信濃国 飯島城

飯島城主郭址

所在地:長野県上伊那郡飯島町本郷

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:★★★■■
公園整備度:★■■■■



別名で本郷城。この地の古豪・飯島氏歴代の城郭。飯島氏は伊那の名族・片切(片桐)氏から派生した一族とされる。清和源氏嫡流
源経基の後裔である片切氏は平安期から伊那の入植を行っており、片切為行(経基の6代後)の子・二郎大夫為綱が飯島本郷に
入ったのは寿永年間(1182年〜1185年)の事。その嫡男はこの地の姓に改め、飯島太郎為光を名乗るようになった。これが飯島氏の
起こりでござる。鎌倉幕府草創期、為光は飯島郷の地頭に任じられ、承久の乱にも出陣したと「承久記」にある。以後、連綿と続いていく
飯島氏は南北朝期に北朝方へ属し、室町幕府から信濃守護を命じられた小笠原氏の配下に入っている。隆盛を極めた飯島氏は領内に
一族の菩提寺となる西岸寺を建立、1373年(文中2年/応安6年)には幕府から諸山の位を与えられたという。飯島城の創建は不明だが
恐らくこうした状況の中で、初期段階の武家居館が構えられたのでござろう。この頃すでに本家・片切氏の勢力を凌駕し、飯島地域の
大半が飯島氏の支配する所となっていた。
さて戦国時代になると、守護・小笠原氏の権勢は衰退し信濃国内は在地の武士団が独自の統治を行うようになっていく。このような
乱立状態の間隙を突き、隣国・甲斐(山梨県)から侵攻したのが武田晴信(信玄)である。甲斐から諏訪地方を攻め落とし、続いて
標的とされたのが伊那地方だった。飯島氏を含む伊那の諸氏は当初、小笠原氏に従い武田軍に抗したものの劣勢は覆せず、或る者は
武田に滅ぼされ、また或る者はその軍門に下る。飯島氏は武田に服属する事で命脈を保ち、以後は武田氏に従っていく。この過程で
飯島城は武田氏の技術を導入した巨大城郭へと変貌していったと推定されるが、信玄没後に武田方が衰退し1582年(天正10年)2月
織田信長の大侵攻が始まると、飯島民部少輔為次と小太郎兄弟(父子とも伝わる)は武田勝頼(信玄後嗣)の命に従い、大島城
次いで高遠城(長野県伊那市高遠町)の防備に転戦、討死したと言われる。飯島城は織田方に接収された後、廃城になったようだ。
なお、旧領を失った為次の子孫は流浪の末に徳川家康の配下となり、徳川四天王の一角・井伊直政の家臣に加えられ関ヶ原合戦や
大坂の陣に参加したものの、最終的には帰農して故郷・飯島の地で名主を務めるようになったとの説もある。
さて飯島城の構造でござるが、全体を把握するには縄張図だけでなく現状の地図も必要と思えるような巨大さである。基本的には
伊那地方の定型と言える天竜川の河岸段丘に突き出した舌状台地の突端を利用した城郭であるが、全域を示せば東西に約800m×
南北およそ350mもあり、しかも驚くべき事は城郭内にもう1段上位への河岸段丘面を内包している状況でござろう。国道153号線が
上伊那郡中川村への境界を越える直前、即ち飯島町の最南東部に位置する飯島城は、こうした段丘面によって大きく上段部(西側)と
下段部(東側)に大別できよう。東端は天竜川に突き出し、城地の北側は相の沢川の谷が侵食、南側は子生沢(こうみさわ)川で
隔絶されている為、この3方は切り立った崖で守りを固められる要害地形。西側だけが陸続きとなり大手口を開き、その外側を
西岸寺が塞いでいる訳だが、中央アルプスの麓として広がる平原(正確に言えば、更にその1段下の段丘)である西側上段部が
「本城地区」と呼ばれる部分、そこから段丘面を降りた東側下段部の台地突端地形が大きく「陣垣外(じんがいと)地区」「城山地区」の
2区画に分けられている。まず、天竜川に面した城の最奥部が一つの孤立した小山(写真)になっており、これが主郭である「城山」と
呼ばれている。細長い台地は主郭の手前に2郭「古城(ふるじょう)」、3郭「前の田」と分割され、それぞれの曲輪間は巨大空堀で分断。
特に主郭手前の空堀は「古城窪」と名付けられる程の広さで、写真で分かるように現状ではその内部が畑となっている。耕作可能な
面積が余裕で構えられる大きさの空堀でござれば、2郭から主郭への行き来はこの堀底を通っていくようになっていたようだ。一方、
2郭〜3郭の間は土橋で接続していた事が確認されている。主郭から3郭までが主戦闘地域として機能する構造だったらしく、この一団を
「城山地区」と総称している。さて3郭の外側は外郭に相当する4郭「陣垣外」だが、これは国道153号線バイパスによって大半が
削り取られてしまっている。南西部のごく僅かな部分だけが残存するが、その一帯に土塁のような土盛りが見られるのは国道敷設時の
残土との事なので城郭遺構ではござらぬ。4郭から更に外側(西側)を区画する空堀は「相の堀」と呼ばれ、その西側から段丘崖までの
平場は「古町」と名付けられている。古町の北端部、城内への出入り口を塞ぐように「馬場屋敷」という半円形の小さな区画が見られるが
恐らくこれは武田流築城術の定番、丸馬出の名残であろう。陣垣外〜古町を総称したのが「陣垣外地区」でござる。現地案内板の
説明では「城山地区」「陣垣外地区」の舌状台地先端部は中世前期に成立した古い部分とされている。
では段丘崖を上がって西側部分を見てみると、古町との崖を背にし、いびつな台形の敷地をした「本城」という曲輪が大きく占位し
周囲は大規模な空堀が取り囲む。しかも段丘崖には数条の竪堀も掘削、回り込んで取りつくのも困難にしており、かなり技巧的な
構造になっていた様子が見て取れる。本城の前衛、大手を塞ぐ位置には「登城」と呼ばれる曲輪群がいくつか構築されていた。崖を
背後の備えとし、本城を要として扇状に登城の曲輪群が前面一帯を塞ぐ様式は、武田流築城術の白眉・諏訪原城(静岡県島田市)を
彷彿とさせる構造。本城と登城で構成される地域が「本城地区」で、現地案内板には中世後期の構築と記載されている。要するに、
武田氏が入った後の構造物という事であろう。伊那谷を侵攻して来るであろう仮想敵軍(中央アルプスの山麓平原を進軍して来る)を
頑強な構造を備えた本城地区で迎撃し、もしそれが陥落するような場合は城山地区へ退避し籠城戦を継続するという2段構えの
防備で飯島城を守り抜こうという想定だったのだろう。また、平時の統治拠点として考えるならば、平野部に面した本城地区の方が
政治的にも経済活動的にも利便性が高い筈であり、武田氏が「新時代の城郭」としてこの本城地区を構築したのが良く分かる。
ただ、現状では城地のほぼ全域が耕作地に転用されている。周囲には民家も点在している為、見学時には配慮が必要だ。何より
駐車場もなく、史跡整備がされている訳でもないので、ここはあくまでも「農地」でしかないのだ。土塁や切岸など、散見される
遺構は見事であるが、広大な敷地を歩き回ってそういった残存遺構を探す事になるのでそれなりの覚悟が必要でござろう。
飯島町や長野県では特に史跡指定は行っていないが、町の埋蔵遺跡地としては認定されている。


