飛騨国 高山陣屋

高山陣屋表御門

所在地:岐阜県高山市八軒町

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★★★★★
公園整備度:★★★★☆


現存する遺構

表御門・門番所・御役所・米蔵8戸前
御勝手土蔵・中門・供侍所・腰掛・塀
陣屋内は国指定史跡

移築された遺構として
書物蔵



飛騨国 
高山城

高山城天守台

所在地:岐阜県高山市城山・堀端町・馬場町 ほか

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★★■■■
公園整備度:★★★■■


現存する遺構

堀・石垣・土塁・郭群
城域内は県指定史跡

移築された遺構として
素玄寺本堂(評定所)・法華寺本堂(二ノ丸御殿部分)
東山神明神社建築(月見殿部分)・雲龍寺鐘楼門(黄雲閣部分)



飛騨の小京都、高山。日本列島のほぼ中央に位置するこの町は山深い奥地ながら古くから文化の開けた場所であった。
源平合戦や鎌倉期の動乱を経てこの町が発展したのは室町時代の飛騨守護代・多賀出雲守徳言なる者が高山盆地の
やや東に独立した丘陵の天神山に城を築いた事から始まる。この山の標高は686.6m、巴山や臥牛山とも別称されるが、
この天神山城こそが高山城の前身で、築城年代は文安年間(1444年〜1449年)とされている。飛騨守護である京極氏は
近江国の出自、多賀出雲守もその意を受けた人物らしく、近江多賀天神を天神山に勧進している。そのため、天神山を
多賀天神山と呼び、天神山城の別名を多賀山城とも言う。
更に時代が下ると、同じく京極氏の被官である高山外記(たかやまげき)という人物が天神山城に入る。一般に永正年間
(1504年〜1521年)、恐らく1510年(永正7年)頃の事と見られ、後に自らの姓を採って天神山城を高山城と改称。
通説ではこれが高山城の創始とされてござる。
しかし16世紀は戦国争乱が激化していく時代。飛騨国は旧守護勢力が駆逐され、国司家系の姉小路(あねがこうじ)氏、
在地土豪の三木(みつき、みつぎとも)氏や江馬氏らが割拠、各者の激突へと進んだ。高山城も安泰ならず、高山外記は
1558年(永禄元年)三木飛騨守自綱(よりつな)によって滅された。折しもこの頃、姉小路家も自然消滅で絶家となったが、
名門の家系を利用しようとした自綱は家督を継承、姉小路頼綱と改名する。高山城には一族の三木久綱を入れて守らせ
織田信長の傘下に入って支配力を強化、信長横死に前後する1582年(天正10年)国内の敵対勢力を完全駆逐し、飛騨を
統一したのでござった。
だが頼綱は本能寺の変後の情勢を見誤り、後に天下人となる羽柴筑前守秀吉と敵対。その為、1585年(天正13年)7月に
秀吉家臣の金森兵部大輔長近(かなもりながちか)が越前国大野(福井県大野市)から飛騨へ侵攻、頼綱は敗北し京都に
閑居する事となった。この戦果により翌1586年(天正14年)長近が秀吉から正式に飛騨一国3万3000石を与えられ、越前
大野城から移ったのである。入国当初、長近は鍋山城(高山市内)を居城としていたが、程なくかつての天神山城跡つまり
高山城を本拠に選定。飛騨のほぼ中央に位置し、開けた盆地があり、しかも東西南北の街道が交差するこの古城の跡が
統治に最も適当な場所と考えられた為である。
斯くして1588年(天正16年)から高山城の近世化改修に取りかかる。この工事は足掛け16年もの長きに渡る事となるが、
山上には信長の安土城(滋賀県近江八幡市)や秀吉の大坂城(大阪府大阪市中央区)を模した豪華な建物が並び、その
一角には望楼型の天守も建築された。この天守をはじめとする城内建築物は古式に則った御殿風の様式で、軍事機能
ではなく装飾性を重視したものであった。特に天守は2層3階、最上階には高欄を巡らせた優美な姿で、極上の気品を感じ
させる光景は「天下に三指と数えられる名城」と謳われていた。この高山城を中心に京都のような町屋や寺社が配列され
「小京都」と呼ばれる華麗な城下町が広がっていったのでござる。
1600年(慶長5年)までに完成したのが本丸・二ノ丸周辺。金森長近・出雲守可重(よししげ)父子はこの年の関ヶ原合戦で
東軍につき、徳川家康から恩賞を与えられる。故に加増された美濃国上有知(こうずち)1万8000石・河内国金田(かねた)
