか。居館の隣、
北東端も櫓台だった。ただ、現在その居館跡には一般住宅が建っているので見学は憚られる。通路を通り曲輪の内部を
縦貫する事は可能。曲輪内の小字名は現在でも「構(かまえ)」と言い、城の名残りを伝えてござる。@@@@@@@@@@
城跡の南、可児川との間に国道21号線(旧道)が走る現状であるが、この道は当然古来からの幹線道、中山道である。
顔戸城が河川舟運と陸上経路を一手に管掌していた事が如実に分かる立地だが、南の可児川河畔の標高が約110mにして
城の北端部(乾櫓や居館があった付近)では123mを指すので、城地そのものが10m以上の傾斜地にある事も重要だ。大手、
つまり中山道から攻め入って来るであろう敵は、地味に(感覚があるかないか位の)登り坂を駆け上がる事になり、思わぬ
疲労を強いられると推測される。さすが斎藤妙椿、なかなかに策士である。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
これだけの名城にして、土塁や堀の残り具合も良く、しかも室町中期の守護代居城!と言う珍しい例なのだが、2024年
(令和6年)現在、如何なる文化財指定もされていない。よって、整備も殆どされておらずせっかくの土塁は でしかない。
2020年(令和2年)の大河ドラマ「麒麟がくる」で美濃を出自とする明智日向守光秀が主役となったため、写真にあるように
周辺各所の城跡で幟を掲げ観光振興に利用しようとする意図はあるようだが今後の進展に期待したい。@@@@@@@

余談:和歌を武器に戦う@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
ここからは全くの余談なのだが、政に戦に奮闘した斎藤妙椿は、僧侶の身の上と言う事で一流の知識人・文化人でもあった。
特に和歌の世界では顔が広く、当時の錚々たる歌人らと親交があった。そんな中、応仁の乱で美濃を平定する戦いの過程で
妙椿は東下野守常縁(とうのつねより)が城主である篠脇(しのわき)城(岐阜県郡上市)を攻め落とした。当時、常縁は東氏
一族の争いを平定するため関東まで出陣しており、その留守を襲ったものだが、この常縁も稀代の歌人であり、妙椿と親しく
交流していた人物だった。居城を獲られた常縁は深く悲しみ、その思いを歌にして認めている。それを聞いた妙椿は、常縁が
自分に十首の歌を贈ってくれたなら城を返そうと約束する。常縁もその提案に応え、妙椿に十首の歌を贈った。@@@@@@
果たして妙椿は、約束を守って常縁へ篠脇城を返還した。戦国時代ならば騙し騙される無慈悲な戦いが繰り広げられたろうが
まだ妙椿の時代は、歌で互いの思いを伝える風雅な習わしが残っていたという逸話でござる。常縁は有職故実に通じた古今
伝授(古今和歌集の解釈を秘事口伝で伝える公家芸能)の継承者であったが、妙椿もまた和歌の心を解する傑物であった。
そんな斎藤妙椿の、系図上の末裔が斎藤妙春。久々利城で謀殺された、あの斎藤大納言正義である。歌で競った妙椿から
約80年を経ると、血も涙もない陰惨な暗殺劇が常套手段になる時代に変わっていた―――諸行無常である。@@@@@@@



現存する遺構

堀・土塁・郭群等








美濃国 御嵩城(本陣山城)

御嵩城(御嵩本陣山城)切岸の夜景

 所在地:岐阜県可児郡御嵩町御嵩

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★☆@@@
★★@@@



2つで1つの「御嵩城」@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
御嵩町中心街から可児川を渡った南側に、南山台西住宅と南山台東住宅という2つの新興住宅街がある。このうち
南山台東住宅は、東西の小山に挟まれた環境となっているが、山頂に金峯(きんぶ)神社が鎮座する東の小山が
権現山城、特徴的な展望台があるみたけの森(御嵩城址公園)になっている西の山が本陣山(ほんじやま)城である。
いわゆる「御嵩城」と言うのはこの2つの城を総称したものとされるのだが、拙者は本陣山城だけ訪問したので、主に
それについて記載する。(権現山城は陽が暮れてしまい行けなかった@@@@@@@@@@@@@@@@@@
元々の御嵩城は権現山城が発祥とされる。「御嵩城」の来歴を紐解くと、上記した顔戸城の項で紹介した斎藤妙椿が
応仁年間(1467年~1469年)に築城したと言う。しかしこの 旧御嵩城 と呼ぶべき城の経緯は定かでなく、後の戦国
時代になって、小栗信濃守重則(古信濃)が城を修築し入渠するようになった。事実上、御嵩城が築かれたのはこの
時であろう。しかし防備に不安があったのか、天文年間(1532年~1555年)にこちらの本陣山城を築き、本拠を移した。
金峯神社のある権現山頂は標高189.6m、対する本陣山は241.9mなので、より高い山こそが堅固な城と言う発想で
あろう。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