現存する遺構

堀・土塁・郭群等








信濃国 飯島陣屋

飯島陣屋

所在地:長野県上伊那郡飯島町飯島

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★■■■■
公園整備度:★★☆■■



1677年(延宝5年)江戸幕府の天領支配で用いられる代官役所として築かれた。
豊臣秀吉の天下統一〜江戸幕府成立の頃、伊那谷(長野県南部、赤石山脈と木曽山脈に挟まれた天竜川流域の大谷)を縦貫する
ように三州街道(三河国足助〜信濃国塩尻を結ぶ道)が整備され、飯島の地には宿場町が形成されていた。その一方、江戸幕府の
全国支配体制が完成期を迎えた頃、伊那谷一帯には天領が多く分布するようになり、これを支配する為1672年(寛文12年)片桐村
(現在の長野県下伊那郡松川町内)に片桐陣屋を置いたが、この建物が破損被害を受けた事から飯島の町に移転、新たな陣屋が
築かれて支配地が整理統合されている。これが飯島陣屋の興りでござる。
飯島陣屋は明治維新まで存続し、片桐陣屋時代から(ちなみに初代代官は天羽七右衛門景安)数えて40代の代官が交代で任に
就いている。このうち1名は再任(14代・16代の大草政美)なので人数にすると39人だが、必ずしも陣屋に常駐していた訳では無く、
他の代官所との兼務などで席を空けていた事もある。最盛期、信濃国内には35箇所の代官所が設置されていたのが、次第に整理
されていき最終的には4箇所まで減少している。この中の一つが飯島陣屋で、創建当時の管轄石高は3〜4万石とされていたのだが
18世紀末には5万石を超え、幕末には1万5000石程度まで減少した。時代によっては筑摩郡・更級郡・小県郡(中信州〜西信州)も
支配地に入っていたとの事。
大政奉還・新政府樹立に伴って天領支配は終わりを告げる事になり、1868年(慶応4年)3月7日に飯島陣屋は廃止。翌日からは
尾張藩の預かりとなり「尾張藩飯島取締役所」と扱われるが、程なく明治新政府によって旧天領は接収、同年8月2日に伊那県が
設置されて陣屋建物が伊那県庁となり申した。伊那県は信濃だけでなく三河の旧幕府領も組み込んだ32万石相当の支配地域を
有したが、1870年(明治3年)9月に県域を南北に二分、北側は中野県として独立する。更に翌1871年(明治4年)にも細かい再編が
繰り返された後、11月20日に大掛かりな府県統合を実施、旧三河国領は分離され額田県に編入となり、残る伊那県支配地は他の
旧信濃国内4県と合体、筑摩県が成立する事になった。この日を以て伊那県は廃止、陣屋建物を利用した県庁も使用停止となる。
斯くして1872年(明治5年)中に陣屋建物は解体され、跡形も無く消えてしまった。
時は移り現代になると1990年(平成2年)から飯島町によって陣屋復元事業が開始され、飯島町内のみならず長野県や愛知県に
残る古文書を精査、更には現地発掘調査の結果を踏まえて1993年(平成5年)12月に当時と同じ位置、同じ構造様式で陣屋本陣
建物が竣工した。翌年から飯島町歴史民俗資料館として一般公開されている。
場所はJR飯田線飯島駅から北西へ430mほど。国道153号線から1本西側の小路に面している。飯島小学校の北側に2箇所ほど
町営観光駐車場があり、そこから徒歩で移動できる距離にあるので車での来訪も簡単だ。
1962年(昭和37年)7月12日に県史跡の指定を受けているが、特段目立った残存遺構はない。


