飯島氏の城を武田氏が大改修■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
別名で本郷城。この地の古豪・飯島氏歴代の城郭。飯島氏は伊那の名族・片切(片桐)氏から派生した一族とされる。清和源氏嫡流
源経基の後裔である片切氏は平安時代から伊那で入植を行っており、片切為行(経基の6代後)の子・二郎大夫為綱が飯島本郷に
入ったのは寿永年間(1182年〜1185年)の事。その嫡男はこの地の姓に改め、飯島太郎為光を名乗るようになった。これが飯島氏の
起こりである。鎌倉幕府草創期、為光は飯島郷の地頭に任じられ、承久の乱にも出陣したと「承久記」にある。以後、連綿と続いていく
飯島氏は南北朝時代に北朝方へ属し、室町幕府から信濃守護を命じられた小笠原氏の配下に入っている。隆盛を極めた飯島氏は
領内に一族の菩提寺となる臨済宗臨照山西岸寺を建立、1373年(文中2年/応安6年)には幕府から諸山の位を与えられたという。■
飯島城の創建は不明だが、恐らくこうした状況の中で初期段階の武家居館が構えられたのであろう。この頃すでに本家・片切氏の
勢力を凌駕し、飯島地域の大半が飯島氏の支配する所となっていた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて戦国時代になると、守護・小笠原氏の権勢は衰退し信濃国内は在地の武士団が独自の統治を行うようになっていく。このような
乱立状態の間隙を突き、隣国・甲斐(山梨県)から侵攻したのが武田大膳大夫晴信(信玄)である。甲斐から諏訪地方を攻め落とし、
続いて標的とされたのが伊那地方だった。飯島氏を含む伊那の諸氏は当初、小笠原氏に従い武田軍に抗したものの劣勢は覆せず、
或る者は武田に滅ぼされ、また或る者はその軍門に下る。飯島氏は武田に服属する事で命脈を保ち、以後は武田氏に従っていく。
この過程で飯島城は武田氏の技術を導入した巨大城郭へと変貌していったと推定されるが、信玄没後には武田方が衰退し、1582年
(天正10年)2月に織田信長の大侵攻が始まると、飯島民部少輔為次と小太郎兄弟(父子とも伝わる)は武田勝頼(信玄後嗣)の命に
従い、大島城(長野県下伊那郡松川町、下記)次いで高遠城(長野県伊那市高遠町)の防備に転戦、討死したと言われる。飯島城は
織田方に接収された後、廃城になったようだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
なお、旧領を失った為次の子孫は流浪の末に徳川家康の配下となり、徳川四天王の一角・井伊修理大夫直政の家臣に加えられて
関ヶ原合戦や大坂の陣に参加したものの、最終的には帰農して故郷・飯島の地で名主を務めるようになったとの説もある。■■■■
数段の段丘面を使った広大な城郭■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて飯島城の構造でござるが、全体を把握するには縄張図だけでなく現状の地図も必要と思えるような巨大さである。基本的には
伊那地方の定型と言える天竜川の河岸段丘に突き出した舌状台地の突端を利用した城郭であるが、全域を示せば東西におよそ
800m×南北約350mもあり、しかも驚くべき事は城郭内にもう1段上位への河岸段丘面を内包している状況であろう。国道153号線が
上伊那郡中川村への境界を越える直前、即ち飯島町の最南東部に位置する飯島城は、こうした段丘面により大きく上段部(西側)と
下段部(東側)に大別できるだろう。東端は天竜川に突き出し、城地の北側は相の沢川の谷が侵食、南側は子生沢(こうみさわ)川で
隔絶されているため、この3方は切り立った崖で守りを固められる要害地形だ。西側だけが陸続きとなり大手口を開き、その外側を
