美濃国 岩村城

岩村城本丸六段石垣

所在地:岐阜県恵那市岩村町
(旧 岐阜県恵那郡岩村町)

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★★★☆
公園整備度:★★★★



正確な築城時期は諸説あり不明だが、一般には1185年(文治元年)
加藤景廉(かげかど)が源頼朝から美濃国遠山荘の地頭に任じられ、
この地に居を構えた事を創始とする説が知られている。
その後、景廉の長男である景朝が岩村に赴任し遠山に改姓。
こうした経緯により、景廉を祖として遠山氏が隆盛、以後
江戸時代に至るまで相模・武蔵や四国高松にまで分流を広げていく。
そうした中でも岩村遠山家は惣領家として重きを成す。
岩村遠山氏は“岩村十八城”と呼ばれる支城群を築き周辺地域に覇を唱え
代々岩村城を守ってきたのでござった。とは言え、戦国時代になると
東美濃地方は尾張から勢力を伸ばす織田信長と信濃から進軍する
武田信玄が熾烈な抗争を展開する激戦区になってしまった。
時の遠山氏当主・遠山景任(かげとう)は信長の叔母である
おつやの方を妻に迎え入れ、織田家との関係を深め武田家に対抗。
ところが景任は1570年(元亀元年)武田家との戦い(上村合戦)による
戦傷が元で(病死説もあり)没してしまう。夫を失ったおつやの方は
信長の5男・坊丸(長じて勝長、信房とも)を養子に迎え入れ、彼が成長するまで
女城主として城を守る生き方を選んだ。しかしその矢先、1573年(天正元年)
武田軍が大挙して東美濃地方に来襲してしまう。抗しきれないおつやは
攻撃軍の総大将・秋山信友の妻となる事で講和を結び、勝長を人質として
武田方へ引き渡してしまった。これにより岩村城は信友の城になり
いったんは平穏を取り戻すが、おつやの方の行いに激怒した信長は
恨みを抱いて東濃地方奪還の意を決する。長篠の合戦で武田方が一気に
弱体化した1575年(天正3年)、信長の嫡男・信忠の率いる織田軍が
岩村へ来襲。城兵2000は5ヶ月に渡る籠城を行うが遂に開城に至る。
信友・おつや夫妻は和議の条件として城を退去したが、直後に約定は破られ
信長の命により2人は長良川河畔で逆さ磔の刑に処せられたのでござった。
この時おつやは「叔母を磔にするとは、信長も必ずや横死するであろう」と
恨み言を述べ、それを本能寺の変に結びつける伝説が残る。
ともあれ、織田方の手に戻った岩村城には河尻秀隆が入城。秀隆は
信長股肱の勇将で、以後、織田家の甲信方面軍司令官として活躍する。
秀隆の手により城下町の整備が為され、天正疎水と呼ばれる用水が
町屋に配水された。この水路は江戸時代まで引き続き使われていく。
秀隆在城時代に城の改変も行われ、現在に近い姿になったと言われるが
武田家領地が侵食された結果、彼は甲府へ進出したため1582年(天正10年)
3月、岩村城は団忠正(だんただまさ)の城となった(諸説あり)。石高5万石。
が、忠正は同年6月の本能寺の変において落命してしまう。結局、岩村城は
同じく東濃に領地を持っていた森長可(ながよし、蘭丸の長兄)に
接収され申した。小牧・長久手の合戦で長可が戦死すると、その遺領は
末弟の忠政(ただまさ)に引き継がれる。忠政は岩村城代として
家老の各務兵庫助元正を入れ、城の改修にあたらせたのでござった。
1600年(慶長5年)2月、森家は信濃国海津へ移封。入れ替わりで田丸直昌が
4万石を以って岩村城主になる。しかしその半年後、関ヶ原合戦が勃発、
直昌は西軍に就いたため戦後改易され、松平家乗が新たな岩村城主として
1601年(慶長6年)2月に上野国那波(なは、群馬県伊勢崎市)から入府。
石高は2万石。家乗は大給(おぎゅう)松平家、即ち徳川一門の譜代衆だ。
岩村に入った家乗は、険峻な山城が統治に不向きであるとして
