美濃国 今城

今城 主郭跡

 所在地:岐阜県可児市今

駐車場:
御手洗:

 遺構保存度:
 公園整備度:

 あり
 なし

★★★☆
★★☆■■



「山城の名所」にある小さな名城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
可児市。岐阜県南部の市であるが、東を見れば岩村城のある恵那市や苗木城のある中津川市、すぐ西隣には犬山城のある
愛知県犬山市がある。また、南への街道を進み猿投(さなげ)を越えれば松平郷、その先には岡崎城のある愛知県岡崎市が。
つまりこの地域は、戦国時代において東に甲斐・信濃を押さえる武田氏が、南には三河の太守・松平(徳川)氏、そして西側に
尾張の織田氏が密接する地域であり、各勢力の挟間で土着の豪族が対応に苦慮する緊張度の高い場所だった。特に、武田
信玄が東美濃への侵攻を開始すると、可児周辺は織田家勢力圏の最前線かつ絶対国防圏となり、それに必要な城郭網が
整えられた。こうした城の跡は、現在でもなお明瞭な形で数多く残されており、可児市はちょっとした「山城名所」になっていて
自治体や地域団体も積極的にその観光利用を図るべく整備・保存に御尽力されている。今、可児と言えば山城の聖地であり
その中でも粒ぞろいの名城を、以下にいくつかご紹介致す。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
まず採り上げるのが今(いま)城。可児市の今と言う場所にある小さな山城だ。この城が築かれたのは戦国の争乱が激化する
天文年間(1532年〜1555年)、当地の国人・小池刑部家継(こいけいえつぐ)の手に拠ると言う。小池氏は遡ると鎌倉時代に
後鳥羽上皇の警護を担った北面の武士であったとか。伝統と格式ある家?だったのかもしれないが、戦国乱世の中では単に
地方の一豪族。織田信長が尾張から美濃へ進出するや家継もその支配下に入れられ、東濃を統べる織田家臣・森三左衛門
可成(もりよしなり)の指揮下に置かれていた。可成が1570年(元亀元年)9月20日に戦死すると、その地位は彼の遺児である
武蔵守長可(ながよし)に受け継がれた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところが本能寺の変が発生し信長が急死すると、美濃の国人らは動揺する。自立を志向する彼らは、これを好機と捉え長可へ
一斉に叛旗を翻した。されど長可は「鬼武蔵」と恐れられた剛の者である。信長没後なればこそ、地域の安定化は急務であり
こうした反乱勢力を瞬く間に平らげた。その為、家継は降伏せざるを得ず今城は廃城、小池氏は帰農したのでござった。■■
しかし廃城の後、1584年(天正12年)に起きた小牧・長久手の戦いに連動して今城は森氏の改修を受けたと見られている。森
長可は信長死後に羽柴筑前守秀吉へ与するようになったのだが、犬山のすぐ南が小牧、つまり徳川家康勢との最前線であり
また、先に記した通り可児から南へ直進すれば家康の本国・三河にも通じる位置。即ち、徳川軍の北上を阻止し東美濃を防衛
するにはこの地域の城を強化しなくてはならなかった為である。ただ、その後の歴史は定かならず、恐らくは何事もないままで
今度こそ廃城になったと思われる。以来、この小さな山城の跡は忘れ去られ、いつしか山頂には愛宕神社が鎮座するように
なったが、それも昭和の高度成長期の頃に廃社となったそうだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

