水郷・大垣の地勢を存分に利用した城郭■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
別名は大柿城・巨鹿城(きょろくじょう)・麋城(びじょう)・牛屋城など。大垣盆地の真ん中に築かれた平城で、周囲の湿地帯を巧みに
取り込んだ縄張り。最盛期には豊富な水を利用した濠が縦横に張り巡らされ、その濠は町と一体化した広大な城地を形成していた。
築城時期については2説あり、1500年(明応9年)2月に竹腰彦五郎尚綱(たけのこしひさつな)の創建とするものと、1535年(天文4年)
3月に宮川吉佐衛門尉安定(やすさだ、安貞とも)の築城とするものがある。1500年説では「竹腰家旧記」に記載があり、竹腰尚綱が
牛屋郷に>築城とされている。美濃国安八郡牛屋村大尻(大尻は大垣の旧名)は牛屋川(現在の水門川)が流れ込む水郷で、それを
利用した水城を築いたという事だろう。この城は後に6万石を擁して竹腰摂津守重直(尚綱の甥、尚綱の養子になる)が城主を継ぐも
1544年(天文13年)尾張から侵攻した織田弾正忠信秀の軍勢によって攻め落とされたと言われる。一方、1535年説は「美濃明細記」
「大垣城主歴代記」に記録が残り、大尻には室町初期から大垣氏が牛屋東大寺砦なる館を構えていたが1535年3月に土岐氏一門の
宮川安定という土豪がその牛屋東大寺砦の近隣に安八郡青柳村割田(あおやなぎむらわりでん、大垣市内)の空城から石垣や門を
移し、新たな城を築いたとしている。その新城を大垣城と呼ぶようになったのは、城の周囲に垣根を廻らせたため「大尻」を「大垣」に
改めたという事らしい。あるいは、旧来からの在地領主である大垣氏を尊重する意向を含めての事とも考えられる。■■■■■■■
信長の勇躍、秀吉の体制固めを支えた大垣城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
2つの築城説とも確証はないため別々の城を混同したとも考えられるが、いずれにせよ16世紀後半には大垣城が存在していたのは
間違いない。この頃の城は、本丸と二ノ丸から成る比較的小さな砦程度のものだったようだが、大垣は西美濃の要衝であり、美濃の
国主に重視されていた。と言うのも、南には東海道を睨み、眼前を中山道が横断し、その中山道は大垣の西で北国街道に分岐する
交通の交錯点であったからだ。改めて地図を見てみると、北の越前、西の近江、南の尾張、さらに伊勢や伊賀までが大垣と目と鼻の
先に控えている。即ち、戦国時代では越前の朝倉氏、北近江の浅井氏、尾張織田氏、伊勢の北畠氏、南近江・伊賀の六角氏などが
大垣城の警戒圏内に入っている事になる。まさしく戦略的拠点と言えよう。織田信秀に奪われた大垣城は、1549年(天文18年)竹腰
摂津守尚光(重直後嗣)に奪還され、時の美濃国主・斎藤氏の支配下に入った。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
斎藤氏は1559年(永禄2年)に重臣の氏家常陸介直元(うじいえなおもと)を大垣城へ入れて城の拡張を行わせ、固く守らせた。この
直元、出家した法名は貫心斎卜全(ぼくぜん)。美濃三人衆として武名を轟かせた氏家卜全である。後に卜全は三人衆の残り2名と
共に織田上総介信長へ臣従。この寝返りによって、信長は悲願の美濃攻略を成功させた。大垣城を手にする事が美濃奪取の必須
事項だったのだ。卜全の死後、大垣城主は嫡子の氏家左京亮直重が継承したものの、賤ヶ岳合戦により天下の趨勢が羽柴筑前守
秀吉のものになった1583年(天正11年)氏家氏は秀吉から国替えを命じられて秀吉家臣の池田紀伊守恒興が城主に。恒興没後は
2男の三左衛門輝政に受け継がれるが(石高13万石)それも1585年(天正13年)閏8月転任し、一柳直末(ひとつやなぎなおすえ)が
2万5000石で新たな大垣城主となる。美濃郷士であった直末は伊豆守を称し城の更なる改修を行って1588年(天正16年)に天守が