政務の中心となる藩主御殿を山麓に構えた。しかし、山城部分を
完全に廃したわけではない。このため、旧来の山城は維持されつつ
平時の藩政は城下町に隣接した場所で行う近世的城郭構造が確立。
江戸時代になると山城は廃れるのが一般的であったが、
岩村では近世城郭として山城を存続させる道を選んだのである。
山城部分の縄張りは標高713mの山頂部に本丸と帯曲輪、その南側に出丸が置かれ
本丸の東側から段を下って東曲輪が連なる。東曲輪の入口部分、城下方面から
向かって右手の本丸を見上げる場所に有名な六段石垣(写真)が。
東曲輪から追手(大手)方面へと登城道が下っていくが、その両脇に
二ノ丸や八幡曲輪が構えられている。城内の霊泉とされる霧ヶ井もこの道沿いに
ござる。霧ヶ井は城主専用だった。岩村城の別名は霧ヶ城であるが
どんな旱魃でも霧ヶ井は水が涸れなかったという伝承や、敵に攻められた時は
この井戸から霧が出て城の姿を隠すという伝説から、霊力にあやかって
名付けられたようだ。また、八幡曲輪には大規模な八幡宮が鎮座し
二ノ丸にも弁財天が祀られており、岩村城は多分に
宗教的加護を恃んだ理論で維持されていたと思われる。
もっとも、仮に敵兵が登城路を上がってきた場合には
右の二ノ丸と左の八幡曲輪から挟撃する形で射撃が加えられるであろうから
実戦面も考慮された構造だったのは間違いない。本丸と二ノ丸は
登城路を使わず直接行き来する事もできたが、その間の門は埋門形式だったため
戦時には埋没させ、この通路を遮断し敵に使わせないようにする意図があった。
こうする事により、本丸の独立性が強化されるようになっていたのでござる。
なお、二ノ丸の隅部(登城路に面した位置)に建てられた多聞櫓は
建物の角部屈曲が鈍角になっていた事から菱櫓と呼ばれる。地形的制約で
このような構造になったのだが、岩村城が中世以前から近世まで
継続して使われ続けた事を象徴する櫓だと言えよう。
八幡曲輪の下、登城路が屈曲する箇所が追手門。
門を側射できる位置に建てられたのが追手三重櫓で、実質的に岩村城の
天守となるような高層櫓であった。追手門を出た道は、三重櫓に
見下ろされつつ右へ直角に曲がって下っていく。この折れ曲がりは
畳橋と呼ばれる橋上で為されており、折曲橋の好例として知られる。
戦時には橋の床板を撤去する構造で、城の守りはより一層固くなる事だったろう。
畳橋を渡った後もなお道は曲がりくねって進み、土岐門・一の門という
2つの城門を経過してようやく城下の居館地区へと至る。二の門に相当する
土岐門は薬医門、一の門は櫓門であった。一の門の櫓からは城下の様子が
見渡せるため、変事の監視に備え昼夜を問わず兵が駐留したという。
山城部分と山麓部分を繋ぐ坂は藤坂と呼ばれ、長さ約300m
途中の左折箇所が城郭防備の前衛とされ、戦時になると仮設の門を構え
攻め上がる敵兵を足止めする計画だったらしい。
本丸には納戸櫓と二重櫓という2つの大櫓があり、多聞櫓も2基、
門も3箇所構えられた。二ノ丸には菱櫓の他にも二重櫓や米蔵、朱印蔵、
番所など。無論、八幡曲輪にも櫓が多数あり、近世山城の形態を整えた
岩村城は相当な威容を誇っていたはずである。
一方、山麓の居館部分はほぼ方形の曲輪になっていて、その中に
東西33間(約60m)×南北36間(約65.4m)という大きな規模を誇る
藩主御殿が建てられていた。曲輪の入口には長屋門形式の表御門があり、
外側から向かって門の左に蔵が併設され、右側には時報用の太鼓を収めた
太鼓櫓が聳える。この曲輪内には合計23棟の建物がひしめいていたという。
江戸幕府成立後、結果的に泰平の世の中になった事から山城の重要性は薄れ
領国統治の本拠となる藩主御殿を擁する山麓部が実質的中枢になっていった。
以後、この山麓居館を中心に岩村藩政が営まれる。