現存する遺構

陣屋域内は県指定史跡








信濃国 大草城

大草城址公園

所在地:長野県上伊那郡中川村大草

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★★■■■
公園整備度:★☆■■■



南北朝時代、香坂高宗(こうさかたかむね)の築城。高宗は大河原(長野県下伊那郡大鹿村)を本拠としていた国人武士で、血縁を
辿ると信州の名族・望月氏の傍流であるとされている。望月氏、その本家たる滋野(しげの)氏から分流する香坂一族は信濃全土に
分布しており、本当に全てが同じ血族であるかは分からないものの総じて南朝方に与していた。折しもこの頃、南朝の総帥である
後醍醐帝の皇子・宗良(むねなが、むねよしとも)親王が諸国流浪の末に信濃へ下向。高宗は親王を迎え入れ、勢力を拡大すべく
大草郷にも城を築く。これが大草城の始まりと言う。正確な築城年は不明だが「李花集(りかしゅう、宗良親王の家集)」に拠れば
親王が大河原に入ったのは1344年(興国5年/康永3年)頃と考えられてござれば、その前後ではなかろうか。因みに、宗良親王は
信濃に入国し人生の大半を過ごした為「信濃宮」と呼ばれるが、他にも「大草宮」「幸坂宮」とも称される。言うまでもなく大草宮は
大草城に依った事からであり、幸坂宮というのは香坂氏が庇護した事跡を由来としている。
大草城は香坂氏の支配地域で有力拠点となり、香坂氏と対立する飯島城(上記)の飯島氏や船山城(下記)主の片桐氏などとの
抗争に明け暮れる。飯島氏も片桐氏も北朝方として信濃守護・小笠原氏の配下にあったからだ。どうやら天竜川の東岸は南朝、
西岸は北朝の勢力が強かったようである。伊那谷はこのような勢力図に分けられていたのだが、しかし結局、南朝勢力は衰退し
南北朝の対立は北朝方が勝利した。そしてその後の大草城がどうなったかは明らかでない。地域的に見て戦国時代には甲斐の
武田氏が支配下に置いたと思われるが、その武田氏が織田信長によって滅ぼされた頃には廃城となっていたらしい。豊臣秀吉が
天下統一を果たした後の1591年(天正19年)の検地帳には、大草城の跡地は畑地として記載されている。
1977年(昭和52年)4月1日、大草城址は中川村の史跡に指定。1982年(昭和57年)大草城址公園整備計画が決定され、1985年
(昭和60年)には発掘調査が行われた。古銭や中国渡来の天目茶碗などが多数出土している。その後、城跡は公園として造成
工事の手が入り1994年(平成6年)に完成した。現状では綺麗な都市公園―――になっているのは良いのだが、かなりの改変を
受けた感じが見受けられ、園内の残存遺構はあまり良く分からない。しかし城址の立地そのものは素晴らしいもので、天竜川
河岸段丘の崖端を活用した急峻な外縁は健在。そしてそこから望む中央アルプスの山並も絶景だ。改めて縄張りを紹介すると
天竜川東岸、大嶺山山塊の末端部に突き出した舌状台地の尖端部が城地で、城の西側は天竜川の深い谷に削られた急崖。
この敷地内の中、何故か中央部だけが隆起していてそこが主郭となっており、主郭を取り囲む西側と北側の平坦部がそれぞれ
西城(二郭)・外城(三郭)に区切られている。往時は主郭を囲んで堀が掘られ独立性を高めていたようだが、これは公園整備で
埋められてしまった。「都市公園」としては起伏を減らして敷地を広く取りたかったのであろうが、「城址公園」としては遺構損壊と
言え、実に惜しい事をしたものである。なお、城の南面に沿って天竜川の支流・深沢川が流れている。これも深い渓谷を作り出し
城の防備を一層強めていた。
場所は中川村役場の南、680mほどの地点。巨大な駐車場があるので車での来訪は簡単。電車だとJR飯田線の伊那田島駅が
最寄駅だが、天竜川の大渓谷を越えてやって来る事になるので(およそ5.5kmの道程)ちょっと大変かも?


