飛騨国 荻町城

荻町城本丸跡と白川郷遠望

 所在地:岐阜県大野郡白川村大字荻町

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★☆■■■
★★★★★



平家落人伝説や南朝公家の逃亡地?■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1995年(平成7年)12月9日、国連世界文化遺産に登録された飛騨白川郷荻町(おぎまち)集落。合掌造りの家が建ち並び、昔ながらの
村落がそのまま残っている情景は日本人ならば皆知っている筈であろう。そんな白川郷、現在の岐阜県大野郡白川村が拓かれたのは
南北朝時代に南朝方の公家らが隠れ住んだ事に始まるのだとか。源平合戦の平家落人や敗れた南朝方の末裔が隠棲するという話は
山深く他の町と隔絶する地によくある話ではあるが、荻町城の創建はその年代に遡るとの伝承が残されている。但し、南朝公家がこの
城を築いたとはとても考えられず、あくまでも“伝承”としての話でござろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
戦国時代になると、白川村一帯は帰雲(かえりくも)城(白川村内、大字保木脇か?)に拠る内ヶ島(内嶋)氏(白川氏)の支配下に入る。
この内ヶ島氏はもともと室町幕府奉公衆で、足利義政の命で信濃国松代(長野県長野市)から勢力を伸ばし飛騨へ入り帰雲城を築城、
最大版図としては越中国砺波郡川上庄(富山県南砺市)まで勢力を広げたとか。飛騨北部で戦国大名化した一族だが、そうした権力の
根源となったのが金鉱山で、帰雲城は帰雲鉱山を防備する目的もあって構えられたと見られている。斯くして内ヶ島氏は支配地域内に
数々の支城を用意し配下武将を配置していくのだが、荻町城もそうした城の一つであった。荻町城主となったのは山下氏。当初は飛騨
国司(この肩書も南北朝に由来する訳だがw)・姉小路(あねがこうじ)氏に従っていた土豪で、内ヶ島氏の権勢が強まるに及び、それに
属するようになった家だ。荻町城は内ヶ島上野介為氏(ためうじ)が築き、山下大和守氏頼が城主とされている。以後、山下氏は大和守
氏規―大和守時慶―大和守氏勝と代を重ね、主家・内ヶ島氏は上野介雅氏(まさうじ)―兵庫助氏利(うじとし)―兵庫頭氏理(うじまさ)
(代数、名前にはそれぞれ諸説あり)と続いていった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

帰雲城の壊滅と飛騨国人の運命■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかし戦国末期、織田信長も没して羽柴筑前守秀吉が天下統一に邁進する頃になると飛騨国内にも中央政権の影響が及ぶ。秀吉に
属した高山城(岐阜県高山市)主・金森飛騨守長近(かなもりながちか)の攻略によって1585年(天正13年)8月、帰雲城は落城。この時
越中へ出陣中であった内ヶ島氏理は居城の陥落に為す術なく、秀吉に降伏せざるを得なかった。それまで秀吉と敵対していた氏理で
あるが、しかし白川郷には豊富な金銀鉱山や国内随一と言っていい焔硝生産の技法があり、それらを秀吉へ提供する事で生き残りが
認められた。そして同年11月30日、帰雲城では秀吉との和睦成立を祝う宴が設けられる事となり、その前日(11月29日)内ヶ島一族や
家臣らが勢揃いしていたところ、同日夜半に中部地方で巨大地震が発生する。中部地方〜近畿地方での被害は甚大で、各地の寺社
仏閣・城郭やそれに付随する町屋の倒壊・炎上多数、伊勢湾・若狭湾や琵琶湖での津波・浸水などが発生したのだが、特に帰雲城の
有り様は悲惨極まるもので、帰雲山が山体崩壊を起こして山津波が起き、城もろとも周辺集落を全て飲み込んだ。この「天正大地震」
以来、帰雲城とその城下町は土砂に埋もれたまま。遺構も特に発見されない為、帰雲城は「幻の城」と呼ばれている。城と共に内ヶ島
氏もこれで滅亡しており申す。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
されど、幸か不幸かこの宴席に山下時慶・氏勝父子は参加していなかった。金森長近(つまり秀吉)に与するのを良しとしなかった?と
推測する説もあるが、結果として山下家は生き残り、その後は秀吉配下に組込まれている。秀吉没後は徳川家康の家臣になっており、
山下氏勝は尾張徳川家の祖・徳川右兵衛督義直(家康9男)の守役に抜擢された。義直生母・相応院(お亀の方)の妹が、氏勝の妻で
あった縁からだとか。尾張国主となった義直の居城が名古屋城(愛知県名古屋市中区)であるが、その築城に際して、それまで尾張の
中心都市となっていた清洲城(愛知県清須市)の城下町を、町ごと引っ越しさせる「清洲越し」を提言したのが氏勝だったそうな。氏勝が
いつまで荻町城に居たのか、そして廃城はいつだったのかは定かでないものの、恐らく秀吉に従って程なくその時期を迎えたかと。■■

