鎌倉時代の成立とされる岩山の砦■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
木曽川の北岸、国道257号線(旧中津川有料道路)の東側にそびえる山が城域。巨岩と石垣とが渾然一体になった光景が
見事な名城として知られる。別名で霞ヶ城、赤壁城、高森城。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
美濃東部の要衝として名高い苗木(なえぎ)城、創建は南北朝時代との事。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
近隣にある岩村城(岐阜県恵那市)主の一族である遠山太郎右衛門景村(とおやまかげむら)が鎌倉時代後期の1241年
(仁治2年)に木曽川以北へ進出、那木に本拠を構えた。この「那木」と言うのが苗木の事とされ、幕府が倒れた元弘年間
(1331年〜1334年)に遠山一雲入道昌利・景長父子が高森山で砦を構築する。これが苗木城の創始だ。■■■■■■■
以後、苗木の地に根付いた苗木遠山氏(遠山一族は他の場所にも支族が多く、それらと区別される)が代を重ねて統治を
するも、その間の動向には諸説あって様々な憶測が飛び交っている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
戦国時代には広恵寺(こうえじ)城(岐阜県中津川市、旧恵那郡福岡町)主だった遠山一雲入道(こちらも「一雲」だとか)が
1526年(大永6年)居城を高森山砦(苗木城)へ移したとする説が。また、苗木遠山氏当主であった兄の武景が急死した為
跡を継いだ遠山左近佐直廉(なおかど)が天文年間(1532年〜1554年)に入城し城を改修したとも。なお、これは直廉では
なく正廉なる者の事績とする説、或いは直廉と正廉は同一人物だとする説などが入り乱れ、やはり正確な事は分からない。
直廉と正廉については「苗木勘太郎」と呼ばれる人物の事を混同していると議論の対象になり、また南北朝期と戦国時代の
両方で「一雲入道」の名があり、草創期の苗木城については不明瞭な点が多いようだ。ともあれ、遠山直廉の修築を以って
苗木城の築城とする説もござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
戦国時代の城主・苗木遠山氏■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
時の岩村城主・遠山左衛門尉景前(かげさき)の3男であった直廉は、織田弾正忠信長の妹を娶って織田氏に接近し領地を
守る。1570年(元亀元年)彼が嗣子なきまま没すると(1572年(元亀3年)という説もある)飯羽間城(岐阜県恵那市)主にして
遠山氏一門である遠山右衛門佐友勝が信長の命により苗木城主に就任、ほどなく友勝も死去したためその子・久兵衛尉
友忠が城主を継承した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
幾多にも支族を分流させた遠山家の中で、有力な7家が七遠山とされ、その中でも遠山三人衆と呼ばれたのが岩村・明知・
苗木の遠山家。名族中の名族であった苗木遠山家を継承した友忠は、1572年頃より始まった信濃(長野県)方面から侵出
してくる甲斐武田家の東美濃攻撃に直面。その総大将である秋山伯耆守信友は、武田信玄の信任が厚く“武田の猛牛”と
称される勇猛果敢な将であり、東濃の織田方諸城は次々と陥落していくが、苗木城を預かる重責にあった友忠は良く持ち
堪え、遂に武田軍が退去するまで城を守り抜いた。この結果、苗木城は織田方の最前線として機能、後に友忠は織田軍の
甲信方面軍司令官となった河尻肥前守秀隆(かわじりひでたか)の配下に組み込まれる。■■■■■■■■■■■■■
しかし1582年(天正10年)本能寺の変で信長が斃れ、東海地方の形勢を羽柴筑前守秀吉と徳川三河守家康が二分すると
友忠は家康に属し、その結果1583年(天正11年)秀吉方武将・森武蔵守長可(もりながよし、蘭丸成利(なりとし)の長兄)に
攻め落とされてしまった。城を失った友忠とその子・三郎兵衛友政は家康の下に落ち延びていく。家康重臣である菅沼大膳
大夫定利(すがぬまさだとし)の配下に加えられたところで友忠は死去。友政は更に徳川四天王の一人・井伊兵部少輔直政