1614年(慶長19年)2月、松平家乗が死去したため子の乗寿(のりなが)が
跡を継いだ。乗寿は大坂の陣で戦功を挙げ、1638年(寛永15年)4月25日
3万6000石に加増され遠江国浜松へ転封となる。代わって岩村へ入ったのが
丹羽氏信(にわうじのぶ)、石高は2万石。三河国伊保(愛知県豊田市)から。
氏信は1644年(正保元年)大坂加番に任じられるも1646年(正保3年)5月に病死、
長男の氏定が家督を継いだが、この時に1000石を弟の氏春に分与した。
この後、1657年(明暦3年)に氏純(うじずみ、氏定の長男)
1674年(延宝2年)に氏明(うじあき、氏純の長男)が家督を継承。
氏明は1686年(貞享3年)嗣子なきまま病死したため、その跡は養子の
氏音(うじおと)が継いだ。氏音は氏春の子。彼は藩政改革を試みるが
却って失敗し御家騒動を起こしてしまった為、責任を問われて1702年(元禄15年)
6月22日、9000石を減封され1万石で越後国高柳(新潟県妙高市)へ移された。
同年9月7日、2万石を与えられ岩村城主になったのは松平乗紀(のりただ)。
乗寿の孫でござる。彼は信濃国小諸(長野県小諸市)から岩村に入るや否や
城下に文武所という藩校を設置した。当時、まだ藩校は全国的に数少なく、特に
2万石と言う小禄の大名が創設した例はない。学問を重んじる乗紀の強い決意が
こうした施策を成したと言えよう。文武所は温故知新の古語にあやかり
後に知新館と名付けられ、藩士は義務教育として8歳になると必ず入学した。
20歳になるまで卒業は許されず、四書五経の必修や儒学の修養、
算術や書道なども教えられたとの事。知新館出身者は逸材が多かった。
また、乗紀は宝永年間(1704年〜1710年)藩主御殿に園月という茶室を建てた。
さて、乗紀は奏者番に就任し幕府内でも重きを為したが1716年(享保元年)
没したため、翌1717年(享保2年)に家督を長男の乗賢(のりかた)が継いだ。
さらに翌年の1718年(享保3年)岩村近辺では地震が発生し城に被害を受ける。
乗賢は幕府に届けを出して岩村城の修築に取り掛かったが、
特に山城部分の被害が大きく、石垣44ヶ所・石段1ヶ所の崩落を数えた。
ちなみに、この届出時に幕府へ提出した城の修繕報告の控え図が現存し、
岐阜県の指定文化財になっており申す。ともあれ、こうした事情により
岩村城は再度山城部分の構築が行われ、石垣には戦国期の野面積みだけでなく
慶長期の打込ハギ・享保期の切込ハギという3種類の工法が用いられている。
城の修築は無事に終了、乗賢も幕府内で出世を果たし老中にまで昇進。
このため、岩村藩は1735年(享保20年)1万石の加増を受けて
3万石になっている。乗賢は1746年(延享3年)に没し、岩村藩は養嗣子の
松平乗薀(のりもり、大給松平本家から)が相続。この頃、美濃の隣国
飛騨国では金森氏の改易や一揆が多発しており、乗薀はその処理に
たびたび出向している。こうした功績を挙げた後、1781年(天明元年)4月
隠居し、家督を養子の乗保(のりやす、大給松平家縁者)に譲った。
ちなみに、乗薀には3人の実子男子がいたが長男・乗国と2男・乗遠は早世。
3男は病弱であったため養子を迎えて家督を継がせたのだった。ところが
その3男は知新館で学び学者として天賦の才を花開かせる。遂には江戸にまで
名が知れ渡り、時の老中・松平定信に請われて幕府大学頭である林家の
養子に迎え入れられたのでござる。これが昌平坂学問所(後の東京大学)創設者
林述斎(はやしじゅっさい)であった。同じく知新館出身で昌平坂学問所の
儒者となり述斎を補佐したのが佐藤一斎(さとういっさい)。一斎は
朱子学のみならず陽明学にも明るく、門弟は3000人を数え
その中には大塩平八郎・渡辺崋山・佐久間象山らがいた。
乗薀・乗保時代の岩村藩は多彩な人材にあふれていたのでござる。
