在地国人・藤沢氏と、高遠の盟主・高遠氏■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
箕輪町立箕輪南小学校の南側にあるなだらかな台地が城跡。在地国人・藤沢氏の城であるが、藤沢氏は
箕輪郷の大半を治める領主であった事から箕輪氏とも称され、この城も箕輪城という別名を持つが、箕輪
町内には別に箕輪城(下記)があるので注意が必要。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
藤沢氏の出自には大きく2つの説があると言う。1つは南北朝時代、建武新政によって相模国高座郡藤沢村
(現在の神奈川県藤沢市)の武士・藤沢義親の一族である藤沢行親が箕輪6郷を賜り、福与に城を構えたと
する説。もう1つは、諏訪大社に由来する諏訪氏庶流・神氏の一門が藤沢谷(伊那市高遠町)に所領を得て
藤沢氏を名乗ったとする説。有力視されているのは後者である。源平合戦期、木曽義仲の挙兵に加わった
者の中に藤沢を名乗る者がおり、後に源頼朝の御家人となっている記録(つまり建武期より遥かに前)が
ある事から藤沢氏の創始は平安期まで遡る事ができるのでござろう。福与城の創始は詳らかではないが、
藤沢氏の出自に当てはめれば、鎌倉時代あるいは南北朝時代という事になろう。■■■■■■■■■■■
藤沢氏が箕輪で一定の勢力を維持する中、諏訪氏は総領家と大祝(おおほうり)家に分裂、さらには分家の
高遠氏が立ち諏訪郡・伊那郡での指導者となっていく。分流して後、諏訪氏と高遠氏は常に反目する関係に
あったが、藤沢氏は所領が近い高遠氏に接近、協力する仲となる。そんな折の1542年(天文11年)甲斐の
武田大膳大夫晴信(後の信玄)は所領拡大を狙い諏訪氏を攻撃した。諏訪宗家の家督を狙う高遠氏当主・
紀伊守頼継は武田に味方し、協力して諏訪領を侵犯。藤沢氏の藤沢頼親(よりちか)も高遠勢と共に動く。
これにて諏訪氏は滅亡、その遺領は武田氏と高遠氏が二分するが、諏訪の完全制覇を狙う頼継は直後に
武田軍への攻撃を行ったのである。頼継の裏切りに武田軍はすぐさま反撃し、逆に高遠勢を諏訪から駆逐
してしまう。結果、頼継は高遠城(長野県伊那市)に引き籠るしかなくなり、藤沢頼親も武田軍に攻められて
いる。晴信の随臣・駒井高白斎政武の記録では、9月25日に高遠勢が撃破されて、26日に藤沢勢の籠もる
当城が包囲された。28日、頼親は武田方に降伏し甲府へ出仕、晴信へ服従するようになった。■■■■■
ところが頼親はその後も頼継との関係を維持していたようで、1544年(天文13年)武田軍が本格的に高遠を
攻略しようとした際、離反して頼継に与してござる。10月29日、福与城は武田軍に攻められたが、藤沢方に
信濃守護・小笠原信濃守長時が連携する動きを見せ、武田軍は一時撤退。小笠原氏もまた武田と敵対して
いた上に、頼親の正室は長時の妹であった。翌1545年(天文14年)に改めて武田軍が出陣、高遠城攻撃と
福与城攻撃を同時進行で展開。4月11日に甲府を発った武田軍は怒涛の勢いで17日に高遠城を落とした。
一方の福与城では、攻め寄せる攻城軍3500に対して籠城軍1500が痛烈な反撃を加え、攻め手の将・鎌田
長門守らが戦死してござる。この戦いでは武田の支配を嫌う伊那の諸豪族が福与城に参集していた。その
後も城方は抵抗を続け、武田軍は近隣の藤沢方支城や城下町に対する放火狼藉などを働くが、福与城は
陥落しなかったのである。籠城50余日を経て、遂に業を煮やした晴信は武田親族衆である勝沼丹波守信元
(晴信従兄弟)・穴山伊豆守信友(晴信義兄)それに外交に長けた郡内地方(甲斐南東部)の国衆・小山田
出羽守信有を通じて藤沢方との和議を選んだ。6月10日に成立した和睦では、頼親の弟・権次郎を人質に
城兵の助命が図られたものの開城するや否や11日に武田軍は城を焼き払った。これは実質的に武田方の
騙し討ちで、城を失った頼親は武田の猛将・秋山伯耆守信友の傘下に収められ申した。■■■■■■■■
在地国人・藤沢氏と、戦国の強者・武田氏■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この時を以って福与城は廃されたと見る向きもあるが、別の説では武田方が後年になって再建したとされて
いる。1548年(天文17年)に上田原の戦いで武田軍が埴科郡の猛将・村上左馬頭義清に大敗するに及び、
小笠原長時が武田方への反抗を企図。これに連動して藤沢頼親はまたも晴信に反旗を翻したが、長時が
敗北したため、9月8日に秋山信友を通じて再び武田家の下に帰参する事となる。翌年、1549年(天文18年)
7月15日に晴信が「箕輪ノ城」復興工事に着手したと言われ、これが福与城の事を指すと考えられている。
なお1549年の9月、先の籠城戦で人質となった藤沢権次郎は穴山信友の推挙により晴信に出仕している。■