小さいながらも作り込まれた縄張り■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
今城の城山は現在の唐澤集会所と浦無池(農業用溜池)の間に挟まれた南北に細長い低山でござるが、そのうち城地として
使用されたのは北半分だけである。山頂の標高は152.7m、山麓の集落が133m程なので比高20m程度の“小丘陵”なのだが、
山頂部一帯をほぼ方形の削平地として啓開し、これが主郭となり、その北側下段に二郭、これらの曲輪群の西側全体を塞ぎ
三郭が置かれている縄張り。各曲輪の間は空堀と切岸で明確に区分けされ、しかも主郭は西面(切岸で下段と隔絶)以外は
3方に分厚く高い土塁が構えられ、厳重な守りとなっている。特に、主郭の南端部は一段高い土塁(これが山頂となる)が構築
され(写真の東屋の向こうに見える土塁)、恐らくは物見櫓が建てられていたと想像出来る。しかも主郭本域との間には空堀が
あり、櫓台直下には空堀の対岸に小曲輪が削り残された形。果たしてこの小曲輪はどのような使われ方をしたのか?主郭へ
攻め上がる敵に対する伏兵を潜ませる逆襲曲輪か、はたまた何か備蓄用品を備えた物置か、或いは搦手に通じる脱出路か、
現地を見てみると色々な想像が湧いてくる(と言うか、謎が深まる)所である。なお、現状でこの小曲輪から直接切岸を三郭へ
下って行く通路状の起伏が見られるが、これは当時は無かったもので、三郭とは完全に隔絶した敷地だったのでござろう。■■
城山(山地の北半分)全体を囲うように帯曲輪や横堀、所によっては竪堀も構えられ、かなり技巧的な構造。主郭まで登るには
二郭、その前の三郭を順番に攻略していかねばならないが、三郭への入口(大手)には小さいながらも枡形虎口があったらしく
城郭愛好家ならば、どこを見ても感心させられる名城だ。小池家継が築いた“土豪の居館”と言う規模のまま、森長可が小牧の
戦場を睨む防御拠点として改造した履歴に合致する“良く作り込まれた城”だと言う事が一目瞭然である。城地の規模は東西
約60m×南北100m程度の小城だが、実に濃厚で興味深いオススメの城なのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■
城山は私有地なので、21世紀初頭までは整備もされず勝手な立入も憚られる場所だった。しかし2019年(令和元年)可児市で
山城サミットが開催される事となり、それに合わせて市内各所の城跡が整備・保全されるようになった。今城も一般開放されて
公園化も行われ、現状では気軽に散策できる程の見事な活用が図られるようになった。集落の中にある今公民館で駐車場が
用意され、そこに車を停めて5〜10分ほど歩けば城跡に辿り着ける。公民館から城跡までは順路案内もあり、見逃さなければ
問題なく登城できるだろう。ただ、その道は民家の間を通り抜けて行くものなので、駐車場を使わせて頂く事も含めてくれぐれも
節度ある見学を心掛けたい。と同時に、これほど綺麗な手入れをして下さっている地域の方々に大いなる感謝を申し上げる!



現存する遺構

井戸跡・堀・土塁・郭群等








美濃国 大森城

大森城 堡塁跡

 所在地:岐阜県可児市大森

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

★★★☆
■■■■



「奥村氏」の城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
続いて紹介するのは大森城。今城から北東へ約2.9km、大森地区の中にある大森神社の裏山が城址である。■■■■■■
正確な築城年は不明で、永禄年間(1558年〜1570年)に奥村又八郎元広が居住していたとされる。この奥村元広と言う者は
久々利(くくり)城(可児市内、下記)主・土岐三河守頼興(よりおき)の家老である奥村元信の子だそうで、遡れば久々利土岐
一族と言う話だ。大森城を築いたのはこの元広、若しくは父の元信と考えられている。■■■■■■■■■■■■■■■■
この奥村氏も織田信長の美濃進出に伴い支配下に入り、森長可の指揮下に置かれた。そして本能寺の変において森家への
反抗を企図し(元広は個人的に長可への恨みがあったとも)、討たれたという歴史を有す。今城の小池家継とほぼ同様である。
長可の家臣である林長兵衛・各務勘解由が率いる兵300が1582年(天正10年)6月25日に大森城を攻め落とした。■■■■■
森家による大森城討伐に際し、籠城する奥村元広は部下を叱咤激励し勇戦したと言うが、衆寡敵せずに敗退。負けを悟った
元広は自ら城に火をかけて逃亡したそうだ。逃げ延びた先は能登の前田家との事であるが、前田又左衛門利家の家老には
奥村助右衛門永福(ながとみ)が居り、同族だった?のであろうか、その縁を頼ったと考えられよう。戦国時代を描く劇画では
元広よりむしろ永福の方が有名なようなので、「奥村氏」と言うとついついそちらの方が頭をよぎる…のだが、果たして本当に
元広と永福に繋がりがあるのかは定かでない(前田家家老奥村氏は尾張に根付いていた一族である)。結局、前田家に寄宿
した元広は数年の後に辞し、可児の近郊である犬山へ舞い戻ったそうな。結果、末裔は商人や陶工として犬山で代を重ねた。
そして大森城だが、元広の逃亡・落城により廃城となったようだが、これまた小牧・長久手合戦の折に再利用されたとも。似た
地域にある似た城郭なのだから、今城と同じ運命を辿るのも然りと言うものなのでござろう。■■■■■■■■■■■■■■

