信濃国 青柳城

青柳城址石垣

 所在地:長野県

東筑摩郡筑北村坂北青柳・坂北東山
東筑摩郡麻績村麻
(筑北村域:旧 長野県東筑摩郡坂北村青柳・東山)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★☆
★★■■■



現存する遺構

堀・石垣・土塁・郭群等
城域内は県指定史跡



信濃国 
青柳館

青柳館跡標柱

 所在地:長野県東筑摩郡筑北村坂北青柳
 (旧 長野県東筑摩郡坂北村青柳)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

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現存する遺構

館域内は県指定史跡





見事な遺構を残す山城と、何も無い館跡■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この地の豪族・青柳(あおやぎ)氏の城郭。JR篠ノ井線の坂北駅から真東へちょうど1km地点にある曹洞宗柳庵山
清長(せいちょう)寺の境内が館跡で、その裏手(更に東)にある険峻な山が城跡。「平時の居館・詰めの城」という
典型的な組み合わせと言えよう。清長寺付近の海抜は666m前後、城山の頂には904.9mの三角点があり、比高差
およそ240mを数える。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この城山(そう、その名も「城山」なのである)実は南東側にある四阿屋山(あずまやさん、標高1384m)から延びる
支尾根の一端で、山塊本体から約400mの長さで突出する細尾根を利用した縄張り。現在、この細尾根の根元に
当たる位置に駐車場と模擬城門が設置され、そこから先が青柳城址公園として開放されている。基本的に、この
細い尾根を一本道で進む形状であるが、そこには随所に堀切や竪堀が穿たれて内部をいくつかの曲輪に分断。
しかも、切り立った尾根なのにささやかながら帯曲輪が取り巻く部分があったり、侵入者を管制するための土塁を
曲輪の辺縁部に構築したり、ただでさえ細い尾根をさらに土橋で絞り込んだりと、徹底して外敵を排除するような
構造物が次から次に出現。極めつけは写真にある石垣で、突端部(I郭)側の2曲輪分がこうした石垣でガッチリと
固められている。石垣は平石を横方向に並べ、それを積み重ねていく甲信地方に特有な工法。所謂“織豊系”の
石垣とは異なり、在地系技術によって築かれたもので、地元で独自の発達をしたものとして特筆できよう。恐らく、
往時はこの石垣が城下から仰ぎ見るようになっていた筈で、この城が“見せる城”として堅固さを喧伝していたの
だろう。単純な連郭式の縄張りながら、様々な意図を以て城を構成していた努力が汲み取れる。ちなみに、青柳
城内の曲輪と堀切の高低差が丁度標高900mの境を上下している為、地形図を見ると等高線がそのまま曲輪の
形状を踏襲していて面白うござる。公園の駐車場から歩を進めると、一旦二重堀切の鞍部を降りた後に少しずつ
高度を上げていき、途中の曲輪群を上り下りしながら突端部の山頂(ここが904.9m)に至る。■■■■■■■■■
一方、青柳館は城山の麓に存在し、急峻な傾斜が緩くなだらかな斜面に切替わる転換点に位置する。緩斜面の
中で最も高い位置に清長寺の境内が四角く形状を整えられて、その下段にも曲輪と思しき平面が存在。どうやら
寺の境内が居館址、下段は家臣屋敷として使われたと推測されているようだ。もちろん、現代の土地造成により
多分に改変を受けているのであろうが、概ねこうした敷地であった様子は垣間見える地形でござる。なお、寺の
裏から山へ登る道があり、城に通じている(上記の駐車場・模擬城門へ繋がる道とは別の徒歩登山道)。これが
城が現役だった当時の“大手登城路”だった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

周辺大勢力に振り回された青柳氏■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
築城の時期や築城主は不詳。青柳氏は麻績(おみ)氏の一族と言われ、伊勢神宮の麻績御厨を預かる職として
この地を支配していた。麻績氏を遡ると、鎌倉時代に麻績地頭となった小笠原四郎長親に行き当たる。後に室町
体制下で信濃国守護となる小笠原氏である。すなわち、青柳氏は小笠原家の傍流という事になろう。当然、室町
時代には守護・小笠原家に従っていたようだが、戦国騒乱激化した頃の青柳近江守清長(きよなが)の代に甲斐
武田氏が信濃へ侵攻、守護の小笠原大膳大夫長時(ながとき)を国から追った。その為、清長は武田信玄に従う
ようになり、以後の青柳城は武田氏の支配下に入った。この時、信玄は清長に麻績氏の家督相続も許したので
清長は麻績清長と改名、信玄の異母弟・一条右衛門大夫信龍(いちじょうのぶたつ)の麾下に加えられている。
1553年(天文22年)に起きた第1次川中島の戦いでは、信玄が青柳城に入り10日間滞在したと言われる一方で、
信玄が転出した隙に上杉謙信(長尾景虎)がこの城を攻め、9月3日に焼き討ちされたとの記録もある。四阿屋山
山塊と冠着山(かむりきやま)山系を越せば更級郡、善光寺平は目の前であり、当城は善光寺街道を掌握する
交通の要衝であった事から、武田・上杉(長尾)両軍が青柳城を巡って攻防戦を繰り広げたのも頷ける。■■■
青柳氏の家督は清長の嫡子・伊勢守頼長(よりなが)が継ぐ一方、清長は1569年(永禄12年)9月12日に没した。
1573年(天正元年)頼長は父の菩提を弔う為に上記の清長寺を開基。ただ、創建当初は今よりも北の青柳里坊
(さとぼう)の地に築かれたとの事。その1573年、武田家では信玄が没し勝頼が家督を継いでいる。青柳頼長は
青柳宿の再整備・善光寺街道の付替えを行い、1580年(天正8年)には隣の麻績宿へ通じる切通しも開削、交通
往来を活発にし経済振興で大きく貢献している。まるで近世大名の治世術を見るようで、清長の英邁ぶりが感じ
られよう。他方、武田家を継いだ勝頼は不遇の運命を辿り領国を縮小、遂に1582年(天正10年)3月織田信長の
猛攻を受けて自刃。ここに甲斐源氏嫡流・武田氏は滅亡した。それに伴い青柳頼長は信長を主と替えるが、その
信長も同年6月2日に本能寺の変で落命、為に頼長は越後の上杉弾正少弼景勝(かげかつ)を頼る事になる。
ところが南からは徳川家康が信濃に展開、信濃府中(現在の長野県松本市)を手中にし家臣の小笠原右近大夫
貞慶(さだよし)を配した。貞慶はかつて武田信玄に敗北した小笠原長時の3男であり、家康の手を借りて旧領の
信濃を回復したのである。こうして小笠原領と上杉領の挟間となった青柳城は、川中島の戦いと同様に1583年
(天正11年)4月〜翌1584年(天正12年)にかけて争奪戦が繰り広げられた。戦いは上杉方が優勢だったものの、
景勝は本国・越後の政情不安により撤退せざるを得ず、その結果青柳頼長は貞慶と和議を結ぶに至り、小笠原
方に従属する。地方豪族は大大名の庇護下で生き長らえるしかなく、青柳氏も右に左に顔を向けた果ての成り
行きであった。この間、小笠原期〜武田期〜上杉期〜再度の小笠原期と経るにつけ青柳城は整備され、主郭の
石垣は最末期の小笠原期に作られたと推測されている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

