中世、揖斐郡を治めた揖斐氏■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
揖斐郡統治の為に設置された近世陣屋跡でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
そもそも室町時代以降の揖斐郡は土岐一門の支流、揖斐氏が支配していた。1343年(興国4年/康永2年)、写真の奥に
映っている城台山に揖斐城を築いた土岐出羽守頼雄(よりかつ、時の美濃守護・土岐大膳大夫頼康(よりやす)の弟)は
地名から揖斐氏と改姓し、以後その城を拠点に詮頼(あきより)―友雄(ともかつ)―基春(もとはる)―基信(もとのぶ)と
代を重ねていたのだ(揖斐城は頼康が築いたとも)。だが基信には子がなかった為、土岐宗家・美濃守政房(まさふさ)の
子である光親(みつちか)を養子として迎え入れた。光親の兄弟には、政房後嗣の座を争った修理大夫政頼(まさより)と
左京大夫頼芸(よりあき)が居る。勘の良い方はお解かりでござろうが、政頼と頼芸の兄弟が守護の座を争っている間に
斎藤新九郎利政(としまさ)、つまり斎藤道三が勢力を伸張。遂に土岐氏は美濃国を追放され道三による下剋上が成る、
と言う時代の話である。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
新たな美濃国主になった斎藤道三であるが、晩年には嫡子・左京大夫義龍(よしたつ)と確執を起こし、美濃は二分して
しまう。揖斐城主・揖斐光親は義龍側に就いたため、1548年(天文17年)城は道三に攻め落とされ揖斐氏は滅亡。だが、
その道三も結局義龍に負けて敗死してしまった。この混乱の中、主を亡くした揖斐城は廃城とされ、以後暫らくは揖斐に
城の無い時期が続いたのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
揖斐陣屋で統治する時代へ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この地に転機が訪れたのは1600年(慶長5年)。関ヶ原合戦で東軍に与した西尾豊後守光教(にしおみつのり)は従来の
石高に1万石を加増され3万石を領し、美濃国安八郡曽根(岐阜県大垣市)からここ揖斐に移ってきたのだ。光教は城台
山の麓に新しい城を築城(揖斐新城)、これが揖斐陣屋の原型となるのである。■■■■■■■■■■■■■■■■■
光教には男子がなかったため、娘が産んだ男子数名を引き取って養子とした。この中の出雲守嘉教(よしのり)が1608年
(慶長13年)に継嗣とされ、1615年(元和元年)光教の死没で西尾家の封を相続。ちなみに嘉教の石高は2万5000石で、
残り5000石は弟の主水正氏教(うじのり)に与えられている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところが嘉教にも男子はなく、そうこうしている間の1623年(元和9年)4月2日、嗣子のないまま34歳の若さで没してしまい
西尾家は無子断絶で取り潰され除封。以後、揖斐は天領化し旗本で美濃代官の岡田将監善同(よしあつ)が揖斐新城を
収公、1631年(寛永8年)陣屋に改めた。これが揖斐陣屋で、5300石の善同は揖斐の地で治水事業に取り組み、成果を
挙げたと言われている。陣屋は明治維新まで存続した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現在、陣屋跡地は宅地化され殆どの遺構は消滅している。陣屋とは言え、城を改修して作られたものだったので、往時は
本丸周囲を堀で囲い、櫓門を揚げ、要所を石垣で固めた堅固な縄張りだったそうだが、現在は全く見る影もない。揖斐川
町立揖斐小学校や浄土宗無量山長源寺、写真の三輪神社近辺が陣屋の敷地だったと言われているが、ご覧の通り…。
一方、城台山には中世揖斐城の遺構が残っているそうなので、山登りを厭わねば、こちらのほうが見応えがあるようだ。
余談だが西尾宗家は断絶したものの、5000石を分知された氏教の系統は旗本として明治まで家名を存続させている。■
|