美濃国 大垣城

大垣城 復元天守

 所在地:岐阜県大垣市郭町 ほか

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★☆■■■
★★☆■■



水郷・大垣の地勢を存分に利用した城郭■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
別名は大柿城・巨鹿城(きょろくじょう)・麋城(びじょう)・牛屋城など。大垣盆地の真ん中に築かれた平城で、周囲の湿地帯を巧みに
取り込んだ縄張り。最盛期には豊富な水を利用した濠が縦横に張り巡らされ、その濠は町と一体化した広大な城地を形成していた。
築城時期については2説あり、1500年(明応9年)2月に竹腰彦五郎尚綱(たけのこしひさつな)の創建とするものと、1535年(天文4年)
3月に宮川吉佐衛門尉安定(やすさだ、安貞とも)の築城とするものがある。1500年説では「竹腰家旧記」に記載があり、竹腰尚綱が
牛屋郷に>築城とされている。美濃国安八郡牛屋村大尻(大尻は大垣の旧名)は牛屋川(現在の水門川)が流れ込む水郷で、それを
利用した水城を築いたという事だろう。この城は後に6万石を擁して竹腰摂津守重直(尚綱の甥、尚綱の養子になる)が城主を継ぐも
1544年(天文13年)尾張から侵攻した織田弾正忠信秀の軍勢によって攻め落とされたと言われる。一方、1535年説は「美濃明細記」
「大垣城主歴代記」に記録が残り、大尻には室町初期から大垣氏が牛屋東大寺砦なる館を構えていたが1535年3月に土岐氏一門の
宮川安定という土豪がその牛屋東大寺砦の近隣に安八郡青柳村割田(あおやなぎむらわりでん、大垣市内)の空城から石垣や門を
移し、新たな城を築いたとしている。その新城を大垣城と呼ぶようになったのは、城の周囲に垣根を廻らせたため「大尻」を「大垣」に
改めたという事らしい。あるいは、旧来からの在地領主である大垣氏を尊重する意向を含めての事とも考えられる。■■■■■■■

信長の勇躍、秀吉の体制固めを支えた大垣城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
2つの築城説とも確証はないため別々の城を混同したとも考えられるが、いずれにせよ16世紀後半には大垣城が存在していたのは
間違いない。この頃の城は、本丸と二ノ丸から成る比較的小さな砦程度のものだったようだが、大垣は西美濃の要衝であり、美濃の
国主に重視されていた。と言うのも、南には東海道を睨み、眼前を中山道が横断し、その中山道は大垣の西で北国街道に分岐する
交通の交錯点であったからだ。改めて地図を見てみると、北の越前、西の近江、南の尾張、さらに伊勢や伊賀までが大垣と目と鼻の
先に控えている。即ち、戦国時代では越前の朝倉氏、北近江の浅井氏、尾張織田氏、伊勢の北畠氏、南近江・伊賀の六角氏などが
大垣城の警戒圏内に入っている事になる。まさしく戦略的拠点と言えよう。織田信秀に奪われた大垣城は、1549年(天文18年)竹腰
摂津守尚光(重直後嗣)に奪還され、時の美濃国主・斎藤氏の支配下に入った。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
斎藤氏は1559年(永禄2年)に重臣の氏家常陸介直元(うじいえなおもと)を大垣城へ入れて城の拡張を行わせ、固く守らせた。この
直元、出家した法名は貫心斎卜全(ぼくぜん)。美濃三人衆として武名を轟かせた氏家卜全である。後に卜全は三人衆の残り2名と
共に織田上総介信長へ臣従。この寝返りによって、信長は悲願の美濃攻略を成功させた。大垣城を手にする事が美濃奪取の必須
事項だったのだ。卜全の死後、大垣城主は嫡子の氏家左京亮直重が継承したものの、賤ヶ岳合戦により天下の趨勢が羽柴筑前守
秀吉のものになった1583年(天正11年)氏家氏は秀吉から国替えを命じられて秀吉家臣の池田紀伊守恒興が城主に。恒興没後は
2男の三左衛門輝政に受け継がれるが(石高13万石)それも1585年(天正13年)閏8月転任し、一柳直末(ひとつやなぎなおすえ)が
2万5000石で新たな大垣城主となる。美濃郷士であった直末は伊豆守を称し城の更なる改修を行って1588年(天正16年)に天守が
完成。1585年11月29日の天正大地震によって大垣城は全壊焼失と伝わり、その復興として築かれたものだ。天守完成は下に記す
伊藤氏時代の1595年(慶長元年)だとする説もあるが、いずれにしても創立当初は大型の入母屋破風を設けた古式な望楼型天守で
あったと伝えられ申す。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

