信濃国 伊豆木陣屋

伊豆木陣屋址 旧小笠原家書院

 所在地:長野県飯田市伊豆木

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★@@
★★★☆



信濃守護・小笠原氏の経歴@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
室町時代の信濃守護と言えば小笠原氏。清和源氏の流れを汲み、甲斐国巨摩郡原小笠原荘(現在の山梨県南アルプス市小笠原)を
本貫地とした事から小笠原姓を名乗るようになったと言われる。鎌倉時代には分流が阿波(徳島県)守護に任じられ、阿波小笠原氏が
派生、その系統は後に三好氏となり戦国の梟雄・三好修理大夫長慶を生み出すが、小笠原宗家は足利尊氏の室町幕府創設に貢献、
信濃守護になるのである。但し、信濃国は在地豪族の勢力が強い土地柄で、守護権力は必ずしも盤石ではなかった。室町期を通じて
小笠原宗家(府中小笠原家)は国人衆の離反に苦しみ、強力な政権を築けなかった事から戦国時代には甲斐武田氏の侵攻を防げず
最終的に国を追われて流浪の身になってしまう。一方、小笠原家の分家である松尾小笠原氏(松尾(飯田市内)に入った小笠原家)は
府中小笠原家との確執により飯田の所領を失い、早い段階から甲斐武田氏へと臣従。武田氏の信濃征服にて父祖の地を回復した。
更に戦国末期の松尾小笠原家当主・掃部大夫信嶺(のぶみね)は織田信長の武田征伐時に織田家へ鞍替え、本能寺の変で信長が
没するや、今度は徳川家康へと主家を替えて巧みに生き残る。何とも世渡り上手な家とも言えようが、信嶺の養嗣子・左衛門佐信之
(のぶゆき)は家康の関東移封以来故地に帰る機を逸してしまう。関ヶ原合戦の後、信之に代わって飯田に封じられたのは信嶺の弟・
長巨(ながなお)でござった。徳川家の旗本として武蔵国本庄(埼玉県本庄市)に扶持を得ていた長巨は、関ヶ原戦役に参戦し岩村城
(岐阜県恵那市)・苗木城(岐阜県中津川市)の攻撃に参加、その戦功として信濃国伊那郡伊豆木1000石を与えられ申した。その結果、
1600年(慶長5年)に構築された統治拠点が伊豆木(いずき)陣屋だ。以後、長巨の血統は伊豆木小笠原氏と称され、伊那郡の領地が
未確定だった頃には幕府から10万石相当の所領を一時的に預けられている。なお、長巨の名は幕府へは「長臣(ながおん)」と届出し
(幕府編纂の家譜集「寛政重修諸家譜」)そのように記される事もある。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

伊豆木陣屋の立地と構造@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
陣屋の置かれた場所は、かつての伊豆木城が築かれた山の麓にある。伊豆木城は南北朝時代~戦国期に使われた中世の山城で、
小笠原氏に従った伊豆木氏の城だったと言う。その城山を北西に背負った伊豆木陣屋は、周囲よりも一段高い山麓の台地平面上に
構築され、台地斜面の西~南~東へと兄川(天竜川に注ぐ弟川の支流)が流れて天然の濠を成しつつ、比高10m程の断崖を形成し
要害性を保っている。石高1000石の旗本では強大な城を築く訳にもいかないが、戦国の気風残る時代の陣屋だけあってか、せめて
川っ渕の崖の上に(そしていざという時の山城を背後に確保し)場所を選んだのでござろう。東西150m×南北70m弱という敷地の中、
御殿・御用所・土蔵・湯殿・台所・供侍と言った陣屋の諸建築が建ち並んでいた。陣屋への入口は南面に開かれており、その脇には
物見櫓(敷地内で最も眺望の開ける場所に建つ)が置かれ、虎口を警戒する構造。虎口へ至る階段は途中で折れ曲り、中へと入る
者を少しでも足止めしようとした工夫が垣間見える。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
特筆すべき建物は書院である。物見櫓の西側、崖にせり出した位置に建つこの建物は、懸け造り(京都・清水寺の舞台と同じ構造)
つまり建物の半分は宙に浮き、その足下を高い柱で支える仕組みとなっている。城郭建築としては伊達政宗が建てた62万石の首府・
仙台城(宮城県仙台市青葉区)本丸御殿が同様の構造だが、1000石の陣屋でそれを作った小笠原長巨はなかなかの風流人なのか
或いは領民に見せつけるような(天守に代わる)陣屋の象徴が必要だったのか…。桁行14.4m×梁間11.5m、柿葺平屋建の書院は
間口3.75m×奥行3.44mの向唐破風造玄関を附し、蟇股(かえるまた、破風の装飾部品)に小笠原氏の家紋・三階菱を描いている。
書院主屋内部は「田」の字形に4つの部屋に分けられ、南一ノ間(書院間)・南二ノ間(次の間)・北一ノ間(居間)・北二ノ間(茶間)と
使われた。柱の釘隠しには「永楽通宝」をあしらった飾り金具が嵌まり、江戸時代の武家居館として相応しい気品と風格を備える。
流石は礼法師範として名高い小笠原家の面目躍如と言ったところか。柱や杉戸には節目の無い年輪が密に揃った最高級の檜材が
使われ、これまた書院の格式を高めている。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