城主・小栗信濃守の動き@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
その小栗重則は土岐高山城(岐阜県土岐市)主・高山伊賀守光俊が1552年(天文21年)に没すると、好機とばかりに
高山城へ攻めかけた。この時、土岐高山城を守った将の後藤庄助は討死したが、それに気を良くした重則は深追いし
大敗、逆に高山城救援を目論む遠山氏・小里氏・平井氏などの軍勢に攻め込まれ本陣山城を落とされてしまう。@@
城主の重則は自刃し、20歳だった彼の娘も奮戦の後に城の北側の崖から身を投げて自害した。この為、その断崖を
「廿ヶ平(はたちがだいら)」と呼ぶ。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
ちなみに、旧来の御嵩城つまり権現山城は蔵王権現(金峯神社の祭神)の霊力によって守られ、攻められると権現の
使いである白蛇が霧を出して城の姿を覆い隠した事から 不落の霧隠城 と呼ばれていたのに、 見晴らしの良い
本陣山に移った為その効果が無く落城したと言う皮肉な伝説がある。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
ただ、重則の敗死後も小栗家は存続し、彼の子である信濃守教久(今信濃)が御嵩城主を継いでいる。東濃は国人の
独立志向が強く、また織田家と甲斐武田家が激しく争った地域でもあるが、教久は早い段階から織田信長への臣従、
即ち金山城主・森家への従属を表明し、1574年(天正2年)武田家との対戦に臨む織田信長・秋田城介信忠の父子が
この御嵩城に仮泊したとの説もある。その一方、本陣山城の構築に異説もあり、予てから権現山城攻略を狙っていた
森長可であったがなかなか落とせず、小栗氏を唆し本陣山へ城を移させた事で攻め落としたとの話も。@@@@@@
どこまでが真実なのかは分からないが、小栗氏が森家に服従したのは確かなようで、本能寺の変以後の争乱劇でも
小栗教久はそのまま御嵩を安堵されている。そして1600年に森家が信濃国川中島へ移封された折、この城も不要と
なり、廃城になったと見られてござる。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

城址公園となった功罪@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
本陣山は南北に細長い山容をしていて、山全体の大きさを見ると南北が600m以上に達する一方、東西には230m程
しかない。山の北端は可児川に面し、河畔の標高が125m程なので比高差120m弱と言う事になる。南山台東住宅
(山麓平地)からでも70m近くの高さだ。険しい山容なので曲輪を構える余地も少なく、山頂に細長い主郭と、その
南側下段に二郭、更に空堀(堀切であろう)を挟んで三郭が並ぶも、いずれも狭隘な敷地である。現状では公園化で
堀切が埋められ、二郭と三郭が一体化している。反対に主郭の北には細尾根が延び、ささやかな腰曲輪と、その先に
物見郭が突き出す。廿ヶ平と言うのは物見郭の下であろう。主郭を挟んで東西にも多少の腰曲輪が付属するが、城の
構造としては単純なもので、技巧的な虎口や大規模な建物があったようには見えない。霧隠城の加護を捨てるに至る
「見晴らしの良さ」に特化した城だったのか。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
そんな城跡は、城址公園となり更なる改変を受ける事となった。空堀が埋められたと記しただけでなく、曲輪の整地や
階段の新設、冒頭に記した展望台の建設などである。もっとも、そのおかげで安全に誰もが訪れる事の出来る城跡と
なり、眺望の良さは何ら遜色の無いものなので必ずしも悪い事ばかりではないだろうが。駐車場も完備し、三郭の直下
標高223mの地点までは車で登れる。ここまで来れば主郭までの高さは20m弱なので、散歩感覚で登れるだろう。ただ、
その駐車場も明らかに山を削って造成しているので、旧来の山の姿を推し量る事は出来ない。何より、城址公園は
夜間になると門が閉鎖されて入園できなくなるとの事。来訪する際は時刻に注意なんだそうだが、拙者が訪問した
際には門が閉められる事も無く、駐車場にも普通に入れた。何故? (^ ^; ありがたいけど@@@@@@@@@@@
写真は本陣山城の切岸越しに見た美濃加茂市方面の夜景。主郭まで登ったが真っ暗で城らしい遺構が撮れなかっ
いや、だから明瞭な遺構は湮滅しているのだから、むしろ切岸の写真が一番見応えのあるものなんだってばw@@@



現存する遺構

郭群




可児市内諸城郭  駿府城(駿府館)・丸子城・持舟城