「斎藤大納言」による築城@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
現在の地名表記から「兼山城」とも。正式には「金山城」と言うのだが、同名の城は全国に数多あるので旧国名を冠して
「美濃金山城」と表記するのが一般的。なお、「金山」も「兼山」も「かねやま」と読む。この点は他の城が「かなやま」と
読むのが一般的なのとは大いに異なる。また、初名は「烏峰(うほう)城」あるいは「烏ヶ峰(からすがみね)城」と言い、
この城山が烏ヶ峰と呼ばれていた事が分かる。ちなみに、現在では金山城があった山と云う事で、古城山という地名
(小字名)が付けられている。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
その烏峰城が築かれたのは1537年(天文6年)の事だとか。美濃の蝮こと斎藤道三、その猶子である斎藤大納言正義
(まさよし、号を妙春(みょうしゅん))が築城主。正義は元々関白・近衛稙家(たねいえ)の庶子であったが、傅役として
付けられていた瀬田左京なる者の姉が道三の妾となっていた縁で引き立てられ、道三の猶子に迎え入れられたとか。
斯くして道三と近衛家の権勢を背景とし、東濃に対する抑えとなる烏峰城が周辺14諸将の協力を得て築城された訳で
ある。同時に、城下の村(中井戸ノ庄)の名が金山村に改められている。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
この城を本拠とした正義は東美濃一帯に覇を唱え、周辺国人らを次々と従えた。遂にその勢力は養父・道三と並ぶ程
強まったと言われたが1548年(天文17年)2月、配下に従えていた久々利(くくり)城(可児市内)主・久々利土岐三河守
頼興(よりおき)から酒宴に招かれ、久々利城で酔い潰れた所を暗殺されてしまう。この謀殺にて烏峰城は久々利氏の
手に落ち、土岐重郎右衛門が留守代(城番)として配されている。一方、美濃国主にして正義の養父である筈の道三は
正義が暗殺された事に何ら報復せず、久々利氏が烏峰城を接収するのを黙認していた事から、この暗殺劇は正義の
台頭を快く思わなくなった道三が仕組んだものと見る説もござる。ただし、1565年(永禄8年)4月13日付の顔戸(ごうど)
八幡神社(岐阜県可児郡御嵩町)棟札には「長井隼人佐」(道利(みちとし)の事か)の名で可児郡が治められていたと
記している為、長井道利(斎藤道三の重臣)が城主になっていた可能性も指摘されている。@@@@@@@@@@@@@@
加木屋正則、祖父の敵討ちを果たす@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
ところがこの後、齋藤家は道三が敗死して弱体化し、尾張から織田上総介信長が伸長して美濃を併呑する。烏峰城は
1565年(永禄8年)信長家臣の森三左衛門尉可成(もりよしなり)に与えられ、可児周辺の国人らは彼に従う事となった。
久々利頼興も然りである。可成は城の名を金山城と改め、城下町も開いて森家の本拠に相応しい大城郭へと改修して
いく。1570年(元亀元年)9月20日に可成が戦死すると、城主の地位は嫡男の勝蔵長可(ながよし)に引き継がれた。@
その後、長可は武蔵守を称し “鬼武蔵” と恐れられる剛勇の将に成長していくが、同時に金山城下に川湊を整備する等
金山城と城下町の整備振興にも心を砕いた。1582年(天正10年)3月、甲斐武田家攻略の戦功によって長可は信濃国
川中島(長野県長野市)へ新領を与えられて移封、そのため金山城の主は弟の蘭丸成利(なりとし)に受け継がれた。
信長の近習として有名な、あの森蘭丸である。当然、この直後に本能寺の変が発生し成利は信長と共に落命してしまい
入手したばかりの信濃も政情不安となった為、結局長可が川中島を引き払い金山城主に復帰するのだが。ちなみに、
蘭丸が産まれたのは金山城であったと言う。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
そうした情勢下、つまり本能寺の変で織田家中が動揺する中、東美濃の国人らは好機到来とばかりに独立を図ろうと
するものの、長可はそれを返り討ちにし、従来通りの領地を堅持している。また、1583年(天正11年)の正月には久々利
頼興を酒宴と称して金山城に誘い出し、闇討ちにしている。頼興も森家への叛意を見せていた事から行われた粛清劇
なのだが、酔った頼興を城内の杉ヶ洞口で待ち伏せし襲撃したのは森家に召し抱えられていた加木屋宇右衛門正則
(かぎやまさのり)、亡き斎藤正義の孫であった。頼興は正義を討ち取った手法で、正義の孫に討ち取られた訳だ。@@
翌1584年(天正12年)4月9日、長久手合戦で長可が討死すると森家の家督は末弟の右近丞忠政(ただまさ)が継承。
