飛騨国 野口城

野口城址

 所在地:岐阜県飛騨市古川町野口・古川町袈裟丸
(旧 岐阜県吉城郡古川町野口・袈裟丸)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

★★★■■■
■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群等
城域内は国指定史跡



飛騨国 
政元城

政元城址

 所在地:岐阜県飛騨市神岡町西
 (旧 岐阜県吉城郡神岡町西)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

★★★■■■
■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群等
城域内は国指定史跡



飛騨国 
土城

土城址

 所在地:岐阜県飛騨市神岡町牧
 (旧 岐阜県吉城郡神岡町牧)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

■■■■
■■■■



現存する遺構

土塁・郭群等
城域内は国指定史跡





ザクザクと湧き出る国史跡の名城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
越中東街道(現在の国道41号線)は尾張(愛知県西部)・美濃(岐阜県南部)と日本海側の越中(富山県)を最短距離で繋ぐ
交易路である。途中には下呂・高山といった町もあり、その重要性は大きかった。また、山続きの飛騨国にあっては開拓を
行うほどの広い平地は少なく、戦国の動乱にあっては必然的にこの街道沿いが防衛の要となったのでござる。■■■■■
野口城・政元(まさもと)城・土(ど)城はいずれもこの越中東街道の沿線にある城だ。■■■■■■■■■■■■■■■■
まず野口城だが、この城はJR高山本線飛騨細江駅の北西側にあり、直下に国道41号線と宮川が行き交っていて、ちょうど
街道を監視できる場所である。この城を中心として神岡方面、高山方面、白川方面、越中八尾方面の4方向へ街道が伸び
飛騨の陸路における一大結節点、更に河川水運も掌握できる交通の要衝だった。旧古川町の北端を塞ぐ山なので、古川
盆地を防衛するのにうってつけな立地でもある。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
野口城の城山は山頂が標高566mを指し、その北東・北西・南西の3ヵ所に小ピークが分散している。城の主郭とされるのは
川や街並みに最も近い南西の小峰にあったらしく、そこから北西の小ピーク〜山頂へと尾根伝いに曲輪が連結する。北西
小ピークが二郭、山頂が三郭だ。城内は随所に堀切や畝状竪堀で分断され、各曲輪にはそれぞれ帯曲輪状の下段曲輪が
附属していた。主郭と三郭の間には深い谷が入り込んでおり、二郭を通らねば直接やり取りする事は出来ない。■■■■■
主郭の標高は554.3m、宮川河畔が474mなので比高差80m、山頂(三郭)とは90m以上という事になろう。■■■■■■■■
遺構の見事さに比べ来歴はほぼ不詳で、吉川左衛門尉が城主として在城していたらしいが、築城年代などの詳しい情報は
不明である。或いは、場所からして飛騨国司・姉小路(あねがこうじ)氏の影響下にあった城と推測されてもいて、飛騨市内
各所にある姉小路氏の城館と併せて「姉小路氏城跡」史跡群の一つに含まれている。この「姉小路氏城跡」群は近年、史跡
整備が急ピッチで進められ、野口城でも2019年(令和元年)大掛かりな発掘調査が行われた。それによれば掘立柱建物跡や
柵列跡が発見され、出土した遺物や峠方向への指向性がある構造から、推測の通り姉小路氏の使用が濃厚と考えられる。
野口城跡は1959年(昭和34年)6月24日に旧古川町史跡(飛騨市が継承)となっていたが、他の「姉小路氏城跡」がいずれも
岐阜県史跡となっていた事に比べると一段低い評価となっていた。しかしこれらの発掘結果や、他の城と含めた整備保存が
評価され、野口城を含む「姉小路氏城跡」5城(他は古川城・小島城・向小島城・小鷹利城)は見事2024年(令和6年)2月21日
揃って国の史跡に指定され申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