青柳氏の滅亡と、その後の城跡■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さりとて1587年(天正15年)、貞慶に出仕を命じられ深志城(松本城、長野県松本市)へ長子・長迪(ながみち)と
共に赴いた青柳頼長は、城内で謀殺されてしまう。貞慶が青柳父子を手にかけた理由は、江戸時代中期に編纂
された松本藩の地誌書「信府統記(しんぷとうき)」では頼長が上杉家と通じていた為としているが真偽は不明。
父・長時を見限り青柳氏が武田信玄に服従した恨みもあったのだろうか。兎にも角にも、これで青柳氏は滅亡し
青柳城は小笠原氏が接収している。この後、城は小笠原家臣の溝口美作守貞秀が管理、後にその家臣である
松林右橘が在番したと言うが、慶長期(1596年〜1615年)には廃城となった模様である。また、館跡に清長寺が
移された。清長寺は明治になってからの1874年(明治7年)青柳学校として転用されたが、翌1875年(明治8年)
狭小である事を理由に新たな校舎を建てて移転した。だが、それも1886年(明治19年)に廃校となって東条学校
中村支校に統合されている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
坂北駅前から東へ、青柳集落(これがかつての青柳宿)を抜けて青柳公民館の先に清長寺がある。車を停める
余地は十分にあるが、すれ違いの出来ない細道を行く事になるので運転には注意が必要である。館跡の立派な
石碑(写真)が立ち、曲輪の名残?と思しき地形は見て取れるが、清長寺は廃寺同然の朽ちっぷりなのであまり
踏み荒らさない方が良いだろう。一方、青柳城(城址公園駐車場)へ至るには駅から一旦南東側へ回り込んで、
曹洞宗龍沢山(りゅうたくざん)碩水寺(せきすいじ)の前を通り九十九折りの山道を登って行く事になる。途中、
拓けた畑作地を抜けて筑北村と麻績村の境界に差し掛かる辺り、害獣除けの電気柵を越えた所が駐車場だ。
立入る者が自分で電気柵の扉を開け閉めする必要があるので、近隣農家の方々に御迷惑を掛けないよう必ず
扉を閉め忘れぬ事に注意すべし。遺構も見事だが、主郭からの眺望はなお見事なので是非お薦めする城跡!
城址・居館址あわせて1974年(昭和49年)3月22日、長野県の史跡に指定され申した。■■■■■■■■■■

青柳氏の四方山話■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
余談だが、父・清長の菩提を弔う為に清長寺を創建した青柳頼長、彼の戒名は「柳庵院殿柳室浄青大居士」。
清長の戒名が「龍澤院殿柳山長清大居士」で、青柳家の菩提寺である碩水寺の山号が「龍沢山」なのは清長の
戒名に由来し、清長寺の山号が「柳庵山」なのは頼長の戒名に由来する。廃寺に近い清長寺に対し、碩水寺は
見事な庭園を有する大伽藍で、数々の寺宝を有する名刹なので城と一緒に拝観するのも良いだろう。■■■■
余談をもう一つ。青柳氏滅亡後、生き残った頼長の次子・清庵(せいあん、清安・千弥・頼長(父と同名)とも)は
縁あって“徳川家康の天敵”真田家に仕えた。関ヶ原で西軍に与して真田安房守昌幸・左衛門佐信繁父子が
九度山(和歌山県伊都郡九度山町)へ流されると青柳清庵はそれに随行。彼の地で昌幸が病没すると、多くの
同伴者が去っていく中で清庵は残された信繁に従い続け、遂には大坂の陣にまで参戦する事となる。斯くして、
1615年(元和元年)5月7日、家康本陣へ特攻して果て“真田日本一の兵(ひのもといちのつわもの)”との伝説を
残した信繁に最後まで従ったのは、高梨内記と青柳清庵だったとか。高梨内記は近年の大河ドラマで日の目を
見たが、地方豪族の悲哀を背負った青柳氏末裔の清庵も、いつか脚光を浴びるよう期待したい。■■■■■■





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