名門・東氏を滅亡させた陣城が起源@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
武家政権の成立期から戦国時代にかけて、美濃国郡上(ぐじょう)郡を治めたのは東(とう)氏であった。東氏の祖とされる
東六郎大夫胤頼(とうのたねより)は源頼朝の旗揚げに尽力した下総の有力者・千葉下総権介常胤(ちばつねたね)の6男。
胤頼は父から下総国海上(かいじょう)郡橘荘(現在の千葉県香取郡東庄町(とうのしょうまち)周辺)を相続しており、この
橘荘は東荘(とうのしょう)とも呼ばれたので、東姓を名乗る事になったものだ。後に東氏は承久の乱における功績を以って
1221年(承久3年)頃に郡上郡の統治者とされ、以降戦国期までこの地方を領有していた。入部の頃は篠脇(しのわき)城
(郡上市内)を居城としていたが、戦国時代になり争乱が激化すると赤谷山(あかだにやま)城(これも郡上市内、東殿山城
(とうどやまじょう)とも呼ぶ)を新たに築いて本拠を移した。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
なお余談であるが、東氏は武門の家であると同時に歌人の家系としても有名で、室町時代中期の当主である下野守常縁
(つねより)は古今伝授(古今和歌集の解釈を一子相伝の秘伝として伝える公家芸能)の継承者であり、自身の城を奪った
相手に和歌十首を贈り返還させるという離れ業を演じた傑物でもあった。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
さてそんな東氏であるが、戦国乱世が激しくなった時代の1559年(永禄2年)、13代当主・左近将監常慶(つねよし)は縁談の
もつれから木越(きごえ)城(郡上市内)主・遠藤新兵衛胤縁(えんどうたねより)を謀殺する。元々、常慶と胤縁は縁戚であり
同族として郡上郡の平定に協力した間柄であったものの、主家である常慶が胤縁の娘を嫡男・七郎常堯(つねたか)の嫁に
(常慶本人の嫁とする説もある)所望した所、粗暴な振舞が多く人望の無い常堯を嫌い、胤縁は娘を家臣の畑佐備後守信胤
(これもその息子・畑佐六郎右衛門信国とする説もある)に与えてしまったのだとか。これを恨んだ常慶は、八朔の宴と称して
胤縁を赤谷山城へおびき寄せ、鉄砲で狙撃させ暗殺した。八朔と言う事で、8月1日の事件である。@@@@@@@@@@@
なお、この縁談説そのものにも異説があり、常慶は乱暴な嫡男・常堯の素行を嫌い胤縁の弟・六郎左衛門盛数(もりかず)を
養子に迎え入れたので、廃嫡された常堯が遠藤家を恨み胤縁を殺害したとする説がある。いずれにせよ、実兄を嗜虐された
盛数は東常慶・常堯父子への復讐を誓い、14日に挙兵した。前置きがかなり長くなったが、赤谷山城を攻撃する遠藤盛数が
付城を構えたのが、この牛首山(八幡山)に築かれた城の原初である。八幡山の砦と赤谷山城の間には吉田川が流れており
東勢は川に架かる橋を破壊して遠藤勢を食い止めようとしたが、それに失敗したため逆に侵攻を許す事になり、同月24日に
赤谷山城は陥落した。常慶は敗死し、ここに約340年続いた名門・郡上東氏は滅亡する。なお、常堯は郡上を落ち延びて飛騨
帰雲(かえりぐも)城(岐阜県大野郡白川村)の内ヶ島氏を頼ったが、その帰雲城は後に天正大地震で帰雲山の山体大崩壊に
呑み込まれ地上から姿を消す。常堯もこの土砂崩れにより亡くなったようだ。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
信長・秀吉と遠藤慶隆@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
