信濃国 林大城

林大城 主郭土塁・石垣

 所在地:長野県松本市里山辺・入山辺

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★☆
★★☆■■



現存する遺構

井戸跡・堀・石垣・土塁・郭群等
城域内は国指定史跡



信濃国 
林小城

林小城 石垣・土塁

 所在地:長野県松本市里山辺

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

★★★★
★★■■■



現存する遺構

井戸跡・堀・石垣・土塁・郭群等
城域内は国指定史跡





一条の尾根を堀切で切り分け、多重防御とした大城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
松本市郊外、薄川(すすきがわ)の南側にある山塊群に所在した山城。山に挟まれた里山辺(さとやまべ)集落の中に大嵩崎
(おおつき)公民館があるが、その北東側にある標高846mの山が林大城の跡、公民館の西にある山の中腹域を用いたのが
林小城(古城)である。小城と区別して大城を林城と呼ぶ事もあるが、近年は両城を合わせて林城と称する例が多い。されど
2つで1つの城(一城別郭)と言うよりは、独立したそれぞれの城と解釈すべき立地・構造だと言える。大嵩崎の谷戸は両方の
山に挟まれている居館区域だったようなので、大城と小城という2つの城が包み込んで守っていたのかもしれない。林大城は
金華山城、林小城は福山城との別名がある。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
大城のある山は、高遠山(標高1317.1m)から北西方向に延びる尾根の末端部に当たる。必然的に、南東から北西へと向かう
細長い山容となる訳で、山頂部一帯をほぼ長方形のT郭に啓開、その北西側にU郭を置き、2つの曲輪の間を大堀切で分断
している。U郭の下段(更に北西側)にはV郭。このV郭は現在駐車場となっており、ここまでは車で登って来る事が可能だ。
T郭の東に支尾根があり、そこが車道となっていて山頂部近くまで登る事が出来る訳だが、城の縄張りとしてはこの支尾根に
数条の堀切・竪堀を入れてそちら側からの侵入を遮断している。あとは主稜線(T郭を中心に北西〜南東の尾根)沿いにただ
ひたすら段曲輪を重ね、部分部分に堀切を構え段曲輪の“区画分け”を行っている縄張りだ。北西端の麓が薄川に面しており
大城はここから登って来るであろう敵勢を迎え撃つに特化した多重防御ラインを構築している。半面、山の側面や件の支尾根
方面から敵が登って来る事は想定していないようで、そちら側に腰曲輪や横堀などの構造物は検出されていない。山の形状に
依存し、尾根道を幾重にも封鎖する事で防御を固めた構造であった。ただ、主郭一帯は石垣を構築し堅牢な構え(写真)。城の
来歴からすると(詳細下記)戦国時代前半の遺構なのだが、当時からこれだけの石垣を用いていたのならば、かなり先進的な
技術を取り入れていた事になろう。現在でも曲輪や土塁・石垣などの構造物が多数残されており、保存状態も良好だ。上記の
通り車で登山するのも簡単なので、来訪し易い城郭でござろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