現存する遺構

井戸跡・堀・土塁・郭群等
城域内は村指定史跡








信濃国 船山城

船山城跡出丸 船山稲荷

所在地:長野県上伊那郡中川村片桐
■■■■*長野県下伊那郡松川町上片桐

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:★★★■■
公園整備度:★■■■■



上記、飯島城の項で紹介した片切(片桐)氏歴代の城郭。源経基の5代後裔・源為基(片切為行の父)が春近荘片切郷を領し
姓を改め、片切源八為基と名乗った事が片切氏の創始。片切郷というのが現在の中川村片桐〜松川町上片桐一帯でござる。
平安中期の事とされ、これを由緒として船山城の創建を為基の手に拠るものとする説もあるが定かではない。片切氏は
清和源氏の後裔であるため源平合戦の時代には一貫して源氏方に与し、1156年(保元元年)保元の乱で勝利し勢力を拡大。
1159年(平治元年)の平治の乱では敗北し所領を失うが、後に源頼朝が平氏打倒の挙兵をした際にその麾下へ入り復権、
およそ20年ぶりに旧領を安堵された。京都で後鳥羽上皇が鎌倉幕府打倒を掲げて挙兵、これを幕府方が返り討ちにした
1221年(承久3年)の承久の乱でも幕府軍に参加し恩賞を受けた。これにより本領の信濃片切郷の他、近江国伊香(いか)郡
高月村(現在の滋賀県長浜市域)にも所領を与えられており、一族の者が彼の地へ移転している。余談であるが、近江へ移った
者が片桐氏を名乗るようになり、後の世に豊臣秀吉の側近にして賤ヶ岳七本槍の1人に数えられる片桐且元を輩出したという。
一方、信濃に残った片切氏は室町時代になると守護・小笠原氏の忠臣として名を残し、数々の戦いに守護方として参加したが
武田信玄が信濃攻略に手を伸ばすと、抗しきれず遂に1554年(天文23年)その軍門に降る。以後、武田家臣として行動した
信濃片切氏は1582年の織田軍侵攻で当主・片切隼人正政忠(昌為)を討死させ、その嫡子・長公も大島城の籠城で果てた。
斯くして平安以来の名族は滅亡し、その本拠として用いられ続けていた船山城も廃城になってござる。
この城も天竜川河岸段丘として突き出た舌状台地を利用したもので、大きく東西に区画分け出来るのが飯島城と良く似ている。
台地の根元、元々は城内鎮守であったと言われる御射山神社から東に向かって長く伸びる敷地が城地であるが、西半分の
下伊那郡松川町に属する区域が「本城地域」とされ、その先の東半分つまり上伊那郡中川村の部分が「出丸」と称される。
台地の突先に構えられた出丸(郭(くるわ)地域)は主に4つの小曲輪に分割され、細尾根である立地のため険峻な防備と
なっている。このうち最も先端部にある曲輪に船山稲荷の小さな社が置かれており(写真)来訪する際にはここを目指して
貰いたい。堀切で分断された出丸の曲輪群はなかなかに見所が多く、土塁の残存遺構も容易に発見できる。段丘の下から
見上げると、この出丸部分が山から突き出た様がまるで船の舳先に思える事が「船山城」という名の由来だとか。天竜川の
河畔から城山までの比高は約80mもあり、船が山の城に置かれていると見間違うのも、さもありなん。
他方、本城地域は本郭と二郭に大別され、出丸の曲輪群に比べると大きな敷地を有している。現地案内板に拠れば
飯島城同様に先端部の出丸部分は中世前期の古い構築、大きな曲輪を構える本城地域は中世後期の新しい部分と記され
築造時期の相違を示してござる。新しい本城地域は、大勢力(武田氏)による統治拠点として活用するべく作られた部分と
解釈すべきなのであろう。本郭・二郭共に兵力の駐屯場所として使えるだけの広さが確保されており、明らかに出丸部とは
異なる構造なのが興味深い。ただ、広い敷地ゆえの悲劇か現在の本城地域はほぼ全て果樹園や畑になっており、城跡らしき
雰囲気は残されていない。他の城郭案内サイトでは、この部分だけを捉えて「遺構は皆無」と紹介している所も見受けられ
残念な事だが、ぜひ果樹園の奥へと突き進み出丸部まで見聞して頂きたいものでござる。
御射山神社の脇に農業用貯水池があるが、これも堀跡の地形を転用したものか?その西側には臨済宗鳳雲山端応寺
(旧名は宗珠院)があり、往時の根小屋地区を構成していた名残だと伝わる。船山城跡は1980年(昭和55年)9月8日に
長野県指定史跡となっているが、これには外郭部にあたる宗珠院一帯の町屋敷跡も含まれている。御射山神社に駐車可能。


現存する遺構

堀・土塁・郭群等
城域内は県指定史跡








信濃国 名子城

名子城跡 主郭跡

所在地:長野県下伊那郡松川町元大島名子

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:★★☆■■
公園整備度:★■■■■



平安時代末期、片切氏の分流・片桐景重が名子(なご)郷に分知して上野台に在住、地名から名子氏を称した。これにより
築かれたのが名子城と考えられているが、詳しい来歴などは不明。恐らく平時の居館(名子氏館)を山麓の平野部に置き、
この城は有事の際に籠る“詰めの城”として用いられたと推測されてござる。鎌倉時代の名子氏は、名子郷の地頭代として
郷民を支配していて、鎌倉幕府の史書「吾妻鑑」には1241年(仁治2年)名古(名子)又太郎に承久の乱での追賞を与えた
記録が。一説に名子城は鎌倉末期に片桐章重が築いたとも云われるも、城に関する史料は少なく正確な事は分からない。
名子氏は室町期に信濃守護・小笠原氏の配下となり、後には大島氏(下記、大島城の項を参照)に従う事となったようだが
甲斐武田氏がこの地に侵攻して来るとそれに服従、更に1582年2月の織田軍伊那攻略で名子城は落とされたとの事。
場所は松川町役場から北西へ650m程の位置。町役場前からその方向へは長野県道59号線(松川インター大鹿線)が走り
城山の直下で山を避けるようにカーブしているので、役場前から県道沿いに進むと、さながら“城山の壁”が立ちはだかる
ような光景になっていてインパクトは絶大。しかもこの“城山の壁(山の法面)”には植栽で「城山」と書かれており、一目で
そこが名子城跡である事が分かる。この城山、西側にそびえる本高森山の末端部にあたり、天竜川の浸食によって出来た
河岸段丘が比高50mもの高さを稼いでござる。しかもこの城山、北側が唐沢川・南側が大名川(共に天竜川支流)の作る
侵食谷になっており、城内へ入れる経路は西側の1点だけに限られている要害の地形。通常、このように段丘面の両脇が
削り取られた所謂「舌状台地」の敷地は根元部分が太くなるため堀切などでしっかりと防備を施すものだが、名子城の舌状
台地は元々の地形で根元部分が非常に細くくびれており、土橋程度の幅しかない“築城好地”と言える。その“くびれ”の
内側に二郭(西郭)。ここには現在、松川町の老人福祉センターが建っていて車もここに停める事ができる。二郭の東側、
細長い台形の敷地を成すのが本郭(東郭)で、両郭の間には大掛かりな堀切が穿たれて敷地を分断。写真で分かるように
本郭上には現在、小さな祠が鎮座し(城山稲荷)その裏側に大規模な土塁が囲う。この他、縄張図上では本郭を取り巻く
北副郭(帯曲輪)・南副郭(腰曲輪)・東副郭(下段曲輪)・竪堀などがあったようであるが、現状ではそこまで明瞭には検出
できない。ともあれ、本郭の大きさは東西70mの長さに対して東面は72m、西面は29mの台形を成していて、方形居館を
源流とする鎌倉武士の館城を感じさせてくれる。眺望も良く、訪れて楽しい城跡と言った感じでござる。
1972年(昭和47年)11月3日、松川町史跡に指定。