この戦いの後は遠藤盛数が郡上の主となるが、彼は奪った赤谷山城が山深く統治に不向きであるとして廃し、陣城であった
八幡山の砦を居城として整備する。斯くして八幡城は正規城郭として体裁を整えたが、1562年(永禄5年)10月14日に盛数が
死去すると13歳の嫡子・但馬守慶隆(よしたか)が2代城主となった。当時の美濃は旧来の領主・斎藤氏に対して尾張の織田
上総介信長が攻略を行っている真っ最中だった。盛数以来、遠藤家は斎藤方に従っており、慶隆は斎藤家重臣・長井隼人正
道利(みちとし)を後見としている。1564年(永禄7年)2月6日に竹中半兵衛重治が稲葉山城(後の岐阜城、岐阜県岐阜市)を
一時的に占拠し斎藤家の更生を促した折、美濃争乱の難を逃れようと慶隆は美濃国山県郡深瀬郷(現在の岐阜県山県市)へ
避難したため、空城となった八幡城を遠藤大隅守胤俊(たねとし、胤縁の長男)が乗っ取り、さらに慶隆の殺害を画策するも、
これは長井道利により平定され、翌1565年(永禄8年)慶隆は八幡城主に復帰している。結局、斜陽の斎藤家は信長によって
美濃を追われ、道利も国外へ逃亡(戦死とも)したようだが、それを機に慶隆は織田家へ臣従するようになった。なお、齋藤家
滅亡の時も混乱に乗じ郡上の反抗勢力が八幡城を落とそうとしたが、慶隆が返り討ちにしている。こうした戦績から、信長は
慶隆の本領を安堵したようだ。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
慶隆は信長の配下になり各地で武功を挙げたが、本能寺の変後は羽柴筑前守秀吉と対立。これは美濃を織田三七郎信孝
(のぶたか、信長の3男)が領有し、それに従ったからである。信孝が秀吉に敗れ1583年(天正11年)に自害した後に、ようやく
秀吉へ降伏した。以後、小牧・長久手の戦いなどで羽柴方として参戦したが、秀吉は要衝の山城にかつての敵対者が居座る
事を疎んだらしく、1588年(天正16年)になって転封させられてしまった。移封先は美濃国加茂郡小原(岐阜県加茂郡白川町)
それまで2万石あったと言う石高は7500石にまで大減封されたと云う。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
慶隆に代わって八幡城主となったのが稲葉右京亮貞通(いなばさだみち)。 “頑固一徹” と言う言葉の語源となった屈強の将・
稲葉一鉄良通(よしみち)の子である。稲葉氏は現在の岐阜県大垣市周辺を領した美濃の有力氏族で、秀吉の覚え目出度く
郡上八幡4万石を与えられたのだった。貞通は八幡城を石垣造りの城に大改修し、山頂の本丸に天守台を構築した一方で
(実際に天守が建てられたかは不明)、山麓部に二ノ丸を造成し、そこを居館とした。統治の利便性を考えたもので、こうして
八幡城は近世城郭となっていく。現在見られる城の姿はこの大改修によるものでござる。@@@@@@@@@@@@@@@
関ヶ原の戦いと遠藤慶隆@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
1600年(慶長5年)、秀吉没後の政権運営を巡り東軍・徳川家康と西軍・石田治部少輔三成の対立が起こると貞通は西軍に
参加。兵を率いて西軍の拠点となっていた犬山城(愛知県犬山市)に入る。一方で旧城主・遠藤慶隆は東軍勝利を確信して
家康に与する。西軍派が多かった美濃国内において東軍として動き回り、各所の西軍根拠地に襲撃を仕掛けた。こうした中、
慶隆は家康に許可を得て八幡城にも攻めかかった。旧領回復は彼の悲願だったのだろう。9月1日、慶隆率いる遠藤勢400に
家康から派遣された援軍である金森出雲守可重(かなもりよししげ)の軍勢が加わり八幡城総攻撃が始まった。城主の留守を