現在の伊豆木陣屋@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
長巨より後、交代寄合旗本(江戸定府ではなく、領国に在住し江戸へ参勤する旗本)伊豆木小笠原家は長泰―長朝―長貞―長暉―
長孝―長煕―長著―長計―長厚―長裕と11代続いた。この間、改易や転封される事なく明治維新を迎えている。しかし、維新後の
陣屋は廃され、明治初期に大半の建物は解体(あるいは移築)されてしまう。現在、陣屋の敷地には小笠原家資料館が建てられて
伊豆木小笠原氏の事績や文化遺産が展示されている。この資料館は母方が小笠原家出身の妹島和世(せじまかずよ)女史が所属
している建築集団SANAA(サナア)が設計したとかで、かなり独創的な佇まいを見せる。その資料館の前に鎮座するのが書院、
現在は「旧小笠原家書院」と呼ばれる現存建築(写真)だ。陣屋内で旧態のまま残る建物はこの書院・妻入玄関のみでござれば、
1952年(昭和27年)3月29日、国の重要文化財に指定(玄関部は附指定)された。伝承では江戸の橋脚工事を請け負った長巨が、
その余剰木材を使って1617年(元和3年)に創建したと言われてきのだが(他にも慶長年間(1596年~1615年)創建説などもあり)、
文化庁が1969年(昭和44年)~1970年(昭和45年)にかけて行った半解体修理時に「寛永」の墨書が発見された事から、現在では
寛永年間(1624年~1645年)初期の完成と考えられるようになった。国重文指定の情報でも寛永年間説が採られている。書院は
有料だが内部の拝観も可能。貴重な江戸初期の武家住宅遺構は必須の見学場所だ。陣屋敷地内には虎口周辺の石垣も残存。
移築された建築としては旧太鼓門が飯田市江戸町1丁目にある曹洞宗白龍山専照寺の山門になっている。@@@@@@@@@@



現存する遺構

書院《国指定重文》
堀・石垣・郭群等

移築された遺構として
専照寺山門(太鼓門)