見た目以上に大きく感じる城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
大森神社の裏山は南北に細長く、その南端部がU字形に屈曲し更に西側へ延びているのだが、城はそこまで使わずに東面の
「南北に細長い」部分だけを敷地としている。この部分に限って話をすると、東西80m弱×南北180m程の面積を有し、その中を
大きく3つの曲輪に分割している。中心にあるのがT郭(主郭)で、その北にU郭、反対に南がV郭と言う連郭式の縄張りだ。
U郭の東側下段にはW郭が付属、またV郭の南側(城域の最南端)にも馬出の如き出曲輪が備わる。各曲輪は複雑に屈曲し
各所から横矢が存分に掛けられるような工夫が見られる。そしてこれら曲輪群全体を囲うように横堀が巡り、更にその外周は
通路状の土塁列が取り巻いている。もちろん、それぞれの曲輪の辺縁にも土塁が囲んでいるのだが、主郭はむしろその土塁が
薄めな傾向にあるのが面白い。主郭に限っては土塁ではなく塀のような構造物で守っていたのかもしれない。主郭の大きさは
東西20m程度×南北およそ35m。山頂部(主郭)の標高は142.4m、山麓(大森神社境内)は110m前後なので比高差30m以上に
なるが、曲輪の直下にある横堀との比高差だけでも10mはあり、しかも切岸は急峻なので固い守りを想像させてくれる。また、
W郭の外には北へ落ちる道に通じる枡形虎口があり、その他にも各所に突出部の小曲輪が連なり、細かい所まで手を入れた
造作が良く分かる。このあたりはやはり小牧・長久手の折に森氏が手を入れた結果なのであろう。■■■■■■■■■■■■
横堀や外周土塁から曲輪群を見て回るのが最も分かり易い見学路だろうが、ここを歩いていると屈曲の為に見通しが利かず
さらに頭上の曲輪の圧迫感から相当に巨大な城郭だと思えてくる。実際には今城を一回り大きくした程度なのに、3倍も4倍も
あるような錯覚を受けてしまう。極めつけは横堀の中に屹立する堡塁状の土塁(写真)。堀の中からは“目隠し塁”として機能し
塁上からは言うまでも無く眼下の射撃陣地として効果を発揮するのだが、その位置や形状から、武田系城郭の白眉である丸子
(まりこ)城(静岡県静岡市駿河区)にある半円堡塁を更に巨大化させたもののように感じられる。即ち、この城の構造は非常に
「攻撃的な防御」を志向している訳である。横堀の中に居ると惑わされる“迷路感”も、しつこい程に多重の堀を巡らせた小幡城
(茨城県東茨城郡茨城町)に似ており、丸子城や小幡城ほどの知名度が無い城ではあるがそれらに負けない“重装備な城”が
隠されていたのかと感動できるのが大森城の良さでござろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1973年(昭和48年)当時の可児町によって主郭の発掘調査が行われ、大甕・擂鉢・土瓶・茶碗などの陶片が発見された。更に
川原石で組まれた炉の跡も確認され、城内での生活が営まれていた様子が分かる。また、焼米も出ている事から奥村元広が
落城時に城を自焼させたという伝承も正しいと考えられよう。2003年(平成15年)にも城跡の再調査が行われている。■■■■
1972年(昭和47年)2月1日、可児町(当時)の史跡に指定され、現在は可児市史跡となっている。今城に比べて史跡の整備や
公園化は遅れ気味のようだが、それでも大森神社内に解説看板があって見学は可能。車も神社駐車場に停められる。神社の
境内を左手に(南へ)向かって突き進むと次第に山へ分け入る路となり、それを登るとV郭周辺(城址南端部)に辿り着く。後は
解説看板にある縄張図と見比べながら城内各所を順番に見て回れば良うござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

井戸跡・堀・土塁・郭群等
城域内は市指定史跡








美濃国 下切城(岡田将監屋敷)

下切城(岡田将監屋敷)址

 所在地:岐阜県可児市下切

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

■■■■
■■■■



岡田将監の出自■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
下切(しもぎり)館とも。可児市下切地区、下切下公民館の南に庭球場がござれば、その一帯が城跡(館跡)とされる。■■■
人名と地名からお分かりだと思うが、岡田将監(しょうげん)なる人物が下切の地に築いた城館、と言う事である。では、その
岡田将監がどのような者かと言う処から話を始めたい。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
実は、ここで示す岡田将監と言うのは岡田伊勢守善同(よしあつ)とその子・豊前守善政(よしまさ)の2代を指す。2人とも通称
将監、父子揃って江戸幕府草創期の美濃郡代(美濃国代官)であった。父の岡田善同は尾張出身で織田信長の家臣、兄に
長門守重孝(しげたか)が居る。岡田重孝と言う名前、歴史に詳しい方ならば聞き覚えがあるやも。信長の2男・北畠三介信雄
(のぶかつ)の家老で、信長没後の情勢において羽柴筑前守秀吉に通じた事から信雄に切腹させられた“三家老”の1人だ。
重孝を誅した事が小牧・長久手の戦いを勃発させる導火線になった―――先程から何度となく出て来る小牧・長久手合戦に
僅かながら(本当にごく僅かだが)この城も関連すると言う事なのだが、これはあくまでも余録的なお話。■■■■■■■■■
話を善同に戻すと、兄・重孝が北畠信雄に仕えたのに対し、弟の彼は佐々内蔵助成政(さっさなりまさ)の家臣となった。信雄
同様、成政も秀吉と敵対した人物であり、結果的に佐々家は滅び、それを機に善同も浪人する事となる。諸国流浪の後、徳川
家康に召し抱えられ、関ヶ原の戦いでも武功を挙げた。それにより5000石の旗本となり、美濃国可児郡・羽栗郡に領地を得て
1600年(慶長5年)頃に築いたのがこの下切城と言う訳だが、旗本居館であるため「城」と言うよりは「館」あるいは「陣屋」だと
考えるのが妥当な所であろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