1826年(文政9年)6月、乗保の死去で2男の乗美(のりよし)が後継に。
乗美は丹羽氏音同様に藩政改革を試みるも失敗、岩村藩の財政は傾き
失意のまま1842年(天保13年)11月に隠居、藩主の座を2男
乗喬(のりたか)に譲り、その乗喬も1855年(安政2年)に死去、
岩村藩主は乗命(のりとし)に。乗命は乗喬の2男でござった。
時既に最幕末期、激動の世情に乗命も流されていく。1866年(慶応2年)
第二次長州征伐に参陣した後、翌1867年(慶応3年)幕府陸軍奉行に就任。
しかし幕府は崩壊を免れない状況にあった為、1868年(明治元年)2月
岩村藩は早々に新政府へと恭順、幕府を見限った。これにより1869年(明治2年)
6月、版籍奉還で岩村知藩事に任じられ、藩主邸宅が藩庁とされたのだが、
1871年(明治4年)の廃藩置県でその職も解かれ申した。結果、岩村藩が消滅し
1873年(明治6年)廃城令に伴って岩村城は廃城となる。山城部分の建造物は
悉く破却され、一部移築されたものの石垣だけが残される状態になり申した。
山麓の居館部は維持されたが、これも1881年(明治14年)10月30日の夜、
火災により全焼。藩主邸跡地付近に1972年(昭和47年)岩村町歴史資料館が
開館したものの、東濃の城下町として風情ある佇まいが有名であった岩村は
維新から長らくの間、肝心の城跡が寂しい状態になっていたのだった。
ところが平成の世になり、城郭に対する観光・史跡価値が再評価されると
1990年(平成2年)ふるさと創生基金を利用して山麓居館部跡地に
表御門・平重門・太鼓櫓などが再建されたのでござる。
何より、建物は損なわれたものの往時のまま山中に残る岩村城址の石垣は圧巻。
こうした保全状態が評価され、2006年(平成18年)には日本百名城の一つに
認定され申した。さすが百名城だけあって、城下町も含めて城跡の情景は
素晴らしいものがある。また、日本の秘境100選にも選ばれている。
兎にも角にも、この石垣を見るだけでも価値があると言える城跡。
近世まで残った山城として、高取城(奈良県高市郡高取町)や
備中松山城(岡山県高梁市)と並び日本三大山城の一つに数えられるのも納得。
旧土岐門の薬医門は岩村町内の徳祥寺に移築現存。不明門と伝わる門が
妙法寺山門になっている。また、岩村町内の八幡神社本殿が
岩村城から移設された建物であるとも言われているそうな。
藩校・知新館の正門も藩主居館曲輪内に移築されており、内部には
江戸時代から使われてきた孔子画像軸が。これらは1968年(昭和43年)
11月11日、岐阜県の指定文化財になっている。加えて、城址8078uの敷地も
1957年(昭和32年)12月19日、岐阜県指定史跡に。また、城内八幡曲輪に祀られた
八幡宮は、城址よりひと足早い1957年3月8日、岩村町(当時)史跡に指定。
さらには、城下の岩村町本通りが1998年(平成10年)4月17日
国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。
現在、城址公園となった藩主居館地区に駐車場があり
そこから城内各所を見物しながら本丸まで徒歩で登城するのがオススメだが
山道を登るのが難儀だという方は、本丸裏の出丸部分まで車で上がれるので
そちらを利用するのも可。適宜、選択して頂きたい。


現存する遺構

井戸跡・石垣・堀・郭群等
城域内は県指定史跡
城内八幡宮は市指定史跡

移築された遺構として
藩校知新館正門および孔子画像軸《県指定文化財》
藩主御殿茶室「園月」(古材部分使用復元)
旧土岐門(徳祥寺山門)・旧不明門(妙法寺山門)
城内建築物(八幡神社本殿)




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