関ヶ原の戦いで繰り広げられた攻防戦■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかし直末は1590年(天正18年)3月29日、小田原討伐戦で討ち死にしてしまい、代わって伊藤(伊東)長門守祐盛(いとうすけもり、
盛景(もりかげ)とも)が城主に任じられる。祐盛の跡は子の彦兵衛盛宗(もりむね、盛正(もりまさ)とも)が継いだ。そうした中、秀吉
死後に天下の覇権を内大臣・徳川家康が狙い、それを石田治部少輔三成が阻止せんとして対立。両者の争いは1600年(慶長5年)
実戦として激突する。有名な関ヶ原合戦だ。盛宗は石田方に属し、決戦の直前には西軍諸将が大垣城に入城して、ここが関東から
攻め上がってくる東軍に対する最前線基地となったのである。城内には西軍が集結、8月から9月にかけて東軍先遣隊がそれを取り
囲んでいたが、東軍総大将・徳川家康が到着すると野戦で決着をつけるべく大垣城を迂回して大坂方面へ向かうように見せかけ、
西軍をおびき出す。かくて東西両軍は9月15日関ヶ原で対陣し、天下分け目の大合戦が行われたのでござる。■■■■■■■■■
結果、野戦で東軍が大勝利を収め、敗れた西軍は散り散りになり潰走。残党を狩る東軍は大垣城にも押し寄せ、3昼夜の攻防戦が
行われたが、城主・盛宗が敗死(逃亡とも)した事により開城した。なお、城内には近郷農民や武将の家族らも籠っており、その戦の
様子を山田去暦(やまだきょれき)なる武将の娘が後年に体験記として語り綴る「おあむ物語」という文学作品として残されている。
「おあむ様(実名か、敬称かは不明)」というその娘が語るには、城内で鉄砲玉を作ったり、敵の武将の首を鉄漿で整えたり、目前で
自分の弟が鉄砲で撃たれ亡くなった様子などが紹介され、籠城戦の過酷さが伝えられている。おあむ自身は落城前夜に大垣城を
脱出し逃避行を為したと言うが、その道中でも同行した身重の母が急に産気づき田の水で産湯を採ったとの生々しい話が語られて
いる。「おあむ物語」は大垣城を語る上で欠かす事の出来ない史料と言えよう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

旧国宝となる天守の創建■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1601年(慶長6年)、家康の命により上総国鳴渡(千葉県山武市成東)2万石から移封された石川長門守康通(やすみち)が5万石で
城主になる。康通は家康の直臣。石川氏は城の再改修に着手し、父・日向守家成(康通が早世した為、父が家督を継ぐ)の時代を
経て1613年(慶長18年)3代・主殿頭忠総(ただふさ、家成の養子)の頃に一応の完成をみた。以後は徳川譜代大名が交代で配置
される事が慣例になる大垣城、1616年(元和2年)9月に石川忠総が豊後国日田(大分県日田市)へ移されると、同じく5万石で松平
(久松)甲斐守忠良が下総国関宿(千葉県野田市)から入府。忠良も城を改修し1620年(元和6年)天守が4層4階層塔型の現形式に
改められた。「4層」は「死相」に繋がるとして武家では忌み嫌われており、4層4階という類例は珍しい。■■■■■■■■■■■■
ともあれ、この改修で完成形となった大垣城の縄張りは、一段低い腰曲輪(帯曲輪)を備えた比較的小型の本丸に、廊下橋で連結
した南側の二ノ丸が連郭式に並ぶ。二ノ丸は東面に1箇所だけ外枡形を開き、そこから三ノ丸・天神曲輪・竹曲輪が繋がる形式。
三ノ丸・天神曲輪・竹曲輪は塀や土塁で区分けされてはいたが、敷地として一体のもので一周しているため、本丸・二ノ丸に対して
輪郭式となる構成だ。三ノ丸東面に枡形門の大手門が置かれ、天神曲輪北端からは角馬出し状の六兵衛丸が突出、更に竹曲輪
南端も馬屋敷地へ連結する。馬屋敷地は東に右馬丸が繋がり、その右馬丸と三ノ丸の間には煙硝丸が置かれている。これら主郭
群の外周を、猶も輪郭式で幾重もの侍屋敷・町屋の敷地で囲っており、それらの敷地間は全て水濠で分断されていた。さすが水郷
大垣、堀の水には事欠かず、敵が寄せても水の手を断たれる心配は絶対にない。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
4層4階総漆喰塗込の天守が聳える本丸はほぼ全周を多聞櫓で固め、戦闘的な作り。敷地が狭いのに櫓を連ねている為、内部は
空地で、御殿は二ノ丸と三ノ丸に置かれていた。腰曲輪も艮・乾の2方に2重櫓、更に巽の方角には3重櫓を設置。二ノ丸も御殿を
守るように艮・巽・坤・乾の4方に3重櫓を備える厳重な構え(乾櫓は初期段階で焼失)。この他、竹曲輪にも2重櫓があって、物資を
備蓄する長大な土蔵までが並んでいた。本丸と二ノ丸、二ノ丸と天神曲輪がたった1本の橋だけで繋がれていたのは、有事の際に
これらの橋を落として曲輪の独立性を高める意図があり、非常に強固な抗戦機能を持たせようとしていた事の現れである。また、
本丸や二ノ丸を囲う濠幅はまるで湖のように広く、三ノ丸を隔ててその濠幅が南へ大きな流れとなっているため、大垣城の水濠は
おそらく旧河川や湿地帯をそのまま活用したものではないかと見られている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

