飛騨国 松倉城

松倉城本丸跡

 所在地:岐阜県高山市松倉町・上岡本町

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★☆
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山中に忽然と現れる見事な石垣の城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
松倉城は三木(みつき)姉小路(あねがこうじ)氏が築いた山城でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
場所は高山市の西部、市街地からはやや離れた松倉町の山中で、すぐ近くに松倉観音がある。詳しく記せば、JR高山駅から
西南西へ約1.7kmの所に「飛騨の里」という観光施設があり、そこから南へ山を登って行く林道を進むと、ちょうど峠のあたりに
「松倉シンボル広場」と言う小公園がある。この公園に車は数台が駐車可能。御手洗もある。そこから城へと続く登山道があり、
公園から10分ほど歩くと、松倉城の城域に入る事になる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城山の山頂は標高856.7mを指す。ここから西・北東・南東の3方向に尾根が延びている山だが、駐車場から続く道は西の尾根で
これは本来の搦手。大手は南東側の尾根だった。山頂には綺麗な四角形をした本丸、その西面〜南面の下段を取り巻くように
本丸外曲輪があった。そこから大手方向(東側)へは二ノ丸が、搦手方向(西側)へは三ノ丸が細長く繋がる。大まかに言えば
これが松倉城の縄張りで、大手側は更に尾根を下る毎に数段の堀切や出曲輪が構えられているものの、概ね地形を利用した
だけの構造だ。また、北東側の尾根も数段の出曲輪らしき造成地域と堀切らしいものがあるようだが、それほど明瞭ではない。
ただ、驚くべきは本丸・本丸外曲輪・二ノ丸・三ノ丸の主城域に関しては荒々しくも見事な石垣で固められている点だろう。石垣
形式としては野面積みだが、隅部は綺麗に整形され、角が際立つような作り。しかしながら算木積みが用いられている訳では
なく、慶長期(1596年〜1615年)にあるような精緻な構造とはなっていない。城郭の石垣としてはあくまでも“前時代的”な形状
なのだが、では一体だれが、どのようにこの城を築き上げたのであろうか?■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

国人転じて国司の家になる■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
三木氏は高山の南、益田(ました)郡に根ざす土豪で戦国時代になると周辺勢力を撃破して勢力を伸ばした。頼綱(よりつな)の
代になってその勢力は飛騨国内随一となり、絶家となっていた飛騨国司・姉小路の家柄を継承している。それ故に、姉小路家と
同一化した三木家を指して三木姉小路家と言う。頼綱は名家の門跡を継ぐことで飛騨領有の大義名分を得たのである。■■■
戦国乱世の中、飛騨の周辺では越後の上杉氏や甲斐武田氏と言った強豪勢力が盛んに争い、姉小路家もそれに服従せざるを
得ない局面もあったが、戦国最強と恐れられた武田信玄や上杉謙信が次々と病没するに至って、その軛から開放されていく。と
同時に、それは天下人・織田信長が全国制覇していく時代の到来であった。頼綱はこの信長と手を組み、上杉や武田に追随して
敵対していた勢力を打破していく。このような情勢下の1579年(天正7年)に頼綱は松倉城を築き、それまでの居城であった桜洞
(さくらぼら)城(岐阜県下呂市)から本拠を移してござる。ただし、永禄年間(1558年〜1570年)に頼綱の父である三木(姉小路)
右衛門督良頼(よしより)が築いたとする説もある。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
険峻な山城、堅固な構造、そして強大な織田家との提携を後ろ盾に、姉小路氏は飛騨国内で競合する勢力を次々と倒していき
飛騨統一に邁進。こうして討たれた反抗者の中には長男・姉小路左衛門尉信綱(のぶつな)や、実弟の三木次郎右衛門尉顕綱
(あきつな)らも含まれる。また、高原郷を堅守していた江馬右馬助時政(えまときまさ)や、飛騨古川の有力者・広瀬兵庫頭宗直
(ひろせむねなお)などは国外に逃亡した。このように、松倉城は姉小路氏の飛騨制覇に大いなる貢献を果たした。要害な山に
壮大な石垣を築いたのも、織田家との技術提携があってこそだろう(松倉城を石垣化したのは金森期の事とも言われる)。一方、
領土を拡大させた姉小路家は代替わりし、頼綱は広瀬城(高山市内、広瀬氏の旧城)へ隠居して松倉城は後嗣(頼綱2男)である
大和守秀綱(ひでつな)や、その弟(頼綱3男)の鍋山季綱(なべやますえつな)が守るようになった。■■■■■■■■■■■■

