「山城の名所」にある小さな名城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
可児市。岐阜県南部の市であるが、東を見れば岩村城のある恵那市や苗木城のある中津川市、すぐ西隣には犬山城のある
愛知県犬山市がある。また、南への街道を進み猿投(さなげ)を越えれば松平郷、その先には岡崎城のある愛知県岡崎市が。
つまりこの地域は、戦国時代において東に甲斐・信濃を押さえる武田氏が、南には三河の太守・松平(徳川)氏、そして西側に
尾張の織田氏が密接する地域であり、各勢力の挟間で土着の豪族が対応に苦慮する緊張度の高い場所だった。特に、武田
信玄が東美濃への侵攻を開始すると、可児周辺は織田家勢力圏の最前線かつ絶対国防圏となり、それに必要な城郭網が
整えられた。こうした城の跡は、現在でもなお明瞭な形で数多く残されており、可児市はちょっとした「山城名所」になっていて
自治体や地域団体も積極的にその観光利用を図るべく整備・保存に御尽力されている。今、可児と言えば山城の聖地であり
その中でも粒ぞろいの名城を、以下にいくつかご紹介致す。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
まず採り上げるのが今(いま)城。可児市の今と言う場所にある小さな山城だ。この城が築かれたのは戦国の争乱が激化する
天文年間(1532年〜1555年)、当地の国人・小池刑部家継(こいけいえつぐ)の手に拠ると言う。小池氏は遡ると鎌倉時代に
後鳥羽上皇の警護を担った北面の武士であったとか。伝統と格式ある家?だったのかもしれないが、戦国乱世の中では単に
地方の一豪族。織田信長が尾張から美濃へ進出するや家継もその支配下に入れられ、東濃を統べる織田家臣・森三左衛門
可成(もりよしなり)の指揮下に置かれていた。可成が1570年(元亀元年)9月20日に戦死すると、その地位は彼の遺児である
武蔵守長可(ながよし)に受け継がれた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところが本能寺の変が発生し信長が急死すると、美濃の国人らは動揺する。自立を志向する彼らは、これを好機と捉え長可へ
一斉に叛旗を翻した。されど長可は「鬼武蔵」と恐れられた剛の者である。信長没後なればこそ、地域の安定化は急務であり
こうした反乱勢力を瞬く間に平らげた。その為、家継は降伏せざるを得ず今城は廃城、小池氏は帰農したのでござった。■■
しかし廃城の後、1584年(天正12年)に起きた小牧・長久手の戦いに連動して今城は森氏の改修を受けたと見られている。森
長可は信長死後に羽柴筑前守秀吉へ与するようになったのだが、犬山のすぐ南が小牧、つまり徳川家康勢との最前線であり
また、先に記した通り可児から南へ直進すれば家康の本国・三河にも通じる位置。即ち、徳川軍の北上を阻止し東美濃を防衛
するにはこの地域の城を強化しなくてはならなかった為である。ただ、その後の歴史は定かならず、恐らくは何事もないままで
今度こそ廃城になったと思われる。以来、この小さな山城の跡は忘れ去られ、いつしか山頂には愛宕神社が鎮座するように
なったが、それも昭和の高度成長期の頃に廃社となったそうだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
小さいながらも作り込まれた縄張り■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
今城の城山は現在の唐澤集会所と浦無池(農業用溜池)の間に挟まれた南北に細長い低山でござるが、そのうち城地として
使用されたのは北半分だけである。山頂の標高は152.7m、山麓の集落が133m程なので比高20m程度の“小丘陵”なのだが、
山頂部一帯をほぼ方形の削平地として啓開し、これが主郭となり、その北側下段に二郭、これらの曲輪群の西側全体を塞ぎ
三郭が置かれている縄張り。各曲輪の間は空堀と切岸で明確に区分けされ、しかも主郭は西面(切岸で下段と隔絶)以外は
3方に分厚く高い土塁が構えられ、厳重な守りとなっている。特に、主郭の南端部は一段高い土塁(これが山頂となる)が構築
され(写真の東屋の向こうに見える土塁)、恐らくは物見櫓が建てられていたと想像出来る。しかも主郭本域との間には空堀が
あり、櫓台直下には空堀の対岸に小曲輪が削り残された形。果たしてこの小曲輪はどのような使われ方をしたのか?主郭へ
攻め上がる敵に対する伏兵を潜ませる逆襲曲輪か、はたまた何か備蓄用品を備えた物置か、或いは搦手に通じる脱出路か、
現地を見てみると色々な想像が湧いてくる(と言うか、謎が深まる)所である。なお、現状でこの小曲輪から直接切岸を三郭へ
下って行く通路状の起伏が見られるが、これは当時は無かったもので、三郭とは完全に隔絶した敷地だったのでござろう。■■
城山(山地の北半分)全体を囲うように帯曲輪や横堀、所によっては竪堀も構えられ、かなり技巧的な構造。主郭まで登るには
二郭、その前の三郭を順番に攻略していかねばならないが、三郭への入口(大手)には小さいながらも枡形虎口があったらしく
城郭愛好家ならば、どこを見ても感心させられる名城だ。小池家継が築いた“土豪の居館”と言う規模のまま、森長可が小牧の
戦場を睨む防御拠点として改造した履歴に合致する“良く作り込まれた城”だと言う事が一目瞭然である。城地の規模は東西
約60m×南北100m程度の小城だが、実に濃厚で興味深いオススメの城なのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■
城山は私有地なので、21世紀初頭までは整備もされず勝手な立入も憚られる場所だった。しかし2019年(令和元年)可児市で
山城サミットが開催される事となり、それに合わせて市内各所の城跡が整備・保全されるようになった。今城も一般開放されて
公園化も行われ、現状では気軽に散策できる程の見事な活用が図られるようになった。集落の中にある今公民館で駐車場が
用意され、そこに車を停めて5〜10分ほど歩けば城跡に辿り着ける。公民館から城跡までは順路案内もあり、見逃さなければ
問題なく登城できるだろう。ただ、その道は民家の間を通り抜けて行くものなので、駐車場を使わせて頂く事も含めてくれぐれも
節度ある見学を心掛けたい。と同時に、これほど綺麗な手入れをして下さっている地域の方々に大いなる感謝を申し上げる!
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