幕藩体制、そして悲運の戦災焼失■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
斯くして大垣城を大成させた久松松平氏であったが、1624年(寛永元年)5月18日に忠良が死すと後嗣の因幡守憲良(のりなが)が
幼少であったので9月に信濃国小諸(長野県小諸市)へ移封されてしまう。丹波国福知山(京都府福知山市)から岡部内膳正長盛
(おかべながもり)が同じく5万石で入封し、美濃守宣勝(のぶかつ)の代に播磨国龍野(兵庫県たつの市)5万3000石へ移り、1633年
(寛永10年)からは6万石で松平(久松)越中守定綱(さだつな)が大垣城主になる。定綱は山城国淀(京都府京都市伏見区)からの
転封。その2年後、1635年(寛永12年)再度国替えがあり、定綱は11万石に加増され伊勢国桑名(三重県桑名市)へと去る。そして
摂津国尼崎(兵庫県尼崎市)より10万石で戸田采女正氏鉄(とだうじかね)が入り、以後は明治維新まで戸田氏が城主継承。氏鉄
以降、采女正氏信(うじのぶ)―肥後守氏西(うじあき)―采女正氏定(うじさだ)―伊賀守氏長(うじなが)―采女正氏英(うじひで)
―采女正氏教(うじのり)―伊賀守氏庸(うじつね)―采女正氏正(うじただ)―采女正氏彬(うじあきら)―采女正氏共(うじたか)の
11代だ。なお、氏鉄の時代になる1641年(寛永18年)大垣城では門の増設工事を行い、これは1649年(慶安2年)に完成している。
また、氏庸の頃に天守の修繕工事も行い申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、明治維新により城は廃城とされて大半の濠が埋め立てられたが、根強い保存運動により他城のような乱雑な破却は免れ、
天守や隅櫓が残った。このうち天守(西附多聞櫓と東附多聞櫓を附す)と艮隅櫓(先手武具多聞櫓・宗門多聞櫓を附す)は1936年
(昭和11年)4月20日に旧国宝と指定されたのだが、惜しくも1945年(昭和20年)7月29日の大垣空襲で焼失。城跡は全て灰燼に
帰し、城のよすがを残す建物は全損してしまった。焼失前の天守は本丸北西隅にあり、総高24m(うち石垣6.4m)本瓦葺き白漆喰
総塗籠、4重目の窓上下に六葉を備えた長押(なげし)を構えていて品格の高さを物語っていた。2重目と3重目に千鳥破風があり
逆に4重目には破風がなく、最上階の窓から開放的な眺めだった。天守本体の東面と南面に多聞櫓(東多聞櫓・西多聞櫓)を附し
建物平面はL字型となっている。本丸北東隅にあった艮櫓も同様に本瓦葺き白漆喰総塗籠、西面に先手武具多聞櫓、南面には
宗門多聞櫓が繋がるL字型平面。先手武具多聞と宗門多聞の外面には大きな円形の狭間があり、特徴的な外観を為す。艮隅櫓
本体は2重で、屋根には鯱が揚げられていた。これらの文化財指定は戦災焼失により解除されてござる。■■■■■■■■■■