信濃国 愛宕城

愛宕城跡 愛宕稲荷神社

 所在地:長野県飯田市愛宕町・大久保町

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

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崖っぷちの古城@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
飯坂城とも。飯田市役所の南東300mに位置する愛宕稲荷神社境内がかつての愛宕城跡。この位置は南に松川が流れ、そこへ
北から王竜寺川が合流する所で、2つの川が斜面を削り取った段丘崖で囲まれた地形。よって、城の北~東~南は断崖で隔絶し
西側だけが地表面で接続する敷地になっていた。このような立地から当時の城を推測する事が出来るものの、しかし一帯は今や
完全に神社の敷地(写真)でしかなく、城としての遺構は殆ど残っていない。城の敷地は東西150m弱×南北100mほどの小ささで
城の来歴からして如何にも古城という形態であった。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
築城の時期、来歴などは不明。坂西(ばんざい)氏の城であったとだけ知られる。鎌倉幕府初代将軍・源頼朝が1195年(建久6年)
近藤六郎周家なる者に飯田郷を与え、周家は上飯田の松原宿に入部したものの直ぐに飯坂の地へ移転し城館を構えた。これが
愛宕城の創始とされるが、長くは使われず飯田城(下記)へ再移転した為、愛宕城は廃城になったと考えられている。現在、愛宕
稲荷神社境内には飯田市の天然記念物に指定されている「清秀(せいしゅう)桜」と呼ばれる桜の古木があり、その説明書きには
「建保年間(1212年~1218年)飯坂城(愛宕城)跡地に地蔵寺が建てられ」そこに清秀法印が植えた桜と記されている。地蔵寺が
後世、愛宕稲荷神社へと変わる訳だが、この説明に拠れば既に鎌倉時代の早い段階で愛宕城は跡地になっていた訳である。
言うまでもなく、近藤周家は飯坂に入ったと同時に坂西と改姓する。これが坂西氏の興りだ。では、なにゆえ「坂西」なのかと言うと
周家はもともと淡路国(兵庫県、淡路島)の出自で、その故地が万歳(ばんざい)山(兵庫県洲本市炬口(たけのくち))と云う所で
あったため、その名を採ったとの事だ。さりとて、頼朝から領地を与えられたという説には疑問点もある。周家は源義経に属した
将であり、頼朝・義経兄弟が幕府創設と前後して仲違した事から、彼は飯田へ落ち延びて来たとする向きもあるからだ。実際、
記録の上では南北朝時代まで阿曽沼(あそぬま)氏が飯田郷の地頭であり、坂西(近藤)氏の動向は良く分からない。@@@@@
他方、小笠原家の家譜「笠系大成」においては、室町幕府から信濃守護に任じられた小笠原治部大輔貞宗(さだむね)の3男・
孫六宗満が飯田郷の地頭職となり、三本杉に居を構えて坂西姓を称した事が坂西氏の創始と記している。坂西姓は、近藤系
坂西氏の名跡を継いだ、或いは阿波小笠原氏所縁の坂西氏(阿波国那賀(那東)郡在住の一党)から採ったとか。宗満の子で
小笠原系坂西氏2代目・播磨守由政が飯坂に城を構え、それを愛宕城の築城とする説もあるが、この説も由政の次代・伊予守
長由の頃に飯田城へ移ったと言われるので、鎌倉期の創設でも室町期の創設でも愛宕城は非常に短命だった訳だ。@@@@@



現存する遺構

堀・土塁・郭群等








信濃国 飯田城

飯田城跡 現存する赤門(左)と移築された八間門(右)

 所在地:長野県飯田市追手町・常盤町・主税町・銀座 ほか

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

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坂西氏の新たな城@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
坂西氏がより広い城を求めて愛宕城から居を移した城郭。一説には、この場所は修験道の教場であったのだが愛宕城の敷地と
交換して築城したとか。別名で長姫(おさひめ)城・三本杉城・三本杉長姫城・六本杉長姫城などがあるようだが、愛宕城の項で
示した通り、坂西孫六が入部した地が「三本杉」とある事から、飯田城と愛宕城は渾然一体とした扱いにあるようだ。@@@@@
築城の時期は不明だが、要するに「愛宕城の後に坂西氏が用いた城」という事だ。愛宕城の築城説に坂西由政の名があったが
飯田城も由政が築いた、との説がある。尤もこれは「長由の頃に飯田城へ移った」とする説の補足が必要で、長由は由政から
家督を譲られたものの早世してしまい、長由の子(由政の孫)・政忠が家督を継承した上で、彼が幼少である為に由政が後見と
なって実務を執り仕切り、その渦中で飯田城へ移転したという状況だったとの事である。もっと詳しく話をすれば、政忠の後見は
当初、長由の弟(由政の次子)である次郎長国が務めていたのだが、彼は信濃守護・小笠原氏と在地国人衆の対戦下で戦死し
隠居の身であった由政が後見人として再登板したのであり、つまるところ飯田城の築城時期は由政~長由・長国兄弟~政忠が
入れ替わるように世代交代する中、信濃国内の戦乱が抜き差しならない切迫した状況にあった頃と言えよう。その伊予守政忠も
長じて1446年(文安3年)小笠原氏の家督争いに巻き込まれ、弟の上総介を討死させる被害を被った。1446年と言えば、京都の
足利将軍は6代・義教(よしのり)が暗殺され、7代・義勝が幼少で病死した直後。関東では結城合戦が終わり、ようやく鎌倉府が
復興されるかと言う頃で、全国的に不安定な統治が続いていた訳だが、信濃も例外なく戦いが打ち続いており、飯田城を巡った
状況も安定したものでは無かったでござろう。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