守った稲葉修理亮通孝(みちたか、貞通の3男)は辛くもこれを防いだが、もはや落城は必至と観念し敵方へ和議を乞うと共に
状況を犬山城へと伝えた。翌2日、慶隆と可重は和議を容れて城の囲みを解き陣を下げた。@@@@@@@@@@@@@@
しかしこれと前後して、稲葉貞通も東軍への帰属を決意し家康に内通。そこへ八幡城攻撃の急報が入った為、急いで城へと
引き上げた。夜を通して行軍した貞通の軍は3日の早朝、朝霧の中で慶隆の陣所前に出てしまう。既に和議が成立した事を
聞き及んでいた貞通であったが「自分の城を攻める敵を眼前にして一戦も交えぬ訳にはいかぬ」と突撃を敢行する。こうして
世にも珍しい「東軍同士の不期遭遇戦」が勃発し、完全に虚を突かれた慶隆は家臣らが次々と身代わりになって討たれる中
辛くも逃げ延び、可重の陣所に駆け込んだ。貞通も可重にまで攻め掛かる事は出来ず、城へと引き上げた。@@@@@@@
果たして今度こそ和議が結ばれる事となり、慶隆は他の西軍諸城を落とすべく転戦し東美濃一帯を制圧する。更に9月14日、
徳川家康の本陣に合流し、翌15日の関ヶ原本戦では家康旗本勢と共に戦っている。戦後、この功績が認められ見事に旧領へ
復し、石高も2万7000石を数えた。一方、東軍に寝返った事で貞通は5万石に加増されたが、豊後国臼杵(大分県臼杵市)に
飛ばされてしまったのでござる。転封以後、貞通系稲葉家は明治まで臼杵城主のままであった。@@@@@@@@@@@@
江戸時代の郡上八幡@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
1600年11月、稲葉家に代わって遠藤慶隆が城主に復帰。城の再改修を行い「惣石垣三塀二重之矢倉松ノ丸桜ノ丸等出来」と
慶隆の事績を記録した「慶隆御一世聞書」に記されている(総石垣化が完了したのはこの頃とされる)。また、城下町の整備や
領内の鉱山開発なども行っている。幕府の軍役にも従事し、各地の天下普請に参加すると共に大坂の陣にも参戦しているが、
その在陣中である1615年(慶長20年)2月12日、嫡男(長男)の長門守慶勝(よしかつ)を病で失った。よって1632年(寛永9年)
3月21日に慶隆が亡くなると、2代藩主に就任したのは外孫(慶隆の娘・清洲姫の子)の伊勢守慶利(よしとし)であった。以後
遠藤家は備前守常友(つねとも)―右衛門佐常春(つねはる)―常久(つねひさ、無官)と続いていく。慶隆と慶利は幕府から
城主格大名とされていたが、常友は城の改修や城下町の発展に力を注ぎ、その功が認められて1667年(寛文7年)から城主
大名の待遇に引き上げられている。しかし常友の晩年から常春の代にかけて藩財政が悪化し領内に重税を課すようになり、
郡上城下では度々農民騒動が起こっている。そして常久は僅か7歳で病死し、嗣子が居なかった事から、1692年(元禄5年)に
遠藤家は改易、御家断絶となってしまった。近世藩主としての歴史は92年、遠藤氏が東氏の分流である事を考えると鎌倉時代
以来470年にもなる千葉氏一族による郡上支配はここに終焉を迎えたのだった。なお、藩祖・慶隆の徳川家康に対する忠勤を
考慮し、遠藤家の名前だけは残されて近江国三上藩(滋賀県野洲市三上)に受け継がれたが、その藩主となった遠藤下野守
胤親(たねちか)は東氏・遠藤氏とは血縁的に全く無縁の者でござった。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
遠藤氏の改易後、1692年の11月12日から八幡城は井上中務少輔正任(いのうえまさとう)が5万石で城主となった。前任地は
常陸国笠間(茨城県笠間市)、同石高。しかし彼の次代である大和守正岑(まさみね)は1697年(元禄10年)6月10日に丹波国
亀山(京都府亀岡市)に転封。代わって出羽国上山(かみのやま、山形県上山市)3万8000石の金森出雲守頼旹(よりとき)が