ところが、長時はその後も武田方と係争し続ける。1551年(天文20年)頼親は3度目の裏切りをして、長時と
共に中塔城(長野県松本市)に立て籠もるものの、敢え無く落城する。長時と頼親は共に信濃から落ち延び、
京の都を目指したそうな。当時、京都を征し零落した幕府に代わり統治していたのは近畿の雄・三好筑前守
長慶(ながよし、ちょうけいとも)。実は三好氏と小笠原氏は同族であり、その縁を頼って長時・頼親は都へと
向かった。暫くは長慶に寄宿した両名だったが、その長慶が病没した事で事態は動き出す。京での居場所が
無くなり、長時はさらに他国へ流浪したのだが、頼親は何と信濃へ帰参、またも武田家に臣従したのだ。■■
頼親は平城の田中城(箕輪町内、下記)を築き居城とする。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
そして1582年(天正10年)武田家が滅亡すると福与城の回復に動く。この年の7月、本能寺の変後の混乱を
突き小笠原右近大夫貞慶(さだよし、長時の3男)が三河から信濃に入り旧領奪還の動きを見せる。これに
頼親が同調、それぞれ松本城(小笠原氏旧領、長野県松本市)・福与城を占拠した。だがこの時期、信濃の
領有を巡り徳川氏と小田原後北条氏が覇権を競っていた。所謂“天正壬午の乱”で、信濃国内の諸豪族は
徳川・後北条の去就に左右される状況だったのでござる。ここで藤沢頼親は後北条方へ就く事を選択した。
しかし結果としてこの乱は徳川方が信濃領有を決し、後北条方は撤収してしまう。この為、徳川氏に従って
高遠城を占拠した保科弾正左衛門尉正直(まさなお)が福与城を攻撃。城は落城し、遂に藤沢頼親の命運も
尽きた。こうして福与城の歴史に幕が下りたのである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
在地国人の城にしては先進的な構造■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
以後、現代に至るまで城跡は耕作地となっていた。現状、曲輪群は良く形状を残すが、惜しくもその内部は
畑になるなどの改変を受けている。当城は大きく見て直角三角形の台地を敷地とし、南西隅が直角点、北と
南東隅を結ぶ線が斜辺となっている。この台地は東西330m程×南北およそ440mを数え、広さが約15ha。
東面は鎌倉沢川の谷を利用した天然の堀と成し(故に福与城の別名を鎌倉城とも言う)、反対側の西面は
天竜川河岸段丘として屹立しており、城内最高所の標高は717m、西側外周部は670m程度なので比高差
50m程を数える。城域最北端の三角形をした敷地が北郭、その南側の中央部を横断する部分が本城。■■
本城は東西2段の構えになっていて、標高の高い東側(城内最高所)が本城T段、下段になる西側が本城
U段。本城U段は二ノ郭ともされ、ここから西側崖下へ大手口が開けていた。本城の南側を占める広大な
敷地が南郭、その内部は権治郭・宗仙屋敷・赤穂屋敷・乳母屋敷といった小曲輪を内包している。これらは
家臣団屋敷で、戦国初期にして城内に家臣を在住させる統治体制は後の近世城郭に通じる先進的なものと
特筆できよう。藤沢氏が何度叛旗を翻そうと武田氏から滅ぼされなかったのは、このように中央集権体制を
確立し、在地武士団の統率に長けていたからなのかもしれない。何より、武田氏こそ晴信が家督を継ぐ迄は
家臣の反目に安寧ならない状況で苦しめられていた戦国大名だったというのは何か皮肉なものである。■■
それは兎も角として、北郭・本城T段・本城U段・南郭の間は大規模な空堀で分断されており、これらは今も
綺麗に残されている。徒歩ならば北郭の北側から遊歩道で登る事もできるが、車を使えば南郭の南東隅から
入り、本城の手前まで乗り付けられる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
(南郭は大半が耕地整理で遺構滅失、車で通過しても問題ないようである)■■■■■■■■■■■■■■
とりあえず、本城T段から見る城域の光景は圧巻!見事に曲輪の形状が俯瞰できる。農地改変が多すぎる
城とか、それほど面白みのない城だという意見もあるようだが、この眺め、そして本城部分の残存度合いを
見るにつけ、個人的には良い城跡だと思う。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1969年(昭和44年)7月3日、長野県史跡に指定されてござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
小学校の傍にある畑作地であるため、見学時には色々と配慮を忘れずに。■■■■■■■■■■■■■■
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