戦後復興と城址の公園整備■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかし城跡復元の機運が高まり、総工費2500万円をかけ天守再建工事が1958年(昭和33年)5月に着工、翌1959年(昭和34年)
4月に完成した。郷土博物館となっているこの復元天守は戦災焼失前の姿を再現しているが、木造ではなく鉄筋コンクリート造り
展望のため最上階の窓枠を大きくしており、必ずしも忠実な再建とは言えなかった。ともあれ、現在では他に東門・西門・多聞櫓・
艮櫓・乾櫓も復興されている。但し、これらの復興建築物は模擬建築が多く、特に門は旧来そこにあったものではない物が多い。
現状、大垣城址では本丸跡だけがこうした復元建築物により残され、その周囲に僅かな石垣と堀が現存。旧竹ノ丸敷地と併せ、
これが大垣公園として開放されている。ちなみに、大垣公園は1938年(昭和13年)の開園。■■■■■■■■■■■■■■■■
発掘調査の結果では織豊期に遡る時代の瓦が出土していて、中には清洲城(愛知県清須市)の瓦と同じ笵のものが検出されて
いる。水郷・大垣の浮き城は、信長の居城と如何なる繋がりがあったのだろうか?城跡そのものは1956年(昭和31年)11月22日
大垣市指定史跡となっている。また、21世紀になってから復元天守の屋根・外壁改修工事が行われ、2011年(平成23年)3月4日
工事完了。これによって、大型化されていた最上階の窓を元の大きさに戻し、旧国宝時代の天守に近い雰囲気を再現している。
2017年(平成29年)4月6日には財団法人日本城郭協会が続日本百名城に選定。将来的に大垣市は旧城の情景を取り戻そうと
計画しているそうだが、これは果たしてどうなるのか???■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
移築された建築物が何点かあり、本丸乾門が大垣市内の個人宅に、清水口御門も大垣市内の県史跡・平林荘(へいりんそう)の
正門に、鉄(くろがね)門が岐阜県各務原市に、岐阜県揖斐郡大野町にある牧村家住宅にも大垣城から移築したと伝わる門がある。
牧村家表門は三間一戸桟瓦葺切妻造り、大野町指定重要文化財となっているそうだ。鉄門も2010年(平成22年)3月1日に各務原市
指定文化財、平林荘正門は1977年(昭和52年)6月9日に大垣市指定文化財となっている。鉄門は従前、加納城(岐阜県岐阜市)の
移築門と伝承され、各務原市蘇原野口町にある安積家に移されていた事から「野口館門」とか「安積門」などと通称されていたが、
老朽化に伴う解体修理を受けた所、大垣城の門とする墨書が見つかった事から来歴が判明した。門は高さ4.5m×間口5.7mの規模、
切妻造の高麗門で、扉に短冊状の鉄板を張り付けていたため「鉄門」の名がある。修繕と同時に安積家から鵜沼宿の展示場所に
再移築され、現在に至ってござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
写真は窓枠改修前の「昭和の大垣城天守」。古態、そして現状に比べて最上階の窓が異常に大きい。これも歴史か…(笑)■■■



現存する遺構

堀・石垣・土塁・郭群等
城域内は市指定史跡

移築された遺構として
平林荘正門(清水口御門)《大垣市指定文化財》・鵜沼宿展示門(鉄門)《各務原市指定文化財》
牧村家表門(伝大垣城移築門)《大野町指定重文》・大垣市内個人宅門(本丸乾門)








美濃国 曽根城

曽根城本丸跡

 所在地:岐阜県大垣市曽根町

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

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稲葉一鉄によって築かれた平城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
揖斐川(木曽三川の1つ)の支流である平野井(ひらのい)川が蛇行する湾曲部の内側に築かれた平城。■■■■■■■■■■
正確な築城年は不明だが、永禄年間(1558年〜1570年)の初頭だと言われる。築城者は稲葉伊予守良通(よしみち、号を一鉄)と
され、旧城・小寺(こでら)城(岐阜県揖斐郡池田町小寺)を引き払って曽根城へ移った。元々、西美濃の有力氏族だった稲葉氏は
不便な山城の小寺城から平城の曽根城へ移った事でさらに勢力を拡大し、稲葉一鉄は安藤伊賀守守就(あんどうもりなり)・氏家
卜全(上記、大垣城の項を参照)と共に美濃三人衆と呼ばれるまでになる。三人衆は美濃国主・斎藤氏の家臣団の中で中核を成し
隣国・尾張から北進しようとする織田家の軍勢を阻んでいたのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
だが“美濃の蝮”と恐れられた斎藤山城守道三の没後、代を重ねる毎に斎藤家は弱体化。道三の孫・治部大輔龍興(たつおき)に
至っては暗愚の大将であり、家臣団も次第に統制を失った。そこへ織田信長から派遣された木下藤吉郎が調略を行い、遂に美濃
三人衆も織田方へ寝返ったのであった。家中の重鎮を切り取られた事により、とうとう斎藤家は美濃防衛を成し得なくなって敗北。
龍興は居城・稲葉山城(岐阜城、岐阜県岐阜市)を放逐され、美濃は完全に織田信長の支配下に入り申した。■■■■■■■■
一鉄が信長に仕えたのは1567年(永禄10年)の事。的確に時勢を見極めて主を替えた稲葉氏は以後、織田家中で美濃国安八郡
曽根5万石を領有する。信長の没後は藤吉郎、即ち豊臣秀吉に臣従。しかし、一鉄は一時期秀吉の勘気を被って曽根城を退去し
山間の清水(きよみず)城(岐阜県揖斐郡揖斐川町清水)へ閉塞する事もあった。ほどなく一鉄は許されたが、嫡子・右京亮貞通と
孫・典通(のりみち)の代になると領地替えを命じられ、稲葉氏は曽根城を離れ4万石で郡上八幡城(岐阜県郡上市)へ移された。
1588年、稲葉氏に代わって曽根城主となったのは西尾豊後守光教(みつのり)。石高は2万石。西尾氏の支配は12年に及んだが
1600年の関ヶ原合戦において光教は東軍に与し西軍方の大垣城を攻略、戦功を挙げた一方で、曽根城にも西軍方・島津兵庫頭
義弘や大谷刑部少輔吉継(よしつぐ)らの軍勢が押し寄せ攻め掛かられている。この時は徳川家康配下の豪将・水野日向守勝成
(みずのかつなり)が救援に駆け付け、落城は免れた。このように西尾光教は美濃各地で奮戦、その功績で戦後1万石を加増され
1601年(慶長6年)揖斐城(岐阜県揖斐郡揖斐川町)へ転封となり申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