美濃郡代としての活躍■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
善同は有能な官僚でもあったらしく、名古屋城(愛知県名古屋市中区)の普請奉行、大坂の陣における陣奉行、はたまた伊勢
山田奉行にも任ぜられ、当時の伊勢神宮造営に携わった。そして1613年(慶長18年)からは美濃郡代(美濃国代官)となって
美濃から尾張にかけての天領における統治施策を担った。特に彼の功績とされるのが治水対策で、木曽三川における堤防
構築と、その運用に関連して「濃州国法」と呼ばれる美濃独自の普請制度を定めた事だとか。この濃州国法は、それ故に将監
国法とも呼ばれる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
善同は1629年(寛永6年)に没したとも、1631年(寛永8年)に没したとも言われるが、彼の跡を継いで美濃の天領統治に活躍
したのが善政であった。話によれば善政は1605年(慶長10年)美濃産まれと言い、生粋の美濃人、恐らくはこの城で誕生した
ものと思われる。彼も父に劣らぬ有能な官僚で、濃州国法の策定や木曽三川独自の堤防「猿尾堤(さるおづつみ)」を考案した
のは、実は善政であったとの説もある。岡田将監、つまり善同・善政父子は木曽三川の治水に尽力した神様として今なおこの
地域で語り継がれている偉人でござる。ただ、1631年に岡田家は所領替えとなり同じ美濃国内の揖斐郡で5300石を与えられる
事となった。それにより岡田善同(生存していたとする説に於いて)は揖斐陣屋(岐阜県揖斐郡揖斐川町)へと居を移し、この
下切城は廃城になった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

“治水の神様”の城跡■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
下切城は標高124.1m(比高差30m程度)の小丘陵を使って構えられたものだが、この山は直径100m弱しかない狭い敷地だ。
曲輪をいくつも並べるような山容ではなく、実質的に山麓部で居館を建てた程度のものだったであろうが、その敷地も現状は
冒頭に記した如く庭球場となっているので、目立つ遺構は皆無。部分的に石垣があるのだが、これは当時のものかどうかよく
分からない。また、山中には城の井戸が今でも残っているそうだが、これまた私有地内なのであまり深入り出来そうに無い。
ただ、地域の名士に所縁の場所として可児市では1972年2月1日に町指定(当時)史跡とし、1985年(昭和60年)に発掘調査も
行われた。その結果、織部の釉薬を塗った緑色の瓦が出土し、伝承では3階建ての建物もあったとされている。織部の緑瓦は
江戸城(東京都千代田区)に使われたものと同じ美濃窯産だと言われ、江戸幕府の遠国代官である岡田氏の権威を示すのに
相応しい陣屋が構えられていたと推測できよう。これらの出土品も1990年(平成2年)3月30日、可児市の重要文化財に指定。
なにぶん現状では私有地であるため、明瞭な史跡整備はされておらず写真にある史跡標柱が1本立つのみだが、最近は少し
手入れがされたようで、この標柱が綺麗に見えるようになっているとかいないとか?とりあえず、何も無くなった陣屋址ながら
井戸だけは残されていると言うのが“治水の神様”岡田将監の遺徳を讃えているように思えるのだが…。■■■■■■■■■



現存する遺構

井戸跡・郭群等
城域内は市指定史跡








美濃国 徳野陣屋

徳野陣屋址

 所在地:岐阜県可児市下恵土

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

■■■■
■■■■



「関ヶ原のキーパーソン」のキーパーソン■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
「関ヶ原の戦い」―――豊臣秀吉没後、天下の主導権をかけて内大臣・徳川家康と石田治部少輔三成が戦い、勝利した
家康が征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開くに至った“天下分け目”の決戦…と云うのは日本人なら(程度の差はあれ)
誰しも知っている事であろう(義務教育で習います)。その戦いの中、西軍(三成方)に与していながら戦況を日和見し、
戦いの最中に東軍(家康方)へ寝返り、西軍壊滅の原因を作った“裏切者”金吾中納言こと小早川秀秋の名もまた誰もが
知っている(彼の動向や去就には諸説あるとして)だろう。関ヶ原の勝敗を左右した秀秋であるが、彼の家老として東軍へ
寝返る事を“進言”した平岡石見守頼勝(ひらおかよりかつ)の存在となると…歴史に詳しい方でなければあまり知らない
かもしれないが、ここ徳野陣屋はその平岡頼勝が構えた陣屋でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
秀秋はその“裏切りの戦功”で備前国岡山(岡山県岡山市)55万石の大封を得、頼勝も備前国内において2万石の領地を
与えられた。しかしその直後、秀秋は謎の死を遂げ小早川家は断絶する。主君を失った頼勝は浪々の身となってしまうが
“関ヶ原影の功労者”である頼勝を徳川家康が召し出し、1604年(慶長9年)8月に美濃国可児郡で1万石を与えられる。
こうして築かれたのが徳野陣屋である。頼勝が1万石の独立大名となったため、ここは徳野藩の藩庁とされ、彼が1607年
(慶長12年)2月24日に没すると、跡を長男の石見守頼資(よりすけ)が継いだ。この時、頼資は僅か3歳であったと言う。
ところがその頼資も1653年(承応2年)に亡くなると、平岡家は家督争いを引き起こしてしまった。長男で庶子の新十郎と、
2男で嫡子の市十郎頼重(よりしげ)が対立するも、頼資が跡継ぎを定めていなかった事から幕府は平岡家を取り潰した。
そのため徳野藩は廃絶し、陣屋は藩庁としての役割を終えたのである。但し、嫡子である事から後に頼重は1000石だけ
所領を保ち旗本としてその家系は存続している。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

