一条の尾根を堀切で切り分け、多重防御とした大城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
松本市郊外、薄川(すすきがわ)の南側にある山塊群に所在した山城。山に挟まれた里山辺(さとやまべ)集落の中に大嵩崎
(おおつき)公民館があるが、その北東側にある標高846mの山が林大城の跡、公民館の西にある山の中腹域を用いたのが
林小城(古城)である。小城と区別して大城を林城と呼ぶ事もあるが、近年は両城を合わせて林城と称する例が多い。されど
2つで1つの城(一城別郭)と言うよりは、独立したそれぞれの城と解釈すべき立地・構造だと言える。大嵩崎の谷戸は両方の
山に挟まれている居館区域だったようなので、大城と小城という2つの城が包み込んで守っていたのかもしれない。林大城は
金華山城、林小城は福山城との別名がある。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
大城のある山は、高遠山(標高1317.1m)から北西方向に延びる尾根の末端部に当たる。必然的に、南東から北西へと向かう
細長い山容となる訳で、山頂部一帯をほぼ長方形のT郭に啓開、その北西側にU郭を置き、2つの曲輪の間を大堀切で分断
している。U郭の下段(更に北西側)にはV郭。このV郭は現在駐車場となっており、ここまでは車で登って来る事が可能だ。
T郭の東に支尾根があり、そこが車道となっていて山頂部近くまで登る事が出来る訳だが、城の縄張りとしてはこの支尾根に
数条の堀切・竪堀を入れてそちら側からの侵入を遮断している。あとは主稜線(T郭を中心に北西〜南東の尾根)沿いにただ
ひたすら段曲輪を重ね、部分部分に堀切を構え段曲輪の“区画分け”を行っている縄張りだ。北西端の麓が薄川に面しており
大城はここから登って来るであろう敵勢を迎え撃つに特化した多重防御ラインを構築している。半面、山の側面や件の支尾根
方面から敵が登って来る事は想定していないようで、そちら側に腰曲輪や横堀などの構造物は検出されていない。山の形状に
依存し、尾根道を幾重にも封鎖する事で防御を固めた構造であった。ただ、主郭一帯は石垣を構築し堅牢な構え(写真)。城の
来歴からすると(詳細下記)戦国時代前半の遺構なのだが、当時からこれだけの石垣を用いていたのならば、かなり先進的な
技術を取り入れていた事になろう。現在でも曲輪や土塁・石垣などの構造物が多数残されており、保存状態も良好だ。上記の
通り車で登山するのも簡単なので、来訪し易い城郭でござろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
いくつもの帯曲輪を重ね、複合的に守る小城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
一方の小城であるが、これも大きく見れば主山塊の突出部に当たる小山(と言っても麓との比高差150mになるが)を利用した
立地。大城の細長い山容とは異なり、主山塊と尾根で接続する単独の山になっている感じである。南に繋がる主山塊側との
尾根には3条の堀切を構えて切断、山頂を造成しT郭を設置。T郭の西〜北〜東を囲って下段にU郭。U郭からは北西側と
北東側に大きく尾根が分かれるので、それぞれに段曲輪群を重ねている。大城と異なるのは両尾根の間にも数々の帯曲輪を
構築し、山全体が兵の陣地として機能するようになっている点であろう。無論、山の形からそうした構造を取り入れている事も
あろうが、「これだけ作り込んでやろう」という防衛意図が感じられる。また、尾根沿いに段曲輪を構えるものの、大城とは違い
屈曲した箇所を設け横矢を掛ける工夫なども確認できよう。場所によっては重ね馬出の如き複合防御構造を取り入れており
大城よりも技巧的な縄張りを志向していた事が分かる。現地に赴き山の状態を見てみれば「しつこい」縄張りだと思える(笑)
勿論、小城にも石垣は多用されており(と言うか、むしろ大城よりも大規模)攻め手の戦意を“視覚的にも”削ぐ効果があろう。
面白いのは、この石垣に“隅部”が無く、山の外縁を取り巻くように丸く巡らされている所である。普通、石垣を組むならば多少
なりとも屈曲や角部を設け、石垣の強度を増し、横矢を掛ける陣地にもするものだが、この城の石垣はあくまで山の地形には
逆らわず、丸い曲輪取りに沿って石垣も円弧を描いて構築されている。また、石垣と呼ばれるが裏込めの土塁がなく“石塁”と
言うべき形態になっているのも特徴的。このあたり、いわゆる“織豊系”と云われる中央政権によって確立された技法とは違い
在地系の技術で築かれたという由来によるものなのだろうか?更に、甲信地方の石垣は平らで薄い石材を重ねる平石積みが
一般的だが、林城ではそうではなく川原石のゴロゴロした石材が大量に使われている。恐らくこれは薄川の河畔から調達した
石を山上に持ち上げて組んだ石垣なのだろう(平石が含まれている部分もある)。このように林城の石垣は何かにつけ異質な
雰囲気を漂わせており申す。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
