岐阜城の「前後」に活用された城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
岐阜市内の城郭と言うとまず岐阜城が有名だが、実の所岐阜城は市街の北辺に位置しており、むしろこの加納城の方が市の
中心部にある。それもその筈、加納城は関ヶ原合戦の後、岐阜城が廃城になってから本格的に用いられるようになった城郭
だからであり、現在の岐阜市街地は加納城を中心に開発された都市と言えよう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
初めて加納の地に築城されたのは室町中期の1445年(文安2年)。美濃守護・土岐氏の出城として土岐家の宰相である斎藤
帯刀左衛門尉利永(さいとうとしなが)が構築した。当時の城名は沓井(くつい)城と言い、江戸時代の加納城(後期加納城)と
区別して前期加納城とも呼ばれている。以後、加納城は斎藤氏累代の居城となっている。■■■■■■■■■■■■■■■
土岐氏の本城である川手(かわて)城(岐阜市内、下記)は加納城とわずかに400m程度しか離れていない。川手城と加納城は
相互補完し、時に対立する関係にあった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところが斎藤家の血筋は1538年(天文7年)に断絶、それを乗っ取った梟雄・斎藤新九郎利政(としまさ)により主家の土岐氏も
没落してしまい、遂に1542年(天文11年)利政が時の守護・土岐左京大夫頼芸(よりあき)を追放し美濃全土を掌握、下剋上を
達成してしまう。斎藤利政、出家して法号を斎藤道三。即ち“蝮の道三”と呼ばれる稀代の策謀家である。これにより美濃国の
中心は道三が居を構えた稲葉山城、つまり岐阜城とされ、加納城は廃城になってしまった。■■■■■■■■■■■■■■
この後、岐阜城下郊外の市場町となった加納近辺は斎藤氏を倒して美濃を手中にした織田上総介信長が楽市令を発し商業
都市化。城郭拠点としての位置付けではなく、商業地として存続していく。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかし栄枯盛衰、岐阜城も関ヶ原合戦の攻防戦を経て廃城が決定。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
徳川家康による全国大名の配置転換で1601年(慶長6年)3月6日、奥平美作守信昌(家康の娘・亀姫の婿)が加納城主に任じ
られ、加納城の復興が決定。石高は10万石、他に亀姫の化粧料として2000石が附され申した。■■■■■■■■■■■■
石高3万石の上野国小幡(群馬県甘楽郡甘楽町)から移って来た信昌は、城の構築にあたり廃城とされた岐阜城の資材を多く
転用。加納城二ノ丸北東隅に建てられた御三階櫓は、元々岐阜城の天守であった。なお、本丸には天守台が築かれたものの
建物は揚げられず、実質的にこの二ノ丸北東隅櫓が加納城の天守とされた。美濃という枢要の地を支配する加納城は、徳川
幕藩体制を築くにあたって重要な役割を占めており、この工事は天下普請の号令がかけられて、中部地方の諸大名に助役が
命じられている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
岐阜城の古材を取り込み、天下普請で作られた加納城は美濃の新首府に相応しい平城の近世城郭で、沓井城敷地であった
本丸と新規開拓である二ノ丸・三ノ丸が梯郭式に連結し、他に南曲輪や厩曲輪を配置。東・南・西は河川を利用して外堀と成し
大手を北側に開いた。主要部を石垣で固め、その他の部分も大規模な土塁や堀で防備している。■■■■■■■■■■■■
加納城主の変遷と、岐阜城より遥かに早い国史跡指定■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、信昌は1602年(慶長7年)に隠居し封を菅沼(松平)摂津守忠政(信昌の3男)に譲渡。以後、加納城主は6万石で菅沼系
奥平氏が継承していったが1632年(寛永9年)1月5日に飛騨守忠隆(ただたか、忠政の長男)が亡くなり、後継者不在となって
しまう。実はこの時、忠隆の妻は懐妊しており、彼の死後に男子(右京と言う)が生まれたものの幕府からは相続が認められず
結局、右京も1635年(寛永12年)7月8日に早世し菅沼奥平家は無嗣断絶となってしまった。■■■■■■■■■■■■■■■
亡くなった忠隆に代わり、1632年(寛永9年)1月11日に武蔵国私市(騎西、埼玉県加須市)2万石から3万石加増(計5万石)で
大久保加賀守忠職(ただもと)が入封。さらに1639年(寛永16年)3月3日、播磨国明石(兵庫県明石市)から松平(戸田)丹波守
光重(とだみつしげ)が7万石で加納城主となる。忠職は入れ替りで明石へ。この後、戸田松平家は丹波守光永(みつなが)―
丹波守光煕(みつひろ)と続くが1711年(正徳元年)2月15日、6万石で山城国淀(京都府京都市伏見区)に転封された。■■■
代わって安藤対馬守信友が備中国松山(岡山県高梁市)から6万5000石で入封するも、1728年(享保13年)不運にも落雷から
加納城下に大火が発生、城も焼け落ちてしまった。これにより岐阜城天守であったと言われる二ノ丸御三階櫓は滅失した。■
安藤氏は城の復興を行い、大和守信尹(のぶただ)―対馬守信成(のぶなり)と続いたが、1756年(宝暦6年)5月21日に陸奥国
平(たいら、福島県いわき市)へ転封。信尹の代に放蕩を重ね家中騒動を起こした懲罰人事で、5万石に減封されている。■■
新たに武蔵国岩槻(埼玉県さいたま市岩槻区)から永井伊賀守直陳(なおのぶ)が3万2000石で加納城主に着任、以後は明治
維新まで永井家が6代に渡って城主を継承した。伊賀守尚備(なおみつ)―伊賀守直旧(なおひさ)―肥前守尚佐(なおすけ)―
伊豆守尚典(なおのり)―肥前守尚服(なおこと)の順でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1869年(明治2年)6月20日に最後の藩主・尚服が版籍を奉還し、更に廃藩置県が行われ1871年(明治4年)7月14日、加納藩は
廃藩とされる。これに伴って城は破却され城内の建築物は全て取り壊された。堀も殆んどが埋め立てられ敷地は徐々に宅地へ
変えられていった。しかし本丸部分の敷地はほぼ残存し、太平洋戦争後の一時期、陸上自衛隊の駐屯地になっていたものの
現在では加納公園として整備され一般開放されている。外郭部は滅したが残っている本丸部分は東側に突出した横矢出構えの
形状が良く分かり、石垣・土塁などの遺構も綺麗に保全されているため、1983年(昭和58年)10月28日、国の史跡に指定された。
残存するこの本丸石垣(写真)は圧巻!きちんと本丸外周を切れ間無く一周している。野面積みながら高さもムラ無く一定して
いる精緻なものなので、城郭愛好家ならば岐阜城よりも(!)加納城の石垣を見ておくべし (^ ^)■■■■■■■■■■■■■
岐阜市内(旧羽島郡柳津町)にある、古民家を改装した結婚式場に二ノ丸門が移築残存。この門は切妻造桟瓦葺の薬医門で、
袖塀を東西に延ばし、西側に潜戸を有している。間口2.9m、高い位置に冠木を通しており、各柱は太く強固な作りだ。2021年
(令和3年)2月4日に国の登録有形文化財となっており申す。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
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