いくつもの帯曲輪を重ね、複合的に守る小城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
一方の小城であるが、これも大きく見れば主山塊の突出部に当たる小山(と言っても麓との比高差150mになるが)を利用した
立地。大城の細長い山容とは異なり、主山塊と尾根で接続する単独の山になっている感じである。南に繋がる主山塊側との
尾根には3条の堀切を構えて切断、山頂を造成しT郭を設置。T郭の西〜北〜東を囲って下段にU郭。U郭からは北西側と
北東側に大きく尾根が分かれるので、それぞれに段曲輪群を重ねている。大城と異なるのは両尾根の間にも数々の帯曲輪を
構築し、山全体が兵の陣地として機能するようになっている点であろう。無論、山の形からそうした構造を取り入れている事も
あろうが、「これだけ作り込んでやろう」という防衛意図が感じられる。また、尾根沿いに段曲輪を構えるものの、大城とは違い
屈曲した箇所を設け横矢を掛ける工夫なども確認できよう。場所によっては重ね馬出の如き複合防御構造を取り入れており
大城よりも技巧的な縄張りを志向していた事が分かる。現地に赴き山の状態を見てみれば「しつこい」縄張りだと思える(笑)
勿論、小城にも石垣は多用されており(と言うか、むしろ大城よりも大規模)攻め手の戦意を“視覚的にも”削ぐ効果があろう。
面白いのは、この石垣に“隅部”が無く、山の外縁を取り巻くように丸く巡らされている所である。普通、石垣を組むならば多少
なりとも屈曲や角部を設け、石垣の強度を増し、横矢を掛ける陣地にもするものだが、この城の石垣はあくまで山の地形には
逆らわず、丸い曲輪取りに沿って石垣も円弧を描いて構築されている。また、石垣と呼ばれるが裏込めの土塁がなく“石塁”と
言うべき形態になっているのも特徴的。このあたり、いわゆる“織豊系”と云われる中央政権によって確立された技法とは違い
在地系の技術で築かれたという由来によるものなのだろうか?更に、甲信地方の石垣は平らで薄い石材を重ねる平石積みが
一般的だが、林城ではそうではなく川原石のゴロゴロした石材が大量に使われている。恐らくこれは薄川の河畔から調達した
石を山上に持ち上げて組んだ石垣なのだろう(平石が含まれている部分もある)。このように林城の石垣は何かにつけ異質な
雰囲気を漂わせており申す。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
小城では山の斜面にも数条の竪堀を入れ、竪堀の無い部分では天然の谷間が折り重なり、横方向への敵兵移動を遮断する
工夫も見える。この点も大城とは異なる状況で、隣接する城でありながら細かい差異が見受けられるのが興味深い。大城は
尾根道に対する“一直線の防御”、小城は全周警戒を怠らない“積み重ねる防御”と云った具合か。小城の山中深い場所には
「地獄の釜」と呼ばれる古井戸も。地元では「かんばさま(「釜様」が訛ったものか?)」と伝わり、馬が1頭引きずり込まれたとの
怪しい伝説がある程で、迂闊に近寄るなという警鐘なのだろう。事の真偽はともあれ、それだけ豊富な水場があったとなれば
籠城の備えも万全だった訳だ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

国人衆に悩まされた守護が必要とした山城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて城の歴史だが、信濃守護・小笠原氏の城郭であるというのが定説。河内源氏の子孫である小笠原氏は甲斐国巨摩郡に
本貫地を有し、その地名(現在の山梨県南アルプス市小笠原に比定)を採って姓とした。鎌倉時代から信濃へ拠点を移して、
室町幕府から信濃国守護に任じられた名族だが、実のところ信州は在地豪族の独立性が高く、守護権力と言えども支配力を
浸透させるのが難しい土地柄であった。室町幕府初代将軍・足利尊氏から信濃国守護職を与えられた小笠原治部大輔貞宗
(さだむね)は入国に際し井川館(松本市内)を構えたが、これは平地に築かれた居館である。さりとて先述の如く守護権力が
安泰ならず、国衆の叛乱に度々晒される小笠原氏としては、権威の象徴である平地居館よりも軍事に有効な堅城を必要と
するようになっていく。斯くして築かれたのが林城とされている。1459年(長禄3年)、小笠原大膳大夫清宗(きよむね)の手で
築城されたと言うのが一般的な起源だが、それに先立ち1443年(嘉吉3年)小笠原民部大輔長朝(ながとも、清宗の嫡子)が
林館(林城)で産まれたとの記録もあり、はっきりした事は分からない。いずれにせよ、室町中期に築かれたであろう林城は
小笠原氏と国衆の対立、そして小笠原一族内での分裂など諸々の戦乱を経るに従い整備拡充され、井川館に代わって信濃
守護家の本拠地となったのであった。また、周辺の山々にも支城群が構築され、松本平を望む林城を中心として小笠原家の
地域防衛網が整備されていく。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところがその後も小笠原家は信濃全域の支配権を作るに及ばず、そうこうしている間に戦国時代が本格化し甲斐武田家の
侵攻を受ける事になる。1550年(天文19年)武田大膳大夫晴信(はるのぶ)が松本平へと攻め寄せるが、時の守護・小笠原
信濃守長時(ながとき)は尊大な性格から家臣の離反を招いて国土の防衛ならず、7月15日に一夜にして林城は落とされた。
この時、武田軍は攻城の付け城として村井城(松本市内)を用いたとされ、武田家臣・駒井高白斎政武(こまいまさたけ)の
日記「高白斎記(こうはくさいき)」では「子の刻、大城、深志、岡田、桐原、山家、五ヶ所の城自落」と記載されている。大城と
言うのが林城、深志は深志城つまり松本城(松本市内)、他も林城の支城群を指し、いずれも小笠原方の諸城だが「自落」と
あるので継戦を諦め自ら城を棄てた可能性もあろう。こうして林城は陥落し、以後廃城になったと考えられている。武田方は
平地にある平城を統治拠点として重視し、松本城を信濃府中の本拠としたので山城の林城は破却されたのだ。■■■■■
なお、小城は「古城」に通じ、大城よりも古く使われていたと長らく考えられてきたが、近年の考察では複雑な縄張りもあって
大城よりも新しく構築(もしくは改良)された可能性を指摘されるようになっており、諸説ある中では武田氏の滅亡後になって
徳川家康に従属し旧領を回復した小笠原右近大夫貞慶(さだよし、長時の子)が改修したとするものもある。確かに、石垣を
多用した城はその時代のものとも思えなくはないが、確証はなく詳細不明でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■
結局、江戸時代以降は城として顧みられること無く経過、大城は現代になって城址公園として整備されるようになるが、故に
大規模な破壊は免れ、往時のままの遺構が良好な状態で残される現況となった。よって、林城跡は1970年(昭和45年)10月
22日に長野県指定の史跡となっている。以後も調査研究が進み、守護大名の権力形成に伴う城郭遺構群としての重要性が
認められた為、井川館と林大城は「小笠原氏城跡」の名で2017年(平成29年)2月9日に国史跡指定。更に2019年(平成31年)
2月26日には林小城もそれに加えられており、今後も林城を巡る史跡整備は進められていく事だろう。とにかく必見の山城!