ここにも出てくる岡田将監■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
平岡家の改易により“空き家”となった徳野陣屋であるが、ちょうど時を前後して下切城の岡田家が封を移された。父の
岡田善同は揖斐陣屋へ転居したと伝わるが、子の善政はこの徳野陣屋に入ったそうでござる。以来、徳野陣屋は美濃
代官所として天領支配の中枢となるものの1660年(万治3年)善政は幕府の勘定奉行へと昇進し、後任の美濃郡代として
名取半左衛門長知(ながとも)が任じられた。しかし長知の主な所領は可児郡ではなく西濃にあり、また善政の頃に木曽
三川治水工事の拠点として羽栗郡傘町に仮陣屋を置いていた事から、1662年(寛文2年)に美濃代官所の機能を傘町へ
正式移転させた。この時、徳野陣屋にあった玄関・書院・陣屋門などを移築し、同時に傘町の地名を笠松と改めている。
この移転先の陣屋が笠松陣屋(岐阜県羽島郡笠松町)で、以後そちらが美濃天領を統治する本拠となったのだが、徳野
陣屋は廃絶した訳では無く、陣屋守の大久保氏が明治まで管理したと言う。徳野陣屋は役人が当地を訪れた際の宿館と
して使われ大正時代くらいまでいくつかの建物は残存したそうだが、現在では辺り一面住宅地となり、目に見える遺構は
全く残されていない(大久保家敷地に井戸が残るそうだが)。また、笠松陣屋も1833年(天保4年)1月29日の夜に火災で
全焼しており、移築遺構も滅された。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

地下に残されている陣屋の敷地■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1746年(延享3年)に制作された屋敷絵図によると、陣屋敷地は250m四方の範囲に2重の土塁を巡らせ、その中に屋敷を
配置していたそうだが、現状ではその敷地は大半が畑と住宅地になっている。ただ、当時の土層は完全に埋没している為
むしろ土中の遺構は綺麗に残されている模様。場所は国道248号線「徳野南」交差点から、北西へ分かれた道を500m程
進んだ付近。某有名弦楽器製造会社の工場がある手前に写真の案内板と史跡保全の空き地がささやかに鎮座しているが
2007年(平成19年)その周辺で下水道管敷設工事が行われ、本工事に先立ちその年の1月26日〜2月7日にかけて遺跡
調査が為された。それによると陣屋遺構面は現在の地表面から40cm〜60cm下にあり、陣屋の堀址はそこから更に深く
掘り込まれ、地表面から2m以上に達する事が確認されている。調査試掘では約2mまで掘り下げたものの、堀底には達し
なかったそうである。特に遺物は出なかったようだが、昔の地籍図と試掘による曲輪や堀の形状は一致し、陣屋を描いた
絵図は概ね正しい事は確認できた。地籍図にある堀は陣屋を取り囲んでいたのみならず、それより広範囲に延びており
今後の調査に於いて、その規模や構造が解明される事に期待したい。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1972年3月20日、可児町(当時)史跡に指定されており申す。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

