女城主の城 「おつやの方、無残」■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
正確な築城時期は諸説あり不明だが、一般には1185年(文治元年)加藤左衛門少尉景廉(かげかど)が源頼朝から美濃国
遠山荘の地頭に任じられ、この地に居を構えた事を創始とする説が知られている。その後に、景廉の長男である大蔵大輔
景朝(かげとも)が岩村へ赴任し遠山に改姓。こうした経緯により、景廉を祖として遠山氏が隆盛、以後江戸時代に至るまで
相模・武蔵や四国高松にまで分流を広げていくのだが、そうした中で岩村遠山家は惣領家として重きを成す。岩村遠山氏は
“岩村十八城”と呼ばれる支城群を築いて周辺地域に覇を唱え、代々岩村城を守ってきたのだった。■■■■■■■■■■
とは言え、戦国時代になると東美濃地方は尾張から勢力を伸ばす織田弾正忠信長と信濃から進軍する武田徳栄軒信玄が
熾烈な抗争を展開する激戦区になってしまった。その当時の遠山氏当主・遠山大和守景任(かげとう)は、信長の叔母である
おつやの方を妻に迎え入れ、織田家との関係を深め武田家に対抗。ところが景任は1570年(元亀元年)に起きた武田家との
戦い(上村合戦)による戦傷が元で(病死説もあり)1572年(元亀3年)8月14日に没してしまう。夫を失ったおつやの方は信長
5男の坊丸(長じて源三郎勝長、信房とも)を岩村遠山家の養子に迎え入れ、彼が成長するまで女城主としてこの地をを守る
生き方を選んだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかしその矢先、同年11月に武田軍が大挙して東美濃地方へ来襲してしまう。抗しきれないおつやは攻撃軍の総大将・秋山
伯耆守信友(あきやまのぶとも)の妻となる事で講和を結び、1573年(天正元年)には勝長を人質として武田方へ引き渡して
しまった。城の奪還を企てる織田勢は3月に岩村城へ攻め寄せるが、手が出せず撤退。これにより岩村城は信友の城になり
いったんは平穏を取り戻すものの、おつやの方の行いに激怒した信長は恨みを抱いて東濃地方占領の意を決する。長篠の
合戦で武田方が一気に弱体化した1575年(天正3年)、信長の嫡男・出羽介信忠の率いる織田軍が岩村を攻撃。城兵2000は
5ヶ月に渡る籠城を行うが遂に開城に至る。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
信友・おつや夫妻は和議の条件として城を退去したが直後に約定は破られ、信長の命にて2人は長良川河畔で逆さ磔の刑に
処せられたのでござった。この時、おつやは「叔母を磔にするとは、信長も必ずや横死するであろう」と恨み言を述べ、それを
本能寺の変に結びつける伝説が残る。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
近世城郭として進化する■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ともあれ、織田方の手に戻った岩村城へ河尻肥前守秀隆(かわじりひでたか)が入城。秀隆は信長股肱の勇将で、これ以後
織田家の甲信方面軍司令官として活躍する。秀隆の手によって城下町の整備が為され、天正疎水と呼ばれる用水が町屋に
配水された。この水路は江戸時代まで引き続き使われていく。秀隆在城時代に城の改変も行われ、現在に近い姿になったと
言われるが、武田家の領地が侵食された結果、彼は甲府へ進出したため1582年(天正10年)3月に岩村城は信忠の家臣・団
平八郎忠正(だんただまさ)の城となった(諸説あり)。石高5万石。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
だが、忠正は同年6月の本能寺の変において落命してしまう。結局、岩村城は同じく東濃に領地を持っていた森武蔵守長可
(ながよし、蘭丸の長兄)に接収された。小牧・長久手合戦で長可が戦死すると、その遺領は末弟の右近丞忠政(ただまさ)に
引き継がれる。忠政は岩村城代として家老の各務兵庫助元正(かがみもとまさ)を入れ、城の改修にあたらせたのだった。
なお、小牧・長久手の戦いで森家は羽柴筑前守秀吉に与したため徳川家康方の遠山民部少輔利景(としかげ)が岩村城に
攻め掛かったが、各務元正が撃退している。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1600年(慶長5年)2月、森家は信濃国海津(長野県長野市)へ移され、入れ替わりで田丸中務大輔直昌(たまるなおまさ)が