信濃国 埴原城

埴原城跡 石垣

 所在地:長野県松本市中山

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

★★★★
★☆■■■



見事な石垣で作り込まれた城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
「はいばらじょう」と読む。松本市南部、中山(なかやま)地区にある曹洞宗大乗山蓮華寺の東にある山が城跡。小笠原氏の
支配下に置かれ、林城の支城であったと推測される。故に、長野県史跡「小笠原氏城跡群」の一つに含まれている。■■■
埴原城の城山は、更にその東に聳える宮入山(標高1530.8m)から延びる山裾尾根先端部に当たる。この山は標高1004mを
指し、当然ながらそこが主郭として造成されている訳なのだが、そこから北・西・南西・南の大きく4方向に尾根が伸びており
(他に東の尾根が宮入山方面に繋がる)それぞれに無数の段曲輪が築かれ、また主峰方面の東尾根には大きな堀切を穿ち
城域を策定している。主郭の西側下段には馬場と呼ばれる帯曲輪、その下に二ノ郭とされる広めの曲輪、さらにその下には
三ノ郭。これら主要曲輪群は大半が石垣で固められ(写真)、その堅固さは林城よりも見事な感触を受ける。各尾根筋ごとに
堀切や竪堀も広がり、広大な敷地に隙なく徹底した防御設備が並んでおり、また主郭のすぐ傍らには「化粧清水」と呼ばれる
井戸もあって籠城の備えは万全。西の尾根と南西の尾根の間にある谷戸の麓に蓮華寺が建つのだが、ここは往時の館跡と
見られ、そこにも「御屋敷跡」「梅屋敷跡」「的畑跡」と名付けられた敷地群が並んでいて、山の下から上まで活用されていた
様子が垣間見え申す。蓮華寺境内の標高が800m弱なので、主郭までの比高差は200mを超える。■■■■■■■■■■■