(榊原式部大輔康政という説も)の下に身を寄せた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
旧城を奪還した遠山氏■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
これにより苗木城は森家の持城となるが、秀吉没後の1599年(慶長4年)信濃国川中島(長野県長野市)へ移され、代わって
河尻肥前守秀長(直次とも、秀隆の子)が入城、東濃の押さえとなったのでござる。ところが1600年(慶長5年)関ヶ原合戦に
おいて河尻氏は西軍に属したため、旧城である苗木城の奪還を図る遠山友政は東軍として行動し、猛然と攻撃を開始する
(この時まだ友忠は存命で戦闘に加わったという説もあり)。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
これにより苗木城は再び遠山氏のものとなり、戦後も徳川将軍家がこの領地を安堵したため、江戸時代を通じて苗木城は
遠山氏12代1万500石の居城となったのである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
以下、歴代城主を列記すると(括弧内は苗木藩主就任年)遠山刑部少輔秀友(ひでとも、1620年(元和6年))―信濃守友貞
(ともさだ、1642年(寛永19年))―和泉守友春(ともはる、1675年(延宝3年))―伊予守友由(ともよし、1712年(正徳2年))―
豊前守友将(ともまさ、1722年(享保7年))―和泉守友央(ともなか、4代藩主・友春の3男、1732年(享保17年))―佐渡守
友明(ともあき、水戸徳川分家・常陸府中松平家からの養子、1740年(元文5年))―和泉守友清(ともきよ、7代藩主・友央の
長男、1753年(宝暦3年))―近江守友随(ともより、8代藩主・友明の長男、1777年(安永6年))―美濃守友寿(ともひさ、9代
藩主・友清の孫、1792年(寛政4年))―美濃守友禄(ともよし、初名は友詳(ともあき)、1839年(天保10年))。■■■■■■
1万石と言う極小大名でありながら、苗木藩は幕府の御用を数多く請け負ったため藩財政は草創期より赤字続きであった。
新田開発に力を注ぎ、収支好転に努めたと言われるが効果は薄く、しかも第5代藩主・友由が大坂加番になったり、最後の
藩主・友禄が幕府若年寄に就任した事で一気に赤字が加速してしまい大政奉還直前、藩の財務は破綻したのだった。■■
険しい岩山を活用した縄張り■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
そんな苗木藩の藩庁であった苗木城は、木曽川に面した標高426mの高森山を領域とし、頂上に本丸、そこからいくつもの
帯曲輪を段を下る通路状に形成し、山の西側中腹にひと段落した平場を二ノ丸にしている。二ノ丸からさらに北側へ一段
下がった場所が三ノ丸。三ノ丸から北方へ下りて城下町に繋がる通路が大手道となっていて、その大手口を守る門が風吹
(かぜふき)門と呼ばれる門でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
風吹門の向かって左側直上には苗木城最大の櫓である大矢倉がそびえ三ノ丸入口を強固に守っている、というのが縄張り。
大矢倉(写真)は別名で御鳩部屋とも呼ばれていた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
たった400uという狭隘な本丸には多くの建物を建てられず、3重の天守と、それに付随するいくつかの建築物しか置かれて
いなかった。険峻な山に築かれた山城ゆえの宿命であろう。天守は懸(かけ)造り(下記)という特殊な工法で揚げられており
1階部分は「天守縁下」と呼ばれる床下部で板縁がついた2間半×1間半(約5m×4m)程度の規模。2階は3間四方(6m×6m)
「玉蔵」と言われ、ここが事実上の1階。天守の出入口であった。3階は4間四方(8m×8m)、下階が岩盤や石垣に食い込んだ
形状になっているのに対し、3階は巨岩の上に乗り上げる形で懸造りの柱穴が下部の岩に穿たれている。1718年(享保3年)
製作の苗木城絵図によれば、屋根は板葺き、壁も板張りだったらしく、他の城の天守に比べてかなり様相が異なる。■■■