3万8900石と、石高微増で郡上八幡に封じられた。但し、これは飛地含めての石高なので郡上郡内での封は2万3800石余だ。
頼旹は関ヶ原戦役で八幡城の攻略に力を貸した金森可重の玄孫(4代後裔)である。頼旹も嫡男の長門守可寛(よしひろ)に
先立たれ、跡を継いだのは嫡孫(可寛の長男)・兵部少輔頼錦(よりかね)であった。その頼錦は財政難を切り抜けようとして
領内の年貢取り立てを厳しく行い、郡上一揆と呼ばれる大規模な農民一揆を誘発させてしまう。この一揆は数年に及び、遂に
幕府の知る所となって、金森家は責任を問われ1758年(宝暦8年)12月25日に改易(取り潰し)された。@@@@@@@@@@
2日後の12月27日、新たな八幡城主を命じられたのは青山大膳亮幸道(よしみち)、丹後国宮津(京都府宮津市)4万8000石を
領していた譜代大名である。幸道は荒廃した郡上の再建を託されて、領民の慰撫に心を注いだ。検地の再設定や法令整備、
城下町振興と言った施策が行われ、こうした民心掌握の結果として有名な「郡上踊り」が誕生したと言われている。ちなみに
郡上踊りとは日本三大盆踊りの1つに数えられる夏の風物詩で、毎年7月中旬から9月上旬までの毎夜繰り広げられる壮大な
盆踊りだ。中でも旧盆期間の数夜は一晩中踊り続ける徹夜踊りとなっていて、参加者が熱狂する一大行事である。郡上踊りの
創始がいつの事なのかは定かでないそうだが、遠藤時代から度重なる一揆が繰り返された郡上において、民の不満を逸らす
恰好の祭事として、為政者側からの奨励もあったのだろう。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
これ以後、明治維新まで八幡城主は青山家が受け継いだ。幸道の後、大膳亮幸完(ゆきさだ)―大蔵少輔幸孝(ゆきたか)―
大膳亮幸寛(ゆきひろ)―播磨守幸礼(ゆきのり)―大蔵大輔幸哉(ゆきしげ)―大膳亮幸宜(ゆきよし)と続いていく。幕末の
戦乱では多くが佐幕派であった郡上藩内であったが、幸宜が新政府へ恭順して追討は逃れている。その結果、版籍奉還で
幸宜が郡上知藩事になったものの廃藩置県で免職。八幡城はいわゆる “廃城令” で廃城処分となり、1870年(明治3年)頃に
建物は全て破却されてしまった。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
近現代の八幡城とその価値@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
さて、郡上八幡城の構造を簡単に説明すると、牛首山(八幡山)の山頂に天守台があり、その前後(南北方向)に細長く本丸が
広がる。この本丸を取り巻くように下段の帯曲輪が数段築かれていた。これが山頂主郭部の大まかな縄張り。この他、山腹に
城主の平時における居館となった二ノ丸や三ノ丸と言った曲輪が置かれていた。山頂の標高は332.9m、麓の標高が230m程度
なので、比高差はほぼ100mある。八幡山そのものは然程大きな山ではないのだが、それに100mの高さがあるとなれば傾斜は
キツいものとなり、これが険峻さの元となっている訳だ。この山は八幡の市街地の中に突出した位置となっており、山頂からは
城下全てが見渡せる。まさに町を統治するに相応しい城郭だった事だろう。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
廃城後の八幡城跡について記せば、1881年(明治14年)三ノ丸跡へ浄土真宗遠郷山安養寺が移転してきた。安養寺は遡ると
鎌倉時代に近江国蒲生郡で創建された寺であり、数度の移転を繰り返しながら戦国期には遠藤慶隆と協同して戦ったと言う