武田家による改造@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
こうした中、政忠の後継は内蔵助政重―伊予守正俊―伊予守政之―若狭守長重―兵庫助長忠と続く。この間も近隣の豪族・
知久氏との領土争いが絶えなかったようだが、戦国時代も本番となるとこの地方には甲斐武田氏が侵攻する。御多聞に漏れず
飯田城も武田軍の攻略を受け、1554年(天文23年)坂西政之は武田信玄に降伏した。坂西氏は武田の軍制に組み込まれて、
武田重臣・秋山伯耆守信友の組下で軍役60騎を務める事になる。更なる後日談では、1562年(永禄5年)長忠は松尾小笠原
左衛門佐信貴(小笠原信嶺の父)の領地を押領したとして武田氏・松尾小笠原氏の両軍から追討を受けた。こうして坂西氏は
滅亡。一部の系統は生き永らえたとする説もあるが、坂西氏は歴史の表舞台から姿を消した。@@@@@@@@@@@@@
秋山信友の手により飯田城は武田流築城術の影響を受けた城郭へと変貌。一説には1573年(天正元年)小田原後北条氏の
周旋で坂西氏の生き残り(近藤系坂西氏か?)とされる坂西織部経定なる人物が飯田城主に任じられ、彼は長篠の戦いにも
参戦したと言う。しかし1582年(天正10年)織田信長が信濃へ侵攻、武田氏を滅ぼす事になる。秋山信友は織田軍との対決中
磔刑に処せられて命を落とし、飯田城主と伝わる坂西経定も織田軍に追われて城を捨て逃亡を図るも死に至ったとか。結局、
信長の手に落ちた飯田城で、討ち取られた武田四郎勝頼と太郎信勝(勝頼の嫡男)の首実検が行われたそうだ。@@@@@
戦後、信長は城主として織田家臣・毛利河内守長秀(秀頼とも)を封じる。長秀は伊那郡代としてこの地方を統括する立場に
なるが、直後に本能寺の変が起こってその立場も失ってしまった。武田遺臣の大反乱を恐れ、尾張へ逃げ帰った為である。
(同様に信長から甲斐統治を任された河尻肥前守秀隆は本能寺の変後、武田遺臣による反抗で落命している)@@@@@@

近世城郭へと変わっていく歴史@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
長秀の逃亡後、この地域は徳川家康の支配下に置かれ下条頼安(しもじょうよりやす)が飯田城を掌握。下条氏は武田氏の
庶流として発祥した家で武田家滅亡時には当主・兵部少輔信氏が孤軍奮闘し織田軍に抵抗するも、彼の弟・九兵衛氏長は
裏切って織田方へと投降し、信氏とその嫡男・兵庫頭信正を伊那郡から追放していた。飯田城は、毛利長秀が逃亡した後に
その氏長が占拠していたものの、後ろ盾となる信長は亡く、しかも兄を裏切った謀叛人として彼の立場は失われていく。一方
国を追われた信氏と信正は家康の下に走ったのだが、怨嗟収まらず2人とも憤死した。然るに信正の弟(信氏の次子)である
兵庫助頼安が、家康の信濃併合にて父兄の無念を晴らすべく氏長を打倒、飯田城を手にしたのでござった。以後、下条氏は
徳川麾下として信濃における反徳川勢力を阻止する事に従事した。この頼安の忠勤に対して家康は褒賞の書状を送ったが
程なく頼安も死去、飯田城主は信正の子・康長に交代する。ところが家中不和を引きずっていた下条氏は、康長の代になって
その内情が家康に露呈し、1584年(天正12年)菅沼大膳大夫定利が飯田城に派遣され城主となり、下条康長は更迭された。
(菅沼定利の伊那郡派遣は1587年(天正15年)とする説もある)@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
豊臣秀吉の天下統一に伴って1590年(天正18年)徳川家は関東へ移封される。菅沼定利も上野国吉井(群馬県高崎市)に
2万石を与えられて移転、新たな飯田城主には秀吉家臣となっていた毛利長秀が復帰した。石高は7万石、後に太閤検地で
高直しされ10万石とされる。その長秀が1593年(文禄2年)に死去すると、遺領の大半は長秀の娘婿・京極高知に相続され
それまで高遠城(長野県伊那市)を居城としていた高知は飯田城へと居を移したとの事。毛利長秀~京極高知の在城時代、
飯田城は更に大規模な改修が加えられて近世城郭としての体裁を整える。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
関ヶ原合戦にて京極高知は東軍・徳川家康方へ味方し、1601年(慶長6年)丹後一国12万3000石に大幅な加増転封を受けた。
斯くして丹後守となった高知は田辺城(京都府舞鶴市)へと移され、代わって下総国古河(茨城県古河市)から小笠原信濃守
秀政が5万石で飯田城主に任じられる。秀政は府中小笠原家の後裔、即ち正統な信濃守護家が信州に返り咲いた訳で
更に1613年(慶長18年)には松本8万石へと加増転封、小笠原家が信濃古府中の地をも回復するのである。それは兎も角、
小笠原秀政の転出後は1617年(元和3年)になって脇坂淡路守安元が伊予国大洲(愛媛県大洲市)5万3500石から移されて
飯田城主に。石高は微増の5万5000石でござれば、脇坂家は次代の中務少輔安政まで55年間に渡って飯田の町を統治し、
この間、街路の整備や用水路の開削(これは実質的に城の濠を兼ねたもの)など、民政の充実を図っている。@@@@@@
1642年(寛文12年)安政は播磨国龍野(兵庫県たつの市)へと転封。彼の地でも町の復興に尽くすなど、安政は名君だった。