忠政はこの城を居城として成長し、豊臣秀吉の全国統一事業に参加していく。その秀吉が没した後、豊臣政権の実務を
担ったのが内大臣・徳川家康であったが、忠政は予てから亡兄・長可の遺領継承を希望していた事から家康は1600年
(慶長5年)2月、森家を信濃国川中島13万7500石に転封させている。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
徳川幕府開闢直前に廃城@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
これにより金山一帯は犬山城(愛知県犬山市)主・石川備前守貞清(いしかわ(いしことも)さだきよ)が領する事となる。
一説には、この折に金山城の諸建築が犬山城の建材に転用されたとされ、特に天守は金山城のものが犬山城天守に
なったと言われるが、1965年(昭和40年)に行われた犬山城天守の解体修理に於いてその痕跡が出ず、現在ではこの
天守移築説は否定されている。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
石川貞清は関ヶ原合戦において西軍に付いた為、改易されている。それに代わり犬山城と金山城を得たのは桜井松平
左馬允忠頼(ただより)であった。犬山城の城番として1万石、金山城の城番として1万5000石の計2万5000石を有したと
され、これを以って金山藩が立藩したと考える説もあるのだが、直後の1601年(慶長6年)2月に桜井松平家は遠江国
浜松(静岡県浜松市)に移封され、金山藩としての実績は特段記録されていない。@@@@@@@@@@@@@@@
忠頼が去って後、金山城は新たな犬山城主・小笠原伊予守吉次(おがさわらよしつぐ)の持ち城となるが、吉次は金山
城を廃し、城下町ごと犬山へ移転させた。これを「金山越し」と言い、城と町が丸ごと引っ越した訳であるが、先に記した
犬山城への移築説はこの時の事も含めて混同されている可能性もある。ともあれ、これで金山城は破却され、以後の
金山村は数年の天領支配の後、1615年(元和元年)から尾張藩領に組み込まれた。以来、古城山は尾張藩の御留山
(おとめやま、立入禁止の山)とされている。また、1656年(明暦2年)に「金山村」の村名は「兼山村」に変更され、その
村域が近代の市町村制施行によって可児郡兼山町となった。兼山町は1889年(明治22年)7月1日の町村制成立時から
町制を敷いていた(村制から町制に変わったものではない)由緒ある町だったが、平成の市町村大合併の波には抗えず
2005年(平成17年)5月1日に可児市へ編入される形で合併している。ただ、元々の可児市域と兼山町は地続きでない為
可児市の飛び地となっており、旧兼山町内の地名は全て「可児市兼山」と言う地名で統一される事になった。編入当時、
兼山町は全国で2番目に小さい町であった事で可能だった施策であろうが、ちょっと乱暴な話でもある(苦笑)@@@@@
全くの余談だが、この時に最も面積の小さい町は高知県香美郡赤岡町で、兼山町との差は僅かに約0.97㎡だった。また
兼山町は当時の人口においても全国で下から2番目の町(1位は山梨県南巨摩郡早川町)であった。@@@@@@@@
山頂から山麓まで全山が城塞@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
古城山の標高は277.2mを指し、その山頂が主郭。主郭から大きく見て西~南側に下段の曲輪が付属していて、これが
南Ⅰ郭(西腰曲輪・南腰曲輪)を構成している。南腰曲輪の先に延びる尾根には南Ⅱ郭が、西腰曲輪の先には西Ⅰ郭と
西Ⅱ郭が梯郭式に築かれ、西尾根の延長線上には出丸(西Ⅲ郭)がある。現状では出丸が駐車場となり、ここまでは
車で登って来る事が出来る。西Ⅰ郭の北側には小さな突出部があり、ここが北Ⅰ郭・北Ⅱ郭とされている。@@@@@@
反対に主郭から東へ目を向けると、ここにも腰曲輪があり東Ⅰ~Ⅳ郭を為す。この東曲輪群から南東へ支尾根が延び
そこは通称「左近屋敷」と呼ぶ東Ⅴ郭・東Ⅵ郭となっている。ここには細野左近という将の屋敷があったそうだ。但し現在
危険なので左近屋敷へ立ち入るのは禁止されている。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
古城山の北麓には米蔵跡と呼ばれる広大な敷地も。城が現役だった当時は城下の屋敷群があったらしく、廃城以後の
江戸時代になってから年貢米を保管する米蔵群が置かれるようになったものである。眼の前には木曽川が流れており
河川物流を考慮した配置だった様子が想像できる。米蔵跡(城下屋敷)から道を登れば、東腰曲輪群へ到達するように
なっている。久々利頼興が闇討ちされた杉ヶ洞口というのはこの道にあたる。米蔵跡敷地は明治時代から終戦後まで