春日局が生まれ、そして再スタートを切った旧跡■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
これにより曽根城は役割を終え、廃城。川沿いの平城ゆえ、跡地はほとんどが水田に転用される。特筆するのは江戸時代中期の
1734年(享保19年)10月。稲葉一鉄の母を葬っていた菩提寺・臨済宗曹源山(そうげんざん)華渓(かけい)寺が、曽根城本丸跡に
移築されたのである。この寺には曽根古城跡図が伝承しており、それによれば城内の中央部に「斎藤内蔵佐」の邸宅があったと
記されている。この斎藤内蔵助(佐)とは、惟任日向守こと明智光秀の家宰だった事で有名な斎藤利三(さいとうとしみつ)を指す。
利三はもともと稲葉一鉄に仕えていたものの後に出奔して光秀に就いた経歴があり、図面はまだ彼が稲葉家に奉公していた頃の
ものと検証できよう。時代的に考えて天正年間(1573年〜1592年)の制作と思われるこの図により、当時の利三の屋敷跡が判明。
江戸幕府3代将軍・徳川家光の乳母として有名な春日局ことお福(稲葉佐渡守正成の妻)は斎藤利三の実娘であり、年代の整合
性から鑑みると、彼女はここ曽根城内で誕生したものと考えられている。本能寺の変で逆賊とされてしまった光秀・利三の一族は
ことごとく討たれたが、唯一生き残ったお福は、後に許されて旧の主君筋にあたる稲葉家に寄宿して稲葉兵庫頭重通(しげみち、
一鉄の庶長子)の養女に取立てられ正成に嫁いだのだ。生誕の地で新たな人生の再出発を迎えたのは、運命のいたずらなので
あろうか。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現在の曽根城址は、華渓寺の周囲に公園が造成されて、曽根城公園になっている。1989年(平成元年)に行われた発掘調査の
結果に基づき華渓寺の外周に当時の石垣の基壇部分が再現されたが、それ以外に目立つ遺構はない。出土した本来の石垣や
土塁は埋め戻し保存されたのだが、写真にある土塁は当時のもののようにも思えるが、果たして?■■■■■■■■■■■■
城址(華渓寺としてではなく)は1966年(昭和41年)12月23日に大垣市指定史跡となっており申す。■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