井戸跡
城域内は市指定史跡








美濃国 久々利城

久々利城址

 所在地:岐阜県可児市久々利

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★★
★★★■■



因果応報―――酒宴で謀殺し、酒宴に謀殺された久々利頼興■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
南北朝時代に美濃守護・土岐氏の一族である土岐悪五郎康貞(やすさだ)が築いたと言う。詳しい築城年代などは不明だが
以後、その子・康頼(やすより)の子孫が久々利土岐氏となってこの城を継承。久々利氏は代々「悪五郎」を名乗ったものの
この「悪」と言うのは「悪い」という意味ではなく当時の慣習で「強い」という意味である。そんな“強い”久々利土岐氏は、戦国
時代になると美濃国主・斎藤氏の配下になっていた。“美濃の蝮”こと斎藤道三の猶子である斎藤大納言正義(まさよし)に
従っていた久々利頼興だが、何があったか1548年(天文17年)2月25日、その正義を謀殺した。この時、頼興は酒宴を催すと
して正義を久々利城へおびき寄せ、酔い潰した所で殺害したそうだ。だが、正義の義父(つまり美濃の主)である筈の道三は
頼興を咎めるでもなくそのままにしている事から、この暗殺劇は道三の指示によるものと見る説もある。■■■■■■■■■
ところが道三も嫡子の治部大輔義龍(よしたつ)に敗死し、美濃斎藤家は崩壊の途を辿る。その結果、織田信長の侵攻を受け
可児周辺は信長家臣である森可成・長可の支配下に入ったと言うのは先述の通り。織田家の美濃侵攻に際し久々利頼興ら
国衆は東の甲斐武田氏に誼を通じて保身を図ろうとしたが、結局美濃は織田家の領土となり、信長へ従属するようになった。
そして頼興が信長没後に森家の粛清を受けたと言うのも、他の国人と同じである。以下にその詳細を記そう。■■■■■■■
本能寺の変の直後、美濃の国衆はこぞって森家へ叛旗を翻した。久々利氏もその一端を担ったが、圧倒的軍事力を有する
長可はこれらを各個撃破。久々利城も落城寸前まで追い込まれた。だが多くの敵を相手にする不利に、長可は弟の仙千代を
人質として頼興に預ける事を証し、決戦せず和議に持ち込んだ。辛くも落城を免れた頼興は、再び森家へ臣従すると約す。
そして1583年(天正11年)正月、新年祝賀の宴と来たるべき森家による飛騨侵攻の軍議を兼ねた催しに久々利頼興は長可の
居城・兼山城(美濃金山城、可児市内)へ呼び出された。ひとしきり酒を浴び、酔った頼興が酩酊しながら宴を去って居城の
久々利城へ帰ろうとしていた宵闇の中、兼山城の杉ヶ洞口で森家家臣・加木屋宇右衛門正則(かぎやまさのり)に襲われた。
正則の父は加木屋正次、幼名を亀若と言う。その亀若の父は斎藤正義。つまり、正則は正義の孫である。酒で正義を殺した
頼興が、酒でその孫に殺される―――因果は巡るものだが、自分が使った手段で自分が討たれるとは思っていなかったのか
はたまた、そうなる事を覚悟の上で兼山城へ行かざるを得ない事情があったのか?もちろん、正則の仇討ちをお膳立てした
黒幕は森長可である。前年の国人蜂起においては少しでも早く平定せねばならず和議を結んだが、一度裏切った一豪族を
信用などしていなかったのだろう。言うまでも無く、頼興の許へ送り込んだ人質の仙千代は真っ赤なニセモノである。なお、
本物の仙千代は長可が長久手合戦で戦死した後に森家を相続した右近丞忠政(ただまさ)となる。また、頼興の2人の子は
久々利城を落ち延びたそうだが、その後の行方は分からない。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
斯くして久々利土岐氏は滅亡し、久々利城は森家が接収。忠政家臣の戸田勘左衛門が城代となった。その森家は1600年2月
国替えで信濃国川中島(長野県長野市)へ移る事となり、その折に久々利城は廃城になったと見られてござる。■■■■■■

