美濃国 岐阜城

岐阜城復興天守

 所在地:岐阜県岐阜市

天主閣・槻谷・赤ケ洞
米廩谷洞・杉ケ洞・明神洞
北釜ケ洞・小椎谷・千畳敷
千畳敷下・大宮町 ほか

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★■■
★★★☆



“マムシ”と“第六天魔王”の居城、その前史■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
旧名を稲葉山城。その他、城下町の旧名から井之口城、山の名から金華山(きんかざん)城とも。■■■■■■■■■
標高328.9mの金華山山頂に天守を戴き、“蝮の道三”から“魔王信長”に受け継がれた天下の堅城として有名な城。■■
戦国の歴史を塗り替える重要な場所として教科書にも登場する城だが、意外にもその創建は古く、鎌倉時代にまで遡る。
鎌倉幕府政所執事の二階堂山城守行政(にかいどうゆきまさ)が建仁年間(1201年〜1204年)に築いたと、美濃の地誌
「美濃明細記」や史書の「土岐累代記」に記されている。この後、城は行政の娘婿・佐藤伊賀前司朝光(いがともみつ)に
継がれ、更にその2男である伊賀次郎左衛門光宗(みつむね)へと継承されたが、光宗は一族の罪に連座し信濃に配流
されたため、稲葉三郎左衛門光資に譲られた。光資は光宗の弟でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
稲葉氏の城となったため、この頃に城名が稲葉山城となった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところが光資の孫・光房は勅勘を被ったので飛騨へ閉塞する事となり一時的に稲葉山城は廃絶されてしまう。正元年間
(1259年〜1260年)に二階堂出羽守行藤(ゆきふじ、行政の5代孫)が稲葉山に入ったとされたが本格的に復活するのは
室町時代になってからの事だ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1412年(応永19年)斎藤帯刀左衛門尉利永(としなが)が稲葉山古城を修築。この利永なる人物は、美濃守護・土岐氏の
執事を務めた宰相で、川手城(土岐氏の本城、岐阜市内)を守るため、他に加納城(同市内)なども築いている。斯くして、
1445年(文安2年)加納城の新築に伴い利永が居をそちらへ移し、稲葉山城には彼の弟・斎藤妙椿(みょうちん)が入った。
妙椿は和歌の名人としても有名な文化人にして武威にも秀でた文武両道の名将だった。■■■■■■■■■■■■■

斎藤道三の「国盗り物語」における本拠■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
その後、応仁・文明の大乱が勃発し世情は大いに乱れ、美濃守護・土岐氏は次第に没落していく。これに付けこみ、美濃
一国を手にしたのが鬼謀の将・斎藤道三である。流浪の身分であった西村勘九郎(当時の名)は僧侶から商人、そこから
武士に身を替え、巧妙に斎藤家へ接近。遂に斎藤家の家督を乗っ取り、名を斎藤新九郎利政(さいとうとしまさ)と変え、
土岐家中第一の家臣へと勢力を伸ばして、稲葉山城を居城としたのである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
(但し、近年の研究で道三の覇業は1人のものではなく親子2代で為したものとする説が主流となっている)■■■■■■
そして1542年(天文11年)、主君であるはずの守護・土岐左京大夫頼芸(ときよりあき)を美濃国から追放し下剋上を達成。
名実共に美濃の太守となった彼は、同時に出家し道三と改名。1549年(天文18年)頃に城を改修し防備を固め稲葉山城を
天下に名を轟かす堅城に仕立て上げたのでござる。長良川沿いに屹立する岩山・金華山(稲葉山)からは四方を睥睨でき、
その周囲は断崖絶壁の要害。美濃を制する者は天下を制すると言われたが、まさに美濃を制するに相応しい堅城だったと
言えよう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
一方で美濃を追われた土岐頼芸は隣国・尾張の織田弾正忠信秀を頼り、信秀も「頼芸の復権」を名目に美濃への侵攻を
度々行う。特に1544年(天文13年)又は1547年(天文16年)の(史書により記載が異なる)9月22日は大規模な攻撃を行い
井ノ口(稲葉山城下町)の中まで攻め入ったが、道三は敵が散々暴れ廻る事を放置した後、織田勢が一旦引き上げようと
軍を返した瞬間に背後から襲撃し大打撃を与えた。結局、稲葉山城は全く落とせぬまま信秀・頼芸は逃げ延びるしかなく
道三の巧みな用兵に敵わじと見た信秀はこの後、敵対から同盟に転じる。道三は信秀の嫡男・上総介信長に娘を嫁がせ
盟を結び、南からの脅威を払拭した。梟雄・道三と友好関係を築く事ができた信長は尾張の統一に注力できるようになり
後に天下人となる下地を作れた訳だが、美濃回復の夢破れた頼芸は行く宛てが無くなり、諸国流浪の後に没した。■■■