城域内は市指定史跡








美濃国 墨俣城

墨俣一夜城跡標柱

 所在地:岐阜県

大垣市墨俣町墨俣
瑞穂市穂積・祖父江
(大垣市域:旧 岐阜県
(瑞穂市域:旧 岐阜県

安八郡墨俣町墨俣)
本巣郡穂積町穂積・祖父江)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

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謎多き“一夜城伝説”が独り歩きして…■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
築城時の伝承から「墨俣一夜城」或いは単に「一夜城」とも呼ばれる城(但し、一夜城伝説は小田原にもあるので区別が必要)。
言わずと知れた“秀吉出世伝説”の城。だが、その伝説は多分に脚色され必ずしも正確な情報とは言えない。いや、それどころか
墨俣築城に関して詳細で信憑性の置ける情報はほとんど無い。織田信長に関する史書「信長公記(しんちょうこうき)」に若干の
記載があるが、近年まで謎に包まれていた城郭なのである。しかし1959年「前野家古文書」が発見された事により、ようやく墨俣
築城に関して実情が見えてきたようだ(但し、この古文書に関しても信憑性を疑う向きもある)。以下、従来の伝説に「信長公記」
「前野家古文書“永録墨俣記”」を補足して記載したい。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
そもそもこの地に城を必要としたのは、尾張国の織田信長が北進して美濃国を攻略する際の出撃拠点を欲した事による。秀吉の
一夜城伝説によれば、こうした信長の意向によって、秀吉、当時の木下藤吉郎が築城するのだが、話はそれほど簡単ではない。
信長公記によれば、信長が美濃進出に乗り出した頃の1561年(永禄4年)ここには美濃斎藤方の要害があり、信長はこれと交戦し
さらには「洲俣(墨俣の別表記)要害」を改修し在陣したとされる。となれば、この時既に墨俣には何かしらの砦の類があった事に
なろう。一方、秀吉の築城説に拠れば墨俣城を築いたのは1566年(永禄9年)。実に5年の差異がある。5年後に再築したと考える
べきか、或いは元々あった砦を作り直したからこそ一夜と謳われる速さで工事できたのか、色々と検証する余地がありそうだ。
ともあれ、1561年段階では信長の美濃攻略は達成されず結局は墨俣地域を掌握できなかった為、信長が橋頭堡を作ろうとした
事に変わりはない。稲葉山城(岐阜城)と大垣城という2大城郭を結ぶ線上にあり、木曽三川が複雑に入り組んだ(現在と流路が
異なり、3つの川がここに集結していた)墨俣は、陸路・水路の両方を押さえる最重要拠点であり、川の中洲を活用して宿場町や
商業地にもなっていて政治的重要性も高かったのだ。まさに「洲股(墨俣)」という地名の通り、中洲がいくつも股のように分岐し
独自の発達を遂げていた要地を織田軍が切り取れば、美濃斎藤氏の勢力を一気に削ぐ事ができる。■■■■■■■■■■■
何としてもここに城が欲しい信長は、まず最初に配下の重臣・佐久間右衛門尉信盛に命じて大々的な築城を行わせた。しかし、
金華山の頂に聳える稲葉山城(斎藤氏の本拠)からは墨俣の状況が見通せる為、こうした大規模行動はすぐに見破られ信盛の
築城工事は斎藤軍によって蹴散らされてしまう。次いで柴田権六勝家(織田家家老)に同様の命令を下すのだが、家中随一の
戦闘力を誇り勇猛で鳴らす勝家を以ってしても、築城を成し遂げる事はできなかった。■■■■■■■■■■■■■■■■■

“プレハブ工法”で作り上げた陣城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
もはや万策尽き、墨俣築城は不可能と思われた時に名乗り出たのが当時はまだ小者であった藤吉郎だったとされる。藤吉郎、
つまり秀吉は、大掛かりな築城を為そうとするから妨害されるのであり、逆に最小限の人員で隠密裏に行えば工事できると考え
たのだが、この発想は度重なる失敗に反省した信長が秀吉に授けた策という説もある。いずれにせよ、少人数での行動が求め
られる以上、熟練した人材を必要とした秀吉は、工事着工に先立ち川並(かわなみ)衆の頭領・蜂須賀小六正勝の協力を請う。
川並衆とは、木曽川の水運業に利権を持つ土豪勢力集団で、秀吉が諸国流浪していた頃に知り合ったとされる小六は、野伏の
頭目にして豪放快活な快男児として語られている。元来、独立を保ち斎藤にも織田にも与していなかった川並衆だが、秀吉から
立身出世の好機であると説き伏せられ、墨俣築城の助力を決意。川並衆の人足は、秀吉の知恵に従い墨俣へ繋がる木曽川の
上流で木材を切り出し、それを柵や壁板に組み上げた筏(いかだ)にして流した。一方、墨俣で待ち受ける秀吉はそれを拾い上げ
次々と組み立てていく。さながらプレハブ工法のような工事により、工期は大幅に短縮。実際は主工事に3〜4日、仕上げ等々で
更に日数が掛かっているものの、斎藤軍の目を欺いた手際の良さからまるで一夜にして城を築いたと呼ばれ「一夜城」の伝説が
流布するようになったのである。その経緯は、工事を始めたのが9月12日、まずは柵や塀など外周を守る構造物から固めていき
翌13日になると斎藤勢の攻撃を受けながら作業を進行させ、更に14日になると斎藤軍2000の大攻勢が加えられるも、既に城の
大半が完成しており、この攻撃も撃退する事が出来たと言う。結果、15日には信長が3000騎を率いて入城、秀吉に褒美を与え
そのまま城の守りを任せたと伝えられ申す。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
秀吉とその弟・羽柴小一郎秀長、川並衆の蜂須賀小六・前野将右衛門長康(「前野家古文書」の前野氏))という4人が連携して
作業を行った墨俣築城はこうして完成し、途中で来襲した美濃勢の攻撃も損耗率15%という大被害を被りつつ何とか撃退した。
前野家古文書に拠れば、蜂須賀小六配下133名、前野長康配下312名、他諸々の勢子を含め総勢2140名の人員を以ってこの
難工事が行われたとされている。斯くして築かれた墨俣城の概要は、高櫓(2重櫓の事)5基・平櫓3基、土塁高さ6尺長さ250間、
高塀高さ5尺長さ南北に136間、馬止柵高さ6尺長さ1800間、堀幅10尺長さ350間、木戸(城門)は大手・搦手の2箇所を数えた。