4万石を以って岩村城主になる。しかしその半年後、関ヶ原合戦が勃発。直昌は西軍に就いたため、またもや遠山利景らが
攻め寄せた。今度は城の留守居役だった田丸主水が開城に応じ、利景が城を占拠している。そして田丸家は戦後改易され
松平和泉守家乗(いえのり)が新たな岩村城主として上野国那波(なは、群馬県伊勢崎市)から1601年(慶長6年)2月に入府。
石高は2万石。家乗は大給(おぎゅう)松平家、即ち徳川一門の譜代衆だ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
岩村に入った家乗は、険峻な山城が統治に不向きであるとして政務の中心となる藩主御殿を山麓に構えた。されども、山城
部分を完全に廃したわけではない。この為、旧来の山城は維持されつつ平時の藩政は城下町に隣接した場所で行う近世的
城郭構造が確立。江戸時代になると山城は廃れるのが一般的であったが、岩村では近世城郭として山城を存続させる道を
採ったのである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
山上部と山麓部を結合させた縄張り■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
山城部分の縄張りは標高713mの山頂部に本丸と帯曲輪、その南側に出丸が置かれ、本丸の東側から段を下って東曲輪が
連なる。東曲輪の入口部分、城下方面から向かって右手の本丸を見上げる場所に有名な六段石垣(写真)が。東曲輪から
追手(大手)方面へと登城道が下っていくが、その両脇に二ノ丸や八幡曲輪が構えられている。城内の霊泉とされる霧ヶ井も
この道沿いにある。霧ヶ井は城主専用だった。岩村城の別名は「霧ヶ城」だが、どんな旱魃でも霧ヶ井は水が涸れなかったと
いう伝承や、敵に攻められた時はこの井戸から霧が出て城の姿を隠すとの伝説から、霊力にあやかって名付けられたようだ。
また、八幡曲輪には大規模な八幡宮が鎮座し、二ノ丸にも弁財天が祀られており、岩村城は多分に宗教的な加護を恃んだ
理論で維持されていたと思われる。もっとも、仮に敵兵が登城路を上がってきた場合には、右の二ノ丸と左の八幡曲輪から
挟撃する形で射撃が加えられるであろうから、実戦面も考慮された構造だったのは間違いない。本丸と二ノ丸とは登城路を
使わず直接行き来する事もできたが、その間の門は埋門形式だったため戦時には埋没させ、この通路を遮断し敵に使わせ
ないようにする意図があった。こうする事により、本丸の独立性が強化されるようになっていたのでござる。■■■■■■■
なお、二ノ丸の隅部(登城路に面した所)に建てられた多聞櫓は、建物の角部屈曲が鈍角になっていたので菱櫓と呼ばれる。
地形的制約でこのような構造になったのだが、岩村城が中世以前から近世まで継続して使われ続けた事を象徴する櫓だと
言えよう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
八幡曲輪の下、登城路が屈曲する箇所が追手門。門を側射できる位置に建てられたのが追手三重櫓で実質的に岩村城の
天守となるような高層櫓であった。追手門を出た道は、三重櫓に見下ろされつつ右へ直角に曲がって下っていく。この折れ
曲がりは畳橋と呼ばれる橋上で為されており、折曲橋の好例として知られる。戦時には橋の床板を撤去する構造で、城の
守りはより一層固くなる事だったろう。畳橋を渡った後もなお道は曲がりくねって進み、土岐門や一の門という2つの城門を
経過してようやく城下の居館地区へと至る。二の門に相当する土岐門は薬医門、一の門は櫓門だった。一の門の櫓からは
城下の様子が見渡せるため、変事の監視に備え昼夜を問わず兵が駐留したという。■■■■■■■■■■■■■■■■
山城部分と山麓部分を繋ぐ坂は藤坂と呼ばれて、長さは約300m。途中の左折箇所が城郭防備の前衛とされ、戦時になると
仮設の門を構え、攻め上がる敵兵を足止めする計画だったらしい。本丸には納戸櫓と二重櫓という2つの大櫓があり、多聞
櫓も2基、門も3箇所構えられた。二ノ丸には菱櫓の他にも二重櫓や米蔵、朱印蔵、番所など。無論、八幡曲輪にも櫓が多数
あり、近世山城の形態を整えた岩村城は相当な威容を誇っていたはずである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
一方、山麓の居館部分はほぼ方形の曲輪になっていて、その中に東西33間(約60m)×南北が36間(約65.4m)という大きな