現在、天守3階部分を想定した展望台が建てられ、眼下の眺望は抜群だ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さらに本丸菱櫓台の下、帯曲輪の中には千石井戸が掘られこの城の水の手を支えている。■■■■■■■■■■■■■
その一方、機能が限定された本丸に対し御殿が建てられ藩主の居所となった二ノ丸が苗木城の実質的中枢で、その内部は
上段と下段に分かれていた。上段には御朱印蔵(将軍から賜った朱印・文書・宝物などを収める蔵)や勘定所などといった
藩政諸役所も置かれていた。御朱印蔵は亀甲積みと言われる最も新しい工法の石垣の上に建てられ、蔵への出入りには
梯子が用いられる構造。他方、下段にあったのが藩主御殿。これもまた、懸造り工法で作られていた。■■■■■■■■■
二ノ丸と三ノ丸は2階建て櫓門の大門で仕切られており、この三ノ丸は3代藩主・遠山友貞の時期に増設された曲輪で、戦国
時代には堀切だった所を埋め立てて造成した。この曲輪の中には厩・薪材木小屋・作事小屋・中間部屋・大矢倉(上記)等が
建てられていて、大手門たる風吹門が出入口を塞いでいる。大矢倉は外観2重に見えるが、穴倉の最下層を有していたため
内部は3階建て。2階・3階とも5間四方の重箱櫓であり、大きな丸狭間や土戸付きの窓が開けられていた。■■■■■■■
風吹門は2階建ての櫓門だ。脇に潜り戸を備えた大扉は高さ1間1尺×横4尺。2階部分は飼葉蔵として用いられていた。■■
懸造り、土壁、巨岩の並び…特徴的な城郭の姿■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城内には千石井戸の他、大門下や二ノ丸下部や三ノ丸下にも用意されており、山城でありながら比較的水利に恵まれていた
築城好地であった事がわかる。険峻な山城である苗木城だが、戦国期から継続しそのまま近世城郭とした数少ない例として
貴重な存在である。故に、かなり特徴的な構造が垣間見えよう。山頂天守や二ノ丸御殿など、大型建造物は大半が懸造りと
呼ばれる特異な工法で建てられているのもそのため。懸造りとは、建物底面が石垣などの土台からはみ出してしまい、その
部分に足場を組んで支えて宙に浮いた状態のまま成立させる工法。仙台城(宮城県仙台市)の御殿がこの構造だった事で
有名だが、苗木城の場合それを上回る規模で(というか、ほとんどの建物がこの状態で)造られていた。また、全ての建物が
板造りもしくは土壁塗りになっていて、一般の城郭のイメージにある「白亜の城」「瓦葺の堅牢な建物」という情景とは程遠い
「茶色の城」という光景だったのも特筆点。白漆喰ではなく土塗りの建物、あるいは塗り壁ですらなく木材の表皮が剥き出し
だった上、屋根も板葺きだった訳なので、これはかなり特徴的な外観だった事だろう。■■■■■■■■■■■■■■■■
そしてそれ以上に、苗木城最大の目玉と呼べるのが巨岩の並ぶ有様。山全体を石垣で固めた堅城である上に、その石垣の
中に所々もともとあった岩をそのまま組み込んで城壁を構成している。大矢倉跡の石垣、帯曲輪や本丸基台を固める石垣と
云った所に、まるで埋め込んだような巨石がボコボコと並んでいる上、懸造りの天守は石垣ではなく、そのような大岩の上に
築かれており申した。岩だらけというこの光景が苗木城最大の特徴であり、城跡を見学するに際して最高の見所でもある。■
是非是非、ご覧になって頂きたいものでござるな。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
こうした質実剛健な苗木城であったが、明治維新において廃され1870年(明治3年)〜1871年(明治4年)にかけて城内建築は
ことごとく解体されてしまった。しかし石垣はほぼ完存しているため、城跡としての風格は今でも十分感じられる名城だ。よって
1981年(昭和56年)4月22日、国の史跡に指定されている。2017年(平成29年)4月6日には財団法人日本城郭協会から続日本
百名城にも選出された。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
観光開発も丁寧に行われており、山麓のほか三ノ丸の手前まで車で上がる事ができる。また、地元有志の方々が綺麗に清掃
などの整備事業を行って下さっているので、見学が非常にし易いのも好感触。東濃の必見城郭でござるな。■■■■■■■
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