現存する遺構

堀・土塁・郭群等
城域内は町指定史跡








信濃国 大島城

大島城跡 空堀内部

所在地:長野県下伊那郡松川町元大島古町

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★★★☆
公園整備度:★★☆■■



別名で台城、大蛇ヶ城とも。現状では「台城公園」として整備されている松川町南端部に位置する名城。この城も、片切氏の
分流として成立した在地武士が築城したものとされ、戦国期になると武田氏が大改修した経歴を有す。片切為行の第8子である
八郎宗綱がこの地に分知され、大島(おおじま)姓を名乗ったのが大島氏の始まり。以後、大島氏は鎌倉幕府に仕えて代々
この周辺を統治。その大島氏が築城したとするのが大島城の起源だが、恐らくまだ当時は天竜川に突き出した小丘陵を利用した
小さな砦でしかなかったのだろう。大島氏平時の居館は近隣に構えられた「北の城(元大島古町北部)」と推測されており、
元来、この城は戦時の防衛拠点あるいは烽火台のような役割でしかなかった筈だ。北の城こそが大島郷の中心に位置しており
大島城の所在地は大島氏所領の中では南端に偏ってしまっていて、統治には向かなかったのでござる。通説では大島城が
大島氏累代の居城で、それに対して北側にある支城が「北の城」と呼称されたと考えられてきたようだが、鎌倉〜室町期の
大島郷統治実態に照らし合わせた近年の研究で、評価が逆転するようになり申した。
元々大きな城だった訳ではなく、あくまで小さな砦に過ぎなかった大島城を戦国時代に武田氏が接収し、新規築城と同じような
大改修を行って現在の規模へと成長させたと考えるのが最新の学説である。伊那地方を1554年頃までに奪取した武田晴信は
当初、信濃府中深志(ふかし、現在の長野県松本市)在番衆の日向大和守を城将に任じ守りに当たらせたが、1571年(元亀2年)
3月17日付で重臣・秋山伯耆守信友に命じ大島城の拡張工事を行わせ、この地域の新たな拠点城郭へと生まれ変わらせたのだ。
その折、晴信は下伊那19ヶ郷の人員と知久・今田の2衆に築城の人足を供出させるよう朱印状を発給してござる。この命令は
武田家の陣馬奉行・原隼人佑昌胤(はらまさたね)によって信友へ伝えられた。晴信が大島城を一大拠点として造成させたのは、
川の流れに洗われるほど川面間近に突出したこの城の位置が、天竜川水運を掌握するに最高の立地だった為である。無論、
三州街道や伊那街道といった陸上経路も眼前にある。即ち、ここは諏訪から遠江・三河方面へと抜ける大動脈を一手に管理する
絶好の地と言え、武田氏の領国経営における生命線にもなり得た城だった訳だ。上伊那郡代の大役にあった信友は、大島城を
地形を利用した巨大城郭に大島城を改造、以後この城が大島郷一帯のみならず伊那地方での拠点城郭になっていく。これ故、
それまでの小砦から改めて「大嶋(大島)の城」「大城」などと呼ばれるようになり、この「大城(だいじょう)」が転じて、冒頭の
「台城」という別称になったと伝わる。晴信の築城下知状は、占領した伊那地域を武田家が強大な権勢で統治下に置き軍事動員を
行わせた様子を克明に物語る。その一方で、晴信の3弟・信廉(のぶかど、後に出家して逍遥軒(しょうようけん)と号す)が
所領に加えられた小川郷(現在の長野県下伊那郡喬木村小川)の村人へ命じた書状も残されており、要約すると「築城工事を
言い訳して逃れようとする者は村から追放だ」「異議を申し立てる者は無理矢理にでも連れて来い」といった内容が記されている。
よく言われる事だが、武田家の占領下にあった信州の民は軍事力で敵わないから嫌々従っていただけで、心底服従した訳では
なかった…という状況がこちらの書状から垣間見える。このように、強制的な抑圧で周辺の村々を従えていた武田の統治実態が
後述する大島城落城譚へも繋がって行く訳でござろう。
ともあれ、この大改修工事は翌1572年(元亀3年)頃には完了したようで、大島城改造のほか伊那地方での諸整備を修めた武田軍は
甲斐から伊那谷を経路として三河へと侵出する態勢を整えた。斯くして、満を持して出陣した武田晴信改め信玄入道率いる武田勢は
徳川家康を蹴散らし、織田信長と対決する姿勢を見せたのである。即ち、大島城は武田軍の出兵に際して兵站拠点として機能し
信濃から三河へ出る為の前線基地に用いられた訳だ。大島城の守備兵もまた、その出征に随行させられた。ところが信玄は
この出陣中、病を悪化させ急逝してしまう。家督を継いだ4男・勝頼は、父の成し得なかった信長との決戦を望み1575年(天正3年)
5月21日、長篠・設楽ヶ原で大合戦に至るが大敗してしまう。これで戦局が逆転し織田・徳川方から攻められるようになった武田軍は
本国・甲斐を守る防波堤として南信州諸地域の防備を強化していく。大島城はその最たるもので、南征の出陣拠点から一転し、