誰も城跡とは思っていない、合掌造り集落を眺める展望台■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
荻町城は荻町集落を見下ろす高台にあり、独立した高所を敷地としている。荻町集落は荘川沿いにある狭隘な盆地で、西が川に面し
東を山が塞ぐ地形だが、その東面山塊の中で最北端部に突出した舌状台地が城地。その標高は545m、荻町集落は490m前後なので
比高差50mを稼ぐ要地と言える。台地の根元を堀切で切断し、曲輪側に土塁を構えるが、基本的には単郭の構造となっている。土塁の
南端部が虎口となっており、その周辺には石垣も検出されているとか。東面が土塁と堀切だが、北〜西〜南の3方は山の斜面で隔絶し
地形に依存した防御の構造。半面、急崖なので帯曲輪・腰曲輪のような付属構造物も何も無い。曲輪内部は南西隅部に櫓台と思しき
一段高い土壇がある位で、そこには現在小さな祠(左写真)が備えられている。その手前に「世界遺産 白川郷合掌造り集落」の巨大な
石碑があるので、あまり顧みられないようであるが…(苦笑)。ちなみに、この櫓台土壇は土を“盛った”のではなく、曲輪内を造成した
“削り残し”となっているそうだ。曲輪3方の斜面も切岸として手を入れた人工造成斜面で、帯曲輪を作る余地が無いのならその分だけ
角度を急にしてしまおうという築城思想が見て取れる。1994年(平成6年)富山大学による発掘調査ではこうした地盤検証の他、掘立柱
建物跡を確認。その一方、陶磁器などの生活遺物は殆んど出土しなかったと言う。山上にある城郭は戦時の“詰めの城”として用いる
のみだったようで、平時は山麓で生活していたようだ。検出した掘立柱建物も、居住用の物ではなく倉庫程度なのだとか。世界遺産と
なった合掌造り集落にばかり目が行ってしまうが、実戦に即した山城遺構を残すこの荻町城跡も2003年(平成15年)5月23日に白川村
史跡に指定されている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現在この城地は城山展望台として白川郷観光の名所となっており、そこから眺める合掌造り集落の景色は素晴らしい(右写真)。その
景観に感激しつつ、周囲を見渡せば所々に土塁や空堀の痕跡を見ることができるものの、これは城郭に造詣のある人にしか分らない
程度なので、白川郷の眺望を楽しむ一般観光客には無縁の遺構でござろう (^ ^;■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さりとて、この城はその「眺望」にこそ存在意義がある。荻町城からは西方の馬刈(馬狩)峠と東方の牛首峠を監視することができる上
荻町集落の北端を塞ぎ、南の帰雲城方面への結節も容易。常日頃から周囲の状況を確認し戦時には立て籠もる為の場が荻町城の
利用方法だったのだろう。現在、国道156号線と国道360号線が荻町城山の直下で合流しているが、当時から街道監視の要衝としても
重きを為していたに違いない。なお、荻町集落から国道360号線を登るとこの城に到着するが、ここから先は冬季通行止区間になる為
注意が必要。天生(あもう)峠から河合村方面へ抜けようとしても通れないのでござる。ちなみに、この区間は「冬季通行止」というより
「夏しか通れない」。拙者もこのおかげで延々と国道156号線を迂回するハメになってしまった (ー゙ー;■■■■■■■■■■■■■
ところで、幻の帰雲城については山津波で消滅してしまった為どこにあったのか正確な場所は不明なのだが、天正大地震で崩落した
帰雲山(山体崩壊の痕は今なお残る)から土砂の流出方向に相当する地区内で様々な推定地が挙げられている。そんな中、地元の
伝承や諸資料から推理し2019年(令和元年)からテレビ愛知が遺跡発見企画として発掘を行い、その様子が番組化された。大型重機
2台を持ち込み、地中深く埋もれた筈の城跡を掘り返した様子は―――発掘と言うにはちょっと乱暴過ぎる感じも見受けられたが、何と
その現場からは中世の木材(建物材)や生活遺物の断片が出土。それが評価され、(帰雲城だと断定する程ではないが)そこは2021年
(令和3年)8月27日、岐阜県が「帰雲川原城跡」として遺跡登録するに至った。まだまだ課題は多いが、果たしてこれが帰雲城の探索に
決定打となるか否か?行く末を見守りたいものである。…って、荻町城の話と言うより帰雲城の話ばかりになってしまった(爆)■■■■



現存する遺構

堀・石垣・土塁・郭群等
城域内は村指定史跡




大垣城・曽根城・墨俣城・竹中氏陣屋  奥飛騨城址群