全国でも珍しい“専属スポンサーのいる城”■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
久々利城は可児市の東部、久々利地区の集落北側にある小山が城址となっている。久々利地区内に可児市の郷土歴史館が
あり、建物のすぐ北側(岐阜県道84号線を渡った所)に登城口がある。ここから散策路が山に向かって整備されており、順路に
従い登って行けば枡形虎口のある大手口→三郭→二郭→主郭→(現在は「天空見張郭」と言う風雅な名が付けられた)出丸と
この城の曲輪を余す事無く見学できるようになっている。この小山は北の主山塊から延びる舌状台地で、出丸は標高201.2mを
指す山頂、その下に主郭〜二郭〜三郭が梯郭式に段を作る。各曲輪の間は急峻な高い切岸で隔絶しており、直登するのは
無理であろう。必然的に登城路を辿って攻略するしかない構造になっている訳だが、大小合わせて10あると言う曲輪群が連携
して行く手を遮るので、なかなかの威容を誇る縄張りとなっている。また、出丸から折り返して西側にも一列の尾根筋が延び、
そちら側には城主一族の居館が置かれていたと考えられているようだが、この西尾根は主戦闘曲輪群である東尾根を牽制し
相互補完できるような纏まりが出来上がっていた。更に、出丸の前後にはしっかりとした堀切列が穿たれ、仮に片方の尾根が
失陥したとしても、山頂を回り込んで敵兵が入ってくる事を阻止するようになっている。この他、城内各所に竪堀や敵の侵入を
制約する細い土橋が散りばめられており、横矢も随所で掛かり見ていて飽きない城址だと言える。■■■■■■■■■■■
郷土歴史館の辺りは家臣屋敷、久々利地区の住宅地は元久々利(久々利地区の中でも最も古くから中心街となった地域)の
城下町となっていたようで、名族・土岐一族である久々利氏の城、或いは強大な戦国大名である森家の統治下にあったこの
場所が古くから集権体制を整えていた様子を物語る。来訪時には郷土歴史館の駐車場に車を停める事が可能だ。■■■■
さて、そんな久々利城址は21世紀初頭まであまり手入れのされていない城跡であったそうだが、平成後期から一気に保全や
整備が進められた。現在では初心者から上級者まで誰もが楽しめる程に行き届いた見事な城址公園に変貌している。それと
言うのも、可児市が“山城行政”に積極的となったからだけでなく、元久々利地区で地元住民の方々が町づくりや景観保護の
運動を熱心に行って下さった結果である。市では予てから景観計画を策定し、その中で元久々利が景観形成重点地区になり
2013年(平成25年)「元久々利まちづくり委員会」が発足した。住民の方々の意識高揚、景観保全の規定づくり、各種催事の
開催や啓蒙活動が行われる中、久々利城址の整備保護にも熱心に御尽力下さり、2015年(平成27年)には「久々利城跡城守
(しろもり)隊」を組織された。これに城山の土地所有者である地元の大企業、株式会社パロマ(あのガス給湯器具の大会社)が
協賛し、同年に可児市・元久々利まちづくり委員会・株式会社パロマの3者により「久々利城跡の整備・活用に関する協定」が
締結された。行政、地域住民、企業による相互補助は史跡整備に大きな原動力となり、今では見事な城址公園が完成したので
ある。この城跡整備活動は2019年度の都市景観大賞「景観まちづくり活動・教育部門」で大賞(国土交通大臣賞)を受賞した。
久々利城址の整備状況は国史跡の城跡に負けない程に良いもので、城内各所にはパロマから寄贈された案内看板が豊富に
設置され、実に見易いものとなっている。さすが有名企業がスポンサーに付いているとこんなに凄いものが出来上がるのかと
城の縄張りの良さだけでなく、可児市の史跡行政にも感心させられる名城。それでいてこの城は市史跡にすら指定されてなく、
これはどういう事なのか、悩んでしまうところも(笑) 何はともあれ、名城揃いの可児市の中でもピカ一の城なので、地元住民の
方々やパロマさんに感謝と敬意を払いつつ、是非見学して頂きたい山城でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

井戸跡・堀・石垣・土塁・郭群等








美濃国 千村陣屋

千村氏屋敷跡

 所在地:岐阜県可児市久々利

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

■■■■
■■■■



尾張徳川家附の旗本屋敷■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
久々利陣屋、千村(ちむら)氏屋敷とも。その名の通り、徳川幕府旗本・千村氏の屋敷跡。■■■■■■■■■■■■■■
この館を築いた人物は千村平右衛門良重(ちむらよししげ)。父は掃部助政直と言い、良重は彼の2男であった。千村家は
遡ると信州木曽の名族・木曽氏の分流だとされ、良重も元は木曽家の家臣だった。その木曽家は源平合戦期の勇将である
旭将軍・木曽義仲の末裔だとされるが、義仲が源頼朝との抗争で戦死した後、一族は関東に隠棲した。この折、千村家祖の
木曾五郎家重は上野国千村郷に居住した事から千村氏を称したそうだ。後に木曽一族は信州木曽に戻り、千村氏もそれに
付き従い、家老になっている。政直には長男の掃部助政勝が居たのだが、戦死したため良重が家督を継いだものである。
木曽氏は地勢から戦国時代には甲斐武田家に従属していたが、織田信長の甲斐侵攻の折にいち早く寝返り、武田家滅亡の
原因を作った。その信長も本能寺の変で斃れ、結局(紆余曲折の後)徳川家康の臣下に入る事となり、1590年(天正18年)に
家康が関東へ移封されるとそれに従い、木曽家臣である良重も下総国阿知戸(千葉県旭市イ(網戸区))に移っている。だが
1600年、当時の木曽氏当主・伊予守義利(よしとし)は不行状を理由に改易(取り潰し)されてしまった。これにより義利本人は
浪人に落ちぶれ何処かへ去っていくものの、残された木曽家臣団(木曽衆)の多くは徳川家康に召し出されている。時おりしも
関ヶ原合戦の直前。少しでも戦力を強化したい家康の意向が色濃く反映された結果だろう。千村良重も東軍に加わる訳だが
小山評定で東軍の軍勢が西へ反転し決戦場へ向かう中、徳川家の主力を率いた徳川秀忠の軍勢3万8000は中山道を進み
美濃を目指す事となった。それは即ち木曽路を越える行軍になるため、現地の情勢に詳しい良重は秀忠軍の先導役として
用いられたのである。秀忠軍は上田城(長野県上田市)の戦いで足止めされ結果的に関ヶ原本戦には間に合わなかったが
良重は木曽や東濃の各所に影響力を及ぼし、西軍方にあった将を寝返らせたり苗木城(岐阜県中津川市)や岩村城(岐阜県
恵那市)の攻略に戦功を挙げたのである。戦後、これらの功績が評価され良重は美濃国内各所で計4600石の知行を受ける
交代寄合旗本になり、その本拠として築かれたのがこの千村陣屋でござった。1601年(慶長6年)2月の事だと言う。■■■■
良重は自身の領地の他、幕府領にあった信濃国伊那郡の委任統治や遠江国における榑木(くれぎ)奉行(幕府直轄山林で
産出される規格材の管理)の役も兼任した。木曽氏宗家が滅んだ後、木曽の名族としての地位を認められての人事であった。
この後、大坂の陣でも戦功を挙げた良重はより一層の重鎮として認められ、それ故に御三家筆頭・尾張徳川家から熱望され
1619年(元和5年)尾張家の家臣という位置付けになった。木曽は尾張藩領に組入れられていた為、その地に伝統的権威を
有した千村家が尾張家中に従属する事は尾張藩の正当性を高めるのに必須と考えられたからだった。以後、尾張藩重臣と
して千村平右衛門家は存続する。但し、幕府から預かった職もそのまま継続とされ、この家は尾張藩と幕府に両属のような
状態が維持されたそうである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
良重は1630年(寛永7年)9月22日に没し、その後は重長―基寛―仲興(なかおき)―仲成―政成―政武―頼久―頼房―
仲雄―仲泰―仲展(木曽に復姓)と続き明治を迎えている。代々「平右衛門」を名乗った。■■■■■■■■■■■■■■■