織田軍を食い止める最前線防衛拠点としての性格に変貌。つまり“攻めの城”から“守りの城”になったのだ。秋山信友は
岩村城(岐阜県恵那市)籠城戦に破れ磔刑となり既にこの世に無く、大島城の守りには武田逍遥軒信廉の他、日向玄徳斎虎頭や
小原丹後守、それに関東から回されてきた安中(群馬県安中市)衆らが付いていた1582年2月、遂に織田信長の大軍勢が木曽から
信濃へと乱入して来る。これまでの間、さらに改修を加え防備を強化していた大島城であるが、劣勢の武田家に従う軍勢の士気は
低く、また圧倒的な織田軍の恐ろしさに恐怖した城兵は次々と逃亡してしまう。詰まる所、強権で屈服させられていた南信の民は
ここぞとばかりに武田家を見限ったのでござろう。如何に巨大な城を構えようと、守る意志を失った大島城は支えられる訳もなく
同月16日夜半、逍遥軒らは城を棄て退却してしまった。この折、城内の建築物は自ら焼き捨てられたとも、攻め寄せた織田軍が
火を放ったとも云われ、城下町もろとも大島城は消え失せたのである。空城となった大島城に入城した織田信忠(信長嫡男)は
河尻与兵衛秀隆・毛利河内守長秀を入れ守らせたが、すぐに高遠城へ転戦。当城はこれを以って廃城、以後は再建されなかった。
なお、落城から1ヶ月後の3月15日に織田信長自らが大島へと進軍。この折、大島城下の民は信長に進物を贈り禁制(きんぜい)を
発給して貰っている。禁制とは、軍勢が占領地に対して乱暴狼藉や略奪、強制労働などを行う事を禁止する命令書の事で、大島の
民衆らは武田家に代わる新たな支配者に対し、早い段階から誼を通じていた様子を窺わせよう。逆に言えば、それだけ武田家の
統制は民衆の反感を買っていた事も意味し、信長に対する信頼関係を重んじていたと推測できる。有名な「天下布武」の印が
捺されたこの禁制書面は、現在も松川町内の民家に保存されている。
大きな地勢で捉えると、松川町の最南端部に西から東へと突き出した舌状台地を利用して城は築かれている。この舌状台地は
まるで天竜川の水面に突き刺さるような形状になっており、しかも最先端部が少しばかり盛り上がった小山のようになった地形。
言わずもがな、この最先端部の山が本丸になっており、その前衛に二ノ丸が置かれ、更にその前衛に三ノ丸が構えられている。
そして三ノ丸の正面、つまり大手口となる部分には武田流築城術お得意の丸馬出が出入りを監視し、2重の三日月堀が侵入者を
阻む。と、文面にすると実に簡単な説明になってしまうのだがこの丸馬出と2重三日月堀が圧巻の規模!何せ、現在この丸馬出の
中には一軒家が建てられているのだ。つまり、民家1軒がすっぽりと収まってしまう程の巨大な丸馬出になっている訳だ。当然、
その内部は私有地(その家の敷地ですから)なので見学に立入る事はできないが、それを囲う2重三日月堀を見れば驚愕する筈。
馬出?いやいや、十分これだけで一つの曲輪として成り立っている巨大さなのだ。そして各曲輪を仕切る空堀も凄まじい深さと
幅を確保しており、この城を攻略するのは不可能だと思える規模を誇っている。しかも、良く見れば切岸の法面には土留めの
石垣がそこかしこに隠れており、武田氏がこの城で石垣技術を用いていた事が確認できよう。南信州の河岸段丘を利用した
武田系城郭において、石垣が使われていたというのは稀有な存在でござろう。さらに、城内随所に起伏を利用した帯曲輪や
腰曲輪が構えられ、侵入しようとする敵兵を威圧する構造が小憎らしい。発掘調査に拠れば建物礎石や雨水溝の石列、古銭
陶磁器が検出され、この城の利用実態を物語る。また、本丸の隅部2箇所からは焼米も出土しており、落城の伝承を裏付ける。
大島氏時代は本丸のみが使用され、武田氏が占領して二ノ丸を増設、秋山信友の大改修によって三ノ丸や外縁部が
拡張されたと見られる大島城。天竜川に面し、水に不足しない立地であるが、城内には井戸も掘られていた。この井戸、
落城譚ではありがちな伝説が残されており「落城の折、お姫様が金の鶏を抱いて飛び込み自害した」との事。それ以来、毎年の
正月早朝になると井戸から鶏の泣き声が聞こえてくる…と言うのだが、この落城で飛び込んだという姫とは誰の事?と、実に
曖昧な伝承で、とても真実味のある話とは思えない。逆に、井戸を囲うように厳重な土塁が巡らされており、築城者が城の命とも
言える水の手を厳重に守り、敵から見透かされないよう配意した様子が見て取れる。現実の戦歴に乏しい大島城ではあるが、
実際の所、非常に実戦的な守りを固めていたと想像させてくれるのがこの井戸なのでござる。公園化されたり民有地になった為
後世の改変(道路が土塁を貫通していたりする)を受けた部分もあるものの、規模や構造は一級品の城跡。個人的感想を言えば
同じ長野県でも高遠城よりこっちを百名城に入れるべきだったのでは?と感じる程だ。川側(搦手)から見る城跡の姿も美しい。
1972年(昭和47年)11月3日、松川町指定史跡になっている。


