美濃国 苗木城

苗木城大矢倉跡

所在地:岐阜県中津川市苗木・瀬戸

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★★★☆
公園整備度:★★★☆



木曽川の北岸、中津川有料道路の東側にそびえる山が城域。
巨岩と石垣が渾然一体となった光景が見事な名城として知られる。
別名で霞ヶ城、赤壁城、高森城。
美濃東部の要衝として名高い苗木(なえぎ)城、創建は南北朝時代との事。
近隣にある岩村城(岐阜県恵那市)の支城として遠山景村が築いたとされ、
戦国時代には広恵寺城(岐阜県中津川市、旧恵那郡福岡町)主であった一雲入道、
還俗して遠山左近佐直廉(なおかど)が天文年間(1532年〜1554年)に入城し
城を改修した。これを以って苗木城の築城とする説もござる。
時の岩村城主・遠山景友の2男であった直廉は、織田信長の妹を娶って
織田氏に接近し領地を守る。1570年(元亀元年)彼が嗣子なきまま没すると
(1572年(元亀3年)という説もある)飯羽間城(岐阜県恵那市)主にして
遠山氏一門である遠山右衛門佐友勝が信長の命により苗木城主に就任、
ほどなく友勝も死去したためその子・久兵衛尉友忠が城主を継承したのでござる。
幾多にも支族を分流させた遠山家の中で、有力な7家が七遠山とされ
その中でも遠山三人衆と呼ばれたのが岩村・明知・苗木の遠山家。
名族中の名族であった苗木遠山家を継承した友忠は、1572年頃より始まった
信濃(長野県)方面から侵出してくる甲斐武田家の東美濃攻撃に直面。
武田軍の総大将である秋山信友は、信玄の信任厚く“武田の猛牛”と称される
勇猛果敢な将であり、東濃の織田方諸城は次々と陥落していくが、苗木城を
預かる重責にあった友忠は良く持ち堪え、遂に武田軍が退去するまで
城を守りぬいた。この結果、苗木城は織田方の最前線として機能し、後に
友忠は織田軍の甲信方面軍司令官となった河尻秀隆の配下に組み込まれる。
しかし1582年(天正10年)本能寺の変で信長が斃れ、東海地方の形勢を
羽柴秀吉と徳川家康が二分すると友忠は家康に属し、その結果1583年(天正11年)
秀吉方の武将・森長可(もりながよし、蘭丸の長兄)に攻め落とされてしまった。
城を失った友忠とその子・友政は家康の下に落ち延びていく。家康重臣である
菅沼定利の配下に加えられたところで友忠は死去。友政はさらに
徳川四天王の一人・井伊直政(榊原康政という説も)の下に身を寄せた。
これにより苗木城は森家の持城となるが、秀吉没後の1599年(慶長4年)
信濃国川中島へ転封され、代わって河尻秀長(直次とも、秀隆の子)が入城、
東濃の押さえとなったのでござる。ところが1600年(慶長5年)
関ヶ原の合戦において河尻氏は西軍に属したため
旧城である苗木城の奪還を図る遠山友政は東軍として行動、猛然と攻撃を
開始する(この時まだ友忠は存命で戦闘に加わったという説もあり)。
これにより苗木城は再び遠山氏のものとなり
戦後も徳川将軍家がこの領地を安堵した為、江戸時代を通じて
苗木城は遠山氏12代1万500石の居城となったのでござる。
以下、歴代城主を列記すると(括弧内は苗木藩主就任年)
遠山秀友(1620年(元和6年))、友貞(1642年(寛永19年))
友春(1675年(延宝3年))、友由(ともよし、1712年(正徳2年))
友将(ともまさ、1722年(享保7年))
友央(ともなか、4代藩主・友春の3男、1732年(享保17年))
友明(水戸徳川分家常陸府中松平家からの養子、1740年(元文5年))
友清(7代藩主・友央の長男、1753年(宝暦3年))
友随(ともより、8代藩主・友明の長男、1777年(安永6年))
友寿(ともひさ、9代藩主・友清の孫、1792年(寛政4年))
友禄(ともよし、初名は友詳(ともあき)、1839年(天保10年))。
1万石と言う極小大名でありながら、苗木藩は幕府の御用を数多く請け負った為
藩財政は草創期より赤字続きであった。新田開発に力を注ぎ、収支好転に
努めたと言われるが効果は薄く、しかも第5代藩主・友由が大坂加番になったり
最後の藩主・友禄が幕府若年寄に就任した事で一気に赤字が加速してしまい
大政奉還直前、藩の財務は破綻したのでござった。
そんな苗木藩の藩庁であった苗木城は、木曽川に面した標高426mの高森山を
領域とし、頂上に本丸、そこからいくつもの帯曲輪を段を下る通路状に形成し
山の西側中腹にひと段落した平場を二ノ丸にしており申す。
二ノ丸からさらに北側へ一段下がった場所が三ノ丸。
三ノ丸から北方へ下りて城下町に繋がる通路が大手道となっていて
その大手を守る門が風吹(かぜふき)門と呼ばれる門でござる。
風吹門の向かって左側直上には苗木城最大の櫓である大矢倉がそびえ
三ノ丸入口を強固に守っている、というのが縄張り。
大矢倉(写真)は別名で御鳩部屋とも呼ばれており申した。
400uという狭隘な本丸には多くの建物を建てられず、3重の天守と
それに付随するいくつかの建築物しか置かれていなかった。険峻な山に
築かれた山城ゆえの宿命でござろう。天守は懸(かけ)造り(下記)という