江戸時代の飯田城主@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
その安政に替わり飯田城主となったのは堀美作守親昌(ほりちかまさ)。前任地は下野国烏山(栃木県那須烏山市)2万石。
飯田でも石高2万石とされたが、堀氏は慢性的に赤字財政で統治は難渋していく。このため、江戸時代中期に2回も大規模な
一揆が発生。また地震や噴火災害などの被害も重なり、飯田城も度々損壊してきた。堀家の統治は親昌以後、周防守親貞
(ちかさだ)―周防守親常(ちかつね)―大和守親賢(ちかかた)―若狭守親庸(ちかのぶ)―大和守親蔵(ちかただ)―
大和守親長(ちかなが)―山城守親忠(ちかただ)―大和守親民(ちかたみ)―大和守親寚(ちかしげ)―石見守親義
(ちかよし)―美濃守親広(ちかひろ)と計12代続くが、このうち10代・親寚は天保の改革期に幕閣登用された事で1843年
(天保14年)12月26日に7000石を加増されたが、改革が失敗すると1845年(弘化2年)9月2日に1万石を減封され申した。
11代・親義は暗愚の器であったようで、幕末の争乱である水戸天狗党の乱において、上洛する天狗党一行を阻止せずに
そのまま通過させ、幕府から2000石の減封処分を受けている。1869年(明治2年)6月23日、最後の城主であった親広は
飯田知藩事に任じられ、1871年(明治4年)7月14日の廃藩置県で免官。飯田藩は飯田県とされるが、これも同年11月に
筑摩県へと併合されて消滅する。飯田には飯田県庁、次いで筑摩県庁飯田支所(後に下伊那郡役所)が置かれたものの、
城は廃城となり、建造物の大半は破却もしくは移築されてしまった。また、城地も更地にされて殆どの遺構は埋没した。@@
更には1947年(昭和22年)4月20日、飯田市街地では大火が発生。飯田大火と呼ばれる大火災で旧市街の7割が焼失した為
その被害復興で罹災地域は大規模な造成が行われており、これも城郭遺構を消失させる一因となってしまっている。@@@

