明知遠山家、江戸時代の知行所@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
明知遠山氏を受け継いだ遠山勘右衛門利景(としかげ)は、戦国の争乱をくぐり抜け関ヶ原合戦で旧城・明知城
(恵那市明智町内)を回復、徳川家旗本としての地位を確立した。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
(詳細は明知城の頁を参照されたい)@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
1614年(慶長19年)5月20日に没した利景の跡は嫡子の勘右衛門方景(みちかげ)が継ぎ、遺領6530石を相続。
しかし元和偃武により各地の城郭は不要となり、1615年(元和元年)徳川幕府から一国一城令が発布された。@
これにより明知城は廃城。明知城に代わる新たな当地拠点として築かれたのが明知陣屋である。@@@@@@
また、交代寄合旗本として江戸参勤を行う明知遠山氏が領国帰国時に居館としたのが遠山氏屋敷だとか。@@
陣屋は旧明知城大手門の脇に構えられ、屋敷はそこから南西へと下った位置にある。興味深いのは、殿様の
邸宅である遠山氏屋敷よりも、代官所である明知陣屋の方が標高の高い位置にある事。戦国乱世の時代ならば
城主は最も要害(=高い位置)に控え家臣はそれより下段で守りを固めるのが通例であるが、その逆になるのは
陣屋や屋敷が設置された年代が、既に天下泰平の決した時代という証であろう。@@@@@@@@@@@@@
但し、遠山氏屋敷の来歴は明治維新後に陣屋を廃した旧領主・遠山家の屋敷として使われたものとする説もあり
その遺構や意義については検証の余地がある。ともあれ、この屋敷に在住した遠山氏は、2代当主・方景から後
3代・勘右衛門長景―4代・半九郎伊次(これつぐ)―5代・伊清(これきよ)と続くが、1678年(延宝6年)に交代寄合
旗本を免ぜられ江戸定府と代わる。その為、陣屋は代官支配に任される事となった。@@@@@@@@@@@
陣屋に居を構え、代々に亘り明知代官を務めたのが村上家。現在に至るも、村上家は陣屋跡地に居住している。
典型的な方形館の構造になっている明知陣屋は、正面となる西側に濠を穿ち、内部に役宅となる御書院などの
建物や米の収蔵などに用いる土蔵(写真)が軒を連ねる。井戸や池なども複数点在。また、敷地の北側にはみ
出る形で馬場や調練場もあり、このあたりは尚武の気風を残した作りになっている。@@@@@@@@@@@@
陣屋南東外縁には天神社、敷地内の北側には豊国稲荷社が鎮座。神仏の加護を求め、礼節を整えるのも武家
居館の典型例と言えよう。南東側は搦手口、北側がかつての明知城へと続く抜け道になっており、西側に通じる
正門(旧明知城大手門)は折れ曲がり虎口を経て城下町に繋がる本町通りや上町通りに接続してござる。@@@
その接続部には高札場があり、現在は冠木門が再現されている。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
一方、遠山氏屋敷跡には現状見るべきものは殆んど無い。明智川に面した屋敷跡は駐車場になっており(写真)
観光客向けの案内板が立てられている事でようやくその場所を知る事が出来るのみ。かつて、屋敷の塀が構築
されていた痕跡だけが残っているのだが(写真奥、駐車している車の向こう側にある塀がそれ)これとて、言われ
なければ何の事やらわからない (^ ^;@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
なお、江戸在住となった明知遠山家は6代・左京景泥―7代・民部景逵(かげみち)―8代・隼人伊氐(これもと)―
9代・主水景祥(かげみち)―10代・景珍―11代・安芸守景高と代を重ねていく。この景高はペリー来航時の浦賀
奉行である。最終的に、明治維新時には12代・益之助景福(かげとみ)の治世になっていたが、それまで一度も
転封などにはならず、江戸時代全般を通じて明知遠山家が明智を支配し続けた。が、版籍奉還の後に景福は
知行所を新政府に返上し、暫くは遠山氏屋敷に在住していたものの明治30年代に東京へ転居。これにより明知
遠山家は父祖の地を離れる事になり申した。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
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