規模を誇る藩主御殿が建てられていた。曲輪の入口には長屋門形式の表御門があり、外側から向かって門の左には蔵が
併設され、右側には時報用の太鼓を収めた太鼓櫓が聳える。この曲輪内には合計23棟の建物がひしめいていたという。■
江戸幕府成立後、結果的に泰平の世の中になった事から山城の重要性は薄れ、領国統治の本拠となる藩主御殿を擁する
山麓部が実質的中枢になっていった。以後、この山麓居館を中心に岩村藩政が営まれる。■■■■■■■■■■■■■■
江戸時代の岩村城主■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1614年(慶長19年)2月、松平家乗が死去したため子の和泉守乗寿(のりなが)が跡を継いだ。乗寿は大坂の陣で戦功を挙げ
1638年(寛永15年)4月25日、3万6000石に加増され遠江国浜松(静岡県浜松市)へ転封となる。代わって岩村へ入ったのが
丹羽式部少輔氏信(にわうじのぶ)、石高は2万石。三河国伊保(愛知県豊田市)から。氏信は1644年(正保元年)大坂加番に
任じられるも1646年(正保3年)5月11日に病死、長男の式部少輔氏定(うじさだ)が家督を継いだが、この時に1000石を弟の
勘兵衛氏春(うじはる)に分与した。この後、1657年(明暦3年)に式部少輔氏純(うじずみ、氏定の長男)―1674年(延宝2年)
長門守氏明(うじあき、氏純の長男)が家督を継承。氏明は1686年(貞享3年)3月3日に嗣子なきまま病死したため、その跡は
養子の越中守氏音(うじおと)が継いだ。氏音は氏春の子。彼は藩政改革を試みるが却って失敗し御家騒動を起こしてしまい
責任を問われて1702年(元禄15年)6月22日、9000石を減封され1万石で越後国高柳(新潟県妙高市)へ移された。■■■■
同年9月7日に2万石を与えられて岩村城主となったのは松平能登守乗紀(のりただ)、乗寿の孫でござる。彼は信濃国小諸
(長野県小諸市)から岩村に入るや否や、城下に文武所という藩校を設置した。当時、まだ藩校は全国的に数少なく、特に
2万石と言う小禄の大名が創設した例はない。学問を重んじる乗紀の強い決意がこうした施策を成したと言えよう。文武所は
温故知新の古語にあやかり後に知新館と名付けられ、藩士は義務教育として8歳になると必ず入学した。20歳になるまで
卒業は許されず、四書五経の必修や儒学の修養、算術や書道なども教えられたとの事。知新館出身者は逸材が多かった。
また、乗紀は宝永年間(1704年〜1710年)藩主御殿に園月という茶室を建てた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、乗紀は奏者番に就任し幕府内でも重きを為したが1716年(享保元年)12月25日に没したため、翌1717年(享保2年)に
家督を長男の能登守乗賢(のりかた)が継いだ。が、その翌年の1718年(享保3年)岩村近辺では地震が発生し、城に被害を
受ける。乗賢は幕府に届けを出して岩村城の修築に取り掛かったが、特に山城部分の被害が大きく、石垣44ヶ所の他、石段
1ヶ所の崩落を数えた。ちなみに、この届出時に幕府へ提出した城の修繕報告の控え図が現存し、岐阜県の指定文化財に
なっている。ともあれ、こうした事情により岩村城は再度山城部分の構築が行われ、石垣には戦国期の野面積みだけでなく
慶長期の打込接ぎ・享保期の切込接ぎという3種類の工法が用いられている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城の修築は無事に終了、乗賢も幕府内で出世を果たし老中にまで昇進。故に、岩村藩は1735年(享保20年)1万石の加増を
受けて3万石になっている。乗賢は1746年(延享3年)に没し、岩村藩は大給松平本家からの養子・美作守乗薀(のりもり)が
相続。この頃、美濃の隣国・飛騨国では金森氏の改易や一揆が多発しており、乗薀はその処理にたびたび出向している。■
こうした功績を挙げた後、1781年(天明元年)4月隠居し、家督を養子の河内守乗保(のりやす、大給松平家縁者)に譲った。
ちなみに、乗薀には3人の実子男子がいたが、長男・乗国と2男・乗遠は早世。3男は病弱であったため養子を迎えて家督を
継がせたのだった。ところがその3男は知新館で学び学者として天賦の才を花開かせる。遂には江戸にまで名が知れ渡り、
時の老中・松平越中守定信に請われて幕府大学頭である林家の養子に迎え入れられたのでござる。これが昌平坂学問所
(後の東京大学)創設者・林述斎(はやしじゅっさい)であった。同じく知新館出身で昌平坂学問所の儒者となり、述斎を補佐