完成。1585年11月29日の天正大地震によって大垣城は全壊焼失と伝わり、その復興として築かれたものだ。天守完成は下に記す
伊藤氏時代の1595年(慶長元年)だとする説もあるが、いずれにしても創立当初は大型の入母屋破風を設けた古式な望楼型天守で
あったと伝えられ申す。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
関ヶ原の戦いで繰り広げられた攻防戦■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかし直末は1590年(天正18年)3月29日、小田原討伐戦で討ち死にしてしまい、代わって伊藤(伊東)長門守祐盛(いとうすけもり、
盛景(もりかげ)とも)が城主に任じられる。祐盛の跡は子の彦兵衛盛宗(もりむね、盛正(もりまさ)とも)が継いだ。そうした中、秀吉
死後に天下の覇権を内大臣・徳川家康が狙い、それを石田治部少輔三成が阻止せんとして対立。両者の争いは1600年(慶長5年)
実戦として激突する。有名な関ヶ原合戦だ。盛宗は石田方に属し、決戦の直前には西軍諸将が大垣城に入城して、ここが関東から
攻め上がってくる東軍に対する最前線基地となったのである。城内には西軍が集結、8月から9月にかけて東軍先遣隊がそれを取り
囲んでいたが、東軍総大将・徳川家康が到着すると野戦で決着をつけるべく大垣城を迂回して大坂方面へ向かうように見せかけ、
西軍をおびき出す。かくて東西両軍は9月15日関ヶ原で対陣し、天下分け目の大合戦が行われたのでござる。■■■■■■■■■
結果、野戦で東軍が大勝利を収め、敗れた西軍は散り散りになり潰走。残党を狩る東軍は大垣城にも押し寄せ、3昼夜の攻防戦が
行われたが、城主・盛宗が敗死(逃亡とも)した事により開城した。なお、城内には近郷農民や武将の家族らも籠っており、その戦の
様子を山田去暦(やまだきょれき)なる武将の娘が後年に体験記として語り綴る「おあむ物語」という文学作品として残されている。
「おあむ様(実名か、敬称かは不明)」というその娘が語るには、城内で鉄砲玉を作ったり、敵の武将の首を鉄漿で整えたり、目前で
自分の弟が鉄砲で撃たれ亡くなった様子などが紹介され、籠城戦の過酷さが伝えられている。おあむ自身は落城前夜に大垣城を
脱出し逃避行を為したと言うが、その道中でも同行した身重の母が急に産気づき田の水で産湯を採ったとの生々しい話が語られて
いる。「おあむ物語」は大垣城を語る上で欠かす事の出来ない史料と言えよう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
旧国宝となる天守の創建■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1601年(慶長6年)、家康の命により上総国鳴渡(千葉県山武市成東)2万石から移封された石川長門守康通(やすみち)が5万石で
城主になる。康通は家康の直臣。石川氏は城の再改修に着手し、父・日向守家成(康通が早世した為、父が家督を継ぐ)の時代を
経て1613年(慶長18年)3代・主殿頭忠総(ただふさ、家成の養子)の頃に一応の完成をみた。以後は徳川譜代大名が交代で配置
される事が慣例になる大垣城、1616年(元和2年)9月に石川忠総が豊後国日田(大分県日田市)へ移されると、同じく5万石で松平
(久松)甲斐守忠良が下総国関宿(千葉県野田市)から入府。忠良も城を改修し1620年(元和6年)天守が4層4階層塔型の現形式に
改められた。「4層」は「死相」に繋がるとして武家では忌み嫌われており、4層4階という類例は珍しい。■■■■■■■■■■■■
ともあれ、この改修で完成形となった大垣城の縄張りは、一段低い腰曲輪(帯曲輪)を備えた比較的小型の本丸に、廊下橋で連結
した南側の二ノ丸が連郭式に並ぶ。二ノ丸は東面に1箇所だけ外枡形を開き、そこから三ノ丸・天神曲輪・竹曲輪が繋がる形式。