飯田の町を覆う巨大城郭@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
そもそも飯田城の敷地は市内を横断する形で巨大な面積を有している。形状としては愛宕城と同様…と言うか、伊那谷の
典型と言うべき天竜川河岸段丘の削り残しとなる舌状台地を利用した細長い敷地を幾つかの曲輪に分断した縄張りだが、
飯田城の大きさは他の城の比ではなく、東西800m×南北400m程にも及ぶ壮大なもの。加えて、江戸時代の開削によって
総構えとなる掘割も広がっており、そうした外郭部まで含めるともっと大きく捉える事になるだろう。現在も、飯田病院の裏手
あたりに惣堀跡として水路や石垣の遺構が残存する。飯田の街中には城に関連する事績が点在しているので全部の説明は
省くが、主要部だけに限っても長姫神社~銀座通りの近辺までがそれに該当。西(大手口)から東(台地先端)に向かって
順番に三ノ丸・桜丸・二ノ丸・本丸・山伏丸と言った曲輪が連なる連郭式の縄張りになっており、二ノ丸と三ノ丸の間には
出丸と呼ばれる側面陣地になる出曲輪が置かれていた。これらの曲輪の間は大掛かりな堀切で分断されて、その堀切は
そのまま崖下へと落ちる竪堀としても機能していた。また、出丸を囲う堀は捨堀のように独立し、二ノ丸虎口をより複雑な
屈曲で固める効果を持たせている。出丸部分が現在の飯田市立追手町小学校の敷地、長野県飯田合同庁舎が建つ位置が
桜丸、飯田市美術博物館一帯が二ノ丸、長姫神社境内が本丸、その先の温泉施設が山伏丸(物見郭)となる。山伏丸という
曲輪の名は、愛宕城と引き換えに山伏の教場を得た事に由来すると言う(江戸後期成立の信州史書「信陽城主得替記」より)。
その山伏丸から覗き込む崖下の眺めは、戦国期に攻防をくぐり抜けた古城の構えを今に伝える。逆に、谷底から見上げる
飯田城跡の断崖も圧倒的な存在感(恐怖感?)に身震いするものだろう。この他、長姫神社西側の堀切、追手町小学校の
脇から下る坂道が竪堀部分、その影に隠れるような形で石垣などが残存している。竪堀址の坂はかなりの急坂だ。これが
生活道路だと云うのだからなかなか大変だ、と思うが…一方で曲輪上の平面は極めて平坦である。町の中に居る限り、ここが
絶壁の上だと気付かない程である。城外の谷底と城内面の比高は50m程もあり、平山城と言って過言でない高低差を誇って
いる。しかも城内各所に必要十分な井戸が掘られており(元々、城の周辺には川があって水利に恵まれている)それに加えて
川の上流から引いた用水が城下町を潤すのみならず城内の池泉にまで繋がっていて、河岸段丘の上にありながら飯田城が
水を豊富に使えた様子を物語っている。勿論、籠城の備えも万全と云う事だ。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

現存門と移築門@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
城内に残る建造物は桜丸の正門(写真左)がある。この門は弁柄で赤く塗られている事から赤門とも呼ぶ。通常、赤門は
将軍家の息女が大名家に嫁いだ場合に限り、それ専用の出入門として建てられるものだが、飯田城の赤門は堀親長に
柳沢甲斐守吉里(よしさと)から室を迎える事で特別に許されたものだと伝わる(諸説あり)。吉里は徳川綱吉の腹心として
柳沢美濃守吉保(よしやす)の嫡男だが、実は綱吉の御落胤だとも噂される人物で、堀家に娘が嫁ぐ事で赤門の建設が
許されたとなると ――― 果たして風説の真相や如何に?それは兎も角として、入母屋造桟瓦葺の赤門は、桁行7.3m×梁間
4.28mの大きさ。番所が門本体から独立した建物になって連結する(写真では右側の部分)独特の形式で、門扉の脇には
潜り戸を備える。それまであった桜丸の正門を廃し(詳細下記)、堀親長の代にあたる1753年(宝暦3年)8月着工、翌1754年
(宝暦4年)に完成した。明治以降は飯田県→筑摩県飯田支所→下伊那郡役場→下伊那地方事務所の正門として使われて
いたが、1971年(昭和46年)に長野県飯田合同庁舎が建設された事で門としての使用は終了している。1985年(昭和60年)に
土台や塀の修繕、色の塗り直し等の修理が行われ、同年11月20日に飯田市の有形文化財となり申した。@@@@@@@@
この他、元の場所からは離れた所に移築された門が4棟。まず一つ目は、赤門以前の桜丸正門とされていた薬医門で、赤門の
建立時に飯田藩の家老・安富(やすとみ)家の屋敷に下げ渡され、さらに廃藩置県に及んで武士階級が消滅すると旧上郷村
(現在の飯田市上郷)の斉藤重胤氏が買い受けた。それを1914年(大正3年)頃に同村の吉川源美氏が購入、同地内の日蓮宗
法輪山経蔵寺へ寄付し山門とされたものだ。切妻造桟瓦葺、桁行3m×梁間2.68mの門は桃山時代の様式を色濃く残し、毛利
秀長か京極高知時代のものであろう。1994年(平成6年)2月18日、飯田市有形文化財に指定。@@@@@@@@@@@@@
お次は桜丸西門だったと伝わる雲彩寺山門。2010年(平成22年)8月20日、飯田市指定有形文化財。これも切妻造桟瓦葺の
薬医門で、桁行2.55m×梁間1.75mと少し小振り。桜丸正門と同じように、旧上郷村の斉藤重胤氏が廃城時に買い取り、それが
1921年(大正10年)頃に吉川源美氏の手によって曹洞宗白雉山雲彩寺へ移された。正面向かって左側に潜り門の扉が残り、
右側には塀が連結していた痕跡が見受けられ、移築によって改変があったようでござる。@@@@@@@@@@@@@@@
3つめは旧飯田藩馬場調練場の門、通称「脇坂門」で、2010年11月22日に飯田市指定の有形文化財となっている。寛政年間
(1789年~1801年)頃の創建と考えられ、元々は柿葺だった屋根が現在は鉄板葺に改められている。切妻造で桁行は5.35m×
梁間は5.51mと奥行が深い形状。城米蔵(宝蔵)の門であったとする説もあるのだが、1869年(明治2年)2月に馬場調練場を
修理した折に旧二ノ丸跡の下屋敷門として移築したとの記録から、馬場調練場の門と考えられている。斯くして、長らく美術
博物館前(二ノ丸)に置かれていたが、2014年(平成26年)3月、本来の位置に程近い飯田市旧飯田測候所跡地の公園へと
再移築されている。脇坂時代にはそのすぐ傍に家老の脇坂玄蕃邸があった事から、いつの頃からか脇坂門と呼ばれるように
なったとか。上部構造には他建築物の部材が転用されていたり、部材が切り縮められているため、往時は長屋門か入母屋造
だった可能性もあるが、詳細は不明でござる。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