したのが佐藤一斎(さとういっさい)。一斎は朱子学のみならず陽明学にも明るく、門弟は3000人を数えて、その中には大塩
平八郎・渡辺崋山・佐久間象山らがいた。いずれも江戸後期〜末期の一流知識人である。■■■■■■■■■■■■■■
乗薀・乗保時代の岩村藩は多彩な人材にあふれていたのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1826年(文政9年)6月、乗保の死去で2男の河内守乗美(のりよし)が後継に。乗美は丹羽氏音同様に藩政改革を試みるも
失敗、岩村藩の財政は傾き、失意のまま1842年(天保13年)11月に隠居。藩主の座を2男・能登守乗喬(のりたか)に譲り、
その乗喬も1855年(安政2年)7月26日に死去、岩村藩主は能登守乗命(のりとし)に。乗命は乗喬の2男でござった。■■■
時既に最幕末期、激動の世情に乗命も流されていく。1866年(慶応2年)第二次長州征伐に参陣した後、1867年(慶応3年)
幕府陸軍奉行に就任。しかし幕府は崩壊を免れない状況にあった為、1868年(明治元年)2月岩村藩は早々に新政府へと
恭順、幕府を見限った。これにより1869年(明治2年)6月、版籍奉還で岩村知藩事に任じられ、藩主邸宅が藩庁とされたの
だが、1871年(明治4年)の廃藩置県でその職も解かれ申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城跡、城下町、全てが美しい現代の岩村城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
結果、岩村藩が消滅し1873年(明治6年)廃城令に伴って岩村城は廃城となる。山城部分の建造物が悉く破却され、一部は
移築されたものの石垣だけが残される状態になった。山麓の居館部は維持されたが、これも1881年(明治14年)10月30日の
夜、火災により全焼。藩主邸の跡地付近に1972年(昭和47年)岩村町歴史資料館が開館したものの、東濃の城下町として
風情ある佇まいが有名であった岩村は維新から長らくの間、肝心の城跡が寂しい状態になっていたのだった。■■■■■
ところが平成の時代になり、城郭に対する観光・史跡価値が再評価されると1990年(平成2年)ふるさと創生基金を利用して
山麓居館部跡地に表御門・平重門・太鼓櫓などが再建されたのである。何より、建物は損なわれたものの往時のまま山中に
残る岩村城址の石垣は圧巻。こうした保全状態が評価され、2006年(平成18年)には日本百名城の1つに認定された。流石
百名城だけあって、城下町も含めて城跡の情景は素晴らしいものがある。また、日本の秘境100選にも選ばれている。■■
兎にも角にも、この石垣を見るだけでも価値があると言える城跡。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
近世まで残った山城として、高取城(奈良県高市郡高取町)や備中松山城(岡山県高梁市)と並んで日本三大山城の1つに
数えられるのも納得。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
旧土岐門の薬医門は岩村町内の臨済宗瑞鳳山徳祥寺に移築現存。不明門と伝わる門が日蓮宗桃萼山妙法寺の山門に
なっている。また、岩村町内の八幡神社本殿が岩村城八幡曲輪から移設された建物であるとも言われているそうな。藩校・
知新館の正門も藩主居館曲輪内に移築されており、内部には江戸時代から使われてきた孔子画像軸が。これらは1968年
(昭和43年)11月11日に、岐阜県の指定文化財となっている。加えて、城址8078uの敷地も1957年(昭和32年)12月19日、
岐阜県指定史跡に。また、城内八幡曲輪に祀られた八幡宮は、城址よりひと足早い1957年3月8日、岩村町(当時)史跡に
指定。更には城下の岩村町本通りが1998年(平成10年)4月17日、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。
現在、城址公園となった藩主居館地区に駐車場があり、そこから城内各所を見物しながら本丸まで徒歩で登城するのが
オススメだが、山道を登るのが難儀だという方は本丸裏の出丸部分まで車で上がれるのでそちらを利用するのも可。適宜、
選択して頂きたい。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
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