その後の墨俣城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
信長は城の出来映えに満足し、翌1567年8月に稲葉山城への総攻撃を決行。墨俣城を足がかりに出陣した軍勢は稲葉山城を
包囲し、落城せしめたのだ。このあたりの動向も疑問視される点があるものの、概ね間違いは無かろう。こうして信長は悲願の
美濃平定を成し遂げ、天下覇業の原点とした。一般的にはこれで墨俣城の必要性は消え、廃城になったと言われる。■■■■
しかし文献によれば、小牧・長久手の戦いを目前にした1584年(天正12年)4月、当時美濃を領有していた池田恒興の配下部将・
伊木清兵衛忠次(いぎただつぐ)が戦に備え城を改修したとされる。が、2年後の1586年(天正14年)6月に木曽三川が大洪水を
起こして城は流され、木曽川の流路も変化して墨俣の地の重要性が薄れてしまった為、そのまま放棄されたのでござる。■■■
以来、墨俣城の存在は忘れられ風化、400年の歳月を経て周辺環境や川の流路も変化し、正確な位置は特定されない状況に
あるものの、数少ない史料や古来から伝承される旧地名などにより推定される場所が墨俣一夜城址公園として整備されている
(写真)。1974年(昭和49年)4月1日には当時の墨俣町が史跡に指定、現在は大垣市に継承されている。なお1991年(平成3年)
「ふるさと創生資金」の1億円を投じてこの公園内に天守を模した鉄筋コンクリート造4層6階の「墨俣一夜城歴史資料館」が建て
られた。館内には城や周辺地域の歴史を学ぶための資料を展示し、それなりに価値はあるが、元来の墨俣城は砦同様の木造
中世城郭であるため、このような天守建築は一切建てられていない。せっかくの歴史資料館なのに史実を捻じ曲げ誤解を招く
建築なので、城郭愛好家からの評価はかなり低い。「城なのだから立派な天守を建てたいと」いう気持ちはわからなくもないが
近年の城郭復元の流行は史実に忠実な本物志向なので、ありもしなかった天守を求めたのは逆効果だったのかもしれない。
見学する際は、あくまでも“模擬建築物”である事を念頭に置いて頂きたい。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

城域内は市指定史跡








美濃国 竹中氏陣屋

竹中氏陣屋跡 竹中半兵衛像と現存櫓門

 所在地:岐阜県不破郡垂井町岩手

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★■■
★★■■■



天才軍師・竹中半兵衛の「息子」が築く■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
竹中氏館とも。所在地から岩手陣屋、岩手城の別称も。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
西美濃で竹中氏と言えば、誰もが思い浮かべるのが竹中半兵衛重治(しげはる)であろう。重治の父・遠江守重元(しげちか)は
美濃斎藤氏の重臣として活躍、1558年(永禄元年)この地を治める岩手弾正忠誠を重治と協力し攻め滅ぼした。斯くして岩手の
地は竹中氏のものとなり、重元は険阻な山上に菩提山城(竹中氏陣屋の北西にある山城)を構えた。以来、重元―重治と2代に
亘りこの山城が竹中氏の本拠となる。その後、重治は木下藤吉郎に三顧の礼を以って迎え入れられ秀吉の軍師となり、秀吉の
転戦に伴って各地を渡り歩くのは周知の通り。小谷城(滋賀県長浜市)攻め、鳥取城(鳥取県鳥取市)攻略、そして播磨三木城
(兵庫県三木市)包囲と西へ西へ進む中、天才軍師・竹中半兵衛は病に侵されていき、信長に謀反を疑われた黒田官兵衛孝高
(よしたか)の息子・松寿丸(しょうじゅまる)後の黒田甲斐守長政を自らの命と引き換えに救う事が最期の仕事となった。■■■
1579年(天正7年)6月13日に没した重治。その子・重門(しげかど)はまだ幼く、従叔父である伊豆守重利(しげとし、重元の甥)が
後見し、秀吉の下で育てられたと言う。その重門が長じて丹後守となった1588年、彼は山深い菩提山城を廃しその山麓に新たな
平城を築いた。これが岩手城である。経済発展に不便な山城から城下町形成に有利な平城へ居城を移したのは、天才的な経済
感覚を持つ秀吉の薫陶を受けた故であろうか。以来、この城(陣屋)が明治維新まで竹中氏の居城となり申した。■■■■■■
重門は豊臣政権下で所領5000石、朝鮮出兵後は1000石を加増され6000石であった。秀吉が没し関ヶ原合戦が勃発すると、彼は
はじめ西軍に与するも、後に東軍へ転向。これは徳川家康家臣・井伊修理大夫直政の降誘を受けた為と言われるが、一説には
黒田長政から誘いを受けたからとも。結果、竹中重門と黒田長政は関ヶ原で同じ場所に布陣し共同で戦った。父・竹中半兵衛と
黒田官兵衛が共に力を合わせた如く、子供の重門と長政も肩を並べた訳だ。なお、戦場となった関ヶ原は竹中家の所領。よって
戦後に家康から米1000石を迷惑料として贈られたが、加増は特になく江戸幕府の成立を迎える。そのため竹中家は所領1万石
以下、大名にはなれず旗本として存続する事となった。こうなると城を名乗る事は憚られる。それ故に江戸期を通じて岩手城は
陣屋と扱われ、竹中氏陣屋(岩手陣屋)の名が定着するのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