政元城・土城は「江馬氏城館跡」群■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
政元城は飛騨市の神岡町西集落にある山城。旧来の越中東街道はここで神原峠を越える本道(現在の岐阜県道75号線)と
数河峠を越える脇道(こちらが現在の国道41号線)に分岐していたため、必然的に街道の分かれ目を押さえる役割を担って
いた城と言える。現状、国道が県道と分岐した所で大きくカーブを描いていて、その脇に浄土真宗宝野山大国(たいこく)寺が
鎮座しているのだが、この寺の西側にある台地が政元城の城山でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
地形から察するに、堀切跡らしき痕跡を見受けられる。他、円形の平場と腰曲輪があるとの事であるが、政元城そのものは
監視哨、或いは烽火台程度の使われ方だったとも想定されている。それと言うのも、政元城の奥に一段高いこの山の山頂
(標高834m)がある為、そこに「政元奥城」と呼ばれるもっと本格的な城が置かれていたと考える向きがあるからだ。反対に、
山頂の方が地形的に険阻なので、そちらが烽火台だったとする説もあり判然としない。もっとも、政元城と政元奥城で1つの
城と言っても過言では無いのだろうが(苦笑)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
別名として山田城との伝承がある。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
一方、土城は高原(たかはら)川と跡津川の合流地点にあり、別名で鬼ヶ城と呼ばれる。牛首山と云う岩山の頂部を二段の
曲輪にしており、川の水運を監視すると共に越中方面から神岡への入口を守る番所のような城砦でもあった。越中東街道は
高原川に沿った経路だが、跡津川に並行して大多和(おおだわ)峠を越えて有峰(ありみね、現在の富山県富山市山間部)に
到る道が分かれている。土城はこの分岐点を扼す重要な城だ。有峰からは信州松本平へ繋がる鎌倉街道が延びているので
土城は飛騨と越中を制するのみならず、信濃への交通にも関わっていた事になる。なお、現在の住所表示では土城のある
半島状地形は「神岡町牧(まき)」に含まれており、城名の由来となっている「神岡町土(ど)」地区は跡津川の対岸である。
土城は河上(川上)氏の家臣・一ノ瀬四郎守之なる者が守ったと伝わるが、それ以上の来歴は不明。この河上氏と言うのは
高原郷(飛騨北部)を長く領有した江馬(えま)氏の配下武将だったとか。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
片や、政元城は源平争乱期に正本主馬という者がここに砦を築いたのが始まりだとされる。正本主馬は悪源太(あくげんた)
こと源左衛門少尉義平(よしひら、頼朝の庶兄)の臣下だったそうだが、この伝承はあまり信頼性のある話では無いだろう。
戦国時代になって吉村斉右衛門政元・吉右衛門政延父子が居城にしたと言うのが通説であるが、この吉村父子と言うのも
江馬氏の家臣。つまり、政元城も土城も共に江馬氏の支配下にあった城と言う事になる。だがこの後、江馬氏は高山の三木
(みつき)氏との戦いに敗れ1582年(天正10年)10月に滅亡する。恐らく、政元城や土城はそれに連動して廃された。■■■■
以来、数百年の眠りに就いた城跡であるが、土城は国道41号線の敷設工事によって山の西側斜面が削られ、東側の斜面は
川に面した断崖なので立ち入り出来ない状態になっている。数々の城系サイトの中には土城に取り付いた写真を上げている
猛者の方々もいらっしゃるが、飛騨市では土城の現状は危険なので入らないように警告している。拙者も跡津川の対岸から
遠景を眺めたのみ(写真)でござる。他方、政元城は地域の方が保全に尽力して下さり、今は散策程度に山へ入る事が可能。
実にありがたい話である。整備して下さっている地元の方に感謝!■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
政元城・土城と飛騨市内の他5城(下館・高原諏訪城・寺林城・洞城・石神城)は飛騨国の命運を左右した江馬氏の城館群で
あるため、1980年(昭和55年)3月21日に「江馬氏城館跡」の名で国の史跡に指定された。また、2024年2月21日には傘松城
(同市内)がこの国史跡群に追加指定されてござる。余談だが、国史跡の登録上は土城の読み仮名が「つちじょう」になって
いる。地名の読みは「ど」らしいので、史跡名称の誤植…?そのおかげで、この頁も長らく土城を「つちじょう」と記していたの
だが―――う〜む、どうしてくれよう(爆)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところで、土城は危険なので立ち入りしないよう指示されている事を記したが、拙者が写真を撮った跡津川対岸を走る旧道も
これまた現在は通行禁止になってしまった。即ち、この角度から城を見る事は今では不可能…そう考えると、なかなか貴重な
アングルの写真になってしまったのかも? (^ ^;■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■





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