3000石の所領を統治するべく、長近は新たに小倉山城(岐阜県美濃市)の築城を1601年(慶長6年)から開始。高山城は
可重に任せられ、残る三ノ丸の工事が続行されたのだった。元和偃武(げんなえんぶ、徳川幕府による天下平定)の後に
可重の跡を継ぎ3代城主となった金森出雲守重頼(しげより、可重3男)は名君として知られ、新田開拓や銀山開発などに
力を注いだ。何より、寛永大飢饉の折は金森家伝来の家宝である茶器・雲山肩衝を売却し、庶民の救済に充てたという。
金森家は始祖・長近以来の茶人大名として有名な家柄であったが、にも拘らず名物茶器を惜しげもなく手放したと言うの
だから立派な話であろう。ところが、4代・長門守頼直(よりなお)を経て5代・飛騨守頼業(よりなり)の頃には領内で騒動を
起こしてしまい家勢は衰退。6代・出雲守頼時(よりとき)に至っては品行悪く、時の将軍・徳川綱吉の勘気を被る。1692年
(元禄5年)7月に金森氏は出羽国上山(山形県上山市)へ移封となり、高山は幕府直轄の天領となり申す。
金森氏の治世は6代107年であった。
最終形態時における城の縄張りであるが、山頂部の本丸は東西57間×南北30間と比較的狭隘なものの、その中に天守
本丸屋形・多聞櫓(十三間櫓・十間櫓)・太鼓櫓・横櫓などが建てられて、一段低い位置に腰曲輪が巡る。本丸の北側には
中段屋形・塩蔵などが建ち、その下に二ノ丸が広がっていた。この二ノ丸は東西に敷地が分かれ、東側には庭樹院殿屋敷
鬼門櫓・東之丸長屋・横櫓大門、西側には二之丸屋形や黒書院・屏風土蔵・十間櫓・唐門などがある。二ノ丸敷地は東西
97間×南北84間。その更に下段には東西120間×南北93間の三ノ丸、ここには勘定所、土蔵多数。一方、本丸の南には
南出丸が続いて、こちらが大手口となっていた。この他、城山各所に大小の曲輪が散りばめられ、米蔵・炭蔵などの蔵が
至る所に建てられていた。
ちなみに庭樹院というのは最後の城主・頼時の母、幕府奏者番・井上中務少輔正任(まさとう)の娘である。
このように城山全域を活用した豪壮な高山城だったが、天領となった事で意味を成さなくなり、この年の8月22日より加賀
金沢藩(石川県金沢市)の在番とされた。加賀藩では高山城管理規定として「飛州高山在番諸法度」を設け、半年交代で
400〜500人程度の藩士を常駐させたが、飛騨代官(下記)職の制定もあり1695年(元禄8年)1月12日に幕府から破却の
命令が出て加賀藩主・前田左近衛権中将綱紀(つなのり)の手で廃城とされた。同年4月22日から取り壊しを開始し、6月
18日には工事完了となっている。高山城を廃した理由は山城の維持管理に多額の費用を要した為と言われ、ごく一部の
建物が近隣寺院に移築された他は跡形も無く破却されている。石垣まで崩す徹底ぶりであった。
代わって高山統治の政庁となったのが高山陣屋でござる。
初代の飛騨代官となったのは伊奈半十郎忠篤(いなただあつ)、関東郡代との兼務であった。飛騨が幕領となった1692年
8月18日に任命され、当初は金森氏家臣の屋敷を会所として前田家と共同で飛騨統治事務を開始したが、高山城が破却
された1695年以降、改めて金森氏の下屋敷だった邸宅に代官役所を移し高山陣屋とした。それ以来、明治に至るまでの
177年間、飛騨の首府となっている。この間に任じられた飛騨代官は25代。4代目から飛騨代官専任とされ、7代以後常駐
12代目(1777年(安永6年))以降は飛騨郡代に昇格。何れも江戸から派遣され、飛騨国内の行政・財政・治安・司法等の
政務を行なった。
陣屋としての使用開始当時、敷地面積は2万8000uを誇ったと言い、この折に破却された高山城の米蔵2戸前が陣屋へ
移築されている。しかし、1725年(享保10年)諸建築の老朽化によって御蔵以外の建物が全て解体され、旧材を利用して
御役所と御役宅に区分して建て替えられた為、敷地は3分の1に縮小されたそうだ。1816年(文化13年)に御役所、1830年
(文政13年)に郡代役宅、1831年(天保3年)には表御門がそれぞれ改築されたが、この間特に火災などによる被害はなく
ほぼ旧態のまま利用され続けていた。なお、郡代の権能は1729年(享保14年)に美濃国の一部、1767年(明和4年)には