単純ながら興味深い陣屋の構造■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
陣屋の縄張りは基本的に東西×南北それぞれ約180mの単郭方形居館を為し、周囲をぐるりと石垣と水堀で囲っている。旗本
居館なので「陣屋」と称されるが、元は岩手「城」として成立しているのだから流石の威容と言える構造物だ。曲輪の北西隅側は
2回に及ぶ折れがあり搦手方向に横矢を掛けている。また、東面に大手口を開くがその南側にも横矢の折れを有す。大手門は
立派な櫓門で封じているものの枡形にはなっておらず櫓門が前面を塞ぐ形態。これだけ見れば、まるで二条城(京都府京都市
中京区)の東大手門と同じである。単郭主郭の中には、往時は御殿などの建築物があったと考えられる。これでもし、輪郭式に
二ノ丸や三ノ丸までが広がっていたなら、さながら駿府城(静岡県静岡市葵区)や山形城(山形県山形市)のような城と同様の
雄大な平城になっていたと想像されるのだが、流石に陣屋レベルではそうならなかったのが惜しくもある。なお、陣屋の外周を
廻る堀は徳川家康から与えられた1000石の米を原資に築かれたそうで、“千石堀”と呼ばれているとか。■■■■■■■■■
重門以後、交代寄合旗本(参勤交代を行う旗本)として存続した竹中家は越中守重常(しげつね)―左京重高(しげたか)―主殿
重長(しげなが)―主膳重栄(しげよし)―丹後守元敏(もととし)―主膳元儔(ちかかず)―左京元恭(ちかゆき)―遠江守重寛
(しげひろ)―主税助重英(しげひで)―主税助重知(しげとも)―図書助重明(しげあき)―遠江守重固(しげかた)と続く。但し、
代数については諸説あり、元恭を当主と数えない説や重寛を2人の人物(本物の重寛は夭折した為、替え玉を仕立てた)とする
もの等がある。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

立派な現存櫓門は必見の遺構!■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
江戸時代最後の当主である重固は幕府内で若年寄並とされ陸軍奉行に就任、その経歴から完全に佐幕派となり戊辰戦争では
新政府軍と徹底抗戦し続けた。結果、竹中家は新政府から改易処分を受け、陣屋も廃される事になるのである。重固の処分後
家督は前当主・重明(改名して黄山(おうざん)と称す)の継承が許されたため御家断絶は免れたものの、石高は300石のみで
しかも平民に編入される(後に士族に復帰)扱いを受ける有り様だった。陣屋跡地は学校など公共施設に転用される事となるも
これについては災い転じて福となす、学校の門となった事で大手門は取り壊しを免れ、敷地も大半が保全されるようになった。
結果、陣屋跡地は1956年(昭和31年)3月28日に岐阜県指定史跡となっている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現在も陣屋主郭の南半分は垂井町立岩手小学校の敷地。残りの北半分は殆んどが民家の敷地なので立ち入りは憚られるも
大手門周辺だけは一般公開されているので、見学が可能である。大手門の斜向かい(北東)に駐車場もあり、来訪に困る事は
無いだろう。学校敷地の更に南は軍事調練場だったそうだが、こちらは現状で畑や宅地なので中には入れない。学校の西側も
かつての的場であったのだが、同様に耕作地なので踏み荒らすのは厳禁だ。節度ある見学をお願いしたいものだが、大手門は
岐阜県における唯一の城郭現存建築だそうなので、必見の城跡(陣屋跡)と言える。で、その大手門の前にはたいそう立派な
竹中半兵衛像…(写真)。やっぱり「竹中」と言ったら半兵衛なのは分かるが、この陣屋を築いたのはあくまで息子の重門なので
混同無きようお気を付けあれ(地図にも「竹中半兵衛陣屋跡」と書いてある程なんだけどねw)。■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

大手櫓門・堀・石垣・土塁・郭群等
陣屋域内は県指定史跡




神岡城  荻町城