義父の敵討ちを理由に、信長の美濃攻略が始まる■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
美濃の政治体制を磐石なものにした道三は1554年(天文23年)稲葉山城を嫡男・新九郎義龍(よしたつ)に譲る。ところが
この後、道三・義龍親子は不仲になり1556年(弘治2年)4月とうとう両者は戦いにおよび、数に劣る道三は敗死してしまう。
そのため、尾張・美濃同盟は破綻し、岳父の敵討ちを大義名分に掲げる信長は美濃攻略の意思を鮮明に打ち出した。
桶狭間合戦で東からの脅威を排除した織田軍は、全力で美濃北伐作戦を展開。数度に渡る戦いを仕掛け、徐々に斎藤
家の勢力を削いでいく。1561年(永禄4年)5月11日には義龍が病死し、家督を義龍嫡男の右兵衛大夫龍興(たつおき)が
継ぐも、彼は暗愚の将であったため、ますます斎藤家は弱体化する。しかしそれに気付かぬ彼は国防を疎かにし遊興に
耽った為、国を憂いた忠臣・竹中半兵衛重治が1564年(永禄7年)2月6日、僅か一日にして、それもたった16人の手勢で
稲葉山城を占拠し龍興を放逐する事件が勃発した。結局、半兵衛は城を龍興に返したものの、この事件は堅城と名高い
稲葉山城ですら満足に守れない斎藤家の実情を内外に宣伝する事となり、しかも半兵衛は後に織田家へ服属してしまう。
もはや美濃斎藤家には国防の兵力も人材も残っていなかったのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
機を見た信長は1567年(永禄10年)8月に稲葉山城総攻撃の軍を発し、城下を焼き払い、敵の援軍が近づけぬよう城外に
柵を巡らせ、9月遂に城を落としたのだった。念願の稲葉山城を手にした信長は、古代中国で周王朝の文王が岐山に拠り
天下を平定したのに因んで城と町の名を「岐阜」と改める。即ち“天下のもとになる町”という意味だ。この地名を提案した
のは禅僧の沢彦宗恩(たくげんそうおん、信長の養育僧)であったそうだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

美濃を制する者は天下を制する―――信長の“首都城郭”に■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
信長は岐阜城を拡張整備し、天下統一の足がかりとする。山麓に豪華な御殿群を構え、信長の居館となっていた建物は、
4階建ての金閣銀閣のような楼閣建築だった可能性が高い。庭園は池泉式で、水を引き込んで滝を作り、水路や濠を整え
敷地を石垣で固めていた。この石垣で出入口を虎口として形成していたため、後の織豊系(しょくほうけい)城郭に通じる
技巧として、近年では岐阜城の再評価が行われている。城下は楽市楽座と言った信長の商業振興策で賑わい、その繁栄
振りは宣教師・ルイス=フロイスが「日本史」の中で「バビロンの混雑に等しい」と述べたほどである。岐阜城下町の人口は
8000人〜1万人程度いたものと推測されている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
勿論、山上の主郭部も防備を施され、天守・米蔵・太鼓櫓といった建物が建てられた。これらも石垣で固められ、山頂から
下る尾根筋に沿って小曲輪が連続していた。このあたりはやはり戦国城郭らしい設計思想であり、大きな曲輪で大容量を
確保する近世城郭とは構造が異なる。険しい山の斜面で敵を寄せ付けぬ事を防備の枢要としており、それが故に縄張りの
工夫や曲輪の啓開は後回しにされた感がある。山上という立地からくる制限なので、致し方ない事でござるな。なお、山上
曲輪群の随所に井戸跡があるが、これは雨水を溜めて使ったものらしく、この山で湧水は出ない。■■■■■■■■■■
山麓の居館地区には織豊系城郭(近世城郭)の萌芽が見えるのに、山上の実城部分では旧態の戦国山城(中世城郭)に
なっているアンバランスさだ。まさしく“時代の変わり目”にあった城という事で、信長は約10年この城を本拠とした。■■■
ともあれ、信長は1576年(天正4年)新たに近江国安土(滋賀県近江八幡市)に城を築いて移転したので、岐阜城は嫡男・
秋田城介信忠に譲られ、尾張・美濃が信忠の領地とされた。そのため、岐阜城の整備改修は信忠によって更に追加して
行われたという。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
されど1582年(天正10年)6月、本能寺の変で信長・信忠親子は討死。清洲会議による織田家遺領分配で岐阜城には神戸
三七郎信孝(かんべのぶたか、信長3男)が入ったのだが、翌1583年(天正11年)敵対した羽柴筑前守秀吉に攻略されて
開城の憂き目を見る。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