特殊な工法で揚げられており、1階部分は「天守縁下」と呼ばれる床下部で
板縁がついた2間半×1間半(約5m×4m)程度の大きさ。2階は3間四方(6m×6m)
「玉蔵」と言われ、ここが事実上の1階。天守の出入口であった。3階は
4間四方(8m×8m)、下階が岩盤や石垣に食い込んだ形状になっているのに対し
3階は巨岩の上に乗り上げる形で、懸造りの柱穴が下部の岩に穿たれている。
1718年(享保3年)製作の苗木城絵図によれば、屋根は板葺き
壁も板張りだったらしく、他の城の天守に比べてかなり様相が異なる。
現在、天守3階部分を想定した展望台が建てられ、眼下の眺望は抜群だ。
さらに本丸菱櫓台の下、帯曲輪の中には千石井戸が掘られ
この城の水の手を支えている。その一方、機能が限定された本丸に対し
御殿が建てられ藩主の居所となった二ノ丸が苗木城の実質的中枢で、
その内部は上段と下段に分かれていた。上段には
御朱印蔵(将軍から賜った朱印・文書・宝物などを収める蔵)や
勘定所などといった藩政諸役所も置かれていた。御朱印蔵は
亀甲積みと言われる最も新しい工法の石垣の上に建てられ、
蔵への出入には梯子が用いられる構造。他方、下段にあったのが
藩主御殿。これもまた、懸造り工法で作られていたのでござる。
二ノ丸と三ノ丸は二階建て櫓門の大門で仕切られており、
この三ノ丸は3代藩主・遠山友貞(ともさだ)の時期に増設された曲輪で
戦国時代には堀切だった所を埋め立てて造成した。この曲輪の中には
厩・薪材木小屋・作事小屋・中間部屋・大矢倉(上記)等が建てられており
大手門たる風吹門が出入口を塞いでいる。大矢倉は外観2重に見えるが
穴倉の最下層を有していたため、内部は3階建て。2階・3階とも
5間四方の重箱櫓であり、大きな丸狭間や土戸付きの窓が開けられていた。
風吹門は2階建ての櫓門。脇に潜り戸を備えた大扉は高さ1間1尺、横4尺。
2階部分は飼葉蔵として用いられていた。千石井戸の他、大門下や
二ノ丸下部や三ノ丸下にも用意されており、山城でありながら
比較的水利に恵まれていた築城好地であった事がわかる。
険峻な山城である苗木城だが、戦国期から継続し
そのまま近世城郭とした数少ない例として貴重な存在である。
故に、かなり特徴的な構造が垣間見えよう。
山頂天守や二ノ丸御殿など、大型建造物は大半が懸造りと呼ばれる
特異な工法で建てられているのもそのため。
懸造りとは、建物底面が石垣などの土台からはみ出してしまい
その部分に足場を組んで支えて宙に浮いた状態のまま成立させる工法。
仙台城(宮城県仙台市)の御殿がこの構造だった事で有名だが、
苗木城の場合それを上回る規模で(というか、ほとんどの建物がこの状態で)
造られており申した。また、全ての建物が板造りもしくは土壁塗りになっていて
一般の城郭のイメージにある「白亜の城」「瓦葺の堅牢な建物」という情景とは
程遠い「茶色の城」という光景だったのも特筆点。
白漆喰ではなく土塗りの建物、あるいは塗り壁ですらなく
木材の表皮がむき出しだった上、屋根も板葺きだった訳なので
これはかなり特徴的な外観だった事だろう。
それ以上に、苗木城最大の目玉と呼べるのが巨岩の並ぶ有様。
山全体を石垣で固めた堅城である上、その石垣の中に所々
もともとあった岩をそのまま組み込んで城壁を構成している。
大矢倉跡の石垣、帯曲輪や本丸基台を固める石垣などに
まるで埋め込んだような巨石がボコボコと並んでいる上
懸造りの天守は石垣ではなく、そうした大岩の上に築かれており申した。
岩だらけというこの光景が苗木城最大の特徴であり
城跡を見学するに際して最高の見所でもある。
是非是非、ご覧になって頂きたいものでござるな。
こうした質実剛健な苗木城であったが、明治維新において廃され
1870年(明治3年)〜1871年(明治4年)にかけて城内の建物は
ことごとく解体されてしまった。しかし、石垣はほぼ完存しているため
城跡としての風格は今でも十分感じられる名城だ。
このため1981年(昭和56年)4月22日、国の史跡に指定されており申す。
三ノ丸の手前まで車で上がる事ができる。また、地元有志の方々が
丁寧に清掃などの整備事業を行って下さっているので
見学が非常にしやすいのも好感触。東濃の必見城郭でござるな。



※ちなみに…

以前、当HP常連である森のくま殿から苗木城に関する問い合わせがあり
(今回の紹介文もその時ご案内した内容の焼き直しなんですがw)
城内各所を撮影した写真をいくつか提供させて頂きました。
その画像を改めて貼り付けますので、ご覧下さい。
なお、リンク先は画像直結ですので、ブラウザの「戻る」で復帰して下さい。

【風吹門跡から見上げる】
【大矢倉跡石垣と巨石】
【大門手前から本丸方面】
【大矢倉跡にて】
【三ノ丸搦手石垣】
【本丸石垣北面】
【本丸石垣西面】
【天守台】
【天守台上から木曽川を眺む】
【本丸から大矢倉方面を望む】
【勘定所近辺の石垣】
【二ノ丸御殿跡にて】



現存する遺構

井戸跡・石垣・郭群等
城域内は国指定史跡

移築された遺構として
大手門の扉と柱(苗木遠山史料館収蔵)




揖斐陣屋・十七条城  岩村城