美濃国 飯羽間城

飯羽間城跡

 所在地:岐阜県恵那市岩村町飯羽間
 (旧 岐阜県恵那郡岩村町飯羽間)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

★★☆■■
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小さな丘城に遠山氏の分家が■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
いいばまじょう、と読み申す。飯場・飯間・飯狭などと表記される事も。■■■■■■■■■■■■■■■■
岐阜県道406号線沿い、岩村町飯羽間の上切公民館手前にあるクランク状の交差点脇に控える小山が城址。
県道に面した場所に看板(写真)があるので見付けるのは比較的容易なのだが、登城口が風雨で崩落して
しまっているため、中へ入るには裏手へ回り込まねばならず注意が必要だ。この場所は岩村城(恵那市内)の
北西約3kmの位置にあり、比高30mほどの舌状台地を巧みに利用した平山城。当地域の城址は大半が山城で
あるのに対し、平山城なのは珍しい。周囲が切り立った断崖になっていながら、頂部は比較的平坦な地形に
なっている丘は城郭を構えるのに適した地形であると言え、また、城の外部は小盆地状の水田耕作地なので
低山ながら独立峰のような状況にあるのが城地として選定された理由でござろう。■■■■■■■■■■■
城山の直下には飯羽間川が流れ、天然の濠を為している。なだらかな山上部分の中に、最高所である本丸を
囲うように二ノ曲輪や三ノ曲輪、その他の小曲輪などが段を下げて縄張りされており申す。更には谷を隔てて
出曲輪となる捨て曲輪まであったとか。加えて枝城や物見台までもが用意され、この規模の平山城にしては
随分と欲張った構造を有していると言えよう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
御多分に漏れず、周辺諸城と同様この城も遠山氏の城。鎌倉期に岩村城を構えた遠山氏は、一門に支城を
築かせその地の支配を行わせ分家を多数派生させた訳だが(岩村城・苗木城などの頁を参照)飯羽間城も
これと同じ手法で築かれた。岩村城の支城は“岩村十八城”と数えられるほどに多かった訳だが、その中で
飯羽間城は岩村城に最も近い位置にあり、重要度は高かったのでござろう。■■■■■■■■■■■■■
飯羽間城主を担った遠山氏の分家は飯羽間遠山氏を名乗り申した。遠山一門の中でも重きを為した7家は
“七遠山”と呼ばれたが、飯羽間遠山氏はその中の一つに入っている。飯羽間遠山氏が本家から分流した
年代や飯羽間城の築城年に関して正確な記録は残されていないが、室町中期の記録「永享以来御番帳」に
拠れば、1431年(永享3年)将軍奉公衆の中に遠山飯間(飯羽間)宮内少輔の名がある。■■■■■■■■
また、1487年(長享元年)に時の将軍・足利義尚が反幕府の姿勢をとった近江守護・六角氏を討伐した際、
飯間孫三郎が美濃遠山勢として従軍、将軍方に与力していたという。■■■■■■■■■■■■■■■
いずれの記録でも飯羽間遠山氏は将軍に近い存在として登場しており、美濃遠山氏を代表して幕府内で
大きな力を持っていた様子が伺える。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

幕府がアテにならなくなる時代■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
とは言え、この後に幕府権力は没落。戦国動乱は全国的な広がりを見せ、美濃の東部は尾張の織田信長と
甲斐の武田信玄が領土争いを行う最前線になってしまった。領地の保全に腐心する遠山氏は、両者の間で
激動の時代を迎える。時の飯羽間城主・遠山右衛門佐友勝は(この頃に飯羽間城が作られたと見る説もある)
1570年(元亀元年、1572年(元亀3年)の説もあり)苗木城(岐阜県中津川市)主・遠山左近助直廉(なおかど)が
嗣子なく没した事から苗木遠山家を継承し、嫡男・久兵衛尉友忠に飯羽間城を譲った。しかし程なく友勝も
没した為、今度は友忠が苗木城主となり、嫡子・友政を連れて苗木へ移る。その結果、友忠の庶長子である
友信が飯羽間城の主になり申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
時おりしも織田と武田の争いが最も激しくなった頃の事。織田方についていた遠山一門は、武田軍の猛攻に
曝される時期でござった。本家である岩村遠山氏は家が絶えて武田方に屈服、明知城(恵那市内)も1574年
(天正2年)春に落城した。飯羽間城もこうした戦乱の中で滅びの時を迎えていくが、記録には様々な伝聞が
残され、正確な状況がよく分かっていない。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
明知城の攻防において、明知城内で武田方と戦っていた軍勢の中に飯羽間城主の飯羽間右衛門なる人物が
居たものの、彼が武田に寝返ったために明知城は落城に至ったという説がある。しかし、この飯羽間右衛門が
友信の事を指しているのかは不明。飯羽間右衛門は武田方に仕えるようになったが、後に織田軍が逆襲へ転じ
武田軍を圧倒し信濃・甲斐へと進撃、1582年(天正10年)とうとう武田氏は滅亡に至る。織田信長の伝記である
「信長公記(しんちょうこうき)」に拠れば、武田方滅亡時に右衛門は捕らえられ信長に処刑された、とある。■■
一方で、武田氏の軍記「甲陽軍鑑」では1574年に武田勝頼の命で東濃侵攻が行われて飯羽間城が陥落したと
記され、城主・遠山右衛門佐が生け捕りにされたという。当時、この城には織田方から派遣された14騎の武者と
城兵350人余が籠城していたが、彼らは全滅し、土蔵に隠れていた右衛門佐が武田軍に捕らえられたとの事。
これまた、右衛門佐の正体には諸説あり、友信とする考えもあれば、遠山信次なる人物だとも言われる。また、
信次とは信長の叔父・織田信次の事だという話も取り沙汰される。いずれにせよ詳細はわからない。■■■■
兎にも角にも、1574年時点での武田軍侵攻によって明知城・飯羽間城共に落城し、この時を以って飯羽間城は
廃城になった模様。だが明知城や岩村城は存城とされ、苗木城は落城せず織田方の橋頭堡として頑強に抵抗、
遂に苗木遠山氏は江戸時代まで家を繋いだ。その苗木遠山氏、友勝・友忠・友政の3代は上記した通り、飯羽間
遠山氏の出自でござる。飯羽間遠山氏自体は滅んでしまったが、その血脈は苗木遠山氏に受け継がれ後世に
残された。歴史の有為転変を物語る城址、それこそが飯羽間城なのでござる。■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群等




明知周辺城砦群  駿府城(駿府館)・丸子城・持舟城