村井氏によって作られた山城?■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この城は元来、埴原氏(村井氏)の城だったと伝わる。この地は朝廷の埴原勅旨牧(御牧、官立の養馬場)があった地域で、
その管理者として勢力を築いたのが埴原氏だとか。後に村井城(小屋城)を本拠とした事から村井氏とも称されて、一説には
鎌倉時代には村井城の“詰め城”として埴原城が作られたとされる。ただ、そうだとしても当時からこれほど広大な城郭だった
訳では無かろう。室町時代となり、小笠原貞宗が信濃守護となった事で村井氏はその配下に入るようになり、結果的に埴原
城は小笠原家の支城として扱われるようになった。そうした経緯に伴って、埴原城は大型城郭へと変貌していったのだろう。
よって、埴原城は小笠原氏城跡として見做されるのである。林城から南へ約4kmの地点に埴原城はあり、林城の南側を封殺
する絶好の場所に存在すると言える城だ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
だが小笠原氏に与した事で、戦国時代になると甲斐武田氏の侵攻を真っ先に受ける事となった。武田晴信が小笠原長時を
攻め立てた1550年、「高白斎記」には林城陥落に先立ち「イヌイの城」を攻め落とし、それが契機となって大城など5つの城が
自落した、と記されている。この「イヌイの城」が埴原城の事だと比定されるのが一般的だ。確かに、巨大な要塞と化していた
埴原城が落とされたとなれば、小笠原勢の戦意が喪失するのも頷ける。ただ、何を以って「イヌイの城」なのかが不明なので
(林城から見て埴原城は戌亥の方角ではない)、別の城を指している、或いは既に埴原城は武田方に落とされていた、等の
諸説入り乱れている。いずれにせよ小笠原長時の逃亡でこの地域は武田家の支配下に置かれて埴原城は廃城になったと
推測されるが、林小城と同様に小笠原貞慶の改修を経た後に廃絶したと見る向きもある。■■■■■■■■■■■■■■
1970年10月22日に他の城と同様に長野県指定史跡となるも、こちらは国史跡にはなっていない。ただ、林城に負けず劣らず
見事な遺構が残されていて必見の城跡。特に石垣の迫力たるやこの地域では随一だろう。上記した蓮華寺の北側から山へ
入る登山道が伸びており、途中の獣除柵を越え長い坂を登って行けば壮大な城跡が待っている。車は蓮華寺に駐車可能。



現存する遺構

井戸跡・堀・石垣・土塁・郭群等
城域は県指定史跡








信濃国 桐原城

桐原城跡 石垣

 所在地:長野県松本市入山辺

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

★★★★☆
■■■■



現在も城主子孫が所有する山■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
こちらは桐原(きりはら)氏の城。この地には桐原荘と呼ばれる荘園があり、その管理を担う者が桐原氏を興したと見られる。
また、朝廷の官牧・桐原牧があったとも言われ(別の場所との説もある)それが桐原氏の権力基盤にもなったと考えられる。
江戸中期の松本藩史書「信府統記(しんぷとうき)」に拠れば、桐原城を築いたのは1460年(寛正元年)桐原大内蔵真智で、
この真智なる人物は犬甘(いぬかい)城(松本市内)主・犬甘大炊介政徳(まさのり)の弟だと言う。ただ、政徳の生存年代は
小笠原家が武田家に倒される頃(1550年前後)なので、それに関しては誤伝があるのだろう。ともあれ、真智以後の桐原氏は
市正真実―蔵人真貞―織部真基と続く。桐原氏は守護・小笠原氏に一貫して従属しており、桐原城も林城の支城として用い
られた訳だ。斯くて真基の代、1550年に武田晴信の攻勢を受け「高白斎記」にある通り落城したのでござる。武田勢が占拠し
遠山長左衛門に与えられたという伝承もあるが、恐らくこの時点で廃城とされた模様。或いは天正年間(1573年〜1592年)に
小笠原貞慶が、若しくは慶長年間(1596年〜1615年)に松本藩主となった小笠原信濃守秀政(ひでまさ、貞慶の子)が改修を
施した可能性もあろうが、それも小笠原家の移封に伴って沙汰闇になったと思われる。落城以降の桐原氏がどうなったかは
不明だが、1599年(慶長4年)の絵図には山麓に「御屋鋪」として桐原氏の居館が示されており、その後も生き延びたのかと。
現在も城山一帯は桐原家の所有地となっている。城主さまの御厚意によって一般開放されている山なので、くれぐれも迷惑を
かけたりせぬよう気を付けて見学するようにしたい。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