“八幡城との所縁” もある古刹だ。この地に来たのも、遠藤家の導きがあっての事だろうか。@@@@@@@@@@@@@@
そして1933年(昭和8年)山頂の天守台に天守が建てられた。元々この天守台に天守があったかどうか定かでなく、建築資料も
無いのだが、美濃の名城として知られ当時は現存していた国宝(旧国宝)天守(後に戦災焼失)である大垣城(岐阜県大垣市)
天守に似せて建てられた。特筆すべきはこの模擬天守が木造である点で、4層5階の構造、今も残る模擬天守で木造と言うのは
日本最古のものとなる。岐阜城の初代模擬天守が1910年(明治43年)創建、洲本城(兵庫県洲本市)の模擬天守(展望台)が
1928年(昭和3年)、大阪城天守閣(大坂城、大阪府大阪市中央区)が1931年(昭和6年)の完成だが、岐阜城のそれは火事で
焼失し現存せず、洲本城や大阪城はいずれも鉄筋コンクリート製。更に伊賀上野城(三重県伊賀市)復興天守が木造であるが
八幡城に遅れる事2年の1935年(昭和10年)完成。八幡城の天守は模擬天守としての分類でも岐阜・洲本・大坂に次ぎ4例目と
なる。ましてや木造なのだから、その文化的価値は高いと言えよう。1933年の2月11日に上棟し、5月20日に竣工。これに加え
桜ノ丸に門と土塀、桜ノ丸と松ノ丸にそれぞれ隅櫓も建てられ、10月28日に完成、11月3日に落成式が行われたそうだ。天守の
建床面積は118.98㎡、延べ床面積309.11㎡、高さは17.18mあり、最上階からは眼下に八幡の町が広がって水郷である郡上市
八幡町の全体像をつかむことができる。郡上八幡と言えば清流・長良川に面した町にして鮎釣りの名所でもあるが、天守から
市街地を眺めると、鮎の魚影に見えるとの話題があるのだが … これはどうにもこじつけっぽいネタ(苦笑)@@@@@@@@@
以来、城下町を見下ろす天守は郡上の象徴となり、八幡城跡は郡上踊りや宗祇水(そうぎすい、町内にある名水百選第1号)と
共に八幡町の観光名所となっている。城跡は1955年(昭和30年)8月30日に岐阜県史跡となり、1982年(昭和57年)11月からは
石垣の修築も行われた。1987年(昭和62年)9月10日には模擬天守が八幡町(当時)の有形文化財に指定、1990年(平成2年)
6月から翌1991年(平成3年)5月にかけて隅櫓や高塀の修理、2022年(令和4年)~2023年(令和5年)に天守耐震補強工事も
為され、継続して史跡文化財の保全・維持が進められている。さすが、郡上のシンボルと言うべき史跡でござろう。@@@@@
2017年(平成29年)4月6日、財団法人日本城郭協会から続日本百名城にも選定されてもいる。何より、八幡の城下町は国の
伝建(重要伝統的建造物群保存地区)。郡上は町ごと観光地であり、その頂にそびえる天守は風光明媚な姿を見せてくれて
四季折々に美しい情景を楽しめる名城である。復興天守も歳月を重ねてもうすぐ1世紀を迎える。だとすれば、有形文化財と
して相応の価値が認められて然りであろう。ただ、その天守は雪深い美濃の山奥にある為、時季によって開館時間に変動が
多く、そもそも閉館している期間もあるので、来訪する際には事前に情報を確認しておく事をお薦めする。@@@@@@@@
なお、ここまで「八幡城」の呼称を用いてきたがこれが城名としては正式のもの。ただ、八幡城と言う名の城は全国にあるため
地域名を冠して「郡上八幡城」と呼ぶのが通例になっている。この他、別名は積翠城(せきすいじょう)・郡城・虞城(ぐじょう)と
言ったものがある。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
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