越前国の一部が所管地域に加えられ、飛騨郡代は幕府の遠国統治職制の中でも特に重責とされたのでござる。
一方で、1771年(明和8年)から1789年(寛政元年)までの18年間、飛騨国内で郡代の苛烈な統治に反発する農民一揆が
起き続けたり(これを大原騒動と言う)明治維新直後の1869年(明治2年)2月、政府から派遣された高山県知事の施策に
農民らが反発して大規模騒動となった梅村騒動の勃発など、高山陣屋を巡り数々の争乱も起きている。特に梅村騒動は
高山県役場となった陣屋に殺到した暴徒が門番を殺害、現在も陣屋の門には殺された門番の血痕が残る。
順番が前後してしまったが、明治維新における高山陣屋は波乱に満ちていた。1868年(明治元年)、最後の郡代となった
新見内膳正功(しんみまさかつ)は維新動乱に際して去就を決められず、職務を放棄し逃亡。無主の国となった飛騨には
明治新政府東山道軍・飛騨鎮撫使の竹澤寛三郎が入り、新政府が掌握。竹澤は2月7日に高山陣屋に入り、陣屋を天朝
御用所とする。3月3日には彼に代わり梅村速水が新政府から派遣され、5月23日に飛騨県が成立。6月2日、高山県へと
改称されたが、そのまま梅村が県知事に就任し陣屋を県役場とした。この折、梅村は大改革を断行せんとしたのである。
されど経済制度を激変させる政策は現地の実情に合わず、上記の梅村騒動が起きるのだった。高山県全域で発生した
暴動により1869年3月10日、梅村は負傷。近隣の苗木県(岐阜県中津川市を中心とした県)へと逃げ込む。苗木県兵が
出動する気配を見せた事でようやく暴動は沈静化したが、彼の改革は頓挫。同月14日、梅村は新政府から知事を罷免
された上、責任を取らされ収監され申した。(この後、1870年(明治3年)10月26日に彼は判決未決のまま獄中死)
新知事として宮原積が赴任するも1871年(明治4年)11月20日に筑摩県が成立し高山県は消滅。更に1876年(明治9年)
8月21日、岐阜県へと改組された。高山県が成立していた間、高山陣屋は県役場として機能し続け、筑摩県となった後は
筑摩県高山出張所庁舎、岐阜県成立以後は岐阜県飛騨支庁庁舎として使われる。このように、維新以後も高山陣屋は
飛騨国政の中心とされ続けたのだった。1881年(明治14年)に陣屋建物の北側部分が撤去され高山区裁判所庁舎が、
1883年(明治16年)には陣屋建物の南御蔵の一部が壊されて高山検察庁庁舎が作られたものの、この他は役場として
使われた為に概ね殆どの建物が明治以降もそのまま残されていく。この点、廃城令により“旧政権の遺物”として他国の
城郭が破却されていったのとは対照的でござろう。
このようにして歴史を紡いできた高山城と高山陣屋は、大正期〜昭和期から史跡・観光地としての整備が行われるように
なっていく。まずは現在城山公園となっている高山城址だが、1873年(明治6年)に城山一帯が史跡公園とされ、1919年
(大正8年)には内務省の史跡指定を受けている。1956年(昭和31年)9月7日からは岐阜県指定史跡とされて、公園面積
約24.3haのうち史跡指定範囲は11.4haとなっている。この間、三ノ丸跡地では1879年(明治12年)に伊勢神宮中教院神殿
ならびに祖霊殿が建てられて、それが1939年(昭和14年)からは飛騨護国神社とされている。また、旧二ノ丸の一角には
1961年(昭和36年)に白川郷から浄土真宗光耀山照蓮寺(中野照蓮寺)が移築された。本堂は現存最古の真宗建築物と
言われ、国の重要文化財に指定されているものでござる。
一方で、廃城時に城外へと移築された建物と言われる建造物もいくつか現存している。市内にある曹洞宗高隆山素玄
(そげん)寺の本堂は三ノ丸にあった評定所を移築したものと伝わる。同様に、法華宗常栄山法華寺の本堂は二ノ丸の
御殿建築の名残との事で、岐阜県指定重要文化財。東山神明神社には高山城の月見殿であった建物が移されている。
曹洞宗海藏山雲龍寺の鐘楼門は高山城の黄雲閣だったそうな。
しかし現状の城址に旧来のまま残る建物はなく、現地に見られる遺構は空堀や土塁と破却痕のある石垣のみ。1985年
(昭和60年)〜翌1986年(昭和61年)にかけて本丸周辺の発掘調査が行われ、館や玄関の礎石あるいは石垣の根石等が
検出された。二ノ丸広場には高山藩祖・金森長近の銅像が建てられている。なお、城山の一帯は良好な自然環境が保全