三ノ丸・天神曲輪・竹曲輪は塀や土塁で区分けされてはいたが、敷地として一体のもので一周しているため、本丸・二ノ丸に対して
輪郭式となる構成だ。三ノ丸東面に枡形門の大手門が置かれ、天神曲輪北端からは角馬出し状の六兵衛丸が突出、更に竹曲輪
南端も馬屋敷地へ連結する。馬屋敷地は東に右馬丸が繋がり、その右馬丸と三ノ丸の間には煙硝丸が置かれている。これら主郭
群の外周を、猶も輪郭式で幾重もの侍屋敷・町屋の敷地で囲っており、それらの敷地間は全て水濠で分断されていた。さすが水郷
大垣、堀の水には事欠かず、敵が寄せても水の手を断たれる心配は絶対にない。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
4層4階総漆喰塗込の天守が聳える本丸はほぼ全周を多聞櫓で固め、戦闘的な作り。敷地が狭いのに櫓を連ねている為、内部は
空地で、御殿は二ノ丸と三ノ丸に置かれていた。腰曲輪も艮・乾の2方に2重櫓、更に巽の方角には3重櫓を設置。二ノ丸も御殿を
守るように艮・巽・坤・乾の4方に3重櫓を備える厳重な構え(乾櫓は初期段階で焼失)。この他、竹曲輪にも2重櫓があって、物資を
備蓄する長大な土蔵までが並んでいた。本丸と二ノ丸、二ノ丸と天神曲輪がたった1本の橋だけで繋がれていたのは、有事の際に
これらの橋を落として曲輪の独立性を高める意図があり、非常に強固な抗戦機能を持たせようとしていた事の現れである。また、
本丸や二ノ丸を囲う濠幅はまるで湖のように広く、三ノ丸を隔ててその濠幅が南へ大きな流れとなっているため、大垣城の水濠は
おそらく旧河川や湿地帯をそのまま活用したものではないかと見られている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
幕藩体制、そして悲運の戦災焼失■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
斯くして大垣城を大成させた久松松平氏であったが、1624年(寛永元年)5月18日に忠良が死すと後嗣の因幡守憲良(のりなが)が
幼少であったので9月に信濃国小諸(長野県小諸市)へ移封されてしまう。丹波国福知山(京都府福知山市)から岡部内膳正長盛
(おかべながもり)が同じく5万石で入封し、美濃守宣勝(のぶかつ)の代に播磨国龍野(兵庫県たつの市)5万3000石へ移り、1633年
(寛永10年)からは6万石で松平(久松)越中守定綱(さだつな)が大垣城主になる。定綱は山城国淀(京都府京都市伏見区)からの
転封。その2年後、1635年(寛永12年)再度国替えがあり、定綱は11万石に加増され伊勢国桑名(三重県桑名市)へと去る。そして
摂津国尼崎(兵庫県尼崎市)より10万石で戸田采女正氏鉄(とだうじかね)が入り、以後は明治維新まで戸田氏が城主継承。氏鉄
以降、采女正氏信(うじのぶ)―肥後守氏西(うじあき)―采女正氏定(うじさだ)―伊賀守氏長(うじなが)―采女正氏英(うじひで)
―采女正氏教(うじのり)―伊賀守氏庸(うじつね)―采女正氏正(うじただ)―采女正氏彬(うじあきら)―采女正氏共(うじたか)の
11代だ。なお、氏鉄の時代になる1641年(寛永18年)大垣城では門の増設工事を行い、これは1649年(慶安2年)に完成している。
また、氏庸の頃に天守の修繕工事も行い申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、明治維新により城は廃城とされて大半の濠が埋め立てられたが、根強い保存運動により他城のような乱雑な破却は免れ、
天守や隅櫓が残った。このうち天守(西附多聞櫓と東附多聞櫓を附す)と艮隅櫓(先手武具多聞櫓・宗門多聞櫓を附す)は1936年
(昭和11年)4月20日に旧国宝と指定されたのだが、惜しくも1945年(昭和20年)7月29日の大垣空襲で焼失。城跡は全て灰燼に
帰し、城のよすがを残す建物は全損してしまった。焼失前の天守は本丸北西隅にあり、総高24m(うち石垣6.4m)本瓦葺き白漆喰