豊臣政権下の岐阜城と関ヶ原前哨戦■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
信孝自刃後、秀吉により池田紀伊守元助(もとすけ)が城主に据えられたが、1584年(天正12年)4月9日に長久手合戦で
元助は戦死した為、1585年(天正13年)改めて池田三左衛門輝政(てるまさ、元助の弟)が城主に任じられたのでござる。
さて、1590年(天正18年)豊臣(羽柴)秀吉は天下を統一。これにより全国的に大規模な国替えがあり、同年9月に輝政は
三河国吉田(愛知県豊橋市)へと移転する。1591年(天正19年)3月に秀吉の養子・豊臣小吉(こきち)秀勝(ひでかつ)が
13万石を領して新たな岐阜城主になったが、彼は翌1592年(文禄元年)の朝鮮出兵において出陣先の巨済島で9月9日に
病死してしまった。このため、岐阜城主には織田左近衛権少将秀信が就任する。石高は13万3000石。秀信は信忠の嫡男・
三法師の事で、つまりは信長の嫡孫だ。信長・信忠・秀信と織田宗家3代が岐阜城主を歴任した事になる。■■■■■■
豊臣秀吉が没した後、天下の趨勢は徳川家康と石田治部少輔三成が2分し、1600年(慶長5年)両者は軍を発して激突の
様相を見せ始めた。9月15日、有名な関ヶ原の戦いが行われる訳だが、それに先立ち岐阜城は両軍の戦いの舞台となる。
秀信は西軍に与したため、関ヶ原を目指す東軍3万5000の猛攻を受けたのだ。かつての城主・池田輝政が先鋒になり一斉
攻撃を展開した事で、秀信は城を支えられず、程無く開城。結果、秀信は剃髪し高野山へ蟄居する事になり、織田宗家は
ここに滅亡の憂き目を見たのでござった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
徳川氏による全国支配が完成するに至り、戦国期の城郭はもはや不要とされ1601年(慶長6年)岐阜城は廃城にされる。
美濃国の中心は岐阜城下町から南側にある加納城へと移り、同年、加納城主・奥平美作守信昌によって岐阜城建築物は
全て撤去され、大半が加納城の建材として再利用される事となった。加納城天守はもともと岐阜城の天守だったと伝わる。
しかしこの天守も1728年(享保13年)の大火で焼失し、現存しない。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
廃城後、岐阜城跡地は幕府直轄地とされ加納藩が管理。その後、岐阜の町は尾張藩の所管になり1619年(元和5年)岐阜
奉行が設置され申した。江戸期を通じて、金華山は御留山(入山禁止の山)となっていた。■■■■■■■■■■■■■

昭和の観光開発、平成の史跡整備、令和以降の将来性■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
明治期になり1910年(明治43年)金華山頂に模擬天守が建てられる。旧長良橋の廃材を転用したもので、5月15日に落成し
瓦ではなくトタン葺きだったそうだ。3層3階で高さは15.15m、これは日本初の観光用天守閣であったが、1943年(昭和18年)
2月17日の早朝に失火で焼失。なお、この模擬天守を建てる際に天守台の石垣が組み直されたが、模擬建築に合わせた
寸法で構築した為に本来の天守台とは規模が変更されてしまっている(石材は当時のもの)。■■■■■■■■■■■■
現在山頂にある天守は2代目の模擬天守であり、名古屋工業大学名誉教授・城戸久博士の設計による鉄筋コンクリート製、
3重4階、棟高17.7m。1956年(昭和31年)7月25日の落成で、1997年(平成9年)に外観の化粧直しが行われている。更には
1975年(昭和50年)4月に隅櫓も建てられたが、これも彦根城(滋賀県彦根市)の櫓を模した物なので、旧来そうした建物が
あった訳では無い。この隅櫓は資料館として使われている。このように、1970年代までの岐阜城は“観光開発”を主眼として
様々な手が加えられてきた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現在、城跡は岐阜公園として整備されており、山麓の居館地区は信長時代の石組や土塁、水路、冠木門などが復元されて
いる。これらは1984年(昭和59年)秋から行われた発掘の結果を元にしたものだ。1980年代からは本格的に“史跡整備”が
進展し、岐阜城の新たな風致が作られるようになってきている。城域は1957年(昭和32年)2月12日に岐阜市指定の史跡に
なっているが、1984年以降随時発掘が進められ、新しい知見が得られるようになり「岐阜城主時代の信長」の実像も掴める
ようになってきた。2006年(平成18年)4月6日には財団法人日本城郭協会から日本百名城に選出され、2010年(平成22年)
11月19日の文化審議会で国史跡の答申も受けた。それに基づき翌2011年(平成23年)2月7日、国の史跡に指定されている。
これで岐阜城址における発掘が加速するようになり、その範囲も山麓部から山上部へと拡大していく。近年では山上部での
新たな発見が立て続けに報じられ、今後もそうした事象が大いに期待されよう。更に、岐阜市では2030年代を見越した整備
活用計画も策定している。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
山上部へは徒歩で登る事もできるが、金華山ロープウェーを使う方法もあり誰でも気軽に登山できるのが良い。天守から
望む濃尾平野の遠景は絶景。夏季は夜間開放もしているので、遠く名古屋市街の夜景を見る事もできよう。■■■■■■
反対に、眼下には岐阜市街地と長良川の流れを見下ろす景勝地。真下を見れば、この高さなら難攻不落だと思えるのだが
実際には何度も落城しているので、攻め手にも工夫ありき、油断禁物という事なのだろう。そんな戦歴に思いを馳せるのも
一興。まさに岐阜市随一の観光名所となっている城でござるな。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

井戸跡・堀・石垣・土塁・郭群等
城域内は国指定史跡




奥飛騨城址群  岐阜周辺諸城郭