この石垣が残存遺構?■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
久々利城の城山南麓、可児市郷土歴史館や久々利地区センター、可児市立久々利保育園の建ち並ぶ区画が陣屋の上屋敷、
その北西側に隣接する「久々利歴史の郷『春秋園』」と言う観光施設一帯が下屋敷であった。この場所は旧久々利城を背に
南側には久々利川が流れ、陣屋とは言え山城と天然の濠を構えた険要の地という事になる。その敷地規模は江戸時代中期
尾張藩の農政家・樋口好古(ひぐちよしふる)が記した地誌「濃州徇行記」に東西約300m×南北約270mあったとされており、
「郭外壕ありて城郭の如し」と描かれている。この規模は現状の可児市郷土歴史館〜春秋園の範囲とほぼ一致し、上屋敷と
下屋敷、それに庭園を備える立派なものであった。上屋敷には20以上の部屋を有す御殿があり、政務の場と領主が生活する
奥向きの場に分かれていたが、特に政務の場は「久々利役所」と称され家老の部屋や勘定所などがあった。敷地の西端が
大手門、そこから東に向かって書院・靭ノ間・鎗ノ間・使者ノ間・白洲・家老ノ間・勘定方と言った政務施設が並び、その奥には
台所・溜ノ間・納戸・湯殿・茶ノ間・三ノ間〜一ノ間・持仏堂と言った奥向きの間があった。敷地の西端に屋敷神の神社と裏門。
南面には馬屋や薪小屋と言った附属施設があり、上屋敷の全体が石垣と堀で囲まれていた。■■■■■■■■■■■■■
対する下屋敷は隠居や部屋住みの者が生活の場とした居住区で、これに付随して池泉回遊式庭園の春秋園が並んでいる。
写真は上屋敷の大手口付近に建てられた史跡標柱と案内板であるが、この後ろに低いながら石垣が構築されている。上屋敷
全体は石垣で囲まれていたと記したが、どうやらこの石垣が残存遺構らしい。但し、後世の積直しが為された部分や、反対に
石材が撤去されて内部の堤が土塁の如く残されている場所(よって、土塁ではなく本来は石垣)もあるので、どこまでが元来
あった構造物なのか判断が難しい。とりあえず、可児市郷土歴史館の南側にある道路(久々利川の河畔に沿った細道)では
2006年(平成18年)石垣補修工事に伴い試掘調査を行っており、現状にある石垣のうち一部と、地中にある石垣基底部にて
陣屋使用期以来の石材が残存している事を確認しているので、この部分の石垣は当時のものと見て間違いないだろう。■■
裏山にある久々利城は有事の際に再利用するつもりだった?と想像も出来るが、そちらは史跡指定されていないと記したのに
対し、こちらの陣屋跡は千村氏屋敷跡の名称で1972年2月1日に可児町(当時)指定史跡となっている。遺構の残り具合は断然
山城部の方が良好だと思うのだが…(苦笑) この他、春秋園庭園は1995年(平成7年)5月1日、可児市の名勝に指定。■■■



現存する遺構

石垣・庭園
陣屋域内は市指定史跡
春秋園庭園は市指定名勝




飯羽間城  美濃金山城周辺諸城郭