現存する遺構

井戸跡・堀・土塁・郭群等
城域内は町指定史跡








信濃国 松岡城

松岡城址碑

所在地:長野県下伊那郡高森町下市田

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★★★☆
公園整備度:★★■■■


現存する遺構

堀・土塁・郭群等
城域内は町指定史跡



信濃国 
松岡古城

松岡古城址

所在地:長野県下伊那郡高森町下市田

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:★■■■■
公園整備度:★■■■■


現存する遺構

土塁・郭群等
城域内は町指定史跡



その名の通り、現地の古豪・松岡氏歴代の城郭でござる。松岡氏は平安時代中期、前九年の役で敗れた安倍貞任(あべのさだとお)の
2男・仙千代が乳母に連れられ奥州から逃げ延び市田郷牛牧に土着、長じた後に郷民に推されて地頭となり松岡平六郎貞則と名乗った
事が始まりとされる。始祖である貞則以来、自領の保全に心を砕いた松岡氏は、時折の戦史にその名を刻み上手く時流を渡って行く。
鎌倉時代の史書「吾妻鏡」には弓始の射手を勤めた事が記されており、1400年(応永7年)の大塔合戦(おおとうがっせん)では信濃守護
小笠原長秀に与して松岡次郎が参陣したと言う。この大塔合戦は、室町幕府3代将軍・足利義満から守護に任じられた長秀が、就任直後で
信濃国内の諸勢力と調整も図らぬまま権勢をかさに年貢の取り立てを強行せんとした為、国人衆からの反発を招き兵乱に発展した事件。
結局、実効支配を行っていた国人衆が優勢に事を運び長秀は京都へ逃亡したのだが、松岡氏はその後も現地で勢力を固め、関東の大乱
1440年(永享12年)の結城合戦にも参戦してござる。戦国時代になると甲斐の武田晴信が伊那谷へと侵攻、守護の小笠原氏や周辺の
知久氏らが攻撃を受けて敗退するを見た1554年、松岡右衛門大夫貞利は抵抗せずその軍門に降る。この為、松岡氏は所領を安堵され
晴信の重臣・山県三郎兵衛昌景の配下に組み入れられ「甲陽軍鑑(甲斐武田家の軍記)」に拠れば50騎を擁し伊那衆の一翼を担った。
代が替わり兵部大輔頼貞の頃になると武田家は衰退、1582年に織田信長が信濃へ攻め入ると松岡氏は織田氏への鞍替えを成功させ
武田滅亡後も領地を守る。ところが信長は直後に本能寺の変で落命、信濃は有力大名が草刈り場とし、先行きは不透明に。いわゆる
“天正壬午の乱”で関東の後北条氏と東海の徳川家康が覇権を争い、一応は徳川方が甲信地方を制した為に松岡氏はそれに従うが、
すぐ背後には天下人へ最も近い位置に居た豊臣秀吉の勢力が鎬を削っている。1585年(天正13年)松本城(長野県松本市)主の
小笠原貞慶(さだよし)は突如家康と手切れをして秀吉に臣従、家康の家臣として保科弾正忠正直(ほしなまさなお)が守っていた
高遠城を攻め始めた。これで信濃国内が秀吉方に流れると見た時の松岡氏当主・右衛門佐貞利は貞慶に内通し秀吉への臣従を画策、
高遠城攻めの援軍を進発させたのだが、到着する前に貞慶が敗退し松本へと撤退してしまう。企みが成就しなかった貞利は、兵を戻し
何事もなかったかのように装うものの、配下にあった座光寺次郎右衛門為時(ざこうじためとき)が徳川の伊那郡司・菅沼大膳大夫
定利(すがぬまさだとし)に密告したため発覚、捕らわれの身となってしまったのでござる。結局、家康は1586年(天正14年)に
秀吉へ服従、豊臣政権の一角を担うようになるのだが“裏切者”として信頼を失った松岡貞利は1588年(天正16年)家康から改易され
平安以来、この地を守ってきた松岡氏は滅亡する。これにより松岡城もその役割を終え、廃城。ちなみに、座光寺為時は徳川直臣の
旗本に取り立てられ江戸時代を迎え、93歳の長寿で天命を全うしている。一方、松岡氏のその後は詳らかではない。
松岡氏の草創期以来、居館として用いられたのが松岡古城(まつおかふるじょう)だと言われるが、詳しい構築年代などは不明。
来歴からすれば、恐らくは方形居館の体を成していたと思われ、現地にて辺りを見回してみれば「堀の名残?」と考えられなくもない
起伏が見受けられる。一方で、松岡城の出城あるいは物見台のような役割だったとする説もあり、正確にどのような形状・戦歴
だったのかは分からない。松岡氏は戦国時代最中の1511年(永正8年)頃、松岡嘉右衛門太夫貞正(右衛門大夫貞利の先代?)が
一族の菩提寺である臨済宗雲竜山松源寺を近隣の牛牧村寺山に創建しているが、その貞正の奥方と目される雲龍院殿の供養塔が
松岡古城の隅にひっそりと立っている。但し、この供養塔に刻まれた雲龍院殿の没年は松源寺の過去帳に記載されているものと
異なっており、誤って刻印されたものだと言う。ともあれ、古城の近辺はコウジ(小路か?)・横大道・クネ添・堀など城下町に由来する
小字名が残っており、2015年(平成27年)3月9日には高森町指定の史跡になっている。織田軍の兵火によって消失、1600年代に
移された現在の松源寺から北西へ500m弱の近距離にあり、現地には樹齢1000年という巨木の一本杉が立つので目印になろう。
さてその松源寺から南東方向へ延びる舌状台地の先端部が松岡城址。天竜川の浸食によって出来た河岸段丘において突出した
侵食台地を城地として活用した、この地域では定型となっている城郭形態でござる。当然、最も先端にあるのが主郭(本丸)で、
そこから台地の根元に向けて2郭〜5郭が連郭式に繋がる縄張。ちょうど大手の位置に当たるのが現在ある松源寺の敷地だが、
往時はここに三日月堀が穿たれ、丸馬出が前衛として立ち塞がっていた。松岡城は南北朝時代に創建されたと伝えられるが
(となれば、必然的に松岡古城はそれ以前という事になるが果たしていつまで、どのように使われたのか?)
丸馬出に加え、各曲輪の間は技巧的な空堀で分断され、通路を出入りさせる虎口は屈曲するなど、武田系城郭としての体裁を
整えている。即ち、現在の規模・構造となったのは明らかに戦国時代になってからという訳だ。松岡城の主郭から丸馬出の
跡地(大手口)まではおよそ400m。舌状台地を利用した城郭としては手頃な大きさで、城内各所には石積みの痕跡と見られる
石材も残置されており、凝った構造や大掛かりな曲輪割りを存分に堪能できる名城。何より、主郭先端から望む伊那谷の全景と
対岸にある南アルプス連峰の眺めはとてつもない絶景!これを見に行くだけでも価値がある、オススメの城でござる。1942年
(昭和17年)長野県史蹟に指定されていたが、戦後の法令改正により1987年(昭和62年)10月12日に高森町史跡と改められた。
ところで、2017年(平成29年)のNHK大河ドラマで松岡城は一躍脚光を浴びる事になった。主人公にして“おんな城主”とされる
井伊直虎の許婚・井伊直親が幼少の頃、主家である駿河今川家に命を狙われ故郷の井伊谷(いいのや、静岡県浜松市北区)を脱し
隠れ住んだのが松源寺であったからだ。松岡城主・右衛門大夫貞利は直親を養育し、危機が去った後に井伊谷へ送り返したので
いわば“井伊家の恩人”という事になろう。“松源寺殿”と称される嘉右衛門太夫貞正は実弟の文叔瑞郁(ぶんしゅくずいいく)を
開山として松源寺を創建したが、その文叔瑞郁は後に井伊谷へ招かれ、井伊家の菩提寺である龍潭寺(りょうたんじ)の開山にも
なっている。つまり、龍潭寺と松源寺の縁を頼って直親は難を逃れた訳だ。直親の嫡男こそ、徳川四天王の1人として数えられ
江戸時代の彦根藩祖となる井伊直政。直政が家康の下で活躍し始めた頃、上記にある右衛門佐貞利の謀反が発覚。父の恩義に
報いんとした直政は必死に松岡家の存続を主君に願い出たが叶わず、せめてもの情けとして所領を追われた貞利を預かったという。
余談であるが、松源寺には井伊直親の位牌が安置されてござる。