総塗籠、4重目の窓上下に六葉を備えた長押(なげし)を構えていて品格の高さを物語っていた。2重目と3重目に千鳥破風があり
逆に4重目には破風がなく、最上階の窓から開放的な眺めだった。天守本体の東面と南面に多聞櫓(東多聞櫓・西多聞櫓)を附し
建物平面はL字型となっている。本丸北東隅にあった艮櫓も同様に本瓦葺き白漆喰総塗籠、西面に先手武具多聞櫓、南面には
宗門多聞櫓が繋がるL字型平面。先手武具多聞と宗門多聞の外面には大きな円形の狭間があり、特徴的な外観を為す。艮隅櫓
本体は2重で、屋根には鯱が揚げられていた。これらの文化財指定は戦災焼失により解除されてござる。■■■■■■■■■■
戦後復興と城址の公園整備■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかし城跡復元の機運が高まり、総工費2500万円をかけ天守再建工事が1958年(昭和33年)5月に着工、翌1959年(昭和34年)
4月に完成した。郷土博物館となっているこの復元天守は戦災焼失前の姿を再現しているが、木造ではなく鉄筋コンクリート造り
展望のため最上階の窓枠を大きくしており、必ずしも忠実な再建とは言えなかった。ともあれ、現在では他に東門・西門・多聞櫓・
艮櫓・乾櫓も復興されている。但し、これらの復興建築物は模擬建築が多く、特に門は旧来そこにあったものではない物が多い。
現状、大垣城址では本丸跡だけがこうした復元建築物により残され、その周囲に僅かな石垣と堀が現存。旧竹ノ丸敷地と併せ、
これが大垣公園として開放されている。ちなみに、大垣公園は1938年(昭和13年)の開園。■■■■■■■■■■■■■■■■
発掘調査の結果では織豊期に遡る時代の瓦が出土していて、中には清洲城(愛知県清須市)の瓦と同じ笵のものが検出されて
いる。水郷・大垣の浮き城は、信長の居城と如何なる繋がりがあったのだろうか?城跡そのものは1956年(昭和31年)11月22日
大垣市指定史跡となっている。また、21世紀になってから復元天守の屋根・外壁改修工事が行われ、2011年(平成23年)3月4日
工事完了。これによって、大型化されていた最上階の窓を元の大きさに戻し、旧国宝時代の天守に近い雰囲気を再現している。
2017年(平成29年)4月6日には財団法人日本城郭協会が続日本百名城に選定。将来的に大垣市は旧城の情景を取り戻そうと
計画しているそうだが、これは果たしてどうなるのか???■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
移築された建築物が何点かあり、本丸乾門が大垣市内の個人宅に、清水口御門も大垣市内の県史跡・平林荘(へいりんそう)の
正門に、鉄(くろがね)門が岐阜県各務原市に、岐阜県揖斐郡大野町にある牧村家住宅にも大垣城から移築したと伝わる門がある。
牧村家表門は三間一戸桟瓦葺切妻造り、大野町指定重要文化財となっているそうだ。鉄門も2010年(平成22年)3月1日に各務原市
指定文化財、平林荘正門は1977年(昭和52年)6月9日に大垣市指定文化財となっている。鉄門は従前、加納城(岐阜県岐阜市)の
移築門と伝承され、各務原市蘇原野口町にある安積家に移されていた事から「野口館門」とか「安積門」などと通称されていたが、
老朽化に伴う解体修理を受けた所、大垣城の門とする墨書が見つかった事から来歴が判明した。門は高さ4.5m×間口5.7mの規模、
切妻造の高麗門で、扉に短冊状の鉄板を張り付けていたため「鉄門」の名がある。修繕と同時に安積家から鵜沼宿の展示場所に
再移築され、現在に至ってござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
写真は窓枠改修前の「昭和の大垣城天守」。古態、そして現状に比べて最上階の窓が異常に大きい。これも歴史か…(笑)■■■
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