本能寺の変後の情勢を見誤る■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
だが、1582年(天正10年)6月2日に織田信長が本能寺の変に斃れると、姉小路家の運命も暗転していく。織田家の遺領を巡って、
信長の仇を討った羽柴筑前守秀吉と、織田家筆頭家老の柴田修理亮勝家が対立したのは周知の事実であるが、勝家が賤ヶ岳
合戦で敗死した後も、勝家の与力であった富山城(富山県富山市)主・佐々内蔵助成政(さっさなりまさ)は秀吉に抗い続けた。
姉小路家はこの佐々成政と盟を組み、秀吉と敵対したのである。その結果、1585年(天正13年)8月に秀吉配下の金森兵部大輔
長近(かなもりながちか)が飛騨に侵攻して姉小路家の討伐を行ったのだった。この時、かつて飛騨を追われた江馬時政や広瀬
宗直が金森軍の道案内を行っている。また、同時期に秀吉勢が佐々領への侵攻も行っており、飛騨へ成政から援軍が派遣される
事は無かった。斯くして四面楚歌となった飛騨であったが、それでも堅固な松倉城は持ち堪える。秀綱は徹底抗戦の意思を示し、
降伏は受け容れなかった。その為、攻城軍は謀略戦に移行し内応者を募った。結果、城内に居た藤瀬新蔵なる者が深夜に放火し
その混乱を契機に金森軍が総攻撃を開始、閏8月6日落城に至ったと言う。城主・秀綱や季綱は落ち延びるも落ち武者狩りで落命
したとか。なお、隠居の頼綱も自身の城で抵抗を続け降伏勧告を拒否していたが、こちらには朝廷から開城の命が下ったため、
(姉小路家は国司つまり公卿の家柄であり、摂関家近衛氏との縁者であった)頼綱はそれに従い城を退去、京都へと隠棲した。
実際には秀吉による幽閉であったが、近衛氏による庇護下に置かれたようだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この後、飛騨はそのまま金森長近が領有する事を秀吉から認められ、松倉城も長近の持ち城となった。しかし長近は高山統治に
旧来からあった天神山城を改修する途を選び、大改修を施して高山城(高山市内)と改めた。この高山城が長近の居城となった為
他の城は整理統合されていく。こうした事情によって1588年(天正16年)松倉城は廃城処分とされ申した。但し、先に述べたように
松倉城を石垣化したのは金森氏の手に拠ると考える説もあるので、廃城直前まで活用されていた可能性はある。されど一方では
姉小路秀綱の敗北落城で廃城になったと言う説もあり、はっきりした事は良く分からない。■■■■■■■■■■■■■■■■■

国史跡指定を目指し調査が行われている城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
廃城以後、草木に埋もれ静かな眠りに就いた城跡であるが、その分だけ手付かずの遺構が残されており、何より石垣は天正年間
(1573年〜1592年)構築という事が確定的な“城郭石垣草創期”のものとして評価できる史跡である。1956年(昭和31年)11月14日
岐阜県の史跡に指定されているが、飛騨国内の城跡は軒並み国史跡への指定が行われている為、将来的には松倉城もそうなる
可能性はあるだろう。県史跡指定範囲は4330u(実測面積)だそうで、その中で2019年(令和元年)から発掘調査が行われており
2023年(令和5年)には二ノ丸で建物礎石、三ノ丸では櫓台と巨石造りの埋門(うずみもん)の跡が確認された。この埋門は細長い
巨石4つを上下左右に並べて開口部を作ったと想像されており、松倉城で用いられた石垣技術が従前の想定より高いものだったと
再考させられる契機となった。松倉城における調査は継続されており、今後新たな知見が得られる事を期待したい。■■■■■■
本丸跡は広場になっていて高山市街を望むことができる(写真)。遠く霞む高山の町はまるで時間が止まったようにも見え、こうした
眺望を見るだけでも訪れる価値があるだろう。かつて姉小路頼綱が眺めた景色を想像し、400年以上の風雪に耐えた石垣を目の
当たりにすれば、山深いこの地を本拠にした戦国大名の心意気を汲み取る事が出来るだろう。■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

井戸跡・石垣・土塁・郭群等
城域内は県指定史跡




高山陣屋・高山城  郡上八幡城