現存する遺構

堀・土塁・郭群等
城域内は町指定史跡








信濃国 洞頭城

洞頭城跡標柱

所在地:長野県下伊那郡高森町牛牧

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:★■■■■
公園整備度:☆■■■■





信濃国 
大下砦

大下砦 U郭址

所在地:長野県下伊那郡高森町牛牧

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:★☆■■■
公園整備度:☆■■■■


現存する遺構

郭群等



洞頭城は「ほらがしらのしろ」と読む。同じく大下砦は「おおしもとりで」と。いずれも高森町の牛牧地区にある小さな城砦跡。
牛牧地区、つまりかつての牛牧村は松岡氏から分流した一族が治めた地とされる。いつの頃かは分からないが、松岡氏当主の兄が
松岡刑部大輔と名乗り、山百貫・井水百貫・田地百貫を貰い分家したとされ、牛牧を所領としたその後裔は後に牛牧氏を称した。
牛牧氏は松岡氏配下として働き、松岡城の項で記した結城合戦の折に参戦したと言うが、その後の牛牧は田中四郎時縄なる者が
所領にしたと伝わってござる。
洞頭城・大下砦ともに広域農道「南信州フルーツライン」に沿った位置にある。いずれも松岡城の西にあり、天竜川河岸段丘の
地続面で前哨地となり得る立地なので松岡城の出城と推測する説が一般的であるが詳しい来歴や由緒は不明だ。まず洞頭城だが
広域農道の「牛牧南」交差点がその跡地で、辺り一帯の中で微高地になっている地点に標柱(写真)が立つ。しかし周辺に特段
遺構のようなものは見受けられず、僅かに高さを稼いだ立地で往時を推測するのみだ。一方、大下砦は南大島川橋の北側橋台部が
その所在地で、ごく小型の舌状台地を利用した小城砦の態を成す。こちらはT郭・U郭の2曲輪から構成されていた事が確認され
広域農道の建設に先立つ1995年(平成7年)に発掘調査が行われた。それに拠れば、西側を南大島川、東側をその支谷である宮沢川に
よって削られた舌状台地を大きく南北2つの曲輪に分割した縄張りで、人工的に削られた堀がT郭(先端部、南側)・U郭(北側)を
分断させている。T郭の西面には一直線に並ぶ柵列跡が検出され、その直下(西面下)に横堀が掘られ、更にそれは折れ曲がって
南大島川方向へ落ちる竪堀へと繋がる。T郭の内部には多数の柱穴があり、掘立柱建物が建てられていた事が確実でござった。
この他、台地を取り巻く中腹部にはいくつもの竪堀や竪土塁が構築されていたようだが、広域農道の敷設によって残念ながら
T郭は完全に潰されて消滅している。一方、堀から北側のU郭は(法面補強工事などの改変は受けているが)比較的そのまま
残存、独立した曲輪の形状を彷彿とさせている。このU郭の中心部は1段高くなっており(写真)物見台のような使われ方を
していたのでは?と思わせるが、現在は墓地となっており、当時の名残となるものが何もないため詳細は分からない。広域農道上
ちょうど砦跡の地点に駐車空間が用意され、そこに案内板が立てられているのでそれを目指して行くのが良うござろう。




箕輪町内諸城郭  伊豆木陣屋・愛宕城・飯田城