いち地方豪族がこれだけの大造成を行えるものなのか?■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この城は林城から見て北東に位置し、薄川の北岸側に所在。大きく見れば北東の袴越山(はかまごしやま、標高1753.2m)の
南西側裾野にある末端尾根が城山である。この尾根は北側に追倉沢(おっくらざわ)、南側に海岸寺沢(かいがんじざわ)と
言う2つの谷間に挟まれており、これが天然の防御線となっている。城域の北端、城山の小ピークは海抜948mを数え、ここが
主郭として造成されていて、東西およそ29m×南北27m程の敷地を持つ。主郭の下段にU郭、更にその下にV郭、また下に
W郭というのが主要曲輪。そこから東を除く全方位に向かって放射状に竪堀が広がり、合間ごとに無数の段曲輪群がある。
驚くべき事に、竪堀はただ真っ直ぐに落ちるだけでなく要所要所に“折れ”が構えられ、敵兵を足止めして容易に登らせない
非常に技巧的な構造を有している。また、主郭をはじめとしてほぼ全ての曲輪で敷地の面取りが行われ、林城や埴原城の
ように“天然地形を利用した城”と云うよりも“人為的に徹底的な地形改造が行われた城”という完成度を誇っている。しかも、
これらの曲輪は殆ど全ての面で石垣が固められ(写真)驚異的な光景が広がる。高石垣ではなく、それぞれ1m〜2m程度の
“土留めの石垣”と云った具合ではあるが、逆にこんな高所にこれだけ石垣だらけの景色があるのは空恐ろしささえ感じられ
往時の威嚇効果たるや万全のものだっただろう。曲輪の一部には枡形虎口を思わせる小空間もあり、縄張論的に考えれば
戦国期の城と言うよりも、近世城郭としての先進性を認めざるを得ない。何より、主郭の裏側(東側)、主山塊との接続部は
大堀切で断ち切られているのだが、これが5条にも及ぶ連続堀切となっている上、幅は30mを越そうかという広大さであり、
その土木工事量たるや想像を絶するものがある。これだけの普請労働力を投入できる(しかもこんな場所に)築城となれば
弥が上にも近世大名(小笠原秀政か?)による綿密な築城が行われたと妄想してしまうのだが、果たして?他方、当城では
石垣材として平石が多用されており林城との相違点もある。在地系技術と近世城郭の融合…何と甘美な響きであろう(笑)
兎にも角にも、山を鉈でカチ割ったような大堀切や各所で精緻に形造られた石垣群は必見の城郭でござる。■■■■■■

登るに厳しい山だが、それだけの価値ある名城!■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
桐原城は長野県史跡としての小笠原氏城跡の中に1980年(昭和55年)9月8日、追加指定された。その後、山麓の幹線農道
整備に関連し2007年(平成19年)11月5日〜12月20日と2008年(平成20年)4月28日〜2009年(平成21年)1月26日にかけて
発掘調査が行われている。全てが桐原城の遺物とは限らないようだが、土坑・土器・陶磁器・土製品・石器・礫などを検出。
この発掘では城下に位置する海岸寺遺跡も同時調査されており、そちらでは古代〜平安期にかけての遺物が出土していて
桐原氏が平安期からの荘官(牧官)として成立したという歴史も裏付けられ申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■
松本市役所の入山辺出張所(入山辺公民館)から北北東に約840mの地点が桐原城の主郭。他に目印になるようなものが
無いのだが、強いて言えば入山辺集落の北辺にある追倉神社の東にある山という説明になろう。この神社へ至る道沿い、
農家のビニールハウスが並ぶ所が番所の跡。車はこの場所に1〜2台なら停め置ける。これが追倉沢側の登城口である。
その地点から、車道の突当り右手に徒歩の入山口(獣除けの柵を開閉する)があり、そこから一旦山の南側を回り込む形で
城域南端の方まで進むと、次第に山の上へと向かう経路に変化していく。ここまでの道のりがかなり厳しいものなのだが、
城内に入るにつれ上記の如く見事な遺構が続出するので、それまでの艱難が一気に忘れられよう。なお、海岸寺沢側から
直接山に入る道もあるそうなのだが、そちらは道なき道を往くような状態らしいのでオススメできない。いずれにせよ、山麓
集落からの比高差は220m以上、入山口からでも160mは登る事になるので足下に注意して行動されたい。■■■■■■■
別名で蓮法城・蓮峯城(共に「れんぽう」と読む)とも。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・石垣・土塁・郭群等
城域は県指定史跡




青柳城・青柳館  高山陣屋・高山城