飯田城の代名詞・八間門の雄姿@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
そして極めつけが4つ目の移築門、八間門(はっけんもん、写真右)である。文禄年間(1592年~1596年)創建、2階建櫓門で
桁行7.58m×梁間3.31mの切妻造桟瓦葺、両脇に長屋が繋がる。移築により長屋は地表面に降ろされたが、往時は石垣上に
建っていたと考えられるので、この長屋は多聞櫓形式で櫓門2階部分に連結していた筈だ。門扉の腰上部分が太い格子に
なっているのが特徴で、戦国期の古態を伝えるものと言える。城門の扉と言えば分厚い板で一面覆われるのが一般的で、
更に鉄板を貼って補強する事さえあるが、こうして格子の隙間を開ければ狭間のように城内側から門前に射撃を加える事も
可能となる実戦的なものなのだ。戦闘の光景を思い浮かべると、門扉に対して巨大な丸太などをブチ当てて強引に門を破る
ような状況を想定し、戸を頑強な物にする必要があるように考えるが、虎口の形状や大きさを工夫すれば、丸太の突撃自体を
防ぐ事も可能なので、必ずしもその状況になる訳ではない。むしろ「攻撃は最大の防御なり」という考え方をすれば、格子門から
絶え間なく射撃を加えて敵兵を寄せ付けぬ作戦を採るのもアリだろう。勿論、櫓門の2階部分には石落としも装備して防御を
固めている。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
廃城に伴って1871年に藩主の侍医であった木下家が貰い受け現在の場所へ移築された訳だが、旧家(名家)である木下家の
敷地に鎮座する姿は、まるでここが飯田城そのものであるかのような威厳に満ちている。飯田城跡地よりも、この八間門の
方が見所かも?!@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
但し、現在も木下家の御子孫の方が在住されている“現役の城門”なので見学の際には節度を持った行動をすべし。@@@@
1998年(平成10年)11月27日に飯田市の有形文化財に指定…と云うのは有名なのだが、実は1933年(昭和8年)に制定された
「重要美術品等ノ保存ニ関スル法律」に基づいて1949年(昭和24年)5月28日に国認定の重要美術品となっている。この法律は
1950年(昭和25年)8月29日の「文化財保護法」施行によって廃止されたが、認定済の重要美術品については猶も保護の効力を
有するとされており、八間門は市の文化財にして国(文化庁)の保護下にある訳だ。なお、先に記した経蔵寺山門も同日に国の
重要美術品と認定されている。飯田城は移築門めぐりをすると面白い城郭なのかもしれない。@@@@@@@@@@@@@@



現存する遺構

桜丸正門《市指定文化財》・井戸跡・堀・石垣・土塁・郭群等

移築された遺構として
木下家屋敷門(旧八間門)・経蔵寺山門(旧桜丸正門)《以上国認定重要美術品・市指定文化財》
雲彩寺山門(旧桜丸西門)・脇坂門(旧飯田藩馬場調練場門)《以上市指定文化財》




大島城周辺諸城郭  青柳城・青柳館