天然氷を製造する製氷池として転用されていた。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
水の話と言えば山城の生命線である井戸だが、金山城では平右衛門谷(へいうえもんだに)にある湧水点を利用した
水ノ手(井戸)があり、その他にも雨水を溜める貯水桝施設も城内各所に備えられていた。@@@@@@@@@@@@
米蔵跡を除き、城内のほぼ全ての大規模曲輪からは礎石が検出され、瓦も出土。全山に堅固な建物が建てられていた
状況が確認できる。また、登城経路の随所に枡形虎口があり、更に主郭内には2重2階の天守も存在した。この天守は
主郭北部に建てられ、南東側に小天守が付属。小天守の南西には袖櫓も建ち、複合的な防御が想定されていたようだ。
主郭には西南隅にも2層構造の坤櫓があり、曲輪の中央に城主の居館となる御殿が建てられていた。@@@@@@@
そして金山城の特徴とも言えるのが、ほとんど全域において見られる石垣の存在だ。野面積みの荒々しい石垣が、山を
登るごとに目に入ってくるので登城していくと感嘆する事しきりでござる。礎石建物に瓦、そして石垣と来れば典型的な
織豊系城郭と言う事になり、まさしく信長股肱の臣である森一族が手塩にかけて育てた城なのだと感じられよう。また、
これらの石垣は天端(てんぱ、石垣の最上段部)が意図的に崩されており、廃城に伴って破城が行われた事を物語る。
(曲輪の名称は可児市の史跡保存活用計画書に準拠)@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
史跡整備と続百名城@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
御留山だった古城山は明治以降、旧皇室典範にある皇室財産「世伝林」となり、戦後は国有林として保全されてきたが
1953年(昭和28年)8月5日に兼山町(当時)へ払い下げられた。そして1963年(昭和38年)11月22日に山頂部~出丸が
兼山町の史跡に指定。それが1967年(昭和42年)11月13日に岐阜県の史跡となり、1982年(昭和57年)3月には兼山町
観光振興を担う史跡と認知され「兼山町・古城山整備構想調査報告書」が作成された。更に1993年(平成5年)2月には
「古城山周辺環境整備基本計画報告書」も作られ史跡整備を進める事となったのだが、この時期に件の市町村合併が
議論されたため、実際に整備計画が動き出すのは可児市との合併後になっている。@@@@@@@@@@@@@@
斯くして2006年(平成18年)に第1次発掘調査が始まり、2020年(令和2年)2月17日~3月13日の第9次発掘調査までが
執り行われている。その結果、上記の通り建物礎石列や瓦が出土したのみならず、お椀・皿・鉢などの瀬戸美濃産陶器、
かわらけ、中国製磁器と言ったものが検出された。また、土坑跡も数箇所確認されている。発掘や史跡整備はその後も
範囲を広げて順次行われていく予定との事。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
こうした結果にて、2013年(平成25年)6月21日に行われた国の文化審議会で金山城を国史跡とする答申が出され、同年
10月17日に指定された。国史跡指定範囲は30万2466.6㎡。史跡指定以前の改変も僅かに見られるが、全体として良好な
保存状態が維持されていた上、これらの整備事業によって美しく整えられた城址は公園化も図られ、車を使えば来訪が
容易になっている(公共交通機関での訪問は少々難しいかも?)。2017年(平成29年)4月6日には、財団法人日本城郭
協会が続百名城の1つに選出してもいる。「続百にハズレ無し」と言われる中で、もちろん美濃金山城も山城の醍醐味を
存分に堪能できる名城なので、オススメの城と言え申そう。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
場所は可児市立兼山小学校の北側。兼山小学校前の道を登って行けば駐車場へ出るのだが、分かれ道が少々分かり
難いので注意が必要。また、かなりの急坂なので(何せ比高差170m程の山である)安全運転を心がけるべし。@@@@
移築現存する建物は2棟。古城山の麓にある浄土宗海潮山浄音寺の山門は金山城の裏城戸門を持ってきたものだとか。
また、犬山城下にある臨済宗青龍山瑞泉寺には犬山城の内田御門を移した山門があるのだが、この内田御門はもともと
金山城の二ノ門だった。慶長期に廃された城の建物が今でも残るのはかなり貴重だと言える。@@@@@@@@@@@
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