されている事から“高山城跡及びその周辺の野鳥生息地”として1956年6月14日に高山市天然記念物指定、加えて鳥獣
保護区特別保護地区でもある。桜の名所としても有名で、飛騨・美濃さくら三十三選に選定され申した。更に日本の歴史
公園100選とされたり、1986年4月19日には森林浴日本100選に選ばれたと言うのだから肩書きは色々(笑)
他方、高山陣屋はほぼ全ての建物が現存。天領代官所の建築物が残っているのは全国でも高山だけである。当然、国
指定の史跡でござる。以下、詳しく経緯を記そう。
全国的に稀有な存在である高山陣屋は1929年(昭和4年)12月17日、3935.06uを国の史跡に指定された。そして1969年
(昭和44年)の12月、陣屋建物を用いていた岐阜県飛騨事務所が移転する事で高山陣屋は1695年以来の役所機能から
開放される。それを契機とし、岐阜県教育委員会は文化庁の指導を受けて復元修理と復旧事業に着手。これは1970年
(昭和45年)10月から1983年(昭和58年)12月まで足かけ13年、2次に渡る事業となり約7億円が投じられた。この途中、
隣接する空地53.09uが1979年(昭和54年)10月2日に国史跡の追加指定を受ける。元々この敷地は蔵跡で、防災上の
見地(近隣火災の類焼防止など)から史跡範囲に含まれたものでござる。
さらに、1980年(昭和55年)3月24日にも追加指定。これは岐阜地方裁判所高山支部及び岐阜地方検察庁高山支部が
移転した事により、明治期に転用されてしまった敷地が史跡範囲として復旧可能となったためであり、追加指定範囲は
合計4860.25u。裁判所・検察庁に次いで陣屋西側の高山拘置支所も移転し、1989年(平成元年)1月9日、2370.65uも
追加指定される。この敷地は役宅があった所で、復元整備にあたって1991年(平成3年)に発掘調査が行われてござる。
それによれば、用水池跡1箇所・竃跡3箇所・地下石室(いしむろ)跡1箇所や溝、井戸が発見された。斯くして、史跡指定
面積は総合計1万1219.05uに及び、1992年(平成4年)〜1995年(平成7年)には追加の復元整備工事も行われている。
現存の建造物は表御門・門番所・御役所・米蔵(一〜四番蔵と九〜十二番蔵)・御勝手土蔵・中門・供侍所・腰掛。書物
(かきもの)蔵は1881年に敷地隅へと移築されたが、1981年(昭和56年)に旧位置へと再移築されたもの。
表御門は1832年(天保3年)の完成、切妻造柿葺平屋建て。門番所も同年築造、切妻造熨斗(のし)葺平屋建て。御勝手
土蔵は1840年(天保11年)、書物蔵は翌1841年(天保12年)のもので、共に切妻造熨斗葺2階建てだ。1816年の改築にて
成立した郡代御役所建築は御用場・大広間・役宅・吟味所・白州などから成っている。特に玄関は表御門に直結していて
陣屋の顔として幕府の威光を知らしめた。この玄関は一般大名なら10万石格を示す2間半の大床を広げ、式台も駕籠を
乗りつける為に低く設え、幕府の使者など身分の高い来客専用であった。内装の壁面には、通常は大名が使用を憚った
青海波(せいがいは)模様が用いられている。青海波は江戸城(東京都千代田区)や御三家の城など、徳川家に関わる
建物に多く使われるもので、江戸幕府の権威を象徴する紋様だった。大広間も格式高く、栗石(ぐりいし)敷の白州には
屋根がかかる事が特徴的。ここで裁かれる事判の大半は幕府の裁決を仰いでいたと言う。米蔵は上記の通り高山城の
三ノ丸から移築されたもの、片入母屋造石置長榑葺(いしおきながくれぶき)平屋建てである。壁面には四方転と称する
傾斜があり、通風の隙間などと併せ飛騨匠独自の手法。高山城築城当時の工法が残される建物であり、檜材を使った
建材は鉋ではなく手斧を使って表面を仕上げている事がわかる。
とにかく現存遺構が多い為、ついつい説明文が長くなってしまったが(苦笑)有名な高山の朝市はこの高山陣屋の前で
開かれており、陣屋と朝市の両方を見物しに来る観光客も多い。陣屋周辺の町屋は古くからの町並みが残されていて
伝統的建造物群保全地区にも指定されている。城跡・陣屋・朝市・寺社・町並み・祭り・そして自然…等々、飛騨高山は
小京都の名に恥じない歴史と文化の町でござる。




林城関連城砦群  松倉城