小城では山の斜面にも数条の竪堀を入れ、竪堀の無い部分では天然の谷間が折り重なり、横方向への敵兵移動を遮断する
工夫も見える。この点も大城とは異なる状況で、隣接する城でありながら細かい差異が見受けられるのが興味深い。大城は
尾根道に対する“一直線の防御”、小城は全周警戒を怠らない“積み重ねる防御”と云った具合か。小城の山中深い場所には
「地獄の釜」と呼ばれる古井戸も。地元では「かんばさま(「釜様」が訛ったものか?)」と伝わり、馬が1頭引きずり込まれたとの
怪しい伝説がある程で、迂闊に近寄るなという警鐘なのだろう。事の真偽はともあれ、それだけ豊富な水場があったとなれば
籠城の備えも万全だった訳だ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
国人衆に悩まされた守護が必要とした山城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて城の歴史だが、信濃守護・小笠原氏の城郭であるというのが定説。河内源氏の子孫である小笠原氏は甲斐国巨摩郡に
本貫地を有し、その地名(現在の山梨県南アルプス市小笠原に比定)を採って姓とした。鎌倉時代から信濃へ拠点を移して、
室町幕府から信濃国守護に任じられた名族だが、実のところ信州は在地豪族の独立性が高く、守護権力と言えども支配力を
浸透させるのが難しい土地柄であった。室町幕府初代将軍・足利尊氏から信濃国守護職を与えられた小笠原治部大輔貞宗
(さだむね)は入国に際し井川館(松本市内)を構えたが、これは平地に築かれた居館である。さりとて先述の如く守護権力が
安泰ならず、国衆の叛乱に度々晒される小笠原氏としては、権威の象徴である平地居館よりも軍事に有効な堅城を必要と
するようになっていく。斯くして築かれたのが林城とされている。1459年(長禄3年)、小笠原大膳大夫清宗(きよむね)の手で
築城されたと言うのが一般的な起源だが、それに先立ち1443年(嘉吉3年)小笠原民部大輔長朝(ながとも、清宗の嫡子)が
林館(林城)で産まれたとの記録もあり、はっきりした事は分からない。いずれにせよ、室町中期に築かれたであろう林城は
小笠原氏と国衆の対立、そして小笠原一族内での分裂など諸々の戦乱を経るに従い整備拡充され、井川館に代わって信濃
守護家の本拠地となったのであった。また、周辺の山々にも支城群が構築され、松本平を望む林城を中心として小笠原家の
地域防衛網が整備されていく。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところがその後も小笠原家は信濃全域の支配権を作るに及ばず、そうこうしている間に戦国時代が本格化し甲斐武田家の
侵攻を受ける事になる。1550年(天文19年)武田大膳大夫晴信(はるのぶ)が松本平へと攻め寄せるが、時の守護・小笠原
信濃守長時(ながとき)は尊大な性格から家臣の離反を招いて国土の防衛ならず、7月15日に一夜にして林城は落とされた。
この時、武田軍は攻城の付け城として村井城(松本市内)を用いたとされ、武田家臣・駒井高白斎政武(こまいまさたけ)の
日記「高白斎記(こうはくさいき)」では「子の刻、大城、深志、岡田、桐原、山家、五ヶ所の城自落」と記載されている。大城と
言うのが林城、深志は深志城つまり松本城(松本市内)、他も林城の支城群を指し、いずれも小笠原方の諸城だが「自落」と
あるので継戦を諦め自ら城を棄てた可能性もあろう。こうして林城は陥落し、以後廃城になったと考えられている。武田方は
平地にある平城を統治拠点として重視し、松本城を信濃府中の本拠としたので山城の林城は破却されたのだ。■■■■■
なお、小城は「古城」に通じ、大城よりも古く使われていたと長らく考えられてきたが、近年の考察では複雑な縄張りもあって
大城よりも新しく構築(もしくは改良)された可能性を指摘されるようになっており、諸説ある中では武田氏の滅亡後になって
徳川家康に従属し旧領を回復した小笠原右近大夫貞慶(さだよし、長時の子)が改修したとするものもある。確かに、石垣を
多用した城はその時代のものとも思えなくはないが、確証はなく詳細不明でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■
結局、江戸時代以降は城として顧みられること無く経過、大城は現代になって城址公園として整備されるようになるが、故に
大規模な破壊は免れ、往時のままの遺構が良好な状態で残される現況となった。よって、林城跡は1970年(昭和45年)10月
22日に長野県指定の史跡となっている。以後も調査研究が進み、守護大名の権力形成に伴う城郭遺構群としての重要性が
認められた為、井川館と林大城は「小笠原氏城跡」の名で2017年(平成29年)2月9日に国史跡指定。更に2019年(平成31年)
2月26日には林小城もそれに加えられており、今後も林城を巡る史跡整備は進められていく事だろう。とにかく必見の山城!
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