西岸寺が塞いでいる訳だが、中央アルプスの麓として広がる平原(正確に言えば、さらにその1段下の段丘面)である西側上段部が
「本城地区」と呼ばれる部分、そこから段丘を降りた東側下段部の台地突端地形が大きく「陣垣外(じんがいと)地区」「城山地区」の
2区画に分けられている。まず、天竜川に面した城の最奥部が一つの孤立した小山(写真)になっており、これが主郭である「城山」と
呼ばれている。細長い台地は主郭の手前に2郭「古城(ふるじょう)」、3郭「前の田」と分割され、それぞれの曲輪間は巨大空堀で分断。
特に主郭手前の空堀は「古城窪」と名付けられる程の広さで、写真で分かるように現状ではその内部が畑となっている。耕作可能な
面積が余裕で構えられる大きさの空堀でござれば、2郭から主郭への行き来はこの堀底を通っていくようになっていたようだ。一方、
2郭〜3郭の間は土橋で接続していた事が確認されている。主郭から3郭までが主戦闘地域として機能する構造だったらしく、これらの
一団を「城山地区」と総称している。さて3郭の外側は外郭に相当する4郭「陣垣外」だが、これは国道153号線バイパスにより大半が
削り取られてしまっている。南西部のごく僅かな部分のみ残存するが、その一帯に土塁のような土盛りが見られるのは国道敷設時の
残土との事なので、城郭遺構ではない。4郭から更に外側(西側)を区画する空堀は「相の堀」と呼ばれ、その西側から段丘崖までの
平場は「古町」と名付けられている。古町の北端部、城内への出入口を塞ぐよう「馬場屋敷」という半円形の小さな区画が見られるが
恐らくこれは武田流築城術の定番、丸馬出の名残りであろう。陣垣外〜古町を総称したのが「陣垣外地区」でござる。現地案内板の
説明では「城山地区」「陣垣外地区」の舌状台地先端部は中世前期に成立した古い部分とされている。■■■■■■■■■■■■
名高い大島城に負けない名城なのだが…■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
では段丘崖を上がって西側部分を見てみると、古町との崖を背にし、いびつな台形の敷地をした「本城」という曲輪が大きく占位して
周囲は大規模な空堀が取り囲む。しかも、段丘崖には数条の竪堀も掘削し回り込んで取り付くのも困難にしており、かなり技巧的な
構造になっていた様子が見て取れる。本城の前衛、大手を塞ぐ位置には「登城」と呼ばれる曲輪群がいくつか構築されていた。崖を
背後の備えとし、本城を要として扇状に登城の曲輪群が前面一帯を塞ぐ様式は、武田流築城術の白眉・諏訪原城(静岡県島田市)を
彷彿とさせる構造。本城と登城で構成される地域が「本城地区」で、現地案内板には中世後期の構築と記載されている。要するに、
武田氏が入った後の構造物という事であろう。伊那谷を侵攻して来るであろう仮想敵軍(中央アルプスの山麓平原を進軍して来る)を
頑強な構造を備えた本城地区で迎撃し、もしそれが陥落するような場合は城山地区へ退避して籠城戦を継続するという2段構えの
防備で飯島城を守り抜こうという想定だったのだろう。また、平時の統治拠点として考えるならば、平野部に面した本城地区の方が
政治的にも経済活動的にも利便性が高い筈であり、武田氏が「新時代の城郭」としてこの本城地区を構築したのが良く分かる。■■
ただ、現状では城地のほぼ全域が耕作地に転用されている。周囲には民家も点在しているので、見学時には配慮が必要だ。何より
駐車場もなく、史跡整備がされている訳でもない為、ここはあくまでも「農地(私有地)」でしかないのだ。土塁や切岸など、散見される
遺構は見事であるが、広大な敷地を歩き回ってそういった残存遺構を探す事になるのでそれなりの覚悟が必要でござろう。■■■■
飯島町や長野県では特に史跡指定は行っていないが、町の埋蔵遺跡地としては認定されている。■■■■■■■■■■■■■■
|