美濃国 明知陣屋

明知陣屋跡 村上家土蔵

所在地:岐阜県恵那市明智町
(旧 岐阜県恵那郡明智町)

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:★☆■■■
公園整備度:★■■■■


現存する遺構

土蔵・井戸跡・堀・石垣・土塁・郭群等




美濃国 遠山氏屋敷

遠山氏屋敷跡

所在地:岐阜県恵那市明智町
(旧 岐阜県恵那郡明智町)

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:☆■■■■
公園整備度:☆■■■■


現存する遺構

塀跡



明知遠山氏を受け継いだ遠山勘右衛門利景は、戦国の争乱をくぐり抜け
関ヶ原合戦で旧城・明知城を回復、徳川家旗本としての地位を確立した。
(詳細は明知城の頁を参照されたい)
1612年(慶長17年)に没した利景の跡は方景が継ぎ、遺領6530石を相続。
しかし元和偃武により各地の城郭は上要となり、1615年(元和元年)
徳川幕府により一国一城令が発布された。これにより明知城は廃城。
明知城に代わる新たな当地拠点として築かれたのが明知陣屋。
また、交代寄合旗本として江戸参勤を行う明知遠山氏が
領国帰国時に居館としたのが遠山氏屋敷でござった。
陣屋は旧明知城大手門の脇に構えられ、屋敷はそこから
南西へ下った位置にある。興味深いのは、殿様の邸宅である
遠山氏屋敷よりも、代官所である明知陣屋の方が標高の高い位置にある事。
戦国乱世の時代ならば、城主は最も要害(=高い位置)に控え
家臣はそれより下段で守りを固めるのが通例であるが、その逆になるのは
陣屋や屋敷が設置された年代が、既に天下泰平の決した時代という証であろう。
陣屋に居を構え、代々に渡って明知代官を務めたのが村上家。
現在に至るも、村上家は陣屋跡地に居住している。
典型的な方形館の構造になっている明知陣屋は、正面となる西側に
濠を穿ち、内部に役宅となる御書院などの建物や
米の収蔵などに用いる土蔵(写真)が軒を連ねる。
井戸や池なども複数点在。また、敷地の北側にはみ出る形で馬場や
調練場もあり、このあたりは尚武の気風を残した作りになっている。
陣屋南東外縁には天神社、敷地内北側には豊国稲荷社が鎮座。
神仏の加護を求め、礼節を整えるのも武家居館の典型例と言えよう。
南東側は搦手口、北側がかつての明知城へ続く抜け道になっており
西側に通じる正門(旧明知城大手門)は折れ曲がり虎口を経て
城下町に繋がる本町通りや上町通りに接続してござる。
その接続部には高札場があり、現在は冠木門が復元されている。
一方、遠山氏屋敷跡には現状見るべきものはほとんど無い。
明智川に面した屋敷跡は駐車場になっており(写真)、観光客向けの
案内板が立てられている事でようやくその場所を知る事が出来るのみ。
かつて、屋敷の塀が構築されていた痕跡だけが残っているのだが
(写真奥、駐車している車の向こう側にある塀がそれ)
これとて、言われなければ何の事やらわからない (^ ^;
ともあれ、この屋敷に在住した遠山氏は、2代当主・勘右衛門方景から
3代・勘右衛門長景、4代・半九郎伊次(これつぐ)、5代・伊清(これきよ)
6代・左京景泥、7代・民部景逵(かげみち)、8代・隼人伊氐(これもと)
9代・主水景祥(かげみち)と代を重ねていく。最終的に、明治維新時には
12代・益之助景福(かげとみ)の治世になっていたが、それまで一度も
転封などにはならず、江戸時代全般を通じて遠山家が明智を支配し続けた。







美濃国 千畳敷(落合)砦

千畳敷(落合)砦跡 光秀公産湯の井戸

所在地:岐阜県恵那市明智町
(旧 岐阜県恵那郡明智町)

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★☆■■■
公園整備度:★★■■■



明智町の郊外、現在は千畳敷公園になっている小高い丘が砦跡。
鎌倉時代の1247年(宝治元年)、明智町には明知城(明知城の頁を参照)が
遠山三郎兵衛尉景重によって築かれており、千畳敷砦はその出城として
造られたというのが一般的な説になっており申す。実際、明知城から
千畳敷砦までは南西方向へ約1km。手を延ばせば届くような距離にあり
千畳敷砦から明知城は目の前に見える。それどころか、明智の町並みは
明知城よりも千畳敷砦からの方が良く見晴らせるほどでござる。
明知城と千畳敷砦の間、つまり城下の町屋を貫いて南北街道と明智川が
走り抜けており、さらに中馬街道も監視。両城が相互補完する形でこうした
交通路や城下町を守備するようになっていたのでござろう。
明知城の前線基地として重視された千畳敷砦は、戦国時代の
天正年間(1573年~1592年)には明知城主・明知遠山氏の一門である
串原五郎経景が守っていたと伝えられているが、その一方で
明智光秀が明知城で誕生したという伝説に関連し、千畳敷砦には
光秀が産湯を取ったという井戸(写真)が残されており
この城の真の来歴はあまり定かではないというのが真相でござる。
遠山氏の城であったならば、明智氏とは関係ないはずなので…。
ちなみに、この井戸から宝珠が得られ、それを山頂に
えびす神社として祀ったという話も伝わっている。
ともあれ、現在の砦跡は上記の通り緑地公園になっており、
明確な城の遺構と言うものは確認できない。公園内の平坦地が
何となく曲輪のように思えたり、山頂へ切り立つ傾斜地が
切岸だったのではないか、と想像するのが当砦の楽しみ方か?
公園内には、大正村(明智町そのものを展示資料とした文化財保護地域)の
議長を務めていた栃錦関にちなんで作られた春日野記念相撲場があり
例年、わんぱく相撲大正村場所が開催されているそうな。


現存する遺構

井戸跡・郭群等




明知城  飯羽間城